908 :
吾輩は名無しである:
世間一般が、プラダの杖欲しい〜とか言っているのを想像すれば、馬鹿じゃないかと思う。
けどそういう俗物根性に当人と取り巻きはさっぱり気付かない。これが気持ち悪いとか言われる原因なわけだ。
三島の再来。しかし三島は国家主義者だったのだ。右翼を好み、左翼を嫌うというはっきりした保守性があった。
全然違う。何が違うか。思想が違うのだ。
奇を衒った難解めかした当て字の連打。これを新潮社の矢野編集長だかが三島の再来と名づけようとした。
しかし、はじめから胡散臭さにさとっている人々は下らないと思ってながめていた。問題はそんなところにはない、と。
昔から大江などは政治能力だけを文壇でかわれているわけだから、操も何もなく、ただ出世に結びそうなら平野とも平気で近づく。
そういう全体の流れを見て、平野の持っている種類の芸、文壇芸の中での中途半端な衒学ぶりっ子は、下らないと結論せざるをえない。
そして大勢がそこから学ぶべきでもない限り、ただの戦後に生じてきた新興学歴主義階級らにはびこる先代模倣の流行とみなすほかない。
909 :
吾輩は名無しである:2012/03/04(日) 14:55:57.31
きわめて端的にいうと、
この作家は先代を模倣して、何らかの傾向を似せる性質で売っている。
ダダイズムの模倣。三島的絢爛文体系の模倣。宇宙船ネタを含むSFの模倣。
引用で固めるという、ポストモダン系列の技術を世代意識なしに行なっているわけだ。
それは、20世紀後半までに一通り終わった、とされている。
おおよそ、日本では芥川、欧米ではジョイスまでで区切られる期間といっていいだろう。
その後は彼らの追随芸に終始している。実際、より若い世代では、半ば意図的にその引用系譜にある手法がとられもしない。
だから20世紀の残党として、平野という作者はいまだに現役の如く衒って、文壇に居座ろうとしていると結論できる。
この目線の違いが、文芸に精しい人と、そうでなく素人がだまされやすい「装い」「賞」「学歴」で飾った平野への見る目の違いになっている。
この隙間が気色悪いわけだ。そして、文芸誌という場所がこのことをはっきり批評できないか、しないでいるのも不誠実だ。
910 :
吾輩は名無しである:2012/03/04(日) 15:03:08.75
このわずかな隙間、いわば大衆の中での鑑識眼の上下の隙間に「割り込んで」、不誠実に、ユーモアではなく、
自らの系譜をあたかも正統化であるかのごとく装う技巧。これは伝統的語句でいえば巧言令色の地なのだが、
それが評価しえない彼の擬制であり欺瞞、ある自家撞着であり彼のなんらかの落ち度なわけ。それは何か。
たとえば、島田は非常に似ている。しかし島田は道化役者として自己をうまく定義し、自虐的にこのてらいをユーモアに仕立てる。
平野はこれにくらべて、衒学を単に驕るが、他には芸がない。しかも、上に書いたがこの芸は「決して一級品ではない」冗談なわけだ。
引用芸というひと時代もふた時代もまえの追随にすぎないのだが、それを大衆の理解との速度差にかけて売り込んでいくという商人気質。これが嫌味になっている。