1 :
吾輩は名無しである:
読書会題材一覧
アセンション 夢野久作「木魂」
マグナ 小酒井不木「血の盃」
N 芥川龍之介「お富の貞操」
アセンション カフカ「断食芸人」
ムー大陸 岡本かの子 「鮨」
佃煮マニア 宮沢賢治「どんぐりと山猫」
マグナ 国木田独歩「女難」
鈴木雄介 坂口安吾 「堕落論」
(´・ω・`) 太宰治 「トカトントン」
記憶喪失 太宰治 「グッド・バイ」
鈴木雄介 武田泰淳「異形の者」
ニッパ椰子 イェイツ「春の心臓」
あまな ポー「盗まれた手紙」
N 正宗白鳥「口入屋」
治美 織田作之助「六白金星」
? 織田作之助「可能性の文学」New!
断然、鮨でしょ
岡本かの子天才
いちおつ
織田作之助に一票
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1316632938/907 へのレス。
俺と話してるの君だけっぽいし切りあげたくもあるんだが。
まず第一に、あくまでそういう方向だと言ってるのであって、デカダン=「逃走論」というわけではない。
むしろ「逃走論」は風俗小説に堕する、と。
ざっくり説明すると、「逃走論」とは浅田の言によるものだが、これは「システムからの逃走」であり、
具体的に言えば「モラトリアムであれ」だ。
浅田自身がそう言っている。「若者達の神々」だったか。
また浅田は、確かに自分は「モラトリアムで突っ切れ」とは言ったが、「逃走論」を持ち上げて
「モラトリアムでいいんだ」となってる若者達を、「ひよわなボクちゃん」と読んで批判している。
「逃走」は「闘争」とかかってるんだよね、って話がそれた。
「モラトリアムであれ」というのは、「社会的システムに立場を決定されることなく遊牧民的であれ」ということなわけだ。
反社会的であればいいということでもない。
それは逆説的に「システム」に立場を決定されていることになるからだ。
俺はこの「システム」を社会的なことからも拡大して考えている。
つまりそれは超自我であり、「決定された立場」とは自我(同一性)だと。
この拡大が可能ならば。
楢雄の生き方などは、闘争的にモラトリアムであろうとした、と言えなくないだろうか。
家族からの追求を逃れるため住所や仕事を転々としたのも「ノマド」的と言えないか。
また織田が坂田の非定跡的な一手を挙げたのも、「システムからの逃走」となるだろう。
であるなら志賀作品は「俳句的リアリズムと短歌的なリリシズム」という「システム」の「造型美術的」作品である、と。
また浅田はドゥルーズ=ガタリの「ノマド(遊牧民)」という単語を好んで使っていたが、「放浪」はデカダンのキーワードだ。
こういったところからデカダンは「逃走論」は、あくまで方向として同じではないかと。
しかし浅田の「逃走論」は、浅田自身が批判しているように、迷える若者達を「モラトリアムでいいんだ」と思わせた。
これは要するに理想自我である。浅田という学者を自我理想にしていた若者もいただろう。
理想自我とは「今のボクでいいんだ」という心理であり、自我理想とは「こういう人になりたい」という心理だ。
これが合致するのがパラノイア。
浅田はパラノとスキゾという対比をし、「スキゾ・キッズ」として「逃走」すべし、と言っていたのは周知かと。
浅田が自分の読者を批判しているのは筋が通っている。
ここで、モラトリアム的「社会の落ちこぼれ」を描いた風俗小説があったとする。
それを読んで「こんな落ちこぼれの俺でもいいんだ」などと思った読者がいたとする。
風俗小説の読み方って大体そういうものじゃないだろうか。
それは理想自我である。
そうなると浅田が自分の読者を批判した構図になる。
これが「「逃走論」は風俗小説に堕する」と言う意味だ。
自著が自分の意図とは違ったように読まれたことを浅田が自覚しているのと同じ構図として。
デカダンもそれを禁じなければならない。
「こんな落ちこぼれの俺でも」を、巧妙に避けなければならない。「安直な感情移入は禁じ」なくてはならない。
かと言って「システム」に迎合するのも避けなければならない。
「こんな落ちこぼれになっちゃいけませんよ」という指導になってはならない。
これが
>>898という意味だ。
坂口に移ると、
「織田君、安易であつてはならぬ。」
「システム」にも「自分はこれでいいんだ」にも依拠してはならぬ。
自我理想も理想自我も肯定してはならぬ。
そうすると「肉体自体の思考」ではなくなるからだ。
余談風に言えば、「肉体自体の思考」とは、精神分析的には、超自我でも自我でもないエスの思考だとも言えるだろうな。
そんな思考はあるのか、というのは精神分析内でも意見が分かれているが。
ラカンなどはSに斜線を引いている。
一方ビオンなどは「超自我でも自我でもないゼロの思考」を認めている。
ちなみにビオンも軍医時代にヤクをやっていた可能性がある。つか昔はヤクやらない軍人なんてほとんどいなかったんじゃないか。
浅田の「逃走論」って、逃走する根拠が不明確なんだよね。
アンチ「システム」を理由に「逃走」しろと言っているなら、浅田自身が言っているように
「反社会的であることは逆説的にシステムに立場を決定していることになる」
からダメ。
後は、モラトリアム的な現代若者を観察し「モラトリアムじゃだめだと言われてるだろうけど、それで突っ切れよ!」
って根拠ぐらいだ。
「逃走」の根拠をそうしたから、その読者は「モラトリアムでいいんだ、浅田という偉い学者が守ってくれるから」なんて
「ひよわなボクちゃん」になっちゃんたんじゃないの、と。
浅田は「なぜ逃走なのか」の根拠から「はじめられなかった」。
無頼派は、坂口の言葉を借りるなら、「肉体自体の思考」をするためにやっている。
ぶっちゃけ言うと、「本当にそれ「逃走」できてんのお?」って揶揄してるわけだよ、俺が。
「デカダンの方が「逃走」になってないかあ?」とね。
まあ真面目に語ってるの俺と
>>907だけっぽいし、終わりにしないかい。
この板で文学について真面目に話したの久しぶりだ。
要するに、社会的システムから身をかわすための「逃走線」を作るのに労力を費やせ(「闘争」しろ)、ってことなんだが、
このシステムを超自我だと考えるとそんな簡単な問題でもないんだよな。
超自我とは自我を抑圧するもので、アメリカで主流の心理カウンセリングなどは、この超自我を少しずらしてあげて、
必要な自我を解放し、社会生活に適合させる、ってものなんだが。
結局浅田の「逃走論」も、読者に対し「モラトリアムでいいんだ」と自我同一性を確立させてしまっていたわけだ。
浅田は意図せずに読者に対しアメリカ式心理カウンセリングを施していた、と。
超自我を避けても自我の問題が残る。超自我と自我が人をノマドにさせない。
だからドゥルーズ=ガタリなどは分裂症を論じたわけだ。
「アンチ・オイディプス」などは資本主義と分裂症の関係を述べていたわけだけども。
当時の日本の若者は分裂症まで行くことなくモラトリアムで留まっていた。
なので浅田は「方向性は間違っていない、そのまま分裂症・スキゾまで突っ切れよ」みたいなことを言いたかったんだろう。
だが精神病なんてなりたくてなれるもんじゃないからな。なった奴らもなりたくてなったわけではない。
もしそういったレベルでのノマドになるならヤクやる方が手っ取り早いだろうよ。
つまらない話になってきたから次いかないかー
13 :
吾輩は名無しである:2011/10/01(土) 12:25:39.54
次のお題はムー大陸だったな
志賀読もうつってたの誰だっけ
坂口かよ…
空気換えないか?
一回休めばいいじゃない
流石に俺も辟易した
坂口って生きてたら意外と2ちゃんにはまってそう
19 :
江戸川:2011/10/01(土) 13:49:48.26
織田は結局感想書けなかったから書き込めなかったぜよ。
安吾は読むぜよ。
>>14 鈴木
安吾や織田作の宿敵、志賀直哉を間に挟むってのは流れとしては良いね。
志賀の落ち着いた文で口直しをしたいってのもある。
鈴木は2回選んでるから駄目だな。
口直ししたい奴はスレから離れてればいいだけ。
>>7 真摯に答えてくれてありがとな
興味深かったよ
>ぶっちゃけ言うと、「本当にそれ「逃走」できてんのお?」って揶揄してるわけだよ、俺が。
「デカダンの方が「逃走」になってないかあ?」とね。
ここの記述は話しが飛んでいて分からなかったが。
次は坂口安吾らしいんで
この機に「文学のふるさと」ってやつも読んで感想を聞かせてほしい。
「肉体自体の思考」とやらに近いようなことを言ってるから。この「文学のふるさと」は
安吾の文学観を最もよく表現できている作品。哲学的に解読してみてもおもしろいと思う。
「文学のふるさと」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card44919.html
俺は志賀の次でもいいけど。
というか間に志賀を挟んだ方が面白いんじゃないかと思う。
投票して集計して決めるのはどうか。
とりあえず俺は志賀で
言い出しっぺで何だけど
途中からのリクを間に入れてくのは駄目だろ。ムーのでいい。
次のお題はムー枠なんだから
ムーに安吾か志賀のどちらがいいか決めてもらおうよ
もしかしたら現段階でのムーの関心も志賀の方に移っているのかもしれんし
ムーはリクに応えなくていいし
リクに応えたからといってムー枠が一つ増えるわけでもないと
ぼく志賀直哉がいい
ムーちゃんぼくも志賀直哉がいいな
志賀スレ在住志賀厨の意見も聞きたい
志賀で行こう。
おやショボンさん♪
ポポさん。
32 :
ほら話者:2011/10/01(土) 19:08:49.56
志賀に一票
ほら話者お帰り〜
じゃあ俺枠で志賀でいいや。鈴木選んで。
安吾はいずれ、俺の次のターンあたりで。
推してくれたひとには悪いが、バランス的にね
>>15で行っとけ
ザッと読んだがなかなか面白い
文中に志賀直哉への言及があるから
>>15→志賀直哉の代表作で読む動機付けになる。
構成はなかなか良いよ。
フツカヨイとシラフを織り交ぜながら語り口が軽妙でリズムがある。
論の骨組みをボカせてる方がシラフの方で、理路整然としてる方がフツカヨイ。
この逆転が中盤過ぎに出て来て売文家の立場を学問に据えての自己批判も垣間見える。
これを虚弱さというのでしょう。
ひとつ、まあ弱点というか不運は戦後の作家であることかな。
戦争が次男坊、三男坊による家長制度への革命であった側面や
医者、代議士、学者先生方による輜重輸卒を揶揄した唄にあるように
純文←デカダンのベクトルを文系←土方の構図に重ねたとき、
「書を捨てて街へ出よ」という問いに職業作家として矛盾を突き付けられる。
鼻で笑うのは簡単だが普遍性を潰す格好の口実が自ずから出来ているという点で。
>>35みたく先走って「不良少年とキリスト」読んじゃった人は感想吐き出してもいいっすよ。
我慢は体によくない。
37 :
吾輩は名無しである:2011/10/01(土) 20:32:32.30
ムーが志賀押しなら文句はない。そのあと安吾な。で、どの作品?
ありがと
俺は志賀に愛がないからなあw
鈴木がリストアップしてなかったっけ。
なんでもいいや。
12時過ぎても出て来なかったら俺が青空から的確に見繕います
あ、ちなみにこれは俺の枠扱いだから、安吾はかなり後になると思うよ。
ふむ。じゃあ上の「好人物…」で最終決定です。
まだ読んでないけどw
早速読みました。
感想第一号。
なんだこりゃ
つまんね
>>40 終幕の震える感覚がサッパリ理解出来ない
前半は会話文のまとめを地の文で書くみたいな説明臭い感じだったのに。
分析したがりの男特有な余計な一言が契機だとしたら
”疑い”が始まったのは悪阻を知ったときではなく、両肩を触った事が契機になってる筈。
親身になれば情動はしっかり見えるけど、
本筋とまっっっったく関係ない病気の説明とかくだらない事も書く人らしいから
どこまで本気で書いてるのかよくわかんない。保留。
>>40 下はすげえ
こっち読めこっち。
上だけ読んで評価してたらど偉いもの見落とすとこだった。
嫌いじゃないな、このナルシスト。
徹底して嘘吐かねえや。
志賀直哉ってだんだん駄作生産していったタチか?
その駄作だけ読んでディスやってたのか?
志賀直哉読みました。
『好人物の夫婦』を全部と『邦子』を超とばしとばし・部分部分読みでしかありませんが、
目を通しました。
一言感想を言えば、志賀に批判的な安口安吾や織田作之助よりもいい小説と思ったんだけどな。
安口安吾
三文文士っぽいな
軽口叩くんじゃねぇ!
実に教科書的道徳じゃないかね。
お互いが疑いお互いが信頼を士合うと言った家族のはなし。
でも奥底に潜む愛(ジェラス)に戸惑うひとたちのはなしでもある。
愛を扱うだけに、時代問わず普遍。教科書的なのは好かれもするし嫌われもする。
志賀はあまなに蹴り入れてもらった方が
いいんぢゃないか?
ボンボンが鼻につくよ
鼻につくつーのは同感。
なんつっても出てくるオトコは金持ちじゃんか!
志賀あ?気に食わないね!
若い頃、黒猫ギャング団で腹腹時計を作ってたあたいをなめるんじゃないよ!
志賀の旧居なんかあたいにかかったらあっというまに「ボンッ!」さ!ギャハハ!
ムショに入れたって無駄だよ。あたいは絶対にフケてみせるからね!
志賀を批判している論考を以前読んだことがあるんだがね
執筆者は志賀にはある種の健全さが足りないと言っていてな
それはどういう類の健全さかというのを西洋の詩人を引き合いに出して述べている
「俺はいまここで高らかに宣言する!妻も子どもも愛してはいないと!!」
っていう詩なんだよ
俺は深く感動を覚えたよ。ここまで人間を解放する詩は後にも先にも無いんじゃないかと思っている。
この詩人の名前は忘れてしまったが
なんかさ、浮気したいんだったらしろよカス!と言いたくならないか?志賀の作品を読んでいると
>>52 それを一人旅にたとえているね。
ベクトルは真逆になるけど郷愁の念に近いものがあるように思うよ
或いはアリの行列を潰すときの気持ちにも近いものかもしれない。
>「俺はいまここで高らかに宣言する!妻も子どもも愛してはいないと!!」
前後の文意がわからないから判断出来ないね。
たとえばだよ、僕が是非そうあって欲しいという解釈だけど、
結婚はひとつの例外もなく見合い結婚であるべきだ。
そもそも僕は恋愛結婚なんてものは完全に矛盾した考えだと思っているんだよ。
「人がただ一人の人間を永遠に愛し続ける事が出来る」のだとしたら、そいつは死んでるのと同じだ。
当たり前だ。全く変わらないんだからな。
もしもそれが「可能」なのだとしたら結婚なんて儀式は必要無い。
単に制度上の恩恵を受けるだけで、結婚という儀式が愛を薄めたり深めたりはしない。
人の気持ちは変わるよ。当たり前なんだよ。
100%の相互理解が有り得ないように「永遠の愛」なんてものは人間には不可能だ。
だから「永遠の愛」を体現するキリストに忠誠を誓う。
「この人を好きだ」という不確かなラブを神様に生贄として捧げて、代償として確かなアガペーを賜る。
「妻も子供も愛してはいない」。当たり前だ。既にそんなものは神様のモンだ。
だからもしも君がそれをエゴイズムの徹底だと捉えているのだとしたら
僕は必ずしもそう断言できないという立場を採る。
それは自己本位ではなく則天去私であると。
>>53 すまん前後文脈ないとあれだった
すっごく朗らかな感じだったよw
別に妻や子どもを棄てて愛人のとこに向かう
ってわけでもないし。
偽りなき自己を高らかに謳うという感じで
爽快で純真無垢なもの
55 :
吾輩は名無しである:2011/10/02(日) 02:07:46.82
何故、傑作の呼び声高い「邦子」の方をお題にしなかったのか?
2作品とも読んじゃえばいいーじゃん
志賀論ってことでさ
あまなが東電芸風にチャレンジしてるの?
東電さんはモコを目指してるって言ってた
文化の継承って大事ですね
じゃあ「邦子」もありで
えー
>>43-44は2作読んで「邦子」を評価してるし、
43-44の選で「邦子」メイン、
余裕のある人は「好人物の夫婦」サブ
ということでいいんじゃないかな。
ムーは志賀に興味ないみたいだから今回の選者としてはNG。
次やってもらおう。
>作者自身、自分のものとして「これも亦一つのもの」「存分に作つた小説」と自負していた。
とあるしね。
チバ! シガ! サガ!
>>62 まあ仕切りたいならかまわんけど、今回俺の枠じゃないということなら、
次は俺でいいんだよな。
次回は「不良少年とキリスト」でよろ
3つ一緒で行こうぜ!
3つ一緒で行くか?
てか
志賀って30歳手前でうつ病になって希死念慮に苛まれていたらしいな
ふらふらと電車に引き寄せられて事故まで起こしてるし
だからさ、無頼派が何をやりたかったのか志賀はよく理解しているんじゃないかと思ったよ
初期の短編で「濁った頭」とかいうタイトルのものがあってさ
このタイトルとか現代的じゃね?
ちょっくら読んでみるけど
来週は志賀やんの? 志賀といえば、蓮實が志賀萌え、志賀推しだったって
ことを思い出すなあ。 志賀の一番の売りといえば、感覚の鋭さっておもってんだが。
>>64 次回よろしくー
>>67 蓮實は志賀萌えなのか〜、知らなかった。
志賀の「邦子」を読んでみたけど、
これはどうにもウジウジした感じの小説だね。
要は、邦子という一人の女(主人公の妻)の自殺の話。
冒頭に自殺の事実が告げられ、そこから時間を遡って、
邦子と出会い、女優の雪子と不倫し、最後に邦子の自殺場面で終わる構成。
明るさが微塵もない作品で、文体もどんよりしている。
ただし多少フックとなる場面はあるね。
フックになってると思われた箇所は、自伝的なエッセイ風の記述になっているところ。
たとえば――
或批評家が、主人公の作品評で「好人物の平和」という批判をしたことに触れた箇所。
主人公が女を描く際に「常に唯一人の女しか浮んで来ない」といい、
それがまさに邦子で、その他の女性は「如何しても全体的には浮べる事が出来ない」と、
書いている箇所。
「破戒」の島崎藤村について語り、生活(家庭)と芸術の関係を考えている箇所――。
ただやはり全体的には、曇天のような煮え切らない作品、という印象で、
個人的には得るものがほとんどなかったなあ。
>>68 そうなのよー、「暗夜行路」、めちゃくちゃ評価してたし、志賀の「日本の国語を
フランス語に変えるべし」発言を擁護したこともあったし、志賀が竹馬にのってる
写真について書いたエッセイもあったなあ。志賀プッシュのエッセイだったね。
>>70 なるほどー、じゃあムーも少し関心が出てくるかもしれないねw
>>44 44は「邦子」を「すげえ」と評価してるね。そして、
>嫌いじゃないな、このナルシスト。
>徹底して嘘吐かねえや。
とも。
うーん、確かに自伝的な率直さみたいなものは感じられるけれど、
自分や自分を取り巻くものの描写が表面的な印象だったな。
内面をえぐらない感じ。
作品と事実との近さはよくわからないけど、たとえば、
中村光夫「『わが性の白書』」に比べると、
言葉を読んで受ける面白味、迫力がないと思ったなー。
それともその「なさ」が逆に美点なのだろうか?
志賀は鈍器で肉を削ぐみたいな感じだ。
対象をぐしゃぐしゃに潰しながら肉を割いていく。
肉は削げるが鈍い切り口を見せ不恰好。不恰好がキライなひとはキライだろう。
読後感が、愚鈍で実直で愚かで純粋で無粋で粋でなくて。
>>71 ムーは、蓮實っ子って、前に自称してたね確か。 しかしそのあと、最近は
そうでもない、みたいなこといってたんだよなあ。
>>73 面白い表現だね。
その表現がもっとふさわしいのは藤枝静男じゃないかと思った。
で、その藤枝は志賀の影響を受けてるっていうんだね。
俺は藤枝は好きだ。とすると、藤枝に見たものを志賀に見なかったのは、
俺の読み方が悪いのかもしれないなあ。
>>74 蓮實が志賀に触れてるのは『反=日本語論』だっけ?
>>75 「反=日本語論」で触れていたのは、たしか志賀の国語をフランス語に変えるべきと
いう論じゃなかったかなあ。その他の志賀についての論点は、対談やエッセイで
触れていたね。
国語をフランス語だぁ?
形容矛盾してるよ
イミワカンネ
志賀直哉の性欲は底なし
まあ俺が蓮實っこなのかどうかはさておき、
蓮實は『「私小説」を読む』で志賀についてまとまった論考をしてたはずだな。
大昔に読んだきりで手元にもないから内容はほとんど覚えてないんだが、
「和解」だか「暗夜行路」だかを「眼鏡」をタームに論じてた気がするな。
おもしろくないな、眼鏡とはな。
赤色にまつわったり盾にこだわったりしても何もみえてこないだろうに。
まあそう言い切ってしまう君は好きだよw
眼鏡?
思い出せよムー大陸
思い出さなきゃならない必要を感じませんな。
「邦子」読みはじめたら、携帯からだとメモリ不足で
雪子との関係が邦子にばれたあたりまでしか読めないんだけどいいや。
断言します。「邦子」もクソ。志賀はもういいや
その方が良いよ。
これ多分読める奴しか読めないわ。
次行った方がいい。
ほう。
そう言われると志賀がいかに下らないかを理路整然と暴き立てたくなってくるじゃないかい。
「好人物の夫婦」も「邦子」も、作者の分身たる主人公が、
自己ね「内面」を、(よせばいいのに)連れ合いに「告白」することによって
起こる波紋を描いているわけだが、この「告白」される「内面」というやつが、
「蒲団」以来のチンケな伝統に根差した「相対的な恥部」に過ぎぬし、
なぜ主人公が告白するかと言えば、それは結局、それが「私小説」のお約束だから、としか言いようがない。
作中の人物が告白する動機が、「これは私小説だから」というものなので、
つまりこれはいわば「メタフィクション」なわけだが、
この自らの尾を喰らう蛇のような構造には出口がないばかりか、
全てがその状況に自足仕切っているという救いがたさはいかんともしがたい。
両作品における主人公の嫁も、独立した人物というよりも漫才の相方のようなものであり、死のうが震えようが、異物として主人公を突き放すことはついにない(邦子は終わりまで読んでないが、この予想が裏切られることはないだろう)。
つまり、志賀はある歴史の変遷により、「文学(=文壇)≧人生」という規定が、
ある集団内で共有されていた時代が生み出した奇形なのであり、
志賀から読み取るべきは、こうした歴史的教訓以外のなにものでもない。
>「文学(=文壇)≧人生」という規定が、ある集団内で共有されていた時代が生み出した奇形なのであり、
これ「不良少年とキリスト」にもつながりそうなのでメモっといて
俺の単なる固定観念なんだけど志賀とか大江とか読むのすごい疲れるんだよね
襟を正してるわけじゃないけどたらたらと読めない
>>86 で?
その作品を足掛かりにした作家ディスを聞いた俺は
なんとかしてその思い込みを翻意させないといけないわけか?
これ楽譜だから無理だよ。読める読めないがある。
「この音符がどうしてここにあるかというと楽譜だからだ!」って言われても・・・ねえ?
90 :
45:2011/10/03(月) 00:23:20.15
なんか不評ですね。
今現在で、前口上で4枚ほど、志賀と作之助の言及を絡めた部分で3枚ほど書いてます。
いま載せようかと思ったんですけど、もう眠いので明日載せます(前口上は省くかも。
ほんとに大したものじゃないけど、いまのところ、なんか唯一?の志賀擁護wみたいなんで、
フルボッコくらうつもりで、がんばりますwいまはもう眠くてだめなんで。。。
ちなみに安吾の『不良少年とキリスト』と志賀を絡めても、これはまだ書いてはいませんが、
安吾に対する批判として考えています。これは前もって書かないで、唐突に書き込むかもしれません。
むろん未来は予測不可能ですので、書かないかもしれませんが。
おやすみなさい。
志賀に特徴的なのは、「内面」が、あくまでも不確定でアモルファスなものでなければならない、という「ゲームの規則」である。
さらに正確に言うならば、この不確定さは「内面」に止まらず、主人公の「告白」のスタイルを規定しているのだ。
我々の日常を考えるに、例えば前を歩くねーちゃんの尻を見てムラムラすることは始終あるにせよ、
だからと言って、「俺はこの女に襲い掛かる可能性を否定できない」などとは普通かんがえないし、
ましてや奥さんや彼女に向かって、
「俺は今日目にした尻にムラムラきた。俺はこの欲望を制御する自信はない」
などと聞かれもしないのに告白などしないだろう。
しかし、志賀の小説の主人公はこうした愚行を敢えて行わざるを得ないのであり、その原理はあくまで「文学的」なものでしかない。
つまり、もし主人公が、アモルファスな内面を抑えて
嘘でもいいから「ようしわかった女房よ。これから俺は浮気はしない」
などと宣言しようものなら、その場で「私小説」は瓦解するのである。
だから、私小説とは暴力的にして日常的な「決断」を廃除することによって成立する奇形的なジャンルなのだ。
一切の決断を禁じられた内面。また、その内面を告白しなければならないというルール。
今となれば、どこぞの未開人の理不尽なしきたりのようなものであるが、
我々の時代のすぐ前に、こういうことを是とする変態集団がいたわけだ。
面白いですねー
あと文学は楽譜じゃないと思うな。
志賀はそういうスタンスで書いてたんだろうが
俺的には言葉の美しさなんてことよりむしろ、小説は、
外国語に翻訳されて外国人に読まれても、ちゃんと本質が伝わるくらいじゃないとダメだと思う。
読んでないんだろうからさあ・・・
その愚行は、すなわち対面気取る為の嘘吐きは雪子相手にやってるんだよ
妻に対しては誠実に答えて浮気相手には方便を使う。
これは文学的ではなく戯曲的なドラマの作り方だよ。
川の流れを見て決断が無いから美しくないなんて言えるか?
僕は最後のくだり、雪子との手切れから生気の萌芽。
戯曲のあらすじをテコにして創作意欲に乗っけてそれを夫婦喧嘩にスライドさせる。
この方法で一旦熱を昇華させて落ち着かせてからカット変えで妻の方に入れ替える。
淀みを丁寧に描いてから着火。ここからの洪水のような展開は面白かったけどね。
楽譜でもレシピでも絵コンテでもなんでもいいよ。
「何故カレーのレシピにニンジンがあるかというと、カレーとはそういうものだという固定観念から抜け切れないからだ」
意味分からんだろ・・・なんでもやりゃ良いってもんじゃねえぞ。
いや、その正直な「誠実さ」が愚行だって言ってるんだがね。
っていうか、結末読まずに、さらに他人の文章をパクらずに批評しちゃってる俺。川〇や佃煮を超えたか?
「嫁相手に嘘を吐かない事」が愚行だと本気で言えるか?
それこそ仮面夫婦じゃねえか。
反感を嫌悪するな。それも含めて人間の姿だ。
いや、カレーになぜニンジンが入っているか、ということは、常に問われなければならないことだと思うよ。
ましてや文学の使命は「生の諸条件」を抽出することだからね
ムー大陸は川上スレの工作員だったのか
きもいな
>>96 あんたがいい人なのはよくわかりましたw
でも志賀の小説の主人公が妻に対して正直なのは、誠実さや愛からではないよ。
ある種の変態なだけでw
>>98 違うよw
「佃煮ラカン逆切れ事件」は笑わせてもらいましたがw
変態かどうかは知らんけど馬鹿正直という評価をしているなら見当外れだよ。
バレバレだなムー大陸
哀れな奴だ
噛み合わないなあ。
馬鹿正直じゃあないよ。
むしろそこに奇形的な論理があるとさっきから言ってるんだが
これだけの加齢臭で川上がパクリとか電波なことを言ってるのってムー大陸ぐらいだろ
それなら気にするな。
半分カマ掛けるつもりでやっただけだ。
お前映像力学とか視覚のダイナミズムとか理解出来る人間だろ
ちゃんと読めば引っ掛かるからストーリーラインを立体で組み立てろ。
情動の浮き上がらせ方と繋ぎが神憑ってるから。この短編はマジで凄い。
これだけの加齢臭で川上がパクリとか電波なことを言ってる上に川上スレとここでまったく同じタイミングで「これから寝る」と宣言する奴なんて一人しかいない
それはムー大陸だ
邦子が繰り返し「私は幸福よ」と言うところが気になったな
繰り返すということは、それが嘘であることを暗示しているのだと思うが。
<私>がスキャンダルもハプニングも何もなく日常性に圧殺されていくことを不満に
思っていたが。邦子もそういう平穏な日常に耐えられない種類の人間だったんじゃないかな。
もともとは貧乏人で日々の生活にも苦労していたが、その中で幸せ(ルビー)を見つけられる類の人間だった。
そういう何事もない生活を芸術家である<私>は拒否するけども、邦子もそういう生活を心の奥で拒否していた
んじゃないかな。
ふたりの生活は全くの偽りの上に築かれたものに過ぎない。偽りを告白(不倫の告白)してしまったから立ち行かなく
なったんじゃないかな。
>「俺は今日目にした尻にムラムラきた。俺はこの欲望を制御する自信はない」
>などと聞かれもしないのに告白などしないだろう。
言い方は違えどそれは言うだろうw
俺も読まずに批評してみよっかな。
いや志賀嫌いってわけじゃないんだがなんかこう、読後ねちっこい倦怠感っていうか疲労感があってな。
徒労、というか。
全然徒労なんかじゃないのかもしれないけど、俺の中の感覚が。
でまあそんなに読んでるわけじゃないし「邦子」未読なのでちょっと読んでみようかなとは思ってるけど。
例えばさ、2ちゃんとかわかりやすいけど、「この文章の裏には悪意があるんじゃないか」って会話をよくしてるじゃん、皆。
で、確かに悪意を感じさせない言い方もあると思う。
でも2ちゃんという場だとそれは逆にお世辞、嘘っぽく見えたりするわけだ。
志賀の文章は、お世辞や嘘っぽくはないんだけど、絶妙な単語の選択で、筆者の「悪意」を感じさせないようにしてるんだよな。
だから読めるんだよ。普通に。
でも読み終わると何か徒労のような感じがある。
「悪意」がないというか、「冷酷さ」かな。彼は「生真面目さ」であって、「冷酷さ」じゃない。
カトリックの主とプロテスタントの主の違いみたいなイメージ。あごめん俺の勝手なイメージなのでわからなくても可。
後で読もうとは思ってるけど乗り遅れるかもしんない。
この「悪意」というより「冷酷さ」ってのは、カトリックとか言ったけどそんな大層なものじゃなく、
「風刺」とかにもある「冷酷さ」だ。
坂口とか「風刺」好きだろ。
>>53 >「俺はいまここで高らかに宣言する!妻も子どもも愛してはいないと!!」
これとかもさ、俺も前後の文脈知らないからなんとも言えないけど、
エゴイズムの謳歌と読むのも真面目に「則天去私」と読むのもいいんだけど、
「風刺」じゃなくても「ブラックユーモア」(っていうのかな)とかそういう風に捉えることができるだろ。
志賀に足りないのはこういった成分なんだよ。
まあかと言ってそういう「冷酷さ」を妥協してシニカルになったりニヒリズムになったりするよかマシなのかもしれないのか。
「風刺」はあくまで通過点。
やっぱ俺志賀だめっぽい。
感想書けなくないが、志賀ファンのみならず不愉快にさせる文章になりそうだ、どうしよう。
他の短編集も読んでみれ
機会があれば
志賀はなんだか悪魔とか神とか西洋っぽい概念をつかってみたらいいんじゃないのかな。
おとこに巣くう悪魔、おんなに潜む悪魔。
みんなは悪魔の仕業で不幸になるし、いわゆる神様は偶然にちいさな幸せを運ぶ。
にんげんの奥底には悪魔がいてときどき悪さをする。
それを垣間見せるうまいやり方をやってるんじゃないかな。市井の奴らはこれをみて感情がぐらつき日常の些事にも奥底の恐怖がひそんでいると気づかされる。
ちょっとにんげんの底の悪魔をみてびびってみたいつー怖いもの見たさがうけたんじゃなかろうか。
それとにんげんの底の神様もみたいときもある。志賀の神様は信じる者だけに不意に顕れる。
園児の教養には血が通っている。
悪魔と神って分ける時点で作為的だと思う俺であった
聖書だって最初はライ病患者の神殿出入りを禁止してたんだぜ?
そうなん?
昔のらい病はひとのかたちを崩してたからね。
ドロドロの。
結局善悪の根っこは好悪
父母が熱心なプロテスタントで自分はゲイで(それとは関係無しに)母親が自殺した人のブログがおもしろい。
志賀には「へんしん」もなければ「レベレーション(階層移動)」も「(不可知の)来訪」もない。
淡々とした「流れ(フロー)」があるだけで起伏がすくなく挑む山としてはおもしろ味がない。
にんげんの「たいせつなもの」の獲得もしくは喪失しかない。
意訳:クラシック音楽は眠たくなるのでハードロックが聞きたい
エモとかエモパンとかのバンドロックがいいね。
現代クラシックなんかは不可知の来訪だろ
現代音楽こそ聴かないぜ。
感情を脱するとかの訳がわからないからな。
音楽は精神が高ぶってこそ。
「わからない」という感情
「わからない」という感情をたのしめるのは、にんげんの予期し見通す能力が錯覚させたものじゃね?
「わからない」ものは「わからない」んだからそれは単に「わからない」ものなんだけど。
答えがあるとわかっているから「わからない」が面白いのではないか、ということか。
推理小説なんかそうだな。
だが学問には答えなどない。
感情というより本能に近いと思うがな。
単なる「わからない」とは。
推理小説のような答えが用意された「わからない」ではなく、本当の単なる「わからない」であれば、世界は豊穣だぞ。
苦痛も満ちているが。
答えがなくても答えをもとめる指向はなんだろね。
わからないものはわからないものなんだからわからないものなんだよ。
そういった関心事を分離してくやり方のが俺はすきだな。
答えを求めてるのかね
わからないものには引力がある
それだけだな
そして今さらだが俺も現代音楽はあまり聴かない
引力?
アトラクターか。アスペクト(様相)とか考える?
