デリダとドゥルーズV 文学との関係を中心に

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 ここでの説明を読んでて、これは「潜在的な過去」が現動化され、反復される、それが個々
の物質として差異化される、とされるのは、私が読み取ったHeidegger思想と同じに
思えたんです。そこで改めて『千のプラトー』に目を通すと、そこに描かれる様々な変化が
あるわけですが、先に挙げた物質と記憶の哲学を念頭に置くと、すっと入ってくることに
気が付きました。そうすると、この哲学というのはHeidegger思想との横断線はあると
言わなければならない。少なくとも主体の哲学ではない。

 ただ、D=Gの特徴であるFreudへの反発は、余計に思える。というのはあれだって、家族
に於て刻まれる記憶に他ならないでしょう。記憶の在りかを家族に限定することには
反対、でいいので、あの理論までもまるごと捨てるのは不自然だしそれこそリアルでない
ことになる。そこはD=Gへの疑問として残りますね。ただ、あの変化の哲学の根底にある
時間や歴史への掴み方が、そう奇想天外なものではない、というのは萱野稔人の説明で
分かりました。ところで萱野稔人ってETV「日本のジレンマ」で日本経済とか論じてるん
で、そういう人かと思ってたら、Deleuzeも語れる人だったんですねえ。まさかDeleuze
関連の座談会に出てる人と同じとは気が付かなかった。