1 :
吾輩は名無しである :
2012/03/26(月) 19:38:43.89
3 :
吾輩は名無しである :2012/03/26(月) 22:14:04.71
540 :ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2012/03/18(日) 00:24:28.57 吉本とかどうでもいいよな。(読んでないけど)
4 :
吾輩は名無しである :2012/03/26(月) 23:23:35.77
983 :吾輩は名無しである:2012/03/26(月) 18:43:54.68
ジャネットはもしや↓からぱくった?
月形与三郎
http://hametuha.com/etude/1211/ 984 :v(・x・)vピース ◆JSPf4VvHXo :2012/03/26(月) 18:44:29.62
それは私はモノが見えてますってアピール?
985 :レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/26(月) 18:45:51.09
月形は私。
5 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/26(月) 23:26:39.33
前スレにも書いたけど、私の破滅派でのHNがその月形なの。
まあ、藤谷治さん(HN 偽高橋源一郎)のように小学館にでも応募すれば良いと思いますが。
7 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/27(火) 00:08:37.15
あいにくそういう気は全然ないんですよ。ひやかしでするぐらいならいいけれど。
8 :
吾輩は名無しである :2012/03/27(火) 08:58:19.11
前スレの終盤でジャネットさんがDeleuzeよりもHeideggerが正しいと書いてたけど、正しい というより、個体の捉え方としてリアルだと思う。現実の人間は何にでも変身できるわけではな いし、細い道を通っていくしかない。そういう人間の姿が浮かんでくるしね。無意識とかフィクシ ョンみたいに茶化したりしてるけど、インタビュー読むと精神分析学派の勢いが凄くて云々とか 言ってたのでその反動というなら理解はできるけど。Heideggerはバタ臭いけどリアリティー だけはあるからね。そこがDeleuzeは文学だからこのスレは文学なのよ、ということかもしれな いが。Heideggerの本で個体や自分を捉えることはできるけど、Deleuzeの本では無理でしょう ね。
9 :
吾輩は名無しである :2012/03/27(火) 10:22:26.38
ドゥルーズは変な根拠のない全能感をあたえてくれるよ
10 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/28(水) 12:56:25.34
私がハイデガーの「正しさ」だと思うのは、たとえば次のようなところ。 現代では、かつて哲学のになった役には、サイバネティクスがとってかわった。 自分が「これまでとは違う思惟」(哲学とは違う、という含意あり)が求めるが、 それは哲学に代わるようなものではない。(しかし私は、ほとんど「思惟」というよりは、 もはや詠嘆なんじゃないかと思う) 以上は「シュピーゲル」のインタビュー記事の一部の要約。 なお、ハイデガーの云うサイバネティクスというのは、 いわば広義のものととったほうが良いと思う) 私としては、哲学批判(批評)も、せいぜい言えるのはここまで、だろうと思うのですよ。 さらに先を言おうとすれば、たぶんあまり出来のよくないSFになるだろう、と。 そして、そういう「SF哲学」は、「現実」を改変するツールであるかのような錯覚(名無しさんがおっしゃるところの「全能感」でもよい) を起こさせるが、詠嘆のほうはそうではないだろう。ただの「気分」ですから。 とはいえ「気分」とは、もう一方では、意欲でもあろう、と。
レジャネは逆言の癖があるから注意しろ。 善いものを悪いと言い、深いものを浅いと言う。 よく逆言している。悪意から罪を犯す時は名無しに戻る。
つまんね
>>10 ハイデガー別に擁護するつもりはないが、あんまり反論できないのは、現象学らしく自分で自分の考えうるところ、
考えられないところをきちんとまず区別してから思考を始めるところなんだよな。
フッサールとハイデガーって思想の志向的には逆だと思うんだが、共通点はこういうところなんだな。
つか現象学派に対する反論のしにくさって大体ここだ。
エポケーやらで万能感に惑わされるのを戒められてるのかね。
ただし思考が詠嘆になるなら、「SF哲学」だと思っているのを「詩」だと考えてもいいんじゃね、とかは思うな。
>>8 リアルというか、ハイデガーを形而上学とかって表現するのは違うなって思うわ
思考の必然として形而上学的なところを論じているだけで
で人間の思考は大体そうなるってわけでもなく、ドゥルーズみたいに目の前のある物から細道に入っていってもよい
マクロコスモス的かミクロコスモス的かの違いじゃねえの
ジャネットの言う「全能感」はドゥルーズじゃなくてドゥルージアンたちの空気だと思うがな
16 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/28(水) 17:36:52.92
まあそうだね。 私はそもそも、ドゥルーズ主義を批判しているんであって、 「可能性の中心」的なドゥルーズ哲学ではないから。
ジャネット×ミニハンで電波倍増やん
ゆんゆんです
19 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/28(水) 18:10:51.96
付言すれば、フーコー晩年の「生存の美学」なんてのも、 私が上で言った「気分」に似たようなものだね。 これをカント的に「趣味判断」といってしまうと、 従来的な美学主義=主観性の哲学に戻るから、多分そこを言わなかったんでしょう。 「浅い」というのは、まあそのとおりなんですよ。「深さ」というのは、単に虚を指しているだけなんで。
フーコーもなんか生理的にだめだな 頭にナイフで切り込みいれてペニスーってやりてえ
社会学のある分野も言葉の意味がわかるがなぜそういう理屈になるのかが理解できないことが多くてなあ ある社会学派の人から「君は根っから社会ってものがわからないんだ」とか言われて 「ああそうか、俺には見えない何かが社会学の人たちには見えてそれを論じているんだな」 と悟ってそれ以来社会学とはあまり関係しないというよい関係を築けている フーコーも俺が見えない何かが見えていて、それを論じてる気がするわ
>>19 精神分析の「浅い」「深い」って、一般的な意味と逆転している場合があるんだよな
たとえばフロイトはジョークや言い間違いに無意識が表れるとしたが、それらを「浅い言述」とする一般的感覚ってないか?
>>21 そりゃなんでもそうジャマイカ?
ある分野のイディオムや文法、要はものの見方を身につけてないと、その分野の人達が見えるものが見えないって。
特にその分野や関心が自分にとってあまりアクチュアリティのないものだと。
24 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/28(水) 18:57:34.46
言い換えれば、その無意識が「あらわれる」とされる「浅さ」というのは、いわば言語の差異でしょう。 ウィトによれば、哲学の問題は、それしかないんだから。 ウィトは、「浅い」わけさ。ハイデガーも、晩年は「詩学」ばっかりなんだから、おなじく「浅い」んですよ。
概念の意味とかは今はネットもあるし説明してくれればわかることが多いやん
そうじゃなくて文法というか文脈? 理屈の流れがわからん
「理論」じゃなくて「ものの見方」なんだよな、
>>23 の言う通り
今心霊番組やってるけど、人文科学って幽霊を科学してるようなもんな気がするわ
簡単に言っちゃえば「意味」っつー「見えないもの」が対象だからね。 対象はそれで別にいいんだが、方法論が下手すると言葉遊びのレベルだったりするのがどうにもこうにも。
辞書的なところだけじゃない「意味」ってもう心理の領域だと思うんだけどな 言語学意味論も今は心理学とすごい親近してるし
30 :
吾輩は名無しである :2012/03/28(水) 20:19:44.93
低脳盗作屋駄弁乙(笑)
俺元々そういった辞書的な意味以外の行間みたいなの読めない方なのかもしれないがさ 精神分析やるようになってわざと言葉を字義通りにしか解釈しなくなったのね っていうのは精神分析って基本的に自由連想ってのが、精神分析が研究対象にしている心の実験環境だからなのさ その場においては純粋にその人だけの連想でなければ観察対象になりえない 自分の連想も社会常識などと言った連想もノイズになりうる だからわざと言葉を字義通りにしか解釈してないってところはあるな
たとえばそれこそ
>>22 とか「言説の浅い深い」って意味が違ってるわけだろ
その人の「浅い深い」という意味はどういうことかを考えてからじゃないと議論は始まらないと思うんだよな
でさー、会社とかでもこういった論法、「○○という言葉をあなたはこう考えていて、あなたはこう考えているわけですね」
とかって整理をするとなぜかそう言う俺に怒りが向いてきちゃうんだよなー
人間っておもろいわ
議論の進行係って整理係じゃなくて、「○○はこういう意味ですよ」って意味を統一する係な気がする
まあそれも言い方によるんだろうが
俺はそういう意味では進行係できないわ
でさー、意味が共通になっているのはなぜか、とかって話になる哲学的にはイデアとかになるじゃん
イデアをないものとして話を進めるから怒りが俺に向くのかなとか最近思っている
>議論の進行係って整理係じゃなくて、「○○はこういう意味ですよ」って意味を統一する係な気がする その統一に理屈はいらないんだよな 同じ意味の下で話をすることが目的なのだから、「なぜその意味に統一するのか」という問いは不要だ 俺の論法はそういった意味でよくないわな 「話が通じていない」って意味になるのか、それは言い合いしている脇から小娘にそんなこと言われたら怒るわな
>「なぜその意味に統一するのか」という問いは不要だ ここらへんを考えてドツボにはまったのがドゥルーズという認識だw
酔った勢いでラカン的にばっさりやっちゃうと、ドゥルーズは倒錯、ハイデガーは神経症(強迫症)だな 酔った勢いなので反論自由、特に反論しません
36 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 00:35:05.28
ここはDerridaのことも言うスレなんで言うと、やっぱりDerridaも、あれはHeideggerに 影響受けてとか、方法を受け継いで、とか言われてるけども、Heideggerの根幹、個体の不自由 さ、覆蔵される歴史、とか、それが呼び掛ける場が現有なわけだけど、初期の「差延」とか一生懸命 というと変だけど、Heideggerのいう、その有 sein の概念を打ち消そう打ち消そうと 頑張ってるみたいで、というのは無意識とかは事後的なものよと言っちゃうわけですね。そっくり 同じことをその後、日本の批評家がそっくり言ってた記憶がありますが。また、かつて現前 したことはなく、これからも現前することはない。それが無意識だと言っている。或いは個体の動 力はそうだと。これはHeidegger思想の骨抜きにしかならないと思います。無意識とは Heideggerの場合は言わないが、それでも骨抜きになると思う。これもまた、個体というのが 身軽になり、自由自在であることを理論上は可能になる、トリックだと思います。だからDerrida というのはHeideggerから影響を受けて云々と言われてるけど、しかし骨抜きにもした張本人 だと思う。だから私はDerridaの思想は嫌いだし、実は根本的にはHeideggerとは無関係だと 思います。
なるほど
38 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/29(木) 01:19:35.06
(このスレの住人には筋の説明は不要だろう)「アンティゴネ」にしても、 謀反人の兄を埋葬するか、ほっておくか、この二つに一つしか選べなかった。 (これを、ヘーゲルからバトラーまでいろんな切り口で論じているが、ここでは脇へ置く) そういうなかで、禁令を破って兄を埋葬した(とはいえ遺体に土を一掴みかけただけ)。 これをして、ハイデガーは「彼女は運命をおのずから選び取った」といっている。 そうして、死刑を宣告され、自害する。 こういうときに「逃げる」ということが果たしてできるか? 逃走線というものが延びるか? 私としては、はなはだ疑問といわねばならない。
アンティゴネのそれが「意味」だとは思わんがな俺は
>>36 デリダは脱構造主義なんだよな、構造主義者名乗ってるとなんかデリダ持ってこられるのでめんどいんだが
二項対立批判とかされても構造主義では二項対立が解析道具、っつか解析メソッドなわけで
実験道具に文句付けられたら研究者はお手上げだろう
研究者の方が文句付ける奴よかよっぽど実験道具に詳しいもんだが
アインティゴネとか日本的感覚で考えた方がいいと思うんだけどなー 「葬る、葬らない」という価値観に対する空だと
つまりアンティゴネのその行為こそが「埋葬の代わり」などではなく「意味からの逃走」なんじゃねえの、と あの行為が「意味」や「倫理」に対するどうのこうのならあんなカタルシスにはならんだろ
つまり「(私の親近者がたくさん)死んだ、世の中とはそういうものである」という、女からのファルスへの風刺だと
44 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/03/29(木) 01:38:24.38
それはそうですよ。 だから、いろんな切り口はあったが、わきへ置く、とした。 なお、「空」をだすまでもなく、お芝居だろ (ついでに私なら、あの女優いい体してんじゃん。ボディーズ・ザット・マター!)で万事解決になってしまうぞ。
というようなことが「女は存在しない」とするラカン派では述べられてます
僕よく知らないのでどうでもいいですが、アンティゴネが男だったら別に
>>38 の解釈でもいいと思います
カタルシス、厳密に言っておきましょうか、「享楽の意志」はあんまり生じないでしょうけどね
>>44 あ、わかって嫌味で言ってたって感じ?
ならいいよwww
まあぶっちゃけデリダ(の脱構築)に足りないのは「空亦復空」だな
フッサールは数学者つまり実験道具主義(物理からすれば数学も実験道具)だから、デリダの論は対照項になるが、
ハイデガーとデリダの対象は違う気がするなー
ちょっとそれは感情論はいってないか? と思う
>>36 で言うならデリダが骨抜きにしているのはフッサール
ハイデガーは実験道具をただの実験道具として使っているだけなので脱構築は意味をなさない
デリダ考えるならフッサールと脳内議論させた方がおもしろくない? 少なくとも俺はそうwww って話にすぎません
なんだろーなー 俺も一時期デリディアンみたいなところはあったんだが、それは自然科学が実験道具がはじきだすデータを真理として 考えていると思っている愚民どもに対する反論として、「実験道具なんて信頼できるもんじゃねえよwww」って意味で 使ってた気がするんだよな、今思うと だけど実験道具取り上げられちゃー物理学者はなんもできんは 物理学者とかそりゃ自分の実験道具とかよくわかってるもんだぜ、東大の基礎科学校舎の地下には旋盤機器とか 置いてある 自分で旋盤してジグを作ったりする まあ当然業者にも発注するが、業者の営業も東大卒だ、つまり話が通じる奴と話して実験機材を作ってもらう
むしろアンティゴネが男だった方が燃えなくねwww 少年ジャンプ的っつか 「強敵(友と呼ぶwww)」の死体に上司の命令に背いてまで土をかけて「埋葬の代わりにする」とかすげーカッケーじゃん! 「意味」から逃走できない男たちってカッケーもんよ、見せ方によっては BL脳としてですがwww ジャネットが言ってた「西部劇」ってのもそういうカッコよさなんじゃねえの 女からすればくっだんねー見栄のために命張って戦うとかさ 「くっだんねー」とかいいつつそういうのがカッコいいわけだよ、女からつっか俺から見れば これがペニス羨望ですか? 実験道具のことをよくわかってるからこそ実験道具が信用ならないとわかっているのが科学者なんだよ そこらへんの視点がフッサールにもハイデガーにもないから、文系の奴らが勝手に「理系と文系との接点だ」と言ってるだけで あんまそうは思わない
あんまり「文系対理系」っていう使い古された対立軸には持ち込みたくないが 自然科学の場合、結果が出ちまうんだよな、大きく言えば。 そりゃ帰納によっては真理に到達し得ないとか、自然科学も時代のエピステーメーから自由ではありえないとか いくらでも言えるが、現実に理論から引き出される結果(ロケットでも食料生産でも何でもいいが)が出ちまえば 少なくともその理論は現実に明確に関わってることが実感としてわかってしまう。 ところが人文科学の場合は結果が出にくい。つーか、普通は出ない。出ないもんだから「深い」とか「わかってる」とか 内輪でのオナニー評価で盛り上がりやすい。文学的領域に隣接するものは特に。 こんなオナニーから抜け出る回路はないもんかね? それともオナニーでいいじゃんで開き直るしかないのかね?
51 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 04:32:54.22
そのアンテイゴネーの喩えでいえば、仮に死んだ兄を埋葬したとしても、それが情愛のせいなの か、憎しみのせいなのか、夢現でやったのか、或いはその場での何らかの関係性から土を掛けたか は決定できない。何故なら行為や発語には内的要因の無限や外的要因の無限、つまりは計り知れ ない諸要因が合わさって為されるのであって、仮に死んだ兄に妹が土を掛けたからといって、動 機とか探しても無駄なことである。また、ある無意識とかを探すのは精神分析帝国主義である。 彼女は死んだ兄に土を掛けた。それだけのことである。従って、この先彼女が同じように家族の死 と立ち会ったとしても、同じように土をかけるなどと、絶対言えない。今回たまたま彼女は土を 掛けた。理由は決して分からない。兄を思ってのことだろう、とかいうのも解釈の一つだが。本当 のところは彼女自身にも分からないところにあるものだろう。それは行為者の自覚をも越えてい る。人間とはこのように諸関係の総体なのだ。 のような感じでひたすらずらしていくのが現代思想的ずらしだったと思うんですが。
結局現代思想って、人が気持ちよくオナニーしてるところにやってきて、「それ気持よくないから」って教えてあげる商売? 人のオナニーに水差すことが自分のオナニーになってるようなもん?
>>50 >それともオナニーでいいじゃんで開き直るしかないのかね?
その通りです
>>51 アンティゴネが男だったら北斗の拳的な「友情」みたいな解答が与えられてもいいと思うけどな
あれが女だからそんな風にずれていくわけだよ
ずれていくことが「空」でもある
「空」とは本質のなさなのだから
>>54 だったらば他人のオナニーがなきゃ自分のオナニーができないオナニーよりも
自分でオナニー開発するほうが楽しくね?
>>56 君がそうしたければそうすればいいと思うがwww
君の思う現代思想もそういうオナニーを開発したってことでもあるわけだ
いやはやオナニーとは奥深いもの
>>57 なるほど。
でも一見隙のない精密なオナニー見せないと
そんなオナニーじゃ抜けねーとか言っちゃうのが現代思想なんでしょ?
ちょっとワガママじゃね?
ミニハンとミニハンの会話?
>>58 オナニーに「ワガママだ」とか言いはじめたらキリなくねwww
君の思う「現代思想」はそうなわけか
君もそういう「現代思想の人」という他人のオナニーに「ワガママじゃね」と口を出しているわけだ
オナニーなんだから個人の好きなようにやればいいと思うんだがな
「他人のオナニーがなきゃ」っていうより「何をズリネタにしているか」って話じゃねえの
君も何を「ズリネタ」にしてもいい
「新しいオナニー開発」が「新しいズリネタを発見する」という意味ならば大いにやればよろしい
「ズリネタ」という概念を考慮して考えてみてごらん
君の脳内「現代思想の人」と君の「ズリネタ」が違っているだけwww
「ズリネタなしでするオナニー」とかおもしろいかもなwww
アンティゴネに対する「ひたすらずれていく解釈」も、アンティゴネのその行為は「ズリネタなしでするオナニー」
だとすればわかりやすいかも
「アンティゴネは何をズリネタにしたのか」って議論が「ひたすらずれていく」わけだ
それが「ズリネタなしでするオナニー」であるならばそうなるだろうよ
と言うよりそういった「ひたすらずれていく」ことが、あの作品のカタルシスが「享楽の意志」的なものだと、
>>51 の思う
「現代思想」たる観客たちは受け取っている結果だ、って話だな
逆にアンティゴネのそれを「ズリネタなしでするオナニー」として解釈したがっている観客もいると
そういった観客たちの解釈は「ひたすらずれていく」だろう
なのでジャネットに対し
>>42 という反論をしたわけだ
いやまあわかってて嫌味として言ってるだけならいいけど
もちろんそうではなくたとえばアンティゴネを脳内で男化してトキが兄弟を弔うシーンみたいな感じで「強敵(友と呼ぶ)」
的「ズリネタ」とするのもありである
ヘーゲルの解釈なんかはどっちかってとそっちだろう、ヘーゲルはアンティゴネをそういう「ズリネタ」にしたってわけ
そういう「ズリネタ」もBL脳的にわからなくもないのでそれでもいいと思うけど
観客一人一人が好きなようにオナニーすればいんだよwww
そういった意味ではヘーゲル的な意味での「倫理」とは「統一化されたズリネタ」ってことでもあるわな
一応芸術論的にお化粧しておくと、
>>60 の「享楽の意志」的解釈の方は、
アンティゴネのその行為を「(ヘーゲル的)倫理の維持」と解釈するのではなく、
「倫理に対する異化効果」に重きを置いて見る解釈の仕方だ、ってことだな
わっかりやすい異化効果ではないけど、あざとい異化効果は異化作用すらなくすしな
>>60 うーん、嫌味とかじゃなくって
ズリネタがあって他人がオナニー(解釈)する。その他人のオナニーをズラしていくことが
現代思想のオナニー(解釈)ってことじゃないの?
それとも一気に「空」とかに飛んじゃうわけ?
>>63 なんかこう君の脳内現代思想がよくわからんのでなんとも言えん。
君の考える「現代思想のオナニー」をもうちょっと説明してけろ。
「現代思想」と一口に言ってもいろいろあるし、もちと具体的に。
どの人のどういう論説を
>ズリネタがあって他人がオナニー(解釈)する。その他人のオナニーをズラしていくことが
>現代思想のオナニー(解釈)
と思ったのか、等々。
「現代思想」は置いておいて、アンティゴネとかの「解釈がひたすらずれていく」ことを考えてみよう。
それは、「他人のオナニーをズラす」のが「ズリネタ」なのではなく、そいつの脳内アンティゴネの
「ズリネタのないオナニー」が「ズリネタ」になってるからなんじゃないのか。
「享楽の意志」「意味からの逃走」「異化効果」などという「ズリネタ」を主張していると。
「ヘーゲルの解釈などは別の「ズリネタ」であってオナニーできん」みたいな。
それを君は
>>52 「人が気持ちよくオナニーしてるところにやってきて、「それ気持よくないから」って教えてあげる商売?」
と受け取ったわけだ。
どっちでもオナニーするならすればいいししないならしなくていいと思うけど。
そもそも「解釈がずれる」のは芸術鑑賞では普通にあることだろ、「現代思想」に限らず。
同じ作品を見ても観客一人一人の解釈は別々でありうる。
あと「空」は現代思想ちゃうぞwww
>>64 いや、単純に
>>51-52 に対して
>>54 でその通り、って言われたから
そういうものとして「現代思想」って言葉を使ったの。
> 「現代思想」は置いておいて、アンティゴネとかの「解釈がひたすらずれていく」ことを考えてみよう。
> それは、「他人のオナニーをズラす」のが「ズリネタ」なのではなく、そいつの脳内アンティゴネの
> 「ズリネタのないオナニー」が「ズリネタ」になってるからなんじゃないのか。
> 「享楽の意志」「意味からの逃走」「異化効果」などという「ズリネタ」を主張していると。
> 「ヘーゲルの解釈などは別の「ズリネタ」であってオナニーできん」みたいな。
ズリネタっていうのは、ひとまず解釈以前(それが可能かどうかは置いといて)の素材でしょ?
で、それに対して誰かさん(例えばヘーゲル)がある確定的な解釈を施すわけでしょ?
で、ヘーゲルさんでも何とかさんでも「現代思想」でなければその解釈を単なる主観的な解釈ではなく
客観的な解釈として提示するわけでしょ?少なくとも本人は?
で、その解釈(オナニー)を今度は素材(ズリネタ)として「現代思想」はその客観性を剥ぎとってくってことでしょ?
そういうことじゃなくって?
>>65 うん。仏教系のこと言ったんでしょ?
だからなんで「現代思想」がズラしなしに一気に「空」に飛んじゃうのかって思ったわけ。
>>66 んじゃ君の脳内「現代思想」とは「解釈がずれていくこと」と考えていいわけね。
であるなら
>>64 の「解釈がずれていくこと」を考慮した理屈は成立するな。
>で、ヘーゲルさんでも何とかさんでも「現代思想」でなければその解釈を単なる主観的な解釈ではなく
>客観的な解釈として提示するわけでしょ?少なくとも本人は?
ちょっと意味わからん。
>で、その解釈(オナニー)を今度は素材(ズリネタ)として「現代思想」はその客観性を剥ぎとってくってことでしょ?
君はどうしても「自分のオナニー」を「現代思想のズリネタ」にしたがっているわけか。
>>68 うーん、
>>52 の説明が元になってるわけ。
で、例えば精神分析的にある解釈を提示した際は、それは単なる主観的な解釈として提示したのではなく
客観性をもった解釈として提示してるわけでしょ?
> 君はどうしても「自分のオナニー」を「現代思想のズリネタ」にしたがっているわけか。
そうじゃなくって単に現代思想の位置づけを確認したいだけ。
もちろんいろいろあるっていうのは分かった上で大まかな位置づけを。
>>67 >だからなんで「現代思想」がズラしなしに一気に「空」に飛んじゃうのかって思ったわけ。
ここでの(君の脳内)「現代思想」とは
>>68 で書いているように「解釈がずれること」って意味じゃないの?
なんで「ズラしなし」になんの?
>>69 >客観性をもった解釈として提示してるわけでしょ?
その解釈した人によるんじゃね?
主観的な解釈として提示している人もいるんじゃねえの。
君の言う通りに提示している人もいようが。
ここにいない人の話されてもわからん。
>そうじゃなくって単に現代思想の位置づけを確認したいだけ。
「現代の思想」なんじゃねえのw
まあその「現代」にどこまで含むか知らないが。
その「現代思想が位置づけされる君の脳内マップ」みたいなものがわからんので俺にはどうしようもない。
その「位置づけ」は君自身にしかできない。
>>70 うむ、わたしも君の
>>51 から「君の考える現代思想とは解釈がずれていくことだ」と推論したわけだが。
君の脳内マップ上の位置づけとして、 「現代思想とは自分がオナニーしてるところにやってきて、「それ気持よくないから」って教えてあげる商売?」 って位置づけてるんじゃねえの、最初から。 仮の位置づけかもしれんが。 あと「現代思想と空がズラしなしに」というのがわからん。 君の脳内では現代思想と空はズレてないのか?
>>71 > >だからなんで「現代思想」がズラしなしに一気に「空」に飛んじゃうのかって思ったわけ。
> ここでの(君の脳内)「現代思想」とは
>>68 で書いているように「解釈がずれること」って意味じゃないの?
> なんで「ズラしなし」になんの?
とりあえず今言ってる「現代思想」はまず客観的なものとして提示された解釈っていうのが前提にあって
それをズラしていくことでその客観性を無効にするものであるのに対し仏教的空は実体の無さを直観するものだと
思ってたから。
> その解釈した人によるんじゃね?
> 主観的な解釈として提示している人もいるんじゃねえの。
> 君の言う通りに提示している人もいようが。
> ここにいない人の話されてもわからん。
あ、たぶんこの辺で話がずれちゃったんだと思う。俺が「現代思想」による解釈の素材ってみなしてたのは
ここにいる人やいない人の諸々の主観的な解釈とかではなくて
言わば一種の理論として提示される解釈のことだと思ってたわけ。プラトン哲学とかヘーゲル哲学とか精神分析とか。
>>72 > 君の脳内マップ上の位置づけとして、
> 「現代思想とは自分がオナニーしてるところにやってきて、「それ気持よくないから」って教えてあげる商売?」
> って位置づけてるんじゃねえの、最初から。
> 仮の位置づけかもしれんが。
そうだよ。だって「その通り」って言われたから。それ前提に話ししてるわけだから。
74 :
73 :2012/03/29(木) 22:20:21.30
ごめん。うんこして寝るね。相手してくれてありがとう。
>>73 >今言ってる「現代思想」はまず客観的なものとして提示された解釈っていうのが前提にあって
>それをズラしていくことでその客観性を無効にするものであるのに
なるほど、君はそう位置づけているわけだな。
>ここにいる人やいない人の諸々の主観的な解釈とかではなくて
>言わば一種の理論として提示される解釈のことだと思ってたわけ。
という事は「プラトン哲学とかヘーゲル哲学とか精神分析とか」は「客観」だと君は思っていたわけだな。
>そうだよ。だって「その通り」って言われたから。それ前提に話ししてるわけだから。
であるならばすでに君の脳内で位置づけられているのになぜ「現代思想の位置づけを確認したい」となるのだ?
>>74 最後の質問には答えてくれると俺はおもしろいwww
「空」とか下らないよな
>>75 > という事は「プラトン哲学とかヘーゲル哲学とか精神分析とか」は「客観」だと君は思っていたわけだな。
違うよ。客観的理論として提示されたものと思ってるだけ。
> であるならばすでに君の脳内で位置づけられているのになぜ「現代思想の位置づけを確認したい」となるのだ?
まさに確認だよ。それに俺の位置づけが大ざっぱだからもうちょっと詰めたいと思ったの。
じゃ、もううんこも終わったから本当に寝るね。
>>76 然りwww
>>77 何に対して確認してるの?
それに対して確認すれば「大ざっぱではなくつめられる」わけだよね。
君の「現代思想とは自分がオナニーしてるところにやってきて、「それ気持よくないから」って教えてあげる商売?」という「位置づけ」とは別の、 確認すれば「大ざっぱではなく詰められる」それは何?
空大陸
空対陸とかって軍事オタ用語を連想した
空食うQOO
子供だってうまいんだもん
84 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 00:07:22.00
自問自答というか、変わった流れですね。
85 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 00:09:55.11
ハナレメ笑
たまに来てみると不毛な流れだな 哲学を腐すのは楽しいかも知らんが 知的営為として論理を丁寧に辿っていくのも悪くない デリダでもドゥルーズでもいから 先人の考察を踏み台にして人類のために考えよう! で、お題は「原発の可能性」
君にとっては不毛な話 君にとって大事な話は「原発の可能性」 だということはわかった
ミニハン 笑
ミニハンがくるとどこでも不毛になるよな
空ですなあ
まあ「俺の話は議論を不毛にする」ってのは
>>32 に書いたことと同様のことかなー、と
議論している人たちが「意味の統一がなくなった」とかで「不毛」と感じるだけかと
そこは俺がどうこうできることじゃない
92 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 01:27:19.03
ミニハンは自分の無能さと無知に気付いたほうがよい
いつも変わりばえしないミニハン印の金太郎飴
>>92 んー、知ってるものは知ってるし知らないものは知らない
できることもあるしできないこともある
またそれらは時と場合による
じゃだめ?
ただ物事を楽しむには自分が無能無知である方が楽しくなるとは思ってるな。
芝居とかある文学畑が自分でページをめくれないこととかで「暴力的」と言っていたが
芝居は文学と比べて暴力的だから(相対的に自分は無能化されるから)おもしろい、ってことにもなる。
無知になって見るってのは難しいけどなー。
>>93 そうそう、俺って意外と一貫性あると思うんだよ、自分の論じていることについては。
でも観念連合の弛緩とか言われるしなー。
困ったもんだ。
95 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 08:08:59.96
ヨーロッパ人ならもっと奴隷制度の本質を掴んでなきゃ いけないんだが、誰も分ってないねw
僕日本人です
大川隆法に交霊してもらおうぜ
98 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 21:53:01.77
裸性 (イタリア現代思想 1) ジョルジョ・アガンベン=著 岡田温司 栗原俊英=訳 定価:2730 円(本体:2600 円) 四六判 218頁 2012.04 ISBN978-4-582-70342-9 C0010 NDC分類番号 137 身体、人格、言語とイメージ、可能態と現実態、救済と終末といったお得意の 問題圏をかすめながら、「人間にとって裸であるとは?」という本質的な主題 に切り込んだ深遠広大な、だが実に軽快な書物。
アガンベンは邦訳がどんどん進むなあ。 原書は三年前だったはず。
>>22 >>24 あたりの浅深のテーマ、
>>28 あたりの意味のテーマ、
これらはドゥルーズの『意味の論理学』を基点にすれば、
いろいろ面白い方向に話が展開できるんだがなあ。
――「最も深いもの、それは皮膚である」――
それから、
>>27 あたりの幽霊というテーマ、
>>36 >>46 ほかのハイデガーとデリダの関係、
このへんはぜんぶひっくるめて1冊の本、
デリダの『精神について』で論じられるんだけどねえ。
というのも、幽霊(ゴースト)は精神(ガイスト)に結びつくわけで。
解説書やウィキからキーワードだけ拾ってきて論じても、
そりゃ「空」にしかならないよ。
作品に具体的に対峙した経験なしに、デリダを読むという体験なしに、
脱構築を語っても得るものはおそらく何もないねえ。
#ハイデガーとデリダの関係 ハイデガーなしにデリダの思考スタイルが生まれることはなかった。 デリダにおけるハイデガーの影響は、 ドゥルーズにおけるニーチェ、ベルクソン、スピノザを合わせたそれよりも おそらく大きいんじゃないかと思うな。 ハイデガーから影響を受けつつ、批判的にその地平を乗り越えようとすること。 デリダの思考の断面のひとつを、そう語ってもいいと思う。 デリダの著作でハイデガーへの言及がないものを探すほうが難しいくらいだけど、 『精神について』『アポリア』『盲者の記憶』『ゲシュレヒト』などなど、 ハイデガーを中心的に扱ったテクストも結構あって、 『存在と時間』だけじゃなく、様々な著作から引用もされてる。 ただ、ハイデガーからの影響下において、デリダが脱し得なかったもの、 あるいは脱しようとしなかった主題ないし志向性がひとつあって、 それは、起源を求めようとする欲望、アルケーを求めようとする欲望、 じゃなかったのだろうかと思うんだね。 いくら、デリダが起源の起源に代補(シュプレマン)を見出し、 起源などないということを差延(ディフェランス)で示そうとしたとしても。 欲望自体のベクトルは痕跡として残っている。
2012.3.29『スピノザ ある哲学者の人生』訳者からのメッセージ スピノザの残像──タブッキの死に寄せて イタリア人の作家アントニオ・タブッキ(Antonio Tabucchi)が死去したことを、今朝の新聞で知った。 寝起きの心が、悲しみに包まれた。スピノザ主義者がまた一人いなくなったからである。実は、スティーヴン・ ナドラー教授の SPINOZA: A Life を翻訳する傍ら、ぼくがいつも手元に置いてい たのは、タブッキの小説『遠い水平線』(須賀敦子訳、白水社刊)だった。 どのような小説か?──それについては是非、手に取って読んでみてほしい。ここでは、主人公が「スピ ーノ」という名の男性である、ということだけを明らかにしておくが、はたしてタブッキは、主人公「スピ ーノ」とスピノザとの関連を否定していない。しかもタブッキは、スピノザを敬愛しているという、ひそや かな心中も明らかにし、次のように語っている。「スピノザは、イベリア系のユダヤ人で、目のなかに、遠 い水平線を持っていた。われわれが動くと、水平線も動く。だから、水平線とは、幾何学的な表現だ」(『遠い水平線』「余白につけた註」より)。
ぼくにとって、スピノザと言えば、主著『倫理学(エチカ)』でもユダヤ教徒共同体からの追放でもなく、 まずはタブッキのこの「水平線」なのである。先の小説の原題は、 IL FILO DELL’ORIZZONTE で、直訳す ると「水平線の線条」となるが、その「線条」は、単なる線ではなく、真一文字の、静謐な、一条の線なの ではないかと思う。この水平線は、『倫理学(エチカ)』第四部の最大の命題──「自由の人は、死のすべ てを最小に思惟する」──を、詩的に要約したものであると同時に、『知性改善論』に宣せられたスピノザ 哲学の最終目標──「精神と全自然との合一の認識」──を、一語で見事に言い当てたもののように思われてならない。 瞼の内側に、君はまっすぐな水平線を持っているか? そこに到達したいと思わないか? ならば、そのくたびれた目にたゆたう茫洋たる水平線を、まずは刷新しようではないか。 が、そのためには、いかにすればよいのか。それをスピノザは、生涯をかけて、幾何学的に思考し、実践 したのだとぼくは考えている。そしてそのような水平線を、オランダの海辺の町デン・ハーグの新教会のス ピノザのレリーフの傍らで、ぼくは晴れやかに夢想していた。 このたび訳出した『スピノザ ある哲学者の人生』の表紙カバーの画像は、そのときの記憶を鮮明に呼び 覚ましてくれるのである。 2012年3月27日 有木宏二
なんで呼びかけ文体なんだろ
105 :
吾輩は名無しである :2012/03/31(土) 10:34:13.13
離れ目おばん=無能盗作屋にスピノザを語る資格は無い。
一種の自爆だな
107 :
吾輩は名無しである :2012/03/31(土) 11:56:18.42
hanareme自爆(笑)
有木って誰ですのん?
