[まとめ]
今回の翻訳比較の基本姿勢は、8人の訳を互いに比較するのではなく、8人の訳と原文とをそれぞれ比較し、問題点を指摘するという方法をとったため、ドイツ語がわからない人にはわかりにくかったかもしれない
カフカの書く文章は、関係代名詞が非常に少なく簡潔で、関係節の中にまた関係節があり、その中にまたあるというような重層的な長い文章がないので、基本的には誰が訳しても大差のないものになってしまう
ただ逐語訳をしない本野訳と池内訳は、他とかなり違う独自のものになっている
なお、翻訳の差が出やすいのが、会話部分の訳であるので登場人物の口調を少し比較してみた
さらに全般的に言えることは、誰の訳も単純な誤訳や変な訳が多い、しかし、きりがないので取り上げなかった
戦後この小説は、実存主義の影響で、「抽象的な不条理劇」として読まれるようになったようだが
「抽象的な不条理劇」だとすることで、人物設定のあいまいさやストーリーのつじつまの合わなさまで、当然のこととされてしまいがちだが、
カフカ自身は、一応、具体的なリアリティを持たせた不条理劇として構想したが、うまくいかず未完のまま終わってしまったのではないか
そんな想像で描いてみたのが
>>726である
さらに「悪ノリ」で、Kの陥っている状況を現代の日本に置き換えて具体的にイメージしてみると
丸の内の、ある銀行本部に勤める若いエリート銀行マンが意味不明の容疑で突然逮捕される
裁判は、東京地裁ではなく、山谷のドヤ街にあるボロアパートか簡易宿泊所の屋根裏部屋で開かれる
弁護を引き受けようとするのも銀行の顧問弁護士のようなエリート弁護士ではなく、ドヤ街の日雇い労働者のために働く弁護士や弁護士資格を持たないイカサマ弁護士たちである
そんな弁護士を解任した後、得意先のアメリカ企業の役員の接待で浅草の浅草寺を訪れると、待っていたのはアメリカ人でも浅草寺の住職でもなく、刑務所の教誨師であった
やっと裁判について聞けるまともな人間に出合えたかと思ったが、『掟の門』というわかりにくいたとえ話で頭を混乱させられ、終いには「必然」として裁判所に従えと突き放される
そして最後には、山谷の泪橋を渡った向こうにあるかつての処刑場であった小塚原刑場の跡地あたりで犬のように処刑されてしまう
これでおしまいです、どうもお邪魔しました