>>20 まあレアなもんでもなんでもないから入手は簡単だと思うよ。
ぜひ。
さて、シネマにおいて、なぜ図版が使われないか、という話にもどるんだけど、
大昔に英訳のシネマ2読みながらつけてたノートを見返すと、
一番最後の結論の部分に重要な示唆がある。
・哲学的理論は、その対象と同じく、それ自体が実践である。
・映画の理論は、映画「についての」ものではなく、映画が生み出す概念についての
ものであり、その概念は、別の諸実践に対応する諸概念と関係する。
・概念という実践は、一般的に、その他の実践に対して何の特権も持ってはいないが、
それはその対象がその他の対象に対して何の特権も持っていないのと同様である。
・諸事物が生起するのは、つまり、諸存在が、諸イマージュが、諸概念が、全ての種
類の出来事が生起するのは、多くの実践が仲介し合うレベルにおいてである。
・映画の概念は、映画そのものに優るとも劣らず、実践的で、効力を持ち、実在的で
ある。
・映画監督は、映画について語るとき、映画監督とは別のものに、すなわち哲学者や
理論家になる。理論を欲していなかったホークスや、それを信用しないふりをした
時のゴダールでさえ。
・映画の概念は、映画の中には与えられていない。しかし、それでいながらもそれら
は映画の概念であり、映画についての理論ではない。ゆえに、常に、ある時が、真
昼=真夜中が、我々がもはや「映画とは何か」と自問をするのではなく、「哲学と
は何か」と自問しなければならない時があるのだ。映画それ自体はイマージュと記
号の新しい実践であり、その理論を、哲学は概念的実践として生み出さなければな
らない。なぜなら、どんな技術的な解答も、それが適用されたものであろうと(精
神分析、言語学)、反省的なものであろうと、映画そのものの概念を作り上げるに
は不十分だからだ。