知的に分裂した矛盾状態は現代文明人一般に共通した問題だ。 小林の背後では常にランボーが「進歩? ふふん」って調子で せせら笑いをしてた。
つまり、この世に漂う浮き草どもは韓流ドラマでも見てやがれと、 そういう結論になる。
ランボーは反抗の詩人だから小林もランボーなとこはあるな。
特権階級意識にアグラかいてチャラチャラしてる奴らに馴れ馴れしく 仲間扱いされたり利用されたりすると、ものすげえムカつく。
他者に対する優越感に安易にアグラかきたがる安っぽい人格の 持ち主どもは、何とかならんもんか。
930 :
吾輩は名無しである :2012/03/11(日) 20:13:31.57
小林の論理感覚はベルグソンよりマルクスに近いな。 天才的な知性というのは荘子の解剖刀のような切れ味がある べきだ。多弁で博識で取り留めもないようなものとは違う。
931 :
吾輩は名無しである :2012/03/11(日) 20:16:40.74
ベルグソンの文章は数ページ辿っただけでげんなりする。 ボクらはついてくのがやっと、という気分にされてしまう。
『感想』冒頭付近、これはベルグソンとは違う。 …このダイモンの聲は、いつも、何かを してはならぬといふ禁止の命令であつて、何かをせよと命令 したことは決してなかつた。ソクラテスの知性は、初め、自 然のメカニスムの究明に熱中したが、或る日、アポロンの神 殿の「汝自身を知れ」といふ謎めいた銘に感じて、これを哲 學の出發点とする事を決意した。この時から、彼の知性の眞 の劇が始まつた。彼の「問答法」はどんな種類の論理形式 でもない。ダイモンから生を享けた否定の力といふ劇の主人 公の運命的な臺詞なのだ。
これがどこをどう辿れば「ニュアンス」だとか「イマージュ」 だとかの話になるのだ? 検討も付かん(笑
>>882 >幻想領域内部における功利性あるいは関係性の原則によって構成される
>指示体系から離脱・分節した瞬間に原初的な能動性に根差した“美”が達成される
結構、難解な表現だね。小林流の表現ならば、"美"の無償性という表現に
なるのかもなぁ。吉本の”美”認識はドゥルーズに案外近いとな。それは
フーコーがいうところの、近代芸術が他の諸学芸分野とひとりことなる
その特異性、言語から実在へとさかのぼるあの信仰をひとり保持した
というその記述とも照応するね。 ベルクソンの芸術論でも、芸術は意識の
日用性、実用性、機械性から離れ、まったく非功利的な表現を可能にする
つまり自由を実現するっていうんだが、これらはみなロマン主義以来の近代
芸術の独立性を擁護するために用いられた議論というべきだろうね。
いや、もっと源流はもっと以前にあるのかもしれない。
>>884 黒人でも白人でもないハイブリッドなスター。ポストモダンでは
マイケルのような存在こそがスターになる。 だからマイケルは
ヒトラーにはなりえない、なんて浅田との対談で誰かがいってたな。
>>889 ネガキャンってほどのこともないだろうけど… 「英雄を語る」は
吉田熈生が編集した小林秀雄読本にも便慨がのっていて、小林の
発言が要約されてるんだが、ヒットラーについては何も語ってなくて
あの時期に「英雄」をテーマに鼎談して、ヒトラーについて何も語って
ないなんて訝しいって思ってたんだが、やはりヒトラーについて
語ってたか。
ヒトラーについての議論は、林が主導してるな。 最初にヒトラーは
英雄か?って質問して。 その質問に「大英雄」「英雄」ではなく
「小英雄」というかえすあたりが、小林流の節度を示しているというか。
林の議論はそこそこ面白い。 ヒットラーの最後は悲劇でおわるに 違いないと断言したり、ヒトラーの異様な目の輝きについて言及 したりね。石川も途中で「世紀の凱旋」というナチスの映画について 言及してたな。当時はナチスの絶頂期だね。 小林が自分からあまり ヒトラーについて言及してないのは、当時はヒトラーについて あまりよく知らなかったせいだろうね。 まあ、ヒトラーについての議論は、はるかに遠いヨーロッパの話だから 日本の行く末についてほど、切実さはないかもしれない。それでも 日本の進路にリンクしていることには変わらないけれど。 小林は戦時中の言論については、戦後に一切反省しないって断言したん だから、この対談についても、一切反省はしてないだろうw まあ、反省 するほどの内容ってないけど。 戦後、小林は、「ニュルンベルクへの道」というホロコーストを題材にした ドキュメンタリー映画をみて、「私は事実をみていたわけではない」なんて 感想を書いているね。 このあたりにヒットラーに関係した議論における 小林的な「反省の無さ」ってのがよくでてるなw
