レヴィナスのハイデガー批判は主に後期ハイデガーの提示した“存在”について
文法的な側面に対して向けられていてこれは『実存から実存者へ』によく表れています。
ただし、両者間には勘違い(特にレヴィナスの方に)があったらしいという見解も出ているわけで、
そう言う意味では『ヒューマニズムについて』以降の展開が重要視されるのです。
また、後期ハイデガーによって開かれた言語の構造性(と主体性の関わり)という問題設定を
積極的に引き受けたのがデリダなので。
ただ、こういった大陸哲学の流れとは別にカルナップ、ヴィトゲンシュタイン、ポパー、クリプキ
といった英米系での議論があるので、ジャネットさんの議論はこちらの方に近いんです。
例えばポパーはハイデガーをアリストテレス−ヘーゲルという超越的な“精神”を前提として成立する
全体主義者の系譜に捉えていてヴィトゲンシュタインもその類縁ではないのか?としているわけです。
まあ、ジャネットさんは勘所をよく押さえていますよ。
あの人が構造主義の文脈からアルチュセールをピックアップするのも何となく分かります。
とくに「よびかけ」というのが重要で、これは言語の集中化と分裂によって生じる一種の“啓示”なんですね。
>>117 うん、前半の推論が成立するなら後者も成立しなくね、って話
>>118 呼びかけしている人は啓示したがっているってことか
まあわからなくもないな
>>118 >例えばポパーはハイデガーをアリストテレス−ヘーゲルという超越的な“精神”を前提として成立する
>全体主義者の系譜に捉えていて
ポパーは知らないが、ハイデガーは形而上学的なことを現象学的にアプローチしたわけで、それは
一種の形而上学批判的なアプローチだと思うのだが、どうもハイデガーを形而上学だとは言わなくても
そういった「超越的な“精神”を前提として成立する全体主義者」と考えるのは、
ハイデガーの形而上学批判が否定神学的なもののように捉えられてるってことなのかな
神を否定しているがそれは神を肯定するためなのが否定神学であって、
ハイデガーは形而上学を批判しているが結局は形而上主義者なんだろ、みたいなさ
まあここらへんの話は実際にそう論じている人と会話しないとわからんだろうしどうでもいいか
まあでもそういった哲学村の思想の内容ではなくそいつらの心理的関係を妄想するのって楽しいよねwww
125 :
ゴミ箱:2012/03/31(土) 21:02:51.39
>>アリストテレス−ヘーゲルという超越的な“精神”を前提として成立する
“精神”言い換えればゲニウス的な・・・
>「よびかけ」
Stimmung・・・
ジャネット派が増えつつある気がするw
127 :
ゴミ箱:2012/03/31(土) 21:04:56.26
>>125 >“精神”言い換えればゲニウス的な・・・
細かいつっこみだがゲニウスは高位に設定されているものだが基本的に一般的なもので、
「超越的な“精神”」ではないと思うけどな
タイのピーとかに近かったんじゃないの
129 :
ゴミ箱:2012/03/31(土) 21:12:03.34
>>128 どうなんだろう?
物神を否定したものを「超越的なもの」とするなら違うかな・・・
「超越的」ってのもアガンベン流に言えば「例外化」とかになんじゃねえのw
物は言い様的な
131 :
ゴミ箱:2012/03/31(土) 21:17:16.02
ま、板チなので控えとく
132 :
ゴミ箱:2012/03/31(土) 21:21:01.99
>>130 「例外」は普通言われる「超越論的」とかとはかなり意味合いが違う気がw・・・
>>132 すみませんちょっとやりすぎました
このへやのかべがみはね♪
>>118 そのあたりはもう少し個別かつ具体的にやったほうがいいだろうね。
『実存から実存者へ』は1947年に出版されてるから
レヴィナスの著作の中では初期のものだよね。
で、『全体性と無限』が61年、『存在の彼方へ』が74年。
この3冊、それから『死と時間』には目を通してるけれど、
レヴィナスのハイデガー批判の本質的なものを
乱暴にひと言でわかりやすく語ってしまうと、
倫理がない=他者がいない、という点だと思うんだね。
そしてそれは単なる文法的な問題や勘違いではなくて、
そこには本質的な両者の差異があるだろうと。
要は、ハイデガーの存在論の手前でレヴィナスは、
実存と倫理を問題にしているわけだね。
ハイデガーの存在(ザイン)はドイツ語の「ある(Es gibt)」と結びつく。
(ハイデガーは前期の存在の問いをやがて捨ててしまうけれど)
Es gibtを直訳すると「それは与える」となり、ここで存在と贈与の問題が深く関係を持つ。
この問題系を扱ったのがデリダ『時間を与える』で、モース『贈与論』を参照しながら、
時間と贈与、そして存在のテーマに深く切り込んでいく。
一方の、レヴィナスはフランス語の「ある(il y a=イリヤ)」を持ってくることで、
ハイデガーの贈与的な「ある」を「場を持つこと(イリヤ)」と批判的にずらす。
といっても場を持つことは、ハイデガーの性起と関係があるけれども。
135 :
ゴミ箱:2012/03/31(土) 21:24:17.62
