いい加減飽きたいんだが「中観」いろいろおもろくて困る。
さて今日は「縁起」について考えよう。中村は「縁起」とはまさしく相互依存かつ相互否定のことであり、「空」と同義語と
考えて差し支えない、とまで書いている。
なるほど、「相関」という事象が「縁起」であり、それが一切である世界が「空」とかそのあたりか、と解釈してみた。
これについて中村はおもしろい論を展開している。
それは「縁起」を「縁によって起こる」と解釈するか、「縁って」と解釈するか、という違いである。
これとかもうほんと細かい違いで、あたかもキリスト教の東西対立の聖書解釈の差異のレベルのようにも思えるが、一応見ていくとちょっとおもしろい。
「縁によって起こる」は「縁によって」と「起こる」の二つの段階を経ていることになり、「縁って」は一つの段階しか意味しない。
ここでわかりやすく「縁」「縁起」を「相関(性)」と言い換えて述べれば、「縁によって起こる」とは「相関性によって起こる」ということであり「縁って」とは「相関する(して)」ということになろう。
これは実は物理的空、開放系なら大した違いはないのである。
というのは、ある事象はすべての事象に関係しているということだから、
A→B,C,D・・・ −(1)
というわけだが、「縁によって起こる」のも、一切が空ゆえに、ある事象はすべての事象に関係しているということだ。
したがって、「縁によって起こる」とは、たとえば
A→B,C,D・・・ かつ B→A,C,D・・・ −(2)
ということだ。
つまり、「縁って」だと(1)であり、「縁によって起こる」とは(2)である、となる。
これは開放系でかつ前提に「一切は空である」という条件があるならば、あまり大差がない。
(2)は
A→B,C,D・・・ かつ B→A,C,D・・・ かつ C→A,B,D・・・
などといくらでも展開しうる。
「相関性によって起こる」という言葉であれば、「相関性に起こった相関性によって起こった相関性によって起こった・・・」と無限に言えるわけだ。
これはぶっちゃけ無限遡及なのだが、それはむしろ開放系では当然の理屈である。
ところが、龍樹は説一切有部が「縁によって起こる」と解釈し、それを龍樹は批判している、と中村はしている。
中村は先述のような無限遡及になるから批判しているのである、と述べているが、それは誤りであろう。
開放系では無限遡及する方が当然なのである。「一切が空である」ならばその「一切」は開放系ではなくてはならぬ。
哲学畑では無限遡及すなわち否定されなければならぬものとされている空気あるが、それは西洋哲学の流れにすぎないと思われる。
別に科学では無限遡及は別に否定されなければならぬものではない。理論上起こりうることであり、観測しえないことであるにすぎない。
無限遡及になるからではなく、龍樹が「縁によって起こる」を否定した理由とは。
ここで物理とは別の(人間の)心理を考えなければならない。それは開放系でもありえない。ぶっちゃけなぜ無限遡及がだめなのかは物理としてではなく
心理が認められないからにすぎないのではないかと思うのだが、そこは置いておいて。
開放系ではない心理におって、「縁って」たる(1)は可能だが、「縁によって起こる」(2)はそうではない。
心理とはラカン理論的にすべて他者との関係性からなるとして、(1)や(2)のA,B,C,Dはそれぞれそういった個人だと考えてよかろう。
心理の相関性は物理の相関性とは別物である。差異がある。
この差異において考慮龍樹のみならず仏教全体の思想としてある「アートマンの否定」が考慮されなければならない。。
もちろん精神分析理論における自我をアートマンと考えるのは粗雑にすぎるし、俺個人はアートマンはむしろファルスなどに近いのではないかと
思っているが、大体「アートマン」とは「自我」と訳されることも多いので、それに則って話を進める。
ラカン理論では自我とは鏡像的他者によって成立する想像的なものだとなっている。
これをシェーマLを借りて S→a'→a という記号で書く。
(1)で書けば、A→B において、自我が生じる。つまり A→B→アートマン となってしまうのである。
したがって、「縁によって起こる」「相関性によって起こる」は、物理的な開放系の(2)とならない。
これが龍樹が「縁によって起こる」を否定した本当の理由だと思われる。
つまり、龍樹のその論は、心理における空について限定した論であり、その根底には仏教全体の「アートマンの否定」という教義がある、
と考えなければならない。