オブジェクト指向に取って代わったアスペクト指向とかは?
意味がわからんが、物理の世界にも電磁力ってのものがある
量子力学みたいな話?
139 :
45:2011/10/03(月) 22:55:21.60
しかし、なんだかんだ言って物悲しい夜です。
気温が低くなってきてからか、街ゆく人たちも物悲しい。
おまけになんでもそうなんですけど、何かを批判するってのは、なんか気が引ける面もありますわ。
お前偉そうなんだけど、一体お前に何ができるんじゃーってなもんですよね。自分にも問いかけますよ。
せめて批判対象以上のものを、仕上げる腕があればこんな悲哀も感じないんでしょうがw
でもまあ世の中に批判の精神がなくなったらどうなっちゃうんでしょうね。
政治家なんかでもね、僕が報道で知るところでしかありませんが、こいつら揃いも揃って、人に言ってる批判が
自分に跳ね返ってきてるんじゃないかってことですよ。金の問題だって多かれ少なかれ、誰にだって直接は関係
しないまでも、間接的にはかならず関係しているんですわ。だからって批判がなくなったらどうでしょうね。
きっと状況というものは一方方向にがっさり流れて行ってしまうでしょう。
いい方向であれば結構かもしれませんが、悪い方だったら大変だあね。
批判とは言われた方が不愉快な指摘だと思っているが、志賀は批判じゃなくて自分の罪悪感をさらけ出してるだけなんだよな。
141 :
45:2011/10/03(月) 23:00:50.54
昨日は書いたものを直接あげようと思いましたが、あまりにもかたくて、内容も長いので
短く口頭口調で書いてみます。たいしたこたあ無いのでスルーでも結構です。
連投でエラーが出たら途中でやめるかもしれませんwむろん書けないから、書くわけにはいきませんからねw
そろそろ長袖をだすかな。
掛け布団もださねば。
143 :
45:2011/10/03(月) 23:04:15.76
作之助は『私の文学』のなかで、こう傲語しているんだけど。
>おれは人が十行で書けるところを一行で書ける術を知っている
志賀を読んでいて、その間でふっとこれを思い出して、僕は少し笑いが込み上げたんです
けど。なぜなら、だって、この言葉こそ、僕には志賀直哉の小説で言えることだと思った
んですもん。
それで、志賀の『邦子』でのそれとで、まず目についた、以下の部分から僕は指摘してみ
たいんだけど。まあこれは、小さくてごく限られた、ただ一つのものの見方に過ぎないが。
まずは進めてみたいん。作之助を絡めた視点でということで。
邦子がホテルの雇われボーイの解雇という場面から、次に主人公と同棲するに至るところ、
ここから二人が親密さを深めてゆくくだりは絶妙の描写になっているんだよな。事細かな
具体例はそれほど描かれてなくて、臭くてもっともらしい素振りもない。実にさっぱりし
ている。小さな何気ない気さくなエピソードがはさまれているだけで、二人は親交を深め
てしまう。まったく行数は少なく見積もられていてさ、これがすばらしいと思うんだけど。
まるで人間は男と女だけであるだけで、それが惹かれる運命であるような、この真実を見
事に描写の省略という方法をもって読み手に喚起していると思うんだ。あるいはこいつら
の運命的なものを。ここで具体的な仕草とかをたくさんしちゃうと拍子抜けなんだよ。こ
ういった方法を省略の妙っていうんだと思った。読んでいてあーこいつ上手いなーって。
邦子か。
すこしグレードギャツビーぽかった。
邦子はそれでいいけど好人物の夫婦は端折り過ぎ
ピアノ線で大黒柱作ってんだもん
あれ一目で建築物だと看破出来る奴はバケモンだ
2時間映画の15秒トレーラーだけ見て感想上げる方が簡単なぐらい。
146 :
45:2011/10/03(月) 23:08:45.92
それでまた、この描写が後半でものをいう仕掛けにもなっていて。
簡単に惹かれあって、一見すると、主人公は邦子を軽んじている風にもとれていた関係が、
邦子の死をもって、実に深刻なかげとなって主人公におそいかかっているんだけど。気軽
な男女の関係が、一転して、実は深くてかけがいのないものに変わっているんだよ。何よ
りも主人公と邦子の形而下での軽快な時間経過、描写の少なさ、それが主人公の前半部分
と後半にかける自己告白めいた描写と相まって絶大な効果を上げていると思う。まったく
完璧といっていいくらいの小説に仕上がっていないかな。違うかな?志賀はこの小説で見
事に主張を読者に読み取らせていると思う。そのすべを彼は会得していると思うな。
これが定型的な私小説だからって非難されるのが自分にはわからない。彼は真の小説家だと思うけど。
逆に作之助が言う、文字列の省略はうまく機能しているのかって疑問がより持ち上がって
きたんだけど。だってあまりにも志賀が絶妙で効果的に小説をコントロールしててさ。結果的に。
こんな事は安吾に対しても言えるんだけど、『不良少年とキリスト』での死の扱いについて
で。いかに志賀の方が小説というものと、言葉というものに誠実であったかということな
んだけど。僕は志賀を支持します。まあこの場合で限定的に、この二人に比べればだけど。
>>143 >おれは人が十行で書けるところを一行で書ける術を知っている
>だって、この言葉こそ、僕には志賀直哉の小説で言えることだと思った
私は時に傲語する、おれは人が十行で書けるところを一行で書ける術を知っている――と。しかし、こんな自信は何と
けちくさい自信だろう。私は、人が十行で書けるところを、千行に書く術を知っている――と言える時が来るのを待って
いるのだ。十行を一行で書く私には、私自身魅力を感じない。
筋は通っているな。
>>144 えええ。
そういう中二病精神が足りないと思ったんだが。
指輪のエピソードはギャツビーのシャツのエピソードっぽくて、しんみりさせられた。
150 :
45:2011/10/03(月) 23:11:39.54
『好人物の夫婦』も良いと思いました。
>>150 いや、ありゃダメだよ
価値は認めるけどガリッガリだ
ほとんど詩に近い
邦子が語り手だったらギャツビーになるのか
153 :
45:2011/10/03(月) 23:14:21.29
>>147 うん。そうなんです。
ただ僕が思ったのは、彼が志賀を批判する立場である人物だから、あえてそれを志賀の長所と
比較をしてみてみたかったんです。
俺は引き出しがすくないからな。
思い付くのが限られてるだけなんだよな。
155 :
45:2011/10/03(月) 23:18:13.11
あと、『邦子』を読んでいて真っ先に思ったことなんですけど、
志賀の文体だとか、小説の技法って現在でも普遍性を持って生きているんですよね。
思ったのは村上春樹w
これってここだとすごいアレルギーを感じる方がいらっしゃるかもしれませんが、
『ノルウェーの森』って、すごく『邦子』の文体と、ストーリーの組み立て方が似ているんです。
残念ながら記憶の中での話で、手元に本がないので、絶対だとは言い難いのですが。
>>154 比較は面白いと思った
邦子がギャツビーか、とも思ったが、邦子と主人公は山の頂上にいるんだよな
ギャツビーは登り切っていなかった
山の頂上?
よくわからん。
ノルウェーの森は思い浮かばなかったな。
159 :
45:2011/10/03(月) 23:26:29.55
>>157 そうですね。
記憶では大江健三郎の小説にもとてもよく似ていました。
短編で題名は忘れてしまいましたが、大学生が娼婦と同棲していて、アルバイト先の女の子を妊娠させてしまう話。
描写の雰囲気とかそっくりだった記憶があります。
春樹はパクリのプロというかwいろんなところからイメージを引っ張ってくるので、
もちろん一つではないと思います。
志賀直哉は内村鑑三のもとで何年間かキリスト教を学んでいるよ
>>158 何かを求め続けることかなあ
邦子の主人公も不仲になってから創作意欲が湧いたけど、ギャツビーは常に求め続けていた
仕事に妻を犠牲にしたって構図なわけだけど
ギャツビーは自分が求めることに他人を犠牲にするのもいとわない感じでしょ
そういう勢いがない
162 :
45:2011/10/03(月) 23:28:44.09
志賀は一流だと思います。
作之助が志賀を批判しているのもわかるんですが、ただ作之助はその批判のアンチになっているだけで、
主体的な小説としての評価が、志賀よりも上であるとは考えにくい。
志賀の小説の印象はそれだけで一つの価値観が独立して商品になっている印象。
作之助はただのお話ってレベル。大げさに言えばですけど。
163 :
45:2011/10/03(月) 23:30:26.97
ギャッツビーと邦子を比べるのは難しすぎませんかw
>>159 大江なら文体がどうとかじゃなくて同じ違和感を覚えるのはある
春樹はコラージュではあるよな
志賀も大江も春樹も好きではない方に入るが、この中なら春樹が一番マシかな
そこまでは大凡見解を一にしますが
太宰が反目したという点が腑に落ちません
彼なら志賀の母性は認めた上で
エンタメ乗っける責任を放擲出来なかった、という齟齬になる筈です
>>162 ああうん、商品なんだよな
商品なら商品と自覚がありそうな春樹がマシってことだな
167 :
45:2011/10/03(月) 23:33:33.93
その仰りようでは3通りぐらい読み方がイメージ出来るので何とも申せません
原理の心性はぬるいくせに肩肘張ってる、ってイメージ
大江も志賀も
母親がいない父子暮らしで母親役もやらなきゃいけないオヤジのイメージ
春樹なんかは「ぬるい俺」って自覚がありそうだからまだ読める
ぬるいというか中高生が中年リーマンをダサいと思う心性の方がよほどねえ?
家庭持ってないわけだろ、君の御本尊は。
一体誰なんだろう?
174 :
45:2011/10/03(月) 23:49:33.43
あと前にも書いたんですが、
安吾の『不良少年とキリスト』で彼は太宰の死を語っているんですけど、
この姿勢ってのを見る限り、やはり志賀の姿勢の方が小説家、思想家として優れていると感じたんですね。
死っていうものはやはり、誰にもわからないんですよ。本質的には。
だってたとえ自殺した本人が自覚していたといっても、その自覚自体はどう自覚されたって問題もあるんですから。
簡単に何々のせいだって理由づけされないんです。ましてや立派な思想家ともなれば。
安吾は『不良少年とキリスト』を読む限りでは、かなりの下世話な作家の印象です。
それに対して志賀は『邦子』において、《死》にある特定の理由を付加していない。
これはもっともなんですよ。小説の形式で《死》をうまく語れるものとして昇華できているんです。
次に参加するかわからないので書いちゃいましたけどw
ギャツビーのことだろうか
まあ「邦子」みたいな「中年リーマン」のお話よか「欲もりもりオヤジ」のお話の方が俺が面白いってだけ
>>174 語りえぬことは沈黙しなければならない、か
思想はその方が見栄えがいいのかもしれないが、そういう小説が一番つまらないと思うがな
下世話もあるのが小説なんじゃないのかね
>>174 「思想家として」
この一文はやめとけ。
まーた収拾つかないから。
179 :
45:2011/10/03(月) 23:55:47.18
>>176 そうですね。
思想も好みというか、現実がすべて思想であるはずはないわけですから。
ただ人間は自己意識で生きるものですから、哲学的な認識ってのはいざというときに
ぶれない基準になるわけで、こうゆうものが説得力を持ち、人を動かす場合もあると思うんです。
まあ、これも空論ですけどw
小林秀雄は結構さめてましたね、そういえばw
>>179 >哲学的な認識ってのはいざというときにぶれない基準になるわけで、こうゆうものが説得力を持ち、
そうか、俺にとっての哲学と君の哲学は別物のようだ
「自明性の懐疑」つまり説得力を失わせるのが俺にとっての哲学だな
181 :
45:2011/10/03(月) 23:59:36.50
下世話は僕が好きじゃないというだけかもしれませんけどね。
ただ下世話は志賀よりも僕は劣ると思います。僕はですが。
それに安吾の太宰の死へのある種の意味の固定化は、ある種の冒涜でもあると僕は思いましたけど。
これも、僕が思うだけですが。
そう、語り得ないことを、「その語り得ないことを語る」という重苦しさにさえ
見て見ぬふりをしながら、いけずうずうしくもしゃあしゃあと語らなければならないわけだ、文学は。
邦子、会社で書類をブリントアウトするついでに出力して今最後まで読んだが、最後までダメだったなあ。
とはいえ「不良少年とキリスト」は筆が滑りってるなとは思う
坂口らしいっちゃらしい
前スレだかで坂口が現代に生きてたらテレビのコメンテーターとか合うかもしれないと言っていたが、そんな感じ
184 :
45:2011/10/04(火) 00:01:41.13
>>180 でも、それも《自明性の懐疑》が説得力を持っているとは考えられませんか?
すべりってるって語呂いいな
いや、「ひとつのことを言い切る」というのは覚悟がいるんだよ。安吾は太宰の死に対して、「正しい」解釈をしたのではなく「ひとつの」解釈をした。
これは倫理的な態度だよ。
「死は誰にもわからない」などとうそぶくよりもはるかに
ムー大陸って川上スレの工作員なんだって
きもちわる…
説得ってのもさ、結局は自分の頭の中で説得されるわけで、その言葉やそれを言っている他人に説得する力があるわけではないのだよ
>>187 「解釈」ならそれなりの検証があるべきだがな
まあ紙幅の問題もあるんだろうけど
私は、人が十行で書けるところを、千行に書く術を知っている――と言える時が来るのを待っているのだ。
この織田の言葉にはやられたと思った
191 :
45:2011/10/04(火) 00:09:45.15
人は必ず何かしらの決断をしなければ生きていけはしないのです。それは固定的なものであれ、流動的なものであれ。
それである種の哲学を尊重するからと言って、また違う哲学を尊重しないということはないのです。
何かしらの正しいものはないと言いながらも、人は何かしらが正しいと判断せざるを得ない。
結局はそれを《自明性の懐疑》ならそれはそうかもしれませんが。
あと安吾が下世話というのも字面の解釈だな。
安吾を安吾たらしめているのは倫理性なんだよ。
俺的にはむしろ、志賀は倫理をひたすら回避しながら、戦術レベルに溺れているようにしか見えない。倫理とは戦略と言い換えてもよい
「懐疑」を主張したからと言って「決断をしない」という話になるのがわからん
>>187 倫理的な態度とは定点に因果を集積することではないよ
そいつの死に倫理的態度で向きあうなら毎年墓参り行くべきだ
懐疑(検証)→決断、って話であって、検証を省略するのはいかがか、という話なんだけどな
PDCAだ
>>191 決断なんてものはたかだか人間の認識ありきだ。
人生の転機にそんな権利はむしろある方が稀だ
198 :
45:2011/10/04(火) 00:19:25.59
倫理ってのも解釈ですから難しいところではありますが、結局人は名前を付けなければ
こうして会話さえもできないわけです。
僕は実はパラダイムについて前口上を用意していて、今回省いたんですが、ある種の傾向の絶対的な、
現実的な有効性ってのを判断するのは難しいでしょうね。現実は論理以外が絡むわけですから。
いや、安吾は「定点に因果を集積」などしてないよ」w
ただ、安吾は人間は有限な存在だと言ってるわけだ。
だとすれば、例えば「死」であるところの無限なるなにものかに対して、
無言で頭を垂れるというのは、かえって思い上がった態度なんだよ。
人間は有限なりに、不完全なりに、無限に対してもなんらかの「オトシマエ」をつけなければ、
真に生きているとは言えないわけだ。
志賀はそのオトシマエを一生避けて通って長生きしたわけやねw
あと暴言すれば、文学に「検証」や「正しさ」なんて必要ないよ。
人を動かすかどうかだよ
志賀は検証無しに判断してると思うがな
織田の言う「可能性」とは「検証」でもある
定跡はずれの一手もな
頭の中の人間像が狭い気がする
大江も志賀も
坂口も多様ってわけではなくそれこそ「お話」なんだけど、坂口は切り取っている自覚がありそうだ
「語り得ぬことは沈黙せねばならない」とはよく誤読されているが、語り得る範囲を示すことなんだよ
ウィトゲンシュタインがした仕事は
>>200 ならプロパガンダでいいな
俺は文学自体が「検証」だと思っている
「正しさ」などはないが
ムー大陸は川上スレに行けよ
おまえのホームグラウンドなんだろ
>>199 おかしなもので
哲学的命題に関してそれほど大きな齟齬を見ていない。
この一点を除いてな。
>無言で頭を垂れるというのは、かえって思い上がった態度なんだよ。
無言で頭を垂れざるを得ない人智の限界を認めた上で
そこに抗い続ける人間の姿を俺は志賀から見て、お前はおそらく似た様なものを安吾から見るわけだ。
一体どういう訳なんだろうな?
「人が動く」のは「検証」の結果にすぎない
「人間(自分)の限界を知る」と「頭を垂れる」のあいだに飛躍が無くはないか
>>206 人間一人が生命誕生から宇宙の終わりまで生き続ければ飛躍がある事を認めてやるぜ
>>207 「人間(自分)の限界を知る」のはいいんだが、それが「頭を垂れる」になるのはなぜ? という意味
210 :
45:2011/10/04(火) 00:34:57.02
寝ますが、
安吾が語りえる範囲を示す姿勢はあったとしても、ウィトゲンシュタインが
どう読まれていようと、安吾はあまりに言葉に対して誠実性を欠いていると、
僕は判断しますね。
>>201 安吾が「不良少年とキリストの最後の一行で言ってることが正にそれなんだな。
「学問は、限度の発見だ。私は、そのために戦う」
この一行はスゴイよ
>>199では「頭を垂れる」相手は「例えば「死」であるところの無限なるなにものか」となっているわけだが、
人間は有限で、無限に「頭を垂れる」のはなぜ?
無限を擬人化してないか?
無限の擬人化した、例えばそれこそ
>>207の「生命誕生から宇宙の終わりまで生き続け」る人間、
いわば全知全能の神みたいなものを無意識的に「有限な人間(自分)」の相手にしてるんじゃないか?
>>204 まあ違う生き物なんだろなw
君と俺とは
>>212 うん、客体として同じ次元で二項対立させるつもりは無いねえ。
有限が波紋なら無限は水たまり。
有限が乾電池なら無限は水車。
有限が蝋燭なら無限は日光。
そういう関係。
なんか妙に文学の人間は「無限」という概念に感傷的な何かを持ってる気がする
∞って記号で書けばいいのか
カンジャニ∞
ああ、ここで”擬人化”した無限は
厳密に無限でないことは理解してね。
>>212 いや、ごく単純に「邦子」における邦子の死の場面の描写の偽善性を「頭を垂れる」と言ってるのだな。
さんざ夫婦ていらんこと(=内面)をベチャクチャしゃべり合ったあげく、「死は不可知」ですときたもんだ。
これは不真面目な態度なんじゃないでしょうかw
電磁力とか品質管理とかやってる強電系工業系の理系っすか。
ななしでもなんか属性がついてる奴だな。
>>216 よく覚えてないけど
それ使ったのって俺とムー大陸ぐらいだと思うけど。
まあ一言で結論すれば、バルザックは偉いということなんだがねw
>>215 >>217 「無限」って言うより「包括」ってことか
母性だな
クラインは「芸術とは母の乳房を再現することである」と言ってたな
>>222 別の場所で議論したことがあってな
それを思い出した
みんなが小説にみてる文学は各人バラバラの文学つーもんじゃないよね?
不思議だね。
>>226 バラバラだと思うが
君の脳内みんながバラバラじゃないだけじゃ
無限?
無限はわからない。わからないからわからないものなんだけど。
にんげんの本能は答えをほしがっている。それはにんげんの罪とも言えるし、逆に希望と言い換えてもいいかもしれん。
わからないものはわかるものを、ハシゴを登るみたく一歩一歩積み重ねていかないといかんよ。
>>228 >にんげんの本能は答えをほしがっている。
君がそうなだけでにんげんに拡大してるだけでは
拡大することしか武器がないんじゃないのかな、みんな、いや俺が。
メソッドって。データベースからデータを取り出しますよっていう操作とかをメソッドっていう。
いや、「人間」じゃなく、ただの「ひとり」としてものを言わなくてはならないんだよ。結局は
方法論とか合理的様式の事じゃないの
フォーマットとかスキームと似たような意味の。
>>231 同じ武器を持ってる奴にしか通用しない武器ではあるな
>>232 スタニスラフスキーメソッドは違うな
方法論か。
演劇の演技の方法論にメソッドってあったね。そうか、方法論のほうだろう。
単に「方法論」「手段」と直訳してたわ、俺
「手段と目的を履き違えている」とかってセリフがあるが、すべてが手段なんだよな、と思った時期がある
目的などない、目的とはただの言い訳だと
まあフォーマットは「仕様」だけど、メソッドはその仕様の運用論とか実践論だからな
まあ目的だけ見るのは消費者根性ですよ
現代日本では殊に有用な評価手段ってだけで徒花でしょうな。
徒花と散る
目的などなく手段のみ
それは無為なんだよ、「徒花」
無為の為だな
思いつきを書くと、日本文学には「田山花袋=志賀直哉」的なメインの系列と、「二葉亭=安吾」的なマージナルな系列が存在し、前者には「文学=世界」との前提があり、後者は文学と世界は不等号な関係しか結び得ないというあきらめ=決意が出発点にあるのではないか。
目的なしの生きるつーものか。漂泊者(アウトロー)やね。
メインとマージナル、いい意見だとおもった、俺は。
いや、志賀は言葉の限界は知っているよ
だから戯作的方法論を採って立体を描こうとした
思想的な深み浅みは文学より思想哲学書のテリトリーだ
演出家としての志賀を見よ。
こういう形の同意は好きじゃないのだが
>>242は「一理ある」と俺も思った
均衡はなにかを進化させやしない。
均衡がやぶれてこそ文明はすすむんじゃなかろうか。
その均衡をやぶるっつーのが不等号。前のめりの傾き。
>>245 俺も演劇やってたけど君も演劇やってるなら新劇とかそっち系の人かと思った
俺卑しい小劇場だったからなあ
>>247 文明なんて進まなくてもいいんじゃね
均衡が面白い
多少は、波風がたたないと停滞してばっかりでは吹き溜まってしまうからね。
そうそう、
文学は前のめりでないと
ただし前のめりと「進歩」は違う。
「六白金星」の「楢男」は前のめりだけど進歩はしないからなw
アングラな劇団の芝居で、普通の演劇的シーンの後、暗転が開けたら、ダリの絵みたいな装置で巨大な鼠の解剖ベッドが宙にぶら下がってて
すごいショックだったんだよな
俺以外はそうでもなかったかもしれないが
まあこけおどしなんだが
異化効果とか言ってた奴もいるがそんな高尚なものじゃない
それまで自分達が作りあげてきた仮想世界を自分達で壊すようなことだ
こういうこけおどしの罠にはまると「邦子」みたいな教科書的な演出がバカらしく思えてな
教科書大事だけどさ
感情移入させて、仮想世界に入り込ませて、それを壊す
仮想世界に入り込ませれば込ませるほど良いってわけでもない
入り込みすぎちゃうとただのこけおどしになる
そんな風な芝居作ってた時期がありました俺にも
中二病です
>>250 前のめりになって
>>139 >きっと状況というものは一方方向にがっさり流れて行ってしまうでしょう。
となると「波風」は立たないんだよ
前のめりは最初だけ「波風」は立つが、「がっさり流れて」しまうと波風は立たない
周縁部では立っているんだろうが
でも新劇にもお世話になったよ
俳優座大道具とか劇団とはほとんど別組織になってて、テレビのシコミもするからな
芝居はちょっと憧れるなあ。
多分、「こけおどし」が一番健全にできる分野じゃないかなあ芝居は
>>255 こけおどしが権威化されてる部分もあるけどな
新宿梁山泊とか
あそこらへんは「大人ぶったこけおどし」だから好きじゃない
梁山泊も「こけおどし」の伝統たる「テント小屋でラストシーンで舞台後ろを開いて現実の外の世界を見せる」って
演出好きなんだが、もっと児戯っぽくやってほしいわ
何かしら意味を付け加えてる
あれなら中村勘九郎(五代目)がコクーン歌舞伎でやった方が良かった
「ええじゃないか」的な阿呆踊りの中、コクーンの舞台後ろにある搬入口が開かれる
テント小屋じゃないしただの搬入口だし演出的にはしょぼいんだが、それでもやった中村の児戯っぽさが逆に良かった
意味を付加させたらこけおどしにはならない
小説は言葉の芸術だから、確かにこけおどしは難しいと思うわ
「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の出会い」なんて意味ないだろ?
あ、ごめんゴールデン街状態だ
なんだか凄い場末臭だなここ
それが日常なんです
カメラが定点だからカット割りに暗幕使わにゃならん
アニメならカリ城のカーチェイスは演出技法の塊なんだけどねえ
基本は右から左の「上手から下手へ」のベクトルで滑らせて
左から右の反逆・逃避・強い意志を示す動きは
崖登って森林に突っ込む動きと次元の弾込めにしか使われてない、みたいにね。
消費者側の生理的な快不快をコントロールするテクニックがある。
小説が言葉の限界に縛られるように
芝居もまた俯瞰カメラの構図に縛られる。
アニメや映画もスクリーンの枠に縛られる。
表現物であれば書を捨て街に出よで縛られる。
俯瞰の構図に飽きたら戻って来い。志賀直哉は受け入れてくれる。
>>259 暗幕? 暗転じゃなくて?
暗幕と言えば徹夜作業で毛布代わりにした思い出しかないなw
アニメなら押井守の「視聴者にとって不愉快なシーンも大事」って奴だなあ
そうやって作ったアニメ「天使の卵」を自分でけなしまくってるけども
>アニメならカリ城のカーチェイスは演出技法の塊なんだけどねえ
とかなら、アニメには「背動」って技術があるんだよ
背景を動画化するの、お金すげーかかるらしいけど
あれは演劇では不可能なんだよ、書割にして紙芝居状態(いわゆる歌舞伎装置)にしても限度がある
盆舞台などはそういった「速やかな場面転換」を求める苦心の技術だが、金がかかる割には演出効果が無い
原理はお皿に軸付けてくるくる回すだけなんだが、何間って直径になるとスムーズに回すことにすら技術的問題が出てくる
だから人間の心理で動きを見せようってのはわかるけども、動かすのは観客の心だろ
役の心がいくら動いても観客が動かなければ意味がない
幼稚な手段かもしれないが、「こけおどし」は有効な観客の心を動かす手段だ
ただあるゴールに向かわせたらアウトだけどな
それこそ「あざとい」となる
宗教、霊感商法の演出と同じ
ああいうのは悩んでる人だから効くんだろうが、演劇の観客は全員悩んでるわけじゃないからな
「俯瞰」で見ているつもりはないが、君は演劇やってる(た)のかい?
>>262 動かすのは観客の心だよ当たり前だ。
好きだ好きだと連呼して愛が伝わるわけがない。
AとBの会話シーンを撮るときに正面に対置して俯瞰で写せば対立を示すだろうし
BナメのAにカメラを置けば観客はB寄りの第三者視点を手に入れるし
Aの正面にカメラ置いて喋らせれば強いメッセージ性、ないしはBへの強い感情移入を表現できる。
こういったものを演劇ならスポットライト当てたり位置関係に上下を作ったり
音の演出を意図的に止めて声に意味を持たせたり他の俳優の目線をそちらに集中させるなり
見せたいポイントに見るポイントを誘導する仕組みを採れる。
動かしたいと意図する観客の心を操作する為の方法論がある。それが演出だ。
こけおどしは演出というには余りにもチープだ。まあ一手法ではあろうが。
これは表現媒体の違いであって、
採れる方法が多い少ないで芸術的価値の多寡を云々しようってもんではない。
出来る事と出来ない事がある。
芝居なら君の言うように舞台装置やら観客席を動かすことは物理的に無理だ。
カメラの位置が変えられない以上は観客席から見る舞台は俯瞰の構図を採らざるを得ない。
だから気に触ったなら訂正するよ。映像媒体が採り得る演出技法の塊だと。
>>259 「暗幕」って演劇の話からアニメの話にしてしまった君の方が「俯瞰」で物を見てるんじゃないか?
俺はただ酔っ払って昔の思い出を語ってるだけにすぎんよ。
後ふと思ったんだが、
>志賀直哉は受け入れてくれる。
こういう文章書く自分に疑問を持ったりしないの?
>>263 >見せたいポイントに見るポイントを誘導する仕組みを採れる。
ああここ。
もしそうなら、演劇を映像化したビデオっていっぱいあるじゃん。キャラメルボックスとかシリーズ化してる。
でもやっぱ映像とナマは違うじゃん。
もしそういった「カメラ理論」が完全ならば、演劇もカメラで撮った映像でいい、とならないか?
>カメラの位置が変えられない以上は観客席から見る舞台は俯瞰の構図を採らざるを得ない。
例えば劇場の観客席の設計一つ取っても、全ての観客がそれなりに等しい場面を見られるような設計になったのは、
実は近代に入ってからだ。ワーグナーなどがこういった設計に尽力した。バイロイト祝祭劇場だな。
それ以前の円形劇場などは、貴賓席は舞台の真横にあって、まともに芝居を見られない作りになっている。
ワーグナーはこういったそれまでの観劇方法に反発したとも言える。
日本ならお能の三方舞台なんかワーグナー理論、君の言う「定点カメラ理論」とは反するだろう。
そして現代演劇というのは、ワーグナー的「観客全員が同じ映像を見られる」演劇論の見直しから始まっている。
例えばあえて劇場ではなく倉庫などで上演したりとか。
具体的にはプロセニアムアーチを可動式にし客席もある程度可動式にした世田谷パブリックシアターなどはそういう
思想から設計されている。
君の言う「定点カメラ理論」自体が、演劇史的には近代的な産物に過ぎないのであり、現代演劇はそれの見直しから
始まっているんだよ。
これ演劇ちょっと真面目にやってる人なら常識だと思ってたんだがなあ。俺の周囲には話通じるし。
>出来る事と出来ない事がある。
その通りだ。
なのに君は「出来もしない」「観客の快不快をコントロールする」「観客の視線をコントロールする」ことを述べているんだよ。
円形劇場やお能の三方舞台なんか「俯瞰」できるわきゃねーだろ
ちなみにSPTはトラムの方だけどちょっと関わった
舞台の平台を木製にするか鉄製でするかすげーケンカした
こういう演出の現実的・技術的な側面に関わっちゃうとな、「邦子」みたいな心理的演出がどうもバカらしく思えてくるんだよ。
バカにはしないけど。
あくまでそれは手段の一つでしかないだろ、と。
大道具、照明だって、観客の目に見えないところで技術的工夫が大量に施されている。
そしたら、実験的なことをやってみたくなるわけだ。
「邦子」には、いや志賀作品にはそういった「ゼロから創作している」って感じがしないんだよ。
何かしら最初から作家自身が目指しているゴールがある。
それはそれでいい。それに邁進してくれるなら。演出家は傲慢であるべきだ。
だがゴールがあるのに指示を明確に出せない演出家がもっとも使えない演出家だ。
志賀の作品はそのように見える。
放任で偶然任せで作りたいならそうしろ。自分のゴールを表現したいならそうしろ。
はっきりしていないんだよ、志賀の芸術って。
太宰なんかはきっぱり後者の道を選んでいるだろ。
>もしそういった「カメラ理論」が完全ならば、演劇もカメラで撮った映像でいい、とならないか?
ならんよ。
CDとレコードとオーケストラの違いはここで問題にしてない。
極端な遠近法を必要とするジョーズの迫り来る感覚は演劇では表現出来ないし
ハンカチを叩き付ける動作はオーバーリアクションで、或いは説明口調で示さにゃならん。
手とハンカチをレンズに納めて舞台に落ちたハンカチをフレームに入れる事は無理だ。
役者の肩口からのカットは演劇では撮れん。
表現したいことを表現する為のテクニックが舞台と映像では違うって事だ。
演劇の常識を乗り越えようとした研鑽課程が在るだろうことは想像出来るけど
それが具体的にどういう行動であるかは知らん。
>その通りだ。
いいや、出来るね。
文庫本を開く時に表紙の側からページめくる筈だ。
左右の綴じが逆なら違和感が無いわけがない。
カバーを上下逆に掛けるだけでも快不快は発生する。それはコントロール出来る。
演出意図を感じさせる演出もあるし、それを意識させない演出もある。
>>266 要するに仰角で見るって事だろ
定義の違いだ。
アオリ(仰角)は主観的な立ち振る舞いの時に使われるもので
俯瞰は客観的な立ち振る舞いの時に使われるものだ。
前者は感情的・威圧的・プレッシャーを描ける。後者は客観的・説明的・全体性を描ける。
>>269 >カバーを上下逆に掛けるだけでも快不快は発生する。それはコントロール出来る。
そうだな、「無意味化させる」というコントロールだけは可能だ。俺の言う「こけおどし」。
それを「快不快」って考えるから視野狭窄になっているんじゃないか。
>要するに仰角で見るって事だろ
いや、あの。
君はこう、観客という存在を一人の人間に単純化して考えてないか?
