デリダとドゥルーズU 文学との関係を中心に

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466吾輩は名無しである
たぶん仮言的(否定性・一般性)/定言的(肯定性・特異性)という反復の二分法は
可能態/現実態のバリアントですね。
そして定言的なるA反復とは個別的なるもの、即ち実存に近い差異化である。
しかしこの反復は更なる反復(R反復)の否定性によって一般化される。
一種の弁証法とも言うべきこの運動から定点を抽出して“構造化”する事は原理上できない。
また、“構造”なるものから導き出しうる規準も設定できない。

かかる観点に立つのならそもそもR反復/A反復という二文法を論じる事も無意味である。
なぜなら、両者は連続的なものであり、関係性と流動性に全てが呑みこまれるからだ。

もし、この両者を分かつものがあるとするのならA反復によって齎される現実態
すなわち実存の一貫性に由来する。
ならば、反復による差異化の運動とは実存主義のバリアントにすぎなくなる。
要するにサルトルやルカーチ的西洋ヒューマニズムの亜種なのですよ。
ただし、哲学上の言語論的転回は実存論の拠点たる身体性をいまなお保証するのであろうか?