せっかくだから貼ってある文章から拾っておくと、
>>577の
>國分
>ドゥルーズも言っています。思考の始まりには必ずイメージがあると。
>宇野
>そしてこの、イメージを提出し、個人と世界をつなぐもの、
>世界との関わり方を考えるものが僕はやはり文学だと思う。
これは非常に安易な会話だな〜。ドゥルーズ翻訳者としてはあるまじき言葉と言っておこうw
ドゥルーズのイメージ(image)は文脈によって大きく変わるから。
64年版の『プルーストとシーニュ』では「思考のイマージュ」という章が結論に来てて、
プルーストの言葉を引きながら、イマージュ(image)はシーニュと結びつくものとして、
肯定的に捉えられてるのに対し、
68年の『差異と反復』では3章に「思考のイマージュ」という章がきてて、
これが上のプルースト論とまったく同じ章題なんだけど、
そこでのイマージュは思考に暗黙の前提をもたらすものとして否定的に考えられている。
そしてドゥルーズは「イマージュなき思考」こそが重要だと書いているんだね。
そして80年代の『シネマ1、2』の映画での文脈になると、
またイマージュというのは、時間や運動と結び付けられた肯定的な概念になる。
こうした文脈による大きな差異への言及なしに、
ドゥルーズにおける「イメージ」というものを語ってもしょうがないんだけどな。