109 :
吾輩は名無しである :2012/03/31(土) 16:04:25.42
101のアセンションさんの話読んでて感じるのは。Derrida自身が一冊捧げてる思想家で Levinasっていう人がいるでしょう。『存在の彼方へ』をちらと読んで、これもやっぱり、こうまで してHeideggerを骨抜き(脱‐構築と専門家は言うのか)にしたがっている、その欲望と作業 って何だ、という問を持ってしまう。Levinasはユダヤ人でその家族はナチの強制収容所で殺さ れた。それが大きなどうもモチーフとしてあるらしい。それでいえばDerridaもユダヤ系フランス 人だったですね。ああそうか、と思った。あの一生懸命さ、無理強いさの背景は歴史なんじゃない だろうか。実際にはLevinasが『存在の彼方へ』冒頭で書いてる、存在することの他性、また身代わ りの概念とか、読んでて、これは既にHeidegger思想に包括されてると思う。Heideggerの言う seinは決して主体の思い通りにならない領域であるし、egoと等号できない彼岸性を孕む。そこ は決して主体として堅固でもなければ閉じてもいない。もともと他性は孕まれている。それと、 人間が〜の為と成りうるのはseinの場であるからで、仮に誰々の為、と言ってても、それはsein の為に他ならない。と「根拠の本質について」という作品で語っているわけです。だからLevinas が一生懸命にやっていることは、既に包括されてる。最もこれは違うと思ったのが、seinがego と同じように捉えられて、闘争とか支配の温床みたいに捉えられている。実は、Heideggerに於て 、最も自己的な存在は没交渉的、と言われてる。それが喧嘩になるか、仲良しになるかあるけども、 seinは孤独のお根源、と思うので、そこも?となる。総合すると、ナチ政治とHeidegger思想を 等号してしまい、それは史実からは致し方ないんだけども、それがLevinasの批判の根底にあり 、目を曇らせてる、て思えるわけです。でそのLevinasを仰いでいるDerridaという光景がある。 この系譜というのは、やはりナチとユダヤ人という、悲劇的な運命からくるもので、その意味で 痛々しいし、だけど思想としてみると、やはり?という感じばかりです。
短絡的というかわかりやすい解釈の方が無意識ではあたってたりすることもあるしな
「普遍的なものがある」とするならば「普遍的なものがないという普遍がありうる」ので矛盾だ、って空の論法は 「真理はない」のなら「真理はないという真理もない」となるので矛盾だ、ってのの裏なんだよな 「普遍」や「真理」という主語を考えるか、「有と無」という述語を考えるかの違いか
デリダのハイデガー批判の心理的根拠をナチとユダヤという歴史に設定するのは別にありうると思うしいいが、 だからと言ってハイデガーがナチ党員だった事実は消えまい そうした彼の政治は政治であって思想は思想であり無関係だ、とするならば、 デリダのハイデガー批判も政治や歴史とは無関係でありえよう デリダの方も「私のハイデガー批判はハイデガー批判であり、ナチとユダヤという歴史的事件とは関係ない」と言える
>>109 固有名詞だけじゃなく書名も挙げられて、
具体的な文脈が見える、いい書き込みですね。
確かにレヴィナスもデリダもユダヤ人で、
デリダは『アデュー』という1冊をレヴィナスに捧げてる。
>>36 に書いてあったことへの応答も含めて書くと、
デリダやレヴィナス、そしてブランショも含めて、
不当にもハイデガーを骨抜きにした、とは個人的には思えなくて、
むしろ彼らはハイデガーの魅力を十分に理解し、評価もした上で、
とても真摯に対峙してるように見える。
デリダやレヴィナスがユダヤ人だから、
ナチに負のアンガージュマンとして加担したハイデガーを嫌った、
ということは基本的にはたぶんない(そういう次元では彼らは思考していない)。
ただ、もしハイデガーがユダヤ人で、アウシュヴィッツで死んでいたとしたら、
と仮定してみると、あそこまで批判的に扱ったかどうかとなると、これはわからない。
ハイデガーのナチ問題は、ファリアスの『ハイデガーとナチズム』を契機にして、
いろいろな人が語っているし、デリダ『精神について』もその文脈で読めるものだけれど、
この問題に対して最もリベラルに対応したと思われるのは、
私見ではラクー=ラバルト『政治という虚構』で、
ハイデガーの思想と政治を切り離すのではなく、その関係を掘り下げながら、
救う面と糾弾すべき面をしっかり提示している。
ハイデガーの哲学思想について、彼のナチ党員としての政治活動が関与しているかどうかという議論と、 デリダの哲学思想について、彼がユダヤ系でナチとユダヤの歴史事件が関与しているかどいう議論は、 それぞれハイデガー個人、デリダ個人の心理の話で別々の議論だと思うが、 それがハイデガーとデリダの脳内会話の接点みたいなものとしてあるって言い方なら、同意できなくないな
>>109 への続き
いま『存在の彼方へ』を本棚から取り出してその前置きを見てみると、
このように書いてあった。
「本書で用いられたエサンス(存在すること)という語は、
存在者から区別された存在を表している」と。
レヴィナスは存在(仏語ではエートル、独語ではザイン)という言葉に
あえて本質(エサンス)という意味合いも重ね合わせているわけだね。
そして確かにここでのレヴィナスは、109に書かれているように、
ハイデガーの存在と存在者との間の存在論的差異を扱うにあたり、
その差異を掻き乱す「逸脱(ex-ception)」を主体性のうちに見出すことや、
また、自我の自同性のうちに、他者の身代り(substitution)を認めることを語り、
ハイデガーのいう実存的な存在論を救い上げるというよりは、
受容性、受苦(パッション)としての受動性を語りながら、
他者の顔(ヴィサージュ)と対面することの倫理のほうへと向かう感じだね。
たとえばここで『存在と時間』と『存在の彼方へ』を即席に比較してみることは容易ではないけれど、
ナチス体験がなかったとしたら、レヴィナスはこれほどまでに倫理を語らなかったかもしれない。
>>111 >「真理はないという真理もない」
言葉だけをもてあそぶようにして思考してしまうと
逆に言葉にもてあそばれてしまうことになる。
――「真理とは非真理である」――
あるいは、
――「真理とは女性である」――
そう1世紀以上前に語ったニーチェについて
デリダが『エプロン(ニーチェの文体)』という本を書いているけれど、
真理と非真理の関係について考えるときは、とても面白い本で、
言葉をもてあそぶことの自戒をも与えてくれる。
ただ、デリダ自体は言葉遊びを楽しんでいるところもあって、
「私は雨傘を忘れた」という何気ないたった数語のニーチェのメモから、
ハイデガーばりに深く深く思考していくのだけれど、これはちょっとやりすぎw
でも、そこを多少差し引いたとしても、
ある種の荒唐無稽さと狂気の予感さえも孕みながら、
推理小説のようにスリリングに展開されてる魅力的な本。
これは文学的に読んだほうがデリダの作品のひとつだね。
117 :
ゴミ箱 :2012/03/31(土) 20:13:27.83
>>112 >デリダの方も「私のハイデガー批判はハイデガー批判であり、ナチとユダヤという歴史的事件とは関係ない」と言える
ん?デリダがそう言ったわけじゃないよな?
レヴィナスのハイデガー批判は主に後期ハイデガーの提示した“存在”について 文法的な側面に対して向けられていてこれは『実存から実存者へ』によく表れています。 ただし、両者間には勘違い(特にレヴィナスの方に)があったらしいという見解も出ているわけで、 そう言う意味では『ヒューマニズムについて』以降の展開が重要視されるのです。 また、後期ハイデガーによって開かれた言語の構造性(と主体性の関わり)という問題設定を 積極的に引き受けたのがデリダなので。 ただ、こういった大陸哲学の流れとは別にカルナップ、ヴィトゲンシュタイン、ポパー、クリプキ といった英米系での議論があるので、ジャネットさんの議論はこちらの方に近いんです。 例えばポパーはハイデガーをアリストテレス−ヘーゲルという超越的な“精神”を前提として成立する 全体主義者の系譜に捉えていてヴィトゲンシュタインもその類縁ではないのか?としているわけです。 まあ、ジャネットさんは勘所をよく押さえていますよ。 あの人が構造主義の文脈からアルチュセールをピックアップするのも何となく分かります。 とくに「よびかけ」というのが重要で、これは言語の集中化と分裂によって生じる一種の“啓示”なんですね。
>>117 うん、前半の推論が成立するなら後者も成立しなくね、って話
>>118 呼びかけしている人は啓示したがっているってことか
まあわからなくもないな
>>118 >例えばポパーはハイデガーをアリストテレス−ヘーゲルという超越的な“精神”を前提として成立する
>全体主義者の系譜に捉えていて
ポパーは知らないが、ハイデガーは形而上学的なことを現象学的にアプローチしたわけで、それは
一種の形而上学批判的なアプローチだと思うのだが、どうもハイデガーを形而上学だとは言わなくても
そういった「超越的な“精神”を前提として成立する全体主義者」と考えるのは、
ハイデガーの形而上学批判が否定神学的なもののように捉えられてるってことなのかな
神を否定しているがそれは神を肯定するためなのが否定神学であって、
ハイデガーは形而上学を批判しているが結局は形而上主義者なんだろ、みたいなさ
まあここらへんの話は実際にそう論じている人と会話しないとわからんだろうしどうでもいいか
まあでもそういった哲学村の思想の内容ではなくそいつらの心理的関係を妄想するのって楽しいよねwww
125 :
ゴミ箱 :2012/03/31(土) 21:02:51.39
>>アリストテレス−ヘーゲルという超越的な“精神”を前提として成立する “精神”言い換えればゲニウス的な・・・ >「よびかけ」 Stimmung・・・
ジャネット派が増えつつある気がするw
127 :
ゴミ箱 :2012/03/31(土) 21:04:56.26
>>125 >“精神”言い換えればゲニウス的な・・・
細かいつっこみだがゲニウスは高位に設定されているものだが基本的に一般的なもので、
「超越的な“精神”」ではないと思うけどな
タイのピーとかに近かったんじゃないの
129 :
ゴミ箱 :2012/03/31(土) 21:12:03.34
>>128 どうなんだろう?
物神を否定したものを「超越的なもの」とするなら違うかな・・・
「超越的」ってのもアガンベン流に言えば「例外化」とかになんじゃねえのw 物は言い様的な
131 :
ゴミ箱 :2012/03/31(土) 21:17:16.02
ま、板チなので控えとく
132 :
ゴミ箱 :2012/03/31(土) 21:21:01.99
>>130 「例外」は普通言われる「超越論的」とかとはかなり意味合いが違う気がw・・・
>>132 すみませんちょっとやりすぎました
このへやのかべがみはね♪
>>118 そのあたりはもう少し個別かつ具体的にやったほうがいいだろうね。
『実存から実存者へ』は1947年に出版されてるから
レヴィナスの著作の中では初期のものだよね。
で、『全体性と無限』が61年、『存在の彼方へ』が74年。
この3冊、それから『死と時間』には目を通してるけれど、
レヴィナスのハイデガー批判の本質的なものを
乱暴にひと言でわかりやすく語ってしまうと、
倫理がない=他者がいない、という点だと思うんだね。
そしてそれは単なる文法的な問題や勘違いではなくて、
そこには本質的な両者の差異があるだろうと。
要は、ハイデガーの存在論の手前でレヴィナスは、
実存と倫理を問題にしているわけだね。
ハイデガーの存在(ザイン)はドイツ語の「ある(Es gibt)」と結びつく。
(ハイデガーは前期の存在の問いをやがて捨ててしまうけれど)
Es gibtを直訳すると「それは与える」となり、ここで存在と贈与の問題が深く関係を持つ。
この問題系を扱ったのがデリダ『時間を与える』で、モース『贈与論』を参照しながら、
時間と贈与、そして存在のテーマに深く切り込んでいく。
一方の、レヴィナスはフランス語の「ある(il y a=イリヤ)」を持ってくることで、
ハイデガーの贈与的な「ある」を「場を持つこと(イリヤ)」と批判的にずらす。
といっても場を持つことは、ハイデガーの性起と関係があるけれども。
135 :
ゴミ箱 :2012/03/31(土) 21:24:17.62
俺も部屋に戻ろうっとw
>>118 >>120 あたりにある「呼びかけ」のテーマは、
まずデリダの責任=応答可能性という概念があるね。
そしてアガンベンが『言葉と死』で示したものもまた、
ハイデガー、ブランショ、デリダが提示した文脈上にある。
「いかなる〈声〉によっても呼びかけられることなしに、
言語活動のうちにとどまりつづけていること、
死の声によって呼びかけられることなしにただ単純に死ぬこと、
これはおそらく、もっとも深淵的な(=底なしの)経験である。」
>>121 ハイデガーと形而上学批判の問題系は、
まずハイデガーの『ニーチェ』(平凡社ライブラリー)に端を発してる、
(というか、ニーチェにまで遡行する必要があるのかもしれない)
ニーチェはプラトニズムに代表される形而上学を批判したけれど、
ハイデガーはそのニーチェを最終的な形而上学者として見てしまう。
そして今度はハイデガーのほうが形而上学者として批判されるわけだね。
つかジャネットってハイデガー批判派だっけ
>>134 >ハイデガーの存在(ザイン)はドイツ語の「ある(Es gibt)」と結びつく。
>(ハイデガーは前期の存在の問いをやがて捨ててしまうけれど)
>Es gibtを直訳すると「それは与える」となり
>一方の、レヴィナスはフランス語の「ある(il y a=イリヤ)」を持ってくることで、
>ハイデガーの贈与的な「ある」を「場を持つこと(イリヤ)」と批判的にずらす。
本来的にイリヤ(…がある)に対応するのはエス・ギープト(…がある)
ただしハイデガーはギープト(与える)と再規定しているのでイリヤを(与えられている)と訳したわけですね。
これに対してレヴィナスはイリヤは(ある)であるとして、突っぱねたけれども
ハイデガー研究者によるとそこには誤解があり、結局その後のハイデガー哲学の展開である×seinでも明らかなように
この場合の“与える”とは言語の構造化によって招命されるものではなかったか?
であるならば、そのような意味で後期ハイデガーは原構造主義的だったと言われているわけです。
まあ、ハイデガーはキルケゴールから影響を受けた実存主義者でもあったので
実存主義者ハイデガーの“与える”は単純にキリスト教的贈り/与えられる
といった授受関係で考えられるのかもしれない。
であるならばギープト・与える(=光)に対してイリヤ・ある(=夜)を対置したレヴィナスは正しかったとも言える。
>>136 >「呼びかけ」のテーマはまずデリダの責任=応答可能性という概念があるね。
いや、もともとはキルケゴールなんですが。
ただし、ユダヤ神学における神への対応者としてのユダヤ人というのが起源でしょうけどね。
レヴィナスはこれを他者への応答という形で倫理学に持って行ったわけですよ。
そこで他者(=外部)の思想が生まれる。
>>138 >この場合の“与える”とは言語の構造化によって招命されるものではなかったか?
>であるならば、そのような意味で後期ハイデガーは原構造主義的だったと言われているわけです。
きれいにまとめてるな
いや俺もハイデガーは構造主義者だと思っているが、簡潔だなあと
感心してるって意味な
>>140 のような解釈の主犯格としてラカンがいる、と
俺正直ラカンつながりでしかハイデガーしらんし
>>137 本人は自分でドゥルージアンだ(った)と語ってたよ。
現代の思想家の中では1〜2番目に読んでると。
ミニハンは上のほうで自分には「デリディアン的なところがあった」
と語っていたけど、どうなんだろうw
>>138 構造主義ということで個人的に理解しているのは
その元にソシュールの言語学における言語構造があるということで、
バルトは言語以外のものも含めた記号論としてそれを展開し、
レヴィ=ストロースは未開民族の神話においてそれを持ってきた云々…
ということだろうと思う。
で、ハイデガーの場合は語源学的な身振りがあって、
存在(ザイン)という語に×印を付けて抹消するとき、
レヴィナスが語るように、ハイデガーは存在の運動を見ていたと思うし、
ここは個人的にはとても面白いところだと思うけれど、
実はその抹消自体は残余として残され、デリダが「痕跡」ということを語るときに
大いに示唆を与えただろうと思いますね。
こう見てくると、今初めて思ったことだけれど、
レヴィナスよりもデリダのほうがハイデガーを救っている気がする。
>>142 ハイデガーは大文字の“存在”なんかについても指摘していたので
「形而上学について」や「ヒューマニズムについて」から構造主義者に転回したとされています。
後期ハイデガーは侮れないんですよ。
そしてこれをヴィトゲンシュタインと絡ませる格好で論じたジャネットさんはセンスが良いんですよ。
実際、イギリスにはそういったテーマで本を書いた人がいるわけで。
>>143 >構造主義ということで個人的に理解しているのは
それは狭義の構造主義であって
構造主義なる用語がつかわれたのはブルバキのような数学者集団が最初だと思いますが?
また、ローティによるとこういった知の近く運動は19世紀後半から20世紀初頭に起こったとされています。
確かに、パース論理学などにも似たようなモチーフは出てきますからね。
>>139 ユダヤ教的なテーマはレヴィナスやデリダにはあるでしょうね。
デリダの場合は語源学的な戯れからの
レスポンサビリティ(応答可能性としての責任)ということを語っていて、
これは「歓待」というテーマや政治的な「友愛」にもつながっていきます。
>>144 うーん、ブルバキのことはよく知らないのでそのへんは何とも。
ウィキペディアにはブルバキを含めた記述がありますが、
そのへんは構造主義をどう括るかによるでしょうね。
個人的にはハイデガー『ヒューマニズムについて』を読んで
構造主義者だと感じたことはなかったけれども。
イギリスの具体的な著書名やローティの本のタイトルわかります?
たぶんローティの積ん読本は数冊あると思うので。
>>138 への続き
デリダが存在と時間と贈与を絡めて論じるとき、
そこにはドイツ語の「ある(Es gibt)」だけでなく、
またレヴィナスの「ある(il y a=イリヤ)」だけでもなく、
プレザンス(現前、今)としての贈り物、
英語のプレゼントという言葉も絡んできて面白い!
しかもモース、レヴィ=ストロース、ベイトソンも援用され、
人類学的な贈与(don)も思考対象になるというワイドな展開。
ここで要約してしまっては味気なくなるのでやめますがw
非常にスリリングな論述を行っています。
これもまた推理小説的な、読む面白さのある作品。
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「呼びかけ」がえらい宗教的な話になってるのはなぜなんだろう
俺の脳内では「コミュニケーション」の範疇の話で心理学化しちゃうんだよなあ
まだデリダの方が話がわかる
>>144 侮れなさで言うならジャネットが侮れないだろw
死んでる外人なんかより明日批判してくるかもしれないジャネットの方がwww
150 :
吾輩は名無しである :2012/04/01(日) 01:03:30.44
part1の1時間14分くらいから柄谷批判
マル激トーク・オン・ディマンド 第572回(2012年03月31日)
5金スペシャル
3・11から1年+3週間
−今考えておかなければならないこと
ゲスト:津田大介氏(ジャーナリスト)、萱野稔人氏(哲学者)
http://www.videonews.com/on-demand/571580/002356.php part2の23分頃から萱野のポストモダン批判
part2の32分頃から萱野の資本主義批判の批判
part2の43分30秒頃から萱野の痛烈なポストモダンの批判
萱野「ポストモダンがもっとも言ってることとやってることが違う」
>>150 最近はポストモダンの意味が言ってる人で違いすぎてあまり意味を考えないようになった
まずその人の考えるポストモダンとは何かを確認してからじゃないと
めんどくさいから(相手もめんどいだろう)あんましないけど
「ポストモダンの意味」すらただひたすらずれていると
まあ哲学概念なんてそんなもんで哲学史とは概念解釈がひたすらずれていく過程だとも言えるんだよな、むしろ
ここで宗教的な話になっている「呼びかけ」とは単なる心理学的コミュニケーションの話ではなく、
>>32 的な「意味の統一志向」とでも言うべきものなのかな
そう考えると形としてすっぽりおさまりそうではある
ポストモダンの次はイデアとかって古典にループしたりすんじゃねwww
155 :
つくだに :2012/04/01(日) 17:34:21.42
1960年創刊の「テルケル」という雑誌についてどなたか詳しい方いませんか? ポスト構造主義と関係があるとか。概要を教えて下さいな〜。 執筆陣に興味があります。
テルでーす ケルでーす
二人合わせて
テルケルやで〜 よろしくな!
いやしかし花粉症のシーズンでんな
なんでやねん!
161 :
吾輩は名無しである :2012/04/01(日) 22:14:20.23
ヌー 笑
>>148 ジュネ特集号か〜。
パネルディスカッションはちょっと読んでみたい。
>>155 「テル・ケル」はソレルスとアリエによって創刊された雑誌だね。
ソレルスを中心に、最初は前衛的な文芸誌として出発して後に思想的な雑誌になっていった。
ヌーヴェルクリティック、構造主義、記号論、脱構築と関わりがあったけれど、
ソレルスの奥さんになったクリステヴァの影響があったのかもしれない。
執筆陣はクリステヴァのほか、バルト、バタイユ、デリダ、ファイユ、フーコー、
トドロフ、ジュネット、リカルドゥー、ボンジュ、ブーレーズも書いたらしい。
1982年までスイユ社から出てた。
最終的にはガリマールに移って名前も「アンフィニ」に変わったけど。
出版社ニュースソース→
http://www.gallimard.fr/collections/infini.htm
>>78-79 の解答がないようなので「大ざっぱ」に
>>77 の考え方を解釈してみよう。
>>77 の脳内ですでに位置付けられている
「現代思想とは自分がオナニーしてるところにやってきて、「それ気持よくないから」って教えてあげる商売?」
という文章は、「現代思想についての自分の主観」ということだろう。
それが「大ざっぱ」で「詰めたい」からここで話を聞くことで「確認」しようとしたと。
これは
>>77 に「主観より客観が本質的」という無意識があったのではないだろうか(ここ「大ざっぱ」です)。
つまり、自分の「現代思想」に対する「主観」が「大ざっぱ」であるゆえに「客観」を聞いて「確認」しようとしたという仮説。
この仮説を採用して、
>>73 の
>とりあえず今言ってる「現代思想」はまず客観的なものとして提示された解釈っていうのが前提にあって
>それをズラしていくことでその客観性を無効にするものであるのに対し仏教的空は実体の無さを直観するものだと
>思ってたから。
という言説を考慮してみよう。
まず「空」とは「実体の無さ」と言うより「本質の無さ」だと中村元は言っている。
>>73 は「客観の方が本質的」だと思っている(という仮説をここでは採用した)。
であるならば、「より本質的な客観」を「ズラす」「無効にする」ことが「空」という「本質の無さ」を示すことになる。
とはいえ「本質の無さ」すなわち「客観性を無効にすること」とは言えないと思うが。
まああれだ、「本質の無さ」の一つの症状として「客観がズレていく」ということがあるって話で、
逆に「本質性」を隠蔽保持するために「客観をずらす」こともありえような。
そういう人は「主観の方が本質的」と思っているのだろう。
俺もこっちタイプであって、ここは中観派に問うてみたいところだが。
つまり、「主観の方が本質的」も「客観の方が本質的」も双方否定するのが「本質の無さ」としての「空」ってわけ。
「主観」や「客観」にあたかも憑依しているような「本質性の無さ」のが「空」であって、「実体の無さ」ってわけでもない
のだよね。
むしろ、「主観の方が本質的」や「客観の方が本質的」などとする「本質性」なるものの「実体が無い」、って話。
>>49 でも書いてたけど、西部劇的な「空を空としないカッコよさ」もあると思うんだけどね、俺は
「確認」というか「検証」は大事だと思うよ ただし「客観の検証」も「主観の検証」も両方やればいいんじゃね、と 「客観をズラす」のは「客観の(批判的)検証」でもありうるだろう、デリダとかなら
>>73 の言う、君の主観において、「現代思想」が「無効にしている」「客観」とは、君の心理における「客観の本質性」なのではないかね
169 :
つくだに :2012/04/02(月) 06:24:43.64
>>162 >>163 わお!ありがとう!
やっぱ物知りアセンションに尋ねて正解だったな〜。
リンクの数々これから読んでみます。
170 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 21:27:59.23
113でアセンションさんがLabartheの『政治という虚構』を挙げていたのを見て、私も幾らか 目を通してみました。最も評価できるのは、この問題について間違えないようにするためには、 Batailleの超‐ファシズム、また、Heideggerの原‐ファシズムとは何かを考えることなしには ない、と同書の第十章 千年の時 で語っていることでした。これは私の感じ方と同じで、全く異 論のないところです。この原‐ファシズムについてlabartheが語っているところを抜粋すると 《いわゆるファシズムというものにおいて、哲学的には何が問題なのかを思惟することを私たち に教えてくれたのが、もしもHeidegger自身でなかったならば、「原(アルシ)‐ファシズム」につ いては語り得ないであろう。Beitrage『哲学への寄与』から抜粋されたノートーこれは『論文と 講演』のなかに「形而上学の克服」という題で発表されたーを再読していただきたい。だれが、 私たちの時代にあって、これほどまでに、これほどの「深さ」に達するまで、ファシズムについてー したがって私たちの「世界」についてー語ったものがいるだろう。》(203頁)
原父殺害神話じゃのう 「哲学的には何が問題なのかを思惟することを私たちに《教えてくれたのが》」あたりが
単なるファシズム繋がりだが、構造主義ってのは二項対立を解析道具として解析する手法であって、二項対立された どちらかに価値を持たせるものではないのだが、このどちらかに(どちらかは限定しないで)価値を持たせようとすることが ファシズムなるものの原理だ、とした構造主義者がいた。
173 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 21:46:36.24
デリダの二項対立批判も二項対立そのものというより二項対立化させてどちらかに価値を置くことを批判してたわけだろ もちろん構造主義者の中にも二項対立をただの道具としてではなく自分がどちらかに価値を置いている主張の道具として 用いていた奴もいたろうがさ、 デリダは二項対立そのものの批判までいったところがポスト構造主義なのだろうが。 で二項対立自体は道具とする構造主義も二項対立はただの道具なので極論すれば「わからない」って言い分になるのな。
>ダブル、トリプル・ミーニング。 ああうん、構造主義の「二項対立はただの道具でありどちらかに価値を置くわけではない」というのは、 ファシズムの亡霊に取り憑かれている人からすれば「ダブルミーニング」となろう。 構造主義にもいろいろあるけどね。 ポスコロなどは「植民地/被植民地」という二項対立の後者に価値を置いているとも見られるが、 結局はどちらに価値を置くか、平たく言うならどちらが正義かという価値観への批判でもある。 言語学的観点なら言葉とは多義なんだから「複数ミーニング」が当たり前なんだがな。
「植民地支配/被植民地支配」か、ごめん
177 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 21:58:22.34
ハナレメ笑
178 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 21:59:02.56
あと、この機会にDerridaの「差延」も読み返してみたんですが、こちらのはやはり感心しなか った。たしかに存在論的差異が現出するとかはなく、忘却されるとはHeideggerは言うし、また、 痕跡もまた既に言われている。しかしだかたこそむしろそれは想起をもたらし、思索させる。これ がHeideggerのスタンスですね。そこで差異の忘却や痕跡にはウェイトが過重にかけられるこ とはない。その変換がDerridaの痕跡論で、現前者は痕跡の痕跡。という言い方になる。そこで Heideggerのモチーフー忘却の想起、奪い返しーは見事にずらされてしまう。それはDerrida がその前に書いてる無意識批判と同じ論法で。あれも無意識とはかつてもこれからも現前しない 、という論法でずらされるわけで、不在と消去は始めから書き込まれてる、となる。そしてにも 拘わらず、FreudもHeideggerも、現前を延期として保留する。そういう論法となる。 私の感じでは、Derridaの根底にはSartreの出した〈自由‐責任‐主体〉の哲学が、ずっと 息づいていたんじゃないか。脱‐構築の根底にあったんじゃ、て思えるんです。Sartreは あるインタビューで、こう言っています。 《インタビュアー:ところがハイデッガーの場合には、言活動(Parole)への呼びかけ の完全なイニシアチブを持つのは結局のところ意味されるもの、つまり『存在』なのでは ないか。 サルトル:そうです。したがってそれはわたしにとって、疎外をあらわすものなのです。( 略)わたしが言いたいのは、「存在」に向かって開かれているものを「存在」自体が条件づ けている限りにおいて、わたしは「存在」を拒否するということなのです。》(『シチュアシ オン \』42頁 「作家とその言語」) Derridaの脱‐構築の根底にSartreの〈自由‐責任‐主体〉の哲学があったんじゃないか 。あのずらかしが指示するのはHeideggerの真意とかでなく、むしろその呪縛からの 逃走だと思うんです。
複数ミーニングの否定だとすれば単一ミーニングを求めていることになるので、それこそ「意味の統一化志向」であり、 それこそがファシズムの心理だと思うんだがな
ハイデガーはその呪縛の中でその根源に向かってはいるだろうなw
>《インタビュアー:ところがハイデッガーの場合には、言活動(Parole)への呼びかけ >の完全なイニシアチブを持つのは結局のところ意味されるもの、つまり『存在』なのでは >ないか。 >サルトル:そうです。したがってそれはわたしにとって、疎外をあらわすものなのです。( >略)わたしが言いたいのは、「存在」に向かって開かれているものを「存在」自体が条件づ >けている限りにおいて、わたしは「存在」を拒否するということなのです。》(『シチュアシ >オン \』42頁 「作家とその言語」) これなんかは「シニフィアンの恣意性」ではあるな。 シニフィエがシニフィアンを規定することはない、という。 サルトルの方が構造主義者だったりするのかねwww
>もちろん構造主義者の中にも二項対立をただの道具としてではなく自分がどちらかに価値を置いている主張の道具として >用いていた奴もいたろうがさ、 これで思い出したが、フロイトは自身の精神分析学を研究道具だとし、宗教批判たる「幻想の未来」の中で、自身はそれを 道具として宗教批判の立場にいるが、宗教を擁護する立場の人間もそれを道具として論立てすることができる、みたいな ことを述べている。
183 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 22:14:09.23
ミニハンが必死に背伸びして話題に絡もうとしてるのが泣ける
意味するという行為は意味する者に対してのみ送り返してやればよい
>>183 絡もうというか思考の刺激にはなったなw
「シニフィアンの恣意性」とかは「空の破れ」ではあるな
187 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 22:23:20.04
水牛顔(笑)
意味されるもの、「存在」とは、意味するものがあるから意味されるものなだけであり、「存在」=意味されるものとは 意味する者の主観においてのみしか成立しない、ってことだな
サルトルの言ってることも「存在」の「意味からの逃走」ではあるのか 逃走というか「存在」が「意味すること」から断絶させることっぽいが、サルトルは なるほど、デリダと繋がった
190 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 22:29:02.11
↑ハナレメ=低脳盗作屋(笑)
>単なるファシズム繋がりだが、構造主義ってのは二項対立を解析道具として解析する手法であって、二項対立された >どちらかに価値を持たせるものではないのだが、 これ東ゆみことかもそんなこと言っていて陰陽道とかを引用(陰陽なだけに)していたが、構造主義と道教って似てるんだよな。 分が人類学としての構造主義の根源をたどれば「金枝篇」とかだろ。 道教も仙術思想からの発達とされている。
まあフロイトも「宗教/科学」という二項対立化させて自身を科学に価値を置く立場に立たせたわけで、 東ゆみこは逆に「神話/科学」という二項対立化させ自身を神話擁護の立場に置いているのだが、 東は構造主義手法の二項対立化を陰陽道などに求めそれらを「神話」に一括させており、ここが 構造主義者の東の「神話」と、フロイトが批判しているユダヤ-キリスト教的「宗教」とは一線を画すとも 言えなくもないが、フロイトは「トーテムとタブー」や「自然の擬人化」という宗教の一面込みで宗教批判 しているので、東の考える「神話」もフロイトにとっては批判対象となりうる。 まあ純粋に二項対立を道具としてだけに使うのは難しいってこったな。 人は社会や政治から完全に離脱することはできない。
「人は社会や政治から完全に離脱することはできない」=「自然を完全に擬人化せずに見ることは難しい」ということだな
>「存在」に向かって開かれているものを「存在」自体が条件づ けている限りにおいて、 >わたしは「存在」を拒否するということなのです. まあ、決定論に対する抵抗であり、そこで“自由”を目指す“意志”が担保とされる。 一種のヒューマニズムですね。 当然この“自由意志”は一般化を拒むもの(実存)として規定される。 ただし、ハイデガーの“存在”とはそれ自体が否定性を含んだ与件(与えるとはこの意味)であり“対象化”されるものでもない。 というのも、この“存在”とは「大地と天空、神々しいものたちと死すべきものたち」という 「四つの方位」と交錯から成る「四つなる方域」として考えられるものだから。 つまり一種の交差点とも言うべき“場”として把握される。 また、言葉に関してはプラトンのように話し言葉を重視するのではなく、 書き言葉を意志伝達の“道具”としてではなく“存在の住み家”と考え、哲学や芸術の意義をそこに見出す。 というのも“発語”とは“呼び求める促し”によって「言葉」として到来し、 「言葉」として(断念しつつ)言表することによって「語の高き支配」を認めさせ(そして存在を成立させ)るものであり、 かかる意味合いにおいて書き言葉によって入念に言い表されなければならない。 そこでハイデガーはプラトンでは無く、むしろアリストテレスの詩学や倫理学を応用する。 簡単に言うとハイデガーの想定する“存在”とは様々な諸力が交差する“場所”的なものであり、多分に生成的なものであるが、 その達成段階である“発語”においては“書き言葉”という媒体によってそれ自体が独自の価値を有して世界と関わりを持つものでもある。 そしてこの言表によって“自由”が達成される。 “存在”を“経済”、“発語”を“労働”、“書き言葉による言表”を “労働の自己表出としての商品”と読み替えるのならマルクス主義に近いものになる。 しかし、“存在”をアンチ・ヒューマニスティックな与件と捉える存在観からは “疎外”としての“自由”の生じる余地はない。 なぜなら、そのような否定性は“存在”という関係性の中にあって生じるものであり、 “存在”そのものを超越する事は出来ないからだ。
ヤハウェ以外のオーディンやらギリシャ神話だか持ってこようが人類がいまだゴキブリより種として 短い期間しか生きていない事実は変わらない。 「自然の擬人化」をすることで「人類という種は永遠だ」と思わせる心理作用があるのではなかろうか。 フロイトもまたでかい相手にケンカ売ったもんだ。 「自然の擬人化」とか考えなければ東のようにヤハウェ以外の「神話」を考えることで、つまり多神教に 転向するだけで済んだろうに。 しかしケンカのパンチとしては「自然の擬人化」「トーテムとタブー」は弱い。 「信仰という心理」を説明できたとは思えない。 「信仰という神経症の病理」はもっと根深い。
>というのも“発語”とは“呼び求める促し”によって「言葉」として到来し、 ここらへんがインタビュアー曰く 「ところがハイデッガーの場合には、言活動(Parole)への呼びかけの完全なイニシアチブを持つのは 結局のところ意味されるもの、つまり『存在』なのではないか」 ってところか。 それファシストが「俺が支配したがってしまうのはそういう促しがあるからだ」という心理じゃねえの。
197 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 00:02:29.86
「ハナレメ」=「無能盗作屋」の「盗用常習という神経症の病理」はもっと根深い?嘘嘘(笑)
つまり「意味される」「存在」が「俺を意味しろ」と言っているから俺は意味しているだけだ、と。 これあれだな、ヒステリー患者を分析していると、分析家はヒステリー患者の意のままに言動しているのではないかと 思ってしまう分析家の症状にあてはまろうな。
199 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 00:06:37.91
ハナレメの「限界」を論ずるのは止めておこう(笑)
>つまり「意味される」「存在」が「俺を意味しろ」と言っているから俺は意味しているだけだ、と。 まあぶっちゃけ「主人のディスクール」だわな。
ハイデガーが「存在」と「意味」の相互依存性と相互否定性を認めているのは同意するが、 「俺は意味するのは「意味される」「意味しろ」と促すからだ」とするのは、ハイデガーの心理解釈としてはおもしろいが、 そこはどうだろうなあ、わからなくもないけど、ナチと同調した言い訳みたいなものとして。 もっとこう「空と知りつつ空とできない」カッコ悪さ=カッコよさがあると思うけどな、ハイデガーには。 「存在と時間」などは西洋哲学の中でも「空」にもっとも近付いている思考だと思えるが、それをのちに否定するのは、 ハイデガーの個人心理としての「空と知りつつ空とできなさ」ゆえだろう。 ハイデガーにとって重要だったのは「空とできない自分の心理」だったと。 フロイトもハイデガーもこういうところが強迫症だと思うが、フロイトは宗教に対しては倒錯的なんだよな。 まあ「科学という信仰」に対する強迫症だとすればすんなりいくのか。
>ハイデガーにとって重要だったのは「空とできない自分の心理」だったと。 そこがハイデガーのよさだと思うって意味ね
「父親の悩み」なんだよな、基本的に、フロイトもハイデガーも
ミニハンはセルフレスが多いなw 無駄にスレを消費しないで、もう少し自分の中で整理して書き込んでくれよw
>>170 ラクー=ラバルト(L-L)はハイデガーを高く評価してますね。
『政治という虚構』のはしがきでも語られているように、
ハイデガーを読んで一撃を食らったと。
そしてナチズムへの加担を知ってショックを受けたと。
デリダ派ともみなされてるけれど、とても率直な語り口。
ドイツのフランクフルト学派(アドルノやハーバーマス)が
ハイデガーに対してかなり否定的な見方をとるのに対して、
フランスのデリダやL-Lは、ハイデガーのテクストを、
慎重に微細に扱おうとしてる構図が見えます。
(ドイツ人とフランス人の負い目の差がそうさせてるのかな)
ハイデガーの戦中の学長就任演説、そして戦後の沈黙。
――とりわけツェランに対する「哲学的な」沈黙。
そこには譲歩すべき点はないとL-Lは批判しながらも、
ハイデガーの深い思考のうちに「アルシ‐ファシズム」を探ろうとする。
(ただしこのアルシ(原)は形而上学的に捉えてはならないとも)
170への続き アルケー(根源)と深い関係を持つこのアルシ(原)という言葉は、 デリダやL-Lの手前で、何よりもハイデガーに属する言葉のように見える。 私見では、ハイデガーはナショナリズムを拒否しつつも、ゲルマンの民族性、 そしてギリシアに「未だ思考されざるまま保存されているもの」を求めた。 それは存在者の根源としての存在(ザイン)を思考した時からあったし、 やがて初期の存在(ザイン)の問いを放棄はするけれども、 存在(ザイン)という言葉の上から×印を付けたとき、 根源に差異と痕跡の運動を認めたのではなくて、 根源の退きと我々現存在の根源の忘却とを置いてしまった。 アレーテイアにしろ何にしろ、ハイデガーは自分の思考の源泉を 常にギリシアのほうに求めたといえるし、「後方への歩み」を志向した。 固有の根源への志向、ここにこそ「アルシ‐ファシズム」があるんじゃないか、 うまく言えないけれど、そういう見方を持っています。 だからこれは、ハイデガーだけにあることではなくて、 日本人もまたその固有のルーツを辿ろうとするときに、 天皇制や右翼的な神道への傾斜といった見えやすいものだけでなく、 「アルシ‐ファシズム」の要素が忍び込もうとしているのではないか、 その問いを傍らに置くことが必要なんじゃないかという見方。
「民衆」をそうした「意味しろと促し」かつ「意味を否定する」ヒステリー集団のようなものとして捉えるのは 当時の政治学的思想の「空気」としてあったのは事実だろう。 実際フロイトもそういったものとして「民衆」を語っている。 というかそれはローマ帝国時代からある考え方なのだよな。 「民衆が支配されたがっているから支配するのだ」って論法と、 一方で「民衆は支配(意味の統一志向)を否定する」とする論法。 この両面性に文化人類学は着目して、「両面性としてのカーニヴァル」などという概念で表現したりしているわけだが、 こういった両面性を矛盾として捉えてしまうのが西洋思想史なのだよな。
>>178 以上を踏まえて、デリダの「差延 (diff・rance) 」を読んでみると、
178に書かれているように、そこには想起よりも忘却があり、
同一性よりも差異があり、現前よりも痕跡がある(本当は「ある」といえないけれど)。
差延 (diff・rance) におけるズラシは何よりも運動としてあるだろうと考えていて、
たとえばそれはサルトルの脱自的な実存、エク-スタシスとしての実存ではおそらくなく、
(というのもまず自己を前提する手前のエレメントを問題にするから)
むしろドゥルーズの造語である「差異化=微分化(differenc/tiation)」としての運動に、
デリダの「差延 (diff・rance) 」を近づけて読むべきではないだろうかと思ってます。
論法でずらされる、というよりも、ズレの運動がある(括弧つきで)だろうと。
サルトルの言葉を読むと、自己の存在への反抗みたいなニュアンスを感じるけれど。
