【アセンション】雑談スレ51【おちんちん】

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527レディー・ジャネット ◆zHjuTueIApoc
つづき

「身体」を欲望に関わる観点からみるとき、云わば、快感自我が境界設定される平面だするとき、
それが社会的に構築されるというのは、いわゆる非本質主義的もしくは構成主義的な立場からすると、
ほとんど常識に属するものになっています。性を巡る言葉が欲望を規定し触発し、そうして快感自我が保持される。
云われつけたことですが、自己了解とはこれ自体、他人の欲望を欲望することを介しての、
互恵的承認的行為に基づく自己固有化だろうというのです。しかし、「いき」を巡る議論は、
このような他人の欲望を欲望するということを、素朴な形のままにはしておきません。「いき」の文化においては、
性をめぐる諸々の行為を促すのは、通常の意味での性欲ではなく、常にある審美的な基準に照らして価値の高い振る舞いや資質なのです。
無論それはある種の文化様態に対する固着の形をとります。そして、その固着的であることが、
ぎゃくに原因である誘惑するものの確固たるイメージを定着させるのです。欲望のモード化が欲望されるモード自体の強度を高め、
本来なら周縁的であったものを中心化するというわけなのです。つまり欲望が様式であることの自覚が、
ここでは他人の欲望を欲望するというそのことのための取捨選択が、改めて移ろいやすかった欲望の対象を固定するのです。
それは、まったく性の技術ではなく、むしろ性それ自体の空洞化によってもたらされた生活規範だとしたほうがよいものです。
このような規範は、性を巡る生活様式の設定を狙いますが、その無為さによって様式化そのことが様式的であることをあらわにするものです。
ここにあるのは、規範の内面化に関する自己省察なのです。