上手側の観客と下手側の観客で見ている映像は違うってことだ。
下手側の観客は、芝居中に移動したりしない限り、上手側の映像を見ることはできない。
こう、演者と観客を一対一の人間関係にモデル化して考えるのは、演劇界では昔から避けられてたことなんだよ。
ワーグナーは観客全員が同じ絵を見られるようにしたという意味では一対一にさせたわけだが、作劇術は観客の
多様な受け取り方を否定していない。象徴主義だ。
一つの絵を見させる、つまり君が主張するカメラ理論の点では一対一化させているわけだが、演出においては
観客の多様な受け取り方を否定しない作劇を行っている。
小説だってそうだろ、作家と読者は、読者にしてみればそうかもしれないが、作家にとっては、一対一の関係ではない。
ここに不可能性があるのであって、君の言う技術的な不可能性は、その代用品でしかないんだよ。
>>268 心理的演出はあるんだよ。
読み方に出来る出来ないがあるだけで。
もしもそれが見えているのだとしたら
小説媒体に戯曲的演出を盛り込んだ技術的工夫を評価しないのはおかしいし、
もしもそれが見えていないのだとしたら見えない理由を志賀に帰責することは出来ない。
だって俺は見えてるんだもの。
それは読み手の問題だ。
>>271 心理的演出がないとは言っていない。
「あくまでそれは手段の一つでしかないだろ、と。」と言っている。
「バカらしい」と言ったのは演劇でもそれこそ新劇系はそういった「心理的演出」というただの一つの手段を
何か特別な果実のように持ち上げているから、そう言ったまで。
それはあくまで演出手段の一つでしかない。
そして「邦子」はその演出手段の一つしか考慮されていない、狭窄な作品だと俺には感じられた。
全ての演出が、観客が快不快に限らずどう受け取るかは不明だが、「心理的演出」も「こけおどし」も、一つの演出手段にすぎない、と言っている。
>>270 >「無意味化させる」というコントロールだけは可能だ。
それに意味を認めるかどうかは読み手の責任だ。
なるだけ多くの人に意味性を認めさせる事は演出のひとつの目標ではあろうね。
俺はむしろポイントポイントで断続的に意味を成立させなければ
戯作が成立しないと考えてる君が視野狭窄に見えるがね。
>演者と観客を一対一の人間関係にモデル化して考える
上手側に座った人間しか見られないような演出というのがもしあるとして、
それは二度三度と同じ作品を見させる戦略として成り立ち得るだろうがよ
多様な受け取り方というのは無限に読み方が許される事を意味しない。
その多様性は単一の視点から埋め込めばメタ・俯瞰の構図を利用する事も出来るし
スピンオフ作品を作ることも出来るし監督・俳優インタビューでも補完出来る。
それは「象徴主義を主張する」という意図させない演出方法の一つだ。
>代用品でしかないんだよ
当たり前だ。それが表現物の限界なんだから。
それを乗り越えようとする意志は演劇芝居の専売特許じゃない。
>>272 >「邦子」はその演出手段の一つしか考慮されていない
仮にその手段が一つであったとして、それを狭窄であるから駄作だとするのでは余りに短慮だ。
限られたひとつの素材で戯作小説を作ろうとする積極的な試みでないと何故言える。
マッチ棒で家建てればそれは芸術と言えるのではないのか。
別に俺は一つだとは思わんがね。
>>274 >それに意味を認めるかどうかは読み手の責任だ。
その意味、例えば快不快と大雑把に二項に区分した意味ですら、コントロールできない。
>なるだけ多くの人に意味性を認めさせる事は演出のひとつの目標ではあろうね。
ベケットは違うな。
>俺はむしろポイントポイントで断続的に意味を成立させなければ
あ、これはそう。
>戯作が成立しないと考えてる君が視野狭窄に見えるがね。
そうかあ? 「意味のある瞬間もあり無意味の瞬間もある」と言っている俺が狭窄になるの?
「意味がなければだめ」なんて言ってる奴の方が狭窄にならないか?
山の手事情社という心理描写や筋書きのないパフォーマンス的芝居をやる劇団があってだな、
時々芝居後に演出家がパネルディスカッションやったりするんだ。
そこである観客が「この芝居のテーマはなんですか?」とか質問したんだよ。
「テーマって必要ですか」「演劇にはテーマが必要だと思います」
みたいなやり取りがあって、演出家は苦笑して「すみません、テーマはありません」みたいにしめてた。
君はこの観客のようなことを言っているみたいだ。
>それは二度三度と同じ作品を見させる戦略として成り立ち得るだろうがよ
演劇ってのは一回性の芸術だから、再演でも「同じ作品」とは成り得ない。
実際に芝居やってたらよくわかるはずだがな。ハプニングはゼロにできない。アドリブ好きな役者もいる。
>多様な受け取り方というのは無限に読み方が許される事を意味しない。
「許される」? むしろ「無限な読み方を強要されている」んだよ、表現者側は。
>その多様性は単一の視点から埋め込めばメタ・俯瞰の構図を利用する事も出来るし
だからそれはお前個人という観客の視点だろ。
それをどう利用しようが君の勝手だ。
俺は演劇の話についてはあくまで表現者の側で語っている。
観客としての君個人がそうしたいならご自由にどうぞ。
>それを乗り越えようとする意志は演劇芝居の専売特許じゃない。
その通りだが、「乗り越えようとする意志」ばっかだとつまんないだろ。
「乗り越えられない現実をわざと悪意的に観客にさらけ出す」演劇だってある。
>>275 >マッチ棒で家建てればそれは芸術と言えるのではないのか。
「マッチ棒だけで作りました」という前提が明確なら「苦労したんだろうなあ」とは思うな。
芸術かどうかはその作品を見てみないと。
「邦子」はそういう縛り意図で描かれた作品か?
志賀の他作品を考慮しても、「それだけしか手法を知らない」と判断するのが普通だと思うが。
縛ってるなら縛ってるで車谷長吉やニーチェみたいな心の深みにはまっても良さそうだが。
まあ心をメイン手段として扱っているのに「深淵」がないのが志賀作品の特徴なんだろうな。
それは不愉快が少ない作品ってことにもなろう。
俺みたいな読者は物足りないとなる。
>>276 >快不快と大雑把に二項に区分した意味
快の表現が難しいからだろうね。
「交通事故にあいました」
誰が聞いても不幸だが幸福の例えが難しいように。
>ベケットは違うな。
そりゃそうでもあろうね。100円拾って嬉しくない奴もいる。
>意味がなければだめ
言ってないよ、そんな事。作家としての心構え・気概の問題だ。
悪意を持ってやってないのだとしたら酷い誤謬だ。
演出に意味が無いと決めて掛かる読み方を勝手にやって駄作だと評するのは
自身の読解力の無さを棚にあげて作家に責任転嫁してるだけだと俺の目に映るってこった。
志賀直哉が君の言う山の手事情社と同程度の演出に対する気概しか持っていない作家だとは自分には思えないからね。
>演劇ってのは一回性の芸術だから、再演でも「同じ作品」とは成り得ない。
当然だな。やり直し、修正の効かない表現物より有利な点ではあるわな。デメリットに目を瞑ってでも。
>>277 >「無限な読み方を強要されている」んだよ、表現者側は。
その不幸を汲み上げる為の観客の思いやりが演出意図の捜索だろうがよ
>お前個人という観客の視点だろ
いいや、表現者としての演出の問題だな。
そういった方法論を採るかどうかは観客の問題じゃない。
>「乗り越えられない現実をわざと悪意的に観客にさらけ出す」演劇だってある。
くだらないな。演出を脚本に組み込んだだけだ。下の下だよ、そんなものは。演出諦めたって事だもの。
>「邦子」はそういう縛り意図で描かれた作品か?
そうは思わんと書いたね。雑談スレにはドストやトルストイにも近しいとも書いたね。
またプロットに書き起こせるような心の動きなんてものはテーマであって技法では無いな。
>「深淵」がないのが志賀作品の特徴
ではなくて、「深淵を読み取ることが出来ない」のに作家性に責任を求めるのが君の特徴なのだ跳ね返ってくるね。
>>278 >作家としての心構え・気概の問題だ。
いきなり精神論っすか。
じゃあ俺は「乗り越えられない現実をわざと悪意的に観客にさらけ出す」気概があった演劇人ってことで。
つかお前個人が「乗り越えたい」だけだろ。
>志賀直哉が君の言う山の手事情社と同程度の演出に対する気概しか持っていない作家だとは自分には思えないからね。
気概のあるなしじゃなくて、両方、別方向に気概があるってことだと思うがな。
君個人が「乗り越えたい」って気概を持ってるのはわかった。
それでいいじゃん。逆方向の気概を持っている人もいる。
>当然だな。やり直し、修正の効かない表現物より有利な点ではあるわな。デメリットに目を瞑ってでも。
有利? 意味がよくわからん。そういう表現手段なだけだが。
文学は何度も読み返すことができるよな。そういう表現手段だ。
>>279 >その不幸を汲み上げる為の観客の思いやりが演出意図の捜索だろうがよ
そういう観客の思い上がりに対して「乗り越えられない現実をわざと悪意的に観客にさらけ出す」わけです。
>いいや、表現者としての演出の問題だな。
お前次にこう書いてるんだが。
>スピンオフ作品を作ることも出来るし監督・俳優インタビューでも補完出来る。
これ受け手だろ。
>演出諦めたって事だもの。
「心理的なところをコントロールする演出」はあきらめてるかもな。
そんなもんリアルでみんなやってるんだから演劇でやって金取れるわけなかろう。
ロマンスは映画の中だけにあるわけではない。
>ではなくて、「深淵を読み取ることが出来ない」のに作家性に責任を求めるのが君の特徴なのだ跳ね返ってくるね。
そりゃ俺「邦子」については読者だもん。
>>280 >「乗り越えられない現実をわざと悪意的に観客にさらけ出す」気概があった演劇人
いいんじゃねえの。シニシズムも根詰めれば気概にもなろうし。
>乗り越えたい
シニフィエ変わってきてるよ、これ。
もともとは技術的工夫によってフィクションにリアリティを齎そうとする試みの意味で使われてたのに
フィクションから生活世界への侵入を直ちに意味するように変わってる。
俺前者だよ?その点で一致してるように見えるけど。
>文学は何度も読み返すことができるよな
そうだな。変わるのは読み手の心持ちだけだ。
改訂でも無い限り書いてる事は同じなんだからその点で演劇とは違うわな。
ページ破れとか経年劣化とか紙質にまで演出意図を盛り込んだ小説家がもしいるのなら
そうでもないんだろうが、そんなイレギュラーまで作為的に組み込む作家なんて考えにくいしね。
>そういう観客の思い上がり
いいや、依存だよ。思い上がりをアテにするから成り立つ演出だ。
>これ受け手だろ
作り手じゃん。同人誌とか観客インタビューやってるわけでもなし。
>演劇でやって金取れるわけなかろう。
取ってもいいだろ、ノンフィクション小説成り立たねえよ。
(正直、ここはたぶん思い入れ強いのだろうから何言っても聞きゃしないだろうけど。)
>読者だもん
読むだけならな。そこからの批評は自己紹介だ。
「自分は楽しむ事が出来ませんでした。それは作家のせいです」ってな。
>「心理的なところをコントロールする演出」はあきらめてるかもな。
これ訂正。心理的演出は使わなくはない。ただ「こけおどし」と同レベルの一演出手法にすぎない、と思っているだけ。
「こけおどし」のためにはそういった不確定な手法もちりばめはする。
「邦子」なら二人の馴れ初めシーンを、ノスタルジーを加味して作って、その直後に
「宙吊りされている巨大な鼠が解剖されているベッド」を出したりするかな。
いやあざといです。「こけおどし」なだけになるな。
結局君は、「ボクチンはお前なんかと違って志賀先生は理解し合えているんだ!」と言っているだけにしか見えないんだが。
俺は「つまらない」って言っていて、志賀は多分この作品を面白いと思って書いてたのだろうから、「理解し合えてない」と。
これも「乗り越えられない現実をわざと悪意的にさらけ出」しているわけですな。
ぶっちゃけさ、この「邦子」って作品、昔流行った「亭主元気で留守がいい」ってCMと並べてみろよ、脳内で。
バカらしい作品に思えてこないか?
「こけおどし」にもなってない軽い「風刺」だけど。
>>281 >シニフィエ変わってきてるよ、これ。
あれ?
>>274 >>代用品でしかないんだよ
>当たり前だ。それが表現物の限界なんだから。
>それを乗り越えようとする意志は演劇芝居の専売特許じゃない。
で、
>>270 >作家と読者は、読者にしてみればそうかもしれないが、作家にとっては、一対一の関係ではない。
>ここに不可能性があるのであって、君の言う技術的な不可能性は、その代用品でしかないんだよ。
だから、「技術的工夫による乗り越えは代用品である」ってことになっていたと思うが。
「代用品である」ことは否定してたのか。
>フィクションから生活世界への侵入を直ちに意味するように変わってる。
違う。君が、意味の受け取りの不可能性を、コントロール可だと「乗り越えよう」としている意味で使っていた。
>ページ破れとか経年劣化とか紙質にまで演出意図を盛り込んだ小説家がもしいるのなら
少し違うかもしれないが、京極夏彦などは、同じ作品で判が変わると、改行を書き直すらしい。
>作り手じゃん。
ああまあどっちでもいいや。
>取ってもいいだろ、ノンフィクション小説成り立たねえよ。
小説って理想を売ってるところはあるな。
演劇もオペラとか大がかりなのは理想を売ってはいるが。
>「自分は楽しむ事が出来ませんでした。それは作家のせいです」ってな。
「作家のせいです」とは言ってないが。志賀の「楽しませようとする演出」が俺には通じなかっただけ。
俺のせいでもあろうよ。
すれ違うのはどちらか一方のせいではあるまい。
>>282 >言っているだけにしか見えないんだが
うん、そう見えてしまうのだろうなあ・・・
いつか指摘来るだろうなあとは思ってはいたんだけど。
別にこの作家に心酔しているわけではないし、
権威に迎合して自説を担保するウンコちゃんなんて唾棄すべきもんだけど
こういった言い訳くさい自己弁護は「乗り越えられない現実をわざと悪意的にさらけ出」している風に映るだろ
俺はこういう楽屋ネタはやりたくないんだよ。
「健康状態なんて顔色見りゃわかんだろ。なんで検便しなきゃなんねーんだ」的なね。
>バカらしい作品に思えてこないか?
そりゃお前プロットだけ見りゃつまんねーよ。演出何も入る余地無いんだから。
英雄譚の評価を歴史年表で論じてたら味もヘッタクレも無いだろ。
>>283自己レス
もしそれが「作家のせい」だと言うなら、
>>279の「その不幸を汲み上げる為の観客の思いやり」も「作家のせい」だな。
>>284 心酔しているとは言わないが、「乗り越えたい」ってのをそう解釈した。
>「健康状態なんて顔色見りゃわかんだろ。なんで検便しなきゃなんねーんだ」的なね。
顔色だけじゃわからんぞ、日焼けもあるしもともと赤ら顔の人もいるだろうし。
検便すりゃいい。
>そりゃお前プロットだけ見りゃつまんねーよ。演出何も入る余地無いんだから。
いや全部読んだけど。
そういう心理的演出が俺にはロボットのようにしか見えなかったんだよ。
むしろ心理学臨床の典型パターンだと思ったわ。邦子も雪子も主人公も。
ここら辺聞きたいなら後でちゃんと書く。
「歴史年表」っていうより実験マウスみたいな感じで読めた。
そういう「臨床報告書」的に面白い作品もあるが(古井由吉とか。微妙に変な登場人物多いだろ)、
これは上でも書かれたように「十行を一行で書いている」わけだろ。
心理分析するデータとして不完全だ。
そしてこれは筆者の心理分析データとしても不完全だ。
要するに、どう面白く読んでいいか俺はわからないんだよ。
だから「徒労」って言ったんだ。
>>110 あ、わかった。
小説のキャラの心理分析とかアホがするものでやりたくないんだが、確かにこの作品はそれをしないと解釈できないかもしれない。
そういう意味では俺も「心理的演出」に着目はしているんだよな。
でも面白さではない。俺にとっての文学の。
俺も「邦子」を面白く読もうといろいろ頭の中でやってはいるんだよ。
そのためにまず登場人物の心理解釈をしなければならない。
ロボットの皮をはいで人間味を妄想しなければならない。
>>283 >「代用品である」ことは否定してたのか。
ちゃうがな、技術的工夫なんてものはすべからく代用品なんだ。
一対一であらゆる齟齬を排した伝達手段で伝えることが出来ないという現実に対して
如何にして立ち向かうか?だ。
>意味の受け取りの不可能性を、コントロール可だと「乗り越えよう」としている意味
なら大凡合ってるわ。
手を叩くとパンと音がする。誰だって観客はそっちを見る。
”観客の目線をそちらに誘導する”という目的は演出に由ってコントロールされている。
殺陣芝居で目立たない色を着たヤラレ役を目立つ色の二枚目俳優を取り巻くように配置する。
誰だってそいつが主人公であると気付く。演出に由るものだ。
悪漢に追われて上手へとフレームアウトした俳優が次のカットで下手から出て来る。
時間軸の連続は意識させたままで悪漢はもう追ってこない(場面変更が為された)。演出に由るものだ。
ここで意味は発生してる。10人程度の集団で手を上げれば発言者はそいつであると客は思う。
意味の受け取りが不可能であるからカットごとの場面の繋ぎを
適当にやって良いってもんじゃない。不可能性をアテにした甘えだ、そんなもんは。
>同じ作品で判が変わると、改行を書き直すらしい。
そりゃ改訂ぐらいはするでしょ。
客の反応だの配役の気分だのによって臨機応変な対応は小説にはリアルタイムでは反映されんわな。
>すれ違うのはどちらか一方のせいではあるまい。
そりゃそうだ。対話ならな。
豚肉がマズいと言うのは勝手だ。
豚に責任はねーだろ。
>>287 >ちゃうがな、技術的工夫なんてものはすべからく代用品なんだ。
であるなら
>もともとは技術的工夫によってフィクションにリアリティを齎そうとする試みの意味で使われてたのに
は代用品で、意味が変わったことは君も同意しているってことになるが。
>一対一であらゆる齟齬を排した伝達手段で伝えることが出来ないという現実に対して
>如何にして立ち向かうか?だ。
うむ、そういう意味で「乗り越える」と言っていたが。
つまり君も技術的工夫うんぬんからのシニフィエが変わってきているのに納得していた、となるが。
>悪漢に追われて上手へとフレームアウトした俳優が次のカットで下手から出て来る。
>時間軸の連続は意識させたままで悪漢はもう追ってこない(場面変更が為された)。演出に由るものだ。
舞台装置によるな。暗転を挟みたくないなら抽象的な装置にしないと。
吉本新喜劇的なソバ屋の装置でそんなことしても場面変更がなされたとは思わないだろう。
>適当にやって良いってもんじゃない。不可能性をアテにした甘えだ、そんなもんは。
逆だよ、君は不可能性を甘く見ているから、スタッフ技術についてほとんど言及せず「意味が通じる」としている。
「可能性をアテにした甘え」だよ。
>豚肉がマズいと言うのは勝手だ。
>豚に責任はねーだろ。
「豚肉がマズい」と言って「この豚は輸入物だからねえ」とか言っているのを「豚に責任がある」って言っているように思うのも勝手だよ。
>>285 >「その不幸を汲み上げる為の観客の思いやり」も「作家のせい」
そりゃ100%全ての読者に満足させるのが作家の責務だってな具合に
全能を求める消費者根性だよ。それは流石に無礼だわ。
>検便すりゃいい。
顔色を見てわからないときにな。一律で検便なんてオッカムの剃刀当てるべきだ。
>小説のキャラの心理分析
ちゃうちゃう。それはそれで正しい。そんな事せんで宜しい。それはアホのすることだ。
人格認めて人権認めて参政権も付与してやって政権倒せるわ。
この作品は(とりあえずは)論理的構造だけ見てりゃ良い。
ある記号的な動作から浮かび上がる情動を汲み取ったら
その情動がどう転がってどう昇華されるのか。そこだけ読んでりゃとりあえずは良い。
玉の無いピーンボール台なのだと。
>>288 1.フィクションというものが完全なリアリズム足り得ないことの不可能性を乗り越えるための技術的工夫
2.齟齬の無い意思疎通の不可能性を乗り越えるための技術的工夫
1は代用品としての技術的工夫は表現物の限界を乗り越えるためのコントロール可能な技術的工夫であろうし
2は表現手段の如何に問わないあらゆる伝達に付いて回る意味の受け取り不可能性(コントロール不可能)を乗り越えるための技術的工夫を指して代用品とされているね。
読みなおしてみたがこう変わっているのかね。
>舞台装置によるな。
そりゃあそうだ。時代劇でも意識すりゃ良い。
上手にフレームアウトして暗転も挟まずに上手から出てくりゃ劇的転換は行われない。
蕎麦屋の装置を置いたままにしていることが劇的転換が行われていない事を示す演出じゃないか。
>スタッフ技術についてほとんど言及せず
言及していないから斟酌してないってのは乱暴だぞ
俳優の演技だけでミメーシスは起こらん。照明やら音の使い方やら、それこそ舞台装置を変えるだけでも場面転換の演出は成るだろうよ。
可能性を増やすための技術的工夫の全てが演出になろうよ。その中には当然スタッフ技術も含まれるだろうよ。
>「この豚は輸入物だからねえ」
で?豚の責任ではなかろう。
「輸入物であるゆえに豚がダメだ」では話が通らん。そいつの舌の問題だろ
>>290 >「輸入物であるゆえに豚がダメだ」では話が通らん。
お前の頭で勝手にそういう意味に受け取ってるって話だ。
お前の頭の問題。
>そいつの舌の問題だろ
人間の快不快をコントロールできるって立場ならこんなこと言っちゃいけないだろ
いかに美味く料理するかの問題とならないか、君の理屈なら
どっちでもいいが
過去の栄光を語る劇団員崩れとそれと褒める馬鹿共
栄光には読めなかったなw
サティアンみたいなボロボロの劇場で低賃金でこき使われて使い捨てにされたんだろうな
サティアンw
ああ豚の脂食いてえ〜
昨日角煮食ったよ
志賀直哉のほうはそろそろよさげかな〜
次のムーのお題にそろそろ行くかい?
もうスレが機能してないからやめれば?
志賀信者を待つ!!
というか今週いっぱいくらいは待つか
可愛いふりしてあの子わりとやるもんだねと
待つわ(待つわあ)
いつまでも待つわ
行ったり来たりすれ違いあなたと私の恋
ここのハモリがいい
・ ,,..--―-、
/, -----、.ヽ, / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| i_,,,,_ __゙l | / 世界、糞スレ発見!
,!、i'゙-‐-: '-、|/ |
>>1はボッシュート!
/'') ..., '‐-‐、.j / __________
/ ,‐!::...`'''''''`ノ  ̄ ̄
_,,,l ;! ::|ヽ、二 イ
, -‐'゙゛ i::.. | .ヽ/;ヽj!`‐-、_
l ノ::. .:|、 .ヽ,:ヽ| <゛~ヽ、
,:''`` ''"゙.|;;:‐''゙|.ヽ、 ヽ;::| / .|゙l
,: ヽ::il;;! ヽ、ヽ| / | :|
i o゚ :`;''゙ ヽ| / | .|
i ..:::::,:::'::::: . |゚ |,,;:->、
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i ::.:::: : | | .|
⌒ ⌒ ⌒ シュルルル
__⌒ ⌒ ⌒__
/::::::::::Λ_Λ::::::::::::::::::/
/::::::::::(∩;´Д`)∩:::::::/ チャラッチャラッチャーン
/::::::::::::(
>>1 /:::::/
雑談スレで樋口一葉、田澤稲舟があがってたぞ
308 :
吾輩は名無しである:2011/10/07(金) 11:48:26.05
>>300 みんなマグナ賞用作品を執筆してるんじゃない?
つまんない与太話ばっか書きに来るバカのためのスレなんていらないだろ
気にするなよ早漏君
ちょっと忙しいだけだ
313 :
吾輩は名無しである:2011/10/07(金) 16:09:39.00
310が一番つまんない与太話だな
んじゃ投下しておくか、「邦子」の感想。
俺が今まで思っていた志賀のイメージ、隠者・仙人のようなものとは少し違う。
まあそういう意味では面白かった。情動的な作品。
しかしこれは、俺が求めている「衝動」ではない。「衝動」については前前スレあたり。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/book/1315749585/708-795 さて、どこから行こうか。
個人的なことで申し訳ないが、俺この板では最近「個人主義」を主張しているんだが、その辺りから。
「今まで、家中が何か一つのもので結び合つてゐたやうな気がしてゐたのが、近頃は貴方は貴方、私は私、子供達は
子供達、といふ風に妙に離れ離れになつて何だか淋しくつて仕方がない。」
「俺は俺、お前はお前で結構ぢやないか。」
上は邦子、下は主人公のセリフだ。
これは個人主義の方向であるとも言えよう。主人公は、この瞬間は、個人主義的な志向になっていたと。
しかし俺はそうではないと思う。
「俺が為事に没頭したからつて、お前までがそれと一緒になれないのは当り前な話だ。」
つまり、仕事をするために一人になりたがっている、と。
仕事にも色々あるが、仕事で承認欲求を満足させたがるのは男性の傾向としてある。
もし主人公がそういった無意識でこう言っていたのなら、「今の集団とは別の集団によりコミットしたがっている」
ということになり、個人主義とは言えない。
ここを読むには、仕事中主人公は暴君の「殊に信康を書いてゐる時は変に苛々(いらいら)した狂暴な気持が幾らか
乗り移るのを感じた。」ということがヒントとなるだろうが、小説の登場人物の無意識を読むのは無意味だと俺は
思っているのでこの程度で。
主人公の夫が、「家庭」という「今の集団」の外部者となっていっているのは事実だろう。
ここでは、「家庭」の外の「より大きな別の集団」にコミットしようとして、そうなってしまっている、という
推論を仮に採用しておく。
次に、浮気相手の女優雪子はどうか。確かに彼女はエゴイストだと言えよう。演劇界には少し関わっていたが、
年配の舞台監督が「女優は女優という生き物だ」と言ってたことを思い出す。
しかしこれも、結局は「世間の注目を浴びるため」という主人公の推測を採用するならば、大文字の他者に対する
承認欲求であり、個人主義ではないと言える。
主人公と同様に「今の集団とは別の集団によりコミットしたがっている」ということだ。
この二人の心理は邦子の心理とは対照的である。
邦子は家庭という「今の集団」に固着している。集団内の属員同士の転移関係が強いと、閉鎖的になる。
精神分析でも「袋小路」などと言われていること。外部からは理解できない人間関係となるケースもある。
本作品ではこういった事態が描写されているわけではない(主人公の家庭が閉鎖的だという描写はない)が。
上にも書いたように夫が集団外部の人間になっていった、と考えるべきだろう。
邦子はストレスを抱えていた。
ストレッサーとしては、作品内に限るならば、夫の兄の不貞、夫の雪子との不貞、夫の仕事への没頭と三段階ある。
これらが邦子を不安にさせ、エスカレートさせている。
これらのストレッサーに対する邦子の不愉快さ、不安の表れをその都度詳しく描いている。
「一人ぼっちを過剰に嫌う傾向」と言うべきか。
読んでいる内、確かに女性はこういった心理傾向が多いと思った。
例えば、私事だが知人の五十過ぎで孫もいる女性と、「嘘泣き大会」みたいなことをした際の話。彼女はこう言った。
「幼稚園で、周りの皆は親が迎えに来てくれて、自分一人だけ残されている状況を想像すると、すぐ泣ける」
またこのスレなら、ニッパが「口入屋」のおかみに「心細さ」を見い出したことも関連するだろう。
とはいえ、そうではない女性もいる。「一人ぼっち」を歓迎するわけではないが、それをさほど気にしない性格。
そういった女性は確かに少数派だと思う。
俺個人の推測だが、一昔前は、やおいや腐女子にそのような性格の女性が多かったのではないかと思う。
「タナトスの子供たち」
もちろん現在は大分集団心理状況も変わっているとは思うが。むしろ今は逆に
「皆アニメを見ている、「一人ぼっち」になりたくないから見る」
という腐女子も多いだろう。
こう書くと、「既婚者と未婚者は違う」という脳内反論があった。
しかし俺はこれを読みながら昔流行ったCMのフレーズを思い出した。
「亭主元気で留守がいい」
そう言う主婦達が腐女子だとは言わない。このフレーズに賛同する主婦にも「家庭ではない別の集団にコミット
している」人も多いだろう。つまり家庭ではない別の場所で承認欲求を満たしているケース。雪子と同様。
「別の集団」が「別の男」だったり、カルチャースクールだったりするのだろう。
とりとめもなくなったのでまとめると。
俺はどうも志賀という作家に対しては、何らかの揶揄を言いたくなる気持ちになる。
「邦子」という作品においては、「亭主元気で留守がいい」が揶揄としていいな、という感想。
現代は女性作家も増えたけど、文学における男性が書く女性観って画一的なんだよ、ほんと。
志賀は特にそれが顕著。
「一人ぼっちを過剰に嫌がる」「心細さ」が心理の定理になっている女性。
「一人ぼっち」で機械いじりするのが好きな女だっている。例えば。
機械油とか肌に染み付くんだよな。荒れるし。
「そういうのは女じゃない」とか言いそうだ、志賀とか。
まあもちろんそういう時代だったのかもしれないがさ。
「現代は平和だからそんなこと言ってるだけだ」とか言われるかもしれない。
でもやっぱり昔にも少ないだろうがいたと思うが、そういう「個人主義」な女。
こういう風に読む俺にとっては文学もAVもそう違いはない。
男って大概被愛妄想なんだよ。女もだが。「いやよいやよも好きのうち」など良い象徴。
「女は皆シンデレラ症候群」とかお前自身の被愛妄想だろ、って思うわ。
>>53の文章がヒントになるかもしれない。
>>53がキリスト信者か知らないが。
>人の気持ちは変わるよ。当たり前なんだよ。
>100%の相互理解が有り得ないように「永遠の愛」なんてものは人間には不可能だ。
ここまでは同意だ。しかし俺は「だから人間は面白い」となる。すれ違ってこそ人間だ。
>だから「永遠の愛」を体現するキリストに忠誠を誓う。
>「この人を好きだ」という不確かなラブを神様に生贄として捧げて、代償として確かなアガペーを賜る。
>「妻も子供も愛してはいない」。当たり前だ。既にそんなものは神様のモンだ。
神からの被愛妄想というわけだ。
恐らく志賀は「文学の神」(「邦子」の主人公なら「劇作の神」)からのアガペーを賜っていたのだろう。
ほんと「登場人物皆志賀」な作品でした。
まあそういう暴君的な自分の自覚を吐露するって解釈なら「信康が乗り移る」のは少し面白かったかな、くらい。
「六白金星」と比較すると、「邦子」は、演劇で言えばロボットの芝居みたい。
ディズニーランドのイッツアスモールワールド的な。「信康が乗り移った」主人公はそこに一人迷い込んだ客。
「信康が乗り移った」ままの主人公を描いたのが「六白」か。
318 :
吾輩は名無しである:2011/10/07(金) 18:31:14.51
主人公はまず「小僧の神様」ならぬ女給の「神様」として君臨しますが
兄の姦淫事件によって生じた「やましさ」を解消するために
自身の姦淫体験をよりによって自身の妻(=信者)に対して
「告白」するといった愚行によってあっけなく崩れさります。
この結果、神(=夫)−下僕(=妻)という安定した垂直関係に動揺が生じ
両者の心理、特に妻の側に懐疑という形の「内面」を発生させるわけです。
そして、道徳的な信頼関係を喪失して単純な人間関係としての夫婦に堕した夫は
「個人」という極めて人間的立場から女優との不倫関係に入ります。
この性関係は二重の「不倫」性(やましさ)によって主人公の心理を拘束するわけで、実体はありません。
このように極めて社会性の強い欲望の痕跡は
「新聞」というメディアや女中という「世間」による告げ口によって、
不安定な「邦子」の心理を直撃します。
ちょうど、兄が弟である主人公の手引きによってその娘に不倫を詰られたように、です。
関係性に基づく欲望や自死という点では漱石の「こころ」と大差ないのですが
口で自分が殺したという割には、切実さが感じられません。
後進の作家たちからはそういった鈍感さが詰られるわけなのですが、
たぶん一生分からなかった事でしょう。
>>314-316 >>318 俺はどうも志賀が体質に合わないからよくわからないんだけど、
邦子のほうから語り手の男を見ればどうなるんだろうね。
>>319 .┌、 r┐ r┐ヾ> (_ / ミ
!. | ヾ> || lニ コ 〈/`ヽ _ ミ
|. ! ノ| | レ! _| |. ,イ,.- 、 |  ̄_ ̄丁 '' ー┬‐- -ミ
ヽ二/ .ヽ/(___メ> /,|.l l ! ( ) ! (´ ) ! r‐
ry'〉 ,、 /イ,! `ー' _L =- --┴-ニ二ト、_'ー'
lニ', r三) (( |'J」-''_二 =-- ‐一 ー‐t‐-ト、 二__
|_| )) レ'/´ィ 、_________ ヾミ| l
_r┐ __ (( V ,、 F≡三r一tァー, | l:.:. .::
└l. レ',.-、ヽ )) |ノ^>、 '^ミ二´ | l:.:.:.::
ノ r' __,! | (( V/イソ .::ヽ、二_
└'!_| (_t_メ.> )) | / ,' _ .:.:.:.::i|,)ノ
r-、 (( |.〈、 、 _〉 `丶、 ;:ィil| ノ
,、二.._ )) | 笊yfミミミミヾ、 '!l|il|li!fj'
ーァ /. (( ヽ |i''r ''_二二ニミ;ヽ、 ,|l||il|l|,「゚|
ん、二フ )) |,l| V´ :::::::::;;/ トi|l|i|i|l|!Ll
,.-─-.、 (( |i! ゞ=-‐''" ,i||i|l|l|l|!|i{
/ /l .i^ヽヽ ` |il! ーォii|「、 ,,.,.ィi||l|i|l|l|i|l|シ'
. | .レ' / l.| ヽ二ニ,ヽ ,/i|l||livil|||l|i|l|l|lil|l|i|l|i|i|i|l|l|l|{'
. ヽ/ ノノ <ノ {l|!|l|i|l|i|l|i|||i|i|l|i|i|i|i|l|l|!|l|l!r'
r┐,.─-、 / 7 ヾ!||i|i||i|i|l||l||i|i|l|l|l|l||l|l!イ
||し'^) ,! ┌‐' 'ー┐ト、 ``,ヘi|l|i|l|i|l|l|i|r''`''"´ i ,
|_| l´r' 7 /_7 / 」__〉 (_~`^~"゙'ヾ ノ / ,
[_] [_] 〈_/ヽ_/ .ト─' ノ / /i
ははーん、なるほど〜w
まぐにゃんが「凡庸の反対は愚鈍」って見方してたのでこっちにあてはめる。
ハスミンの「凡庸なる芸術家の肖像」から。
(凡庸さ)はたんなる才能の欠如といったものではない。才能の有無にかかわらず凡庸さを定義しうるものは、
言葉以前に存在を操作しうる距離の意識であり方向の感覚である。凡庸な芸術家とは、その距離の意識と
方向の感覚とによって、自分が何かを代弁しつつ予言しうる例外的な非凡さだと確信する存在なのだ。
語るべき根拠を持たぬままに語ること。知の欠如という消極的な無知を何とか埋めながら、ほどよい物語を
語ってみせるというのではなく、無知に徹することで物語を宙に迷わせること。この凡庸な時代に文学たりう
る言葉は、何らかの意味でその種の愚鈍さを体現している。
織田や坂口が目指したのは愚鈍さで、志賀が目指したのは凡庸さかもなあ。
引用元では愚鈍はフローベールで、凡庸はマクシム・デュカンになってる。
これとね、酔っ払ってるから適当だけど、ムーのな、
>>242の「二系列」絡めてぐっちょぐちょにして焼き上げると
おもしろいかもと思ったけど俺めんどくさいからいいや。
ムーハスミン好きだろ、ぐっちょぐちょにして焼き上げるのはあんたがやってよね!
