ドゥルーズ シネマ 読書会

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105ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2
ノートpp.16-20(§3の頭から途中まで)

§3

※ベルクソンの第三のテーゼ
 瞬間は運動の動かない切断面であり、一方運動は、「全体」=持続の動く切断面である。
 物質は運動するが変化はしない。しかし一方で、その運動は、持続における、全体における変化を「表現」する。
 運動(空間内の諸部分の移動)があるごとに、全体は質的変化をする。

 例:一杯のコップの中に溶けてゆく角砂糖
 個々の砂糖の粒子の運動により、全体は「一個の角砂糖が入っている水」から「砂糖水」へと質的移行をとげる。

 よって、以下のような類比が成立する。

 動かない諸切断面/運動 = 動く切断面としての運動/質的変化

※全体は与えられていないし、与えられうるものでもない(ここ重要。試験に出ます。 by ムー大陸)
 ・近代と古代の科学はそれぞれの流儀で、全体が与えられていることを前提にしていたが、それは誤りである。
 
 全体が与えれられうるものでない理由:全体は「開いているもの」であり、絶えず変化し、要するに持続するからだ。

※(例えば角砂糖が水に溶けていくのを見守りつつ待つ、といった場合の)精神の持続が存在する時、
 そこにはいつも、変化するひとつの全体が、それもどこかに開いているひとつの全体が存在する。

 ・生物が宇宙の縮図であるのは、両者が閉じたコスモスないしミクロコスモスだからではなく、生物はひとつの世界に
 むけて開いており、宇宙はそれ自体「開いているもの」であるからである。