デリダとドゥルーズV 文学との関係を中心に

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222アセンション ◆ZCAcNhb9dZs7
>>213-214
ハイデガーは存在(存在すること)と存在者(存在するもの)との間に
差異を見出そうとしたけれど、デリダ、そして特にドゥルーズは、
存在すること自体の中に差異化する運動を見出してるね。
ハイデガーの思考においては、「存在」なり「性起」なり、
運動を表すはずのそういう概念自体がまだスタティックであるのに対して、
デリダやドゥルーズは概念自体をダイナミックなものにするために、
「差延 (Différance) 」や「差異化=微分化(différenc/tiation)」という
造語を考えたという点がまずあるだろうと。
その点、レヴィナスの思想から窺える姿というのは、
私見では「最後の実存主義者」という雰囲気で、
世代的に言っても、また現象学や存在論を正当に学んでいる点からしても、
サルトルとはそれほど大きな隔たりはないのかもしれない。

で、デリダやドゥルーズに関しては、ほとんどの著作の中で、
不思議にもサルトルにはあまり言及していないんだね。
ただ、インタビューでは「サルトルは我々のヒーローだった」ということを
デリダは語っていて、ドゥルーズもやや似たようなことを語ってた記憶があるけれど、
思想そのものより現実のサルトルの存在や姿勢は影響を持ったんじゃないかと。
223アセンション ◆ZCAcNhb9dZs7 :2012/04/04(水) 23:28:04.68
>>219-220
萱野稔人という人のことは知らないけど、アウトラインは間違ってないよね。
そのあたりは、『ベルクソンの哲学』→『差異と反復』という流れで読むと
とてもわかりやすいと思うけれど、そうした60年代の著作を読まずに
『アンチオイディプス』や『ミルプラトー』だけを読んでしまったら、
ドゥルーズの考えていたことを捉えそこなうんじゃないかという気がするね。
で、浅田の影響を受けてドゥルーズに入った場合は、割とそれが多いと思う。
東の影響を受けて、デリダの『絵葉書』から入ってしまうのも同じで、
ドゥルーズの場合は『差異と反復』がカントの『純粋理性批判』にあたるものだし、
デリダの場合は『グラマトロジー』がハイデガーの『存在と時間』に相当するだろうと。

で、ベルクソンとハイデガーを比較すると、
とりわけ『物質と記憶』と『存在と時間』を比較してみると、
たとえばベルクソンにおける潜勢的なものと現勢的なものを
ハイデガーにおける存在と存在者の関係に近づけて読むことはできるかもしれない。
ただし、あくまでもそれは関係における形式的な接点であって、
内容的な、つまり質を見てみると、うまくつながらない印象はあるね。
そしてそれは、ベルクソンの影響を受けたドゥルーズと、
ハイデガーの影響を受けたデリダの差、といえるのかもしれない。
両者の異質性を保持したまま、アレンジメント(アジャスマン)を試みるのは
有意義なんじゃないかと思うんだけどね。
224アセンション ◆ZCAcNhb9dZs7 :2012/04/04(水) 23:41:45.40
>>221
>血や肉体や好き嫌いを持った人間に見えない
なるほど。確かにそういう批判的な見方は当然あると思うし、
決しておかしいことじゃないと思うんだけれど、
『アンチオイディプス』や『ミルプラトー』を読んだだけではわからない
ドゥルーズの「熱さ」は、『差異と反復』を読んだ時に感じたし、
デリダのほうはといえば、非常に冷静に緻密に、そしてミステリー作家のように、
とても戦略的に(布石や効果を用意周到に考慮しながら)書いているけれど、
そこにはアイロニーやユーモアの要素がないことはないんだよね。

で、ハイデガーが世界内存在を語り、不安(ゾルゲ)を語ったことは、
キルケゴールからサルトルへの流れにおける実存主義的な文脈で捉えれば、
確かに人間的という言い方もできるのかもしれない。
でも、その人間味に思われるものの奥底には、別の暗い人間味というものが、
感じられもするというのが個人的な意見だね。
その暗い面をアルシ‐ファシズムにつなげていいものかどうか、
その点はまだよく考えていないのだけど。