面白く読んでた人をつまんなくさせる文章になるかもしれないが。試しに書いてみよう。
邦子主体で、精神を病んでいく主体として考えれば、心理学理論上合理的かつ要点を押さえた描写には
なっているんだよ。エッセンスが凝縮されてる、っていうか。
まあそれを悪く言ったのが「イッツアスモールワールド」なんだが。物は言い様。
例えば、
>ストレッサーとしては、作品内に限るならば、夫の兄の不貞、夫の雪子との不貞、夫の仕事への没頭と三段階ある。
について。
まず基本として、発達心理学的な説明をしておくと、子供の精神的発達過程として、人間はまず身近な人間から、
徐々に遠い人間へと、いわば自分を中心とした同心円状に、人間関係を広げていく、という考え方がある。
詳細は異論もあるが、まあ大体心理学科では基礎みたいなところで学ぶことかと思う。
この同心円を考えると、このストレッサーとしての三段階は、同心円の外側から、徐々に邦子自身という中心へと
進行しているのがわかる。
外側から内側へと亀裂が入っていっている。
いわば邦子は(心理学用語として)退行しつつある。同心円の中心へと亀裂が進んでいる。
同心円の外側の亀裂でとどまっていたなら、気にはなっても、自殺までには至らなかったろう。
自殺まではいかなくとも、現代の実際の心因性疾患の基本モデルではあろう。
こういった心理描写、プロット自体は、別に特別ではなかろう。カンのいい、というか普通の感性があれば描けることかと。
志賀の心理描写の技巧に言及するならば、最初のストレッサー、主人公の兄の不貞で、兄に意見したのが兄の子供だ、
という点に着目したい。
なぜ、自分より子供に意見させた方が兄は聞き入れてくれる、と主人公は考えたのか。
「夫婦仲が悪くなると、子供の心が傷つくから」だろう。
その傷つくであろう(すでに傷ついていたのかもしれない)当事者である子供の意見だから、兄は聞き入れた、と。
ここで先程書いた人間関係の同心円を思い出そう。
大人からすると子供は身近な人間としか人間関係を築けていない。身近な人間のもっとも多いケースは親となるだろう。
同心円が小さい。大人からすれば中心側の同心円しかない。
こう考えると、邦子にとっての最初のストレッサーは、邦子からすれば同心円の外側の亀裂なのだが、「同心円の中心側の
亀裂」を、つまり邦子が最終的にそうなることを暗示している、とも解釈しうる。
こういったところが、心理描写の、心境小説の、言及されるべき技巧なのではないだろうか。
正直俺も後で「あーそういうことか」と気付いたんだがな。理論は別の使ったけど。頭の中では。
細かく見ていけばもっとあるんだろう。しかし、細かく(心理学的理論で)見るなら、実際の人間を観察した方が、理論で
説明しきれないこともあるので面白いと思うんだがな。
しょせん小説なんてフィクション、いや言葉自体が(本来の意味での)方便なんだから。「エッセンス」。
>>319の答えにもなるが、この同心円の人間関係ってのは感情的なものだ。想像的なもの。
だとすれば、同心円の中心の主体が、「(これ以上)傷つきたくない」と思っていたなら、
同心円のもっとも外側にいる個体を選択するだろう。
>>318は主人公は邦子とって「神様」だとしているが、あながち間違ってはいない。
しかし恋愛とは、あるいは共同生活とは、感情的な距離が近くなるもの。
自分の心境をバカ正直に話す主人公の方が、むしろ邦子との心理的距離を縮めようとしていた、と言える。
嘘は嘘だとわかったらいやだが、私が嘘だとわからない嘘をついてくれ。
「永遠の嘘をついてくれ」
邦子からじゃなく俺から見た主人公だが。
藤田まこととか素敵だぞ、「浮気は嫁にばれても墓まで持っていく覚悟でしろ」ってな。
懐疑主義、哲学好きな女は嫌われるに決まってるわな。
嘘じゃないと思い込めないんだから。
>自分の心境をバカ正直に話す主人公の方が、むしろ邦子との心理的距離を縮めようとしていた、と言える。
邦子からすればそうだったろう、って話な。
ほんとのところはわからんが。
志賀は最初からそうだったのかもしれない。邦子の頭の中の一人芝居だったのかもしれない。
フィクションの登場人物の心理を語ることのなんとバカらしいことよ。
>ぶっちゃけ邦子については「こんなんで自殺とかどこの韓国ドラマだよwww」なんだが、
これほんとそうなんだよな、自殺未遂、自傷癖の人たちと話してきた俺からすると。
むしろアニメの「ヤンデレ」演出に見える。
時代が違うのかもしれないがさ。でも時代は変わってもこの程度で自殺とか韓国ドラマは多用しているわけで。
「女の心理」って視点で考えれば、実はAVや韓国ドラマとそう違いは無いという。
「口入屋」の方のおかみの方がまだ臨床実体としては語り甲斐がある。
女の描き方では「口入屋」>>>>「邦子」だな、と。「六白」とかは保留で。
フィクションの登場人物の心理を以下略。
坂口なんかは「永遠の」とは言えないかもしれないが「嘘をつこう」という自覚があるように思える。
それと比較すると志賀いやさこの主人公は「正直であることはイイコトダ」みたいに洗脳されてるロボットだ。
それ、本当にお前の「正直」かい? と。
「自分は正直に言っている」と思い込んでいるのが嘘じゃないかい?
お前の「正直」って言葉で言える程度のことなのかい?
少なくとも俺の「正直」にとっては言葉は表現するに不十分だ。
その言葉は「正直」なのかい? 「嘘」なのかい?
>>329 >時代が違うのかもしれないがさ。でも時代は変わってもこの程度で自殺とか韓国ドラマは多用しているわけで。
>「女の心理」って視点で考えれば、実はAVや韓国ドラマとそう違いは無いという。
まあ、そうなんですけどね。
作者もさすがにまずいと思ったのか
「邦子は最初から気の毒な女だつた。幼時は乞食こそしなかつたが、
殆ど乞食に等しい貧しさの中に育つたのである。」
と予防線を張っていますね。
(つづき)
しかしながら、このようにも書いています。
「邦子が一人の肉親であるその母親に別れたのは十三の時だつた。
(略)直腸癌で非常な苦しみをした挙句到頭母親は死んで了つた。
邦子は子供ながらにいよいよ自分で生きて行かねばならぬ事を痛感した。
十人並勝(すぐ)れてゐた所から芸者屋へ下地子(したぢつこ)にやつては(略)
然し邦子は世話する人があり、或家(うち)へ子守児(こもりつこ)として入つた。
それからは女工になつた事もあり、或停車場の食堂に給仕女として通つた事もある」
ここには生活上の苦労はありますが内面的な苦悩は存在しません。
ただ、こうも書いています
「二年程前、邦子は人の妾になつてゐたことがある。
株屋の番頭で、最初却々(なかなか)金離れのいい男だつたが、
囲はれて見ると、それが急に変り、非常なしまりやで、
邦子としてしまる事に大して不服はなかつたが、総てに出し惜みをしながら、
邦子の肉体への要求は益々横暴を極め、それは人間としての扱ひとは思へない程になつた。
邦子はつくづくその男が厭になつた」
(つづき 2)
そしてこう述べさせるわけです
「気を悪くしないでね。いいこと? 私はどんなに今、幸福に感じてゐるか、
それが申し上げたいのよ。私、こんな幸福な心持つて今まで想像も出来なかつた」
つまり主人公との結婚生活が内面を持った道徳的対象(主体)としての意識を
邦子にもたらしたわけです。
また、これまでの引用部分から分かるように「邦子」のプロフィールは
浮気相手である「雪子」とほぼ同等のものなのです。
作中で描かれた主人公の浮気とその発覚は邦子という道徳的主体に対して
お前も、所詮は「雪子」と同じ乞食上がりの淫売なのだ、と告げるものであり、
これが自殺への決定的な引き金になります。
(おしまい)
こういった女性心理の推移を象徴するものとして
作中では指環が極めて巧みに機能します。
幼年時代→石の抜け落ちたガラス玉(ルビー)の指輪…欠落性と自然性
女給時代→蒲鉾形の指輪(魔除)…外傷性と防衛
主婦時代→真珠の指輪…道徳性
そして子供の生命に対する謝意と言う形で
放置された指環(生のシンボル)の喪失状態は
自死に際して吐き出された「昇汞の結晶」
という無碍の表面を持つ物によって
生の円環を閉じるものとして提示され、物語もここで閉じられます。
この辺りが心境小説の大家による職人芸の粋とでも言うべき所ですかね。
徹底的に技巧のみで書かれたものだ、とはいえるでしょう。
おもしろいっすね
お嬢様あがりの女の方が男に裏切られて死にそうな
もんだけどね。世間知らずで男に対する幻想も膨らみ
そうなもんで。
邦子はコジキも妾も女給もやってるのに、なぜあそこまで
夫の貞操を無邪気に信じられたんだろうか。そこだけは、
まるで処女のような感じで。
あ、あれか。売女かつ処女であってほしいとかいう男のご都合
主義なのか?やっぱAVと変わらんのか?
まぁ、邦子はその経歴とは裏腹に奇妙にも純血な女として一生を
通したように描かれてるよな。決してインバイには描かれてないよ。
ここらへんをどう読むか
アニマー
やたら純潔な女を穢してやりたい、ってのはエロゲなんかでありそうなパターンだな。
アニマなんて技巧で飾らなくても充分美しいものなんだがな。そいつにとっては。
技巧で飾る相手を間違っている。
主人公の態度はまるで告解室にでもいるようだ。
家庭は告解室ではない。妻は神父ではない。
まるで「許しコンプレックス」。
>技巧で飾る相手を間違っている。
>お前も、所詮は「雪子」と同じ乞食上がりの淫売なのだ、と告げるものであり、
インバイなら間違ってないのか。
インバイだからこそ技巧が、嘘や化粧が必要となる。
水商売の客ってのもいろいろタイプ分けされてたりしてな。
で大体よく言われるのが「説教タイプ」。
「こんな仕事しちゃだめだよ」みたいな事を言ってくるオヤジ。お前がそんな店に来てるくせにな。
志賀もそういうタイプなんじゃないの。
そういう説教タイプオヤジも「自分がそういう店来て何言ってんだ」って言われるのはよくわかってるらしく、
「いや俺もそんな偉そうな事言える人間じゃないけどさ」みたいな言い訳をほぼ必ず言う。
こういうのって例えば花魁身請け願望なんじゃないかって話は聞いたことがあるが、マンガ的に言えば、
「愛する女を苦境から救う俺ヒーロー」なわけっしょ。違うかもしれないが。その時はそんな話になった。
邦子と主人公のなれそめもいわば主人公は邦子の苦境を救ってやったパターンなわけじゃん。
でも主人公はしつこいくらいに「いや自分には彼女を助けてやるなんてつもりはなかったが」みたいな
言い訳をしている。
この言い訳と「説教タイプオヤジ」の「いや俺もそんな偉そうな事言える人間じゃないけどさ」って
同じ心理なんじゃないの。
こんな話になるとつまらないから、技巧は大事だと思うんだが。太宰の技巧は輪郭を描こうとする技巧だが、
志賀の技巧は逆に輪郭をぼかすような技巧なんだよな。
日本画的技巧と印象派的技巧っていうかな。
逆に説教タイプは捕まえさえすればいい口座になるらしいんだけどね。
まあいわゆる妾、愛人を囲ったりするのはまさに「身請け」なわけだし。
今でもあることはあるらしいんだが、もっと安心価格な店の話。
邦子がよほど乞食時代や妾時代の自分を嫌がっていたなら、専門用語としてのトラウマだったなら、自殺も説明できる。
邦子はPTSDだったと。
志賀は書いていないが。
「邦子の肉体への要求は益々横暴を極め、それは人間としての扱ひとは思へない程になつた。」
ぐらいか。
まあトラウマなんてフロイト曰く客観的なものではなく主観的なものだからな。
他人が書ける代物ではないわけだし、この程度の文章の方がいいのか。
だとしたら他にもなんか徴候は出てたと思うがな。
性的トラウマは逆に性的挑発をする傾向があるわけで、出会った頃の邦子の症状とも合致しない。
余談だがこれよく矛盾しているように思われるけど、防衛として理にかなっているんだ。
レイプ被害ってのは質素な格好をしてる女の方が狙われやすい、って統計があるらしい。
「レイプされたくなければ逆に性的な格好をすべし」ってな。女は勘でわかってるんだろう。
リアルで考えると自殺という反応は説明しづらいねえ。
志賀はリアルの女じゃなくて自分のアニマを描いた、と考えるべきだと思うよ。
「邦子の肉体への要求は益々横暴を極め、それは人間としての扱ひとは思へない程になつた。」
とかもさ、そんな男であっても、玄関開けたら妾が素っ裸で股開いてたりしたら、逆に萎えるんじゃねえの。
>性的トラウマは逆に性的挑発をする傾向があるわけで、
ってのはそういう防衛なわけだ。
「それは人間としての扱ひとは思へない程になつた。」
とか書いているが、男が最初に欲望する女はあくまで「人間としての女」だからな。
AVでもセーラー服や女教師物が売れてるだろ。
欲望されたくなければ人間でなけりゃいい、って発想だろうな。
「獣としての女」なら男は欲望してこないだろう、と。
一時期流行ったコギャルファッションもそういうところあると思うんだがな。
ヤマンバとかやり過ぎ系とか特に。
「男に欲望されたくてそういう格好をしている」のではなく、「人間の女として扱われて欲望されたくない」から
そんな格好をしている無意識があるように思う。
NHKの子供番組でブレイクして今ギャルやってるてんちむって子がいるんだがな。
人気絶頂期の小学生時代に、水着写真集出したらしいんだな。
んなもん買う人はどんな人か、どんな風に使うのか小学生でも分かるだろうよ。
一種の性的トラウマになったのだろう。トラウマってのはあくまで客観的事件性は必要ないからな。
そして彼女はヤンキーギャルになった。
これとか典型な「人間として扱われないような格好すれば男は欲望してこないだろう」って無意識だと俺は思うがな。
というわけで、邦子は性的トラウマによるPTSDで自殺した、という説は俺は支持できない。
自分で言い出して自分で否定してみた。
「時代が違う」とか言われそうだが、
「性的トラウマがあると逆に性的挑発をする傾向がある」ってのはフロイトの時代から言われていることだ。
日本の具体例なら阿部定とかそうだったと思うぞ。よく知らないが。
どうも邦子という登場人物にリアルさが感じられない。
同心円の人間関係モデルは否定しないが、同心円の中心部分って、常識的な心理ではないと思うんだよな。
それこそ「レイプされたくなければ逆に性的な格好をすべし」みたいな。
同心円の外側から内側へ亀裂が入っていく過程はそういうものとしてリアルでも観察できる心境だと思うが、
最後の最後がな。
むしろ志賀は同心円の中心を描けないから、外側しか描けないから、邦子を殺したんじゃないか、とすら思えてくる。
技巧の話ならば、この辺りは非常に粗雑で幼稚だ。
だから「むしろ今では、邦子が死んでほっとしたところがある」とか書いてくれればよかったのにと思う。
「自分にそこは描けない」という告白とも解釈できる。
こういった女のリアルを描けていない点だけを考えれば、「邦子」はAVやアニメや韓国ドラマと共通している。
韓国なんか儒教でキリスト教だから現代でも女のリアルは描きにくいんだろうな。
しかし、女自身が女のリアルをいやがっている部分もある。自分の経血だろうが臭いものは臭い。
だから韓国ドラマオバチャンにウケてるんじゃないかな。俺も歴史ヒーロー物みたけど面白いと思った。
NHK大河とか最近のは「歴史的英雄もこれこれこういう一介の人間だった」みたいな描き方でしょ。
ヒーロー物じゃない。少年ジャンプ的じゃない。
だけど韓国ドラマはヒーロー物なのよね、少年ジャンプ。
邦子とのなれそめも、主人公はうじうじ言い訳しながら微妙な行動するだけにするよか、
「おい君やめろよ、彼女いやがってるじゃないか」
とか言わせた方がオバチャンにウケるんじゃない?
ヒーロー物ならヒーロー物の方が面白い。
今日から安吾?
また無頼派ですか?
351 :
ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2011/10/10(月) 21:55:36.18
別にいいじゃん。
そろそろ安吾行っていいかな?
安吾いっちゃって〜
もちろんまだ話したりない人がいたらどーぞ
おっと被った
じゃあ俺はとりあえず
明日かあさって感想書きますね。
>>342 >志賀はリアルの女じゃなくて自分のアニマを描いた、と考えるべきだと思うよ。
まさにそれっ!
徹底的に他者が存在しない。
あくまで自己投影なんですよ。
だから一番最初に感想を書いた人の
ナルシシズムというのが正しい。
志賀の作品に他者が存在しないという批判はよく聞くなぁ
ラカン的な意味ならむしろ志賀は(大文字の)他者主義だと思うけどな。
木村敏的な意味での、未知性としての他者なら存在しないかも。
この「他者」の意味の違いは、「汝の隣人を愛せよ」の「隣人」解釈議論と似ているな。
聖書の言う「隣人」とは、現代の成熟した社会の隣人、いわば「心は見えないが心遣いは見える」という
隣人などではなく、「何を考えているかわからない、警戒すべき人間」としての隣人だった、という論。
前者の「隣人」としての「他者」なら、志賀が書いている根拠こそがそれだろう。
後者の「隣人」としての「他者」なら、彼はそれを描けない人ではあるんだろうな。
想像的他者、象徴的他者はいるが現実的他者がいない、って感じかね
自己投影出来ない他者=自分が心遣い出来ない他者、ではあるわな
今どき精神分析とか心理学をありがたがってる阿呆は雑談スレとここに結集してるのか
社会と完全に隔絶された引きこもりの集まりだからなあそこ
ショーシャンク見ても感動できないんだろうなあと思いました
精神分析に過剰な拒否反応を示すあまなでした
>>362 おまえは一般的な社会常識も知らないんだな。
精神分析が過去の遺物だってまだわかんないんだ?
ほんとバカは笑えるわ。
あまな即レスかよw
意味不明の話題そらししてバカを隠そうとする引きこもり乙
おめーはほんとバカだな。
ドヤ顔で精神分析とか夢占いとか一生やってろ脳内お花畑のゴミ
見てるだけで恥ずかしいがな。
>見てるだけで恥ずかしいがな。
それを自分に適応させて考えないのだろうか
ほんとこのクソバカの糞ねらーはどうしようもねえわ。
精神分析の真似事すればカッコがつくと思ってるバカだから。
低学歴で友達もいないんだろうな。バカなニートだ。
あー笑った。
おもちゃみたいだな。
スイッチ押せば大体同じ反応が返ってくる。
ゴールデン街のおっさんみたいなのが演説ぶったり
したり顔で精神分析ごっこするやつが沸いたり
痛々しいスレだなw
場末感がぷんぷんだわw
場末で見栄張りたがる奴よりかマシかとw
いちいちくだらねえ言いがかりと言い訳に必死だよなw
バカじゃねえの、黙ってりゃいいのにw
そうやってどんどん墓穴掘ってんだよw
くだらねえから閉じるわこのスレw
ほんとゴミしかいないw
>いちいちくだらねえ言いがかりと言い訳に必死だよなw
こういう自分の文章を自分に当てはめて考えたりしないのかな、この人は。
盛り上がっとるねえ。
人の感想にいちゃもんつけたければ、まず自分も感想あげましょうね、よい子の皆さん。
加齢臭男は引っ込め!
>人の感想にいちゃもんつけたければ、まず自分も感想あげましょうね、
別にいいんじゃね、言いたい事を言えば
ローカルルール変えようぜ
やだよ
加齢臭男は引っ込め!
加齢ムー
いや、今まで俺はいい匂いがするって女から三回言われたことがあるんだぜい
えっ!!!
てか早くムーの感想アップしてくれよ
次不良少年だっけか
ごめんもしかしたら少し遅くなるかも。
邦子の話題尽きたら、誰か一番手やってくれるとうれしい
加齢臭男は引っ込め!
MCってマスターオブセレモニーだよね、ひっぷほっぷとかの
「お殺し」ってこれか
http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46351_26686.html 文壇で、女の会話の上品さを表現させたら、志賀直哉氏の右に出るものがない。が、太宰治氏に教えられたことだが、
志賀直哉氏の兎を書いた近作には「お父様は兎をお殺しなされないでしょう」というような会話があるそうである。
上品さもここまで来れば私たちの想像外で、「殺す」という動詞に敬語がつけられるのを私はうかつに今日まで
知らなかったが、これもある評論家からきいたことだが、犬養健氏の文学をやめる最後の作品に、犬養氏が
口の上に飯粒をつけているのを見た令嬢が「パパ、お食事がついてるわよ」という個所があるそうだが「お殺し」
という言葉を見ると、何かこの「お食事がついているわよ」を聯想させられるのである。
青空文庫ってべんりー
感想なあ
「フツカヨイ」の恥かあ
「邦子」とか話が終わった後、主人公に太宰的「フツカヨイ」があったと妄想するとおもろいかもな
いかにも貴族の月並な紋切型で、作者というものは、こんなところに文学のまことの問題はないのだから平気な筈なのに、
実に、フツカヨイ的に最も赤面するのが、こういうところなのである。
とか書いているが「紋切型辞典」とかそういう話だよな
「マイ・コメジアン」か、失礼
太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった。
これとかぶっちゃけ「太宰はエディプスコンプレックスだった」と言ってるようなもんだな、その後の文章含め。
ここら辺は、俺は太宰という人間を作品、つまりMCでしか知らないから、何も言えない。
坂口みたいに会話したことがないから。
そうだな、坂口とか織田とか作者をどうこう言うのアホらしくなるんだよな。
ブラックユーモアとかそれを言ってる人間の心理どうとか言うのアホらしいだろ。
いくらフロイトが「ジョークに無意識は表れる」と言ってたとしても。
だがしかし、
大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。
この一文が坂口のエディプスコンプレックスの自白とも取れるな。
学問も最初から大ゲサと思ってなければ、買いかぶったりしなかったろう。
買いかぶったのは、坂口自身が、「親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年」だったからだ、って話か。
戦争で一皮剥けたんだろうが。
大ゲサと思っていれば、でした。
この文章のおもしろさは、太宰の自殺を「フツカヨイ」だとしながら、
「そう言う坂口自身が酔っ払って書いてるだろこの文章」
と思わせる文体になってるところにある気がするな。
途中でですます調になったりな。
そんなツッコミを促す文章。客に頭の中でツッコマせるのはコメディアンにすれば高等技術だろう。
酒って怖いねえ、ほんとに。
水商売とかだと体調が悪くなるのはあるとしても「フツカヨイ」にはならなくなるもんだが。
というMCでした。
現代の無頼派って誰とかになるんだろう。
町田はそうなるのか。筒井康隆とかは?
西村賢太がそう言われたの見たことあるがあれは「フツカヨイ」をMCに出来たってことにならないか。
MCが「フツカヨイ」ではない無頼派の真髄なら、西村とかおもしろい位置にいるな。
無頼が通俗を味方にしすぎたらツケがまわる、ってのが西村か。
この系譜おもしろいな。
ムーは
>>242について書いてくれよ。
二日酔いとか言ってるけど
不良少年とキリストの冒頭も酔っぱらい的な文章だよね
あ、安吾だいぶまいってんな〜と思ったよ
無頼派の一時代が終わったと思ったのかもね
太宰が死んで8年後ぐらいに安吾も死ぬし
それは終戦から10年後
無頼派ってのは文学史的に考えると、戦後というある特殊な一時期の現象なのかなぁ。その現象には普遍的な要素もあるけど。
てか現代小説も身辺小説の呪縛から解き放たれてないよね。
新しい人間像とか新しい生き方とか提示できてんのか?っていう。
現実の後追いではなく、なにか本質を掴むようなものとか。
吉本隆明は今は日本の第二次戦後だって言ってる。だから太宰とか人気出てるっていう。となると、第二の坂口安吾も登場しても良さそうだけど。いるかな?
>無頼が通俗を味方にしすぎたらツケがまわる
いや、「フツカヨイとしてのMC」にさせられた太宰の自殺自体がそのツケだろうな。
坂口もこう書いている。
いったいに、女優男優はとにかく、文学者とファン、ということは、日本にも、外国にも、あんまり話題にならない。
だいたい、現世的な俳優という仕事と違って、文学は歴史性のある仕事であるから、文学者の関心は、現世的な
ものとは交りが浅くなるのが当然で、ヴァレリイはじめ崇拝者にとりまかれていたというマラルメにしても、木曜会の
漱石にしても、ファンというより門弟で、一応才能の資格が前提されたツナガリであったろう。
太宰の場合は、そうではなく、映画ファンと同じようで、こういうところは、芥川にも似たところがある。私はこれを
彼らの肉体の虚弱からきたものと見るのである。
彼らの文学は本来孤独の文学で、現世的、ファン的なものとツナガルところはない筈であるのに、つまり、彼らは、
舞台の上のM・Cになりきる強靭さが欠けていて、その弱さを現世的におぎなうようになったのだろうと私は思う。
「文学者とファン」であることが「MCになることの妨害」になるのならば、無頼派にとっちゃー「通俗を味方にしすぎたツケ」
だったと言えるだろう。
おー「不良少年とキリスト」に行ってるのかな?
安吾にとって三島はフツカヨイ的ではないということになりそうだ。
>>395 いやー、坂口の言うような「大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。」ってのが戦後であり現代だと考えれば、
現代も「戦後」なのかもしれないが、実際に戦争があった戦後じゃないからなあ。
根深いと思うよ。
現代の不良少年たちは。
西村賢太ってどっちかってと三島に似てる気がすんだよな、俺。
三島よりか「健全にして整然たる常識人」なんだろうな、西村は。
西村賢太ってどちらかというと私小説的心境小説じゃね?
ダメ人間が主人公なのは無頼派と共通するけども
めっちゃ古いタイプの小説だと思うが
あいつ誰を尊敬してるんだっけ?私小説家だっけ何だっけ?
「不良少年とキリスト」。これ、織田作之助も志賀直哉も出てくるんだね。
「真に正しく整然たる常識人でなければ、
まことの文学は、書ける筈がない。」
安吾は小林についてそう語っている。
無頼派の酔っ払い安吾の奥には、常識人安吾がいるんだろう。
酔っ払い調の文体にだまされちゃあいけないな。
安吾はシラフだ。安吾は常識人だ。
かの三文々士は、歯痛によって、ついに、クビをくくって死せり。決死の血相、ものすごし。闘志充分なりき。偉大。
ほめて、くれねえだろうな。誰も。
ほめられちゃってますぜ坂口センセ。
>>401 うん、どちらかと言えば織田の言う
http://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46351_26686.html 「暗夜行路」の文章をお経の文句のように筆写して、記憶しているという人が随分いるらしく、若杉慧氏
などは文学修業時代に「暗夜行路」を二回も筆写し、真冬に午前四時に起き、素足で火鉢もない部屋で小説
を書くということであり、このような斎戒沐浴的文学修業は人を感激させるものだが、しかし、「暗夜行路」
を筆写したり暗記したりする勉強の仕方は、何だかみそぎを想わせるような古い方法で、このような禁慾的
精進はその人の持っている文学的可能性の限界をますます狭めるようなもので、清濁あわせのむ壮大な人間
像の創造はそんな修業から出て来ないのではないかという気がする。
タイプだと思うな。
>>402 その常識人安吾を笑い飛ばすコメディアンとして無頼派酔っ払い安吾がいるんだろうよ。
いやー、なんか当時の文壇論争の人間臭さが伝わってきて非常に面白いな。
「(文壇という)大ゲサなものを、買いかぶっていたのだ。」
坂口がいなければこんなコメディは成立しなかったろうな。
>安吾は常識人だ。
これは否定しない。
>>404 >常識人安吾を笑い飛ばすコメディアンとして無頼派酔っ払い安吾がいるんだろうよ。
それはどうかな。常識人安吾がいなくちゃ酔っ払いも演じられないんじゃないか。
常識人なき酔っ払いはフツカヨイなんだ。
>>401 でもあれなんだよ、インタビューで言ってたんだが、「半分は嘘」で、「笑ってくれよ、こんなダメ男」と書いてはいるらしい。
無頼派の真髄がコメディアンならコメディアンなんだよな、西村って。
町田もそうだろ。町田の方がコメディアンっぷりがわかりやすいが。
太宰は私生活に嫌な雲ありて、とか言われて芥川賞を逃してるし
安吾は知人の妾の家を仕事場にし、織田作はヒロポン打ってるし、
そんな連中に誠の文学ができるか、みたいな批判をしている人がいたが。
そういう考えが文壇の主流のなかにもあったのかなぁ。
安吾は常識人ということで、無頼派に対する誤った印象を変えようとしたのかもね。
ある意味、無頼派の弁明というか。
面白いのはべらんめえ口調の方がシラフで
大真面目に語り入れてるところが実は酔っぱらいでしたって
逆転が起こるところであってだな・・・
>>407 あいつの小説で笑ったことはないなぁ、、
心尽くしとか愛を感じたこともない、、
個人的にはね
>>406 >常識人なき酔っ払いはフツカヨイなんだ。
まあそりゃ自殺自体が常識外れだからなw
かと言って坂口の言う「生きること」「マイ・コメディアン」は「健全な常識」ではなかろう。
妾んちを仕事場にしたりヒロポン打ったりするのは。
>>408 常識外れの常識ってなあるもんだよ。
そしてそれは確かに貴族社会や文壇ではなく、通俗の中にあるものだろう。
ローマ帝国初期だって皇帝を揶揄するお芝居がされていた。それで処刑をしないだけでタキトゥスから
「賢明な皇帝だ」と言われるくらいには、そういうお芝居はよくあったのだろう。
>>409 酔っ払いをよく分かってるな君。
実際に見てれば酔っ払ってるかどうか分かるが、文章だけだと分からないもんだ。
>>410 そうか、俺は真っ先に「これはギャグだな」と思ったんだけど。
笑えないジョークをわざとやる芸人っているだろ、鳥肌実とか。
そういう作品だと思ってたら、賞取って本人もそんな風に言ってるので逆につまんなくなった。
芸人って、特にボケは、「ネタでやってる」ってばれちゃつまらないもんじゃん。
「え、ちょっと本気かもw」って思うからおもしろいわけで。
純粋に「愛」とかを読みたいなら違うとは思う、西村は。
>>411 何だろう、あれ。すまん宿題にさせて。
というより、西村がギャグでやってることに本気になれば、三島になる、って感じはする。
「金閣寺」とかか。
実際に戦争で焼け野原にならない限り第二の安吾は表れないかもなあ。
とりあえずお前は誰なんだよ
>>410 すまん、言葉足らずで
読者に対する愛とか心尽くしって意味で
西村読んだときは、正統派だなと思ったんだよね。
悪い意味だけど。小説の技法は優等生そのもの、ってとこが
非常に残念だった。もう一回読んでみるけど
>>406 >常識人なき酔っ払いはフツカヨイなんだ。
というより、常識人だから太宰はフツカヨイになった、って話じゃないかい?