>>892 志賀直哉の動画かぁ。
>>896 TVにはでたがらなかったらしいから、あんまり
動画って残ってなそう。
>>898 「名前だけはみな知っているが誰も読まないひと」
孔子を研究した伊藤仁斎について、小林が言及したことを
おもいだすなあ。当時の人間は、孔子は聖人と誰でも口に
してたが、実際に読んでたのは誰もいないってね。
それは小林自身の著作にもあてはまりそうだね。
近代文学批評のさきがけとして、名前は有名だが、実は
読んでる人間はほとんどいない、なんてな。
>>900 小林はジャーナリズムで議論ばっかりやってて、しまいに議論することに
嫌気がさしたんだろう。「議論だけはしまい」ってのは、小林の私的な感想
だよw
ピカソについては、「近代絵画」で書いてるね。アカデミーの旧套墨守ぶりに
反抗した印象派が視覚の完全な解体という危険な道にはいいろうとする
その道を先導した画家としてのピカソ論、ってなとこかなぁ。「近代絵画」の
なかでも一番長い論で、一番文学的な評論だね。ニーチェやユングや
ボードレールの援用を多様してるな。ピカソの秘書のサバルテスの思い出
や、ピカソ自身の「声明」からも引用多数。いちばん文芸評論家らしい絵画論と
いうか。 本人は失敗だっていってるけど。
ピカソは、既存の、できあいの芸術的価値なるものをすべて否定する革命的
芸術家、そういう価値の転覆やるような男は、泥棒や人殺しだってやりかねない
ってね。で、上野にいって展覧会をみたら、日本の美術家がみんなピカソに
なびいてるのを見て、日本の美術家はずっと海外のものにやられどうしなの
だなぁ、とちょっと疲れてしまった、などという感想も書いてたね。
>>902 まあ、ポスト安保闘争のころは、ほとんど名前は忘れられていたと
いってもいいかも。 しかし、浅田の逃走論にも名前は最後のチャートで
でてきたはずだよ。プレモダンの人として…だったかな?
>>904 俺は教科書に「考えるヒント」がのってて、その文章よんではじめて
名前しったね。
>>912 フローベールの紋切り型辞典には、そんな項目で載るのがふさわしいな。
「小林秀雄」は。
>>913 俺も断簡零墨あさるなといわれても、漁っちゃうんだよなー。
>>918 利用しようにも、いまのひと、ほとんど小林のことしらないし
小林の文章も、読まないひとには魅力がわからないんで
つまり利用のしようがあまりないんでは〜w
>>923 いまだ保守を知らず、いずくんぞ進歩をしらん、だね。
ベルクソンは合理主義だけど、晩年にはカトリックに改宗したんだよね
確か。安岡章太郎がカトリックに改宗するだろうと小林が予言して
そのとおりになった、なんて逸話を想起するねえ。
>>932 「悪魔的なもの」の議論を感想で継承してるね。駅のホームから
一升瓶かかえて落ちて、死に損なったってのも、「悪魔的なもの」の
いたずらってわけだ。 「饗宴」の議論によれば、「悪魔的なもの」=
ダイモーンとは、人間と神の間を仲介するもの、つまり半神なんだそうな。
>>933 ベルクソンの「ニュアンス」について議論するなら、虹についての
議論を参照したほうがよさそう。
それで、デーモンについては、「精神のエネルギー」なんかを
参照すればよさそう。 ベルクソンが心霊現象について論じた論を
参照するのは、これが一番よさそうだけど。
そういえば、うちの親父も躁状態になると、目が爛々と輝いてたね。 あれはヒトラーの目だったのかな? 第三帝国っていうボードゲーム 買ってきて遊んだりしてたな。 ヒトラーについてどう思ってたのか 聞いてみりゃよかったね。
自分の肘を曲げたり伸ばしたりする方法をどうやって言葉で説明すりゃ良い? ニュアンス?
