DerridaとSartreについて再論すると。まず先のレスで「Heideggerの呪縛からの逃走」と
書きましたが、考えてみると逃走どころじゃなく、Heidegger思想からの解放、と思えるんです
。Derridaが「差延」で書いてることから受け取ることは何かといった場合に、存在と存在者の
差異とかは、元々確定できないもので、というのはこれもまた事後的に為され得るものに他なら
ないのだから。元々この差異とは存在の本質を表すものなどではない。そんなものはない。《形而
上学のテキストは同時に痕跡の記念建造物と痕跡の蜃気楼を提示する。》とされるのは、これは
Heideggerへの皮肉と受け取れると思います。こういうことを書く者にとって、自らの歴史、
経歴に拘束されてしまうこと、歴史の現成であること、は、存在の乗り越え、無化にとって、疎外す
るものとしてあるであろう。それはこの差延という概念の使われ方から伝わってくる。まさに
ここで存在から理論上は解放されること。身軽になること。それが狙われていたと思えるんです。