俺はそう読んだが。
織田は「可能性」といい、坂口は「限度」と言っている。
この対照性が面白いと思うんだがな。
というか酔っ払いやヤク中の言葉は常識的に受け取っちゃいかん。
「限度」の問題であり「可能性」の問題なんだよ。
多くの人間は、志賀みたく、「限度」に無自覚だから、本当の「可能性」を切り開くことにならない。
無意識にある「限度」。
それを提出するのが、「文学のM・Cには、人間の恥はあるが、フツカヨイの恥はない。」ってことじゃないかな。
「限度」という「学問」を「大ゲサ」に「買いかぶっていた」から、太宰はフツカヨイになった。
坂口の「学問」観は、実はヴェーバーに似てる気がするわ。「価値世界と因果世界の二元論」って。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/411pdf/03-03.pdf 「学問の限度」は、「価値世界と因果世界の二元論」ってことな気がする。
敗戦で価値世界の崩壊を目の当たりにし、そこから価値世界を築こうとした当時の常識人たちとは違う、
決意があるように思うな。
そして最近華厳な俺はその決意には反論しなきゃならないだろうが、坂口死んでるのでスルー。
あ、この辺は「人を読む」スレの話。
>>414 ああそっちか。うーん。笙野頼子とか読んでたらそこら辺寛容になるのかもしれない。
正統派と思わせる文体が、彼のコメディアンとしての衣装だった、のか。いや衣装は真面目なのかもな。
マイ・コメヂアンの奇形ではあると思う。
でも演技による奇形であるゆえ、やがてどう転ぶか分からない。
小林よしのりみたいな事言いやがる
ムーは「限度」を「坂口は倫理を求めていた」と解釈しているが、それを「倫理」って言うのは
「大ゲサなものを、買いかぶって」いることにならないだろうか。
まあヴェーバー出してきた俺も「大ゲサなもん出しやがって」って思われてるのかもしれないが。
人間には、その知には、「学問」には、限度がある。
ラカンは現代の科学者について、「常に人間の知の限界にいる主体たちで、狂気一歩手前だ」みたいなことを言った。
「限度」を見つけること。
人間のクローンは倫理的許されないと言うが、その説明をすること。
「限度」を表現すること。
そんな話なのかねえ、と。
織田と筒井が重なってきた、俺の中で
あとさ。
まあこれはあんま茶化して書きたくないわけだが。
太宰の遺書は酔っ払っててシリメツレツだったわけじゃん。「MCになれていない」と。
坂口が言いたかったのは、「文学の限度」だと思うんだよな。
けして太宰が精神異常者だとは言わないが、これはアートとアウトサイダーアートの区別に似ているかもしれない。
そして俺個人は、この区別を支持する。
それを読んだことはないが、坂口の証言を信じるなら、太宰の遺書は文学であってはならなかった、と。
ここはな、俺にとっては華厳思想の疑わしさになるんだよな。
不良少年とキリストは太宰の文体に似てる
オマージュしたのかな。安吾的な文体ではないよね。
コメディアンになりきれなかったという批判は主に
人間失格に対してかな
お客を楽しませていたピエロ(マイコメディアン)の泣いてる
姿は誰も見たくないよね、という。
人間失格の葉蔵も道化に徹することができずに転げ落ちて
いく人物だったけど。
金原ひとみやら赤坂真理とか「精神を病んだ女」を主人公に書いたりするわけだが。
いやまあ性倒錯も精神疾患だとするならレズ物もそれに入るだろう。松浦の「ナチュラル・ウーマン」とか。
こういった「メンヘラ女」を書く女性作家たちは、
>>242の二系統を考えると、無頼派の流れに入ると思うんだよ。
でもさ、やっぱり文学は「メンヘラが書いた文章」であってはならぬ。
金原自身摂食障害を経験したとしても、摂食障害者の文章を書くだけでは文学にならぬ。
「常識人」がいなければ。
そして、「常識人」と「非常識人」は、どちらに価値があるというものではない。
個人の頭の中でそれらはつねに軋轢を起こし、作家自身に心的負担を与えるのだろうが、作家はその両方を
持っていなくてはならない。
これは一種の「戦い」だ。
「非常識人」が書くのは、文学・アートではない。
しかし、「常識人」だけを書くのも違う、というのが、その二系統の無頼派の系統なのではないだろうか。
両方書かなくてはならない。アートとは。
アウトサイダーアートとアートは区別されなければならないが、アウトサイダーアートがアートの栄養源になっている事実は認めなくてはならない、ということか。
あ、酔っ払いの文章です。
>>421 多分、コメディアンとしての無頼派は、「お客を楽しませるピエロ」ではなく、「王様は裸だ」と言う子供でなくちゃならないんだと思う。
そういうコメディアンを坂口は目指していたんじゃないかと思う。
ピエロって客を楽しませるだけではなく、その人が言われたくないことを言ったり、常識外れのだけど真実のことを言ったりするだろ。
ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのことじゃないか。大人ぶるない。冥想ときやがる。
何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、大人の方が、バカなテマがかゝっているだけじゃないか。
メンヘラね、わかりやすい
二日酔いをメンヘラに置き換えられるね
ただのメンヘラには芸がない、ってこと
あ、キリスト不良少年にも出てくるけど。田中英光の作品も何気
おもろいよ。田中英光はMなのかなんなのか知らないけど、庶民的
な無頼派というか。女性像がおもしろかった。
青空文庫にもあるから、こんどみんなで読もーぜ
>>421 安吾はそうかもね
無頼派といっても、安吾と太宰じゃ全く作風が違うよね
敵は共通だったかもしれんが
太宰はお客を喜ばす才能はあった。あのオーラルパフォーマンス
は。太宰はあんまり本を溜め込まなかったらしいが、
そのなかでも落語家の円朝の全集は大事にしていたらしい。
だって西村賢太って近代文学マニアじゃん
形式が古いのはごもっとも
フツカヨイをMCのネタにするかどうかだな
フツカヨイがなんなのか、もちっときちんと考えた方がいいかもなあ
「フツカヨイ的に衰弱した心には、遠い一生のそれらの恥の数々が赤面逆上的に彼を苦しめていたに相違ない。
そして彼は、その小説で、誤謬の訂正をやらかした。フロイドの誤謬の訂正とは、誤謬を素直に訂正すること
ではなくて、もう一度、類似の誤謬を犯すことによって、訂正のツジツマを合せようとする意味である。」
これなんか要するに「否認」なわけだ。
「いったいに、こういうところには、太宰の一番かくしたい秘密があった、と私は思う。」
はフロイト理論通りだ。「否認」するところに主体が隠したい真理がある。
「然し、文学のM・Cには、人間の恥はあるが、フツカヨイの恥はない。」
「不良少年の中でも、特別、弱虫、泣き虫小僧であったのである。腕力じゃ、勝てない。理窟でも、勝てない。そこで、
何か、ひきあいを出して、その権威によって、自己主張をする。芥川も、太宰も、キリストをひきあいに出した。
弱虫の泣き虫小僧の不良少年の手である。」
フツカヨイとはつまるところエディプスコンプレックスだと思ったんだがな。
太宰の志賀に対する反応は、父への憧れと反発というコンプレックスを元にしている、と。
フロイトの誤謬の訂正
二日酔い作品、誤謬の訂正作品が人間失格だって
言いたいんでしょ安吾は。その流れでもって死んじまったと。
エディプスコンプレックスは確かにあったと思う。志賀に対しても
太宰の実家のヤマ源に対しても。
エディプスコンプレックスをこじらせて二日酔いになったと考えてもいい
のかもね。
ただ人間失格という作品を踏まえたうえで安吾は言ってるよ
だとすると、フツカヨイには、見ているシラフの観客を引き寄せる、負の力がある、ってことになると思うがな。
フツカヨイは文学ではない、とすると文学はつまらなくなりそうだ。
西村なんかはフツカヨイ的負の力がある。まあそんな作品めったにないから、って金原もそうか。
文学を、人間通の作家が書く、人間関係の模型だと考えれば、そりゃフツカヨイはいかんだろう。
だが、人間通の読者が読む、模型の一部分として、作家がフツカヨイになるのは面白いと思うんだがな。
フロイト理論だって何もないところから構築したわけじゃない。さまざまな患者を臨床した結果としてその理論がある。
まあ、太宰はフツカヨイで死んだってことになって、それに堪えたからこんなこと言ってる、ってことなのかもしれないが。
「フツカヨイは文学ではない」なんて言いながらフツカヨイを書いちゃうのが無頼派ってもんじゃねえの。
スタコラ・サッちゃんはかぶりつきでフツカヨイというアングラ的舞台を見れたわけだな。
「 人間は、決して、親の子ではない。キリストと同じように、みんな牛小屋か便所の中かなんかに生れているのである。
親がなくとも、子が育つ。ウソです。
親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てゝ、
親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。
親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ。」
これなんか「アンチ・オイディプス」だわな。
「人間はオイディプスなどではない、孤児である」と。
どうもこう、坂口の小説論と太宰という人間論ごっちゃになってしまうが、まあそういう文章なんだが。
太宰の人間論は保留しておくと、
「 文学者、もっと、ひどいのは、哲学者、笑わせるな。哲学。なにが、哲学だい。なんでもありゃしないじゃないか。
思索ときやがる。
ヘーゲル、西田幾多郎、なんだい、バカバカしい。六十になっても、人間なんて、不良少年、それだけのこと
じゃないか。大人ぶるない。冥想ときやがる。
何を冥想していたか。不良少年の冥想と、哲学者の冥想と、どこに違いがあるのか。持って廻っているだけ、
大人の方が、バカなテマがかゝっているだけじゃないか。」
ってところであって、坂口のコメディアンの芸風は、「王様は裸だ」と言う子供だと思うんだよな。
「王様は裸だ」と言う子供はフツカヨイにゃなりはしないだろう。
でもそうはなりきれないのはあるんだろう。
「 然し、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。」
なんか外人のカタコト日本語みたいだが。
いくら「王様は裸だ」と言えても、フツカヨイにならない子供がお話を書いてもお話にはならないだろう。
アートとアウトサイダーアートは別ってとこになるのか。
「王様は裸だ」と言う子供とフツカヨイと健全な常識人。
部屋とYシャツと私。
無頼派vs志賀という二項対立から三項になった、俺の頭の中が。
結局、作家じゃない俺達は「バランスの問題」とか言いたくなるんだが、作家からすれば、その「バランスの問題」が「戦い」なんだわな。
ドストって不良少年なんかはフツカヨイよか子供だった、話になってるが、ドストもフツカヨイな気がするがなあ。
坂口家って超デカかったらしいじゃん
お母さんは、安吾が小さいとき番頭と駆け落ちした
らしいよ! 番頭と!!! この響きいいなw
正直この題材もっと揉めるだろうと思ってたんだが揉めろよお前ら
タタカエー
>>438 そんな揉めポイントある?
みーせーてー
僕はフツカヨイ好きです!
見るのは。
>>439 だって自殺の話だしぃ。
こういう迂回を経ると人間失格も新しい感覚で読めるかなと思ったがそうでもなさそうだとも思った。
フツカヨイいいじゃん! おもしろいじゃん!
小説家の分際で我が強いんだよ
>>415 >そして最近華厳な俺はその決意には反論しなきゃならないだろうが、坂口死んでるのでスルー。
>あ、この辺は「人を読む」スレの話。
はあ、ラカンから華厳に向かったわけですか。
まあ、あっちの方が緻密ですものね。
ラカンは記号学、論理学、心理学、現象学のごった煮という趣ですから。
しかし若かりし頃の坂口はポオや大乗仏教に傾倒していたのですが
それを考えると戦後の作品は後退しているんじゃないんですかねえ。
数学者の故・森毅は「堕落論」の頃は世間との安易な妥協があったのじゃないか?
としていますが、確かに「淫者山に乗り込む」の頃のような緻密な心理分析はありません。
「不良少年とキリスト」にも世間受けの要素が多分に見られます。
>>427 >太宰の志賀に対する反応は、父への憧れと反発というコンプレックスを元にしている、と。
それはどこかで「志賀にほめられたいと思っていたのではないか?」
と指摘していましたよね。
変なところに食いつかれちゃった^^;
>>443 あった気はするけど名無しだったかと。
で?
まあリアルで交流のあった坂口がそう言ってるようなもんだからなあ
あ、いや。間違ってんな。
坂口がコンプレックス持ちで
太宰はその関係を解った上で黙ってたと見てる。
志賀にほめられたいのは坂口だった、ってことだっけ。
どのレスか探してくれ。
まあほとんどの人間はエディプスコンプレックスだ、ってのは間違いじゃないからな
そうじゃない人間もいると思うが
坂口はマザコンだから。
太宰の場合は母性的なものが殆ど見られない。
むしろ女性、あるいは性全般に対する屈折した思いや
バイセクシュアルなものが作品に垣間見られる。
彼はあくまで友人関係(社会関係)の一環として
女性を媒介にして自己PRをしていたような所がある。
そう考えると坂口の欲望は母性に根差すものであり、
ストレートなものではあるのだが、
自身で述べているような肉体の欲求に根差したものとは言えない。
また、マリリン・モンロータイプの女性を誉めながら
それとは全く逆のタイプである矢田に
プラトニックな愛情を傾けていたりもする。
マザコンVSファザコンか
父への欲望も母への欲望も同じコンプレックスになるんだがな
坂口マザコン論はおもしろいかも。
もう少し詳しく論じてくれ。
>太宰の場合は母性的なものが殆ど見られない。
という対比しか今のところ根拠はない。
ここでは坂口が「太宰はファザコンだった」と言ってるようなものだし。
ファザコンを否定したらマザコンだってわけでもないだろ。
そっから脱領土化するってのがアンチ・オイディプスで「孤児」と言ったわけだが、
坂口も作品しか知らないし「コメヂアン」らしいので、坂口がマザコンかどうかはわからないが、
思想としてなら「孤児」を主張していた、とは思うがな。
でもまあ確かに理法界から理事無碍に行くには父を無碍にしなければならないわけだが、
そこにマザコンという事法界への「ふりだしにもどる」があるわなあ。
「通俗を味方にしすぎたツケ」ってのもそういうことだと思うわ。
「不良少年〜」では坂口は映画俳優とそのファンに喩えていたが、そりゃ確かに想像的関係で、マザコン的欲望の仕方だろう。
アガペーなんてのはマザコンの帰着点かもな
>彼はあくまで友人関係(社会関係)の一環として
>女性を媒介にして自己PRをしていたような所がある。
これ思い出した。
貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クリフォードといっしょに、無人島に漂着する。
セックスの後、女は男に「どうだった?」と訊く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えて
くれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むから、ズボンをはき、顔に髭を描いて、親友の役を
演じて欲しいというのだ。「誤解をしないでくれ、おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。
女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明け合うときの、独特の流し目で、
こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クリフォードと寝たんだぜ!」
卑近な例なら「百人斬り」とかそういう話かもな。
女からではなく同性の男から欲望されようとしてそういう話するわけだろ。
安吾は辛くなったとき
おかあ〜ちゃ〜んと泣き叫んでいたらしい
てか精神分析いくなら
安吾は統合失調症の気がある
年に何回か妄想や幻聴に悩まされていたらしいか
太宰はファザコンではないと思うぞ
エディプスコンプレックスはあるが
>>457 ああ俺が似たような意味で使ってるだけ、どっちでもいいよ。
>安吾は統合失調症の気がある
まさにアンチ・オイディプスですなあ。
>>453 「分裂症とは、過剰にオイディプスであるのではなく、オイディプスに過剰に耐えられない人達なのだ」
>>453 坂口には「母の上京」という作品がありますし、
妻・坂口三千代による「クラクラ日記」にはマザコンの描写が出てきます。
(母の作ってくれた着物を抱きかかえて号泣する場面など)
最初の子供を堕胎したのは母性忌避の典型でしょうし。
「女性は観賞用だ」とか「子供が生まれてくるなんてぞっとする」といった発言もあります。
坂口は本人が叔父(碧眼、鷲鼻)の風貌から言明しているように
極めてユダヤ的な性格の持ち主なんですね。
まあ、遺伝と言うよりは家庭環境によるものなのでしょうが。
ほうほう。
誰しもマザコンじゃなかった人間などいないだろうし、そういうもんだろうなあ。
糖質は環境因ではないから、糖質とかどうかとは別問題かもな。
ムージルの「特性のない男」には主人公ウルリッヒが友人から
なぜ、お前は母親(言語)を裁断(分析)するような事をするんだ!
と詰られる場面が出てきます。
この友人によると分析行為による心理の二重性が
内面の分裂を生む物として厳しく批判されているわけです。
一般に父性が強いと認識されているユダヤ社会ですが実は母性社会なんですね。
だから、フロイト理論の根底に母性的な部分を見出し、
男(父)性的な部分はその倒錯なのだ、としたラカン理論は結構、的を射ていた。
そして、坂口の場合もその典型の様な気がしますね。
まあ、坂口はユダヤではありませんけど
本人はかなり自身のユダヤ性を強く意識していたようで。
しかし、承認欲望の一環として「女」性なるものをメディア的に利用する
太宰の文学は本質的に坂口とは異質なものですね。
友人である山岸外史が指摘するように
バイセクシュアルな雰囲気をもったディスクールがその特徴です。
そういう意味では志賀に近いものではありますが
あそこまで徹底化出来ないので何らかの権威が必要となる。
それがキリストだったとも言い得る。
ただ、太宰自身は「駆け込み訴え」に出てくるユダ、
つまり反キリストという陰画的立場でしか自己証明が出来ない。
自己肯定のロジックが逆に自分を追いつめる、
そういう逆説が潜んでいるような気がしますが、
志賀的には「弱い」の一言で片づけられちゃうんでしょうねえ。
太宰は反キリストじゃない
キリストになろうとした男 なれなかったけど
自殺する前も、俺はキリストになる!とかなんとか言っていた
>だから、フロイト理論の根底に母性的な部分を見出し、
>男(父)性的な部分はその倒錯なのだ、としたラカン理論は結構、的を射ていた。
具体的にどの話?
まあエディプスコンプレックス自体がマザコンでもありファザコンでもあるって話だけどな
>キリストになろうとした男 なれなかったけど
それを分裂症の坂口は「フツカヨイ」って言ってるんだと思うがな
まあこれだけ証言があるなら太宰は過剰適応な人だったのかもしれないなあ
「私は誰だか、アルケーから言っている」
と言えればキリストになれたかもな。
そういう人が作家としてどうなのかは分からない。
まあでも、太宰にしてみれば、坂口が母で志賀が父だったのかもなあ。
そうやって見るとこのくだりとかおもしろい。
たとえば、太宰は私に向って、文学界の同人についなっちゃったが、あれ、どうしたら、いゝかね、と云う
から、いゝじゃないか、そんなこと、ほッたらかしておくがいゝさ。アヽ、そうだ、そうだ、とよろこぶ。
そのあとで、人に向って、坂口安吾にこうわざとショゲて見せたら、案の定、大先輩ぶって、ポンと胸を
たゝかんばかりに、いゝじゃないか、ほッたらかしとけ、だってさ、などゝ面白おかしく言いかねない男
なのである。
キリストは人類の原罪を背負ったが、マリアではなく普通の母親だったら、こんなこと言うんじゃないだろうか。
「他の人なんかほっといていいんだよ、お前が生きていてくれればいいんだ」
ふむ。
「安吾はマザコンである」
「安吾はユダヤ性を有している」
それはあるかと思うけど、それで終わりじゃつまんないよな。
だから?と問いたくなるな
>>468 母性的な安吾ってイメージで無頼派のあれこれを妄想するとちょっと楽しい
「精神分析派」の皆さんには、「症候の指摘」だけに甘んじてほしくないですな。
それ単なるレッテル貼りやん、ていう感じがしなくもない
安吾に見られる母性への傾倒はね、優しく抱かれるとかいうことではなくて、むしろ「突き放される」体験に近いんだよな。
例えば安吾は東京大空襲に対して「破壊の巨大な愛情」という表現を使っているけど、安吾の夢見る母性とは、こういうものだったりする。
これを単に「マザコン」とレッテル貼りして終わりでいいのかな?
>>470 「フツカヨイ」というレッテル貼り。
まあともかく名前がついてないものにはレッテル貼らないと話ができないわけで。
坂口がそう言おうが、太宰の面白さはやっぱ「フツカヨイ」だと思うんだよなあ。
>>389で書いたが、志賀の足りないところを太宰がうまく相補している気がしてきた。
これが志賀と織田だとあまりしっくりこない。志賀と坂口は、まあ補い合ってると言えばそうだけど、志賀と太宰のようなしっくりさはない。
志賀の描く登場人物と、太宰の描く登場人物は、同じ文化圏の人達って感じがする。
マザコンそのものやないか
>これを単に「マザコン」とレッテル貼りして終わりでいいのかな?
ラカンは母親の愛情をワニの口に喩えたりしてるから別に辻褄は合うかと。
それで終わりでいいんだw
まあ不勉強でラカンは知らんけど、なんかつまらんなあ
ああまあ確かに一般的な意味では「マザコン」と「破滅」は繋がらないかもしれないが、
精神分析の母子関係ってのは主体にとっては自己同一性を破壊するものになってる。
「マザコン」は俺が言い出したわけではないが、そういう意味だと読んでた。
なので「破壊の巨大な愛情」と言われても「ああ、マザコンだわなあ」と思える。
「マザコン」という曖昧な意味でレッテル貼りしてるのはむしろムーの方じゃないんけ。
おぉ〜ムーさん面白い
番頭と逃げた母親を持つ安吾だしね
突き放される、という感覚もそこから来てるのかなぁ
なにかと世間とは違う価値観を持つというか。
安吾の言葉や表現は倒錯していたり矛盾していたりするよね
それも、母親から見捨てられる、というようなところからくるのかな、とか。
まぁ、作家の私生活を根拠にするのは賢くないけどね
>>475 >なんかつまらんなあ
「精神分析はなんでもかんでもエディコンにするからつまらない」だなあ。ごめんなー。でもなんか今回は坂口自身が
「不良少年」って文脈で、フロイトに言及しているからおそらく自覚的に「太宰はエディコンだった」って言ってるわけだし、
って言い訳。
例えばあかずの家とかさ、実際入って調べてみたらただの廃屋だったりして、つまんないものじゃん。
あかずの家だからおもしろく語り継がれるわけだよ。
例えば「魔術としての酒」とかさ、自己同一性を分裂させる魔術として書いてるわけじゃん、坂口は。
「然し、酒をのむと、否、酔っ払うと、忘れます。いや、別の人間に誕生します。もしも、自分というものが、
忘れる必要がなかったら、何も、こんなものを、私はのみたくない。」
もしそういった「自己同一性を破壊するものとしての母性」を語るなら、酒も「母」だった、ってことになる。
ムーは感想アップしてないじゃん
人に文句たれてる場合じゃないよ
ある理論をある対象に適用するときは、その対象によって、
理論そのものがいくらかでも変容するんじゃなければ、面白くもなんともないんだな。
もし俺がラカンやフロイトの理論を安吾の作品に適用しようと思ったら、
それによってラカンやフロイトの顔が変わって見えるくらいのことはしたいよな。
もっとも精神分析って全然興味持てないんだが
けど坂口はこう言う。
「幼稚でも、青くさくても、泥くさくても、なんとか生きているアカシを立てようと心がけているのだ。年中酔い通すぐらいなら、
死んでらい。」
精神分析的な意味でのマザコンをよく描けてると思うよ。
コンプレックスとは本来は「複合的な感情」と言う意味で、まあ平たく言えば愛憎が混濁している感情を向けてることなわけで。
>>481 >理論そのものがいくらかでも変容するんじゃなければ、面白くもなんともないんだな。
実際のメンヘラを臨床すると変容しまくるよ。
小説はやっぱ情報不足だからねえ、どうしても。
なので、確定的な物言いは俺はしてないつもりだが。
>>479 暴走しすぎ
酒と自己同一性の破壊は無理があるよ
小説なんてあくまで文字だけだしフィクションだし、
だからこそ逆に精神分析理論を適用すると、作家側の顔が変わってしまう、ってのはあるかもな。
実際会って会話すればまた変わるかもしれない。
理論とか関係無しに人づき合いってそういうもんじゃねえの。
まあ俺も不勉強だから、「マザコン」というタームに、一般的に流布するステレオタイプを読み込んでるのは否定しないよ。
知らないことに口出しするのは危険だよなやっぱw
そろそろ感想かかんと
>>484 いや、文章として、坂口は酒を自己同一性の分裂として書いてるわけじゃん。
酒飲んだらすべての人が精神疾患的な自己同一性の分裂が起きる、などという話をしているつもりはない。
あぁミニハンが滑りはじめた
もう寝た方がいいぞ
お前、疲れてくると質が急に低下するからな
ぶっちゃけ俺も酒飲んでるし!
暴走勘弁。
>>488 よおくわかってるじゃないかー。
酒飲むとつまらないんだよ、俺。リアルだと無口になる。頭では色々考えてんだけどな。
宮台らしい物言いをすると世界の根源的未規定性に身を委ねる事への憧憬(=超越系)でしょ
ムー大陸の大好きなハンターハンターを例に取れば
「蟻に立ち向かう人間の姿こそが美しい」んでしょ。
俺は破滅的なヒロイズムは安易で嫌いだもん。
でもあれだよな、自己同一性を確定するために酒飲んでる奴もいるわけだし。
確かに乱暴ではあった。
俺も好き嫌いなら嫌いだがな。俺自身が「曖昧な破滅的世界」に陥るのは嫌いだ。
他人がそこに「落ちていく」のは興味ある。
どうやってもいつかは落ちていくもんだからな。毒ガス探査用のカナリアみたいなもんとして。
自己同一性の分裂じゃないと思う
誇大妄想とかに近いんじゃないか?酒は
誤った方向に自己が膨らむというかね
安吾なら自己同一性が分裂してるんだったら、そのまま
生きろというよ。変に自己欺瞞でもって己を偽ったり、正当化
しないで。
>>480 俺はローカルルール自体無視してるからな!
感想書いてるけど。
>>494 いやうん、確かにそっちのケースが多いとは思う。
でも「フツカヨイ」とかは「ああ私なんであんなことしちゃったんだろう」とかなわけじゃん。
自己同一性の分裂とは言いすぎだが揺るがしとしての「フツカヨイ」で、飲酒もそうだ、って話なんじゃないの、坂口のは。
逆に飲んで友人とかに嘘ついて自己増長させて「ああ俺なんであんな嘘ついっちゃったんだろう」とかなら、
「フツカヨイ」は自己の揺るがしだが、飲酒自体は自己増長になるよな。
まあ確かにこの辺は荒いが、酔っ払い風に書いてる文章だし、酔っ払いを演じてるなら酔っ払いの言葉として聞いてあげた
方がいいんじゃねえの。
>安吾なら自己同一性が分裂してるんだったら、
統合失調症のケがあるんじゃないの。
自然に分裂するもんだよ。主体ってのは。
飲酒っつーか悲劇に酔う意味のフツカヨイじゃねーの
王様ゲームとかわかりやすい「自己同定ゲーム」だよな。
主人のディスクールと一緒。主人も奴隷も、そういう関係を築くことで、お互いの自己同一性を確立しあっている。
>>496 悲劇=自己喪失ならそうかもなあ。
結局「人格とはパラノイアである」という通り、自己があることがすでに「三人の囚人」になるわけで、
それを人は汚らしいものとしてお互いに投影しあうわけじゃん。
フツカヨイだから太宰はおもしろいんだと思うがなあ。
でも、不良少年で、自己同一性の確立方向に進んじゃうんだよ。
そう言えば、ライトノベルの話してて、ハルヒのキョンとか「ラノベって受身な主人公多い」って話をして、
そのルーツは春樹だとかって話になったが、太宰だって言い張ってた奴がいたな。
自己同一性の揺るぎなら、モラトリアムとかそうなわけだろ。
モラトリアムとフツカヨイって似てなくないか。
罪悪感とか。
まぁ最初に戻るけど
坂口が太宰に対して二日酔いって言ってるのは
読者を喜ばすためじゃなくて自己弁護するかのような人間失格
という作品を書いた、という点を指している
まぁ見事、読者はヨウゾウと一緒になって二日酔いして喜んだわけだか。
てかねぇ、人間失格の前半部分はすごく良いけどね。
まるでドストの地下室の手記みたいだし。作中作という形式もね。
途中から太宰の筆が投げやりになってる感はあるけど
自己弁護なのかね、あれ。
まあ「彼をとりまく最もせまいサークルを相手に」喜ばれるの目的で書いてたらそうなるのか。
そのフツカヨイこそアウトサイダーアートとアートの中間だと思うんだがな。
「太宰は健全な常識人」とか言われなくてもわかってら、って感じだな。
いや、安吾のいう「フツカヨイ」って、
単に「弱い」ってことだよ。
アウトサイダー云々は関係なし
弱さでもいいけど
自己同一性の強さなら、結局はファザコンマザコン、要するに鏡像関係の強さだしなあ
>>471 >例えば安吾は東京大空襲に対して「破壊の巨大な愛情」という
>表現を使っているけど、安吾の夢見る母性とは、こういうものだったりする。
鬼子母神というのがあるじゃないですか。
つまり畏怖の対象が愛情に変わるわけです。
「人間は小さな侮辱には怒りを感じるが、大いなる恐怖には愛情を感じるものなのだ」(N.マキャベリ)
ただ、そうなると、存在としての母と当為としての母といった分裂が生じ、
これに応じて性もまた二つの様相を帯びる事になります。
矢田は後者の方(=当為)、つまり美化された聖女像にあたります(無論、普通の女なのですが)。
また、自身が父として妻(=母)に関わった際にその恐怖が再現されますが、
ここに道徳の起源(父性)が見出されるのではないでしょうか?
クロノスが自身の子供に対して抱く怯えとは
鬼子による殺害の予感からではなく、生そのものに対する怯えでしょうね。
復讐によって父クロノスを殺害したゼウスは法の措定によって
こういった生/性の混沌を拭い去る、と。
やはりどうもそういう精神分析的な解釈はさっぱり面白くないな。
つまり、A=Bである。表層の日常的な現象であるAは、実は深淵においては両義的にして神話的なBなのだ。
全く下らないよ。
そこには「運動」がない。単に静的で退屈な「〜である。」があるだけだ。
問題は「〜はクロノスだ。」「〜はオイディプスだ。」ではなく、その個々のクロノスやオイディプスがいかに動作するのかが問題なのに。
「箔付け」のために神話上の固有名詞を出してくる態度は
個人的にうんざりするばかりでなく、安吾を語るのに一番ふさわしくないやり方だ、と思う。
さりげなく安吾は述べる。
「病的な幻想以外に、(…)絶体絶命の場は、実在致してはおらぬ」
つまり安吾は、神話を拒否している。終局的な「〜である。」を拒否しているのだ。
だから一体何が言いたいんだよ
安吾が太宰を論じる態度も、結局はそういうことだと思う。
安吾にとって太宰の死は、何かの終局、結論、述語、神話、
つまり「〜である。」ではなく、ひょっとしたら避けられたかも知れない
偶発事に過ぎない。
安吾は、太宰の遺書が「体をなしていなすぎる。」と怒る。
まるで、上司が部下に、書類の不備を怒っているような案配で、
つまり安吾は死の「厳粛さ」というものに、徹底して抗って見せるのだ。
これが安吾なりのマイ・コメジアンなのは言うまでもない。
>>505 >その個々のクロノスやオイディプスがいかに動作するのかが問題なのに。
まあ、そうなんですが
坂口の場合は理論補強でフロイトを持ちだして
太宰を批判する割には自分がフロイトの図式にはまっているという事ですね。
また、彼が芥川や太宰を人間心理には通じてはいるものの哲学が無い、
という理由で斬って捨てた所までは良いのですが、
その哲学も実存性に根差した観点から殆ど斬り捨ててしまったわけですよ。
無論、そこで「生きる」事に根差した生の哲学を語り得ればいいわけですが、
であるならば、その前にキチンと省察をしなければいけない。
そうしないと現在巷間に溢れる自己啓発本程度の思想に堕すわけです。
というのは彼が指摘しているように人間は「便利さ」と「快適さ」に傾く生き物ですから、
この傾向性は自己欺瞞という形で端的に現れます。
スレの上ので指摘されていたウェーバーの価値判断排撃論とは
斯様な自己欺瞞を退ける為の精神態度であって。
しかし、坂口にはそこまでの徹底性はありません。
実際、「堕落論」はその程度(自己欺瞞を合理化する装置)
にしか受け入れられていないわけで。
まあ、彼もまた逃げているんですよ
ただ、その方向が自殺という方向ではなく
であるがゆえに自殺者を叩き、自身の精神的安定が確保される。
しかし、こういうのは文学や思想ではない。
安吾にあって太宰の死は、なりそこねの運動だった。
つまり「フツカヨイ」の「、」が、失速してたまたま「。」となってしまっただけの話なのだ。
安吾にあって「限度を知れ」というのは「生きよ」というのと同義である。
生きることは、始点Aから終点Bを目指すことではなく、単独の点=孤児として、つねに宙づりの運動をなすことだ。
我々は親の腹から生まれるのでも墓場を目指すのでもなく、
常に有限の線分上を生きるものだからだ。
やべえ落としどころがわかんなくなってきた。
終わり。おやすみなさい
うへ・・・曼荼羅仏教みたいな話
安吾が自殺者を叩いて自身の精神的安定を確保してる?
何を読んでるんだ君は?
513 :
江戸川:2011/10/14(金) 12:57:12.00
やっぱコテの話は面白い。名無しの話はつまらん。
>>513にはローカルルール持ち出さないの?
一回感想書けば別の感想でも批判していいってルールなのかな。
「不良少年でいいじゃないか」って話ならば。
ビルドゥングスロマンとかとは違うわけだろ。
でも通俗ってのはビルドゥングスロマン好きではある。
ぶっちゃけそれっていわば英雄物語なわけだけども、昔からそんなお話はあちこちにある。
通俗を味方にしすぎるツケってこういうのもあるかもな。
「堕落」を嫌がるのも「通俗」、ってことだなあ
>>510 >安吾にあって「限度を知れ」というのは「生きよ」というのと同義である。
それは学問万能論(理性中心主義と考えても良い)ではなく分限を知れと言う事でしょう。
人間と言う有限な存在(実存と置き換えても良い)というテーマが出てきます。
つまり、(有限な)自己が生きるという事に即して思考せよ、と。
であるならば、まず自分とは何か?という問いに即した思考をしなければならない。
坂口がよく言う「肉体の言葉」や「裸になれ」とはそういう事ですね。
理想(当為)から現実(存在)を裁くな、と置き換えても良い。
こういった批評は太宰、芥川、小林といった他者に対しては極めて尖鋭的なものとなります。
しかしながら、自身が取るべき態度となると支離滅裂ですね。
これは恋愛からの逃避などに典型として表れます。
それに彼は口で言うほど欲望や愛について思考してはいません。
母から逃げ、恋人から逃げ、家庭や子供から逃げ、その繰り返しですね。
何故、逃げるのか?何故、怖いのか?
逃げつつもこう思考するのが文学者なのですが、あれだけ豊かな教養がありながら
坂口がそこまで思考を徹底化する事はありませんでした。
上っ面だけなんですよね
>>518 >何故、逃げるのか?何故、怖いのか?
戦後の廃墟、つまり「堕落」に「享楽」を感じたからだろう。
自己なんて思考よりそっちに興味が向いてしまう。
そういう意味で戦後の廃墟というイメージは坂口にとって専門用語としてのトラウマになっていたのかもしれない。
そしてトラウマの回帰とは自己同一性を揺るがす。
坂口に自己同一性から回避するという傾向があるという点であれば同意はするが、むしろ逆に、なぜ
>であるならば、まず自分とは何か?という問いに即した思考をしなければならない。
のがわからないんじゃないだろうか。
なぜ自分はそうしないのか、「怖い」からではなく「つまらないから」だと思うがな。
>何故、逃げるのか?何故、怖いのか?
むしろ坂口は太宰に「怖がっててもいいだろ」=「不良少年でいいじゃないか」と言ってる文章に思えるな。
>>512 >安吾が自殺者を叩いて自身の精神的安定を確保してる?
この作品では太宰や芥川の自死に対して「生」の文学という態度が打ち出されています。
つまり、あいつらは死を選んだが俺は生きる、という事です
しかし、そこに確固たる思想が織り込まれず、批判のみに終始するのなら
友人の自死によって発生した動揺の副産物だと言われても仕方ないでしょう。
実際、論理の飛躍の多い坂口の批評でも本作における感情の振幅は非常に激しい。
これが自己の「生」を当然の物として生きている志賀による評論だと
実にあっさりとしたものです。
「死んだか」「弱いな」「まあ俺も悪かったな」「ごめんな」
だいぶ要約しましたが、ざっとこのような感じです。
しかしながら、自身が「生きる」という立場から言えばこれが正しいわけです。
自分は自分、他人は他人といった線引きがキチンと出来ていますから。
坂口の場合はというと、太宰の死に自身の生死という問題を見出している。
これは自他の境界がぼやけた典型例でしょう。
幼稚園児によくいますよ、殴った相手につられて泣き出してしまう子供が。
この作品にはそのような心理が窺えます。
>>518が「破壊の巨大な愛情」をわかってないだけじゃないだろうか。
単に「破壊の巨大な愛情」に惹かれるがままでいるだけが、自己同一性が見えないような症状になっている、と。
>何故、逃げるのか?何故、怖いのか?