時間切れで言葉足らずになってしまったけれど
このあたりはまた改めて。
現実界と想像界の重なりたる「他者の享楽」(ここでは比喩として「両面性としてのカーニヴァル」みたいなもんを考えればよい)と 象徴界の重なりたる「ファルス的享楽」(それこそファシズムとか)も、結局は現実と幻想の関わりの極点なんだよな。 ファシストも自己言及の果てには「現実と幻想の関わりの極点」たる「享楽」に行き着くと。 なのでハイデガーみたいな「苦悩するファシスト」は嫌いじゃないwww
ぶっちゃけ両面性とかダブルミーニングではあるなwww
他者の享楽は去勢という象徴界への参入により(独我論における)「外部」となるだけで、 未去勢的な女や民衆により「他者の享楽」という現実との関わり方(相互依存かつ相互否定、ドゥルーズ用語なら「離接」) は保持されてるのよな それこそ「両面的なカーニバル」や多神教信仰みたいなもので ファルス的享楽に向かうファシズムなどにはよい反論材料とはなるだろうが、「現実と幻想の関わり方」というくくりなら 同じ苦悩なわけだ
でここでの「現実」とはフロイトの言う「現実原則」の「現実」でもない ここでやっとドゥルーズの話になるw
DerridaとSartreについて再論すると。まず先のレスで「Heideggerの呪縛からの逃走」と 書きましたが、考えてみると逃走どころじゃなく、Heidegger思想からの解放、と思えるんです 。Derridaが「差延」で書いてることから受け取ることは何かといった場合に、存在と存在者の 差異とかは、元々確定できないもので、というのはこれもまた事後的に為され得るものに他なら ないのだから。元々この差異とは存在の本質を表すものなどではない。そんなものはない。《形而 上学のテキストは同時に痕跡の記念建造物と痕跡の蜃気楼を提示する。》とされるのは、これは Heideggerへの皮肉と受け取れると思います。こういうことを書く者にとって、自らの歴史、 経歴に拘束されてしまうこと、歴史の現成であること、は、存在の乗り越え、無化にとって、疎外す るものとしてあるであろう。それはこの差延という概念の使われ方から伝わってくる。まさに ここで存在から理論上は解放されること。身軽になること。それが狙われていたと思えるんです。
あと、DerridaとSartreの間にlevinasを挟むと、わりと見えやすくなるんじゃないか。とい うのは、存在の他性、別の仕方、他者への倫理を思想したのがlevinasですが、これらは悉く、主体 として考えられてる。やはりHeideggerにおけるseinからいかにして逃れられるか、無化できる か、が重要なテーマで。そこでHeidegger思想を疎外とみなし、敵対視し、〈自由‐責任‐主体〉の 哲学を築こうとしたSartreと近くなる必然性があるように思うんです。 それで、ここでDeleuzeなんですが、詳しくないので余り言えないんですが。ただ、絶えざる 乗り越え、というものを微分線の軌道とも取れるでしょうから、これもSartreと無関係でもない 。ここで挙げた4つの哲学の横断線が何か、といえば、seinから如何に自由になりうるか、解放 されるか、が方法化されている、ところだと思います。その部分で、例えばSartreが乗り越え 不可能な哲学としてのマルクス主義とその党派に加担し続けた。この身軽さを、受け継いでるん じゃないかな、て思えるんですね。少なくとも理論上は可能になってると。Derridaにしろ Deleuzeにしろ、Sartreを高評価してたと思うんですが、それは若い頃に影響もされただろう し、思想的にも無関係ではないと思えるんですね。Sartre哲学の魅力をずっと捨ててはいなかっ たんじゃないか、と。
レヴィナスの方が欲望主義者という意味で苦手だわ
216 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 07:27:52.13
ミニハンいらねーな ロムの邪魔(笑
ウフフ
218 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 08:34:53.61
水牛顔ウフフ(笑)
手元にDeleuze関連の著書がD=Gとして書いた『千のプラトー』と、研究冊子の『KAWADE 道の 手帖 ドウルーズ』しかないのでそれを読んでたんですが。冊子の方に研究者の座談会があって、 そこで萱野稔人がベルクソンの『物質と記憶』が与えた影響を簡潔に語っている箇所を見つけまし た。ちょっと抜粋してみます。人間が何かを口に入れても、食べられるものか否かを瞬時に識別 できることを例として出しながら、以下のように続けています。 《このようにあらゆる物質は、有機体もふくめて、特定の差異を感知する能力によってなりたって いる。そうした能力のもとになっているものをベルクソンは記憶と呼ぶわけです。だから物質と 記憶となる。で、ドウルーズはその記憶を潜在的な過去としてとらえるわけですね。つまり、差異 を感知するさまざまな能力を、それこそ個々の物質へと差異化しながら生み出していくものとし て、潜在的な過去を位置づけるわけです。これが先に言った、差異化の運動としての持続とむすび つく。だから記憶とは、鉄球とか人間の身体とかなんでもいいですけど、世界にあるさまざまな 物質をなりたたせ、存在させる潜在的な原理なわけです。そしてその記憶は、物質が存在している あいだはつねに呼び出され、現動化され、反復されなければならない。言い換えるなら、差異化のは たらきが時間をつうじてつねに回帰してくる。まさに差異と反復ですね。》(p.73)
220 :
【メール】 :2012/04/04(水) 01:59:19.09
ここでの説明を読んでて、これは「潜在的な過去」が現動化され、反復される、それが個々 の物質として差異化される、とされるのは、私が読み取ったHeidegger思想と同じに 思えたんです。そこで改めて『千のプラトー』に目を通すと、そこに描かれる様々な変化が あるわけですが、先に挙げた物質と記憶の哲学を念頭に置くと、すっと入ってくることに 気が付きました。そうすると、この哲学というのはHeidegger思想との横断線はあると 言わなければならない。少なくとも主体の哲学ではない。 ただ、D=Gの特徴であるFreudへの反発は、余計に思える。というのはあれだって、家族 に於て刻まれる記憶に他ならないでしょう。記憶の在りかを家族に限定することには 反対、でいいので、あの理論までもまるごと捨てるのは不自然だしそれこそリアルでない ことになる。そこはD=Gへの疑問として残りますね。ただ、あの変化の哲学の根底にある 時間や歴史への掴み方が、そう奇想天外なものではない、というのは萱野稔人の説明で 分かりました。ところで萱野稔人ってETV「日本のジレンマ」で日本経済とか論じてるん で、そういう人かと思ってたら、Deleuzeも語れる人だったんですねえ。まさかDeleuze 関連の座談会に出てる人と同じとは気が付かなかった。
どうも僕ばっかり喋って申し訳ないんですが、もう一つどうしても言っておきたいこと があります。一人の人間には、誰に言われたわけでもない、しかし身につけてしまった 情態や、嗜好、好き嫌い、また倫理というのがある、と思うんです。HeideggerがSorge (気がかり)として、seinが世界を招来、また将来化する重要に要因に数えていると思う んですが。〈世界‐有限‐単独化〉の動態として事物や物象とも関わっていく。一人の人間に は何故か、何かが気にかかる、また気にかからない、ていうのが有限性として織り込まれ ている。それはどうしようもない性質で、人間のちっぽけさや卑小さをも表していると 思える。しかし、人間とはそううものだ、というまあ思いがあるんです。そういうところか らDerridaなりDeleuzeの思想を眺めてみると、やはりそこで描かれる人間像というの が、軽業師のような自由自在を獲得できているようで、血や肉体や好き嫌いを持った人 間に見えない、ていうのがあります。面白いんだけど、でもどうしてもこの批判は出てく る。それだけ言っておきたかった。文句ばっかりになって申し訳ない。
>>213-214 ハイデガーは存在(存在すること)と存在者(存在するもの)との間に
差異を見出そうとしたけれど、デリダ、そして特にドゥルーズは、
存在すること自体の中に差異化する運動を見出してるね。
ハイデガーの思考においては、「存在」なり「性起」なり、
運動を表すはずのそういう概念自体がまだスタティックであるのに対して、
デリダやドゥルーズは概念自体をダイナミックなものにするために、
「差延 (Différance) 」や「差異化=微分化(différenc/tiation)」という
造語を考えたという点がまずあるだろうと。
その点、レヴィナスの思想から窺える姿というのは、
私見では「最後の実存主義者」という雰囲気で、
世代的に言っても、また現象学や存在論を正当に学んでいる点からしても、
サルトルとはそれほど大きな隔たりはないのかもしれない。
で、デリダやドゥルーズに関しては、ほとんどの著作の中で、
不思議にもサルトルにはあまり言及していないんだね。
ただ、インタビューでは「サルトルは我々のヒーローだった」ということを
デリダは語っていて、ドゥルーズもやや似たようなことを語ってた記憶があるけれど、
思想そのものより現実のサルトルの存在や姿勢は影響を持ったんじゃないかと。
>>219-220 萱野稔人という人のことは知らないけど、アウトラインは間違ってないよね。
そのあたりは、『ベルクソンの哲学』→『差異と反復』という流れで読むと
とてもわかりやすいと思うけれど、そうした60年代の著作を読まずに
『アンチオイディプス』や『ミルプラトー』だけを読んでしまったら、
ドゥルーズの考えていたことを捉えそこなうんじゃないかという気がするね。
で、浅田の影響を受けてドゥルーズに入った場合は、割とそれが多いと思う。
東の影響を受けて、デリダの『絵葉書』から入ってしまうのも同じで、
ドゥルーズの場合は『差異と反復』がカントの『純粋理性批判』にあたるものだし、
デリダの場合は『グラマトロジー』がハイデガーの『存在と時間』に相当するだろうと。
で、ベルクソンとハイデガーを比較すると、
とりわけ『物質と記憶』と『存在と時間』を比較してみると、
たとえばベルクソンにおける潜勢的なものと現勢的なものを
ハイデガーにおける存在と存在者の関係に近づけて読むことはできるかもしれない。
ただし、あくまでもそれは関係における形式的な接点であって、
内容的な、つまり質を見てみると、うまくつながらない印象はあるね。
そしてそれは、ベルクソンの影響を受けたドゥルーズと、
ハイデガーの影響を受けたデリダの差、といえるのかもしれない。
両者の異質性を保持したまま、アレンジメント(アジャスマン)を試みるのは
有意義なんじゃないかと思うんだけどね。
>>221 >血や肉体や好き嫌いを持った人間に見えない
なるほど。確かにそういう批判的な見方は当然あると思うし、
決しておかしいことじゃないと思うんだけれど、
『アンチオイディプス』や『ミルプラトー』を読んだだけではわからない
ドゥルーズの「熱さ」は、『差異と反復』を読んだ時に感じたし、
デリダのほうはといえば、非常に冷静に緻密に、そしてミステリー作家のように、
とても戦略的に(布石や効果を用意周到に考慮しながら)書いているけれど、
そこにはアイロニーやユーモアの要素がないことはないんだよね。
で、ハイデガーが世界内存在を語り、不安(ゾルゲ)を語ったことは、
キルケゴールからサルトルへの流れにおける実存主義的な文脈で捉えれば、
確かに人間的という言い方もできるのかもしれない。
でも、その人間味に思われるものの奥底には、別の暗い人間味というものが、
感じられもするというのが個人的な意見だね。
その暗い面をアルシ‐ファシズムにつなげていいものかどうか、
その点はまだよく考えていないのだけど。
一人の人間に「血や肉体や好き嫌いを持った」部分と「軽業師のような自由自在」な部分があるんじゃね
別に「人間の有限さ」を論じるのは構わないが、それについて何かしら感情的な思い入れを持ち、 他人にその「有限性」を「お前は有限なんだ」と押し付けるのがファシズムの原理だと思える
ドゥルーズ、デリダ、を理解するためには、 ハイデガーを、読んだほうが、いいですか?
228 :
吾輩は名無しである :2012/04/05(木) 11:12:16.43
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」 「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」 【殺された石井こうきの発言から】 そうか、統一教会、オウム、朝鮮総連、民団→朝鮮人だらけの民主党 すべて繋がっている
yusuke miyazaki @parages しかし訳すべき思想書は無数にあるけれど、よほどのビックネームじゃないと 、出版社にもちかけても売れないと一蹴されるのが現実。訳書には公的助成金 は出ないし。他方、哲学研究者はいまや外国語で発表しろというプレッシャー に迫られていて、そっちのほうが業績としてはずっと高く評価されたりする。 yusuke miyazaki @parages 思想書や人文書をきちんとした日本語に翻訳することも相当訓練しないとでき ない、すごく重要な仕事だと思うし、それをやってない西洋哲学の研究者は信 用できないと個人的には思ってますが、時間のかかる割にはたいして評価され ないので、いまではだんだん顧みられなくなりつつあるようにも感じる。 yusuke miyazaki @parages なんとか抵抗したい、が、グローバル化に背をむけることもできない。それで も、半世紀後には思想書の邦訳が出ることは滅多になくなってみんな英語で論 文を書いている、というようなことが起きないようにしたい。母語で哲学する という権利は自明ではないということがよくわかる。
熊野純彦「マルクスをどう読むか――時間論としての資本論――」『立命館哲学』第二十三集、平成二十四年三月。 立命館大学での講演原稿です。いささか私秘的なことも語られていますが、こ こでは措きます。興味のある方は直接お読み下さい(なお、三批判書とハイデ ガー『存在と時間』の邦訳が予告されています)。
>>178 の「呪縛」という単語をパクってつらつら考えた。
多分な、この「呪縛」ってドーナツみたいな形してるんだと思う。
ドーナツの内側に「呪縛」されているのが人間。
ならそのドーナツからどう逃れるか、と言えば、普通にドーナツの外側に向かって逃れるか、
中心の穴に向かって逃れるか、となるわけだ、まあ空間的にはどっちも同じ外側なんだけどな。
で、ハイデガーなんかの「原ファシズム」やら「ファルス的享楽」なんてのは、中心の穴に向かっての逃れ方なんだな。
デリダやドゥルーズとかは普通にドーナツの外のふちから逃れようとしている。
レヴィナスはようわからんけどどっちにも行けてないと思うがなあ。
232 :
吾輩は名無しである :2012/04/06(金) 20:28:20.57
-----朝日新聞やNHKが煽る「国の借金」について 日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い 財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」1000兆円近く存在いたしますが、 「国の借金」は存在いたしません。 朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために 局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。 <違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙されて続けている訳です> 数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。 しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、 これくらいの嘘は朝飯前で御座います。 それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。 実質中国共産党の持ち物でありますNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。 -------そのニュース、核心はデマだ。 長文失礼いたしました。----------
>>226 ドゥルーズはあまりハイデガーに言及しないから、
ハイデガーを知らなくても読める印象。
一方、デリダはあちこちでハイデガーに言及するから、
本当は多少読んでおいたほうがいいけれど、
割とハイデガーへの言及の仕方が具体的で、
デリダを通じてハイデガーを学べる面はあるね。
俺もハイデガーは一部しか読んでないけれど、
『存在と時間』『ヒューマニズムについて』
『言葉についての対話』『芸術作品の根源』などは、
面白く読めた。やはり『存在と時間』は濃厚だった。
※デリダ『盲者の記憶』を読む場合は
事前に『芸術作品の根源』を読んでおいたほうがいいかも。
>>229 翻訳者に対する評価や報酬は低いのかねえ…
>>230 『存在と時間』は細谷訳で読んだけれど、
新訳の予定があるのか――。
>>231 理解しがたい漠然としたイメージだなあ。
ハイデガーとデリダにはおそらく、「根源志向」みたいなものがある。
デリダはその根源を脱臼させるにしても、
眼差しのヴェクトルとしては過去に向かっているだろうと。
ギリシア語の意味を援用する語源学的身振りにそれが表れている。
一方、ドゥルーズには「実験志向」ないし未来志向があるだろうね。
「概念の創造によってこれから何を生み出せるだろう」
そんなことを絶えず考えていた印象。
★
>>233 の補足
ハイデガー『芸術作品の根源』を先に読んだほうがいいのは、
デリダ『絵画における真理』もそうだった。
★
>>234 のデリダの「根源志向」について補足
デリダは初期にフッサールの『幾何学の起源』に長い序文を書いていること。
また、『グラマトロジーについて』ではルソー『言語起源論』を扱い、
『たわいなさの考古学』ではコンディヤック『人間知識起源論』について書き、
美学的な作品ではハイデガー『芸術作品の根源』への言及が多い。
『幾何学の起源』『言語起源論』『人間知識起源論』『芸術作品の根源』と、
著作名を並べただけでも、デリダの「根源志向」のヴェクトルが感じられる。
それは決して脱構築しやすいからというだけでなく、
デリダの内的関心の表れじゃないかと思ってるんだけどどうだろうか。
つまり、デリダは意識していたにせよしていなかったにせよ、
アルケー(=根源)の脱構築によって自己批判も行っていたのではないかと。
人間は自由に呪われているのだよ
> 『幾何学の起源』『言語起源論』『人間知識起源論』『芸術作品の根源』と、 > 著作名を並べただけでも、デリダの「根源志向」のヴェクトルが感じられる。 みごとに起源と根源が並んでるなあw 根源志向でげしょねえ
>>236 サルトルね。「自由の刑に処せられてる」って訳も確かあったっけ。
まあデリダも中心の穴に向かってる方かもしれんなー
フロムは「自由からの逃走」だったね。
241 :
吾輩は名無しである :2012/04/06(金) 23:31:01.95
ハナレメー
言葉との関わりということでいうと、 デリダも(ハイデガーも)語源学的にギリシア語によく遡及するんだよね。 で、ハイデガーは「元の意味」によって隠されているものを明らかにする、 ということが感じられる。 デリダの場合も同じような語源学的な遡行をよくやるんだけど、 (コーラとかパルマコンとかイメンなどなど) それによって複数の意味、多義的な方向性を与えているかに見えて、 実はハイデガー的なヴェクトルを持っているんじゃないかと思うんだね。
このドーナツは巨大で、人によるだろうが、まあ大体の人は中心の穴の方が近い、 「ドーナツという呪縛」から逃れやすいように思えるんじゃね
現象学はそういった独我論的な(こう言うと現象学派は怒るんだがw)、「自分の有限さ」を考慮に入れて、 その有限さも一つの条件として思考するメソッドなわけだ しかしレヴィナスはどうもこの「自分の有限さ」についての思慮が浅い気がする
現象学派ってそういう意味では「自分の論は独り言である」みたいな前提があるのよね レヴィナスって「他者」好きじゃん、「他者の倫理のため」みたいなこと言うのがすでに現象学メソッドとずれてる気がする
>>243 ドーナツの比喩はよくわからんヨw
>>243 レヴィナスは「無限」ということを思考しているけど、
神学的な志向、つまり「神」がいるんだね。
主著とされる『全体性と無限』は特に。
その点、『死と時間』はそれが弱められてる気がして好きだな。
そういった意味ではレヴィナスの方が軽業師みたいに思えるんだよな 「呪縛に囚われていること」とは反面安心感となる 「呪縛から逃れていること」である「自由の呪い」ってものがあるんだよ
248 :
吾輩は名無しである :2012/04/06(金) 23:42:50.05
思慮が浅い離れ目の駄弁(笑)
249 :
吾輩は名無しである :2012/04/06(金) 23:45:36.30
離れ目=無能盗作屋は自分に呪いをかける。 「妄想に囚われていること」
>>245 レヴィナスはやはりナチズムに対抗するために思考したって面があると思うよ。
それゆえに他者について語り倫理について語ったわけで。
ハイデガーに批判的だったのもそういう理由はあるだろうな。
>>247 うーん、よくわからんw
レヴィナスの何を読んでそういう感想が出てきた?
呪縛を呪縛と言わなければ、洗脳を洗脳とまったく気付かない方が、幸福だろうよ
ドーナツの穴に接する(大体の)面と、外側の面ってのは、トポロジー的には等値なんだよな 中央の穴も外側の空間も同じ繋がった空間
253 :
吾輩は名無しである :2012/04/06(金) 23:51:12.36
離れ目=無能盗作屋のラカン解釈は殆どデタラメ(笑)
>>251-252 たぶんミニハンだろうけどw
独り言なら何をどう語っても構わない。
ただ、他者と対話するような場所においては、
できるだけ具体的な文脈を提示したほうがいいね。
ミニハンの書き込みにはほとんど書名が出てこないんだよ。
固有名詞しか出てこない。
ハイデガーという固有名詞にも前期と後期で差異があるし、
レヴィナスにしろ誰にしろ、多かれ少なかれ作品は多様だからね。
ドーナツの内外も相対的なものでしかない
ドーナツの内も外も呪いですがな ほんにこのよはじごくやでー
257 :
吾輩は名無しである :2012/04/07(土) 00:06:43.97
離れ目=ミニハン(笑)
>>233 アセンションさん☆
ハイデガーの『存在と時間』、
読んでみるよ^^
どうも、ありがとう^^
アセンションさん、聞いてくださいよ〜、
今日、デリダの、『シボレート』、アマゾンさんの、古本で、
買ったんですよね、
ところが、ところが、
赤線引きまくり、ページ折れまくり、
レヴィナスの、『タルムード新五講話』、
の時と、同じ経験です(T0T)b
「国の借金」について 日頃メディアや、反日工作員が必死になって「国の借金」という単語を使い 財政破綻論を展開させていますが、現実、現在の日本には「政府の借金」1000兆円近く存在いたしますが、 「国の借金」は存在いたしません。 朝日新聞やNHKは、雇い主である中国共産党より日本人に対して不安や政府に対する不信を持たせ、煽るために 局内の共産党員を使用して既に数十年間、「国の借金」を連呼し続けております。 <違和感なく「国の借金が1000兆円もある」という幻想に浸ってしまっている一般の方々は、朝日新聞やNHKに見事に騙されて続けている訳です> 数十年もテレビや新聞から情報を得てきた方々の中には、「メディアが嘘を付く訳ない」と思う、そう思いたい方もいるでしょう。 しかし、長い目で見れば、もともと戦前から日本を転覆させるために存在してきた報道機関ですから、 これくらいの嘘は朝飯前で御座います。 それでも、「国の借金は1000兆円ある」と考えをお持ちの方は、複式簿記の勉強をしてから、日本のバランスシートをご覧ください。 実質中国共産党の持ち物でありますNHK、朝日新聞は、これからも嘘を付き続けます。デマを流し続けます。捏造し続けます。 ---そのニュース 核心は”デマ”だ。 長文失礼いたしました。---
260 :
吾輩は名無しである :2012/04/07(土) 18:51:24.51
>>242 お前はアセンションを語源学的にギリシア語に遡及したことがないのでは?w
261 :
吾輩は名無しである :2012/04/07(土) 21:43:06.04
ハナレメ 笑
912 名前:考える名無しさん :2012/04/08(日) 01:08:54.17 0 大河小説としての吉本隆明――この稀代の作家を、疑似原生林のようなものとして、遠く崇敬する 評者◆丹生谷貴志 913 名前:考える名無しさん :2012/04/08(日) 01:14:20.34 0 孤独と母型――ある種の強固なナショナリストでもあった吉本隆明 評者◆宇野邦一
263 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 17:46:46.89
郷原佳以 @deja_lu 漢字訂正(前ツイート)。古「谷」利裕でした。失礼しました。ちなみに、そ の作品「ライオンと無限ホチキス」(群像4月号)は他の作品とまったく異な るので月評の枠では扱いにくかったのですが、丹念に、また繰り返し読解され るべきヌーヴォー・ロマンです。
264 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 17:50:36.11
郷原佳以 @deja_lu オビに「デリダがこんなにわかっていいのかしら?」と書かれた600ペ ージ強の本を読み終えたが、オビ文が嘘ではなかったということは端的 に凄いことだと思う。もちろんそのうえで思うところがないわけではな いので、明日著者に直接お話伺えるのが楽しみ。
265 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 18:08:06.74
郷原佳以 @deja_lu 金森修の「『脱原発「異論」』への異論」(読書人1/6)に市田良彦が 反論を書くというから楽しみにしていたが、これはいくらなんでも批評 として、いや文章として酷い(読書人1/20)。5枚程度の原稿のうちに 「「はあ?」である」が3度も出てくるような下品な文章は書きたくないものである。
266 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 18:14:11.59
267 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 18:17:37.81
「文学と死への権利」篠沢秀夫訳, 『現代人の思想2 実存と虚無』平凡社, 1967 (« La litterature et le droit a la mort » (1948) in La part du feu, Gallimard, 1949)
268 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 20:30:19.60
La littéralité et autres essais sur l'art de François Zourabichvili (Broché - 30 novembre 2011)
>>258 あぁ〜それは悲しいー。
説明と違ってたのなら、クレーム入れたほうがいいね。
向こうの対応によって、返品もしくは値引きになると思うけど。
俺も以前にミショーの本でそれに近いのがあって、
連絡したら古書店から図書カードが送られてきたよ。
>>260 意味不明w
>>262 「疑似原生林」って何だろ?w
>>264 『デリダで読む千夜一夜』ね。
ちょっと皮肉っぽいコメントなのかな?
>>266 『焔の文学』は改訳してA5サイズで出して欲しいな。
『文学空間』ほかと同じ判型で揃えたい。
>>268 ズーラビクヴィリはまだ邦訳1冊だっけ。
ディディ=ユベルマンのほうはかなり邦訳されてるなあ。
271 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 21:17:00.59
●『魂と体、脳』(西川アサキ)再読。今日は第二部。この本は、ざっくり言えば第二部までは「常識 (実体的紐帯)」の話だ。常識はなぜこんな形をしているのか。常識にはどのような根拠があるのか。 常識はどういう風に自己生成するのか。常識はなぜこんなに強いのか。それが、思弁とシミュレーショ ンによって圧倒的な迫力とともに語られる。それはとてもヘヴィで、絶望的な気持ちにさえさせられ る(実際、ぼくはこの本を最初に読んだ時、途中で体調を崩して寝込んでしまった)。そしてこの本は、 そのような「常識」に対する強い敵意によって書かれているように思われる。で、この後の第三部は、 そのような「強い」常識に対して、どう考えればいいのか、という話にすすんでゆく。常識の必然性 を認めつつも、常識とは違う世界像を成立させるにはどうすればいいのか、という話になってくる。 常識の組成ががっつりと追求されるのは、どうやってそれに抗すればよいのかを探り出すためなのだ。 そして増々ハードになってゆく。 ここで言う「常識」とはざっくり言ってしまえば、多様な視点と一つの実体がある、というような世 界観だ。それは、複数の文化と唯一の自然があるという世界観だとも言い換え得る(だからこの本は、 多文化主義に対する多自然主義---多数の自然と一つの文化があるのだとする人類学の潮流---とも接 続し得るのではないか)。文化相対主義と(唯一の、グローバルな)自然科学が支配する世界と言っても いい。物理的法則が支配し、わたしはわたし一人しかいなくて、わたしの内面は閉ざされていて、一 回だけ生まれて一回だけ死に、死んだらそれでおしまいというような世界観だ。人それぞれ考え方、 感じ方は違うけど、その背後にはすべての人に共通の「客観的真実」が横たわっている、というよう な(この本が「科学」ではなく「形而上学」だと書かれていることには深い意味と「挑戦」が隠され ていると思われる)。この本はそのような「常識」に対する全力をかけた抵抗として存在している。 そしてそれは、究極的には「死への抵抗」という形になると思われる。
272 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 21:18:53.75
●「ユリイカ」セザンヌ特集の平倉圭のテキストがすばらしい。平倉さんが絵画を分析したテキストは、 ピカソの「アヴィニョンの娘たち」についてのものとマティスの「夢」についてのものを読んだことが あり、どちらも面白いのだが、このセザンヌについての分析はとりわけすばらしいのではないか。単純 に、ここまで正確に、絵画を(絵画を観る経験を)言葉によって記述、分節することが可能なのだという ことに感動する(平倉さんは「驚くべきこと」を書いているのではなく、セザンヌを観ている時にごく普 通に起こっていることを「驚くべき精度」で記述、文節している)。分析はここまでつっこまないと意 味ないんだなあ、と。ここでは、セザンヌを観るという経験の内実がたんに説明されるだけではなく、 あるいは、そうそうセザンヌってそういう感じなんだよなあと納得させられるだけでなく、経験が分 されることでより精度の高い経験へと導かれるような分析なのだと思う。意識化されるということが納 得(分かった気になる)に着地するのではなく、それより先へ行くための光として作用するような。 勿論、ここで書かれていることでセザンヌのすべてが説明されるわけではないにしろ(たとえば、セザ ンヌの「塗り残し」をここで書かれている《周期構造の一部》として吸収し切ることはできないのでは ないかと、ぼくには感じられる)、このテキストによって少なくとも今までよりも確実に数歩、セザンヌに近づける。
273 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 21:23:31.77
まだ読み始めたばかり(一章と二章まで読んだたけ)だけど、『魂と体、脳---計算機とドゥルーズで考 える心身問題』(西川アサト)がすごく面白い(「西川アサキ」でした、名前間違えてしまって失礼しま した)。一章、二章では(サブタイトルにある)ドゥルーズというより主にライプニッツ(ドゥルーズに よって注釈されたライプニッツ)について語られる。『シネマ』さえも、ライプニッツへの注釈書とし て読まれる。《…本書の主要な「登場人物」は、ライブニック、ベルグソン、ドゥルーズといった哲 学者達だが、彼らの著作に対する注釈書ではない。彼らの本を今読むためには、どうしても彼らが 「書いていないこと」まで展開してしまう必要を感じるからだ。その道具として、「中枢」という概 念と、そのコンピュータ・シミュレーションがある。》なぜドゥルーズは、「欲望機械」という概念 から(「後退」とも感じられる)「有機体」に移行したのか。あるいは、システムは「中枢」などとい う概念抜きでも上手く働くのに、それでもなお「中枢」がなぜ存在するか。
274 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 21:26:14.16
『魂と体、脳』(西川アサキ)、第六章。六章を読むのに四日くらいかかってしまった。それは、 内容がハードだということもあるが、あまりに恐ろしくて先に進むことに対しての無意識の抵 抗が働いているからではないかと思う。昨年末にこの本を読み始めた時に風邪をひいてしまっ たのも、体が「先へ読み進むこと」へ抵抗していたのではないか。一ページ読み進むたびに、 目の前にある壁がガラガラと崩れ落ちてゆくような感じ。これは、少なくともぼくにとっては、 西川アサキ以前と以後とでは世界が全然ちがってみえる、というくらいに重要な本だ。世界の 描像として、「こういう方向性」には割となじみがあるし、「こんなようなこと」はぼくもずっ と考えてきたのだけど、それで「こんなところまで行ける」ということがすごいのだ。こんな 感触は、九六、七年ころに樫村晴香をはじめて読んだ時以来のことだと思う。
275 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 21:39:38.67
デリダで読む『千夜一夜』
――文学と範例性
616頁
定価6720円(税込)
◆デリダがこんなにわかっていいのかしら?◆
ワードマップ『現代文学理論』『文学理論のプラクティス』などにおい
て、難解な現代文学理論を鮮やかに料理した著者ですが、本書のもとに
なった博士論文の審査会では、「デリダがこんなにわかっていいのかし
ら?」と驚嘆され、本になれば「定番のデリダ再入門になるであろう」
と言われたそうです。本書は、単独性と一般性の結節点である範例性
(「例」に由来する)という単純なキイ概念を手がかりにデリダ思想の
本質を解き明かし、さらにその分析手法が西洋文学だけでなく、東洋の
『千夜一夜物語』の読みにも有効であることを示したものです。デリダ
再入門としてだけでなく、アラビアンナイト論としても抜群の面白さで
す。著者はつくば大学教授。
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1159-0.htm
276 :
吾輩は名無しである :2012/04/09(月) 00:01:59.07
なんだ、バカの集まるスレか
277 :
吾輩は名無しである :2012/04/09(月) 00:05:37.28
ハナレメ 笑
>あるいは、システムは「中枢」などという概念抜きでも上手く働くのに、それでもなお「中枢」がなぜ存在するか。 ネゲントロピー論か なんでこう「中枢があるかないか」って話になるかなあ エントロピー増大が原則とはいえ物理世界でも局所的に自然現象としてエントロピーが減少する現象もある エントロピーかネゲントロピーかじゃないんだよな ドゥルーズなら、中枢される思考とそうでない思考がある それだけの話
思考を脳の電気信号のある反応だとするならば、てんかん発作だって思考だ
生物というシステムも、種の保存などや個体維持などはネゲントロピーなわけだが、エントロピー増大に従っている部分もある たとえば垢やフケなどはそうだ 死への抵抗と言うならいっさい垢やフケだすなよな
以前俺は「思考とは本能だ」と言ったことがあるが、器質的な反応としての思考があり、それはてんかん発作なども含まれるものとして言ったわけだな そういったレベルまで思考なる現象を考慮すれば、思考とは本能と言ってよい 元てんかん患者が断言する
282 :
吾輩は名無しである :2012/04/09(月) 08:42:39.17
ハナレメの戯れ言 藁
いわゆるデジタル、0か1かって考え方は有用だし重要な考え方の一つだと思うけどさー。 その0あるいは1あるは0か1か、つまり有か無かって考え方そのもに対する非論理的な心理作用があると思うんだよなー。 特に哲学畑の人々は。 なんかこう科学者ってなんでもデジタルじゃなきゃ気がすまないデジタル強迫症みたいにマンガチックに描かれたりするが、 物理実験とかやってたら逆にアナログ耐性強くなると思うんだけどな。 数学者は知らん。
理系は基本、定量的にものを見るからねえ。
>>280 いまどきさすがに「種の保存」はないだろw
>>271 「常識」というのもカント的な哲学的概念として扱えるけど、
ドゥルーズは「逆識」ということを語ってる。
良識=ボンサンスでも常識=コモンセンスでもない「逆識=パラサンス」。
>>272 セザンヌの絵画の分析ではメルロ=ポンティのやつは読んだけど、
さまざまな角度から同時に見たように描かれた絵は、
セザンヌの静物画は観ている者を動かすような働きかけをする。
それに対して、ドゥルーズのベーコン論ではやはり絵そのものの動きが重要になる。
流動の思考、ノマド的思考の実践が絵画論でも行われてる感じ。
デリダのゴッホ論、フーコーのベラスケス論あたりは、
あくまでもタブローをテクストとして読み解いていく。
まあアプローチもそれぞれってことだね。
いまどきとかそういうはやりすたりは疎いのですみませんw
288 :
吾輩は名無しである :2012/04/10(火) 18:55:18.37
>>286 お前の言及するデリダやドゥルーズは何十分の一にスケールダウンした
ミニチュアだなw彼等を貶めてるだけだw
>>ドゥルーズのベーコン論ではやはり絵そのものの動きが重要になる。
流動の思考、ノマド的思考の実践が絵画論でも行われてる感じ。
阿呆が図に乗るなw
289 :
吾輩は名無しである :2012/04/10(火) 18:58:23.99
↑ 阿呆のハナレメ 笑
289 鼻ペチャの綿矢w
>>288 相変わらず口だけ番長だな〜
少しは意味あること書けよ、もし書けるのならねw
『感覚の論理』を持っていないなら、まず図書館で借りて、
「8:力を画くこと」だけでも読んでみるといいゾ。
#『感覚の論理』について
ドゥルーズが引用してるパウル・クレーの言葉、
「みえるものを描写するのではなく、みえるようにすること」
これはドゥルーズのテクストや思考自体にもあてはまりそうだ。
また、『感覚の論理』ではアルトーやベケットの演劇が参照される一方で、
意外にもプルーストも援用されているのがドゥルーズらしい。
ベーコンはプルーストオタだったみたいだしね
>>292 ドゥルーズはジョン・ラッセルという人のベーコンに関する本を挙げて、
ラッセルがその冒頭でプルーストの無意志的想起を引き合いに出しているのは、
両者の間には一見共通点が少ないように見えるにもかかわらず、
ラッセルは正しいだろうと語っているんだけど、それは、
具象と抽象をどちらも拒んだベーコンは、
文学におけるプルーストと似た立場だったと語ってた。
プルーストは抽象的な=哲学的な作品を目指さなかったし、
かといって具体的な=物語的な作品を目指したわけでもなく、
純粋なフィギュール(形象)を描こうとしたのだと。
>>291 >「みえるものを描写するのではなく、みえるようにすること」
何だかジャコメッティを思い出した
ジャコメッティと言えばジュネのかっこいい文章があるけど
ベーコンはジュネ大嫌いだったらしいね
>>294 確かにジャコメッティにも通じるところがありそう。
しかし、ベーコンはジュネ大嫌いだったのかあ。
ジュネのジャコメッティ論はなかなか良かったナ。
実はジャコメッティは結構好きで、『エクリ』も読んだんだけど、
ジャコメッティ的な「見ること」というのはかなり異常な体験で、
そのヴィジョンを描き作ることは不可能だと知りつつ、
追い求めていくというストイックな姿勢を感じたんだよね。
部屋にアートをひとつ置けるとしたら、
ジャコメッティの例の細長い彫像が欲しいw
296 :
吾輩は名無しである :2012/04/10(火) 23:31:39.53
「オウムは統一教会をラジカルにしたもの」 「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」 【殺された石井こうきの発言から】 そうか、統一教会、オウム、朝鮮総連、民団→朝鮮人だらけの民主党 すべて繋がっている
297 :
吾輩は名無しである :2012/04/11(水) 00:06:55.59
ジャコメッティってイタリアの人かとおもってたけどスイスなんだねー
>>284 この流れだと心理的にものを見ることの反語として定量的って言ってるのかな
アナログにも心理と物理があるよな
定量的の反語って定性的だと思ってたが、物性物理なんかは定性的に物を見ることなんだけどな
定性的の「性質」ってのが問題なんだよなー たとえば「勝ち負け」とかってのも一つの性質だが、物理世界にそんな性質はない
302 :
吾輩は名無しである :2012/04/11(水) 17:06:23.83
301水牛完全敗北(笑)
303 :
吾輩は名無しである :2012/04/11(水) 23:08:31.88
1 名無しさんにズームイン! [] Date:2012/03/28(水) 08:28:15.02 ?ID:NWYs/2ZP Be:
やらなけゃいけない
電○の各局への圧力が半端ないんです
昨日、一昨日前田AKB卒業ネタやった情報番組全てが前田AKB卒業ネタ中の毎分で視聴率がダダ下がりしました。
各局本音では毎分視聴率ダダ下がりするこのネタははやりたくなかったけど原子力村以上に電○からの圧力が凄いんです
ブーム捏造、枕営業、自社買い、サクラの動員そして
AKBの捏造ブームのために税金が大量に使われている証拠がこちら
やっと気付いた「AKBに電通が絡んでる」ではなく「AKBの正体が電通」な件 その122
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1332925336/ テレビの捏造ブームに騙されるな
304 :
吾輩は名無しである :2012/04/12(木) 21:02:06.11
間主観性の現象学 その方法 エトムント・フッサール 著 浜渦 辰二 翻訳 山口 一郎 監訳 ちくま学芸文庫 文庫判 544頁 刊行 05/09 ISBN 9784480094483 JANコード 9784480094483 定価1,680 円(税込)
>>304 5月のちくま学芸文庫はフッサールかあ。
ちくま文庫では『みみずく偏書記』由良君美があるね。
ほか、注目は
岩波文庫『ブロディーの報告書』ボルヘス
光文社古典新訳文庫『ブラス・クーバスの死後の回想』マシャート・ジ・アシス
あたり。
デリダは南米文学について何か書いてたかな?
