【書を読む】読書会スレ2【対話する】

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7吾輩は名無しである
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1316632938/907 へのレス。

俺と話してるの君だけっぽいし切りあげたくもあるんだが。

まず第一に、あくまでそういう方向だと言ってるのであって、デカダン=「逃走論」というわけではない。
むしろ「逃走論」は風俗小説に堕する、と。

ざっくり説明すると、「逃走論」とは浅田の言によるものだが、これは「システムからの逃走」であり、
具体的に言えば「モラトリアムであれ」だ。
浅田自身がそう言っている。「若者達の神々」だったか。
また浅田は、確かに自分は「モラトリアムで突っ切れ」とは言ったが、「逃走論」を持ち上げて
「モラトリアムでいいんだ」となってる若者達を、「ひよわなボクちゃん」と読んで批判している。
「逃走」は「闘争」とかかってるんだよね、って話がそれた。

「モラトリアムであれ」というのは、「社会的システムに立場を決定されることなく遊牧民的であれ」ということなわけだ。
反社会的であればいいということでもない。
それは逆説的に「システム」に立場を決定されていることになるからだ。

俺はこの「システム」を社会的なことからも拡大して考えている。
つまりそれは超自我であり、「決定された立場」とは自我(同一性)だと。

この拡大が可能ならば。
楢雄の生き方などは、闘争的にモラトリアムであろうとした、と言えなくないだろうか。
家族からの追求を逃れるため住所や仕事を転々としたのも「ノマド」的と言えないか。
また織田が坂田の非定跡的な一手を挙げたのも、「システムからの逃走」となるだろう。
であるなら志賀作品は「俳句的リアリズムと短歌的なリリシズム」という「システム」の「造型美術的」作品である、と。
また浅田はドゥルーズ=ガタリの「ノマド(遊牧民)」という単語を好んで使っていたが、「放浪」はデカダンのキーワードだ。
こういったところからデカダンは「逃走論」は、あくまで方向として同じではないかと。
8吾輩は名無しである:2011/10/01(土) 07:13:33.53
しかし浅田の「逃走論」は、浅田自身が批判しているように、迷える若者達を「モラトリアムでいいんだ」と思わせた。
これは要するに理想自我である。浅田という学者を自我理想にしていた若者もいただろう。
理想自我とは「今のボクでいいんだ」という心理であり、自我理想とは「こういう人になりたい」という心理だ。
これが合致するのがパラノイア。
浅田はパラノとスキゾという対比をし、「スキゾ・キッズ」として「逃走」すべし、と言っていたのは周知かと。
浅田が自分の読者を批判しているのは筋が通っている。

ここで、モラトリアム的「社会の落ちこぼれ」を描いた風俗小説があったとする。
それを読んで「こんな落ちこぼれの俺でもいいんだ」などと思った読者がいたとする。
風俗小説の読み方って大体そういうものじゃないだろうか。
それは理想自我である。
そうなると浅田が自分の読者を批判した構図になる。
これが「「逃走論」は風俗小説に堕する」と言う意味だ。
自著が自分の意図とは違ったように読まれたことを浅田が自覚しているのと同じ構図として。

デカダンもそれを禁じなければならない。
「こんな落ちこぼれの俺でも」を、巧妙に避けなければならない。「安直な感情移入は禁じ」なくてはならない。
かと言って「システム」に迎合するのも避けなければならない。
「こんな落ちこぼれになっちゃいけませんよ」という指導になってはならない。
これが>>898という意味だ。

坂口に移ると、
「織田君、安易であつてはならぬ。」
「システム」にも「自分はこれでいいんだ」にも依拠してはならぬ。
自我理想も理想自我も肯定してはならぬ。
そうすると「肉体自体の思考」ではなくなるからだ。

余談風に言えば、「肉体自体の思考」とは、精神分析的には、超自我でも自我でもないエスの思考だとも言えるだろうな。
そんな思考はあるのか、というのは精神分析内でも意見が分かれているが。
ラカンなどはSに斜線を引いている。
一方ビオンなどは「超自我でも自我でもないゼロの思考」を認めている。
ちなみにビオンも軍医時代にヤクをやっていた可能性がある。つか昔はヤクやらない軍人なんてほとんどいなかったんじゃないか。
9吾輩は名無しである:2011/10/01(土) 07:15:13.92
浅田の「逃走論」って、逃走する根拠が不明確なんだよね。
アンチ「システム」を理由に「逃走」しろと言っているなら、浅田自身が言っているように
「反社会的であることは逆説的にシステムに立場を決定していることになる」
からダメ。
後は、モラトリアム的な現代若者を観察し「モラトリアムじゃだめだと言われてるだろうけど、それで突っ切れよ!」
って根拠ぐらいだ。
「逃走」の根拠をそうしたから、その読者は「モラトリアムでいいんだ、浅田という偉い学者が守ってくれるから」なんて
「ひよわなボクちゃん」になっちゃんたんじゃないの、と。
浅田は「なぜ逃走なのか」の根拠から「はじめられなかった」。

無頼派は、坂口の言葉を借りるなら、「肉体自体の思考」をするためにやっている。

ぶっちゃけ言うと、「本当にそれ「逃走」できてんのお?」って揶揄してるわけだよ、俺が。
「デカダンの方が「逃走」になってないかあ?」とね。

まあ真面目に語ってるの俺と>>907だけっぽいし、終わりにしないかい。
この板で文学について真面目に話したの久しぶりだ。
10吾輩は名無しである:2011/10/01(土) 08:27:04.44
要するに、社会的システムから身をかわすための「逃走線」を作るのに労力を費やせ(「闘争」しろ)、ってことなんだが、
このシステムを超自我だと考えるとそんな簡単な問題でもないんだよな。
超自我とは自我を抑圧するもので、アメリカで主流の心理カウンセリングなどは、この超自我を少しずらしてあげて、
必要な自我を解放し、社会生活に適合させる、ってものなんだが。
結局浅田の「逃走論」も、読者に対し「モラトリアムでいいんだ」と自我同一性を確立させてしまっていたわけだ。
浅田は意図せずに読者に対しアメリカ式心理カウンセリングを施していた、と。
超自我を避けても自我の問題が残る。超自我と自我が人をノマドにさせない。

だからドゥルーズ=ガタリなどは分裂症を論じたわけだ。
「アンチ・オイディプス」などは資本主義と分裂症の関係を述べていたわけだけども。
当時の日本の若者は分裂症まで行くことなくモラトリアムで留まっていた。
なので浅田は「方向性は間違っていない、そのまま分裂症・スキゾまで突っ切れよ」みたいなことを言いたかったんだろう。
だが精神病なんてなりたくてなれるもんじゃないからな。なった奴らもなりたくてなったわけではない。
もしそういったレベルでのノマドになるならヤクやる方が手っ取り早いだろうよ。