これはむしろ
>>518の自問ではないだろうか。
>>522 >友人の自死によって発生した動揺の副産物だと言われても仕方ないでしょう。
仕方ないとは思わないな。
>あいつらは死を選んだが俺は生きる
は事実を述べているだけだろう。
自己同一性の維持とはそういう心理なだけであり、生体としての「生きる」と同一ではないぞ。
>>522 いや、「あいつらは死んだが俺は生きる」、じゃないんだよ。
安吾は死んでしまった太宰に本気で怒ってるわけだ。
「なぜ死んだ。死ぬことなんて全然なかったじゃないか」と。
あと安吾は太宰の死に自分の生死の問題なぞ見てないよ。
むしろ「なんでだ、太宰?」という溜息が、断定型の文章のそこここから漏れ出している。
それが読み取れないのかねえ。
君の論法はつまりは「弱者の論理」なんだよな。
「俺は他人の不幸を見ると自分と引き比べて安心を得ることができる。」「俺は他人の不幸を、常に、もし自分の身に起きたらどうかという視点で考えてしまう」
君が安吾に仮託して言っていることはこの二つだが、
つまり君は自分がそうだから、他人も皆そうだと決めてかかっているわけだ。
なんていじけた論法だろうか。
安吾はそんなこと一言も言っとらんよ
つまりは心理学とか精神分析とかは、ある種の等質性が前提となるのかな?
「どうせあんたも俺とおんなじ人間でしょ」的な
ファック!!
抜けた話のツッコミに終始するとか
理性ある文士の採る態度ではないな
>>527 >「どうせあんたも俺とおんなじ人間でしょ」的な
ラカン派なんかは分析家は徹底した個人主義を叩き込まれるらしいんだがな。
530 :
吾輩は名無しである:2011/10/15(土) 01:00:00.47
誤解しかないのが個人主義
誤解するだけで患者とのあいだに治療に必要な信頼関係が築けるかよw
転移=投影とは誤解なんだがなw
転移がすべてだと思ってるのがもう変
誰が「転移がすべてだ」と言ってるの?
治療に必要な信頼関係=転移、と解釈したんだが。
>>535 ちょwじょうだんでしょw
なんでイコール転移なんだよそこがおかしいっての
どうおかしいか説明しておくれ
>誰が「転移がすべてだ」と言ってるの?
と言いながらイコールで結ぶ点(これ「すべて」を意味するよね?)
手法の1つでしない転移がイコールで結ばれる(それがすべてとされる)点
うん、「治療に必要な信頼関係」も「手法の一つでしかない」わけだけども。
「治療に必要な信頼関係」の一部にすら入ってないけどね転移という一つの手法は
意味はよくわからんけどちょっと面白いね。この展開。
でも寝る。おやすみ
>>540 「治療に必要な信頼関係」を理論的に説明してくれないか?
信頼もそういう心理だ。
>>542 先に信頼関係を築いて、治療の現場に来てもらわんことには治療できないってのがまず最初にある
それがあってこそ転移等を利用した分析なんかもできるようになる。そういう信頼関係
あなたみたいなあからさまな誤解しか出てこないのが分析官だったら次の診察日に患者はもう来ない
スレチだしもうやめるぜ
>>543 それがラカン派なわけだが。
ラカン派は患者がデプレッション状態に陥ったことを重視している。
これは、当初は君が言ったように「分析家が何かしら治療してくれる」と思い込んでいた転移を裏切るからだ。
分析家は何もしない。ただ聞くだけ。
そういった状態ではじめてクライエントは自分の心を見つめることができる。投影無しで。
来なくなったら来なくなったでいいんじゃね。
そういった状態から精神分析は始まる。
つまり、クライエントがデプレッション状態に陥ること、孤独になる状態を、重要視しているんだ。
あるカルト宗教の心理カウンセラーをやっていた人の本でな、信仰心が強かったクライエントに、逆に部屋に閉じ込めさせて、
家族やカウンセラーの接触も制限する、って治療(?)をやっていたと書いていた。
これなんかクライエントを孤独にさせているわけだよ。
もちろんそんなのいわば逆洗脳じゃないかとか俺も思ったけどな、批判は承知してはいた。
ラカン派どころか精神分析派でもなかったけどな。認知療法系。
>>545間違えた、あるカルト宗教の脱会者の心理カウンセリングをやってた人、な。
あと、精神分析では「分析官」なんて言わないんだけど、君は何の話をしているの?
「分析家」でいいよね、意味は。
547 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2011/10/15(土) 03:12:29.94
読書会スレも雰囲気変わったな。
>>547 自分はもう関わらないと言っていたはずのミニハンが常駐してるしねw
一番数多く書き込んでるんじゃないかな。
良くも悪くもミニハンカラーが濃厚になってるんだろうねえ。
>>526 >あと安吾は太宰の死に自分の生死の問題なぞ見てないよ。
>むしろ「なんでだ、太宰?」という溜息が、断定型の文章のそこここから漏れ出している。
いやいや、俺は生きるよ戦うよ、と最後に書いているじゃないですか。
普通にその死を惜しむのなら自分の事まで語る必要はないわけです。
石川淳あたりは冷静にその死と才能を惜しんでいますよ。
しかし、坂口は自分の死生観についてまで語り始めていますから。
太宰文学の批評としてそこまで踏み込む必要はない。
死んだのは太宰(とその愛人)であり、
死因も定かではないのですから(山崎による無理心中とも言われている)。
まあ、坂口の批評には作品と作者の人格(エピソード等)、
そして読者としての自分の価値判断が混交した物が多いのも事実ですが。
で、この価値判断に彼が言うほどの理知は含まれて、ない。
うーん。。。
特に否定すべきこともないんだがいかんせんつまらないw
まあお達者で
めちゃめちゃ根に持つよね
名無しの一部はアセンションを気にしすぎだろ(笑)
アセンションも時々自演してるよな
にゃーおん
来週のお題は何ずら?
良スレだったのに、なんかここつまんなくなっちゃったね。
あーあ、かえってこないよなー
盛り下がってるな
なにがいけないのかねえ。
ところで安吾を考察するのに避けて通れないのは、「偉大」とはなんぞやという問題である。
「限度を知れ」と説く安吾は、徹底した現代人だったので、この時代にもはや偉大は存在せず、一見そう見えるものは単なるコケオドシに過ぎないことを見抜いていた。
「偉大なるもの」が生きながらえていたのはせいぜい十九世紀の頭くらいまでなのであって、だいたいベートーベンの代で終わっているのではないか。
例えば彼の交響曲の第三と第七の緩徐楽章などはこれは混じり気なしに偉大なのであり、
我々はなんの照らいもなくその偉大と苦悩に酔いしれることができる。
しかしフロイトの時代になるともうダメだ。彼がいくら神話上の英雄を引き合いに出しても、その重厚さはせいぜいシュトラウスのワルツなみである。
安吾はその滑稽さに鋭敏だった。
今度はフランシス・フクヤマか
「法隆寺をとりこわして停車塲をつくるがいい」
というのが「日本文化私観」の中心的テーゼだったが、
「不良少年とキリスト」(この題名からして、神話破壊者安吾の面目躍如たるものがあるのだが)
における太宰の死に対する眼差しも、これと同一のものだ。
安吾は言うのだ。
「もはや偉大な死というものは存在しない」と
「学問は、限度の発見だ。」という坂口の文章と、織田の「可能性の文学」って相反していると思うんだが、この辺ムーはどう思う?
もちろん同じ無頼派なだけで坂口と織田は違う思想だった、で済むんだが、この二人がここら辺どういう議論していたか、みたいなさ。
今日はこれまでで勘弁してやるが、
誰か次のお題を立ち上げて、ここをしっかり盛り上げるまでは、
いつまでも独演会を続けますよ。
俺が独演会をするスレは、ペンペン草も残りませんよ。
いいですか?いいですね。
このままの状態が続くなら、俺がこのスレに引導を渡す!
おやすみ
>>564 いまさら知ったんだけど「可能性の文学」は織田作の最後の作品だったんだね。
根拠のない推測だが、織田作は自分が本当に死ぬとは思ってなかったんじゃないかな。極限状態にあっても。
一方安吾は、いつか自分が死ぬであろうことを常に自覚していた。
その違いじゃなかろうか
寝ます!続きはまた!
>彼がいくら神話上の英雄を引き合いに出しても、
逆に神話の英雄を理論化しちゃったから偉大じゃなくなったと思うがな。
フロイトは自分が創始した精神分析をペストだと言った。
それは「偉大なる者など存在しない」と同じ意味だと思う。
「死ぬ時は、ただ無に帰するのみであるという、このツツマシイ人間のまことの義務に忠実でなければならぬ。
私は、これを、人間の義務と見るのである。生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。
そして、ただ、生きることのみを知ることによって、正義、真実が、生まれる。
生と死を論ずる宗教だの哲学などに、正義も真実もありはせぬ。あれは、オモチャだ。」
不良少年とキリストより
偉大なる作曲家死んで土の中
腐敗して溶けて分解して骨
「偉大なる者」とは、そいつの頭の中の誰かなわけじゃん。
例えばそれをソクラテスとするなら、ソクラテスの嫁クサンチッペは彼を「偉大なる者」だとは思ってなかったりするだろう。
「偉大なる者」とは印象による人格像にすぎない。
しかし人の頭の中には、例えばソクラテスを「偉大なる者」する心理がある。
この心理は無意識的なもので、この心理が織田の言う「可能性」を閉ざす。
それはいわば嫉妬深い神ヤハウェだからだ。
なので、もし可能性を保持するならば、それに自覚的でなくてはならない。
平たく言えば、「偉大なる者」が「可能性」を閉ざすのである。有限とするのだ。
では坂口の言う「限度」とは。
俺は彼が戦後の風景に「享楽の意志」を感じたと解釈する。
これは「偉大なる者」とは別の心理だ。ここでは「破壊の巨大な愛情」と言われているそれ。
「偉大な破壊」「偉大な物」と言い換えてもよいか。
そこは、「可能性」に最大限に開いている場所だ。「可能性」しかない。
その世界における有限。
つまり、「偉大なる者」(真善美などと言ってもよいか)の支配下にある「限度」ではなく、
「破壊の巨大な愛情」の上に作り出す「限度」、という話なのか。
まあわかりづらいだろうが質問した手前俺の考えを述べておいた。
坂口の作品って、批判じゃなくて、軽さ、軽妙さがあるじゃん。
織田の「六白」は、横紙破りなだけどどこにでもいる落ちこぼれな楢雄を描いて、「読者に放り投げるような形で問うている」。
織田が一人の登場人物でやろうとしたことを、作品全体でやるとすると、坂口みたいな軽妙さになるのかもな。
読者の感情移入を操作してこないような文体って言うか。
>>548 お前もめんどくさい奴だなー。
ここのローカルルールは俺の読書法には合わないが、俺の読書法の中にはここのローカルルールにあてはまるやり方になることもある。
ローカルルールにあてはまらない読書法を否定されるならもう来ないが、今は否定されているわけじゃないからな。
実際にローカルルール有名無実化してないか。
>>513のようにローカルルール賛成派もルール無視してるみたいだし。
アセが言っていたこのローカルルールの意味は、あくまでそのお題の本を話し合うためのルールなわけだが、
>>548のレスは違うだろ。
ルールは守っているかもしれないが、「本ではなくミニハンという人を読む」ことは君はしているわけだ。
つまり君は俺が主張した読書法をしている。
わけのわからん「空気」が支配してたころより、「人」に突っ込んだ会話がなされてると思うがな。
あの頃は感想を「美術工芸品」のように鑑賞しあってただけだろ。
俺からすりゃ、あの頃の参加者全員とは言わないが、一部の奴は志賀や小林みたいなことをやってたわけだ。
なのでちょっと文句言っただけ。
妙に賛同者も出て調子こいたこと、俺が知らないうちに出来たローカルルールを読んでなかったことは俺も認めるが。
でも無頼派vs志賀だからなのかもな。「人」に突っ込む議論になったのは。
「人間とは何か」って議論ではあるからな。
ムーと名無しの議論ももっとつっこんでほしいところではあるな。
俺個人はムーは今は坂口派だけど志賀方向に戻るタイプだと思ってる。
あ、一応言っておくと「感想を「美術工芸品」のように鑑賞しあってただけだろ。」ってのは別に単なる
「伝統」への批判ではない。人を読むスレに書いたので割愛するが。
その人の「想像の人格」である「偉大なる者」の支配下にある「限度」だけの会話になっていたからだ。
まあぶっちゃけファザコン、エディコン。それを多少揶揄ってた奴もいるが。
「可能性の読書会」ってどすか?www
ぶっちゃけ、「可能性」を主張する織田の頭の中にも「偉大なる者」がいたんだろうなあ。
坂口は無頼派の母だった、って言い方が精神分析厨な俺にはしっくりくる。織田も太宰もその子供。父は志賀。
ちなみに「破壊の巨大な愛情」って岡本太郎の
「人間は生きる瞬間、瞬間、自分の進んでいく道を選ぶ。その時、いつでも、まずいと判断するほう、
危険なほうに賭けることだ。極端な言い方をすれば己を滅びに導く、というより死に直面させる方向、
黒い道を選ぶのだ。」
ってのに似てると思った。
いや、織田か、これは。この「黒い道」が「定跡破りの一手」である「可能性」だと。
「フツカヨイの恥ではない人間の恥」や、「生きているだけが、人間で、あとは、ただ白骨、否、無である。」
という人間観と、「小僧の神様」などを書いた志賀の人間観はずれているだろう。
同じ単語の話をしても、この二人の議論はすれ違うだろう。
「人間」の意味が違うのだと思う。
意味、概念の厳密さを求めるならやはり哲学は便利な道具だ。坂口は嫌いだったようだが。
この、無頼派と志賀のあいだで(と概略する)ずれている「人間」の意味の違いを説明するに、
サルトルの「実存」は、理論的に符合する。
織田は実存主義者ではないと言っているが、志賀・当時文壇で主流だった「人間観」と、
無頼派の「人間観」についての差異を述べるために、あくまでヒントとして、サルトルの「実存」という
概念を借りたのだろう。
無頼派の中では織田は策士的存在だったのかもなあ。
卑俗なイメージでごめんなwww
木の根っこを見て反吐を吐くのと、フツカヨイの反吐は別物だ、って話なのか。
いや反吐は反吐か。
>神父に告白して安定する苦悩ならば、まことの人間の苦悩ではない。
この一文で如何に底の浅い人間か知れようというものだ。
志賀派はもうちょっと頑張れよ
>>575 人を読むとかなんとか意味わからんし興味もないしうざいからここじゃやめてくれよ。
ミニハンのつまらなさは異常
演劇畑なので「形あるものは壊れる」だから法隆寺は焼けていいと素で思っている。
が、別スレでも書いたが俺は伝統を否定しない。お能とか好きだ。岡本が槍玉に挙げた枯山水も嫌いじゃない。
ただし伝統に価値は無いと思っている。
問題は、伝統という事象に、自分の「偉大なる者」を投影し、何か特別な価値を生じさせるのが問題だと思っている。
つまり、伝統に何かしらの価値を見る人間側の心理が問題だと。
伝統そのものは、伝統そのものでしかない。
価値とは、物にしろお金にしろ、人間の頭の中で作り出しているにすぎない。
伝統に価値があるとするのも、そいつの頭の中の問題である。
そして俺は、そいつの頭の中がそうであることは否定しない。
ただ、そいつの頭の中で作った価値にすぎないそれを「普遍な人間性」などとすることには、反論する。
それはあくまでそいつという一サンプルの心理である。
>>579 雑談スレでも君じゃないかもしれない人に聞いたが、「底が浅い」ってどういう意味?
「神父に告白して安定する苦悩は、まことの人間の苦悩である」ってのが「深い」なら、俺からすれば、
結局はエディコン、原父への帰属、全体性の幻想への帰属、要するにファザコンってことになって
「底が浅いなあ」と思えるんだけどな。
まあ自分がそういう人である人にとっては、そっちのが「深い」のかもしれないが。
原父なんて常にすでに死んでるわけだし。死してなお、いや死すことでより息子たちを支配する父。
君がそういう人なだけなんじゃないか。
坂口より織田の文章の方が、「一般的な意味での人間」に丸め込まれにくいとは思う。
織田の早死には反志賀三羽烏にとっては痛かったろうなあ。
演劇とかそういうのに腐心するからね。台本だけじゃなくて演出までやればわかるかも。
ミニハン以外、みんなそうなんじゃ・・・
そうなんだ
別にそれでもいいけど
自分の興味を他人にあわせる必要はないと思ってるからなあ
多数決で人の興味の向ける先を決定付けられるわけでもない
次のお題はなーに?
言ったもん勝ちでいいんじゃない?
ミニハンには悪いんだけど、確かに話がツマンネ。
ミニハンだけは面白いのかもしれないけど…
叙述の類だから・・・読み手を想定してないから非常に要点が掴み難い
正確に言えば対話相手以外関心の無い人だから傍から見てるとわけわからん
流れ的に川端行きたい所だがまだ著作権切れてないんだな
川端は掌編が秀逸
無頼派は戯作を取り入れようとしたが、川端は文学者である前に詩人だった
ここに坂口と志賀の対立の、答えではなく肩透かしがあるように思える
志賀は好きだけど川端康成大嫌いなんです
ええ、なんで?
川端は人間をわかってる人じゃないから、かな。
感覚ですよ、感覚。
太宰もわかってる人。坂口は保留。織田はわかってない人。
いやまあ通俗小説だと思うけどさあ。
着目するところがこう、冷酷無比な感じが。
マンガでは捨てゴマってのがある。少女マンガやあだち充なんかが多用したが、あらすじから言えば何の意味のないコマを挿入する。
そのバランス感覚が上手いなーと思ったんだが。
糸井重里とかコピーライターとかと同じ感覚ではあると思うんだよな。
読者の弱点をピンポイントで突く、っていうか。
あらすじって意味の流れだけど、ここで意味を途切れさせたくないってところで少女マンガ的捨てゴマを使う。
実はこれ押井守と似てる作劇術だと思ってブログに書いたことがある。反響ゼロでしたが。
ああ、人間をわかってるかどうかは考えてなかったわ。
川端の文章はELIZAみたいなもんだ。
>>594 やっぱ多分、「人間観の違い」ってあると思うよ。
俺とか坂口保留で、太宰はまあわかってる人だが、川端織田は、一般的な人間性とかそういうんじゃない人間を分かってる人だと思う。
川端はこの辺にしとこか。
青空にないし。
川端は実存系だと思うんだよな。
それで社会的にも成功しているのがすごい。
>>594がもし人を読むスレで俺と議論してた人だったなら、ものすごく君に興味が沸く。
ここまで正反対なのは俺もはじめてかもしれない。
同じ「新感覚派」のくくりで横光とかどうかな
お前この流れをまだ継続したいのか
横光だめなんだよなw
まあ批判で荒れさせるのも面白いが
新感覚派ってさー、ぶっちゃけ少女マンガだと思うんだよ。
でも少女マンガの中にも、読者に感情移入させておきながら置いてけぼりにする、オイディプス王な古典的悲劇系と、
「好きな人とラブラブになっちゃった!」ってニ系統があると思うのだよ。
川端は後者に陥らず、ハスミン言うところのロマン主義に陥らず、ってバランスがすごいと思う。
もちろんそれは坂口とは正反対。
横光いくなら足穂とか行ってくれたらめんどくさくないw
こう、いろんな人間観の中庸って意味なら、太宰も横光も変わらないと思うんだよね。
中庸の苦しさってのがこの二人の面白さでもあると思うし。
技巧ってのが俺はよくわからないが、読者の多様な価値観の刃物の上を歩くような緊張感は、
志賀には0で、刃物を「刃物だ!」つってるのが織田で、「切れちゃえばいいんでしょ」ってのが織田で、
「そういうもんだからごちゃごちゃ言うない」ってのが坂口で。
川端は綱渡りの芸人みたいに、その刃物の上を歩いている。
「伊豆」とかではわからなかったが、掌の小説見てそう思った。
川端は小説家というより詩人だ。
横光はどっちかってとガラスの仮面の人っぽい。
でもそう地に足が付いてない感がいい。
>「切れちゃえばいいんでしょ」ってのが織田で、
これ太宰だわ。
あくまでこのスレの流れの中での話。
新感覚派って映像表現に近しかったわけで、雑談スレでも文字表現より視覚の方が情報量が多いって話になってたけども。
結局視覚も文字も、人間の頭の中のパターン化という機能による情報圧縮機能の問題なんだよ。
横光の文章は、横光という人間の認識パターンから逃れられていない。だから彼がいくら映像やっても彼の思想が反映される。
川端もまあ同じなんだが、詩人的才能、つまり、例えば人間鏡を見たら自分の姿をまず認識するってパターンがあるだろ?
それを真正面に否定していないが、鏡の表面にできた自分ではない曇りなど、川端は表現しそうじゃない。
で、この通常の認識パターンではない認識方法って、詩の世界では重要なのだよ。
いやもちろん今のみんなミスチルだとかそういう詩じゃなくてな。
伊藤比呂美などは、女の目線で、女もわかっていたであろう、なのに言えなかった視点を言語化する。
川端は小説家じゃなくて詩人だったと思うんだよ。
こう書くと某フェミアホ女が新感覚派とフェミを繋げていたのを思い出したので自分でいやになった。
スルーしてくださいすみませんでした。
というわけで横光いこう
ごばた
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1318761912/151 でもあれだよな、ライトノベルレベルですら、「無駄な描写が多い」って言われてるわけで。
捨てゴマって無駄な描写なわけだろ。
ライトノベルとかは物語を速読する効率性が求められてるってのはあるだろうけどさー。
でもその効率性を否定しようとしても保坂和志とかにならざるを得ない。
なんかさー、坂口とかキワモノを逆に神聖視しすぎなんだよ。
坂口も太宰もバカ、不良少年。
これでハードルがあがって男子の不良少年が出てこないわけじゃん。中原とかはがんばってるけど。
女性作家の方がほんと今はおもろい
>>551 ここへは最近はたまにしか書き込まないから目立つのかな。
>>555 どこで?w 疑心暗鬼になるんなら全コテ制にすれば解消されると思うよ。
>>574-575 久しぶりに来たマグナに変化を俺なりに説明しただけ。まあ気にしないでくれ。
それから、以前から書いているようにミニハンという「人」には興味がないw
横光は映像をやってる人には面白い作家じゃないかと思う。
いや、横光の映像っぽい描写はちょっとあざといんだよな。
あまり感心しない(横光の作品そのものはきらいじゃないんだが)
映像ってことで思い浮かぶのは牧野信一だな。
あれはいい
いいの?
俺はいいけど
なんでもいいけど一区切りついったっぽいので言ってみた
じゃあ仕切って悪いけど多数決だな。
横光でいいか悪いか、先着五名様に投票してもらい、OK三票以上なら横光で。
それ以下なら再考で
そんなめんどくさいことするならいいよw
いいや、事態は既に君の手を離れているのだよ。
あとNGに投じた人は、できればそれに代わる案を挙げてほしいな
わかったw
半分ぐらいしか読んでないけど
これラノベじゃねーか
お題出した俺がまだ読んでないというのにw
ほら話はまだコテ戻してないのか
ミニハンはハズレが大杉。読めない奴だなー。
おーい。
誰も投票してくれないから「機械」に一票
もう決め打ちでいいんでない?
というかスレッドストッパー帝王の俺が仕切るって流れが
そもそも間違ってるんだよな。
しばらくROMモードに入ります。
バカすぎるな
これだからテクノカット世代は
おとなしく大林宣彦でも見てろおまえは
628 :
忍法帖【Lv=28,xxxPT】 (´・ω・`) ◆hesl6eItdY :2011/10/19(水) 23:36:31.22
じゃあ俺も機械に一票
おお、しょぼんさんきた
おれも機械に一票
おまえら、いっぱい本を読んでるんだろうけど、
レスがすごくアホっぽいんだよな
つまらんことをペダンな文体で語るからだわ
たくさんの読書からペダンしか吸収できなかったの?
そんな伸ばし方ナイで君
みんな飽きた?
読書会ってちょっとデカダンスなとこあるよね
ロゴスとパトスって言うかさ。弁証法的に止揚されるにはペダンチックすぎるw
レヴィ・ストロース的唯物史観のアイデンティティ確立されてないし
もっと生の哲学の面からコンテクストを抽象化していかないと
まあここらへんは実存的にはパラダイム入っちゃったかな
ヘーゲル的歴史観に立つ俺からすれば
テロスがニヒリズムに否定され得るアポリアだとして
そのドラスティックなヒューマニズムの上にアジェンダを
構築することがアルチュセール的構造主義における、ミームだ。
いずれにせよ、ケイオスティックな人間存在における経験をテクネーへと、
普遍へと、止揚することが、デカルト的パラダイムの
モダニズム的出発点だ。
エピステーメー的に論考すれば
リングイスティックターン以降の日常的言語学派における
アフォーダンスをシラバスにおいてエキュートすることが
アカディメイアのタスクだと思われ
さもなければ想像の共同体は
サイバーカスケードの上にもろくも崩れ去ってしまう。
>>633 知りあいの哲学オタにそのコピペ見せたら、
なにが示唆を探そうとして、小一時間ぐらい悩んでたわ
もう横光いいから次ないの、次
>>634 何も意味してないことをまっさきに読みとろうよ
くだらん
ざっと見たけどこれ星の王子様なんじゃないの?
ニ次大戦の死者の数がどうのこうのとかのアレでしょ
>>635 >>637 ご想像のとおり、典型的な近視眼野郎だよ、そいつ
ほら、タイタニアのデ・ボーアの劣化版みたいなやつ
なに、次のお題は横光? 「機械」って、そんなに長くないんだ。てっきり
長編だとおもってたわw はーい、俺も「機械」がお題ということで異議なし。
アセンションの犯罪ってこれね。この人堅気じゃないから。
罪悪感もまったくなかったらしい。
480 : アセンション ◆DHEKuXMiDGdO : 2011/06/10(金) 20:59:05.71
>>436 18になってたかな。無免許だけなら大したことなかったんだけど
空地に転がってたバイクからナンバープレート盗んじゃってさ。
無免許運転、不整備車両運転(車検なしバイク)、ナンバープレート窃盗、
この3点で簡易裁判になったよ。
アセンションも犯罪者かよ
文学板のコテはクズばっかりだな
青空図書館ちらちら読んでいるが、林芙美子が今読んでおもしろく思えるのが不思議に思った
「貧しい人たちへの愛情あふれる視線」とか書いてあったから、「キモチワルー」と思っていたのだが
林は貧しい人たちへ愛情なんて持っていなかったんじゃないか、と思える。
作者と登場人物との距離間が。
愛情あふれる視線、などではなく冷めた視線を投げていたんじゃないかと。
「機械」提案したの俺だけど、これ感想書きづらいなあw
すまんかった
機械の体がほしいよメーテル
648 :
メーテル:2011/10/26(水) 20:09:15.98
ネジでもいい?
そういやねじ巻き少女って面白いのかね
>>649 石油枯渇&生態系破壊後の近未来環境SFだね
設定やアイデアはおもしろかったけど
話はいまいちだったな
本で気持ちよくランデブーを楽しみたくなる時はさ、
ほとんど一般文芸なんて手を出せないんだよね
女やランデブーに何かとプロットが付きまとうからさ
ご都合主義のライトノベルはそういう意味で貴重、だから売れるんじゃねえの
機械ですか。読んでみましょうか。
>>651 ねじ巻き少女のこと言ってるならラノベじゃないんだけど
「機械」は難解ってこともないけど論じるのはかなりやっかいな作品だと思うよ
お手並み拝見
>>653 だから、逆の意味でとればいいんじゃないのかな
ラノベかあ。
「ある日、爆弾がおちてきて」の女の子が時計のネジを巻いて生きていたような。
てかその女の子、爆弾なんですけどね。
657 :
ムー大陸 ◆DMnIjpZYd2 :2011/10/28(金) 00:27:18.60
俺にできるのは、このスレをせめてageてやるくらいのことさね
>>656 それどこぞのSF傑作短編選集に入ってたな
デートしてどきどきがMAXになると爆発する爆弾女の子の話
かなりシュールで切ない話だったきがする
659 :
忍法帖【Lv=33,xxxPT】 (´・ω・`) ◆hesl6eItdY :2011/10/29(土) 02:16:36.39
シュールですねえ。
最終兵器彼女みたいな感じ?
違うかwww
ところで、アセンションはどこいったの?
尿結石で入院してる。
なんか読もうよ。超短いやつがいいんですが。
またカフカ読みましょうか。
「皇帝の使者」。あまりに短くて語りにくいかも。
>>656>>658 その設定、デジャヴュ感があると思ったら、吉田戦車の漫画だった。
生物爆弾いじめてくんと火星田マチ子さんのラヴロマンス
>>659 いるよ〜w しばらく離れてどんな感じになるか見たかった。
こういうのはお題を出す人がある程度引っ張って行かなきゃね。
それで足りない時は、誰かがサポートしてあげないと。
汗がニトログリセリンの女の子主役のマンガ「危険がウォーキング」とか。
誰もまだ「機械」のまとまった感想あげてないのか。
じゃ、とりあえず俺の感想あげとく。
小説のかきだし、「初めの間は私は私の家の主人が狂人ではないのかとときどき思った。」
いきなりこれかよーと思ったな。これが新感覚的な書き出しってものかと。
小林秀雄も「横光利一」で、この作品を論じていて、賞賛してるね。しかしその批評の
書き方は非常に難解というか、わかりづらく、谷沢永一が小林の「機械」評をとりあげて
支離滅裂とけなしていたが、さもありなんだ。もっとも小林自身も、あとで自分の初期の
批評読み返して何が書いてあるのか自分でも理解できなかったと述べてたりしたな。
まあ、当スレの名無しの評価にも論ずるのが難しい小説であるという評があったな。
とあるネームプレート工場につとめている男の一人称小説であるのだが、小説の主人公は
このネームプレート工場という機械であると、一読して感じたな。新感覚派が世に出た
時代は、だいたいプロレタリア文学と同時期で、日本社会の工業化が徐々にすすんでいき
それにつれて発生した様々な新しい社会関係が新しい小説の題材となった時代であるね。
そういう新しい社会関係を小説の題材とすることに先鞭をつけたのは、プロレタリア文学で
あるが、この「機械」という小説もまた、化学工場という新しい社会組織を小説化することを
めざした作品といえよう。 工場で働いている自分、おひとよしな主人、暴力的な軽部
男前の屋敷などの人物が、工場のなかで相互作用する様子がえがかれるのだが、それは
工場における様々な物質の化学反応と等値されるような刺激→反応の過程で、この工場と
そこで働いている様々な人間全体が、あたかもひとつの機械であるかのごとく、作者の目に
映じているかのようだ。
ゾラの小説を評して、生物の描写に死物を感じ、死物の描写に生物を感じるといういいかたが
あったが、この小説からうける印象を表現しようとして、そのフレーズを思い出したな。
機械というのは、正確に作動することがその取り柄で、主人公の私も、工場というひとつの機械と
だいたい同調してすすんでいくね。ところが機械装置の作動の順調性は、最後の殺人事件によって
破綻することが暗示されておわるな。 主人公の私は、自分が殺人をしたかあるいはしなかったのか
どうか最後まで確信をもてないらしいのだが、動機は十分なものがあるな。軽部と屋敷の両方に
殴られて、両方に怨みをもっただろう。屋敷を毒殺して、軽部にその罪をなすりつければ、怨みの
ある両者をともに破滅させられるね。 要するに、機械装置の動作を混乱させるのは人間の
感情であると、何か作者のドヤ顔を感じてしまう、そんな風な意外性がそれなりな落ちでした。
「機械」は創文板でも文学好きの奴らが昔、雑談スレで挙げて読んでいたな。
「機械」つーことを一介の主婦が会得するっつー話。
でもオチは土瓶で殺人なんでしょう?
機械ってもモラルの低下はいくない。
小説にも書いてあるが、化学工場につとめると体悪くするらしいね。横光が「機械」を
書いたときはそうだった。戦後もしばらくもそうだったらしいし、いろいろな規制が
厳しくなった最近でもそんな話を聞いたことがあるな。
小林がこれもちあげたのは、プロ文にまともに対抗できそうな新しい小説家は
横光だと考えたからじゃないかなぁ。
錬金術ったらグノーシス派とか新プラトン主義とか機械論とかだよね。
いまでも昔、工場だった土地からはシアンとかクロロホルムとかセシウムとか出てくるよね。
錬金術といえば、ユングだなあw 中世の錬金術の研究者。 錬金術ばかり
研究してたから、オカルト認定されたんだよね。 「心理学と錬金術」とか
「結合の神秘」なんかで、中世の錬金術について博大な研究をくりひろげてたな。
コリン・ウィルソン曰く、地下の大王だ。
>>673 そうだねー、築地の移転問題でも、新移転地が東京ガスの跡地だってんで
土壌汚染が大問題になってたな。
>機械というのは、正確に作動することがその取り柄で
それ機械触ったことのない奴の考えだと思うがなあ。
実際機械設計とかやってたら、機械は言う事を聞かない。むしろ人間の方がよく聞く。
だから常に保全が大事になる。
まあ買う方は「保全なんてするくらいなら売るな」となるわけだが。
工場なんてのは人手が機械化されている場所なわけだが、機械と人間とでメンテの仕方が違うだけ。
人間のメンテがQCサークルとかそんなんなわけだ。
機械は正確に作動なんてしない。故障するのが普通。
ユーザーはそんな風には絶対思わないが。
こういう考えも資本主義が原因かもな。
ラストの殺人も「機械の故障」と読んでみては。
>>676 工場の主人がよく金を落とすとか、そういうのも工場という機械がトラぶってると解釈
できるな。そしてトラブルは解決せねばならず、再度、正確に機械を作動させるべく
メンテは常に必要なわけだ。作動の順調性は、様々なトラブルに対応する定期的な
メンテに支えられているともいえる。
ところが、最後の殺人というのは、メンテ不可能な破綻なんではないか、それまでの
トラブルとは質がかなり違うように、俺には思われたんだな。
>むしろ人間の方がよく聞く。
だから機械が故障しても人間の方に文句言うわけだ。
機械に言っても無駄だから。
こういった「機械というのは、正確に作動することがその取り柄」って考えが、
「脳は物質だから心は必然にすぎない」
って考えになると思うんだよなあ。
命題からしてわけがわからんのだよな、これ。
機械は故障するのが普通と考えるならば必然にはならない。
>メンテ不可能な破綻なんではないか、
基本的にメンテ不可能なんだよw
だから機械というのは未来永劫メンテしなければならない。もし「正確に作動」させたいなら。
メンテ不可能になったら「壊れた」となって別の機械を買ってるだけ。
>>669 >ゾラの小説を評して、生物の描写に死物を感じ、
>死物の描写に生物を感じるといういいかたがあったが
それは面白い引用ですね。
確かにゾラの「居酒屋」には都市やスラムを有機的な機械と捉え、
そこに居住する人々が卑小な生き物に還元されて行く過程が描かれています。
実際、田舎から上京してきた美貌の女主人公は夫の死後に
同じように発狂し、野猿のように扱われて飢死するわけですから。
横光の描いた工場小説にも似たようなモチーフが含まれているのですね。
そういう意味ではマルクス的な状況認識なのかもしれません。
まあ、最終解としての革命による展望などはないのですが。
話は変わるけど、銀河鉄道999とか、主人公は「機械の体」を求めて旅に出るわけじゃん?
