マルセル・プルースト8

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 音楽や文学の古典を取り扱った2ちゃんのスレ自体が、同じところを永劫回帰のようにうろつく
運命にある。
 ときたま新刊やエポックメイキングな読み・奏法の変貌が現われる場合はあるかもしれないが。
 高橋悠治が実作者としての立場から評論家をやっつけた小林秀雄「モオツァルト」読書ノートの
2断章を引用しておこう。
 ひとつにはプルーストが出てくる。俺も暴力について書くにも村上春樹は「ねじまき鳥」3部作
を必要としたと言いたくなる。
 俺がやっていることはその予行演習に類するかもしれないし、また、単なるうろつきまわる犬に
すぎないのかもしれない。ただ、それはある程度2ちゃんの流儀にあわせた意図的なものだ。
 同じところをうろついているようで、少なくとも俺自身はらせん階段を登るような形にはなって
いる。ただ、2ちゃん全体としてはまるで永劫回帰のようになるのは当然と思っている。
 俺自身、ある作曲家・文学者・哲学者等古典に興味を持った時、10年以上前の2ちゃん勃興期の
過去スレを読むのが常だ。その辺が一番、密度が濃く、熱気もあり、インスパイアされることが多い。

>犬の青春
「大阪の街は、ネオンサインとジャズとで充満し、低劣な流行小歌は、電波のように夜空を走り、
放蕩児の若い肉体の弱点という弱点を刺戟して、僕は断腸の思いがしていたのである。」
「僕がその時、何を考えていたか忘れた。いずれ人生だとか文学だとか絶望だとか孤独だとか、
そういう自分でもよく意味のわからぬやくざな言葉で頭をいっぱいにして、犬のようにうろついて
いたのだろう。」
 四十をすぎた男が、自分の過去からこの程度のセンチメンタルなきまり文句しかひきだせないの
は、おどろくにあたいする。作家が精神の未熟を売りものにしなければならず、文学が中学生のひ
まつぶしにすぎない風土では、ランボーを最終行からさかさまに暗唱はできても、一行の詩も生み
だせまい。
「してみると僕が今でも、犬のようにどこかをうろついているということに間違いないかもしれない。」
(中略)
語ることのできない美と、そのまわりをうろつく犬である芸術家の対立は、周辺の図式におきかえられた
政治の暴力にすぎない。