>>943 肘を曲げたりのばしたりしてみれば、その方法はわかるだろう。
発見が先で、方法をみいだすのはその後なんだってね。
ベルクソンがデカルトについて語ったところによれば。
>>938 ちょっと訂正しておくかな。
>>938 >アカデミーの旧套墨守ぶりに反抗した印象派が
>視覚の完全な解体という危険な道に
↓
>アカデミーの旧套墨守ぶりに反抗した印象派から
>視覚の完全な解体という現代美術の危険な道に
>はいろうとする美術のなりゆき
こうじゃないと、意味がわかんないね。
>>944 俺は、自分の頭を横に振る方法を発見したことはないな。
話は飛ぶが、「理解することとは解釈することだ」 という観点が、19世紀末頃からのドイツ語圏での ポジティビズム(実証主義)の伏流としてあったん ではないか知らん。 理解するとは受動的な態度だが、解釈は能動的な 行為だ。
そう、了解性の問題だ。ディルタイ辺りが有名だ。 「理解」も「了解」も英語圏じゃ“understand”で済まされちまう んで、その悪影響からか「了解社会学」も日本で「理解社会学」と 訳されちまったりとか、ハイデッガーのスレで前に垂れ流したが。 一見、小林に関係ないが、著作に付き合ってるといろんなことを 考えるわけだね。
…だからアインシュタインの理論も解釈学的物理学みたいな性質は あるね。「解釈」というと、まあ好き勝手に解釈したがるのが 世の常ではあるけれど。
ああ、「理解」は“understand”、「了解」は“conprehend”で 訳し分けは可能なのかな。 “under-stand”=「対象の下位に立つ」(受動性) “con-pre-hend”=「対象を共につかむ」(能動性) これが所謂、「ニュアンス」の違いという奴だな。英語だから どうって話でもないんだけど、とりあえずアクセスの容易な 他言語だからw
>英語のニュアンス(nuance)は、[名詞]delicate difference in or of shade ofmeaning, >opinion,colour,etc.(オックスフォード英英辞典) > >意味合いの微妙な違い、感覚の僅かな差異など。フランス語由来の英語だが、もとをたどるとラテン語の >雲(nubes)からきている。 ベルグソン以前からnuanceが特に色彩について使用されていたかは知らないが、この説明からポストモダンの 「差異」言説までは一直線だな。「ニュアンス、ニュアンス」って言いたいんだろう。 日常的に日本語に混ぜて使う時は、言語化不可能なものを意味することはないと思うが、 ベルグソン=小林=ポストモダニストはそうではない。
この話から感覚を計量可能化出来ないものかと悪戦苦闘した 「精神科学」までは一歩の距離だな。世界大戦で崩れ落ちた 過ぎ去りし日々の科学の夢。
感覚というのは経験的なものであって、常に何かの対象についての 感覚だ。「精神科学」においては、しかしこれを対象から切り離し て考察する。 我々は言語の眩惑に惑わされずに対象なき感覚を想起可能だろうか?
>>942 ヒトラーは覚せい剤を常用してたらしいよ。
俺なんか両切り吸ってわざわざ感覚鈍らせてんのに…
フィルターなし?身体に悪いよ。
普段は現場作業でカラダ使ってるから気にしないな。 小泉も抗うつ剤使ってたって噂あったな。
伝統ある石原スレ立たないの?
ウィトゲンシュタインの『論考』はオブジェクト指向の 世界の構造化みたいなもんだろうか。オブジェクト指向 は原子論と似て非なるものだとようやく思いついたんだが。 ラッセルは『論考』を原子論で解釈して、『論考』の最初の 英訳もその影響が見られる。 これは、アインシュタインの相対性理論における対象の 取り扱い方法にも通じる問題かも知らん。
これは、所謂「主観主義」だとか通俗的独我論とは違う話だ。 ウィトゲンシュタインの『論考』では純粋なリアリズムに至る 梯子と見なされる。 最後の頃の池田晶子も、強調的にこういう思考パターンを見せて たな。『新ヒント』だったか、他のだったか。
オブジェクト指向が対象を抽出する方法は、 ミケランジェロが大理石から彫像を掘り起こす のに似ている。 荘子の解剖刀のように、筋目に逆らわずに 対象をきれいに切り出す玄妙な技量を要する。
963 :
吾輩は名無しである :2012/03/16(金) 06:11:48.99
あらま、起き抜けにこんな訃報を目にするとは。 とりあえずご冥福を。
なーむー
出版関係者、特集準備ようし!
967 :
吾輩は名無しである :2012/03/16(金) 10:28:15.64
968 :
吾輩は名無しである :2012/03/16(金) 13:25:08.35
よしもとばななさん「最高のお父さん」 吉本さんの次女で、作家のよしもとばななさんは、16日午前、インタ ーネットのツイッターにコメントを投稿しました。 この中で「父は最後まですごくがんばりました。父はいつでもひとりで はなかったし、家族に愛されていました。最後に話したときに『三途の 川の手前までいったけど、ばななさんがいいタイミングで上からきてく れて、戻れました』と言ってくれました。もう一度、話したかったです。 『としよりは、同じ話ばかりで情けない』と言うので、そんなことはな い、いるだけで嬉しいと言うと、『そう思えたらいいんですけどね』と 笑いました。最高のお父さんでした」とコメントしています。
くたばりやがりました。
いまいち、真面目に追悼する気にならん…
この人は海で溺れた時に死んじゃったんだよ
なんか臨死体験したんじゃなかった?
ただいま本死体験中らしいです。
974 :
吾輩は名無しである :
2012/03/17(土) 00:16:23.02