うーん、記憶がない。
ドゥルーズはボルヘス、というよりセルバンテスについて、
というより、ピエール・メナールのドンキホーテについて、語ってたけれど。
↑おっさんなに独り言言ってんの?w
307 :
吾輩は名無しである :2012/04/13(金) 01:14:57.91
↑ ハナレメ 笑
ドゥルーズのボルヘス論は何読めばいいですかね
おっさんの独り言には飽き飽きしたなぁ おっさんは書き込んでて楽しい?
310 :
吾輩は名無しである :2012/04/13(金) 15:04:34.36
↑ ハナレメおっさんの独り言 笑
311 :
吾輩は名無しである :2012/04/13(金) 16:23:14.92
↑ ハナレメぼくちゃん 笑
↑ ハナレメおばちゃん 笑
313 :
吾輩は名無しである :2012/04/13(金) 17:06:39.20
厚塗り水牛顔キモイ笑
筒井康隆 大江健三郎(息子の大江光は癲癇の症状を持っている)からは、読売新聞紙上で「社会に言葉の制限があるのならば、 新しい表現を作り、使っていくのが作家ではないか」との批判を受けている。 また大江は、自らを炭坑内の有毒ガスにいち早く反応して危険を知らせるカナリアになぞらえた筒井を「太ったカナリア」と揶揄している[15]。この他、 吉本隆明、 金井美恵子、 浅田彰、 ?秀実、 渡部直己、 村上龍 などから批判を受けたため、筒井は「断筆して以後、『文壇』というものがある、とよくわかった。 去って行く者に追い打ちをかけたり、 つばを吐きかけたり、反感がすごい」[16]「ぼくを中傷することによって自分が浮上することだけを考えている。 今までぼくを認めるようなこと言っていたやつまでですよ」[17]と慨嘆した。 特に?秀実は『文学部唯野教授』の中にエイズ患者への差別描写があると部落解放同盟に注進し、 筒井への糾弾を促した(ただし糾弾には至っていない)。
>>314 あなたマルチ多すぎ。
スレタイくらい読みなさいよ。
ここのスレ馬鹿しかいなさそうだし何したっていいよ
イーヨー。
イーヨがいるからなんにもいらないーよ
319 :
吾輩は名無しである :2012/04/14(土) 00:00:11.43
↑ ハナレメミニハン 笑
Nいないー? EVEオンラインやろうず もしやるならメアド教えてくれれば招待して無料期間7日延長で21日無料でできる!
あ、でも招待したら登録名ばれちゃうのかな
すまん、盛大な誤爆でした・・・
たわいもない戯言ばかりだったな…このスレ もうオワコン
つか板全体がやばくないかコレ
このスレでも勢いで見ると板6位なんだね。 IDない板は寂れる希ガス。
寂れ具合がはんぱないな
面白いかもと見ていたが結局つまらんオナニー見せつけられただけだし 他の人たちもうんざりして離れていったんだろうな 俺もこんなとこ覗いてないで本読みに徹するよ、じゃな
328 :
吾輩は名無しである :2012/04/14(土) 17:37:19.01
_______ __ // ̄~`i ゝ `l | / / ,______ ,_____ ________ | | ____ TM | | ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄)) | | // ̄_>> \ヽ、 |l | | | | | | | | ``( (. .| | | | ~~ `、二===-' ` ===' ' ` ===' ' // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二='' ヽヽ___// 日本 ______________ __ |街宣車両の正体 朝鮮人工作員 .| |検索|←をクリック!!
329 :
吾輩は名無しである :2012/04/14(土) 20:28:12.27
アセンションがいないとくだらんレスしかないな
アセンションは2ちゃんじゃ物足りないんじゃないの? 他にブログとかやってる?
↑ ハナレメ 笑
333 :
吾輩は名無しである :2012/04/15(日) 09:30:28.61
FRENCH BLOOM NET @cyberbloom
ミシェル・フーコーのアーカイブが国宝 trésor national に認定されること
が決定。フーコーは世界で最も引用される哲学者のひとりで、この決定によっ
て、37000枚に及ぶ彼の原稿は国外に持ち出したり、売買をすることを禁じら
れる。
http://bit.ly/HIcXqa
ツルッパゲはスレチなんだよ、死ねよ禿
いい加減、目覚めなさい 日本という国は、そういう特権階級の人たちが、楽しく、幸せに暮らせるように、 あなたたち凡人が、安い給料で働き、高い税金を払うことで、成り立っているんです。 そういう特権階級の人たちが、あなたたちに何を望んでいるか知ってる? 今のままずーっと愚かでいてくれればいいの。 世の中のしくみや、不公平なんかに気づかず、 テレビや漫画でもぼーっと見て何も考えず、会社に入ったら、上司の言うことを大人しく聞いて、 戦争が始まったら、真っ先に危険な所に行って戦ってくれればいいの。
出たねマルチのキチガイ 愚民は眠らせとくに限るだろ? 目覚めよって何だよ? キチガイの考えてることはマジ分かんねぇな
337 :
吾輩は名無しである :2012/04/16(月) 09:06:12.29
ハナレメバレバレ笑
また石原慎太郎老害が犯罪小説で銭儲け地位儲けしてる。さすが神戸のゲスヤクザ。
339 :
吾輩は名無しである :2012/04/16(月) 09:26:57.52
↑ ハナレメ北京原人 笑
340 :
吾輩は名無しである :2012/04/16(月) 09:45:04.70
↑ハナレミニハン笑
341 :
吾輩は名無しである :2012/04/16(月) 09:46:08.48
厚塗り水牛顔キモイ(笑)
342 :
吾輩は名無しである :2012/04/17(火) 11:41:06.43
>>343 みんな、かっこいいなー!!!
サガンさん、って、すごく、美人ですね^^
345 :
吾輩は名無しである :2012/04/18(水) 03:15:26.67
写真の春樹かなり若いよね
北京原人的な…
デリダの猫の名前はロゴス?
Jean-Paul Sartre with “Nothing”にふいたw
349 :
吾輩は名無しである :2012/04/18(水) 11:12:19.05
みんな英訳してあるんだよね。 サルトルの猫君はle neantでしょうか。
みんな申し合わせたみたいに自分の本にちなんだ名前をつけてる
351 :
吾輩は名無しである :2012/04/18(水) 14:19:22.25
デリーロのネコってキツネっぽいw
フーコーの猫の名前ヤバイ
Λ_Λ <=( ´∀`) ( ) 朝鮮人は宇宙一ニダ | | | 〈_フ__フ Λ_Λ < ;`Д´> あ… ( )ポロ | | | ヽヽ (__フ_フ =( ´∀`) 朝鮮人だらけの東京のテレビ局が日夜流す、デマや歪曲に騙されないようにしましょう。
354 :
吾輩は名無しである :2012/04/18(水) 20:57:49.62
カミュとかサルトルとか安易だな
ジャネットさんまだー?
アセンションさんも、まだー?
357 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 08:44:37.85
↑仲間を呼ぶハナレメ笑
糞同士の馴れ合い
359 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 09:36:27.85
↑ハナレメバレバレ笑
↑ヨワリメブレブレ笑
↑ナミダメズレズレ笑
↑タタリメヨレヨレ笑
363 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 09:50:55.47
↑タタリメヨレヨレ笑
364 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 09:53:15.18
↑ヨリメアレアレ笑
365 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 09:54:18.99
↑アタリメクレクレ笑
↑サガリメヤレヤレ
アタリメはマヨネーズしょうゆに七味
↑アガリメヨシヨシ笑
369 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 10:00:29.24
↑ア〜ガリメサ〜ガリメグルットマワッテニャンコノメ笑
370 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 10:02:41.45
↑オチメガタガタ笑
371 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 10:04:42.47
↑サカイメギリギリ笑
372 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 10:31:38.75
↑フトリメブクブク笑
373 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 10:34:57.36
↑シロメクタバレ笑
↑サヨナラバイバイ笑
375 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 10:49:43.61
↑シネブサイク笑
↑アイニクカワユス笑
糞スレ終了 削除依頼出しとけよ
378 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 13:36:33.45
↑ ハナレメ 笑
380 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 17:46:41.75
↑ 自演ハナレメ 笑
381 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 19:47:55.52
↑ 自慰ヨリメ 笑
コテがいないとここはだめだな
國分が今朝の読売新聞に書いてた
384 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 20:33:39.55
↑ バイキンマンコ 笑
385 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 20:51:55.66
國分とか、デリダやドゥルーズに寄生して何時まで飯が食えると 思ってるんだろうねw デリダやドゥルーズに殆ど触れないで世界の文芸批評の時代を 変えたら、世界中で消える人が一杯出て来るw
386 :
吾輩は名無しである :2012/04/23(月) 21:02:23.22
↑ アンパンマンコ 笑
387 :
つくだに :2012/04/24(火) 05:47:50.43
檜垣さんとか小泉さんもドゥルーズ研究家なんだから、 別に国分さんがそこに新たに加わっても不思議はない
國分は残る。千葉は消える。
ドゥルーズの哲学原理(2) ――超越論的経験論―― 國分功一郎 (44)
アセンションさんに勧められた『差異と反復』に目を通してみたんですが。Deleuze研究でどう いうことになっているのか良く知らないんだけど、この作品の第二章 それ自身へ向かう反復 と は、これ自体、ハイデガー有論の継承であり、読み直しであり、忠実な読解でもある、という一事 です。宿命、ヘルダーリン、カント、ヒュシス、といった概念や思想は、やはり継承している、或い は意図せずして継承してしまっているものである。例えば宿命についてDeleuzeはこう書いてい る。《だからこそ宿命は、決定論とはきわめて両立し難く、自由とは、水準を選択する自由である。 アクチュアルな現在の継起とは、それより深いものの表現にほかならない。それより深いものとは 、それぞれの現在が、先行する現在の水準とは異なる水準あるは度において、生の全体を繰り返す その仕方のことであって、しかもすべての水準あるいは度は、共存し、わたしたちの選択に委ねら れており、かつて現在であったためしがない[純粋]過去という基底に属しているのである。》( 138頁)‘かつて現在であったためしがない’‘わたしたちの選択に委ねられている’というとこ は違うけども、というのはハイデガーの場合、反復するものを選択することは不可能だと思うから 。しかし、大枠のところは同一の思考だと思う。《ヘルダーリンは、純粋時間の空虚[な形式]を 発見し、この空虚の中に、神的なものからの逸脱[転回]と、《私》に走る長い亀裂と、そして《自我 》を構成する受苦[受動]を同時に発見しているからである。》といった記述もハイデガーの影響 は濃厚だと思う。これは偶然ではないんじゃないか。実は相当影響されているのではないかと思え ましたけどね。意識されざる継承かもしれないけどね。
読んでて、Deleuze哲学における時間概念の特徴も分かってくるわけですが。人間が内的時間 として、謂わば覆蔵された歴史それ自体が脈絡など持たず、分裂しており、それを〈ひび割れた私〉 とか呼んでいるわけですが、その〈ひび割れた私〉というのは狂気でもある。或は病気でもあると 思うんです。で、それはまさにDeleuzeにおいてはここでの考察の主題で、重要なところだろうと も思える。しかしそこでやはりD=Gにも感じた疑問は同じように妥当して、何故なら進んで狼男に 成りたがる人間などいないだろう。なのに狼男になったとしたら、そこに悲哀があるんじゃないか 。狂気や病気それ自体、異和感をもたらすものじゃないか。得意満面で狼男になっている人間がい るかといえば、いないんではないか。Heideggerが本来性をいうけど、人間にはこれが自分の 本来性なのか、と自問する力動が、自然的にあると思える。Heideggerにも人間における時間の 現成として訳の分からないが現れる瞬間は描いているけど、それは本来性の希求される力動の 挫折が基となる不可解な遡行としてある。そこは自在ではないし、謂わば歴史の価値化からの反動 としての遡行だと思える。反動であり、且つ退行である。しかしその退行は不可避という。ただ、 『「ヒューマニズム」に関する書簡』の中で、《寧ろ〈ここでの〉唯一の思想は、人間の本質を限定する 諸々のヒューマニズム的限定でさえも、人間の本来的な尊厳を未だなお経験していない、という 思想である。》と述べるわけで、そこで『「ヒューマニズム」に関する書簡』はDeleuzeに大きな影響 をもたらした可能性は感じますね。
その「狼男」は「分裂」してないだろ、「得意満面で狼男になっている」ならそれで統合されている。 そういう自我だというだけのこと。
自我の向こう側、未自我とでも言うべきところではなく結局「自分は」超自我しか語れないって自分語りなんじゃねえの
一応言っておくが多重人格みたいな意味で「自我の分裂」を考えちゃいけんぞ 自我とは想像的なものだから複数になるのもありだ 解離性同一性障害と分裂症は別物
そもそもそこらへん理解しないままドゥルーズ=ガタリの言う「分裂」を考えちゃいかんと思うが
まあ君にとって解離性同一性障害と分裂症は同じであるのなら構わんけど 自分語りしていいんじゃよ ただそう自覚しろと それは「客観という主観」でしかないと
ドゥルーズ・ガタリの、 概念「〜機械」って、 何ですか?
398 :
吾輩は名無しである :2012/05/03(木) 00:35:15.58
あげ
400 :
記憶喪失した男 :2012/05/13(日) 15:54:09.65
おれは哲学には詳しくないけど、シッダルタの諸法無我は、カントの物自体と同じだよね
401 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2012/05/13(日) 22:18:35.41
>>401 いいね^^
ジョニー・キャッシュもいる♪
>>356 2ちゃんねるでのHNでの書き込みは今月いっぱいまで。
またどこかでね。
>>390-391 ひと言だけ。R・D・レインに『ひき裂かれた自己』という本があって、
ドゥルーズが〈ひび割れた私〉〈亀裂する自我〉という場合、文脈にあるかもなあと。
>>401 ポール・マッカトニーがなぜ入ってるんだろw
>>404 今月いっぱいと言わずに
即刻消えろ
二度と来るな犯罪者アセ
バイナラ
406 :
吾輩は名無しである :2012/05/15(火) 02:06:59.81
↑ ハナレメ 笑
>>404 まじすか
ますますつまらなくなるなぁこの板
408 :
吾輩は名無しである :2012/05/15(火) 06:13:23.33
>>404 仕事がつまってきたの?
早くアセンションUのコテで帰ってきてね
育児パパ。元気でね。バイ。
410 :
吾輩は名無しである :2012/05/15(火) 10:53:42.03
↑ハナレメ笑
411 :
吾輩は名無しである :2012/05/15(火) 12:21:07.57
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | アセンション葬儀式場→ | |_________| .|| ((( ( ̄ェ ̄)|| | づΦ Y ,,ノ .し ゝ_)
412 :
吾輩は名無しである :2012/05/15(火) 12:22:46.79
【ご冥福を】 アセンションちゃんを救わなかった会 【お祈りします】 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ アセンションちゃんは ┃ . . ┃ 生まれつき頭が悪く器量が悪く性格が悪く ┃ /  ̄  ̄ \ .. ┃ その上ドスケベで変態で自作自演厨で ┃ ∩ / ::\:::/:: \ . ∩ .. ┃ 世俗地位への欲にかられて恥を恥とも思わず ┃ l ヽ∩ / .<●>::::::<●> \ ∩ノ j .... ┃ バレても更に粘着してシッタカし続ける ┃ ヽ ノ | (__人__) | ヽ ノ ......┃ ビョ ー キ で し た。 ┃ | ヽ \ ` ⌒´ / / j ┃ みんなが治すことに協力しようと思いましたが、 ┃ . \  ̄ ───────  ̄ / . ┃ やっぱりツケル薬はありませんでした。 ┃ \ / . .. ┃ 死ななきゃ治りませんでした。 ┃ | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ......┃ ┃ | ありし日のアセンションちゃん . |.... ┃ 善人なおもて往生を遂ぐ。況やアセンションをや。 ┃ . ..┃ (合掌) ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
413 :
吾輩は名無しである :2012/05/15(火) 12:23:19.69
... + /...:. .. .. + /. . +.. . ☆ : .. + .. . .. :.. __ .. . + |: | アセンションの墓 |: | .(二二X二二O |: | ..:+ .. ∧∧ |: | 君のことは忘れないよ・・・ /⌒ヽ),_|; |,_,, _,_,,_,〜(,, );;;;:;:;;;;:::ヽ,、 " "" """""""",, ""/; "" ,,, """ ""/:;;
おれは、アセンションさんが、 いればこその、2ちゃん、だと、思う。 アセンションさんが、2ちゃんの、 可能性を、広げた。
415 :
吾輩は名無しである :2012/05/15(火) 16:53:25.08
立派な葬儀を執り行ってもらえてアセンションも思い残すことは ないだろう。お幸せに
ツイッターアカウント作りました♪ @ascension0826 「まずGAGAとROLAをフォロー。さてと〜@」
>>411-413 >>415 俺、葬儀&墓不要の遺言残してるんでw
あっ、でも「スケベ」は否定しない。
以後何かあればツイッターでな〜
すべてリプする。
何人かの詩人に新しく出会えたのは幸せだった。 2〜3のサイトはこれからも時々ロムることもあると思うし。 ほら話者とはもうちょっと話してみたかったな。
たかが2ちゃんのコテをやめるってだけでなにこの自己陶酔
422 :
吾輩は名無しである :2012/05/15(火) 23:37:20.32
↑ ハナレメ 笑
423 :
ほら話者 :2012/05/15(火) 23:48:31.86
424 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 00:21:03.59
自演
425 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 00:21:55.07
↑ハナレメ笑
427 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 02:25:31.45
アセンションの正体はヌー「一族」バレバレ笑
428 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 03:07:20.15
↑ ハナレメ 笑
429 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 08:23:44.15
↑アセンション=ハナレメ=ヌー「一族」バレバレ笑
430 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 08:58:05.21
↑タチション=ドチカメ=猿人「種族」バレバレ笑
431 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 09:01:13.37
↑釣られたアセンション=ハナレメ=ヌー「一族」バレバレ笑
432 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 09:05:22.70
↑飽きずに釣られるタチション=ドチカメ=猿人「種族」バレバレ笑
433 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 09:08:58.30
↑また釣られたアセンション=ハナレメ=ヌー「一族」バレバレ笑
434 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 09:13:37.60
妖虫殲滅
435 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 10:37:28.77
_
'ィ==ミ 、
ガガガ・・・=i /ノハ))) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
三゙、ll ゚ヮ゚ノ < ぴーぽー ぱーぽー♪
≡;;;⌒`)≡(⊃⌒i⌒l \__________
>>434 ↓ ≡⌒`;⌒`)三'、_(_)_ )
\(><)/ ≡;;;;⌒`)
キャー ドブスゥ〜〜
436 :
吾輩は名無しである :2012/05/16(水) 12:41:29.60
ヘ⌒ヽフ ◯(・ ω ・)◯ \ / |⌒離 │ (_) ノ し'
437 :
吾輩は名無しである :2012/05/17(木) 16:40:11.44
多元決定の現象をもっとも明快に証明しているのは、夢の研究である。 実際、分析が示すところによると、 「夢の顕在内容の要素はそれぞれ多元決定されており、潜在思想のなかでは幾重にも表現されている」 多元決定は圧縮の作業の結果である。 以上はラプランシュ・ポンタリス著・村上仁訳「精神分析用語辞典」・みすず書房・「多元決定」の項目からの引用) @ ある文字列が別の文字列よりも複雑であると言うためにはどうすればよいかという問題を考えよう。 例えば、同じ 60 文字の長さの 0, 1 からなる以下の 2 種類の文字列が与えられたとする。 010101010101010101010101010101010101010101010101010101010101 110010000110000111011110111011001111101001000010010101111001 これらを見比べると、直観的に前者の文字列はより簡単であって、後者の方はより複雑であると感じる。 この直観を明確にするひとつの方法として、文字列を言語で説明することを考えよう。 このとき前者は「01 の 30 回の繰り返し」と 11 文字で説明できる。 それに対して、 後者はそのような簡単な説明が与えられそうもなく、説明するには文字列そのものを含めて 60 文字以上で記す他はないように思える。 この例のように言語による記述によって短くできる文字列がある一方で、 圧縮できないような文字列も存在しており、文字列の説明の長さは 文字列そのものの複雑さと関係していると考えられる。 このことをより形式的に取り扱うためにアルゴリズムという概念を用いて定式化されたものが コルモゴロフ複雑性である。
438 :
吾輩は名無しである :2012/05/17(木) 16:45:21.00
ランダム性 十分長い文字列において「圧縮不能」な文字列は、アルゴリズム化できるような何の規則性も もたないと考えられるので「ランダム」な文字列だとみなせるだろう。 コルモゴロフ複雑性を無限長の文字列に拡張したとき、圧縮できないような文字列は 「アルゴリズム的にランダムな列」 (algorithmically random sequence) と呼ばれている。 正確には、与えられた無限列 x のすべての接頭部分列が c 圧縮不能であるような c が存在するとき、 x はアルゴリズム的にランダムである。 有限列の場合と同様に濃度の議論から、プログラムは可算個しかないのに対して、 無限長のバイナリ列は非可算個であるので、この意味で「ほとんどすべて」の無限列は アルゴリズム的にランダムである。 しかしこのようなランダム列をプログラムによって生成することは 決してできない。 統計的にランダム性をもつように見える列、例えば疑似乱数列や、円周率のような計算可能な超越数、 あるいは有限長で記述される初期状態をもつ記号力学系が示すカオスなどは、 すべてそれらを生成するプログラムが存在するので、この意味でのランダムではない。 ランダムな文字列はその特定の文字列の説明の複雑さという直観を元にしたコルモゴロフの意味では もっとも複雑となるが、ランダムな列のアンサンブルは逆に統計的に特徴づけることがもっとも簡単な文字列でもある。 以上はウィキの「コルモゴロフ複雑性」の項目から。 いうなれば、「現実」は圧縮されない、というのがドゥルーズ存在論に基づく思考の帰結になるのではないか。
夢の多元決定の圧縮は規則性に基づく圧縮なの? そうでないならアルゴリズム的な圧縮とは別なんじゃない? とすれば「現実」は圧縮されない、という帰結は得られないんじゃない?
440 :
吾輩は名無しである :2012/05/17(木) 18:39:38.03
無意識はひとつの言語として(または言語のように)構造化されている(ラカン)
いや構造化とかの問題じゃなくて多元決定の圧縮が規則性に基づくものかってことなんだけど。
443 :
吾輩は名無しである :2012/05/17(木) 19:01:48.24
解釈可能だとされているんだから、とうぜん何らかの「言語のような」規則に基づいているんじゃないの?
444 :
吾輩は名無しである :2012/05/17(木) 19:11:36.06
ぎゃくに訊きたいが、規則性がない「構造」というものが 何かあるんですか?
そもそも言語の構造は恣意的に決定されてるんじゃないの? アルゴリズム的な圧縮は恣意的な決定で行われるもんじゃないでしょ。
446 :
吾輩は名無しである :2012/05/17(木) 19:28:14.31
バカらしくてもう答える気になれない レスしないでくれ
447 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/17(木) 22:01:37.01
〈ランダムな列のアンサンブルは逆に統計的に特徴づけることがもっとも簡単な文字列でもある〉 ドゥルーズ哲学は複雑系科学と親和性がある、 とか言いたがる人は多いが、「リアル」にみれば、 金融工学なんかのほうが、はるかはるかに親和性がありそうだ、といえる。 ちなみに「アンサンブル」というのは、マルクス→ドゥルーズ語では「諸関係の総体」になるんじゃなかろうか
円周率はランダムなんだろうなあ。 構造化ってπにすること?真円を描く事?3.14……と延々と記述すること?
自然とは“構造”である、とするのが例えばレヴィ=ストロースの見解で、 自然界に完全な円は“実在”しないが、イデアルなものとしては“存在”する としたのが構造主義登場以前の伝統的な哲学者の考え方でしょう。 つまり、伝統的哲学者のとる本質論的見解からすれば“自然”とは雑然としたものだったが、 ストロースなどによると未開社会の部族などに顕著なように極めて法則性に支配されるものだった。 ようするに“ランダム”というある種の放縦さは西洋文明社会が生み出した 虚構に過ぎないということをいいたかったんでしょう。 でも本質論的な理念と現実といった問題設定への答えにはなっていないような気がしますね。 結局、“構造”なるものをどのような観点で判定するのか? また、その認識装置の正当性はどこから導きだし得るのか?ということもあるわけで。
>>449 「自然」ではなくあくまで「未開文明の社会」が、な。
レヴィは逆に自身の構造主義が、アルチュセールがしていたような経済学など他の領域に及ぶ事を懸念していた。
「構造主義手法は顔が見える真正の社会にのみ適用されなければならない」
最初に拡大解釈があるのでその次の中断の論理展開が飛躍しているように見える。
どうもこうドゥルーズ=ガタリもそうだが、社会と自然を混同するのがなあ それこそファルスの作用だろと思うが
悲惨なしったか
>>450 >「自然」ではなくあくまで「未開文明の社会」が、な。
いや、晩年のインタビューでは“自然”についても言及していましたけど?
じゃあレヴィのファルス作用だったりするんじゃね
あるいは主人のディスクールの「全体性の幻想」か
『終わりなきパッション』読了
あ、はい
458 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/23(水) 03:11:18.89
@ @〈一つの意識(根源的統覚)における一切の(経験的)意識の客観的統一は、あらゆる可能的知覚の必然的条件である。〉(岩波文庫「純粋理性批判」下巻) むろんこれを A〈一切の経験的意識の統一によって(総体として)一つの意識(根源的統覚)が成り立つ。〉と、「逆に読む」こともできるだろう。 そして、一即多、多即一、とあるがごとく、@、Aは、じつのところ表裏だと、ついでにいえるだろう(こういう話はミニハンさんが得意とするところではないか)。 さて、こういう事を書くと、たぶん、ドゥルーズ・ガタリは次のように書いているから違うんだぁー、みたいなお馴染みの型の反論?をしてくる方がいるかもしれない、 とこれまでの流れからいえる。 〈欲望する諸機械においては、一切が同時に作動するが、しかし、それは、亀裂や断絶、故障や不調、中絶や短絡、くいちがいや分断が併発する只中においてである。 つまり、それぞれの部分を決してひとつの全体に統合することがない寄せ集めの総和の中においてである。〉(河出書房新社「アンチ・オイディプス」第一章第六節) しかし、そういう反論?をするとき、カント的な「時間」という形式を持ち出さず、または、存在の充足理由律 (この場合は、時空間に存在するとは、 位置や継起の関係において規定し合うということ)を持ち出さないで、あるいは、「全ての述語は主語に属する」もしくは「主語とは述語の総体である」、 みたいな、いわば「超時間的」な前提を抜きにして、そもそも「機械が作動する」ための「同時性」に類するものなどありうるのか? といった問いを自らに問うているか。 ライプニッツなら「できない」と云うところだろう。
459 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/23(水) 03:13:41.76
ちなみに、カントは「全体」ということについて二つの種類、即ち、部分の集合から成り、 したがって部分によって初めて可能であるような全体(「総体」のほうが良い言い方かもしれない)と、 部分に先立ち、部分がそれによって初めて可能となるような全体とを、区別して考えている。 前者はその本質からして合成体(Kompositum) であり、部分の総合の完成によってのみ思惟せられる総体(Totalität) である、 としているようだ。後者は、合成や総合の結果としてではなく、まず直観的に与えられ、その如何なる部分もそれの制限としてのみ可能である、 というような全体(Totum) 、なんだそうである。例えば感性形式としての時間・空間は、このようなTotumであるとされる、 というのだ。 あるいはまた、相互作用がなさそうなところに同期性(上の「同時性」と同じ意味にとってよい)がみられる、 ということもあるようだが、それに関しては、ニュートン・カント的な時間形式上での「同期性」、とどこか違うのか、 とも問うておこう。
>>459 そこまでわかってるんならわかるんじゃねえの。
人間が一般に考える過去・現在・未来というのは後者の全体性により把握された「時間」であるというわけだろ。
AOはクラインの部分対象論をやけに持ち上げているが、こういったところから「部分」に着目しているのがわかる。
AOは「全体」を語っていないが、もし語っていたら前者の「全体」という意味で語るだろう。
であるならば、その「同時に作動する」の「同時」とは、後者の「時間」を否定する意味だと、文脈上理解できる。
つかまあAOは論理的に緻密ではなくアジテーション本だと思ってるけどな俺はw
詩でいいなら「瞬間は永遠であり永遠は瞬間である」ですな。
個人的にそういうのはてんかん発作を連想するが。
ゲシュタルトなの
462 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 04:06:33.10
↑ ハナレメカメムシたち笑
よい発想だ
ゲシュタルト崩壊とか考えれば、
>>459 の前者の「部分」がいかに自分たちの平常の認識にないかわかるかと
464 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 04:09:27.34
カメムシミニハン笑
部分に還元し得ない全体性にこそ備わる何か
466 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 04:24:56.62
↑ カメムシ臭いから 笑
467 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/23(水) 04:36:26.05
まあ、そういうことなわけよ。 ドゥルーズ本人は、もちろん「超越論的」に言っているんだが、 ドゥルージアンのある種は、どうもそのことをよくわかっていないんじゃないか、と云いたいのだ。 ちなみに、全体と総体の違い、というのは、存在論的差異とほとんど同じことだ、と私は思う。
468 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 05:24:50.12
↑ そういうカメムシなわけだな 笑
>>465 「主人のディスクール」の無意識下にある「全体性の幻想」ですかねえ
ファルス!
http://kabashira.com/blog/wp-content/uploads/2009/11/phallus.jpg 「父の名」を殺せるのはファルスだけなのかもな、父は息子にしか殺せないと、男の世界では
エディコンは意外と深い
アンチ・オイディプスは浅い
いまのドゥルージアン、ガタリアンを見ればわかるように、そのアジテーションはエディコンの再生産にしかなっていない
ハイデガーもフロイトもすげーいいところまで言ってるとは思うけどな、神経症にしては
いいところまで「時」を、「父」を追いつめている
ゼウスに殺されたクロノスか
ラカンはそういった意味ではハイデガーやフロイトより自虐的
クラインは女の言葉として考えにゃ、部分的に「存在しない女が語っている」と
ラカンもゼミナールの文章とか時々そういう感じはあるが、巷間に広まったラカン論は「認識論」なのでそこが薄れている
内々でも「ゼミナールの時はラカンはヒステリーとしてしゃべっていたと考えなければならない」とか言われてっし
アナはこう、ああいったタイプはなんかもうフェミでお腹いっぱい、ファザコン女
女社会を生きていればああいったタイプにもわりと耐性ができる、ニッパとかな
ガタリもただのオイディプス
ドゥルーズはまあ、都合のいい男?