俺も部屋に戻ろうっとw
>>118 >>120 あたりにある「呼びかけ」のテーマは、
まずデリダの責任=応答可能性という概念があるね。
そしてアガンベンが『言葉と死』で示したものもまた、
ハイデガー、ブランショ、デリダが提示した文脈上にある。
「いかなる〈声〉によっても呼びかけられることなしに、
言語活動のうちにとどまりつづけていること、
死の声によって呼びかけられることなしにただ単純に死ぬこと、
これはおそらく、もっとも深淵的な(=底なしの)経験である。」
>>121 ハイデガーと形而上学批判の問題系は、
まずハイデガーの『ニーチェ』(平凡社ライブラリー)に端を発してる、
(というか、ニーチェにまで遡行する必要があるのかもしれない)
ニーチェはプラトニズムに代表される形而上学を批判したけれど、
ハイデガーはそのニーチェを最終的な形而上学者として見てしまう。
そして今度はハイデガーのほうが形而上学者として批判されるわけだね。
つかジャネットってハイデガー批判派だっけ
>>134 >ハイデガーの存在(ザイン)はドイツ語の「ある(Es gibt)」と結びつく。
>(ハイデガーは前期の存在の問いをやがて捨ててしまうけれど)
>Es gibtを直訳すると「それは与える」となり
>一方の、レヴィナスはフランス語の「ある(il y a=イリヤ)」を持ってくることで、
>ハイデガーの贈与的な「ある」を「場を持つこと(イリヤ)」と批判的にずらす。
本来的にイリヤ(…がある)に対応するのはエス・ギープト(…がある)
ただしハイデガーはギープト(与える)と再規定しているのでイリヤを(与えられている)と訳したわけですね。
これに対してレヴィナスはイリヤは(ある)であるとして、突っぱねたけれども
ハイデガー研究者によるとそこには誤解があり、結局その後のハイデガー哲学の展開である×seinでも明らかなように
この場合の“与える”とは言語の構造化によって招命されるものではなかったか?
であるならば、そのような意味で後期ハイデガーは原構造主義的だったと言われているわけです。
まあ、ハイデガーはキルケゴールから影響を受けた実存主義者でもあったので
実存主義者ハイデガーの“与える”は単純にキリスト教的贈り/与えられる
といった授受関係で考えられるのかもしれない。
であるならばギープト・与える(=光)に対してイリヤ・ある(=夜)を対置したレヴィナスは正しかったとも言える。
>>136 >「呼びかけ」のテーマはまずデリダの責任=応答可能性という概念があるね。
いや、もともとはキルケゴールなんですが。
ただし、ユダヤ神学における神への対応者としてのユダヤ人というのが起源でしょうけどね。
レヴィナスはこれを他者への応答という形で倫理学に持って行ったわけですよ。
そこで他者(=外部)の思想が生まれる。
>>138 >この場合の“与える”とは言語の構造化によって招命されるものではなかったか?
>であるならば、そのような意味で後期ハイデガーは原構造主義的だったと言われているわけです。
きれいにまとめてるな
いや俺もハイデガーは構造主義者だと思っているが、簡潔だなあと
感心してるって意味な
>>140のような解釈の主犯格としてラカンがいる、と
俺正直ラカンつながりでしかハイデガーしらんし
>>137 本人は自分でドゥルージアンだ(った)と語ってたよ。
現代の思想家の中では1〜2番目に読んでると。
ミニハンは上のほうで自分には「デリディアン的なところがあった」
と語っていたけど、どうなんだろうw
>>138 構造主義ということで個人的に理解しているのは
その元にソシュールの言語学における言語構造があるということで、
バルトは言語以外のものも含めた記号論としてそれを展開し、
レヴィ=ストロースは未開民族の神話においてそれを持ってきた云々…
ということだろうと思う。
で、ハイデガーの場合は語源学的な身振りがあって、
存在(ザイン)という語に×印を付けて抹消するとき、
レヴィナスが語るように、ハイデガーは存在の運動を見ていたと思うし、
ここは個人的にはとても面白いところだと思うけれど、
実はその抹消自体は残余として残され、デリダが「痕跡」ということを語るときに
大いに示唆を与えただろうと思いますね。
こう見てくると、今初めて思ったことだけれど、
レヴィナスよりもデリダのほうがハイデガーを救っている気がする。
>>142 ハイデガーは大文字の“存在”なんかについても指摘していたので
「形而上学について」や「ヒューマニズムについて」から構造主義者に転回したとされています。
後期ハイデガーは侮れないんですよ。
そしてこれをヴィトゲンシュタインと絡ませる格好で論じたジャネットさんはセンスが良いんですよ。
実際、イギリスにはそういったテーマで本を書いた人がいるわけで。
>>143 >構造主義ということで個人的に理解しているのは
それは狭義の構造主義であって
構造主義なる用語がつかわれたのはブルバキのような数学者集団が最初だと思いますが?
また、ローティによるとこういった知の近く運動は19世紀後半から20世紀初頭に起こったとされています。
確かに、パース論理学などにも似たようなモチーフは出てきますからね。