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吾輩は名無しである:
あと、この機会にDerridaの「差延」も読み返してみたんですが、こちらのはやはり感心しなか
った。たしかに存在論的差異が現出するとかはなく、忘却されるとはHeideggerは言うし、また、
痕跡もまた既に言われている。しかしだかたこそむしろそれは想起をもたらし、思索させる。これ
がHeideggerのスタンスですね。そこで差異の忘却や痕跡にはウェイトが過重にかけられるこ
とはない。その変換がDerridaの痕跡論で、現前者は痕跡の痕跡。という言い方になる。そこで
Heideggerのモチーフー忘却の想起、奪い返しーは見事にずらされてしまう。それはDerrida
がその前に書いてる無意識批判と同じ論法で。あれも無意識とはかつてもこれからも現前しない
、という論法でずらされるわけで、不在と消去は始めから書き込まれてる、となる。そしてにも
拘わらず、FreudもHeideggerも、現前を延期として保留する。そういう論法となる。
私の感じでは、Derridaの根底にはSartreの出した〈自由‐責任‐主体〉の哲学が、ずっと
息づいていたんじゃないか。脱‐構築の根底にあったんじゃ、て思えるんです。Sartreは
あるインタビューで、こう言っています。
《インタビュアー:ところがハイデッガーの場合には、言活動(Parole)への呼びかけ
の完全なイニシアチブを持つのは結局のところ意味されるもの、つまり『存在』なのでは
ないか。
サルトル:そうです。したがってそれはわたしにとって、疎外をあらわすものなのです。(
略)わたしが言いたいのは、「存在」に向かって開かれているものを「存在」自体が条件づ
けている限りにおいて、わたしは「存在」を拒否するということなのです。》(『シチュアシ
オン \』42頁 「作家とその言語」)
Derridaの脱‐構築の根底にSartreの〈自由‐責任‐主体〉の哲学があったんじゃないか
。あのずらかしが指示するのはHeideggerの真意とかでなく、むしろその呪縛からの
逃走だと思うんです。