デリダとドゥルーズV 文学との関係を中心に

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109吾輩は名無しである
 101のアセンションさんの話読んでて感じるのは。Derrida自身が一冊捧げてる思想家で 
Levinasっていう人がいるでしょう。『存在の彼方へ』をちらと読んで、これもやっぱり、こうまで 
してHeideggerを骨抜き(脱‐構築と専門家は言うのか)にしたがっている、その欲望と作業 
って何だ、という問を持ってしまう。Levinasはユダヤ人でその家族はナチの強制収容所で殺さ 
れた。それが大きなどうもモチーフとしてあるらしい。それでいえばDerridaもユダヤ系フランス 
人だったですね。ああそうか、と思った。あの一生懸命さ、無理強いさの背景は歴史なんじゃない 
だろうか。実際にはLevinasが『存在の彼方へ』冒頭で書いてる、存在することの他性、また身代わ 
りの概念とか、読んでて、これは既にHeidegger思想に包括されてると思う。Heideggerの言う 
seinは決して主体の思い通りにならない領域であるし、egoと等号できない彼岸性を孕む。そこ 
は決して主体として堅固でもなければ閉じてもいない。もともと他性は孕まれている。それと、 
人間が〜の為と成りうるのはseinの場であるからで、仮に誰々の為、と言ってても、それはsein 
の為に他ならない。と「根拠の本質について」という作品で語っているわけです。だからLevinas 
が一生懸命にやっていることは、既に包括されてる。最もこれは違うと思ったのが、seinがego 
と同じように捉えられて、闘争とか支配の温床みたいに捉えられている。実は、Heideggerに於て 
、最も自己的な存在は没交渉的、と言われてる。それが喧嘩になるか、仲良しになるかあるけども、 
seinは孤独のお根源、と思うので、そこも?となる。総合すると、ナチ政治とHeidegger思想を 
等号してしまい、それは史実からは致し方ないんだけども、それがLevinasの批判の根底にあり 
、目を曇らせてる、て思えるわけです。でそのLevinasを仰いでいるDerridaという光景がある。 
この系譜というのは、やはりナチとユダヤ人という、悲劇的な運命からくるもので、その意味で 
痛々しいし、だけど思想としてみると、やはり?という感じばかりです。