デリダとドゥルーズV 文学との関係を中心に

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391吾輩は名無しである
読んでて、Deleuze哲学における時間概念の特徴も分かってくるわけですが。人間が内的時間
として、謂わば覆蔵された歴史それ自体が脈絡など持たず、分裂しており、それを〈ひび割れた私〉
とか呼んでいるわけですが、その〈ひび割れた私〉というのは狂気でもある。或は病気でもあると
思うんです。で、それはまさにDeleuzeにおいてはここでの考察の主題で、重要なところだろうと
も思える。しかしそこでやはりD=Gにも感じた疑問は同じように妥当して、何故なら進んで狼男に
成りたがる人間などいないだろう。なのに狼男になったとしたら、そこに悲哀があるんじゃないか
。狂気や病気それ自体、異和感をもたらすものじゃないか。得意満面で狼男になっている人間がい
るかといえば、いないんではないか。Heideggerが本来性をいうけど、人間にはこれが自分の
本来性なのか、と自問する力動が、自然的にあると思える。Heideggerにも人間における時間の
現成として訳の分からないが現れる瞬間は描いているけど、それは本来性の希求される力動の
挫折が基となる不可解な遡行としてある。そこは自在ではないし、謂わば歴史の価値化からの反動
としての遡行だと思える。反動であり、且つ退行である。しかしその退行は不可避という。ただ、
『「ヒューマニズム」に関する書簡』の中で、《寧ろ〈ここでの〉唯一の思想は、人間の本質を限定する
諸々のヒューマニズム的限定でさえも、人間の本来的な尊厳を未だなお経験していない、という
思想である。》と述べるわけで、そこで『「ヒューマニズム」に関する書簡』はDeleuzeに大きな影響
をもたらした可能性は感じますね。