ジャネットも「都合のいい男」よりなので気をつけるといい、ドゥルーズみたいな最期にならないようにな
そういえばAOにも「強迫的」って言葉があったが、「脅迫」と「強迫」って日本語では別なのだよなあ
AOでは、精神分析との整合取れなくても「脅迫」って書くべきじゃねえの、翻訳の歴史とかおいといて
いやまあそんな翻訳するならば、翻訳者の意図を説明せねばなるまいが
むしろフロイトの「罪悪感」の定義が、一般的な語義より広義になっていて、「エディコンは脅迫である」とした方が、
精神分析の広義な「罪悪感」の定義と一般的語義との違いが明確になる気がするな
要するに「アンチ・オイディプス」の意図も明確になるキガス
「分裂症者は、オイディプスに耐えられない人たちなのである」
いやまあただのアジテーション本ならそんなこたどうでもいいですがね(みつまなつかしー)
論文のネタにぐらいにはなりそうかなと
470 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 08:34:15.09
↑ミニハン、ハナレメ、G、アセ、アブラブログ、俺、水牛顔笑
471 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 09:57:04.73
↑デカパン、ドチカメ、H、ヒヤアセ、アブラウリ、オマエ、野牛顔笑
472 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 10:50:07.34
↑釣られたミニハン、モコ、ハナレメ、G、アセ、アブラブログ、俺、水牛顔笑
473 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 11:03:08.65
水牛顔=無能盗作屋バレバレ起動(笑)
474 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 11:55:00.68
野牛顔=無芸パクリ屋バレバレ不眠症(笑)
475 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 17:25:20.66
↑暴発直前悪魔拳銃バレバレハナレメ笑
476 :
吾輩は名無しである :2012/05/23(水) 18:55:10.87
____ / \ / # \ / (●) (●)\ | (トェェェェェェェェイ) | グフフフフフ・・・・ \ \ェェェェェ/./
477 :
吾輩は名無しである :2012/05/24(木) 00:19:35.44
鈴木雄介の名前がなぜ出てこない!www
俺はアタマが悪いけど、 知り合いで同世代の現哲研究者たちや、 稀に食事をする名の知れた現哲の教授が、 マジになってデリダやドゥルーズについて語ってくること、 それよかこのスレで喋ってるやつの何人かの語りのほうがずっと面白い
>>445 >アルゴリズム的な圧縮は恣意的な決定で行われるもんじゃないでしょ。
え、恣意じゃね
そもそも「存在論」ってドゥルーズ自身がゆってったっけ
うーん、「アルゴリズム的な圧縮が恣意ではない」が意味わからん。 認知科学的なパターン認識を迂回するといいのかな。 ある文字列にパターンがあって、それを認識する、というモデル。 このとき、そのパターンを見い出すのはその認識であって、パターンそのものが文字列にあるわけではない。 その文字列が、その認識が最初から知っているパターンを、ただ見い出されただけ。 こういった考え方なので、認知科学論ではパターン認識とは学習によるものだとなっている。 つまりパターンとは、文字列にあるものではなく、学習されたパターン認識による恣意だと考えてるわけだ。 アフォーダンス論なんかは「そうではない」って話になるが。 今のアフォーダンス論も元のゲシュタルト心理学からの繋がり考えると意味変わってそうだけどな。 「アルゴリズム的な圧縮」というのが何を意味しているのかわからんが、認知科学論における「パターン」なら、 それは恣意的である。
なあなあ、恣意的って言葉を、どういう意味合いでつかってる?
>>482 ソシュール言語学的な意味かな。
なんかそこらへんでラカンの話してる人がいるけど俺じゃないからなw
>>440 とかw
ジャネットが「存在論うんたら」つってたのはここらへんの話をどうこう言ってたのね(わかってなかった人)。
過去ログ嫁よ、すみません。
>>482 君はどういう意味で使ってんの?
「自分が能動的か受動的か」って意味合いなら、パターン認識は学習されるものだから、自分は受動的ではありうる。
その文字列に対してではなくそれを学習する相手に対して、だけど。
ここら辺混同してるんじゃないの。
>>484 いや俺は横から口はさんだだけの傍観者なんだけどね
486 :
吾輩は名無しである :2012/05/24(木) 10:02:00.41
妖虫殲滅
このスレもレベルがかなり落ちたな
そもそも
>>445 の
>そもそも言語の構造は恣意的に決定されてるんじゃないの?
って
>>485 って意味じゃねえの?
「言語の構造」と「アルゴリズム的な圧縮」の違いがわからんのよね。
「パターン認識」という概念を迂回すればそれらは認識論として同じ認識の仕方だとなると思うんだが。
>>485 そっかー、まあこういう「認識(についての一般)論」になるから巷のラカン論はつまらないんだけどなw
俺もあとから来ただけのイナゴですwww
んじゃ傍観者である
>>482 の考える「恣意の意味合い」を説明してけろ。スレ違いとかあんま気にせずに。過疎スレだしwww
別にソシュール言語学の文脈を引いた「恣意の意味合い」だけではないと思うし、そもそもスレ主旨を狭く捉えれば俺の話もスレ違いになりうる。
俺個人は君の「恣意の意味合い」は「能動/受動」って差異が根底にあるのかなと推測したんだが、どうかね。
あ、「混同」は撤回しとく。
>>445 の文脈引いてないなら「混同している」とは言えないので。
君には君の「恣意の意味合い」があるのだろう。
489 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/24(木) 13:24:46.82
大雑把にいうと、作用と反作用だったら、視点がかわれば入れ替わる。 もし、能動と受動のほうは同様には入れ替わらない、のだとすれば、 それは、アクティヴな「主観」「主体」に類するものを、あらかじめ確保しているからだろう。
>大雑把にいうと、作用と反作用だったら、視点がかわれば入れ替わる。 おお、ナイス表現
えと横から見てて
>>438 あたりからの流れで、「ランダム性」の話から「恣意的」がでてきたように見えるのだが
「ランダム」と「恣意」はかなーり違うんじゃないかなぁと
ソシュール言語学的な意味での、シニフィアンとシニフィエ間の「恣意性」は、
「必然性がない、根拠がない」けど「規則性が無い」(=ランダム)ってわけじゃないだろう
規則性はあるけど必然的な根拠がない って感じ
いくらんなんでも言語の構造に「規則性がない」なんていわんだろ
どうつなげて話してるのかわかんなくってさ
まあ
>>437-438 が言いたいことからしてよくわからんのだけどw
>言いたいことからしてよくわからんのだけどw ミニハンもジャネットも何でもミソクソにつなげちゃうからね。 そんでわかったつもりになるのが2ちゃんクオリティだからいいんじゃねっとwww
なんか自由連想で恣意的に(その場その場の好き勝手な思いつきで)つなげてるよなw
>>491 ランダムと恣意を繋げる連想もおもしろいな
そこらへん別の話と思って読んでたわ
495 :
吾輩は名無しである :2012/05/25(金) 04:08:18.49
↑ ハナレメ 笑
>>491 >いくらんなんでも言語の構造に「規則性がない」なんていわんだろ
そら言語はそのパターン認識にのっとった規則性を持って発話されるからなあ
そのパターン認識を持ってない人からすれば、言語の意味をわからない人からすれば、「規則性がない」ってなるだろう
「圧縮不能」ってのは、その文字列を認識する主体が、「パターン(アルゴリズム化できる規則)」を適用できない、ってことなわけっしょ
わたしにとってエジプト文字とか圧縮不能だわwww
>>438 まともに読んでなかったけど最後の一行がおもしろいな
>ランダムな列のアンサンブルは逆に統計的に特徴づけることがもっとも簡単な文字列でもある。
「パターン認識」は「アルゴリズム的な圧縮」でもありうるし、「統計的に特徴づけること」でもある
認知科学は人間がどう認識するかって学問だからなあ
精神分析もまた同じ
アプローチの仕方が全然違うけど
しかしまあこの話題「横から」とか「傍観者」のレスが多いなw
そんなに興味引かれる話題なのかね
俺まともに読んでなかった
>>493 うん、そうだと思うけど
君にとって「恣意という意味」にわたしとの違うなんか特別な意味がありそうだ
ああそうそう、
>>453 そのインタビューを知らんので適当に答えたが、レヴィは原則「自然」と「文化」を対立させて考えていたと思うんだが
未開の文明も文化として
で構造とはあくまで未開文明も西洋文明も同次元である文化にあるとしていた
なので「未開の文明」を「自然」とするのはレヴィの思想ではない
だめだこりゃ浅いわ
あはは
499 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/25(金) 14:55:33.92
図式は、諸現象がいかようにして悟性に従属しているのかという問いに答えるものではなく、 むしろいかようにして悟性は、おのれに従属する諸現象に自己を適用するのかという問いに答えるのである。 空間ー時間的諸関係が、概念的諸関係に(本性上これと相異しているにも拘わらず)適合しうるということには、 深い神秘と秘められた技法がある、とカントは言う。しかしこの文章を盾にとって、 図式機能が想像力のもっとも深い作用だとも、そのもっとも自発的な技法だとも考えることは許されない。 図式機能は想像力の作用には違いない。なぜなら想像力のみが、図式化しうるからである。 しかしそれが図式化するのは、悟性が主宰し、あるいは立法権能を持つ場合にかぎられる。 想像力は、思弁的関心においてのみ、図式化するのである。悟性が思弁的関心を引き受け、 したがって規定的となる場合、まさにその場合のみ、想像力は図式化すべく規定されるのである。 (ドゥルーズ「カントの批判哲学」中島盛夫訳)
500 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/25(金) 15:04:50.13
なお、空間空間ー時間的諸関係と概念的諸関係の「本性上これと相異」、 これを捨象する立場が、広い意味の論理主義だと思う。 そして、そのような「論理主義」的立場は、やはりライプニッツーヘーゲルの線上にあるものだろう。 上の「圧縮」にからめると、情報理論などでは、可逆的圧縮と不可逆的圧縮という区別があるようだが、 後者の不可逆性は、「圧縮」が対象とりつくしていない(残余がある)から、「逆の読む」反対の操作ではもとへは戻らない、 ことからきているんじゃないか、と漠然とだが考えている。 ただし、このような「残余」というのは、ヘーゲル的には「圧縮」のなかに把持されているわけだから、 はたして、ほんとうにそこから「不可逆性」がでてくるのかは、どうも疑問だとも思うのだ。
501 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/25(金) 15:10:08.98
↑ 空間空間ー時間→空間ー時間 「本性上これと相異」→「本性上の相異」 対象とりつくしていない→対象をとりつくしていない に訂正。
502 :
吾輩は名無しである :2012/05/25(金) 18:24:37.84
↑ ハナレメ に訂正。 笑
503 :
吾輩は名無しである :2012/05/25(金) 19:49:01.50
↑ ホソオチメ に訂正。 笑
504 :
吾輩は名無しである :2012/05/25(金) 23:48:06.38
↑ハナレメバレバレ笑
>>496 >で構造とはあくまで未開文明も西洋文明も同次元である文化にあるとしていた
>なので「未開の文明」を「自然」とするのはレヴィの思想ではない
まあ、通常はそのように捉えられていますよ。
つまり、鉱物や貝殻そして植生に見られる構造性のようなものが
人類社会(特に文化)にも見られる。
しかしながら、ここで示された“構造”はあくまで類似性であり、
自然と社会との間に連続的なものがあるわけではない、と。
しかし、NHKで放映された晩年のインタビューでは植生を中心とした日本の自然環境が持つ調和性と
日本語の構造(回帰的な構造)、そして家を中心とした社会構造を連続的に語ってしまっているわけです。
だからどこで読んだのか失念しましたが(たぶん東大表象系の学者でしょうけど)
ラカンの“構造”は言語や無意識の段階にとどまっているのに対してストロースの場合は
自然にまで及んでいると、する論者さえいる。
つまりストロースによると自然環境の下でその一部として閉じた構造を反復する社会と
それを脱して開かれた構造を展開していく社会があるわけです。
だから、件のインタビューでは西洋の言語構造は自己求心的で外に向かって進んで行くとしています。
要するに西洋ヒューマニズムにおける主体性の宣揚です。
しかしまあそのNHKのインタビューはレヴィの思想の重要な変節点となるだろうに
508 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/26(土) 10:20:14.00
505名無しさんが言う、ちょっと足らないか、あるいは、世渡り上手か、そのどちらかの表象文化論者みたいなのがいるから、 「否定」という考え方を強調するほうがいいときが多々ある、と私は云いたいのだ。 柄谷の言っていたところの「自然」(じねん)の幻想、日本的なはからずも「なる」こと(生成)の重視(ある種のドゥルージアンが陥る穴だ!)、 また、神仏習合の融通無碍な文化的寛容さや、(じつは割と新しいにもかかわらず)「古層」的なアニミズムと混同された悉有仏性の通俗的予定調和、その他もろもろ、 こういうものへの一部ではいまだにヘゲモニックな言説編成への対抗言説としては、それが有効だと思うのだ。
509 :
吾輩は名無しである :2012/05/26(土) 10:26:18.89
↑ハナレメ笑
510 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/26(土) 10:54:36.91
「アバター」の制作意図が、「カルフォルニア・マフィア」(西部の新興財閥などをいうので、ヤクザという意味ではない)が音頭取っている、すさまじく生臭いものだということは、 よくよ知っていながら、通俗化した「自然」(じねん)の幻想のほうは疑わないような人がいる。 ここにいない人のことを言うのはなんだが、たとえば、アセンションさんなどは、アバターについては批判力が働いていたのに、 「生成」(きなり)のスローガンのほうは、まんま鵜呑みにしてしまっていたわけでね。
逆にその「自然の幻想化」の根本を考えていったら、適当だけど「トーテムとタブー」までいっちゃうと俺なんか思うんだよなあ 「自然の幻想化」という根は「通俗」でくくれるほど浅いもんではないかと
512 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/26(土) 11:06:04.11
「理論」的に簡単でないというのは、そのとおりですよ。 私が愉快でないのは、ある種の日本マスコミ言説とポモ思想とのヘタウマな二人羽織が、 しぶとく演じ続けられているということで、おなじく俗っぽいものだよ。
513 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/26(土) 11:36:25.16
ハイデガーがドゥルーズよりも「よい」のは、逆説的だがナチだからだ。 ニーチェが英米では右翼思想にならなかったのとおなじで、 ハイデガー存在論は、日本的「自然」主義とは、けっきょくそりがあわない。 雑談スレの話のスレ違いみたいなことを言うと、 また、「現代の大規模農業生産体制とは、アウシュビッツのようなものだ」(シュピーゲルのインタビュー) こういうのは、説得力もあるが、かの人が言えば、ひんしゅくも買うものだ。
515 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/26(土) 12:18:12.99
それ。 さらにいうと、ハイデガーの詩論はいまや、デリダを経て読まれることが多いだろうから、 とうぜん「エクリチュール」にかかわる問題意識が強まることになる。 その意味で、国学主義とはしっくりいかない面もでる。
516 :
吾輩は名無しである :2012/05/27(日) 06:24:31.34
<いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。 ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形す る能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、 イメージを変える能力なのだ。イメージの変形、イメージの思いがけ ない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行動はない。 もしも眼前にある或るイメージがそこにないイメージを考えさせなけ れば、もしもきっかけとなる或るイメージが逃れていく夥しいイメー ジを、イメージの爆発を決定しなければ、想像力はない。知覚があり、 或る知覚の追憶、慣れ親しんだ記憶、色彩や形態の習慣がある。想像 力imaginationに対する語はイメージimageではなく、想像的なものima ginaireである。或るイメージの価値は創造的なものの後光の広がり によって測られる。想像的なもののおかげで、想像力は本質的に開か れたもの、のがれやすいものである。人間の心象(プシシスム)にお いては、想像力とはまさに開示の経験であり、新しさの経験にほかな らぬ。ほかのいかなる性能よりも想像力は人間の心理現象を特徴づけ る。ブレイクが明言しているとおり、「想像力は状態ではなく人間の 生存(イグジスタンス)そのものである」>。 ガストン・バシュラール:「空と夢 ―運動の想像力にかんする試論
いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。
ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形す
る能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、
イメージを変える能力なのだ。
とかって
>>463 のようなことかね、と思った
でもやはり「イメージの固定化」という想像力の作用はあると思うよ
そいつの言う通りそれから解放する面もあろうが
ある面だけを強調して語ればよいというわけでもないかと
こういう物事の片面だけを強調して語る文章は基本的にアジテーション文章だと認識してしまう
AOしかり
まあAOは批判だけではなく結構ちゃんと既存のオイディプス理論を吟味してはいるんだけどな
ガタリはラカン派の鬼子などではなく正統的なラカニアンかと
518 :
レディー・ジャyネット ◆J4XQaCMv3K5g :2012/05/27(日) 14:49:06.52
バシュラールは戦地に赴く教え子たちを思いやって「空と夢」を書いた、と丹生谷が言っていた。 だからアジ本というよりも、激励本だというべきかもしれない。 ガタリはそのとおりだと思える。これは、真のフロイト左派、ともいえるだろう。 かたやドゥルーズのほうも、もしかして、真の正統派ヘーゲル・マルクス主義者かもしれないんじゃないか。 吉本は、ドゥルーズは批判的マルクス主義者だといっていて、今村もほぼ同意していたが。 シェリングは、自然とは自らを産出する能産的なものだ、みたいなことを言っていた。 換言すれば、自然というのは、その能産的活動そのもの、ということになるだろう。 これなどたしか、ハイデガー、ドゥルーズ、ご両人ともへ影響の強いアイデアのはずだ。 とはいえ、自然がそうした活動(能動)自体であるとすれば、いっさいは固定せず、ただただ流動する、かのようになるのじゃないか。 「万物は流転する」(ヘラクレイトス)の近代版ということ。 しかし、個体(個物)というものも一応?あるわけで、だとすると、 やはり自然は規定されるものであるか、自己規定するものであるか、おおきく見て、そのうちのいずれかだ、となるだろう。 どっちをとるかは、私はけっきょく方便だと思うのだ。 そして今は、規定(否定)されるもの、だと考えたほうが良いことが多い、と思える。
519 :
レディー・ジャyネット ◆J4XQaCMv3K5g :2012/05/27(日) 15:23:18.29
↑の戦地へ赴く、は、新ナチ政権下にある の間違いだった。
>生まれる時代200年間違えました。 うわあ
>>521 何も間違っていませんよ。
100年前なら既に死んでいるし、
150年前なら同世代で丁度良いですが、多少キリが悪い。
彼に先駆けるには200年で妥当かと。
そっか、君は彼に先駆けたかったのか なんで先駆けたいの
524 :
レディー・ジャyネット ◆J4XQaCMv3K5g :2012/05/28(月) 11:16:40.83
518に事実誤認があったようだ。 ブルゴーニュ地方は、ヴィシー政権統治下にあったのではあく、ドイツの占領下にあったようなので、 親ナチ政権下は、占領下に訂正。
>>522 が200年前に生まれてても変わらなかったろうな。
誰も真剣に読んでないからいちいち訂正しなくてもよろし
それよりコテのyが気になる
528 :
レディー・ジャネット ◆J4XQaCMv3K5g :2012/05/28(月) 12:37:08.92
タイプミスしたんだが、オサレだと思ってそのままにしていたのだ。 気になるようならやめるか。
そんなもんはどうだってよろし
いやオサレでやってるならいいよw
532 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/29(火) 03:11:55.76
バーバーとベルトッティが1980 年代に到達した関係説力学(古典力学だけでなく一般相対論にまで拡張可能) においては,事物の相対的な配置(相互の間の距離)のみが基盤とされるが, それらをすべて表せる相対的配置空間と呼ばれる抽象的な空間では, すべての点は互いに異なる(区別される)ものを表し,(ライプニッツに由来するとされる)不可識別者同一の原理 (述語の総体が等しい主語の同一の原理でもよい)を厳密に満たすことができる、 そうだ。
もっとなんか新しい動向とかないの?
534 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/29(火) 04:18:10.93
ない。または、私は知らない。 誰か書いておくれ。
535 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/29(火) 23:02:34.71
ウィトゲンシュタインいわく「あらゆる証明はトートロジーである」 これは、(数理論理的)判断には分析判断しかない、と換言できるのではないか。 充足理由律を認める立場(後期のドゥルーズはそうだろう)からすれば、通常は綜合判断だと考えられているものも、 じつは潜在的に分析判断である、となる。 考え違いがあったら、指摘してください。
536 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:12:21.02
ウィトゲンシュタインいわく「あらゆる証明はトートロジーである」 これは、(数理論理的)判断には分析判断しかない、と換言できるのではないか。 全くのデタラメだな。後は自分で考えろ。
537 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:16:54.84
↑メハナレ笑
「あらゆる証明はトートロジーである」 扱う概念の範疇によるね、命題としては。 実験、比較等の手法も有効。あとポパーもユニークな観点から思考している。 結局、文学板的には、人間性の限界と可能性の問題におち着くでしょうけどね では!!!
いかな天才哲学者が云うことでも、現場の数学者は認めないよ
ウィトゲンシュタインの影響を受けた論理実証主義者というのは、 まさにそういうことを言おうとしたんだけど、 あんまり上手くいかなかったんだよ。 難点は主に2点あって、ひとつは、分析判断と綜合判断というのが、 彼らが当初考えていたときほどハッキリ区別をつけることができないこと。 もうひとつは、数学が存在命題に満ちているのに対して、 トートロジーにはほぼ存在命題がないこと。
541 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:26:08.82
↑ハナレメ笑
542 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:28:04.93
もうひとつは、数学が存在命題に満ちているのに対して、 トートロジーにはほぼ存在命題がないこと。 全くのデタラメだな。後は自分で考えろ。
ちなみに早大の理工にすすんだ同級生が専門科目の所謂数学は10%の学生も理解していないと語っていたなあ では
これクワインが『論理学的観点から』で言ってることなんだけどねぇ
545 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:33:44.38
↑アホレメ笑
546 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:38:00.24
思考力ゼロ水牛顔=無能盗作屋=アホレメバレバレ笑
547 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/29(火) 23:39:13.97
540さん、粘着的荒らしは気にせず、進めましょう。 私が書いたことのポイントは後段で、 ライプニッツ的充足理由律をみとめれば、綜合判断というものが、そもそもないだろう、ということだよ。 周知のとおりカントは数学上の証明による判断も綜合判断だとしていたわけだが、 ライプニッツを継承しているつもりであろうドゥルーズは、それをみとめるわけにはいかないのではないか、 ということが云いたいのだ。
第1階の論理ではたしか 「構文論的に証明可能な論理式は意味論的にトートロジーであり、逆もしかり」 でなかったかな。 その意味では「あらゆる証明はトートロジー」は成り立っていると言えるかも。 うろ覚えだけど、第2階の論理になると、完全性のたぐいは成り立たなかったはず。
549 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:42:29.60
ネンネンチャクチャイマンネン↑パーデンネン笑
550 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:44:15.68
水牛顔=無能盗作屋&薬中フォーゼ&ヌー「一族」バレバレ笑
551 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 23:46:22.38
スイギュウチャイマンネン↑パーデンネン笑
>>538 文学板的につっか「そういった人間の認識」ではあろうよ
論理的に
カントで言えば分析的真理っていうのは主語概念の述語概念への包摂だよね。 つまり、意味による真理。 で、ライプニッツで言えば、ある可能世界が決定されていても、 別の世界では別様でありうるものについては分析判断はありえないんじゃないかな。 そういう余地がある命題については分析判断ではないと思う。
お、ちょっと面白い話 「分析」という印象論どまりだが
556 :
吾輩は名無しである :2012/05/30(水) 00:03:30.51
↑水牛顔=無能盗作屋&薬中フォーゼ&ヌー「一族」連投バレバレ笑
557 :
吾輩は名無しである :2012/05/30(水) 00:22:41.74
魔鬼殲滅
558 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/30(水) 00:23:26.57
いや、ライプニッツの充足理由律は、自同律とおなじく「全ての世界」にわたって適用されるもののはずだな。 ただ、おぼろげだから、明日でも文献を調べてみましょう。 よかったら続きをしましょう。だが、ドゥルージアンの住民はどこへいったのだ、いないと議論にならないじゃないか。
一応ドゥルーズ批判派ではないという意味ではドゥルージアンです
560 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/30(水) 00:36:38.65
私も、ドゥルーズ批判派じゃなくて、ドゥルーズ主義批判派ですよ。
それは大文字の他者を気にしてるってことで以下略 まあ気持ち分からなくもないけどね わたしもドゥルーズではなくガタリ個人とドゥルージアン・ガタリアンがエディコンで気持ち悪いと思ってる
実は自分は、ある程度、著作に当たり実際に色々経験して読み込んでわかった事実のですけど、 諸々の時代の、言語、国家においてあらゆる個々人の哲学者・思想家の使う特殊な用語、 術語の類は、其々の異なる思想において謂わば全体が有機的につながっていて、 似ていながら厳密には「意味が全く異なる」ように用いられているのですよね。 したがって、思想の系譜の歴史学的理解を前提としてアーティクルを記さなければ、 衒学的な言葉の遊戯(よくない意味でもないけど)を自己満足のみとして試みているに過ぎない、 との帰結が導かれます。尚、人文科学としての比較・実験の手法は有効だと考えます……。 あはは! では
つまり、あんまり、なんの役に立たないと……。www
無為を知って哲学ははじまる(キリッ
565 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/30(水) 00:51:59.25
562さんがいう「全体が有機的につながって」みたいな、あまりに使い古された言い回しが多いから、 私はドゥルージアンが嫌いなんですよ。
566 :
吾輩は名無しである :2012/05/30(水) 00:55:44.91
ハナレメ笑
人間機能、オルガニズム【organism】とかなんてね、、所謂を付けておけば手垢はついてない言葉かとw
568 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/30(水) 01:19:46.46
思考が平凡すぎて手垢がつきまくっているもの。 「謂わば」つけたって、やっぱり退屈でしょう。
え?
571 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/05/30(水) 20:54:42.32
ライプニッツの充足理由律が、「すべての世界」に適用されないとしても(調べてみたんだが、どうもよくわからなかった)、 最善律は適用される。これは今日的にだと、中心極限定理ということになんじゃないか(異論がある人はいってちょうだい) さてこれで、いまの流れの発端になった「ランダム」に関する書き込み(一部でなにやらわからんとされていた) とつながったんじゃないだろうか。とくに面白いといった人もあった最後の一行につながったと思う。
572 :
吾輩は名無しである :2012/05/30(水) 21:07:10.86
記号に誑かされた阿呆で且つ愉快犯
573 :
金神弁天 :2012/05/30(水) 21:54:05.46
文字の羅列でお金が稼げるとおもったら大間違いだ。 創作でお金が稼げると思ったら極悪人だ。
ナンシーのフクシマ論が早めに邦訳されそうな気配。
575 :
吾輩は名無しである :2012/05/31(木) 07:05:53.73
>>562 なるほど確かにアセンやジャネの言うことは常に、プッツン、プッツンで
「有機的につながってない」w
浅田彰に「ヘルメスの音楽」というのがあるらしいけど、この人は全然、
ヘルメスとは似ても似つかん人だなw
有機的って何
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc の言説は形式論理学的に「も」支離滅裂(しりメツレツ)なのがザンネンなのなw
つーか、自意識過剰の単なるバカだろ
つーか、現実でまともに勝負できるような奴だったら2chに毎日書き込んでるはずないだろ わかってやれよ、ここだけしかないんだよ
なるほど、こういうのが「有機的なつながり」か 何とつながってるのか知らないが
ジャネットさんは分析性を必然性・アプリオリ性の意に読み換えてるんじゃないかな。 アプリオリな真理・必然的真理・分析的真理は概念として区別できるが外延として一致する、 ということを、どうも認めているのがカント含む多くの近代哲学だよね。 しかし後代からすれば、ライプニッツに由来するとされる可能世界の概念は、 それが必ずしも一致しないのかもしれない、という疑義を提出するのに役立った。 この点からみれば、充足理由律は、アポステリオリな真理を消すかもしれないけれども、 偶然的真理や綜合的真理をなくすることはできないんじゃないかなぁ。
582 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/06/01(金) 10:59:34.31
おおむねご指摘の通り。 〈この点からみれば、充足理由律は、アポステリオリな真理を消すかもしれないけれども、 偶然的真理や綜合的真理をなくすることはできないんじゃないかなぁ〉 これもそうだと思う。言い換えるなら、充足理由律が導くところの「必然性」は、あくまでも潜在的(潜勢的でもよい)なところにとどまる、となるだろう。 ただいま再読中の下村寅太郎の「ライプニッツ」にしても、すでにその先取り的なことを書いていた。 しかし、最善律に類するものを持ち出さない限り、ただただ全てが「流動」しまくる、極端な「万物流転」にならざるをえないのではないか、とも思えるのだ。 あるいは、生死(しょうじ)流転諸行無常、と情緒的にいえば、平家物語的詠嘆の現代版でしょうか。 このようなものは、悪くすると、たんなる観照的な態度にならざるをえなといわざるをえないということにほかならない。
583 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/06/01(金) 11:17:57.47
とせねばならない。
うぁこれは酷い、ここまでしても書き込みたいって思うものなのか…
↑ ■パチンコと東電と生フェラ口内発射「ごっくん飲精子」売春の「日本うんち地獄」で生活する発達障害者(チビ、ブサ、異性にもてない、低学歴)♪♪♪ ■パチンコと東電と生フェラ口内発射「ごっくん飲精子」売春の「日本うんち地獄」で生活する発達障害者(チビ、ブサ、異性にもてない、低学歴)♪♪♪ ■パチンコと東電と生フェラ口内発射「ごっくん飲精子」売春の「日本うんち地獄」で生活する発達障害者(チビ、ブサ、異性にもてない、低学歴)♪♪♪ ↓
確かにウザイ
>>584 さっさとNGにしとけ
駄レスに駄レスを返すな
589 :
吾輩は名無しである :2012/06/01(金) 18:09:09.71
猫の首に鈴をつけられない鼠たち
、論文を記すみたいな覚悟のない言説の開陳とかはやめておけ、ジャネットw 単なるバカを演じているに過ぎないと受けとめられるよ まぁ、所詮、真性バカなのだろうが……
いい歳こいて他人の思想?? バカじゃねえの 所詮は言葉あそび
592 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/06/01(金) 18:57:23.48
捨て台詞みたいなことばかりいわないで、どこでもいいから具体的に突っ込んだらどうか。 そういう人は、ついぞ見たことがない。 あなたね、暇つぶし息抜きでやっている書き込みに、「論文を記すみたいな覚悟」を求めるきみは、 いかなる人にてましますぞ。 詳細に書きゃ書いたで、2ちゃんに時間費やす暇人うんぬん、という粘着がでてくるのに、 これ以上手間かけるかい? 。
だったら書くの止めればいいのに、なんでそう2chごときにこだわるん?
粘着くんは自分より頭のよさそうな人を追い出そうとしすぎw
じゃぁもう少しマシな連中と話し合う気はあるん?
申し訳ございませんでした、早速の申し込みがありましたので次の機会にまたよろしくお願いいたします。
鑑照的であるゆえに分析的であるという逆説
599 :
吾輩は名無しである :2012/06/04(月) 04:08:12.28
脱原発!
脱体毛
脱体
602 :
記憶喪失した男 :2012/06/08(金) 20:20:20.06
哲学板に「カントの「物自体」と仏教の「諸法無我」は同じ」というスレ立てたので、ジャネットさんの意見ください。 ミニハンさん他の意見も募集中です。
哲学板きもいのでや
つのがらいクリかな?
かつて『差異と反復』を翻訳していたとき、実を言うと、何か猜疑心のような ものに悩まされていた。わたしはドゥルーズの行論に騙されているのではない か、と。しかし、訳を進めるうちにまた深く感動もし、いや「どんなことがあ っても」やりとげなければと思いなおす。しかしまた、私の心のなかに疑いの 念が湧いてくる。 理解が浅いゆえに、わたしは疑念と感動の渦に巻き込まれていたのだろうか。 ともかく、このスパイラルのなかで藻掻きながら、ようやく翻訳は完了した。 その後、しばらくのあいだ、自分の訳書を開くと感覚的な苦しさがフラッシュ バックするようで、訳文を再検討することがほとんどできなかった。
609 :
吾輩は名無しである :2012/06/24(日) 20:40:39.09
age
610 :
吾輩は名無しである :2012/06/25(月) 23:55:35.23
>>605 本当の翻訳者だと信じて聞きます。
哲学書の翻訳ではなぜおかしな和製漢語を使うのでしょうか?
説明しにくい言葉なのでしょうが、漢語にする必要がないものもありそうです。
たとえば『差異と反復』は『違いと繰り返し』でもいいんでしょうか?
611 :
吾輩は名無しである :2012/06/26(火) 10:13:31.51
>>610 よくないよ。
「差異」や「反復」は一回きりの訳語ではなく、
ニーチェとかハイデガーとかキルケゴールとか、
これまで他の哲学の翻訳書でも採用されて
きた伝統的な哲学概念の日本語訳。
そうして定訳になっているから、その歴史を
踏まえて、そう訳されているわけ。
辞書に載っていたらなんでもOKというわけではないのです。
612 :
名無し :2012/06/26(火) 10:52:44.17
『差異と反復』の訳者さんが現れる2ちゃんスゲー
普通にネタだと思ってた
615 :
吾輩は名無しである :2012/06/26(火) 19:44:23.39
>>611 なるほど。
具体的にどこにどんな意味で書いてあるの?
知らないで言うけど、弟子は師匠に逆らえないという日本の大学の悪しき先人追従ではないの?
616 :
吾輩は名無しである :2012/06/26(火) 19:49:57.67
伝統的な哲学概念なんて、日本にそんなものあるの? たんに自分のサークルの優位性を維持しようとしてるだけじゃないの?
617 :
吾輩は名無しである :2012/06/26(火) 20:00:49.74
>>611 >おかしな和製漢語
というのは日本語ができない人たちの翻訳、という悪口なんだけど、なにか意見はない?
ネタとは思うが、 『差異と反復』、『違いと繰り返し』では意味が大きく異なるでしょう?
>>618 どう異なるのかな?
「差異」と「違い」も「反復」と「繰り返し」もそれぞれ意味は同じ。
「差異」と言うのは同じ意味の漢字を重ね合わせて調子を整えただけの、違い、という意味の漢語。
「反復」は強いて言えば行ったり来たりの意味合いを付加することができるかもしれないが、普通はただ、繰り返し、という以上の意味はない。
たぶん中国語でも同じだろう。
どういう日本語の文脈で >意味が大きく異なる のか教えて欲しい。
もし大きく違う意味で使ってるとすれば、その使い方が間違い。
それは、おかしな和製漢語、ということになる。
つまんねー議論
621 :
吾輩は名無しである :2012/06/27(水) 01:42:26.88
翻訳家のほうは、文句があるなら原書を読め、と言いたいだろうな。 でもいい翻訳は読者を増やすから、翻訳家の収入も増える。 ドイツ語やフランス語の哲学の本を普通の日本人が読むとき、日本語訳より英語訳のほうがわかりやすい、というのが残念なんだ。 一般学生が辞書を引きながら、の英語力でそうなんだよね。
622 :
吾輩は名無しである :2012/06/27(水) 01:58:32.11
>>620 文学や哲学でおもしろい議論なんて、あるのか?