あれが小学生の頃から意味わからんかったんだけど、「必然」なり「正確に作動する」というファンタジーを求めて旅に出た、
と考えればすんなりビルドゥングスロマンの公式に当てはまるわな。
「必然」は「機械」じゃなくて「数学」という記号群だと思うんだがな。
なんかこう、俺の言ってること悲観論だと言われがちなんだけど、機械って故障するからおもしろいものだと思うんだよな
悲観論なのかー、って感じ
機械の体ったら、頭痛とか胃痛とか鼻水鼻詰まり節々の痛み全身のだるさといった諸症状から脱却できまいか。
化学の式ってあるじゃん。
何を成すためには何と何を足したり熱を加えたり触媒をしたりしないといけないとかのレシピ。
その結びつきの蓋然性を「機械」と言ってるんじゃないのかな。可能性じゃなく蓋然性だ。
その日、土瓶を作業場に置いたのもそれを水と間違って飲んでしまったのも必然だった。
その結果を導いてくものを意識しはじめた主婦は「機械」つー物の見方を獲得したつー。
その「機械」。
言い換えるとなんだろう?
で、やっぱり普通の感想を書き難い作品なんだけど、俺は「登場人物の心理解釈をしろしろしろ」って言われているみたいに感じる。
そう言えばこの乾いた感じは、いわゆる症例報告書にも似ている。だからか。
やんないけどw
読んでてしんどかった。あれやこれやって理論が頭の中に浮かんで。
改行してないせいもあるけど。
報告書とか症例をただ並列に挙げていくだけなわけだけども、句読点のない文章がそういう風の思わせるのか?
ごめんよくわからない。
ラストとか「心理学的にどうなんですか?」とか理屈付けたくならないか? ならないか。
でも心理学やってると「この犯罪はなぜ起きたんでしょう」とか質問されるんだよ。
いや俺は別に犯罪心理学やってるわけじゃねえし、っていつも言ってるけど。
理論付けられるのが「正確な作動」と定義するならば、まあ「人間の心という機械」を正確に書いている、と言えるのか。
いや理論付けてないからわかんない。
「理論付けろ」と言われているみたいだ。
ラノベって言われてるけどラノベの方が読んでて楽。
ご都合主義って楽なんだよな、なんも考えなくていい。
俺苦手だわ、これ。
横光自身は結構ご都合主義な気がするけどもなあ。
「機械」ってさ、語り手を含め登場人物全員基地外で行動の意味がさっぱり伝わらないだよね
人をスパイだとか疑うけどネームプレート製造所からいったい何をスパイする必要があるかわからん上に
それを疑う理由すらもさっぱりわからん
それぞれの行動の理由、動機付け、原因と結果までがことごとく破綻してて意味不明
筒井康隆あたりはこれにスプラスティックというか、ダダイズム、シュルレアリスムを見て
ドタバタ劇の理論的基礎とそのナンセンスぶりを描写する手法を学んだと言ってる
>頭痛とか胃痛とか鼻水鼻詰まり節々の痛み全身のだるさといった諸症状
が「機械の故障」じゃん、医学的に。
「故障しない機械」を擬人化しているだけだと思うが。
俺はそんな機械見たことないからわからない。
それ「機械」じゃなくて「永久機関」みたいなものなんじゃね。
鼻水だって結果的にはウイルスから身を守るものだったりする。
SFだけの話だった自己修復機能もしょぼいが実際に備えている製造機械が出てきたしな。
人間という機械は、故障はするけどもやっぱ偉大。
物質論として簡単に理論付けられない。少なくとも現代は。ミクロコスモスって奴?
「脳は物質だから心は必然にすぎない」とかただの未来予想図、妄想でしかない。
二足歩行なんてすげー工学的にややこしいんだぜ、だからアシモの歩行プログラムとか一千万ぐらいで売られたりした。
いやペイできてないと思うけどw
夢だよ夢。技術者のジコマン。ガンダムとかアトムとかって(実際にホンダの技術者がそう言及した)。
>その結びつきの蓋然性を「機械」と言ってるんじゃないのかな
だからその「蓋然性」があるのは化学式という記号群であって、実際の物質は不確定性原理などと言うように蓋然性はない。
まあでも俺大学物性物理だったけど、化け学は苦手だったなあ。暗記科目だと思ってた。
つか自己レスだけど
>「必然」は「機械」じゃなくて「数学」という記号群だと思うんだがな。
数学も不完全性定理なんてのがあるわけだけどな。
俺の感覚として、な。
群論よくわかりまちぇん。
>語り手を含め登場人物全員基地外で行動の意味がさっぱり伝わらないだよね
そうそう!
だからむしろ精神医学的な症例報告書のようにも見える。
アシモとかCM現場でも故障したらしいぞwww
永久機関つーのはいいタームだ。
平行運動する二本のラインを思い描いてそれらが組んず解れつしながら永久に交わらないつー奴な、「機械」つーのは。
物や事には「機械」が潜んでるっつーことに気づいてしまったんだろう。たぶん。
永久機関って機械じゃなくて妄想だろ。
なんか
>「機械というのは、正確に作動することがその取り柄」
>「脳は物質だから心は必然にすぎない」
ここら辺にこそ文系と理系の話の噛み合わなさがあるような気がしてきた。
あ、ごめん俺個人の話だった。
だいたい現在の機械ってさ
操作、指示、メンテに人間系がぜったい必要でさ
長期間ほっといて自律動作するたぐいのものではないんだよね現実はさ
機械とは仕組みとか働きとかじゃないのか、なーんだ。
物質として考えてなかったなあ。俺だけ?
でも
>金属を腐蝕させる塩化鉄で衣類や皮膚がだんだん役に立たなくなり、
これとかほんとそうだよ。
普通の作動油とかでもかぶれるし皮膚が変色する。
>>694 >機械とは仕組みとか働きとかじゃないのか
それを表現するのが数学だったり化学式だったりするわけだ。
それと実際の物質は別物。
>物質として考えてなかったなあ。俺だけ?
いや、大体の人間がそうかと。
ユーザーという脳はそういう風にできている。
>物質として考えてなかったなあ。俺だけ?
このユーザーの非現実的な考えに技術者はいつも苦労している、ってわけ。
イメージを共有させよう。
アシモ、時計、テレビ、工業製品工場の生産ライン、鶏肉生産工場…。
さあどれが機械かえらべ。
例えばシャーペンは海外ではメカニカルペンシルつーらしい。
機械的な鉛筆なんだね。そのメカニカルを「機械」って言うんだね。
機構的にっつー働きを言う。物質じゃなかんべ?
機構をメカ、電源や信号線をエレキ、制御系をソフト、って言うよね。たぶん。
純粋な機械って想像上のというか概念でしかないお
設定図に書いてあるできあがってないやつ
で、永久機関を作れない「仕組みとか働き」を論じているのが機械工学。
>>699 全部機械じゃね。
その中に永久機関はない。
他人の妄想を共有するのもめんどくさいもんだぜ。
俺永久機関の意味わからないし。見たことないから。
「その間に一つの欠陥がこれも確実な機械のように働いていたのである。」
故障だって機械の「仕組みとか働き」の一つだよ。
技術者からすれば。
むしろ欠陥や故障の方が先に理論化されていくもんだ。
複雑な製造機械になればなるほど故障の原因を探るのは一種の推理ゲームとなる。
人間が、この主人公がしている心理推理ゲームと同じ。
鉛筆だって炭素分子が紙に付着するという「仕組み」だろうよ。
いやごめん適当に言ってるけど。
墨の分子は平面構造だから、ダイヤモンドと違って剥がれやすい、だから紙に写りやすい。
>人間が、この主人公がしている心理推理ゲームと同じ。
この主人公の言う「急所」だな。
これは現場では「正確な作動」ではなく欠陥や故障の方が先に理論化されていくのと同じ。
故障解析の手法に沿ってやればいいじゃん。
何でもマニュアルあるじゃないか。
俺に「この犯罪はどうして起きたのか」と聞いてくる奴も同じだろうよ。
犯罪という人間の故障。
>>708 マニュアル化されてないから故障となるんだがw
大体だな、製造機械とかオーダーメイドだから、ある程度の原理的なマニュアル化は可能だが、
現場で帳尻合わせするもんだ。
精密機械ほど品質管理が難しいってのと同じ。
人間の体だって精密機械だ。
心はそれと比べたら簡単な機械だけど。
つか
>>700が意外すぎてどうでもよくなった
君はそう思っておけばいいじゃん
ユーザー脳で
故障解析の手法つーものをすればいいじゃん。
手法てもんは手法なんだから。
手法は取ってるよ。俺もこの作品を読みながら精神分析理論という理論を頭に描きながら読んだ。
しかしそれと物質は別物だっつってるの。
故障解析は確立された手法なんだから手順に従ってけばいずれは故障箇所がみつかるっつー。
その確立された手法ってのが何かなんだろうね。メカニカルな何か。
結局このスレはアセンションがいなくてもNがいれば成り立つんだね
ほどんど読書会になってないけどね
もう終わりじゃねこのスレ
いまだにこのスレにへばりついてるやつカワイソウ
ムーとかNとか
>>715 確立されてたら故障なんてなくなってるだろwww
結構いきあたりばったりに保全してるもんだよ。人間は機械に対し。
「なんでかよくわからないけど動いた」ってこととか正直言えば多い。
君の妄想のマニュアルを論じられてもなあ。
俺はそんな「いずれ故障箇所が見つかるマニュアル」なんて見たことがない。
つかマニュアルを作るのが設計者の仕事でもあるんだけどなwww
オーダーメイドだから設計した本人が書くしかないっつう。
設計ではほとんど使わないフォトショとか覚えたわ。
懲り始めるとおもしろくていろんな書体使ってみたりな。
品質管理も設計もやってたから苦労はわかる。
そんなマニュアル作れるわけねえだろ。
予想外の出来事だから「故障」なわけだし。
金属疲労とか構造解析で「大体壊れやすい部分」は予測できるがいつも違うところが壊れる。
君の言う「メカニカル」とは君のイメージ論でしかない。
そんなものに付き合うのは疲れるよ。
君のイメージなんだから君が好き勝手に言えるわけだし。
多分君はモデルと設計を履き違えている。君の言う「メカニカル」はモデルじゃないのか?
モデルは簡単だよそりゃ。マニュアルでいくらでも言える。簡素化することをモデル化と言うんだ。
モーターだって色んな種類があるがモデルは単純だ。
モデルは実体をそれほど考えなくていいが、設計は実体と格闘しているもんだ。
ああまあソフト畑ならモデル主義になるのかもしれんが。
モデルなんて(本来の意味での)方便にすぎんよ。
>>717 とうほぐのひど?
>「なんでかよくわからないけど動いた」ってこととか正直言えば多い。
まあこんなん上司も客先も納得しないから適当なこと書くけどさ。
適当と言ってもまったく的外れなことではなく。
つか上司から「「おそらく」を使いすぎだ」とか注意されたことがあるわ。
どこの分野の人?
ライン?品管?出荷?
設計だとしてもどこよ?
俺が理系に見えるかな?
理系じゃないんだ。
それで「メカニカル」とか語ってたのね。
SFならSFで話そうぜ。
俺だって小説読むんだから妄想を一概に否定はしない。
脳内妄想系だとおもうよ
ごめん、すごい失礼な質問かもしれないけど、園児って永久機関は存在しないってことを知らなかったんじゃないのか?
エントロピーだよ。
設置スタッフか。
なら故障解析くらい自分で身につけろよな。てかムダな手配をするなよ。
さっさこ設置してスタートアップしたら何週間も居残りせず帰ってこいや。それか顧客先にずっと張り付いてろや。
鉄骨とかと同じクレーンで搬入したりすんだぜ?
精密機械を。
すげー揺れてる揺れてる、ぶつかってるぶつかってる、って思うと思うわ。
俺も最初行った時びっくりしたもん。
こんな適当に扱ってるのかって。
ミクロン単位の設計して作った物が。
一回搬入口から入らなくて建物ハツるか機械ばらすかって大喧嘩したこともある。
建物ハツってもらったけど。
そんなレベルだよ?
君らが今使っているPCの半導体を生産する製造機械なんて。
>>728 設計だっつーに。
お前設計と現場は別物だと思ってるのか。
技術者が現場いないと認可降りないんだよ。
まあ品管もやったけど。
あ、予算の範囲内でなwww
建物ハツるで正解ですなあ。
いやあ梱包の寸法も決まってるのになんで工場搬入が困難になるか疑問だよな。不思議。
>>733 不思議だよねえ。
損したのはゼネコンだからどうでもいいけど。
もしかして製造会社が建屋も作ってるとか思ってないよね?
「不思議」なんて言ってる暇あったら問題解決しろって話だわ。
実際に起きたんだから。
「事件は会議室で起きているんじゃない!」ってか。
笑いがとまんねwww腹イテエwww
園児って学生さん?
ねえねえ、永久機関は存在しないって知ってた?
つか園児は製造会社勤めたらびっくりすると思うわ。
機械設計は現場行くのが普通。
工場にも設置現場にも。
時給は職人の方が良かったりするし。サービス残業考えたら。
何の話をしてるの?
「機械」の話。
今のお題が「機械」なんだねえ。ニッパさんに教えて貰った「skybook」でダウンロードはしてあります。
Nさんに聞きたいのはさ、小林秀雄と三島由紀夫との対談で
「横光さんは小林さんにダメだって言われて本当にダメになっちゃったんですってね」ってあったじゃない。
あれの詳細知ってませんか?
うちとこはメカ、エレキ、ソフト、スタートアップで廻してるから。
園児壊れた?
>>739 よく知らんがうちの業界で設計で現場行かないのって下請けだなあ
フリーのCAD屋さんとかいたし
建築は下請け社員を担当技術者で派遣するとかあるみたいだけどな。
当然違法だけど。
設計つっても全部みるわけ?
膨大じゃね?
ああまあうちもスレスレなことはやってたか。
子会社の社員が親会社の名刺を持つとか。
まあ万が一捜査入ってもいくらでも改竄できるしな。
>>744 膨大だよ。
だから部分部分は下請けさんに頼む。
下請けもまた勝手な図面書いてきたりするから自分で書いた方が早いって時もあるけど。
公差ぐらいなら電話一本で通じるし。
そりゃそうだ。
>>744 ああもちろん建物全部見るわけじゃないべ?
建屋はゼネコン管轄。餅は餅屋。
だから搬入口の寸法が小さくてもおりゃしらん。
何のための先行で出張だっつーの。
搬入口の寸法とか干渉物の確認とかしないで何のためだよな。
てかもいちど梱包サイズ、据付位置、高さなど確認しれ。
>>750 技術担当者は据付の時だけいればいいんだよねー。
担当外のことにまで張り付いてられんわ。
建築現場だけじゃなく工場だって現場だぞ?
設計からすれば。
「設置スタッフ」とか意味不明なことを言ってるようじゃ知らないのかもしれないが。
それにその件じゃうちの会社は損してはない。
いやまあまったく損してないってわけじゃないが。大喧嘩していた時の俺の日給分は損したろうな。
うちからすりゃ無駄骨なわけで。
喧嘩なんていいもんじゃないけど。現場監督なんてヤクザみたいな人ばっかだし。
上の方で話が付いたんだろうな。俺はただ「出来ない」って言い続けてただけ。
物理的に無理だから。
建築とかほんと切った貼っただからな。鉄骨なんて切って繋げりゃいい。継手ちゃんとしてれば違法でもない。
ちゃんとしてない時もあるがな!
見た目はキレーな建物でも中身はフランケンシュタインだ大体。
そういう発想で考えられてんだよ、精密機械も。現場じゃ。
なあなあ、君ほんとに社会人?
なんかこう、設計をスーパーマンみたいに思ってないか?
理系じゃないんだから設計じゃないよね?
で、永久機関は存在しないってのは知ってたの?
キミ、絡むね。
メカ屋らしい。彼らの気質か。
園児くんに一言。
「理想と現実は違う」
設計じゃないわけだし知らないことをもっともらしくとやかく言うなって話だよ。
半導体製造装置でググッてきた。たくさんあって吃驚。
>>756 いろいろあんだぜー。
搬送機械とか全く別会社のものだし。
うちの下請けになることもあるが。
発注形態としてな。
おおー、モノレールだったりメロディーロボだったりだ。
海外とかうちはモノだけ売って○投げみたいな形になることも多い。
現場行く事もあるが。
あれで動いている事の方がおりゃ不思議だわ。
実際の仕事には管轄ってものがあるのだよ、園児くん。
海外は扱いが荒いよね。
想定外の使い方して壊してくるし改造はカンタンだけど製造でそれやってどうなんだっていう。
とにかく顧客は買ったら要求がない奴に限るぜ。
バリエーション増やしたくないぜ。
逆にそれで動かしている事実の方がすげーと思うがな。
いくらこっちが「荒い」っつっても契約上そういう分担だしとやかく言う権利はない。
園児とタッグを組みたい
まあ納めたらかってに製造してね、って思うけどね。
でもオプションとかあると改造したがるんだわこれが。もうオプション増やすなっつーに。
それと性能の120%から200%で動かしたがる顧客もいるし。壊れて当たり前やん。
「それは思考の起る根元の先験ということだが、実証主義者は、今はこれを認めるものもないとすればそれなら、
感情をもこめた一切の人間の日常性というこの思考と行為との中間を繋(つな)ぐところの、行為でもなく思考でも
ない聯態(れんたい)は、すべて偶然によって支配せられるものと見なければならぬ。」
技術者という実証主義者は人間が偶然に支配されていることを知っている、って話だは。
いや横光を擁護するわけじゃないが。
ご都合主義者っぽい、口ではそう言いながら無意識は園児みたく「必然」を信じているんじゃないか、って思えるけどさ。
園児は、一見口当たり優しいようなことを言うが、実際は自分の妄想を乱暴に押し付けていることに気付いた方がいいと思うよ。
妄想なら妄想と自覚して話した方が楽しいと思うぞ?
つかこの作品苦手だっつってる俺がなんで擁護しなきゃなんないのよw
ちゃんと読もうぜよ。
「これが純粋小説の思想であり、そうして、最高の美しきものの創造である。」
これは眉唾。
実証主義者にとっての偶然とは「美しきもの」などではなく「みすぼらしい現実」だ。
シュルレアリスムとかと繋げるならデュシャンの「泉」成分が足りない。
逆にプロレタリアート文学の方が、政治思想の具として「工場労働者」を利用するならば、「みすぼらしいが素晴らしき労働者」を
表現しなければならぬのであったろうから、なんていうかな、小説というより当時のそういった庶民の実態を述べる(あくまで
政治思想成分を抜いて)、歴史的な資料になりうる。
政治思想成分があるから小説として成り立っていたのだろう。
この作品は、この時代の労働者の歴史的資料というより、やっぱり精神医学的な症例報告書だ。
実験作ではあったのかね。
俺これ読むなら普通の症例報告書を読むわ。
小説読む体勢でこれやられると萎える。
いや、それらが「必然」だと読んだ園児の解釈に、何か根拠があるなら示してくれ。
それで俺が納得したら前言撤回する。
正直「機械」ってタイトルじゃなくラストの「機械の鋭い先尖」がなければスルーしてたわ。
感想書きにくいのは事実だし。
園児に押し付けは感じないな
逆だろ逆
>>775 そんなこと気にしてたらハゲるよ
>>776 「一見口当たり優しいようなことを言」ってるからそうなるんだろうね。
まあ言ってることより言い方ってことか。
↓おまえの言ってることこれみたい↓気づいてる?自分がおかしいのを
軽部は急に私の方を振り返って、それでは二人は共謀かという。だいたい共謀かどうかこういうことは
考えれば分るではないかと私はいおうとしてふと考えると、なるほどこれは共謀だと思われないことは
ないばかりではなくひょっとすると事実は共謀でなくとも共謀と同じ行為であることに気がついた。
ミニハン自重しる
>>678 「機械」では、唯心論なんて単語も、ちらっとでてくるね。
小説自体は、なにか唯物論的雰囲気なんだけどね。工場という
機械が主人公と想定すれば、機械論的小説だこれは。
作品の結末で、機械と主人公の意識のなめらかな同調に亀裂が
はいった、それが機械が壊れたことを意味しているように俺には
おもえた。
>>679 引用元では「生物と死物」の比較云々につづいて、ゾラとフローベールの
比較をやりだすんだ。「フローベールはあらゆる抽象論を嫌悪した
ゾラは実証主義哲学の理論に酔った。なんに酔うにせよ、酔うことは
科学的ではないのである。」ってね。まあ、この「機械」自体はやっぱり
ゾライズムに近いのか。
ゾラの「居酒屋」もハッピーエンドじゃない。そして、この「機械」も
落ちが救いとはいえないよね。小説のなかで、そう簡単に救いを
提供したら、読者もしらけちゃうだろう。
>>738 俺も詳細はよくしらない。 小林が書いた横光の追悼文では、「紋章」までは
読んだ、それから先は読まなかったって書いてあるね。
小林が横光に駄目だししたって話は聞いたことないな。単に後期の横光には
関心もてなくなったってこったろう。 戦争の影響もありそうだなあ。
>>780 唯心論も巷では違う意味になってると思うんだよなあ
めんどくさいから先回りして独我論って言ってるわ俺
唯物論も、「心など無い」って意味になってるのがめんどくさいから使わない。
「心も脳や体の物性である」って意味ならいいんだけど。
「まるで心は肉体と一緒にぴったりとくっついたまま存在とはよくも名付けたと思えるほど心がただ黙々と身体の大きさに従って存在しているだけなのだ。」
ほんとそいつがどういう意味でその単語を言っているのか確認しないと話が通じないと思うんだが、
君らよくそんな風にわかったようにしゃべれるよな。
たとえば設計には公差って考え方があるんだが、まあ要するに「誤差の許容範囲」なんだよ。
たとえば6という数値の誤差を四捨五入で5.5〜6.4だと設定するとする。
一方言葉は、あくまで極端に言えば、Aにとって6は5.1〜6.0で、Bにとって6.0〜6.9であっても、6で通じたことになる。
でもそれ全然違う意味範囲なわけじゃん。
「唯心論」「唯物論」も、単に意味範囲が広いというわけではなく、個々人が個々人の意味で使っている概念に思えて、
使えない言葉だと思う。
意味範囲が広いだけなら使える言葉だと思うんだけど。日常会話的言語みたいに。
それで通じていることになっている特に文系の人達がいつも不思議でなあ。
Nに文句言ってるわけじゃなく俺が個人的にいやなことを思い出しただけでした
ああそうか、「唯心論」「唯物論」って主義主張みたいな、そいつの拘りを含んでいる場合が多いわけじゃん。
言葉って、ある単語に拘ると、6という数値の誤差範囲は狭くなる。
6という単語に拘っている奴にとっての6はたとえば5.9〜6.0だったりする。
あんまり拘ってない奴にとっての6はたとえば4.0〜8.0だったりする。
Nの性格からしておそらくNにとっての「唯心論」「唯物論」の意味範囲は4.0〜8.0的なものだと思う。
だから別にとやかく言うつもりはないが、過去に5.1〜6.0や6.0〜6.9や5.9〜6.1の人たちが入り乱れて
各人の意味範囲を主張し合い揉めたのを思い出して、なんか癇に障ったんだろうな。
製造現場では4.0〜8.0的な単語(図面の指示)は「ポンチ絵」などと呼ばれてる。
>>719の「モデル」か。
方便として有効だけどさ、「ポンチ絵」も。
手書きですらすらって書いた絵の方が理解されやすかったりする。
「大体こういう感じ」ってことか。
でも逆に4.0〜8.0的な意味範囲は、5.1〜6.0や6.0〜6.9や5.9〜6.1の人たちの論争を招くきっかけであったりするんだよな。
本人からすれば「ごめん、もっと適当な意味で言っただけ」って感じだろうけど。
どう読んでも最後のその一連の文章は、「瓶を作業場に置いたのもそれを水と間違って飲んでしまったのも」、
主人公はそれについて確定できていない、不確定性を述べているようにしか思えない。
不確定性は「必然」か「偶然」かと言えば偶然だよな。
そして傍証として「純粋小説論」で横光自身が小説における偶然性の重要さを論じている。
やはりそれを「必然」と読むのは乱暴だと思うんだが。
俺はこのことを
「実際は自分の妄想を乱暴に押し付けていることに気付いた方がいい」
と言っている。
それを「必然」と読んだのは園児の妄想だろ。
「機械」という単語から、「蓋然性」「必然」を印象するか、「不確定性」「偶然」を印象するかで、最後の主人公を狙う
「機械の鋭い先尖(せんせん)」がどういうものかという解釈も変わるだろう。
作品の最後、主人公は「蓋然性」「必然」の世界にいるのか、「不確定性」「偶然」の世界にいるのか。
ここ重要だと思うぞ。
俺の論では、「蓋然性」「必然」とは数式や化学式という記号群の中にある、としているわけだから、
「いかなる小さなことにも機械のような法則が係数となって実体を計っていることに気附き出した私の唯心的な眼醒めの第一歩となって来た。」
あたりは確かに主人公は(「機械」の「実体」ではなく「化学式」「法則」といった)「蓋然性」に惹かれているとは言えるだろう。
以前園児のレスで気になったが、「盗まれた手紙」の時も、園児は「いけすかない奴の鼻を明かしてあーすっきりって話だろ」
と述べていたよな。園児というHNらしいレスであろう。
まあこれは俺もそういう作品でもあると思ったのでその時は否定しなかったが、君はこのレスで、「盗まれた手紙」について
哲学的論考をしているレスを批判していたんじゃないのか?
俺は「盗まれた手紙」という作品については、「いけすかない奴の鼻を明かしてあーすっきりって話」でもあるし、哲学的論考を
してもいい作品だと思っている。
園児の解釈の癖ってこういうところにある気がする。
「何でもモデル化・簡素化」と言うかな。
今回の「必然」という解釈も、そこから君が連想した「メカニカル」とは設計で言う「モデル」「ポンチ絵」だと俺がしたように、
自身の解釈の基本方針たる「モデル化」が作品にもあるとしたがっていたのではないだろうか。
つまり平たく言えば、君がそれを「必然」と解釈するのは、たとえば「盗まれた手紙」を「いけすかない奴の鼻を明かしてあーすっきり
って話」と読むためだったのではないか、と。
君個人のそれに表れているような「モデル化」中心主義的解釈の防衛だったのではないか、と。
そして今回の「必然」は、
>>790でまとめたようにその癖が「乱暴」ではなくとも、「論拠のない妄想」になっている。
そりゃ営業とかも製品の原理、モデルぐらいは知ってなきゃ営業できないからそれはわかってるんだけどさ、
その原理、モデルは間違ってないんだが、だからと言って設計に押し付けてくんな、って思うわ。
モデルだけじゃないモデルが適用できない事柄もこっちは管轄しているんだよ。
そりゃ営業とかモデルだけでいい奴からすれば「そんなこまけー話」になるんだろうがさ。
「そんなこまけー話」で機械は故障すんだよ。
「その間に一つの欠陥がこれも確実な機械のように働いていたのである。」
お前ら向けにわかりやすく言ってやるならバタフライエフェクトみたいなもんだ。
今回はそういう俺個人の体験もあったので「乱暴」だと思えた。
つか
>>700が衝撃的すぎた。意味不明すぎ。
「モデル化・簡素化」は一概に否定しないし、必要なものだと思うが、あくまでそれは方便だ。
>>716 うれしいような、ちょっとさびしいような意見だなあ。
でもNの書き込みが起爆剤になって急にレスが増えたねw
以下、突き出し程度のお茶濁し感想w
新感覚派と呼ばれた横光の代表作「機械」。
労働者を描いたプロレタリア文学の時代にあって
何を描くかよりもどう描くかという、表現に重点を置いた作品だと思う。
「私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙って
いるのを感じるだけだ。誰かもう私に代って私を審いてくれ。
私が何をして来たかそんなことを私に聞いたって
私の知っていよう筈がないのだから。」
この最後の文章はカフカ「流刑地にて」の処刑機械を思わせるけれど、
理性から狂気へ、顕在意識から潜在意識への流れの中で
文章そのものが無機質さを獲得するようにして機械化してくる感じを受けた。
>>780 >引用元では「生物と死物」の比較云々につづいて、ゾラとフローベールの
>比較をやりだすんだ。
確か新潮文庫版「居酒屋」の翻訳者による「あとがき」では
サルトルによる「フローベール論」からの引用と解釈がなされていました。
要約すると、資本制社会における法(精神)と経済(肉体)の分離は
ブルジョアジー(道徳的主体)とプロレタリアート(労働的主体)といった
階層分化につながるものである。
後者は生産関係によって編成された日々の労働に従事するものではあるが、
自らの再生産(生殖)にも突き動かされる存在でもあり、極めて暴力的な傾向を有すものでもある。
そして、精神的存在とされるブルジョアジーもこの災厄から免れ得ないだろう、
といったようなものです。
この考え方で行くと「機械」の人間関係もかなりの程度で説明出来そうです。
つまり、資本制社会の機械化によって再編成された生産関係(=労働関係)の
底流には常に性と暴力への衝動が潜在し、
やがて主体の肉体と精神を蝕むものである、と。
>>795 >生産関係(=労働関係)
ここがまずおかしい。生産関係と労働関係はイコールではない。
労働関係とは人間同士の関係に限定される。たとえば営業や商社の仕事ならそれらはイコールになるだろう。
しかし技術者は人間だけとの関係とは限らない。彼らは物質と関係している。
この作品であれば、主人公は技術改善に勤めていたわけだ。
確かにそれは「狂人の主人」との人間関係を補強するためのものでもあったかもしれない。
しかし彼はこう書いている。
「いかなる小さなことにも機械のような法則が係数となって実体を計っていることに気附き出した私の唯心的な眼醒めの第一歩となって来た。」
これなどは、自分の「生産」、仕事に精を出すことが、を主人との人間関係の補強でありのを認めつつ、それだけではない、
彼独自の楽しさがあったのだと言えるだろう。
彼は「性や暴力」がなくても、技術という仕事に従事できたのである。
ことごとく文系の奴らってこういう技術者としての視点が欠如しているよな。
君たちの「世界」は人間同士の関係しかない。人間同士の関係の総体が社会ならば、君たちの脳内世界とは社会だ。
物質の世界が欠如している。
この主人公は、君たちは、自分自身とは別人種だと思って解釈した方よいと思われ。
もちろんこの「技術者という心性」は、ブルジョワジー的な強固さはない。
「性や暴力」が身近にあればすぐそれに染まる。この主人公もそうだ。
しかしブルジョワジー、精神主体(笑)は、物質の世界を捨てることで、そういった穢れから身を守っているだけなのだ。
「悪」にもそりゃすぐ染まるよ。
神経症的な防衛していない主体なんだから。
君らのレスにこそ資本主義の恐ろしさを感じるわ。
文系の限界か、ここが。
何かいろいろ文学板で見てきた出来事がするすると納得できてきた。
この作品とかあざといぐらい薬品名連呼してるじゃーん。
それでこの主人公を「技術者」ではなく「労働者」としてしか読まないのは、神経症的な否認があるように思えるんだがな。
確かに同時期に流行したプロレタリアート文学の影響があるとは俺も思うが、プロレタリアート作品と一線を画しているのは、
この主人公を通じて描かれているのは「労働者の心性」ではなく「技術者の心性」であるところだ。
話の流れがよくわからないけどw
「機械」はアンチ・プロレタリア文学でしょうに。
>この作品とかあざといぐらい薬品名連呼してるじゃーん。
これとか技術者は日常会話だしな。
多分俺が仕事場でしてた会話とかそのまま文字化してアップしたなら、この作品みたいなあざとさを感じられるのかもな。
この作品に出てる薬品名は俺別分野だからちんぷんかんぷんだけど。
>>803 君の真上のレスがそういうレスだと思うが。
別に「アンチ」ではないと思うが。
プロレタリア文学と類似の題材で別の事柄を描いている。
>>805 そう。だから、プロレタリア文学と同じ素材をあえて使って
「文学でやるならこういう調理をするべきじゃね」って横光のメッセージを感じたw
そういう対抗意識としてのアンチ・プロレタリア文学ね。
ああまあ、同時期に流行してて、横光の性格を考慮すれば、確かに横光の中には「アンチ」的な気持ちはあったかもなw
類似の題材で別の心性を描くというアンチ手法か。
なんつーか、ストレートじゃなくてフック的な。
横光という人を読めてなかったわ。
どんな現代文化でも人間の娯楽というのは大概が「人間同士の心理関係上の戯れ」だ。恋愛や師弟関係などはその最たるもの。
一方、技術者の仕事の楽しさは「物質との戯れ」だ。
そしてこれは主流ではない。
これが主人公が「秘密の保持」に拘った原因かもなあ。
俺ここがわからないつったけど。
仕事上の利益保持に仮託して守っていたのは、「非文化的な密やかな技術者としての楽しみ」だったのかもなあ。
それならわかる気もする。
園児も
>>752と言っているように技術者が意固地になるのもここだ。
君たちの方が主流なのだよ、娯楽としては。そういった娯楽が文化的と言われるものだ。
だが「物質との戯れ」という非文化的な技術者の楽しさも技術者は楽しい。
この「密やかな楽しさ」を奪わないでくれ。それを「心理関係上の戯れ」などというメジャーな娯楽化しないでくれ。
こんな軽い被害妄想が大概の技術者にはあるのかもなあ。
人間の心ですら物性であるとすれば「人間同士の心理関係上の戯れ」も「物質との戯れ」化できるのに。
俺はそういった戯れ方を知っているから、「別に隠すことじゃないじゃん」と思えるのか。
雑談スレで「人を人として見ていない」と言われたが、こういうことだと思うわ。
俺が「人を読む」という言い方でやっていることは、君たちが楽しんでいる「人間同士の心理関係上の戯れ」を「物質との戯れ」化することだ。
この主人公だって軽部の心に対し「物質との戯れ」的に楽しんでいただろ、前半。
ここなんかすげー身につまされた。
>この主人公だって軽部の心に対し「物質との戯れ」的に楽しんでいただろ、前半。
それで殴られるわけだけどな。
だけどやっぱこの作品苦手だ。
小説はやっぱ「人間同士の心理関係上の戯れ」でなくちゃなー。
小説と思って読んだら小説じゃなかったって感じだわ。
「人間同士の心理関係上の戯れ」を「物質との戯れ」化する読み方なのに、最初から「物質との戯れ」を
描かれちゃー困る、ってことか。
わがままだねー、俺。
>>796 >ここがまずおかしい。生産関係と労働関係はイコールではない。
大規模な機械化と分業化によって編成された生産関係という意味です。
>>労働関係とは人間同士の関係に限定される。たとえば営業や商社の仕事ならそれらはイコールになるだろう。
>しかし技術者は人間だけとの関係とは限らない。彼らは物質と関係している。
生産を主要価値とする社会の機械化と分業化によってよって編成された労働関係という意味であり、
技術者もこの社会的要請によって登場し、活動するものだと思いますが?
