デリダとドゥルーズV 文学との関係を中心に

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214吾輩は名無しである
あと、DerridaとSartreの間にlevinasを挟むと、わりと見えやすくなるんじゃないか。とい
うのは、存在の他性、別の仕方、他者への倫理を思想したのがlevinasですが、これらは悉く、主体
として考えられてる。やはりHeideggerにおけるseinからいかにして逃れられるか、無化できる
か、が重要なテーマで。そこでHeidegger思想を疎外とみなし、敵対視し、〈自由‐責任‐主体〉の
哲学を築こうとしたSartreと近くなる必然性があるように思うんです。
 それで、ここでDeleuzeなんですが、詳しくないので余り言えないんですが。ただ、絶えざる
乗り越え、というものを微分線の軌道とも取れるでしょうから、これもSartreと無関係でもない
。ここで挙げた4つの哲学の横断線が何か、といえば、seinから如何に自由になりうるか、解放
されるか、が方法化されている、ところだと思います。その部分で、例えばSartreが乗り越え
不可能な哲学としてのマルクス主義とその党派に加担し続けた。この身軽さを、受け継いでるん
じゃないかな、て思えるんですね。少なくとも理論上は可能になってると。Derridaにしろ
Deleuzeにしろ、Sartreを高評価してたと思うんですが、それは若い頃に影響もされただろう
し、思想的にも無関係ではないと思えるんですね。Sartre哲学の魅力をずっと捨ててはいなかっ
たんじゃないか、と。