ときどきある 個人的につまらないってだけだから気にすんなよ
624 :
吾輩は名無しである :2012/06/27(水) 02:20:14.67
>>621 >ドイツ語やフランス語の哲学の本を普通の日本人が
>読むとき、日本語訳より英語訳のほうがわかりや
>すい、というのが残念なんだ。
これってほとんど錯覚だと思うよ。
単語が簡単でとっつきやすくみえても
概念の連関は実はなにもわかってなかったりする。
逆に日本語が難しく感じるのは翻訳調の日本語に
慣れてないだけ。用語に慣れるのも時間がかかる。
中島義道によると、ドイツ人がドイツ語でカントを読んでもやはり分からないそうだ。 英語のカントが分かりやすいのは、 カントの英訳者が勝手に分かりやすいように恣意的に翻訳してるからで、 翻訳としては酷い誤訳みたいに言ってた。
626 :
記憶喪失した男 :2012/06/27(水) 10:31:56.51 BE:2874287276-2BP(3)
ジャネットさん、意見ありがとうございました。 だいぶ、苦労かけたようで、労作参考になります。 どうも、空を空虚として解釈している人はわたし以外にもいるようですね。
627 :
吾輩は名無しである :2012/06/27(水) 10:36:04.53
>>624 ヘーゲルの『精神現象学』を学生時代に読んだとき、意味不明なところが多かったので原書と英訳を見てみた。
原書は自分の第2外国語レベルのドイツ語ではまったく無理。
英訳は辞書を引きながらなので時間はかかったが非常に理解しやすかった。
>概念の連関は実はなにもわかってなかったりする
なんてのは翻訳者の図々しい思い込みだ。
英語なら、できは悪くても6年以上はやっている。
日本語のできない人間の和訳より、英語のできる人間の英訳のほうが理解しやすいに決まってるじゃないか。
>日本語が難しく感じるのは翻訳調の日本語に慣れてないだけ
じゃなくて、翻訳者自身が日本語を勉強したことがないから、書いた文章が普通の日本人にはわからないんだ。
外国語はたくさん勉強したんだろうが、日本語の勉強がおろそかだから、単語の意味ひとつわかりやすい日本語で説明することができない。
自分のことで言えば、いやになるほど「翻訳調の日本語」は読んだよ。
>>625 ほんとなら、これもずいぶん傲慢な翻訳家だね。
他人(他国)を貶めてまで自分の翻訳の拙さをごまかしたいのかね?
それをやってない俺が言うのもあれだが、カントの原書というのは徹底的に読み込むと、 どうも「可能」とかいくつかの言葉について、 文献学的に一貫した解釈を与えられなさそうな本らしいんだよ。 つまり、読んでも一貫した解釈の得られない、わけのわからない部分が結構ある本。 そのわけのわからないところを、わけのわからないように翻訳してるのが、 日本の翻訳だと思えばいいんじゃないか。
外国の翻訳者って、けっこう翻訳者が恣意的に原文を解釈しちゃって 予想外に分かり易いように意訳してるよな。原文=日本語の英訳本を見てもそう思う。 日本人だけなんだよ。日本人はクソ真面目だから、一言一句、原文に忠実に翻訳しようとして その結果、文章が破綻したりしている。ある意味で、日本人のそういう態度はエラい。 『純粋理性批判』とかヘーゲルとかは、本文を読解すること=哲学を理解すること、だから 本文を他の言語に移し替える作業そのものが、「哲学する」行為に直結している。 だから不用意に翻訳なんてできないんだよ。カントの用語法が破綻している、とかは つまりなぜカントがそんなふうに言葉の遣い方において破綻してしまったのかを考えなきゃならないね。
630 :
吾輩は名無しである :2012/06/27(水) 19:31:15.53
日本語と外国語では文の構成も語彙の意味も異なる。 ドイツ語や英語などのヨーロッパの言葉は、話し言葉がもとになって論考が書かれているそうだ。 日本語の論考はもともと書き言葉、特に漢文という外国語を読み書きするところから始まっている。 考え方、感じ方はもとより考える順番も言葉の扱い方も違う。 これを翻訳するのだから大変だ。 原文に忠実なんてことが可能であるとは考えられない。 最近やっとそのことを気にしながら翻訳する人たちが出てきたところだ。 自分のアルバイトでそれを実感したことがある。 別に哲学の難しいものじゃなくてやさしい英語の医学の本だったが、読んでわかったつもりでも日本語にしようとするとうまく言葉がつながらない。 依頼者に渡したらあきれ返られて笑われた。 今ならもう少し日本語らしい文章にできるかもしれない。
631 :
吾輩は名無しである :2012/06/27(水) 20:12:44.72
マグナ乙
632 :
吾輩は名無しである :2012/06/28(木) 18:26:39.20
原語によって文法が違っても深層構造は同じなんだよ。だから翻訳ができる。 「象は鼻が長い」も∀x(Px→Qx)という論理構造の文で、 そうである以上その論理的意味は英訳できる。
634 :
吾輩は名無しである :2012/06/29(金) 10:12:45.16
>>633 >深層構造 が違うから言語の構造が違う、といっても同じだぞ?
それにしても変な論理記号まで持ち出されて、勉強になるスレだなあ。
この例に対しておまけで書いとくと、象、鼻、長い、の概念がそれぞれ違っていたらどうするんだ?
その場合は外延的に一致する他の記述に置き換えればいいんだよ。 実際的には注釈をつけるとかそういうことになるだろうけど。 深層構造が違う、翻訳できない、というのは、それは言語でないということなんだよ。
636 :
吾輩は名無しである :2012/06/29(金) 11:17:02.61
>>635 本気で書いてるとは思わなかった。
せめて >外延的に一致 とか >深層構造 とかを明確に説明しないと、文の意味が通じないということぐらいは理解してくれ。
それぞれ真理条件的意味論とチョムスキーの用語。 あとは自分で調べて。そんな親切になれない。
638 :
吾輩は名無しである :2012/06/29(金) 11:42:32.14
>>637 あまり笑わせないでくれ。
誰の用語(訳語)だろうが、自分で明確に説明できない言葉を使うな、ということだ。
だいたい翻訳者の用語(漢語)が的確な日本語になっているとは限らないんだぞ。
639 :
吾輩は名無しである :2012/06/30(土) 00:47:05.72
それではデリダ風に、翻訳するなら原作を「脱構築」しなければならない、といったところでいかがでしょう?
640 :
吾輩は名無しである :2012/07/01(日) 15:20:12.89
デリダ自身は翻訳そのものに非常に否定的だったな。
641 :
吾輩は名無しである :2012/07/06(金) 20:15:32.81
>>610 財津訳『差異と反復』読んでみた。
たしかに、「違いと繰り返し」に変えて読んでも別に意味は変わりそうもないな。
わかりやすくなるかどうかは別にしてだけど。
>>628-630 >ドイツ語や英語などのヨーロッパの言葉は、
> 話し言葉がもとになって論考が書かれているそうだ。
これは時代と人によるよ。
カントの時代は、ドイツの人がドイツ語で哲学を本格的にしはじめた最初の時代
(エックハルトのドイツ語説教みたいな例外はあるけど)。
カントのドイツ語が、ドイツ語として「変」なのは
彼のドイツ語の背景に、語彙的にも構文的にもかなりの部分ラテン語があるから。
(有名な「物自体」をめぐる議論なんかは有名)
実際、カントも若い頃はラテン語で論文書いてるしね。
この点、原語がどうなっているか意識しないと読みにくい
日本語の翻訳文や、そうした欧米語を念頭に置いた日本語の哲学著作に
事情が似ている部分がある。
これに対して、少しだけ時代を下ったヘーゲルは、
構文についてはドイツ語として比較的素直。
おそらく、カントとは違い、基本的にドイツ語で考えて書いている。
ただ、用語法がきわめて独特。
だから、欧米語への翻訳を見ても分かるけど
素直にドイツ語から欧米語に訳したものは、文章としては読めるけれど
用語法が独特なので、意味はやはり分からない。
これはドイツ語でも事情は変わらない。
こんな具合に同じドイツ語、といっても難しさの質がかなり違うわけ
あと、英語の場合も、ラテン語系の語彙というのは 日常的な語彙とは違うものも多いので それなしに学術論文を書くのは非常に難しい 確かに、英語への翻訳に関しては、編集者のチェックとか 日本における翻訳とは違う考え方があるのだけれど 英語の場合も、それほど事情は単純でもないのだ
644 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 02:49:45.34
>>642 >>630 だけど
>>628 >>629 は別人。
ごちゃごちゃにしないで欲しい。
明治以降の創作漢語の使用は再検討する必要があるということを指摘したつもりだ。
西欧諸語のラテン語との関係は日本語と漢語(漢籍、あるいは仏典での漢語)の関係とはずいぶん異なりそうだ。
これ以上は日本語の専門家の領域だろうが、当てはまる和語があるにもかかわらず、すぐ既存、創作の漢語を使いたがる翻訳家たちに反省を求めたかった。
まるで漢語を使わないと哲学にならないといった翻訳がみっともないし、意味を通じなくしているということを理解してもらいたい。
翻訳家の苦労もわかる気がするが、なんでも漢語を頼りにするのでは日本語から遊離してしまい、思考そのものが軽薄になりかねない。
そのことも理解して欲しい。
そう書いてる自分の文章が漢語だらけの事に何の疑問も感じないのだろうかw
646 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 03:08:53.25
>>645 >>644 の漢語でわかりにくいものや自分勝手な意味を付け足しているものがあるか?
日本語は残念ながら漢語なしでは語ることができない、ある意味不完全な言語になってしまった。
だからといって、それをひたすら助長する必要はない。
不十分な漢語を借用するより、わかりやすい和語があるなら、その和語を使うほうが正確に理解することができる、ということだよ。
647 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 08:09:40.28
動植物の学名の付け方においてラテン語との関係を見直す動きもとうに 出てるようだが。
そこらの高校生や大学生つかまえて教えてみたら 646が偉そうに言ってる漢語が「わかりにくい」かどうかなんて 相手の教育水準次第だって事がすぐ分かるのに 要するにあんたは自分基準に適当な事を言ってるだけで 議論に何の普遍性もないんだよ
649 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 17:00:04.62
>>648 明治以降の無原則に近い創作漢語やこじつけ漢語、新漢字の導入で意味すらめちゃくちゃにしてきた戦後の漢字改革。
これが教育水準の問題かw
もう少し漢語の成り立ち日本語の関係を勉強してから書き込んでくれ。
大体 >日本語は残念ながら漢語なしでは語ることができない、ある意味不完全な言語になってしまった。 こんな事を言いたいのなら あらゆる近代語が不完全だ (英語の論文から、あるいは一般的な文章から あらゆる-tion系の語彙を、-ate系の語彙のぞいてみよ) 日本語から漢語系の語彙をのぞいて論述する可能性として 例えば宣長か闇斎学派の一部のものでも読んでみたらいいが 決して「読みやすく」などならない 実際に翻訳をやった事がない人間が勘違いしやすい事だが 翻訳の文章が読みやすいかどうか、というのは語彙の選択よりも むしろ構文の転換がうまくできるかどうかにある そういう意味では、トレーニングを受けてない人間の翻訳が こなれていない事が多い、というのは事実 それと「漢語」は全くの別問題
明治期の人間にはあった漢文の知識もないバカが649でほざいているが 日本の知識人にとっては、というよりもアジアの知識階層にとっては 何よりも漢語は抽象的な思考のための概念の宝庫であったのだ といった程度の事も知らずに、偉そうに言われてもねえ んで、「漢語」という漢語を書いたところで さらにバカになってる今の学生には、意味すら通じない
652 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 17:15:08.09
>>650 趣旨同意。
むしろ >構文の転換がうまく できないことを漢語のイメージにすがってごまかしている、と主張しているつもりなんだが。
和製漢語そのものの歴史が浅く、先達の和製漢語に異を唱えにくかったこともおかしな翻訳を量産したもう一つの原因、というのが趣旨。
その意味で必ずしも漢語の問題は別、ではない。
ついでに書いておくと 現代におけるこの手の「言語純血主義者」の代表格である ある時期のハイデガーやその尻馬に乗る長谷川などが しばしば忘れたり、意図的に無視しているのは ラテン語が翻訳して取り入れることになったような (それゆえにギリシャ語の本来的な意味が失われたとハイデガーが嘆くような) ギリシャ語における抽象的な語彙も 決してギリシャ語において日常的な語法や意味から連続していたのではなく 日常的な語法や意味を極めて強引にゆがめるところに成立したものだ、ということ 抽象的な語彙は、必ずしも日常生活と直結しない以上 そこに必ず距離が生じるのは、どの言語でも仕方がないことなのだ
>>652 煽りモードをやめて、真面目に答えるけど
>和製漢語そのものの歴史が浅く
これはちょっと違うよ
それこそ、あなたは、本気で日本語と漢語
あるいは「漢文」と東アジア圏各国の各地言語との関係を学びなおすべき
明治期まで、漢語(漢文)は、抽象的な思考
(だけでなく、公的な文書の大部分)で長らく生きていたし
知識階層にとっては
その多くにとっては、不完全なものだったとしても
「漢文」との二重言語状態だった
(そして似たような状況は朝鮮やヴェトナムでもあった)
だから、あの時代において、そうした漢語的な方向で
欧米の文物を訳すのは、ごく自然なことだったわけ
そうした漢文脈の訳語との距離感が広がったのは
すでに漱石がその最後の世代だったように、明治以降
日常の中で漢文や漢詩に親しむのが、きわめて稀な事になったからであって
明治期における漢語の使用を、
それ以前の江戸における漢学と
漢学者が行った洋学の伝統と切り離して考えるのは
端的に、歴史的に言って、おかしいよ
もちろん、世の中の、特に大学人の翻訳に 「間違いとして突っ込まれるのが嫌だから、直訳して逃げておく」系が 少なからずあるのは事実で 翻訳をめぐる状況が、完璧でないのは事実 ただ、漢文脈の訳語は、ある程度の抽象的な概念 あるいはカギとなる概念に関して それが重要な語であり、記述の核となっているものであることを、 日常的な用法と区別されているものであることを、はっきりと示してもくれる 一応スレのドゥルーズの文脈に戻して言えば 少なくとも『差異と反復』のころにおいては やはり、かなりの所、哲学史的な概念の伝統を背景において議論を進めているし あのあたりの本は、そこらのフランス人に渡して、分かるか、と聞いても そんなに簡単に読めるものではないよ どのような分野でも(学問に限らない) 分野固有の用語法(テクニカルターム)は存在し そうした語は、そうした特有の意味で使用されている、という事が はっきりと示されていた方が、論述には便利であるという側面もある
656 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 17:48:14.32
>>651 自分に >漢文の知識もない ことは認める。
明治初、中期には欧米に追い付くため、漢語を
>抽象的な思考のための概念の宝庫
として使ってしまったのはしかたがない。
その頃の日本の大学は英語教育しかしなかった。
欧米人の英語(課目によってはドイツ語?)による授業しかなかった。
その中でおそらく自在に漢語を扱えた在野の学者や学生たちが必死に翻訳をした姿は想像できる。
だが、それがその後の教育の大衆化による和製漢語(漢字)の意味の変遷や和語の多少の進化にすべてが対応しているわけではない。
公用語を欧米語にという運動や戦後の漢字廃止運動などの影響もあったのか、漢語の再検討の動きは目立たない。
最近やっと漢語の見直しという動きが出てきたところだ。
偏狭なナショナリズムではない。
日本人が自然に言葉の意味と流れを理解し、思考できるようになるべきだ。
借り物の言葉を自分たちが身に着けていくためには、漢文訓読のように読み込めばいいという考え方もあるだろうが、現代ではやはり丁寧な説明が必要だ。
可能な範囲で漢語を和語に言い直すこともそれを実現するためのひとつの道筋だと思っている。
657 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 17:59:38.87
>>654 江戸期までの漢文というのは基本的には論語の世界だ。
西欧的な抽象概念とは異なる。
それだけは指摘しておく。
ついでにドゥルーズでいえば自分にとって分かりにくいのは、西欧観念論の流れで語られているから。
だから逆に現実との対応を無視すればわかりやすいといっても大して変わらない。
フランス語の読めない自分が、財津訳の「差異と反復」を読んでそう思った。
西欧観念論はどう読んでもキリスト教世界を知らない自分には根本的なところで理解不能だ。
自分の誤読であったとしても、翻訳者のせいにする気はない。
念のため。
>>657 >江戸期までの漢文というのは基本的には論語の世界だ。
>西欧的な抽象概念とは異なる。
いや、これはしばしば今の日本(の西洋哲学に触れた人間)に
忘れられている事だけれど
当時の儒学は、単なる「論語の世界」ではなく
朱子学的な極めて高度な概念操作も含んだもので
ある種の自然学的、宇宙学的な要素も含みますし
明治以前の「洋学者」たちというのが基本的に「漢学者」でもあったのは
そうした背景があったからですよ
「差異と反復」は正直原書でも読みにくい本だし
翻訳と言うのは、色々な人が試みて良くなっていくものなので
財津訳に限界があるのは、仕方がないと思います
そういえば
>>653 で長谷川、と書いてしまったけど
ここで念頭に置いてるのは三千子の方で
長谷川宏訳は評価しています
659 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 18:55:05.51
>>658 これ以上は自分の勉強範囲を超える。
趣旨の食い違いはあるが、繰り返しになるから触れない。
スレ違いにもなりすぎる。
翻訳に心を砕く人たちが多くなってくれば自分のように外語語ができない人間にはとてもありがたい。
翻訳家側に見返りがあるかどうかはわからない。
いずれにしても、多少なりとも真剣に付き合ってくれたことに感謝します。
>>646 俺はぜんぜん残念じゃない。何が残念なのか理屈がわからん。
外来語が支邦経由だと残念で、横文字経由なら残念じゃないのか?
661 :
吾輩は名無しである :2012/07/07(土) 20:29:15.98
>>660 残念じゃないなら別にいいんじゃないか?
支那経由でも横文字経由でも自分は残念だ。
ただ、分かりやすく翻訳するという事は どうしても、一定の解釈を含まざるを得ない それは、翻訳で読んだ場合の解釈の幅を (いっそう)せばめてしまうことでもある 例えばカントの「物自体」。 これを、一部の解釈に従い、元になっているラテン語の表現を念頭に置いて 「私達が、対象をどのように知覚・認識するかという観点を抜きにし それらとは無関係に、それ自体として検討された対象」 と訳し下せば、確かに意味は通りやすくなるのだが 元のドイツ語で、それ以外の解釈が可能な表現であるという事が見えにくくなるし 結果として、歴史的に Ding an sich という表現がドイツ語の中で独り歩きした結果 ドイツ語世界の内部で生じた様々な論点も見えにくくなってしまう 結局のところ、誠実にやっている翻訳の現場では、この例のような (1)読みやすさの確保 (2)「可能な解釈の幅を出来るだけ維持して移すこと」という 解釈の幅が豊かさでもある哲学書では無視するわけにはいかない条件 という相反する要求の中で、いつも身を引き裂かれながら作業をしてる
何が残念なんだろう オリジナリティ幻想みたいなもんかな
>>662 意味の同一化と差異化としたらほとんどの人間の悩みと共通してるかもな
665 :
吾輩は名無しである :2012/07/08(日) 09:53:26.85
>>663 言葉は歴史。
新しい概念を表現するために、元からある概念の表現(和語)とのつながりの中で新しい言葉をさがしていけば、日本に元からある概念とのつながりがはっきりするし、元からある言葉自体にも影響を与えて、元の言葉の表す概念がはっきりとしてくることもある。
それは言葉が自分たちの心を豊かにし、心を自由にする可能性をもつということでもある。
漢語を含めた外来語の安易な使用は、こうした概念のつながりを一瞬途絶えさせてしまうために、日本人の心を自由にすることにつながりにくい。
だからといって和語での安易な造語もまた、無意味であることは当然だ。
長い歴史の中で少しずつ日本語が豊かになるように、和語と漢語の使い方は十分に吟味されなくてはいけない。
それが安易な漢語による概念の表現を残念だと思う理由だ。
>>665 それは同意だが歴史だからといって何が残念なのだろう
667 :
吾輩は名無しである :2012/07/08(日) 10:41:28.74
>>666 心を豊かにしたり心が自由になることを大切だと思うから、その機会が失われることが残念だと。
別に残念だと思わない人がいることに不満はないよ。
歴史を辿ろうが意味がはっきり確定するわけではなかろう 古代日本語の意味をはっきり理解している日本人なんてそうそういないだろうし
言葉の歴史が吟味することはある場合においては概念がはっきりすることであるかもしれないが そうとは限らないじゃろ
概念がはっきりすることが心を豊かにし心が自由になることになるのはなぜ?
逆にそれは概念、言葉に心が囚われるということにならないだろうか 無意味の方が心が自由なんじゃないだろうか
672 :
吾輩は名無しである :2012/07/08(日) 11:10:28.01
>>670 心は言葉で成り立っているわけではない。
だが、言葉は自分の心のあり方を見つめる助けをしてくれる。
自分の心を自覚するには言葉も大切な要素だ。
自分の心が自覚できれば自分の心は少し豊かに、少し自由になる。
自由とは必然性の洞察だ、と言い切る度胸はないが、強く引かれる考え方だ。
日本という歴史の中の自分を確かめるには、言葉による日本と自分の理解も必要だ。
概念がはっきりすることが心を豊かにし心が自由になることとなる
>>667 の心理をよければ説明してくれないか?
あ、単純にわからなくて興味があるので聞いてるだけです。
また、君が残念に思うだけで残念に思わない人もいていいのなら、「漢語を安易に使わないよう」他人に強制するのはなぜ?
674 :
吾輩は名無しである :2012/07/08(日) 11:34:07.48
>>673 前段は
>>672 で。
後段は強制という言葉の意味によるんじゃないだろうか?
心を豊かにするために漢語の安易な使用を見直すべきだ、という主張が強制ということだろうか?
自分は感性的にも論理的にもそう考えているが、他人に「強制」する(できる)こととは思っていないから、「不満はない」と書いた。
揚げ足を取るようで申し訳ないが、「強制」という漢語が日本語の中でこなれていないのかもしれない。
一般的なこととは別に、出版された翻訳に対して、「強制」はありえないが、読者として「依頼」をする、あるいは「注文」をつける権利はだれにでもあると思っている。
>>672 前半二行は同意だが、それについて言語の歴史を重視する理由がわからない。
自分の心のあり方を見つめるだけなら自分がわかっている意味、現代の意味だけでもよくはない?
>日本という歴史の中の自分を確かめるには、言葉による日本と自分の理解も必要だ。
それ歴史=言語に囚われてるってことじゃね。
>別に残念だと思わない人がいることに不満はないよ。
つまるところ君が君の心理において残念と思っているだけなわけだよね。
ならば「漢語を安易に使わないように」他人に強制する理由はなんだろう。
横入り。 それはさ、「和語」そのものが不完全な言語だったからさ。 「やま」とか「かは」とか「はな」ならば分かり易いだろうが、それはそれらの言葉が「和語」だからではなくて、 身近で具体的な概念を表わしているからだよ。 それに表記の問題もある。日本人は、「残念ながら」独自の表記法を自前で作らなかった民族だよ。 ひらがなもカタカナもみんな漢字経由で作っている。 つまり日本ははっきり言えば、文化的にはいまだに中国の文化圏の植民地なんだよ。 3〜4世紀ごろに漢字が輸入されてからは、文字だけでなく、日本にない“概念”(これも漢語だが)は すべて漢語+概念という表記とワンセットで輸入してきた。平安時代には男はみんな珍妙な漢文で文章を書いてきた。 それがわれわれの1500年以上にわたる歴史なわけです。 だから今さら漢字伝来以降に輸入されてきたあらゆる抽象概念を和語に置きかえるなんてことは、ほとんど 不可能というか、幻想なわけです。 さらに言うとそういう議論は、けっきょくそうした抽象概念自体を排除してしまおうという結論に行き着きがちなのだが、 この考え方自体は100パーセント民族主義的な考え方だし、いまのグローバルな世界の実状を考えるとナンセンスというか、 ほとんど“死”を意味しているのです。
だから「和語じゃなくて漢語だから分かりにくい」と考える、その考え方自体が幻想なんだよ。 哲学書の内容が分かりにくいのは、言葉が漢語で訳されているからなんかじゃない。 述べられている内容そのものが、日本にはない考え方だったからというだけだ。 そりゃ、今までに知らない考え方を本で読ませられれば「いやだな」とか「難しいな」と考えるのは当たり前。 それを表記の問題にすりかえてしまうのは如何なものかと思う。 けっきょく哲学書の読解も、基本的な読解力の問題であるわけです。 ただし「哲学」の本を読むには、ある種の“作法”や“準備”が必要なわけで。 なぜならどんな真面目な哲学者も、過去の哲学者との関係の中で本を書いているわけで。 それは仏教哲学だろうと、西洋哲学だろうと、イスラーム思想であろうと同じなのです。 特定の言葉遣いに対して、その歴史的経緯を知らなければその言葉にどんな意味のまとわりがついているのか (いわゆる“共示”というやつ)が分からず本文を正確に読解することはできない。 そうした下準備を怠って、「哲学書は分かり易い和語で書け!」と言われても、乱暴な意見としか言いようがない。
678 :
吾輩は名無しである :2012/07/08(日) 15:31:47.72
>>676 についてはそれぞれの結論以外は同意。
>>677 については自分とは考える方向が違う。
自分の考えは書いたので、恐縮だけどレスを追ってほしい。
ひとつだけ言っておくと、難しくなるから漢語をやめるべきなんて書いたつもりはない。
安易に漢語のイメージに頼ると思考自体が軽薄になる、と書いたんだ。
>>677 >哲学書の内容が分かりにくいのは、言葉が漢語で訳されているからなんかじゃない。
>述べられている内容そのものが、日本にはない考え方だったからというだけだ。
というよりも、原語の中でもそうであるのが多いね
680 :
吾輩は名無しである :2012/07/08(日) 19:10:36.89
翻訳書は議論の叩き台にはならんということだろw つまり、専門家は翻訳を読んではならないw
それは違う 翻訳というのは一つの解釈なしに行えないから 先行研究として、可能な限りの翻訳を検討する必要がある
本に書かれている言葉の意味じゃなくてその意味が示すことが重要だと思うけどな もちろんそれを考えるために言葉の意味もきちんと考えにゃならんだろうが、言葉の意味が真理ではない
話の腰折るようで悪いんですけど、文庫新書で何か良い本あります? 読んでみようと思っても、個人だと学術書には手が届かないので
文学でも哲学でもそうだけどこういう風に他人に聞いてもあまりメリットないと思うんだがなあ 本との出会いは一期一会
ドゥルーズだったら千のプラトーかなあと思う自分は すでにどっぷりなので、あまりお役に立てない気がする
686 :
吾輩は名無しである :2012/07/09(月) 20:39:15.82
別スレに紹介されてるやつのステマだろw でも、せっかくだから、ハイデガーの「存在と時間」(細谷訳・ちくま学芸文庫)はおすすめ。
687 :
吾輩は名無しである :2012/07/10(火) 01:11:13.49
>>683 本人のステマみたいで、笑えるね・・
このところのレスも、これの前アオリだったりしてw
だがしかし少々謎なのは小さな書店でも たまに文庫のドゥルーズは並んでいたりするが みんなそんなにドゥルーズを読んでいるのだろうかということなのだ
大抵の哲学書ってそうじゃね カントとかメジャーなの以外
690 :
つくだに :2012/07/12(木) 08:18:03.97
波平が哲学やめるらしい 一つの時代が終わったな
へえ
え?あのぴかぁ〜が。 やっとだな。
ていうのを何度くりかえしたか。 名前変えて戻ってくるわな。
695 :
つくだに :2012/07/14(土) 21:39:15.84
波平ツイッタ垢は残ってる なんだかんだで「なぜ資本主義は○○なのか」シリーズが面白いから
696 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 19:21:38.36
中央大学で「ドゥルーズの哲学」翻訳者の井上摂が大変な事になっているよ!
こういうの見るたびに分析家はフロイトの「分析の終わりとは」という問いを考えてなければならないとしみじみ思う。 よしむらさくじはじまったー
704 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 21:57:35.29
若い男に迫られたので狼狽えちゃって拒絶したら、男が傷ついて人生に絶望。 それを不憫に思った親が、子の怨み、と学校に訴えた。 こんなとこ?
結論
レポート下書きとか書いたげたりせず単位落としてやればよかったんじゃねえの
井上は自分がXくんにとって父と同様の他者になっていることに気付いておるのだろうか
というか、まあ他大学のゼミってそういうもんかもしれないが、ゼミ全体の一体感みたいなのが感じられて、
というか井上が暗にそう主張していて、気持ち悪い。
ゼミから落ちこぼれた奴は落ちこぼれさせとけよ。たかがそういう一つのゼミでしかないんだし。
井上の脳内ではさらにそこからさらに大きな「現代思想村」に繋がっているようだが
これだからドゥルジーアンって奴はry
口先だけで否認しまくるからこういった自由連想状態になると強度のエディコンを発症する。
>>704 平たく言えばそういうことだな。
でも単純な恋愛としてで拒否っただけなら、逆にこうならなかった気がする。Xくん、井上の性格的に。
レポートを書かせるために先生がレポートの下書きをしてやったことが隠れたポイントかな、と。
Xくんが言いそうな風に言えば、井上ゼミが現代思想を教義にしたカルト集団っぽくなっており、
井上はそのヒエラルキーの頂点だった。
ここら辺Xくんの元からあったエディコンを、また井上自身のエディコンも、共鳴的に強化されたのだろうな、と
俺の勝手な妄想。
706 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 22:07:11.10
四方田犬彦は『先生とわたし』で由良と井上の関係を匂わしてたがな
話のつながりがいまいちわかりません
708 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 22:15:28.29
アブラブログ
709 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 22:18:38.26
とりあえず純然たるゴシップ的なところでは、四方田氏描く氏と由良氏との関係史上の クライマックスたる四方田殴られ事件の際に、由良氏に同席していた女性がマイケル・ ハート「ドゥルーズの哲学」の訳者というかクアトロガトスの批評とかよく書いてる 井上摂という人だった、ていうのが70へえーぐらい
>>709 あー実際に四方田のネタにされたのかwww
四方田の知人を自分の引き立て役にする筆力には脱帽だ
まあ師弟関係なんてのはもっともわかりやすいエディコンの一変奏だからのう
四方田はあれだ、こっちが怒れば向こうも怒ってちゃんと縁を切るところがまだ偉いんだよ 四方田のそういう自己愛的性格に不満を持ちながらも友人続けてる奴らの方もネタにされて仕方ない。 四方田褒めてんだよ。
714 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 22:47:15.78
井上氏は美人だったの?
けっこう
仮面
哲板各スレにも飛び火してる なんか晒されて可哀想じゃね これからの人なのに
本人が拡散させたがってんじゃね
719 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 23:25:23.93
美人は年老いても見られ注目される快感が忘れられないもの
と脈絡のない妄想は自己言及になるとあれほど
フーコー信者とかならまだもっと論理がいろいろ踊れたかもしれんが、ドゥルージアンとしては井上は批判されるべきじゃなかろうか
この点とか「関係妄想の意味するところは、彼らがすべての見知らぬ人から、なにか愛情のごときものを期待している」心理が 如実に見えていると思うんだが
現代思想オタクなんて他人から嫌われてナンボだろ! あごめんラカニアンだけですかそうですか
727 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 03:52:52.33
あぶらミニハンうぜーな 頭悪い奴は考えるなや
728 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 03:57:01.90
ところで香山リカって頭悪いのか?
729 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 03:58:22.12
香山リカは芸名らしい
>>727 思考はてんかん発作も含めて本能だと思ってるからねえ。
出物腫れ物ところ構わず。
グロテスクや破廉恥に耐性のないおじょうちゃまがアルトーなんて看板背負うなよ お前のためにならん
734 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 04:37:39.96
香山リカって性格に問題あり?
735 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 04:39:22.00
あぶらミニハンはまずはブログを読めるものにしとけや
736 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 05:17:15.91
中央大当局にも問題ありだが 他者をその他者以上に理解出来ているという井上の傲慢な姿勢は大問題じゃないのか? それこそがストーカーの心情じゃね?
738 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 15:38:47.00
色々と難しそうな言葉が並んでるけど・・ 子供のころから綺麗だとか(たぶん)、頭がいいとか(たぶん)、ちやほやされて育ってきた。 大学かなんかで変な言い回しを覚えたので使ってみたらそれも誉められた。 得意になっていろんなこと言ってたら、学生の取り巻きができた。 楽しいので取り巻きを増やそうとしてたら、一人の学生がトチ狂ってしまった。 自分の趣味じゃないのでなんとか拒絶したいけど、取り巻きを減らすのもちょっと。 自分でもわけのわからない言葉を浴びせかけたら、自分の信奉者だったはずの男は、憎しみの放浪者に変わっていた。 いままで自分の言うことに逆らった男などいないために、どうしていいかわからなくなって全公開。
739 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 15:49:47.50
一方、大学側はなにがなんだかわからずに困惑の体。 男性教師のセクハラなら本人を問い詰めて自主退職させれば表ざたにもならず終了。 今度の事件は、まず事実関係がわからない。 男子学生は講師を憎むあまり親と一緒になってクレイマー状態。 講師も変なことばかり言ってるので事実の解明は進まない。 めんどくさいから、なるべくなら講師に自主退職(契約破棄)してほしい。 学生とその意を受けた親がそこまで先生を憎むなら、それは先生の責任だろう、と。 講師が聞き入れないので、しかたなく、規則をさがしたが、適当に作ってあるので不十分なことが判明。 あわてて規則を修正して対応したけど、弱点もさらけ出してしまった。
>>738 まあ大体のところはそうなるのかもしれんが、井上自身は自分を「現代思想の学徒」みたいに思ってると思うぞ
なので「自分の取り巻き」も「現代思想を学ぶ人たち」だろう。
「自分が取り巻きに囲まれている」という彼女の欲望は、自分含む取り巻きが囲んでいるのは、
自分ではなく「現代思想という教義」だとなっているように思う。
まあ結局それは主体の欲望だろ、って還元できるけどさ。つまりは
>>738 の言う通りと。
本人やゼミの子たちがもし見てたら反論がきそうだと思ったので、一応細かい補足をしておいた。
大学側は情報足りなさすぎてよくわからんけど、まあ要するに大学政治の一環だと思うが、 政治ってもっとこう細かい事情がバタフライエフェクトみたいに影響したりするからなあ。 俺は一概に大学側はどうだったとは言えない。 井上の文章から読み取れるのは井上の主観を通した事柄だけなわけだし。
742 :
吾輩は名無しである :2012/07/17(火) 16:09:33.90
大学の対応も、知りうる情報だけで考えればさすがにどうかとも思うが、少なくとも今「悪霊払い」されるべきは井上の方じゃろう
何かを「悪霊」だと思う人に悪霊は取り憑いているもの
哲学板見てきたけどほとんど話題になってないじゃん
746 :
吾輩は名無しである :2012/07/18(水) 07:47:16.49
正直俺もこの件で知った
こんなちんけなネタに食い付くのはあぶらミニハンぐらいなもん
ちんけたのしーよ?
750 :
吾輩は名無しである :2012/07/21(土) 12:40:09.71
イケメン男子学生にオバチャン教授がセクハラかw
751 :
吾輩は名無しである :2012/07/21(土) 14:25:57.94
>>750 違うだろ?
年増の美人先生に純情学生がたぶらかされて、その気になったら「この勘違い男!」と罵られて発狂寸前、てとこじゃない?
