このような見方において、作品(=営み)の無限とは、精神の無限にほかならぬ。精神は、
無限の作品(諸作品にまたがる終わらなさ)や歴史(=出来事)の動きのなかで
自らを実現することではなく、唯一つの作品のなかでおのれを成就することを欲する。
だが、ヴァレリイは、英雄(=(作品の)主役)には全くならなかった。
ヴァレリィは、一切について語り、一切について書くのを、良しと見なした。かくし
て、この世(=世間)という「断片化された全体」が、作品という「唯一無二の全体」の持つ厳密さから、
彼の注意を外らせるのだが、彼は既に、愛想よく、それから外れるがままになっ
ていたのだ。(ヴァレリィの)思考や主題の多様性の背後には、等々(エトセトラ)という語が、
潜んでいた。