デリダとドゥルーズV 文学との関係を中心に

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390吾輩は名無しである
 アセンションさんに勧められた『差異と反復』に目を通してみたんですが。Deleuze研究でどう
いうことになっているのか良く知らないんだけど、この作品の第二章 それ自身へ向かう反復 と
は、これ自体、ハイデガー有論の継承であり、読み直しであり、忠実な読解でもある、という一事
です。宿命、ヘルダーリン、カント、ヒュシス、といった概念や思想は、やはり継承している、或い
は意図せずして継承してしまっているものである。例えば宿命についてDeleuzeはこう書いてい
る。《だからこそ宿命は、決定論とはきわめて両立し難く、自由とは、水準を選択する自由である。
アクチュアルな現在の継起とは、それより深いものの表現にほかならない。それより深いものとは
、それぞれの現在が、先行する現在の水準とは異なる水準あるは度において、生の全体を繰り返す
その仕方のことであって、しかもすべての水準あるいは度は、共存し、わたしたちの選択に委ねら
れており、かつて現在であったためしがない[純粋]過去という基底に属しているのである。》(
138頁)‘かつて現在であったためしがない’‘わたしたちの選択に委ねられている’というとこ
は違うけども、というのはハイデガーの場合、反復するものを選択することは不可能だと思うから
。しかし、大枠のところは同一の思考だと思う。《ヘルダーリンは、純粋時間の空虚[な形式]を
発見し、この空虚の中に、神的なものからの逸脱[転回]と、《私》に走る長い亀裂と、そして《自我
》を構成する受苦[受動]を同時に発見しているからである。》といった記述もハイデガーの影響
は濃厚だと思う。これは偶然ではないんじゃないか。実は相当影響されているのではないかと思え
ましたけどね。意識されざる継承かもしれないけどね。