女教師ものを連想して勃起した
>>705 基本的に脂さんの分析に同意なんだけど、プルーストスレで一言ほしいと
あったので自分なりに。
「X君への手紙」のあと、「Xさんへの手紙」を読み始めたが、途中でやめて
いた。あまりの無防備さ、痛さに読むのがつらくなってきたから。
我慢して最後まで読んでみた。
教師と生徒の関係は非対照な、権力関係であることは厳然たる事実。
教師は単位を与える与えないという生殺与奪の権利も握っているわけだし。
性的な関係、まなざしは彼女の言うとおりなかったのだとしても、X君への過剰な
思い入れは否定しようもない。
彼女が執拗に書けば書くほど、それが明らかになっていき、どうも読むのがつらい。
お助けおばさん化している。
ファミレスが騒がしかったからと弁解はしているが、「自分の家」での個人指導は
やばいんじゃないか。しかも、結局、X君は彼女の家に泊っている。
X君の方が終電がなくなり居座った、自分は家の外で過ごした等弁解はしているけど。
自分だけの家にあげた、泊まったという外形的事実だけですでにやばいんじゃないか。
そもそもはじめから、家に入れるべきじゃなかった。無防備すぎるのでは。
やはり「李下に冠を正さず」の姿勢は必要なのではないか。
自分の知り合いの大学の先生は、研究室に女の子と2人きりとなってしまう
ときはドアを開けっ放しにしておくと言っていた。
そもそも2人だけの密室的状況をつくらないようにと気を使っている。
ゼミの先生が1人のゼミ生のためにゼミ論の「作成見取り図」どころか、さらにゼミ論自体の 代筆までしてしまう。やはり、えっなんでそこまでするかあ、と思った。 あくまで下書きでこれを参考に自由に書き直せと言うがX君の能力からも時間的(他の法律科目 との兼ね合い、優先順位もある)にもそれが無理なことは彼女自身わかっていたように取れる。 もちろん、現代思想ゼミの落ちこぼれだったらしいX君自身も。 これではX君は井上の「あやつり人形」「おもちゃ」だ。井上に「憑依」されてしまい、自身はがん じがらめに「緊縛」され身動きもとれない。X君自身が言うように「侵犯行為」、乗っ取り行為 だろう。「破門された、侮蔑された、排外された」。 法学部での現代思想ゼミの単位が卒業に必須の単位とも思えないし。なんでそこまでする。 ここはやはりX君の反応(下書きのままいじらず、先生の代筆丸わかりで、提出期限のはるか 前に提出)も含めてポイントだろうなあ。 「Xさんへの手紙」になると明らかな暴走があるように思う。X君が屋敷の狭い場所に監禁されている んじゃないかとか、虐待されているんじゃないかとか。 Xさんが、X君が現代思想にかぶれないよう、こいつを追放しなきゃというほどの脅威を感じた というのも、思想の過大評価のように思う。 弁護士、法律を過大視している記述も目立つ。「法律的思考に魂のすべてを明渡す」とか。 でも、法律と現代思想は別に相容れないものじゃない。法律って知っていると便利な武器、道具と いう面がある(むしろ知らないことにより不利益を蒙る面が強い)。正義だとか自由・平等といった問題 は哲学・思想と地続きなものだし。法の起源は、剥きだしの暴力と密接に関連している。 同世代の知り合いでこの大学の法学部を出て、弁護士になった人がいるが、普通に柄谷行人とか 読んでいた。 まあ、X君の父親は弁護士のようだし、法律は父なるもの、X君の「処女作」に いう「緊縛」する存在とオーバーラップしているのかもしれないけど。
>>753 どもども
Gの「痛い」ところがわたしの思う「おもしろさ」なんだろうな、わたしも「痛く」はあるけどw
「手紙」シリーズは「痛く」っておもしろかったがその後のツイートはありがちな大文字の他者争奪戦、
世間様への自己正当化・相手悪党化アピールで終始してるので急激につまらなくなった。
ただし、Xくんの父親(ほんとにそうかしらんが)だか大学側の反応もちと極端だよなーとは思うじょ エディプスの三角形の陣取り合戦、赤勝て白勝て共倒れきぼん、だわ
多分、X君が最初、彼女に依存してきて、結果として共依存っぽい関係の場が形成され、
彼女も巻き込まれていき、お助けおばさん化してしまったのだと思う。
個人指導にしても最初はファミレスでやるといった配慮をしていたのに、それがなし崩しに
自分の家にあげてしまい、さらには、終電がなくなり、泊めてしまうという結果に至ってし
まっている。
(男女の立ち位置は逆だけど、野島ドラマの1993年版「高校教師」をちょっと思いだす。あれは女子
生徒の方がどうみてもボダだった。父親との近親相姦という落ちだったが、野島はオイディプス神話を
イメージして、こういう設定にしましたみたいなことを言っている)
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20070311/1195500663 X君という思春期の(彼女の記述からすると)平均よりかなり病んでいそうな青年により、
そうならざるを得ない流れ・磁場が形成されてしまっている感が強い。本来は危険を察知して、
絶対、家にあげない、個人指導に応じない等毅然とした対応をする必要があった。
(もしかして、かつての由良君美との師弟関係のあり様等が反映していたのかもしれない。ハイ
デガーとハンナ・アーレントとまでは行かなかったとしても)
彼女の行為が外形的にはストーカーっぽくなっていたとしても、それはX君がストーカー製造
機として振る舞っていた結果のように思う。
これで職を奪われるのは彼女には気の毒なように思う。
中大法学部での英語、現代思想ゼミ等の彼女の講師収入は彼女の全収入の中でかなりの ウェイトを占めているのかもしれない。そうだとしたら、それを奪われることは、死活問題、学生 で前途洋々たるはずのX君とは比べ物にならない(別に親の期待?を裏切って、弁護士以外の 道に進んだって、どうとでもなる)、「路頭に迷う」恐怖・不安を感じているのかもしれない。 それが彼女を必死にさせている面もあるだろう。ツィッターや証言置き場で彼女自身は相手を晒し、 糾弾しているつもりかもしれないけど、実は無防備に自分をさらけだしてしまい、かえって自分で 自分の首を絞めているようで痛ましく、読むのがつらいという面もあった。 X君との間で形成された共依存関係の磁場から未だに彼女が抜け出すことができず、バランス感覚 が狂わされているような感を受ける。 大学側もその磁場に巻き込まれ、極端な反応の連鎖が生じているのかもしれない。
>>757 >多分、X君が最初、彼女に依存してきて、結果として共依存っぽい関係の場が形成され、
うむ、最終的にはそういった想像的関係を論じることになるが、やはりここは、
>>740 でも補足したように、彼女が欲望していたのはあくまでXくんというより、「大学」「法」「現代思想」などといった
象徴的父だと思うんだな。
もちろんそれを自己分析していけば、症状的に共依存とは言えないが、共依存と同様の心理があったとなるだろうが。
つまり、井上の「私はXくんを欲望していない」ということは事実として考慮に入れなければならない。
そうしなければ彼女は象徴的去勢が希薄なボダ(?)ということになってしまう。
彼女の心理はあくまで象徴的去勢を経過した神経症だった。
しかしXくんと鏡像的関係になり、(共依存でもいいが共依存より心理領域の意味になるのでこちらを用いる)
「お助けおばさん」(これ林の言葉だろ?)になっていた、とは言えるだろう。
井上は女性ではあるが、むしろ男性的な、超自我の強さを見逃してはならない。
>>758 >それが彼女を必死にさせている面もあるだろう。ツィッターや証言置き場で彼女自身は相手を晒し、
>糾弾しているつもりかもしれないけど、実は無防備に自分をさらけだしてしまい、かえって自分で
>自分の首を絞めているようで痛ましく、
多少は彼女はそのことを自覚しているように思う。なんせアルトーを看板にしたぐらいなんだから。
社会生活上の問題だけを考えれば、法的にデメリットの多い言動だということぐらいはわかってると思うよ。
極端すぎる比喩だが、傷心自殺するチベット僧みたいな心理かと。
だからわたしはブログで「「現代思想」の生贄になろうとしてんのかな?」と書いた。
>実は無防備に自分をさらけだしてしまい、 だからこそ彼女の「手紙」シリーズは、精神分析的視点からすれば、自由連想的でおもしろい。
しかしやはり次の就職先を考えてかその後のツイッターは自由連想度が低くなり とってもとっても常識人な言動をしてるけどなw まあどうなるかしらんががんばれやと
おかねはだいじだよー
むしろ、共依存関係という症状であれば、ゼミ全体がそうだったと言えるのではないだろうか
まあそんなこと言い出すと社会自体が社会構成員たちの共依存だとも言えるが
>もしかして、かつての由良君美との師弟関係のあり様等が反映していたのかもしれない。 ここら辺井上に言うと「うきー」ってなりそうな気もする。 フロイトがヒステリー患者を怒らせたがごとく。
>>759 すまん、ブログの方は今回まとめて見た。
>井上は女性ではあるが、むしろ男性的な、超自我の強さを見逃してはならない。
井上摂という学者をほとんど知らなかったため、現代思想の使徒といった面はをスルーして
しまった。
確かに、彼女には現代思想の力を信じている、あるいは信じたいというところがありそう。
そのため法律学をも仮想敵として過大視したり。
傷心自殺は、焼身自殺ですね。
>>763 >共依存関係という症状であれば、ゼミ全体がそうだったと言えるのではないだろうか
この辺も井上シンパの学生、助手の言動を見ていなかったので見落としていたかも。
自分の学生時代のゼミの感覚で考えていたのでゼミのカルト化なんてあまり想像して
なかった。
>>766 >ゼミのカルト化
ただ思い出しただけだけどCSIシリーズでカルトっぽくなってたゼミの教授(男)が殺されて
犯人は先生と肉体関係は持ってないけど書記やってた目立たないぶちゃいく女子だった話を思い出した
学校や父兄の間でも問題になっているような描写はあったなー。
まああくまでドラマの話だけど。
768 :
吾輩は名無しである :2012/07/24(火) 18:27:49.92
法がどうこう言ってる人間が文科省にすがるって滑稽やん
負け犬出張かwww それにキムラじゃないし
771 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 02:49:11.46
しばらく見ないうちに、Gさんが住民になって、 格調高くなってますな。 結構なことです。ところで、ミニハンさんのブログは面白いよ。 とくに分析的な文章が、ありがちな冷やかなものにならないところがいい。 小説を書いたことあるんじゃないでしょうか。
773 :
吾輩は名無しである :2012/07/25(水) 06:05:38.80
そもそも、ゼミの先生が学生のために下書きなんかしちゃいかんだろ。
774 :
まぐな :2012/07/25(水) 13:10:14.64
井上摂って聞いたことないな、由良と同席していた女子学生だったら、そういえばそんなのいたか、となるが。
その後何か大きな仕事を成し遂げた、というわけでもないだろう、共訳者の一人になったのと、昔単著をだしただけで
>>698 とかただ単に男女のあやをジャーゴンで彩っているのは、菊池直子もそうだったよな。
それは別に無学な人間でも持っている、普通の欲望だ、といいたいところなのだが。
775 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 13:29:04.61
《一般に微分法は未知の諸量を単に固定した全体者として直接にそれらの間に相等性(方程式)を 見出そうとするのではなく、量を変動者(変数)として取扱い、しかも単に変動者としてでなく相 関的に変動するものとしてそれらのなかに対応性を見出そうとする。それゆえ微分法は、単に抽 象的な単に存在する「形象」の数学でなく、何よりもまず生成し運動する「自然」の数学である。(中略)固定せるものを生成するものとし、静を無限小の動とし、等を無限小の不等(差異)とし、要 素を複合的なものとする。》(下村寅太郎著『ライプニッツ研究』から) 下村の『ライプニッツ』は、なんと、昭和13年に出た本である。西田派がいかに優秀だったか、 その一例といえる。かくて、とりわけ団塊ジュニア世代のドゥルージアンなんかには、いま頃な にやってんのぉー、と嫌味の一つも言いたくなるものであった。 《近代の数学的合理主義の意味での思考が支配するようになると、場所の移動の意味での運動と いう形式以外には、いかなる生成の形式も認められない。》(ハイデガー『形而上学入門』) ド・マンも、似たようなことを言っていたと記憶している。ただ、日本ドゥルージアンはどうか 知らないが、ドゥルーズ本人のほうは、ありきたりの意味での「移動」をそのまま「運動」だと しているものではないだろう。かの人が考えていたのは、むしろ、「動かない運動」のようなもの のように思う。
776 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 13:29:39.78
ともかく、「微分法」にしても、たぶん「運動」を対象としているのだろうが、それ自体は、古典 幾何学同様に、静的な固定化したもの、「図表」を含むところの「言表」の類いだろう。さもなけ れば、モデル化したもの、記号的なものとして操作的に取り扱えないはずだ。なお、古典幾何学 は模造化、かたや微分積分学は記号(符号)化だともいえるかもしれなくとも、しかし、それらの あいだにも、思うにはたしてそうたいした違いがあったのか。なお、ニュートンによると、微分 積分学で証明できることは、すべて(古典)幾何学で証明できる(『プリンキピア』ただし孫引き) そうである。もちろん、より簡単で使い勝手の良い方法には、値打ちがあるというものだ。 《言語や文字を通じて、(対象的表象は)直接統覚的に把握され、操作的に取り扱われる。感性的な「模型」も似 たような機能を果たすが、そうした模型としては、たとえば作業中たえず利用される紙に書かれた図形や、また 読みながら学ぶための、教科書に印刷された図形などがある。(中略)これらの古くから手なれた獲得物の様態 のばあい、数学者の方法的実践に於いてはたらいているのは、具象化のうちにいわば沈殿している意味である。》 (フッサール著・細谷恒夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』から) 前々スレで引いた時には、何やらわからん、みたいな反応ばかりだった上の文も、いまとなれば、引用の意図が みえやすいだろう。ただ、上のような考え方は、ハイデガーが「言表の道具化による存在忘却」と言ったことに 近いような気がする。そして、私としては、カントの云う「道徳法則」というのも、一面では上のような言表操 作の習い性の事をいうと思っている。
777 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 13:32:14.45
ちなみに、カントのいう統覚とは、ドイツ語でApperzeptionで、ほとんど反省・反照と同義だが、 ドゥルーズ哲学を代表格とするポモ思想は、その反省が、いわば「男根的」だとして、単に嫌い なんだ、といえるだろう。そこで反復におきかえるわけである。なぜなら「反復強迫」(これはミニハンさんが説明してくれるだろう)などとあるように、たいてい非反省的な意味でもちいられるのであって、理性または悟性の統制力に服さないことがあるからだ。 ところで、カントは、美的判断(もうひとつ崇高の判断)の作用を、想像力と悟性ないし理性との調和として説明 している。ドイツ観念論のいう「精神」とは、おおむねこの作用の言い換えであろう。そうして、カント哲学お よび観念論的ないちおうの合目的性と調和重視を、無目的性と不調和による(一見しては多くがカタストロフィッ クであるものの)「創造性」の重視へとヘソ曲がり風に向きをかえれば、およそ現代思想風になる、といえるので はないか。その現代思想風な「破綻的創造性」というのは、直に想像力のいわゆる「過剰」によるものと解され ることが案外と多かった。しかし、私としてはそうした理解よりも、フッサールが言うような「記号的なものの 操作」が無目的的もしくは脱目的的(本来は目的的であったものが「心ならず」もズレてしまう場合を当然に含む) となる場合に生じるものだと考えた方がよいと思っている。前スレで、媒介するものの「存在感」を重視すべし、 との意見を表明された大変に明晰な名無しさんなどは、マルクスの貨幣論の例をだしつつ、この「記号」的なも ののはらむ問題へ着目していたのだといえよう。 ともあれ、私が思うに、いずれにせよ、何かしらユニティーに類するもの、あるいは、予定的に「ゲージ」的なもの、 それがあるということが、すくなくとも暗黙には、やはり要請されざるをえないのではないのか。 だから、毎度言っているが、現代思想が、差異性を強調するとき、なにかしら強固な同一性が すでにあるといえないか。
778 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 13:48:39.50
なお付言すると、記号的なものの操作が「無目的的」だというのは、 むろんのこと「詩」とおきかえてもよい。
779 :
まぐな :2012/07/25(水) 13:57:43.38
というか、何でそういう一部しかわからんジャーゴンをネットで公開して、なんか意味があるのか。 井上の話だが。
780 :
吾輩は名無しである :2012/07/25(水) 15:01:39.06
ありゃ現代思想カルトだね オウムとおなじ
781 :
まぐな :2012/07/25(水) 15:19:08.73
こういう騒動が起こると由良にまで迷味噌がつくからなあ。
782 :
まぐな :2012/07/25(水) 15:19:53.84
現代思想から派生してテロ起こしそうな集団ってあるのか。
783 :
吾輩は名無しである :2012/07/25(水) 15:37:25.57
>>778 まず日本語の勉強から始めてくれ。
カッコイイことを書いたつもりだろうが、日本語として通じない。
784 :
散歩者 :2012/07/25(水) 15:39:01.68
785 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 15:57:18.23
宇野邦一によるならば、ドゥルーズがいうところの「強度」とは、「距離」 と言い換えられるそうである(『ドゥルーズ・流動の哲学』講談社)。宇野に 限らず、誰でも素直に読めば、そういうと思われる。このメトリック(距離・ 計量)とは、最善律(たとえば三角不等式によってあらわされる「最短距離」 のようなものが典型例だといえる)なしにありえないものだろう。なにしろ 差異=微分が成り立たねばならないのだ。 カントによれば、数学的認識は、アプリオリな綜合判断だということである。アプリ オリであるものが、なぜ綜合判断か、といえば、経験によるものでなくとも、主語の 分析に基づくのではなく、純粋な感性的直観形式上、ことに時間形式上にあっては、 主語概念を超えるので綜合的なのだということなのだろう。 本題に入ると、上記の「カントの批判哲学」からの引用文で、ドゥルーズ は「悟性が立法権を有するときに、想像力は図式機能化する」といったこ とを述べているのだが、これは換言すれば、純粋悟性概念であるカテゴリ ーが、直観の領分に導入されるとき、または、自ずから入り込むとき、す なわち、時間形式に於いてあるとき(空間なし、の場合もあるとされている ので、ここでは時間形式のみ)には、おおざっばにいって、アクティヴな「主 観」にあたるものが、あらかじめなければならない、ということになるだ ろう。でなければ、想像力は、図式機能化しえない(上に引いたバシュラー ルの「空と夢」でいうよりも、もっとはなはだしい散乱を為す)、つまりカ テゴリーは「感性的なもの」へひき入れられない、ぎゃくに、感性的直観 にしても悟性概念へ嵌入しない、ということになるのではないか。
786 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 15:58:25.00
《ショーペンハウエルは、根拠律(充足理由律)が何か一つの形成のなかであ る例外を示さざるをえない場合に、人間がとつじょとして現象の認識諸形 式を見失うにいたるとき人間を襲う途方もない怖れを我々に叙述してくれ ている。もしも我々がこの怖れに加えて、個別化(個体化)の原理の崩壊の際 に人間のもっとも内奥の根底から、のみならず自然の根底から、湧きおこ る歓喜に満ちた恍惚状態を受け取るならば、我々はディオニュソス的なる ものの本質を一瞥することになる。》(ニーチェ「悲劇の誕生」) ドゥルーズの云う「カタストロフ」とは、ほとんどショーペンハウエルが 上で述べたようなことだろう。 なお、ハイデガーは「形而上学入門」の冒頭で、上記のような「歓喜」の 只中にあるときのみならず、「絶望」や、極度の「退屈」のなかにも、こう いった「ディオニュソス的なるもの」、いわば、根拠律の例外的状態、それ が垣間見えることがあるかのごとく述べている。(このハイデガーの真骨頂 とも云うべき「くどくどしさ」を、名調子の訳を以て味わいたい人は、ウ イキの「なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか」の項目をご参照。 「ライプニッツ、カント、ベルクソン、ハイデガー」、でググってもすぐ出 てくる) ドゥルーズの「アンチ・オイディプス・資本主義と分裂病」では、いうな れば、その「ディオニュソス的なるもの」の常態化を、脱コード化と呼ん だといえるではないか。
787 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 15:59:23.63
《ギリシヤの世界には、その起源からいっても、目標からいっても造形家の芸術であるアポロ的芸術 と、音楽という非造形的芸術、すなわちディオニュソスの芸術との間に、一つの大きな対立があると いうことだ。》(ニーチェ『悲劇の誕生』) 『悲劇の誕生』ではさらに、アポローン的な造形芸術は「夢的」で、ディオニュソス的芸術である音 楽は「陶酔的」だ、といったことを述べている。 ドゥルーズは基本的に上の初期ニーチェの区別を踏まえている、と考えてよいのだろう。俗にいうな れば、「空間芸術」と「時間芸術」とに相違をみているというわけだ。このことは、純粋悟性概念とし てのカテゴリーが感性的直観に引き入れられる、もしくは、おのずから入り込む、そのさいに、これ が(むろん、時間上、のではある)空間形式上にあるか、(ある種の思考ではそれが「還元」されるべき) 時間のみの形式上にあるか、この相違に「切断」をみる立場だといえて、ごく当たり前に理解される ところのカント『純粋理性批判』における区分の上にあるといえる。後期のハイデガーの方は時に違 って、上記の相違を(とりあえず)捨象することがあるよう見受けられる。おそらくこれはカントの「内 感重視」(とヘーゲル的「言表主義」)を引き継いでいるからなのだろうが、かえってハイデガーはそう することで、「美」(あるいは「倫理」でもよい)に関し総じて、その「外」であるところの詩への考察、 換言すると、言表の差異、または、エクリチュール、あらかじめ統覚的に把握された記号的なものの(自 覚的および無自覚的な)操作性、これらに関しての考察へと集約させて捉え得ているだろう。デリダの ほうはいうまでもなくハイデガーよりだといえるのではないか。
788 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 16:00:20.56
《モンタージュが根源的な役割を演じている全ての映画を、一つの疑わしいカテゴリーに押し込 めてしまうことによって、ひとは、 詩的なディスクールが、単に詩的な風味や効果といったおま けのようなものをつけ加えただけの散文的なディスクールに過ぎないと いった、長く支持されて きたものの見方に至る、同一の誤謬に陥る危険がある。》(シネマ読書会スレからの引用だが、ム ー大陸氏が要約したものか、ドゥルーズの文章のままなのか、私には不明) 上のように、ドゥルーズにしても、「映像学」を語っているかのようでいて、意外?や「詩学」 を語っているといえそうである。 ちなみに、古くはアリストテレスにしても、レトリケーを(たとえ密接ではあっても)詩とは別 物だとしているのだった。さらに付言しておくと、プラトンによれば、非存在から存在へと移 行するときの、その移行の原因は、全てポイエーシス(ハイデガーによると元は詩作のこと)で あって、質料的なものが確固として形相を得るのは、あるいは、可能態から現実態への移り行 きとは、これもすべてイデア的なものの似姿として作られることに依るとされる。これを上の 「美」に関わらせて、ありきたりにいうと、美しいものが美しいのは、普遍的な美の原基とも いうべきものに与っているからだということで、これを一方向へと突き詰めれば、人工美と自 然美の形成過程の、すなわち、いわゆる制作と生成との、ふつう考えられるような(アリストテ リアニズム的だともいわれる)違いは表面上のものにすぎないとなる。そして、三たびハイデガ ーによれば、これは「生成」的な制作、または、「制作」的な生成であり、これをして、本来の ポイエーシスであるとし、誘いだし出で来たらしめること、だと云いあらわしているのだった。
789 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 16:03:42.99
これまで何度も繰りかえしているように、カントによれば、想像力(構想力・Einbildungskraft) に依る図式(Shema。スキームというほうが分かりよいかもしれない?)は、おおざっぱには、感 性と悟性とを結びつけるものだとされている。そのうえで、認識において図式が機能するよう、 アプリオリな悟性形式と時間規定は、あらかじめ「同質」だとしている。そして、量、質、関係、 様相といったカテゴリーには、時間の系列、内容、秩序、綜括、がそれぞれ対応するものだとさ れる。しかし、そこへ、「同質性」にかわって「差異性」がおかれるとすれば、単純に考えてどう なろう。 問う人 「こと」から生じてくる花びら(二つ折れ=襞の含意あり)。この語がその「言い」を始 めると、想像力はついさまざまの不案内な領域のなかへ気ままに彷徨いたくなります。
790 :
散歩者 :2012/07/25(水) 16:05:13.54
なんでも思いついたことを書けばいいというものではない。 繰り返す。 日本語として読める文章にしてくれ。 歳を取ったら独善的になりやすいんだから、なおさら他人が理解できるように、普通の日本語で書かなければいけない。
ドゥルーズやデリダに興味ないんならわざわざこのスレに来なくていいよw
792 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 17:06:19.53
つづき これに対しての「控え目な常識を守る立場」(私も基本的にこの立場を支持する)からの発言。 日本人 想像力は、単なる表象活動のなかに放たれていれば、彷徨ったりするのでしょう。けれ ども、想像力が思考の源泉として湧き出してくるところでは、彷徨うというよりも凝集するよう に思えるのです。同様の事は、すでにカントが予感していましたが、これについては、ご自身(ハ イデガーをさす)が明らかにされている通りです。 以上は、『言葉についての対話・日本人と問う人のあいだの』(ハイデガー著・高田珠樹訳。但し カッコ書きはジャネット) 上はミニハン氏らしい名無しさんが、バシュラールの言に対して述べた事と似ている。なお、 《想像力は、思弁的関心においてのみ、図式化するのである。悟性が思弁的関心を引き受け、 したがって規定的となる場合、まさにその場合のみ、想像力は図式化すべく規定されるのである。》 (ドゥルーズ「カントの批判哲学」中島盛夫訳) つまりドゥルーズも、「思弁的関心」にないとき、想像力は「彷徨う」と云いたいのだろう。 「存在と存在者の差異」(存在論的差異)を、後期のハイデガーは、「存在と存在者の二つ折れ」というようになる。 「二つ折れ」は、原語だとZwie-faltで、二重-襞と訳せるものだろう。これはライプニ ッツに由来するらしいので、後期のドゥルーズのいう「襞」(pli)と、出所は同じはずだ。い うなれば、超越論的形式上への事象の提示、同時に、その「場」である形式自体の成り立ち、と は、認識主観的および行為主体的には、法則に類するものへ自ずから従うことが、同時に、自己 を従わせることである、といった受動的なものと能動的なもの両方の性起が、いわば「同根源」 的に一挙にあるということで、この二重化(あるいは多重化)としての運動が「生成」であり、こ の軌跡が「襞」だということにでもなろうか。そうして、これにおける調和的一致よりも、ズレ のほうに重きを置くのが、おおかたの現代思想だったわけである。
793 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 18:40:25.75
なおハイデガーは、詩的なものを「二つ折れの発露の言伝て」ともいったが、こういうのはどう も、ド助平なおっさんが嬉んで遣いそうなジェンダー・メタファーでありすぎて、バーチャル淑 女のわたくしとしては気分的に好まない。ドゥルーズ的「機械」もまた、従来な(デカルトからマ ルクスまで似たものの「男根」的な)機械に「女」を組み込んだもの、だと、たしか本人が述べた こともあったはずで、こちらも同じくいかにもエロおやじっぽい言い方ではないか。 つまり現代思想もまた、「男根的思考」のヴァリエーションだというフェミニストの批判は、 的を射ていると思われることではある、のではないか、といいたい。
794 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 18:47:00.29
まぐなさんの《現代思想から派生してテロ起こしそうな集団ってあるのか。 》 についてだが、もともと現代思想は、ハイデガーが突撃隊のシンパ、戦後フランス、イタリアの 連中は、新左翼からの流れなんだから、テロを事実上放棄した(本音はプチブル趣味人が多いから、はなからやる気がなかったともいえる)、 にすぎないのじゃないか。まあ、ネグリなんかは、例外なのかもしれないけれど。
795 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/25(水) 18:48:05.73
付け加えれば、当方にしたって、西田派は、海軍の5・15をやったような輩のシンパだった。
>>774 ジャーゴンだろうが普通の言葉だろうがなんだっていいと思うけど、欲望についての言及ってのは、
人間心理自体に欲望を隠す心理があるから、まあいろいろ屁理屈がいるのよ
「ジャーゴン」って言葉の意味がわたしの言う「現代思想という教義」って意味になってたのなら
言わんとしていることもわからなくないが。
797 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/26(木) 22:36:57.14
ヘーゲルのいうところでは、感覚的確証は、言葉を介した反省によって事象となり、存在者は媒 介なしでは現れ得ず、現前とともに、媒介性を拒絶する感覚的確証は、(いうなれば意識の全き外 へ)退き去る、とされているとイポリットは述べたと記憶している。 《(媒介しかつ媒介されるものとしての)差異が反省概念であることをやめ、現実的に実在的な概 念を取りもどすのは、その差異が、たとえば、もろもろの類似のセリーにおける連続性の断絶や、 類比的な諸構造のあいだの越えがたい裂け目といった、カタストロフを指し示すかぎりでのこと でしかないのである。差異は、反省的であることをやめれば、必ずカタストロフ的になる。そし てたしかに、差異が反省的であるのをやめるということと、その差異がカタストロフ的になると いうことは切り離すことができない。》(ドゥルーズ著・財津理訳『差異と反復』河出書房新社) 非反省的な差異(換言すれば、非統覚的な能力の「ダイナミクス」、すなわち、反復的な差異)の「働 き」を、カタストロフィックだとドゥルーズはいうのである。(ちなみに上記に関わらせると、「類 似」のもののほうは模造、「類比」のもののほうは記号、だといえないか。)
一応
>>791 はわたしじゃないがまあミニハンなんて誰でもいいけど
>>790 ジャネットはちゃんと質問すれば説明はしてくれるよ
799 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 00:55:53.95
デリダの話がほとんどないのは、偏っているので、ちょっと書き込む。が、ありがちなことしか思いつかないので、誰か新味のあることを書いてくれるとありがたいものだ。 脱構築主義的には、「オリジナル」な言説と、それに関わる新たな言説によって産出された、若 しくは、それによって触発された、そういったものとしての「複製」の言説も、「正典」的な値 打ちにおいて優劣はないとされた。こうしたうえで、全ての言説が、コピーであり、かつ、オ リジナルである、という、耳に馴染んだ結論が導かれる。およそ、初めにあったとされる言葉 は、たんに形式的な時間軸上で前に位置するにすぎず、終わりの言葉にいたってはありえず、 全部が途中にある、ということになる。「正典」を含むあらゆる言説は、注釈、パスティーシュ、 ヴァリアント、パロディ、だというわけなのだ。 いうなれば、終わりとは始まりの回復なのであれば、または、たとえそうでないとしても、形 式的な、増大する時間そのものとしての主観性の概念とは、これを俯瞰する視点が確保されて いなければありえず、この俯瞰するということが、つまり「空間」的に把握することというな のだったが、だとすれば、ここにある前後はあくまでも定義上にのみあり、こうして言語は、 かかる定義よりも必ず先立つことになる。それは、必ず何らかの法則のなかで成立する――理 屈の上では、法則の無限の選択が可能だとしても――というものである。だが、原初の無定義 性と定義性との境目は、いわゆる「不在」の、原エクチュールと呼ばれる境界概念として確保 されていた。だからようは、こうした思考が、「起源の不在」という別の起源神話を蔓延させる のも当然だったのだ。
800 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 00:58:16.90
脱構築主義的な批評の難点については、これまで数多指摘されてきているだろう。確固とした 主体性の幻想は戯れ的に解体されるべし、というは容易いが、けっきょくそれも、自我の不安 定性を強調し「無責任さ」を称揚することになるだけだと云われたし、かつ、そのような自我 を見ているものが自我主体の二重化された自己の認識なのであれば、けっきょく論理的には悪 循環となることは、あまりにも明らかだというのであった。とはいえ、このような無限遡行や 無限反照(これをして「反復」と云う場合もあるが、ヘーゲルのいう「悪無限」というのにあま りに似ているのだ)などを批判として持ち出したとしても、とうの批判される側に、ある種の開 き直りがある以上は、けっして脱構築主義的なゲームを無効化するものにはなりえなかったの だった。脱構築主義の本意が、このような悪無限を生きることの、その実存の心許なさ、これ を半永久的に継続される批評行為の依るべき唯一の場所とするのであるとしたら、場合によっ ては、このような(認識論的な)ダブルスタンダードにしても、何ら不名誉なことではないので あった。かくして、テクストの快楽主義、占いや暗号解きめいたこじつけや語呂合わせ、シミ ュラークルの万華鏡、欲望する機械の果てしのない駆動、等々これらとっくに日常化した「祝 祭」は、今現在にもつつがなく進行していく、というわけである。 さて、ハイデガーによれば、「言語が語る」のであって、このばあい人間存在はある種の意味の 媒体、ドゥルーズ的に言い換えるなら、多少なりとも自律的な「機械」ということになる(しか し、意識的存在者の「自律性」にあたるものを、どうにか確保したがるのが、これらの思考の、 不徹底なところといえないか?)
801 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 00:59:24.10
そして、ジャック・デリダの考察では、このような「機械」 とは、ある種のマーク(徴しのことで、私のホモだちの名ではない)を生産することだとされ、 ついには、この「機械」のほうが生産を担うこととされるのだった。これは「存在」から産出 された「ロゴス」が、その産出ののちに、当の存在を規定せるようになる、という従来の思考 の「行為論」的な言い換えだと解することができるし、かくいう「機械」が機能する、再度の 言語行為を規律的に促す、ようするに「反復」されるというものだったのである。 以下、続く予定。
802 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 01:52:47.77
ニーチェもデリダもドゥルーズもどうってことない。
狼なんて怖くない
804 :
散歩者 :2012/07/27(金) 10:20:21.70
>>798 別に質問があるわけじゃない。
自分の思いつきをもっともらしい言葉を並べて書いているからあきれただけ。
805 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 10:52:04.22
自分の思い付きをもっともらしい言葉を並べて書く、それが思想・批評だからな。 とにかく、あるていどの予備知識がない人は、このスレにきても無駄だから、 よそにいったほうがよい。 それは、プルーストスレなど、ほかのスレに関しても、おなじことがいえる。
また馬鹿ジャニーズが荒らしてる
>>806 おまえが荒らしだろがw
レジャネはこういうバカを気にせず
書き込みを続けるべし
808 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 14:35:14.89
>>805 アンカーつけなね。
予備知識があるから、もっともらしいだけ、ということがわかるんじゃないか?
809 :
散歩者 :2012/07/27(金) 14:36:17.53
今日もルサマンくんは自分より頭のいい人を2ちゃんから追い出そうと頑張ってるのか
ジャネットは、送信する前に自分の書いた文を見直すくらいしろよ 子供じゃないんだから、読み手に甘ったれるのも程々にしてくれ 悪文を読んでやってる人間にもう少し気を遣ったほうがいいよ
>>811 読まなきゃいいじゃん
下らんバカヤローだな
悪文だと思うなら
おまえが朱を入れて書き込んでみろよ
813 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 17:53:57.71
どこでもいいから、変なところを指摘しなさいよ。 そういう人を最近はついぞ見たことがない。 ほとんど見当違いであはあっても、前はいるにはいたんだが、かえって自分の無知を露呈させるのが知れ渡ったのかして、 する人がいなくなったようだ。
ほとんど見当違いであはあっても、 ↓ ほとんど見当違いではあっても、 露呈させる ↓ 露呈している こういう細部の杜撰さがレジャネの思考の杜撰さを表わしている
>>811 たぶん君は夏休みに偶々スレを開いた文学好きさんだろう。ようこそ文学板へ。
お気の毒だが、ここは2ちゃんだ。気持ちは解るが、君の忠告は無駄だよ。
どれだけ力をこめて正しいと信じることを理詰めで書いても、
脅してもすかしても泣き落しに訴えても、君の嫌うこの唾棄すべき
糞文駄文の投稿を止めることはできない。絶対にだ。
ただ幸い、君が嫌悪するこの悪文の主は毎回同じ署名をする癖がある。
そう、専ブラでNG設定すれば見ないで済むんだよ。簡単だろう?
ではよい夏休み、快適な2ちゃんライフを。
ジャニーズは馬鹿だなあ
817 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 18:19:23.50
814は、かんぜんなバカだろうな。 けっきょく、どこも指摘できないわけである。 だから、異なる意見の表明などは、できようはずもない、であろう。 たんなるタイプミスの指摘と、露呈させる、がおかしいというのだからな。 なら、露呈させる、のどこが「文法的」におかしいか、説明してください。 しかし、815のきみは、物好きだね。私の書いたものを 読まないようにしていのだったら、 いっさい関わり合いにならなきゃいいんじゃないの。 そっちがより簡単でしょう。 私のほうから、きみに何かいうことは、かつてなかったと思うよ。 しかし、なんでそんなにジャネットのことが気になるのか。 時間を無駄にしなさんなよ。
どこでもいいから、変なところを指摘しなさいよ。 ↓ だから指摘したのに・・・ 変じゃないと思うほうが変じゃね?
819 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 18:28:22.14
ほら、足らないやつ、はやく説明しろ。 バカが、つきまとうな。 たいがいにしろよ、おまえ。 おまえのほうが、誰がどうみたって、おれより頭悪いんだよ。 やっかむなっての。甘えが、頭悪いのは、おれのせいじゃないんだから。
820 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 18:29:57.68
露呈する、ことを、何かがさせる、んでしょう。 はやく、文法的に説明しろっての。平野分身君よ。
821 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 18:31:35.92
バカが。2ちゃんに貼りついてんのはお前だろうが
823 :
ゴミ箱 :2012/07/27(金) 18:36:48.74
久しぶりに見たらなんかデリダもドゥルーズも関係無いスレになってるな
824 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 18:41:37.74
ジャニーズは老人だから少しは自制心あるかと思ったら 単なる暴走老人でしたとさ チャンチャン♪
825 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 18:44:21.18
発狂はしてないよ。しかし、迷惑もはなはだしいんですよ。 プーストスレなんか、ほとんど崩壊しちゃってるじゃないの、 せっかくいいムードだったのが、バカのやっかみで。 見飽きてんですよ、この種のルサマン君は。
826 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 18:47:53.54
もっともらしいだけ、なんだから、 指摘してメッキをはがせばいいんじゃないの。 あまえの書き込みにアンカーなんかつけるかよ、ゴミが。
はは まあ、レジャネの言いたいこともわからんではないが 名無しが指摘しているおまえさんの文の拙さの指摘は その通りだと思うぞ それにしてもバカにかぎってバカという言葉を使うな はは
828 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 18:57:11.34
>>825 迷惑って、だれにとっての迷惑だ、あー?
てめーがどんだけ迷惑かいっぺんでも考えたことあっか?
