デリダとドゥルーズU 文学との関係を中心に

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481レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc
479の方がおっしゃる通りだと思います。
広松は当然そのことは分かって書いていた(「唯物史観の原像」など)はずです。ですから、内向きの批判でしょう。

一つ言っておくと、なにゆえ、フランス文学系知識人の多くが、ドゥルーズの著書を、多くがベルクソンの線で解釈したがるか、というと、
理由はかんたん、若くなればなるほど、マルクス主義わかんなくなるからでしょう。
これは欧米文学系批評家が、日本文学における「明治初期の断絶」を強調したがるのと、かなり事情が似ている。
これもかんたんにいっちゃえば、そういう人たちは、江戸文学が出てくるとお手上げになるからです。
それで、ベネディクト流の「国民国家批判」の文脈ばかり目立つ、みたいになっているんじゃないでしょうか。
一例をあげると、そういう理由で、漱石文学と古典落語のふかいかかわり(影響はあきらかに、漢文学・英文学よりもでかいだろう)、おおくのばあい無視される。

ところで、経済的下部構造、の話は出たんだが、それと「構造」が相同的だとされてきた「無意識」についての話題が絡んでこないのだね。

482レディー・ジャネット ◆J4XQaCMv3K5g :2012/02/21(火) 18:04:46.03
欲するところの命題が真になるように労せず「公理系」(「アンチ・オイディプス」で用いられた言葉でもある)を改変できる、かのような幻想が、
ポストモダニズムが残した弊害だろう。俗に言えば、おつむの中でだけ改変しているんですね。
「否定」がないということは、もしかして、または、もしかしなくとも、死もないことになりそうです。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」と云いながら焼け死んでいった快川和尚みたいなもんでしょうか。
そして、妥当性のある公理系も、はちゃめちゃなものも、このスレでの一部の論調のように、一即多(いっしょくた)にされてしまいます。
私はこれを、「呪文主義」と呼んでいる。