829 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 19:20:25.48
819 :レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 18:28:22.14 ほら、足らないやつ、はやく説明しろ。 バカが、つきまとうな。 たいがいにしろよ、おまえ。 おまえのほうが、誰がどうみたって、おれより頭悪いんだよ。 やっかむなっての。甘えが、頭悪いのは、おれのせいじゃないんだから。 うわー、この品性の無さ 猛暑も吹っ飛ぶ寒さかな
830 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 19:43:01.62
文章つたないなんて言われたことはいまだかつてないよ。 「専門家」が超絶的だと驚嘆したことは何度もあるが。 私は悪いが、王朝風の和歌も謡曲もかけるんでね。雑談スレに少し書いたことあった。 それに、同じ人間が、別人の振りしたってバレてるよ。 たいがいにしてくれっての。あなたが無教養なのは、わたしのせいじゃないんですよ。
831 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 19:46:37.12
とにかく、現代思想の話に絡めない人は、ここに来なきゃいいんですよ。
832 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 19:54:08.54
ジャビットもムキになるなよw どうせ何を言われたって直す努力なんかする気ないんだろ?
833 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 20:02:51.92
このジャニーさんって、ハンネ泥棒とか村上春樹とか連投してた人?
834 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 20:24:30.60
しかし、コテ粘着なんてしている人は、 自分の矮小さがいやにならないもんか、と思うよ。 そういうことを、ついついしてしまう、その心理は理解しかねるものだな。 私に粘着して、いったいなにかいいことあるの? 無駄だと思わないですか?
835 :
散歩者 :2012/07/27(金) 20:31:03.31
836 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 20:32:23.70
自演はいいから、散歩者は、何か「もっともらしいこと」書けよ。
837 :
散歩者 :2012/07/27(金) 20:36:32.16
>>836 わざわざ自演じゃないと書いてるのに、理解できなみたいだな。
短くてもそれぞれの文章を読めば分かりそうなものだが。
もう君を相手にする気はないから、これで終わり。
838 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 20:37:18.06
しかし、「もっともらいいこと」書くのは、私に好意的な人か、 中立的な人で、粘着に「もっともらいいこと」書く人なんかいたためしはないぞ。 まあ、相手にしてた、とか、粘着しているほうが言うんだから、すごいよな。 とにかく、きみの知能が低いのも、報われないのも、私のせいではないんだから、 熱意はよそに向けたほうがいいな。
839 :
散歩者 :2012/07/27(金) 20:38:29.21
>>837 また失敗。
>理解できなみたい は 理解できないみたい の書き間違い。
840 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 20:39:15.31
散歩者さん、相手にしてくれよ。 はやく「もっともらしいこと」書いてちょうだい。
841 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 20:41:46.76
ふつう粘着の文章なんか気にするかァ? ただ、2ちゃんねるが、ゴミ溜めだとして、粘着はその最下層にいるんだから、 すごいとはいえる。
842 :
散歩者 :2012/07/27(金) 20:41:55.82
>>840 他の人への罵詈雑言をちゃんと謝罪すれば、一つだけ書いてあげるよ。
843 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 20:48:43.62
散歩者さん、もうしわけありませんでした。 では、お書きください。
844 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 20:49:38.40
他の方も申し訳ありませんでした。 さあ、どうぞ。
845 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 20:55:17.54
>>833 違うだろw
ピース、アセンション、ムー達に憑いて荒らすのは同じだが、将くんは基本名無し。
がにのをてにをはが変なのと、無駄に人名書名を盛る点は共通してる。
将臣君は日本人を挙げるが、対してジャイアンが出すのは外人名が多い。
846 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 20:59:26.79
まったく教養ないやつだね。 日本古典文学読んだことないのか?
847 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 21:00:21.02
ほれ、早く論説をお書き下さい。 できれば、ある程度長めにね。できれば、だけど。
848 :
吾輩は名無しである :2012/07/27(金) 21:13:06.46
849 :
散歩者 :2012/07/27(金) 21:17:15.46
>>847 ちゃんと謝罪すれば、と書いたんだ。
ちゃんとの意味もわからないのか?
おまけに言っとくと、俺に謝罪すれば、なんて書いてないからな。
そんなことも読み取れないんじゃ、何を書いても無駄かもしれないな。
850 :
散歩者 :2012/07/27(金) 21:19:19.28
851 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 21:24:03.37
では、これで今後は、もうレスしないでくれるのね。 どうもありがとう。
レジャネと散歩者が、ピースと佃煮のような名コンビに成長されることを期待しますw
853 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 21:46:54.60
しかし、ムー大陸さんも、なんでそういうこと書くかね。 私は一方的に粘着されていただけでしょう。 上に書いたあなたのシネマ読書会スレからの引用に関する注釈を読みましたか? あなたが熱意を以て語っていた「本意」を、 私以上に、理解している人がいますか? もしや、あなた以上に、あなたの「本意」を理解してたんじゃないでしょうか。
いい歳こいてるんだからもうちょっと余裕持ちなさいよw おならプー
w
まさにガス抜き
857 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 22:15:38.02
ミニハンさんが名無しでいる理由がわかるね。 論の立つ人へのやっかみがはげしくて、されるのも、見るもの、うんざりだね。 やっかむのは、これが、たいてい、入門書引き写し的なことしか書けない人達なんじゃないかと思うのだ
なかなか自意識過剰なんだな、このレディーなんとかというお人は。 いい年こいてるってわりに、この自意識過剰さというか、自意識過剰っぷりは中学生並みだろ。 お前の書いている長文なんて、大半が読むに値しないゴタクだろ。 俺はほとんど、っていうか一行も読んでないけど?
859 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 22:35:53.64
かつて蓮実重彦の書いたものよりは、あきらかに「理論」的水準は高いよ。 私が自信過剰なのは、自信を喪失させるような日本人を、ついぞ知らないからだな。
>>859 ひとこと。
基地外=レディー・ジャネットに何を言っても無駄。
以上っす。
861 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/27(金) 23:05:42.02
無駄と云いながら、ついつい書いてしまう、それがストーカー心理なのであった。 いかに否定しようとしても、私はつきまとられており、きみはつきまとっている。 この非対称性はいかんともしがたいのだった。
862 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 11:04:46.33
大体はポスト構造主義とかは出来合いの材料を使ったアレゴリーの パッチワークだろ。アレゴリーにしても、何らかの物証みたいなものが なければ、発想の刺戟にすらならないw ドゥルーズなんてお伽話かポエムだよw よくも周囲におだてられて一杯書いたもんだw ジャネットへ 思想の解説をいくらしても、あるいは他人の思想に感想程度のことを いくら述べても、それ自体は思想ではないw 君が嫌われるのは、自己陶酔が露だからw ヘーゲルですら批評家なんだから、柄谷や浅田、宇野らが思想家など 有り得んw
863 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 14:23:20.90
あっさりと正式処分か。アカハラ、セクハラ。ツィッターでの書き込みも 名誉棄損・プライバシー侵害行為として解雇理由に加えられている。
865 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 15:02:05.85
井上は労働組合を知らない程世間知らずなのか 但し非常勤講師組合は止めとけ!
866 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 15:04:12.04
真相は分からないが、これが普通の結論だろうな。 講師は大学側に対して事実の説明を拒んだとしか見えないし、大学側の対応を不法だと決めつけて実力で阻止しようとしてしまった。 現代思想風の言葉を大学が理解するのが当然だと思っていたのかも知れないが、傍目からは空疎な単語の羅列に見えてしまう。 事実関係の疑問に対して思想的な概念を提示しても噛み合うわけもない。 講師がなぜ事実の説明ではなく、思想的な概念の提示にこだわったのかは知らない。 また、それが大学という一般的な組織運営に対して力たりうると考えた理由もわからない。 今後の元講師の考えを見たい気はする。
868 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/28(土) 17:52:08.69
ジャネットへ 思想の解説をいくらしても、あるいは他人の思想に感想程度のことを いくら述べても、それ自体は思想ではないw そのジャネットにつきまとっている君はなんだ? 君のはそのジャネットが書いたものへの感想だろう。 私についてじゃなくって、ほかのまとまったことを何か書きなさいよ。 それに、だいたい私は、ちょっと前まで現代思想を腐してたんで、シンパに恨まれてたんだぞ。
869 :
まぐな :2012/07/28(土) 17:55:16.99
>>867 これが学問の学び手たちか、ケッ。オウムと変わらんな。
870 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/28(土) 18:00:31.18
私について書くんだったら、せめて、長々書いてるんだから、そのどこかに突っ込むか、 英語で書いたものか、古典語で書いたものを、添削するくらいにことをしてくれ。 チンピラの遠巻きにしても悪口みたいなのでは対等者間のお話にならんのだ。
871 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 18:00:44.88
石原千秋とか津原とかwフェミのおっさんて何で男の癖にフェミ?とか 不可解なんだがw この際、井上摂を弁護したらどうなんだ?w 常識的には自分のゼミの学生に下書きをする行為はアカハラと見なされても 仕方ないだろうが。 男子学生の対応は年上の女にレイプされたイケメン虚弱男の 一般的反応かもなw
872 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 18:22:28.53
>>871 なぜ弁護?
下書きをアカハラというのもわからないし、最後の2行は事実関係不明の現状で書き込むようなことじゃない。
873 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 18:39:48.34
>>872 前半は冗談だ。
このケースをアカハラと視るのは世間の常識だろう。
下書きは学生が通常の場合に自分で考える権利を犯してると、
俺は思う。一線を超えてる。
874 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 19:06:40.32
>>873 なるほど。
俺はまた、レポートが書けない学生に単位を取らせてやるためかと思った。
なんでそこまで単位をやらなきゃいけないかはわからなかったが、ただの親切とかゼミ生を減らしたくないとか、そんな程度に思ってた。
こんな誰も知らない奴の事を、永遠とくさしてる奴なんて どうせ関係者
延々と、な
877 :
吾輩は名無しである :2012/07/28(土) 21:03:51.45
>>875 誰も知らないコテハンの話より、ドゥルーズの研究者らしいしネットでは結構話題になってる事件だから、こっちのほうがおもしろい。
研究者のゴシップなんだから、有りでいいと思うよ 旬の話題だしな
879 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 00:07:59.63
井上は研究者でも学者でもないし 教師としてもどうだか 多分、この人は授業がパフォーマンスの場で 自分は演技者、学生は観客だったのだと思う。 そういう授業させてくれたのが中央大だけだった。 母校の慶応(英文学の院出身)では英語しかやってない人。
路上パフォーマンスの方が自由度高かったりするしな
881 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 00:11:06.68
あとゼミに劇団の関係者呼んで、 そこの雑誌を売ろうとしてたみたいね。 関係者に講演させるのはいいが、雑誌売るのはまずくね? とにかく、業績もないのに現代思想や舞台芸術の授業をさせてくれていた中央大に対して、 調子こいて超えてはいけない一線を超えた感じだね。
882 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 00:29:01.27
ひとにみられるのが快感なひとだろ
884 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 01:12:16.29
>>879 そこまで言うかなあ?
どっちみち優秀な大学教師なんてたくさんはいないだろ?
東浩紀 ?@hazuma
いずれにせよ、ぼくは18だか22だかのいい年齢をした男女を子どものように愛で育てることはまったくできない性格なので、現在の大学には向きませんな。来年からは、もう大学で教えることはないと思います。
東浩紀 ?@hazuma
大学の先生って、20も30も下の学生のあんなにバカにされて、よくみんなやるなとマジで思う。
こういう教師と変わらないかも知れない。
885 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 01:17:56.55
若年教育(というか日本の大学が教育機関としての話だが)と 現代思想というのはそもそも矛盾しているのさ
886 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 02:13:29.53
井上摂が「現代思想」という言葉を使ってたのか? 現代思想として一括りにするところはファッショナブルだがw
でももうこれ以上燃料来ない気もする>井上問題
今北産業だよーん へぇ、こんな事件があったんだ。大学教育とか、あんまり興味ないんで。 そういえば、井上摂って由良君美に関する本に出てきた人だったな。 んで、要するにハラスメントの事実があったかどうか、が鍵なんじゃないの 「講師」っていうのはテニュアじゃないんだから契約社員みたいなもので 元々身分は保証されていないんでしょう? 「不当解雇」というのは大袈裟すぎじゃない? いつでも切られるよ。 井上側はハラスメント啓発委員会?側の訴えに対して 真摯に受け止めて反論すべきだと思う。
889 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 09:43:01.21
>>888 いや、いくら身分保証がないといっても1年間は契約期間があったのだろう。
学生の科目登録も終わってたみたいだから、理由がなければ不当解雇といえる。
雇用問題として扱うと、あの経緯ではどちらも難しいかもしれない。
元講師側は調査に協力しなかったし、大学側は十分な調査をしないまま結論をだした、ように見える。
890 :
まぐな :2012/07/29(日) 12:20:54.27
>>888 何というか由良時代の感覚のまま現在までずっとやってきてる感はあるような気がするな。
高卒が紛れ込んでるな
892 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 17:23:43.39
以下学歴コンプレックスの流れ
894 :
吾輩は名無しである :2012/07/29(日) 18:41:06.03
学歴とデリダ、とか、学歴とドゥルーズ、とか、学歴が文学にあたえる影響の存在論的考察、なんてのもいいんじゃないか。
895 :
吾輩は名無しである :2012/07/30(月) 06:12:08.75
井上摂が戦えるとすれば、大学の授業閉鎖や井上の退職に到る手続き上の 問題でだろうが、大学側の手続きに問題はなかったのかね? 中央大学は司法試験の合格者を多く出してるところだから、手続きに法的 問題ありなら、とんだ赤恥をかくことになるがw 津原と佃煮の裁判関連スレはこれのミラー・スレかもw マイケル・ハートの本が売れてるのなら、専属和訳家を志願すれば 良いんだが、売れ行きはそれほどでもない?w
そういや俺大学は中退したから、学歴は高卒だなあw
ふうん
898 :
吾輩は名無しである :2012/07/31(火) 07:07:16.72
フランス国立高等師範学校や高等行政学院の存在のように、 フランスのエリート養成の従来の中心は大学じゃなかったんだが、 今はどうなのか? デリダは高等師範学校に3回目の受験で受かってるから、 あまり優秀な方じゃないし、ドゥルーズはパリ大学。 フランスのインテリも徐々に非エリート化?してるんじゃないかな?
そりゃ、受験秀才=本当に才能がある人間、ではないんだから当然だろう。 蓮實重彦は東大一浪だし、村上春樹は京大一浪で早稲田でしょ フランスのエコールノルマルもエコールポリテクニックも 勉強は出来るかもしれないがつまらない奴が多そう。 かの国から最近輩出されている政治家の顔ぶれを見ると かつての偉大なフランスの政治家たちと比較して果てしなくショボいので その印象を強くする。
900 :
吾輩は名無しである :2012/07/31(火) 07:30:20.66
デリダやドゥルーズはどう見ても優秀じゃないだろw 日本人2人は知らないがw 浪人すると出世志向が強まることは確かだろうが。
英米系の哲学者は学力エリート多いね。 デイヴィドソンはMBAトップ層だし、チャーマーズは数学オリンピックのメダリスト、 クリプキは高校生の頃に様相論理学の完全性証明してる。
902 :
吾輩は名無しである :2012/07/31(火) 10:22:14.30
で?それが何? 走ってる自転車はなぜ倒れないんだ?凧はなぜあがるんだ?なぜ?なぜ?なぜ? なぜだぁぁぁ・・・ で、正直者は落第する。 わからないってことに正直じゃないバカガキが、数理のお勉強では高得点をとって、くだんない科学者哲学者になるんだよ。(嗤)
903 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/31(火) 12:53:21.50
試験中に「なぜ、なぜなの・・・」なんて考えちゃって、まともな点数とれないというのは、ただの情緒障害じゃないのか。
村上春樹が京都で学生をやってたら、作風ががらっと変わってたのかな
905 :
レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc :2012/07/31(火) 14:40:51.38
ざつにいうと、欧米の場合は、公的教育を受ける期間の長さというのは、ほとんど階級的なものと重ね合わせになっているが、 日本や韓国の場合は、欧米先進国ほどすっかり重なってはいない。 つまり、欧米の「エリート」というのは、当方ほどの大衆競争にはさらされていないので、こっちが考えているほどは勉強してないわけで、 そのおかげで余力がある。余力があるうえに、大半は家が裕福だから、望めば教養も身につけられる。 しかも、あちらさまでは、英才教育を毛嫌いしない。 戦前の日本は、欧米型だったが、いまは比べようもないな。
個人の知性といっても、大半は家の力だよなあと、見てて思ふ
907 :
吾輩は名無しである :2012/08/01(水) 01:02:30.20
デリダのオイディプスはソフォクレスの戯曲のオイディプスであって、 ホーマーやヘシオドのオイディプスとは全く違う。 後者によれば、オイディプスは自分の実父親殺しや母子相姦を知ってからも しばらくは平穏に生きており、死んだのは戦争によってだということを Martin P. Nilssonが指摘してる。
908 :
吾輩は名無しである :2012/08/01(水) 01:36:28.31
ジャネットみたいに、デリダやドゥルーズも教養や御けいこ事の 一つにされちゃかなわないよなw 「現代思想」なんて言葉も「現代」という言葉をなめてるw
ルサマンくんが人に勝てるものって2ちゃんで費やした時間だけなんだろうなw
EVEオンラインに費やそうぜ!
911 :
吾輩は名無しである :2012/08/01(水) 14:18:33.33
井上摂の「X君への手紙」の65以降を見てきたが、ちょっと井上摂には 不利だと感じたな。井上の方から論文の下書きを提案して、下書きを 渡されたX君が直に侵犯行為として不快感を表明している。2人の間に 恋愛感情があったとしても、それとは別に「下書き」の件は師弟の 間柄のルールを踏み外している。 ところで、「証言置き場」は無くなってる。 しかし、俺も暇やな〜〜〜〜w
師弟関係も恋愛関係も原理は同じ欲望だがな
914 :
吾輩は名無しである :2012/08/09(木) 11:33:43.24
ルサマンはアセンションだから トリップ解析する能力などはない
アセはまだちゃんと議論できるけどな ルサマンくんは議論にならない
ルサマンくんは議論する能力がないのが劣等感の元なんだからそらそうだよ
917 :
◆tCyQN4XsO2 :2012/08/10(金) 00:34:17.83
あげ
デリダとかドゥルーズのモデルって学問と呼ぶにはかなりおおざっぱだし それを利用して今ある問題を解決するためのツールとして役立てなかったらしょうがないよね 彼らの思想それ自体を語ることに大して意味があると思えない 最低限の文献研究は必要だろうけど
919 :
吾輩は名無しである :2012/08/15(水) 08:57:29.91
ようするに知的エンタメだろ まだすこしは需要があるということ
知はエンタメではあるな
921 :
吾輩は名無しである :2012/08/15(水) 11:14:18.85
そっちの話をしたいのねw
923 :
吾輩は名無しである :2012/08/15(水) 11:20:07.03
まじめな性格だからね
知がエンタメってのは学問全般を文学的にとらえすぎてるよなあ
科学も楽しくね
テスト
>>925 楽しめたらエンタメっていうのは違うだろ
エンタメはあくまで娯楽だぞ
娯楽とは楽しむことでは
929 :
吾輩は名無しである :2012/08/17(金) 07:46:52.90
楽しくてためになるなら文句ない だが現代思想はそうなのか?
930 :
吾輩は名無しである :2012/08/17(金) 16:24:27.77
以下は塩沢由典の未出版の論考「レギュラシオン理論の方法論的批判」から 個人の役割をかんがえるにあたって、レギュラシオニスト自身はそのような言葉をもちいないが、その実際の思考においては、「実践」や「投企」といった実存主義・人間主義の立場に舞い戻ってしまっている。こうした言葉づかいから出発したサルトルは、しかし、もっとよく 考えていた。立場は同じであるがけっして組織も団結もしていない集列状態にある諸個人は、いかにして社会を変革する主体になりうるのか。かれらが有機的に結合した集団に組 織されていく回路はなんなのか。サルトルは、こうした問題を設定し、それを解明しようとした。変革の「主体」形成を考えようとするなら、これは避けて通られない問題である。リピエ ッツが思い描いたように、ひとびとが既存の慣行に従わなくなりズレを起こすようなったといったしても、それは革命なり社会変革の十分条件ではない。それは必要であるかもしれ ないが、十分ではない。アルチュセールが歴史における主体の概念に反対したとき、かれは労働者や革命党の役割を否定したのではなかった。歴史の過程は「つねにすでに所与 の構造化された全体」のなかにあるのであって、それは労働者たちのたたかいといえどもそのような全体のなかで展開されることを強調したにすぎない。レギュラシオニストたちの アルチュセール批判は、アルチュセール自身を理解していないばかりか、アルチュセールが批判の対象としたサルトルの問題設定からも後退してしまっている。リピエッツの先行理 論批判は、批判対象である理論が解こうとした問題を解くことによってではなく、それを忘却することによって成立している。このような批判から、理論の深化が得られることはない。
931 :
吾輩は名無しである :2012/08/17(金) 16:25:39.01
ボワイエは、ややことなる観点からアルチュセールを批判しているが、その批判もリピエッツと大きく変わる質のものではない。アルチュセールは当時「資本主義の歴史はその不変の要素(商品関係や賃労働関係)の再生産だ、そして構造こそが再生産されるのであって 歴史は無だ」といっていた、とボワイエは主張する。それにたいしボワイエはヴィスコンティの映画『山猫』の「何も根本的に変わらないためには、すべてがつねに変わらなければならない」という警句を引用し、アルチュセールをつぎのように批判する。「資本主義がその 不変の要素を再生産するためには、資本主義はふだんに新しい組織形態、新しいイデオロギー、新しい商品、新しい立地を創案していかねばならない。・・・不変の要素が自動的に再生産されると考えるのは、まちがいです」 ここには、あきらかにふたつの誤りがある。第一は、アルチュセールが「歴史は無だ」あるいは「歴史は何の重要性ももたない」といったか、あるいは少なくともそれを含意するようなことをいった、という誤りである。これは、一つの誤解であり、しかもかなり意図的な誤読で ある。アルチュセールは、理論におけるマルクスの絶大な革命を、かれが「歴史の科学」=史的唯物論を創始したことにあると考える。かれはマルクス・レーニン主義の公式にしたがい、マルクス主義を唯物弁証法という哲学と史的唯物論という科学との結合と捉える。しか し、史的唯物論は歴史をたんに科学的に読み解くことではない。マルクスは、歴史の科学的な読み方を始めたのではなく、「歴史の科学」(science de l'histoire)という新しい科学を創始した、とアルチュセールは考える。
932 :
吾輩は名無しである :2012/08/17(金) 16:41:07.56
その偉業は数学という大陸に初めて到達した古代ギリシャ人や物理学の大陸を切り開いたしたガリレイにも相当し、歴史の大陸を切り開くものである(Althusser,1972, p.53:アルチュセール, 1974,p.217)。マルクスを歴史の科学の創始者とし、かれの科学的達成の意義 を明らかにしようとするアルチュセールが、「歴史は何の重要性ももたない」、「歴史は無だ」と主張するだろうか。ありえないことである。 では、なぜこのような誤解が生じ、また堂々と主張されるのであろうか。その理由はいくつか考えられる。まず、構造主義一般に認められる反歴史主義的な態度がある。構造言語学は言語の系統学に対し共時的構造の重要性を主張して出現したものであるし、構造 人類学はいわば歴史をもたない種族を対象とする研究である。そこに歴史にたいするある種の侮蔑が表明されても不思議はない。しかし、構造主義マルクス主義は構造主義一般ではない。たとえかれが一時期、構造主義をもてあそぶことがあったとってしても、アルチ ュセールは構造主義一般ではない。かれを批判するには、かれ自身の言説を問題にしなければならない。しかるに、アルチュセールにとって、史的唯物論はなによりも歴史の科学である。そこには社会構成体は歴史的な存在であるという明確な主張が表明されている。
933 :
吾輩は名無しである :2012/08/17(金) 17:12:27.70
非常に面白い。
934 :
吾輩は名無しである :2012/08/17(金) 17:22:59.87
著者名と題名でググれば全部読めます。
935 :
吾輩は名無しである :2012/08/17(金) 17:43:37.58
おもしろいけど、続きは探して読め、ということ?
ためになるってなんのためだろう
のためカンタービレ
939 :
吾輩は名無しである :2012/08/24(金) 08:38:56.25
感覚表象とゼロ、換言すれば、時間における直観の完全な空虚との間には、ある量を持った差異 がある。というのは、所与のいかなる度合い(強度)の光と闇の間にも、いかなる度合いの暖かさ と完全な冷たさの間にも、いかなる度合いの重さと絶対的な軽さの間にも、いかなる度合いの空 間の樹実と空虚な空間の間にも、あたかも、意識と完全な無意識との間にさえ、いつもなお、よ り小さな度合いがあるのと同様に、いつもなお、より小さな度合いを考えることができるからで ある。したがって絶対的な欠乏を証明するような知覚はありえない。たとえば、ほかのさらに度 合いの強い意識によって打ち勝たれるにすぎない意識、とみなされえないような心理的闇(無意 識)というのものはありえない。こうして、悟性は「感覚はすべて、したがって、すべての現象の 実在的なもの(感覚表象)は、度合いを有する」という原則によって、経験的表象(現象)の本来の性 質を構成する感覚さえも、先取りすることができる。これは、自然学に対する強度または内包量 の数学の第二の適用である。(カント『プロゴーメナ』)
940 :
吾輩は名無しである :2012/08/24(金) 10:38:10.88
↑樹実は充実 プロゴーメナはプロレゴーメナに訂正
虚無はなく全ては連続的な実在であり、これを元にして不完全ではあるが 悟性という名で称される我々の認識が存在する。 まあ、こんなことを言いたかったんでしょうね。 カントは回りくどいから。
942 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 10:20:06.88
おっしゃるとおりでしょう。 なお、もちろんお分かりの通り、そういう考え方は古代からあるものでしょうね。 それが、あたかもベルクソン→ドゥルーズの「独創」であるかのように言っている ドゥルージアンがいかにものを知らないか、ということがわかるというものです。 ついでにいえば、類似のものはたぶん仏教思想にもあるでしょう。
「ドゥルーズがこう言ってた」も「カントがすで言ってた」も他人の褌ではあるな
狐同士が「どっちの虎の威がつおいか」言い争っている
945 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 10:50:00.08
誰そ言はかくかくしかじか、というときに、何らかの批評性を持つかということが肝心なんであって、 言った「内容」がどうたらなどというのはそれほど大事ではない、といいたいだけさ。
>何らかの批評性を持つかということが肝心なんであって、 それこそが「虎の威」じゃね
そもそも
>あたかもベルクソン→ドゥルーズの「独創」であるかのように言っているドゥルージアン
ってのがわたしはわからんからな
>>942 の被害妄想なんじゃないかね
948 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 10:55:34.70
たとえば、前田英樹などは、盛んに言っていたね。
という「批評性」あるいは「虎の威」でした。
950 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 11:52:06.34
(浅田)同一性という土俵の上に「同一性>差異」という関係がある場合、 「差異>同一性」という逆転にとどまらず、土俵自体に差異をもってこよ うとするんですね。同じように、たとえば、男=人間という土俵の上に 「男>女」という関係がある場合、「女>男」という逆転にとどまらず、 土俵自体を女にするために、「女になること」を持ってくる。さらに、 「子供になること」とか「動物になること」とか……。(参照:定義: 概念の分割とその自己言及的パラドックス) (柄谷)そうです。ぼくは哲学史はそのような形式的な転倒の歴史にす ぎないと思う。新しい考え方なんてものはない。その場合形式的な転倒 そのものに意味はない。誰でも考えられることですから。アルチュセー ルが言ったように、そのことが意味をもつのは、形式外の何かによって だということです。それをぼくは歴史と呼び、物自体と呼んでいるわけ です。その意味で、『千のプラトー』の提出した新しい二項対立が重要 だとしたら、それはその時点での歴史的文脈の問題です。それに意味を 与えている現実的文脈が変わったときに、いくらでも反動的になりうる んですよ。現に、日本の80年代の状況において同じ調子でそれをやっ たときに、すぐ中沢新一みたいにチベット仏教が平滑空間になったりす るんです。
どうも自分の被害妄想という心理を「(自分が)批評性(がある感じること)」と言い換えてるだけな気がするな。 「父にぶたれる」幻想か。
952 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 11:58:58.93
それはそうだろうな ただポストモダニズムは妄想に意義を認めるからな
>>950 浅田の言う「土俵」ってのが要するに「相手の「土俵にしている」という心理についての妄想」なわけじゃん。
相手の言っていることを「土俵にしている」とするのをまず説明しなければならんだろうな。
どの文章のどの言葉から、その発言者が「それを土俵にしている」としていると考えたか。
「意義」が妄想なのだから、「妄想に意義がある」というのはトートロジーみたいなもんで、 それを論拠にするのは論理として成り立たぬだろう。 いやまあ現代論理学もm命題自体が、いやそも名詞一つにトートロジーが含まれている なんて話もあるけどさ。
956 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 12:20:27.16
そのそもが、哲学者・思想家・批評家なんてのは虚業家だからさ。 妄想商売人に、おまえがいうのは妄言だといっても仕方ないだろう
>>954 って話がドゥルーズ哲学のキモみたいなもんで、
もしそれを
>>952 という話だと考えたらそらカントとかって(物自体とは神である)
伝統的西洋哲学と同じ話だとはなろうな。
いや別に同じ話でいいんだが。
こまけー話だし。
>>956 「言っても意味はない」
これは別に「意味はないことを認めるなら言ってもいい」って話じゃね。
「父にぶたれる」幻想なんかは、ここでの「被害妄想的な「批評性がある感じ」というような 「意義という妄想」」の心理説明ではあろうな。
960 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 13:11:50.73
ただね、一部の分析哲学系みたいに、 自分たちがやっていることは妄想的ではない、 と思っているようなのよりは、批評性あり、という妄想に くるしい言い訳を見出すほうが幾分かましだ、と、私としては思う。 ちなみに、分析哲学系は、かつての新古典派経済学者とよく似ているよ。 やっていることが、あたかも「科学」的であるかのごとく、暢気にも錯覚しているということがね。 たぶん、妄想的なことを妄想的だと気づかないでやる、というのはアメリカ的妄想癖なんだろう。
>>960 それ「一部の分析哲学者」が「妄想を妄想だと思っていない」いわば
パラノイア患者のようなもので、それよりか自分は正常だ、って言ってるだけじゃね。
その「一部の分析哲学者」がどうかわからんし。
なんかこう非理論的な印象論ばっかな気がするな、君は。
よくわからんが君と君が批判している「妄想を妄想だと思っていない分析哲学者」の
違いがよくわからない。
君も「妄想を妄想わかってない人」だとわたしは思った。
「たぶん、妄想的なことを妄想的だと気づかないでやる」という君の妄想でしかないんだよね。
君は「分析哲学者は妄想を妄想だとわかっていないという君の妄想だと妄想だとわかっているのかい?
君の言う「妄想的なことを妄想的だと気づかないでやる」「分析哲学者」を知らないわたしから言えば、
>>960 は君の自己言及にしか見えないんだが。
君が自分自身のいやだと思う部分を「分析哲学者」に投影して一人相撲をしているだけのように思える。
具体的に誰のどういう文章をそう思ったのか、とかそういう話をしてくれないとなんとも言えん。
>>953 の話と同じ。
浅田の言う「土俵」などは浅田の印象論でしかないだろう。
個人の印象論なんだからちゃんと説明してくれないとわからない。
963 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 16:32:46.21
論理的、というのは、どういうことをいうのだ? 非論理的、との区別をどうつけるかを、まずはあなたが書いてちょうだい。
964 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 16:40:31.65
ハゲだな、つまり不毛w
>>962 訂正
君は「分析哲学者は妄想を妄想だとわかっていない」という君の妄想を妄想だとわかっているのかい?
ですた。
君にとっての「批評性」ってむしろ君の分析哲学者についての批判である
「自分の妄想を妄想だとわかっていない」ことな気がするんだけど。
君は「批評性」という君の妄想を妄想だと説明できなかっただろう?
>>963 >>961 の話かい?
なぜ
>>960 が「一部の分析哲学者」を「妄想を妄想だと思っていない」と思ったのか論理的な説明が
なされていない、という話だ。
「論理」とは意味連鎖の中の一つの連鎖の仕方であり、誰が受け取っても同様の意味連鎖をすること、
一義的(換喩的とも言えるが)な意味連鎖の仕方だな。
>>964 ああお前かw
意義とは妄想であるゆえ妄想を解体していけば不毛にはなる。
966 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 17:20:00.99
>「論理」とは意味連鎖の中の一つの連鎖の仕方であり、誰が受け取っても同様の意味連鎖をすること、 一義的(換喩的とも言えるが)な意味連鎖の仕方だな。 いまさらこんなこという人がいるのか。 そういうのが妄想的だと気付かない妄言なのだと思うが、まあ言うだけ無駄だろう。
967 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 17:23:31.13
>>965 俺はお前にとって不毛ではないかと言ったんだw
>>966 「そういうのじゃない論理」ってのが「意義という妄想」になってなかろうか。
>>967 >>957 >これは別に「意味はないことを認めるなら言ってもいい」って話じゃね。
わたしにとっては最初から「不毛」だよw
結局「不毛だ」とか「意義があるかどうか」すなわち妄想の話になるんだよなあ
さて、では「不毛でないこと」「意義があること」について語ろうか。 君たちにとって「不毛でないこと」「意義があること」とはどういうことだい?
971 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 17:55:38.37
>>970 俺にとっては新しいアイデアを獲得することだね。
972 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 18:04:58.26
じゃ。
>>971 考えようによっちゃ常に毎秒毎秒が「新しいアイデアの獲得」になり「意義がある生き方」になるなw
そしておそらくそういう病気が強迫神経症だ。
すべての言葉に「新しいアイデア」となりうる「未だ自分が知り得ない意義」を妄想してしまうゆえ強迫症になる。
被害妄想とも言われている症状である。
それが「新しいアイデア」であるためには「未だ自分が知り得ないアイデア」でなければならぬだろう?
論理的に考えて。
結局それを「新しいアイデア」と認識するかどうか、君の認識問題、心理問題なわけだ。
妄想でなんとでもなるだろ、「新しいアイデアかどうか」とか
975 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 19:53:41.71
埋め
976 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 20:25:04.46
>>973 お前がどれだけ腐ってようが興味はないw
結局「新しいアイデアであること」という「意義という妄想」だと思うんだなー その「意義」とは外から与えられるものではなく自身がうちで作り出しているものだ、って考え方なわけだな どぅるーずてつがくってそういうものかと
978 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 20:43:02.67
>>977 俺以外に新しいアイデアを提示出来る者は文学板にはいないw
お前らは受け売りだけの死人のようなものだw
へーすごいなー
980 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 20:56:10.24
カニは自分の甲羅の大きさにあわせて穴を掘る、だって。
暴カニ男
982 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 21:53:47.49
新しいアイデアを持つ人間は2ちゃんにはいねーよ
983 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 21:54:56.58
2ちゃんにいるのは精神病患者
>>983 そんなふうに言って自らを慰めるしかないオマエが哀れだ
雑談スレの数学哲学論議も見ててなんかかわいそうになってきたな 二人とも
987 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 22:01:40.12
精神病患者という言葉に敏感すぎw
988 :
吾輩は名無しである :2012/08/25(土) 22:19:55.95
ムー大陸はめげないな 2ちゃねらーとしての情熱はすごいもんだ
989 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 01:09:58.16
すべてを知る男、その名は
990 :
ウルセー脳無し。解ってるような口を叩くんじゃねえ。 :2012/08/26(日) 01:18:37.49
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逝ったれーー !! _i.#===,i〈'゙ \ ∧/ /⌒ \人 ∧人/
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ガッ , `つ/ ,.イ ̄ ̄// )) /. V \ .. .┃ ┃
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991 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 02:13:47.78
はははw
992 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 03:27:04.23
ひひひ
埋め
994 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 19:41:30.99
梅
995 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 20:05:22.17
叡知界(ヌーメノン)と現象界(フェノメノン) 物自体は叡智的基体(実践理性批判) ヌース(ヌウス、希: νους)は、理性、知性、精神、魂等々を意味するギリシャ語。 アナクサゴラスは世界はヌースが支配しており、人間はヌースを把握することができると考え た。また、プロティノスは万物は一者から流出したヌースの働きによるとした。ストア派において はロゴスとほぼ同義で用いられる。
996 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 20:06:30.95
物自体(ものじたい、独: Ding an sich、英: thing-in-itself)は、ドイツの哲学者、カントがその哲学 の中心概念。英語圏ではギリシア語に由来するnoumenon(nous「精神」の意)を主に用いる。
産め
熟め
膿め
ピースってうんこくさいな
1001 :
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