>彼は「性や暴力」がなくても、技術という仕事に従事できたのである。
性や暴力という形で顕現する“悪”は産業社会の副産物であるという視点なのですが…
(続き)
>ことごとく文系の奴らってこういう技術者としての視点が欠如しているよな。
理系/文系とはよく理系の側からなされる批判ですが、それを言ったら議論にはなりませんよ。
それと、プロレタリアート=労働者ではありません。
元々は都市部に集住していた住人(本来のブルジョアジー)が
産業社会の進展に伴って資本家・法律家・事務職といった生産以外の者と
生産を主とした者とに分離され、
その後者の方がプロレタリアートと総称されたわけです。
また、中でも専門技能を持つ職人の側からの
自己の尊厳をかけた批判というのが19世紀当時の社会主義の骨子ですから、
19世紀のゾラにおいては「職人」20世紀初頭の横光においては「技術者」という捉え方は
それほど的外れではないと思いますけどね。
(終わり)
で、用語の定義についてはマルクス主義や社会主義の文脈に即したものであって
別に私独自の考えではありません。
まあ、説明不足の部分があったことはお詫びします。
>産業社会の進展に伴って資本家・法律家・事務職といった生産以外の者と
>生産を主とした者とに分離され、
この「生産」を「物質と関与を生業とする者」=「技術者」とすれば、君自身が書いた
>技術者もこの社会的要請によって登場し、活動するものだと思いますが?
と矛盾するが。
社会的要請以前から技術者は存在していたとなる。
>>817 君が即した文脈としての定義を述べればよいのでは?
俺は君がなんの文脈に即しているのかなど興味ない。
君が言った言葉だから「君の定義は何?」と聞いている。
もしたとえば君の「“悪”」の定義が「マルクス主義や社会主義の文脈に即したもの」なら、
マルクス主義や社会主義は産業社会を悪者にするためにそれを産業社会が生んだ悪に仕立てあげた、と解釈するな。
「性と暴力」などという「悪」は産業社会以前から存在してるだろ。
キリストの時代から売春婦は存在し戦争は起きている。
>マルクス主義や社会主義は産業社会を悪者にするためにそれを産業社会が生んだ悪に仕立てあげた、と解釈するな。
要するに君の論はただのプロパガンダだと。
>理系/文系とはよく理系の側からなされる批判ですが、
俺からすれば文系の側からなされまくってるけどなwww
で、君はまず
>>818の矛盾について説明してくれ。
君の(なんに即しているかは知らないが)「技術者」という単語の定義が、
「産業社会以降の社会要請によって成立した職業」であり、「生産を主とした者」である「労働者」はそれ以前から存在する、
という話かい?
労働とは人間関係だろ、労働させる者と労働する者がいて「労働」は成立する。
それがなければ君が書いているようにただの「生産」だ。
であれば、「労働者」こそが、
「産業社会の進展に伴って資本家・法律家・事務職といった生産以外の者と生産を主とした者とに分離され」
生じた概念なのではないか?
つまり、文脈など関係なく語義だけを考えれば、
「「産業社会以降の社会要請によって成立した職業」であり、「生産を主とした者」である「労働者」はそれ以前から存在する」
は逆なのではないか?
「生産者」は産業社会以前から存在し、「労働者」こそが産業社会の社会的要請によって登場した概念なのではないか?
君が即しているらしい文脈の都合のいいように本来の語義を変化させていないか?
そういうのをプロパガンダ、印象操作と言うのでは?
この語義の変化には君個人の感情論が混じっていないか?
「マルクス主義や社会主義の文脈」こそが、「生産者」「技術者」という「物質との関与を生業とする者」を「労働者」という立場に貶めているのではないか?
>>818 >産業社会以前に性や暴力はなかったのか?
産業社会によって変質した社会や労働関係が
その社会成員に対して
性や暴力といった悪の機会を増やしているという事ですね。
>「物質との関係」を生業とする職業を技術者と言うなら
それはあなたの定義でしょう。
だから
>>814で
>大規模な機械化と分業化によって編成された、
と書いたわけです。
つまり、近代産業社会によって従来の職人的身分の技能者が
工場労働全体の部品として組み込まれた、ということです。
であるがゆえに「機械」なのです。
>>826 >それはあなたの定義でしょう。
うむ、それを
>>822-825で説明している。
君が即している「マルクス主義や社会主義の文脈」が、「生産者」「技術者」と「労働者」という本来の語義を変化させ、
そういった産業社会の副産物に貶めているのではないか、と。
>つまり、近代産業社会によって従来の職人的身分の技能者が
>工場労働全体の部品として組み込まれた、
マルクス主義だったら「技能者」には農民も入るよな。
だとしたら農場も工場だ。
工場も産業社会以前から存在していたことになるが。
えっとさー、君の定義の「技術者」は、産業社会の社会的要請によって登場したはずなのに、
なんでいきなり「工場の成立」なんてに転化してるの?
「工場」だったら産業社会の成立になるから?
「工場」の定義は何?
たとえば建築技能者も技能者だよな。建築現場も「工場」になる。
ピラミッドの建設現場も工場だ。
労働職を搾取する資本家も王としている。
>>819 >もしたとえば君の「“悪”」の定義が「マルクス主義や社会主義の文脈に即したもの」なら、
>マルクス主義や社会主義は産業社会を悪者にするためにそれを産業社会が生んだ悪に仕立てあげた、と解釈するな。
マルクスはもちろんそうですが
同時代人のゾラやタルド
そして20世紀人のオルテガ等も
産業化によって犯罪が頻発したと言っていますけど?
フックスによる「風俗の歴史」などにも工業地帯の私娼が出てきます。
マルクスやそのフォロワーはこういった現象に対して
一つの見解を打ち出した、ということですね。
>>822 >つまり、文脈など関係なく語義だけを考えれば、
>「「産業社会以降の社会要請によって成立した職業」であり、「生産を主とした者」である「労働者」はそれ以前から存在する」
>は逆なのではないか?
>「生産者」は産業社会以前から存在し、「労働者」こそが産業社会の社会的要請によって登場した概念なのではないか?
いや、“労働者”自体は古代ギリシアの時にもいますよ。
本来は“平等”とされる都市市民が産業化の進展によって
奴隷的な労働者に頽落する、ということです。
>>825 >「マルクス主義や社会主義の文脈」こそが、
>「生産者」「技術者」という「物質との関与を生業とする者」を「労働者」という立場に貶めているのではないか?
例えばプルードンのような職人出身の社会主義者によって為された社会批判を
職人階層の頽落は必然的だといった歴史認識で批判したのがマルクス主義者ですね。
ただ、プルードンにしてもマルクスにしても
産業化の進展によって技能職である職人が単純労働者に還元される
といった危機感を持っていた事は確かでしょう。
一般に誤解が多いのですが、19世紀社会主義や労働階級(特に職人)の批判とは
その職業的尊厳をかけたものなのですよ。
>>827 >マルクス主義だったら「技能者」には農民も入るよな。
>だとしたら農場も工場だ。
入りませんよ。
だからロシアマルクス主義では
工業労働者=ボルシェビキ
農業労働者=メンシェビキ
と定義され後者は虫けらのように扱われたのです。
というか、こういった区別は中学の世界史でも教わる筈ですが?
>>828 >たとえば建築技能者も技能者だよな。建築現場も「工場」になる。
>ピラミッドの建設現場も工場だ。
>労働職を搾取する資本家も王としている。
古代エジプトに機械化や分業化に基づいた工場があったとは聞いた事がありません。
かつて日本共産党が大阪城を作ったのは大工(プロレタリアート)である、
と主張してモノ笑いの種になった事があります。
>>828 >労働職を搾取する資本家も王としている。
それと「搾取」と言うのは
市民社会の平等原則に基づいての対等取引の結果
騙し討ち的にピンハネされるもの(剰余価値学説)であって
奴隷労働ではただこき使われるだけなのです。
また、ファラオは王権であって資本家とは違う。
「産業社会」なる君のイメージに固執して本質が見えてないんじゃないか、君は。
俺の知ってるマルクス主義者はもうちょっと話が通じたぞ。
>マルクスはもちろんそうですが
>同時代人のゾラやタルド
>そして20世紀人のオルテガ等も
>産業化によって犯罪が頻発したと言っていますけど?
太宰メソッドですか?
産業化ではなく管理社会化によって歴史という文書に残っていなかった犯罪が露見してきただけだと思うが。
住民登録していない地域の犯罪などローマ帝国だって認知していなかったろうよ。
俺はマルクスやゾラやタルドはどうでもいいので、君が「産業社会」を悪者にしたいという印象論だと理解した。
>工業地帯の私娼が出てきます。
娼婦なんて聖書にも出てるだろ。
>“労働者”自体は古代ギリシアの時にもいますよ。
そうだね。「生産者」もいるね。
>奴隷的な労働者に頽落する
たとえばピラミッド建設とかはどうなるの?
ピラミッド建設に従事していた労働者は、二日酔いで休みが取れるなんて具合に意外と人間的な生活を送っていた、
なんて指摘も今はあるけどさ、産業社会の現代の労働者は、ピラミッド建設従事者より「奴隷的」なのかい?
もうちょっと「産業とは何か」ぐらいまともに哲学的に考えてくれよー、マルクス主義名乗るなら。
ピラミッド建設は産業か否か、とかさー。
君つまんないなー。
>産業化の進展によって技能職である職人が単純労働者に還元される
「ロボット化で職人がいらなくなる」って奴か。
こんな考え自体が「技術者の密やかな楽しみ」をわかってない証拠だな。
完全オートメーション化なんて無理、機械は故障するのが普通。そういう現実を知っているのが本当の技術者。
本当の職人は自分の仕事が単純作業にできぬことを知っている。なぜなら物質自体が単純ではないから。
だから「物質との戯れ」は楽しいのだ。キリがない。
君は技術者なのかい?
他人が冷遇されていることの文句を自分自身の主張の補強に使っているだけじゃないか?
>入りませんよ。
んじゃピラミッド建設従事者でいいや。
>機械化や分業化
ピラミッド建設は機械化され分業化されていたという研究が今は主流だと思うが。
現代の建築現場だって
>>729で書いた通りすげー原始的なもんだぜ?
君はピラミッド建設は無理だとしても現代の建築現場に行ったことがあるのかい?
大事なことなのでもいっかい書くね。
君は技術者なのかい?
他人が冷遇されていることの文句を自分自身の主張の補強に使っているだけじゃないか?
君の考える「産業社会」ってさ、実際の技術現場にいた俺からすりゃ、君の印象論にすぎんのだよ。
「技術者の密やかな楽しみ」を他人の印象論のダシにされるのはごめんだわ。
>奴隷労働ではただこき使われるだけなのです。
へー。現代の産業社会でもそうなんだ。
「密やかな楽しみ」がわかってない奴はそうなるんだろうか。
まあ俺だって給料の文句言うけどさ。
勝手にお前の脳内で「技術者」「生産者」を「かわいそうな奴隷」に仕立てあげてるだけだろ。
そっちの方が失礼千万な話だ。
オタク思考みたいなもんだと思ってくれていいかもな、この「密やかな楽しみ」とは。
社会的要請や労働関係や経済とは関係ないところにそれはある。
反社会的であるとは限らぬが、非社会的な楽しさだ。
人間はすべて社会的な利益を求めると思ったら大間違いだ。
名無し2人のつまらん脱線話でどんだけスレ消費すんだよ!
俺は工業には期待してるな。
例えばウォシュレット。大抵の家庭には普及してて快適さを与えて以前のようなトイレでは満足できなくなってきてる。
例えばケータイ。例えばコンビニ物流。例えばATM。
俺らの暮らしにこのような大転換をもたらす優れた工業製品は優れた文芸作品と同様に文明を進めるものだと思うなあ。
さらに人類を推し進めて後に戻らない。進歩だよね。
そんな文芸作品に多くのひとが感化されて全く新しいパラダイムへ次元上昇みたく移行してくっつー。
機械のラストシーンは回転する錐状の切っ先がおそろしく迫ってくる印象を抱くのかな。
芥川の歯車みたく。
それは世界の暗黒面への目覚めであろう。
つまり主婦の考えが固定化して化学式を追い求める奴になっちまったってことじゃね?
これから彼女はその暗黒面に生涯を費やすだろう。暗い希望に燃えるディストピアの住人に。
ディストピアもあんがい希望に満ちていて生涯を費やしてもいいもんだと思うよ。
暗いながらも内に幽かに灯す、満足の炎に喜んでるね、きっと。
物質にとらえられたのではなく物質と物質の結びつく式にとらえられたんだね。
彼女と化学式のその幸せな結びつきは彼女に何をもたらすのかな。ひいては文明に。
魚が陸へ移行するのになんども小さなチャレンジをしたように彼女も化学式へ挑みつづける。
彼女が達成しなくても彼女と同じように文明に要請され狂った彼女がいくつもいくつも陸へ挑むだろう。
「剰余価値」とかいいところついてると思うけどなー。
それを経済というただの人間関係の一側面に乗せようとしたのがマルクスの失敗。
その時点でそれはそれじゃなくなる。
彼は技術者じゃないからわからなかったのだろうな。
この非経済的、非社会的、非人間関係的楽しさを。
人文科学の認識限界だ。
俺の言ってることも印象論だが、実際に技術者をやってきた人間の印象論だ。
いやだわー。こんな主張すると「人を読めなく」なる。
やっぱこの作品苦手。
こんな題材じゃなければこんな話はしなかった。
こうやってそれを主張している時点でそれじゃなくなっていく。
技術者は奴隷ではあるよ。ただし、資本家などではなく物質の奴隷だ。
「機械」の奴隷。
それが「物質との戯れという密やかな楽しみ」だ。
お前らが勝手にそれに「資本家と労働者」などという「人間同士の戯れ」たるメジャーな娯楽を押し付けてきているだけ。
>>841-842 こういうのが技術者じゃない人の考えなわけですよ。ユーザー脳。
「資本家」じゃなくて「ユーザー」と言い換えた方がいいんじゃない? 資本主義にマルクス応用するなら。
銀行に金預けてたら「資本家」だろ定義上。それ使って運用してんだから。誰でも「資本家」。
そうじゃないだろ。本質は。
「多くのひとが感化されて」なんて「人間同士の戯れ」を押し付けてきている。
ふと思ったけど、マルクス主義って反ユダヤの隠れ蓑になってたりね。インモー論。
>>843 つか気になってたけど「主婦」って誰? 主人の妻?
なんでその人の考えが「固定化して化学式を追い求める」ことになって「暗黒面に生涯を費やす」の?
なんか誤読してね? 俺が誤読してんのかな。
提案だけど。
そういった一連の働きを「機械」と呼んだらどうかな。
関係式に魅入られたり、あたらしい関係式をみいだす試みや取り組みや仕事の成果物らを。
>>846 ∧_∧
(´・ω・) いやどす
ハ∨/~丶
ノ[三ノ |
(L|く_ノ
|* |
ハ、__|
""~""""""~""~""~""
で、主婦って誰?
ミニハンのいう「技術者」が何かを教えてくれたら、な。
園児は「機械の鋭い先尖(せんせん)がじりじり私を狙っている」「私」を「主婦」だと読んでるの?
ラストシーン、俺の読みがまちがってるのか。
もいっかい読むかな。
「主婦」って主人の妻だよな。「私」とは別人だよね。
「私」って誰?
技術者の俺さんはテクネーについてどう思う?親和感あり?
>>851 ラストシーンっつか「私」を読み間違ってたら全部読み間違ってることになると思うが。
園児が読んでるのは作品じゃなくて園児の頭の中の「モデル」「ポンチ絵」な気がする。
「いけすかない奴の鼻を明かしてすっきり」とか「必然」とか。
それを作品に投影していると。
>>853 >「私」って誰?
主人の親戚のおばはんに拾われた九州の人。
もっかい読んでみて。俺も読むつか読んでる。
>テクネーについてどう思う?親和感あり?
「親和感」って何? って思った。
あとさー、
>>789-790だけど、それでも「必然」って自分の読みについて疑問に思わないの?
誤読とか言ってるけど全部誤読だと思ってるよ俺は。
俺の「違うんじゃね」っつーのも誤読。
ジュネ「バルコン」より。
この店を「幻想の館」と名づけたのはいかにもこのあたしだが、あたしはその支配人にすぎない。
みなさん、ベルを鳴らしてお入りになったときには、もうすっかりできあがった筋書きご持参なのさ。
あたしは劇場を貸し、小道具と、男や女の役者をとりそろえるだけ。
作品を読む前から「筋書きはそいつの頭の中ですっかりできあがっているもんだ。
>>783 唯心論、唯物論の反対。 シンプルな定義だね。
そして、唯物論の定義、唯心論の反対と。
モリエールの医者流の定義だね。心とは何か、物とは何かって
論じ出すと面倒になるけどさ。
>>787 そういうひとによって異なる唯心論と唯物論の意味合いというのは
エンゲルスの解説に寄れば、唯心論と唯物論の間にある中間的な
不可知論なんだそうな。要するに、唯心論と唯物論はふたつの
哲学における極限概念であると。
>>795 サルトルのフローベール論って、ひょっとして、例の未完におわった「家の馬鹿息子」?
なるほどねえ、ブルジョワジーとプロレタリアートの歴史的弁証法について書いてるんだ。
フローベールはやっぱりブルジョワジーの代表ってわけなんだろうな。
批評でもなんでもない妄想連想の垂れ流しばっかでつまんなくなったここ
ミニハンのせいだな
絡みたい奴が人スレに誘導すれば良いのさ
共存は出来る
斎藤綾子のフォーチュンクッキーってのが受け付けなかった。
何か園児が次の俺の毒牙の被害者みたいになってるけどあんま気にしないでねー
俺野良犬みたいなもんだから
後先考えてやってるわけじゃない
マルクス主義の人は私の脳内の別のマルクス主義の人とくらべて矮小な人だと思ったのでどうでもいいや
野良犬の判断として園児を優先するl
誰に噛み付くかって優先だけど
横光の「機械」が発表されたのが1930年だけど
20年代はプロレタリア文学が盛んだったみたいだね。
小林多喜二と徳永直が出てきたり、
葉山嘉樹、中野重治、蔵原惟人あたりが会を組織したり。
そういう時代潮流の中にあってやはり横光のスタイルは
従来のプロレタリア文学とは違う次元で勝負する画期的なものだったと思うよ。
横光の文学姿勢を汲み取るためには「純粋小説論」あたりを併せ読む必要があるんだろうけど、
あの評判の悪い「四人称」はおいておくとしても、
政治目的から切り離した純粋な芸術への志向がやはり強かったんじゃないかな。
「機械」はプロレタリア文学も踏まえながら単なるそれを乗り越えてるね
高度な笑いに転嫁してさ
体も思考も蝕んでいく職場の環境とか
必ず無意味に金を失う主人(社長)とか
主人を仙人みたて奇妙な忠誠を誓う語り手とか
従業員同士の意味不明なスパイ嫌疑やどつきあいとか
ほーら社会人ならなんか思い当るところがあるでしょ
互いに疑ってる場面で「機械」の語が出てくる
>私たちの間には一切が明瞭に分っているかのごとき見えざる機械が
>絶えず私たちを計っていてその計ったままにまた私たちを押し進めてくれている
主人が金を落した場面でも「機械」の語が出てくる
>一つの欠陥がこれも確実な機械のように働いていたのである。
わけがわからない屋敷の死への言及があるラストで
>私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙っているのを感じるだけだ。
さーここで語られている機械ってのはどんなもんよ
>>864 「高度」というかブラックユーモアのさらに推し進めた「笑い」っつか
『菊と刀』読もうかな。積読しています。
ラジオで知った本
森光子 吉原花魁日記
大正時代の吉原の花魁の暮らしぶりも驚きではあるが
売られていった境遇を呪うところが各所に出てくるのだが
遊女という身を売ることを実母は承知していたのではないか・・・という
疑問をもつ過程にきたときはまるで心を除いたような生生しさが残った。
この場面はほんとうに19の少女が哀れだった。
870 :
吾輩は名無しである:2011/11/07(月) 17:08:08.14
もしかしてスレタイ間違ったかもしれません、誤爆としてスルーしてください。
森光子?ってビックリしたら別人か。
アマゾンのレビュー見る限りだとハードな本みたいだな。
サリンジャー好きなんだけど、同志いる?
おるよ
(^-^)/ 。&&&\\\\00@。0、_やれ
林芙美子でも読まない?
876 :
忍法帖【Lv=40,xxxPT】 (´・ω・`) ◆hesl6eItdY :2011/11/18(金) 02:18:53.45
いいヨ。
おっ、こんな夜中にレス
んじゃ晩菊よもーぜ
アドレス貼ってくれ
電気の円い硝子笠が、雲の中に浮いた月のやうに見えた。あぶらの焼ける匂ひが鼻につく。きんは、煙にむせて、四囲の障子や襖を荒々しく開けてまはつた。
読了。
”幻滅という関係性”を構築している語り口が巧妙。
互いに潰しているのではなく、明らかに作られた関係で、彼ら二人の会話に一切の齟齬も見えない。
おやおや、えらい予定調和だなと退屈を感じる頃に以下の文節で叩き起こされた。
>二人は黙つたまゝ現在を比較しあつてゐる。幻滅の輪の中に沈み込んでしまつてゐる。
>二人は複雑な疲れ方で逢つてゐるのだ。小説的な偶然はこの現実にはみぢんもない。
>小説の方がはるかに甘いのかも知れない。
>微妙な人生の真実。二人はお互ひをこゝで拒絶しあふ為に逢つてゐるに過ぎない。
そうなんですね、逢っているんですね、これ。
殺意が産まれるだろうなあという蓋然はわかります。
理由がちょっと説明つかねえ。悔しい。
冒頭の部分が圧巻
男女の駆け引き、化かしあいみたいなのに重点を置いても良かった
のかもしれないね。そうすりゃ殺意とかいう部分もクリアで際立ったのかも
しかしそれには、きんは純情でロマンチストすぎる。
となると逆に殺意云々が余計となるのか、、
田部にとって殺意の湧くほど、きんは、イイ女だったのか悪い女だったのか。
みたいなとこをもちっと描いても良かったのか
いや、締め方が俺にはよくわからんよ
写真焼いたのは殺意の暗喩(・・・直喩ってのかこの場合)だよな?
そんなミステリー?
別にミステリーではなくて、ざっくり言うと
女の殺意は自分の思い出に対して向けられたもので
男の殺意は思い出ではなく現在の相手に向けられたものという点で
女の方が深いなあと思いました、という話です。
これもうちょっと突っ込んで思いを馳せると全然違った形になるかもしれませんが。
それならわかる
わかるのかよ
話が早い
でもちょっとカスってるだけで芯捉えてない感じしませんか
林芙美子にも六白金星みたいな突き放した感じがあるなあ
それはナイナイ。
綺麗に二部構成。技アリの短編。
自分の中だけで世界を作って読者を突き放すというやり方と、見たままを書いて本当のところはわからない的な書き方の突き放し方と
ああまあ構成とかはあるな
人間に対する冷めた視線ってのは通じるものがある気がするんだが
六白金星の場合は、主人公が描き手から独立してる
ような気がするよね。それが突き放してるように見え
るのか。
三人称とか技法の問題もあるだろうけれど、三人称でも登場人物の心理を一人称的に書くことができるし、
一人称でも自分を三人称的に見て書いていると思える場合がある。
書き方ではなく、書き手が登場人物から一歩離れて見ていられているか。
「四人称」って奴なのかね(チョーテキトー)。
>>645みたいな感じ。
というわけでこの作品の終わりもそういう意味でのリアリティがあると思うんだが
「見たまま書いてて本当のところはわからない」というリアリティというか
896 :
ほら話者:2011/11/19(土) 03:35:58.34
おもしろそうなので復帰
『晩菊』読了
おもしろい。ミラン・クンデラを思い出した。特に『不滅』。
『晩菊』は恋愛というキッチュの瓦解を描いてるように思う。
クンデラによると、キッチュとは
「あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見て
うっとりと満足感にひたりたいという欲求」(『小説の精神』)のこと。
きんと田部の対面には、一見相手への幻滅が現れているように思えるが、
実際は自分自身の真実を姿を見たくないのに見えてしまうための幻滅と怒りだと思う。
恐ろしいことに、老いと生活苦によるキッチュ瓦解の表出が、
若い時分の恋愛でのキッチュをもあぶり出してしまっている。
登場人物は無茶苦茶突き放されてます。はい。笑ってしまうほど意地悪wクンデラみたい
>>881が抜粋してた部分では、
神の視点の語り手(≒作者)による状況の解説がはさまれ、さらに小説内で小説ついて語る。
「小説的な偶然はこの現実にはみぢんもない。小説の方がはるかに甘いのかも知れない。」
って言ってるのが小説の書き手に等しい語り手なんだけども、この現実と小説って境目どこ?w
おもしろいなぁ。「はるかに甘い」「小説的な偶然」のキッチュも叩かれてるんですよこれ。
その「わからない本当のところ」を考えるのは読者の特権でもあるから、
>>885みたいな解釈はありだし俺はなるほどと思えた。
君は相変わらずズレた所で弁説打つなあ。
ズレあってこその読書
君がそう定義すると、さも両方が真実であって我の張り合いっていう
くだらない対立に頽落するけど僕が言ってるのはそんな話じゃないんだけどな。
いいよ、つまらないし見てるよ。
こんなこと書くとスレ荒れるかもしれないが林読んでると尾崎翠が甘く見える
>>900 >さも両方が真実であって我の張り合いっていうくだらない対立に頽落するけど
と言っているのは君である。
喧嘩したいんなら他所行けよ
なんでこのスレが過疎ったか判ってないのかよお前
いい加減にしろよ
喧嘩なのか
まあ時々は甘い物食べたくなるし両方あっていいわな
書かれてあることだけ考えればどこにでもありそうな日常の風景なんだけどな
それを異化させようという筆者の意図はあるだろうとは思う
考えていたことを894がハイクオリティに答えてくれた
他に言うことなし
文学的技法ではなく、ドラマツルギー的技法で考えれば、六白なんかは「異質」を登場人物一人に特化させているわけで、
それも技法的、作為的ではあると思う
林作品ってぱっと見古臭い感じがするんだけど、それは当時からある文学的構造を踏襲していたからなんだろうな
で、「異化」とは、技法論でどうこうできもするが、技法論が本質ではない
ってところか
こんなこと書いている俺もこないだのデカダン経由がなかったら「林って伝統的文学じゃん」と思ったかもしれなくはないかもしれなくなくなくない?
この流れで最後、登場人物の「芯を捉え」てしまうと、「はるかに甘い小説」になってしまうだろう
そうではなく例えば理論的に書こうとすれば、精神分析のような「ペスト」となるだろう
ベターな選択だと思うがな
「語りえぬことは沈黙せねばならない」ではなく、「別に語ってもいいけど語らない」という
すまん感情的になってる
六白の終わり方の方が良かったけどな、将棋の奴
六白の終わり方は、書き手が楢雄を見捨ててると言うと言いすぎだが「仕方ないな」という感じがある
この終わり方は登場人物を見捨てていない
「突き放している」けど「突き放しきれなかった」書き手が見える
だから感情的になってしまう
林ってこういうのうまいな
「甘い小説」でもなく理論的でもなくそれを書くならば、神秘主義になるだろうな
林芙美子読んでるの? 俺も読んでみよう!
「晩菊」は映画もすごいよ
「恋愛という幻想」を幻想として描くなら、物語自体も幻想になるから、終わり方とか構成とかドラマツルギーとかへの対応は難しいだろうなあ
それらはすべて妥協であるから、逆になんでもいい、みたいな
ここら辺真面目に考えると既知外になるか、埴谷みたいなアプローチになるとかだろうし、
作品の中では不真面目でいいと思うんだよな、坂口みたいに
それかドストみたいに神というベンチマークを置くか
林って基本「物語とは幻想である現実」ってことに真面目だけどこの作品の終わりみたいな不真面目さがちょこちょこあるんだよな
坂口は読者をバカにしていてそのことを公言して憚らなかったが、林にもそういうところがあったんじゃないかって気もする
まあそれを真面目だと言ったら「物語を売って商売する作家たる仕事」自体が不真面目になるからなあ
映画みてみよ
自分自身の老いを冷徹にはかりに掛ける女の姿が描きたかった
んじゃないかな、田部は恋愛も時が過ぎてしまえば・・・
という比ゆ扱いじゃないかと感じた。
神技じゃなくていいから一冊40分程度で読めるよう速読ならいたい
誰か習ったことある人居る?
もう少し林芙美子語ってみたい
別の作品を
俺が林に負けたように気がしていやだから
別のがあるならそれでもいいけど
文学男はアホだと思うが文学女ってアキレス腱なんだよな、理系女にとって
マグナ何度か俺に質問したろ、俺を擁護しろ
カプセル怪獣どかーん
雑談スレで金子みすずとか出ていたがあれなんか「母という精神病としてのパラノイア」で俺は終わる
林は終われねえ
こいつにはやばいもんがある
将臣も鍵も父への欲望だから興味ないんだろうな
とりあえずマグナ感想かいてみてちょ☆
でもこの終われなさでうだうだ書いている俺のレスは
>>887への回答だ
じゃあキモだけ教えてやるよ。
2点ある。
1つ目は男の殺意は打算で止まるということ
2つ目は女はモノも言わずにただ殺すということ。
地の文で女の殺意をほのめかすような表現は
この作家には何万回同じプロットで書かせても絶対に出てこない。
それは「小説的な偶然」ではなく必然として意図的に書かれていないから。
ええ、ええ。妄想ですよ。ほなサイナラ。
アセンションが読むと言ったまま消えたのが気になる今日このごろ
いかがお過ごしでしょうか
書かない方が、女という実体をむしろ示す、ということか
今さら小説がおもしろいと思えてきた
林芙美子を読むと自分が弱くなるっていうか過敏になっていく
無頼派の志賀とのケンカとか、「やれやれ」って感じで、一応は無頼派についてやる、って感じだが
林芙美子の裏テーマには「孤独」みたいなものがあるような気がする
「やれやれ」って「もっとやれ」って意味ね
>>924 速読はせめて今の倍くらいの速さで読めるようになりたいと思っていて、
練習を始めました。
といっても、フリーソフトのみのトレーニングです。
知識として入れておきたいものは速読もありかな。
別板で勧められてハマったのが野上弥生子。
林芙美子と同時代で、いわゆる明治の文豪たちよりよっぽど
孤高で骨太でした。
ほな、あげとこか
田中英光おもしろいね
読了
現代作家みたい
今生きてたらエンタメ書くと受けそう
エンタメとか言ったのは京極夏彦思い浮かべた
読了
転々と落ちて行く感じは出来ていたんだけど・・・
冗長というか説明臭いなあという印象。
なんか可もなく不可もなく。
タイトルが野狐だったんですけど、野狐禅って言葉があるんですね。
なんか仏さんの悟りを見た狐がそれを真似しただけで
禅が成ったというような傲慢さ。
でもお前それ本質見えてねえよ??っていう。
だからまあテーマの設定も物語も行儀が良かったなあ、ぐらい。
まあでも俺もそうか。そうだな。
野狐禅うんぬんはともかくとして
>テーマの設定も物語も行儀が良かったなあ
は同意
野狐なら真似しなくても禅は成る
人間は逆に人間らしさという妄想があるから禅はなしがたい
逆にこれは人間の傲慢さを述べているもの
本当の野狐ならな
逆に野狐禅こそが鬱だよ
ほんと、世間の人はそう思わないらしいが、抑鬱系の人って俺には「増上」にしか見えないんだよなあ
作家で言うなら中島敦とかが野狐禅
すみません。
「秀吉と利休」は無理としても、
100ページくらいなので
「海神丸」は青空であると思ったら、フリーはどこにもありません。
あの短さ、あの壮絶さは必読なので、悔しいです。
読了
野狐禅って、松本の映画で泣かせたグループ名じゃん。
あそこはかなり良かったw
カワイイ系ダメ男ってか純情系ダメ男ってか、Мっ気たっぷりなとこがイイ。
田中英光も一応無頼派みたいだね。安吾や太宰とはまた一味違う感じもイイね!
>>955 この曲知らなかった
さや侍のパンフで名前確認しただけでさ
他にもいい曲あるのかな
文学作品投下キボンヌ
悪いのはオンナじゃなくて、薬とそれを服む自分なんですよねえ。
わかってるんです。わかっちゃいるけどなにか仇手のせいにしないではいられない。
愛憎になにかそれだけの力や値打ちがあると信じることができる
酒や睡眠薬にはそういうドラマチックでロマンチックな力があります。
おっ東電が喰いついた
なんか投下しろよおまいら
また異色なの持ってくるわ
お釈迦様
私はお釈迦様に恋をしました 仄かに冷たい唇に接吻すれば
おおもったいない程の 痺れ心になりまする。
ピンからキリまで もったいなさに なだらかな血潮が逆流しまする
蓮華に坐した 心にくいまで落ち着き払った その男ぶりに
すっかり私の魂はつられてしましました。
お釈迦様 あんまりつれないでござりませぬか!
蜂の巣のようにこわれた 私の心臓の中に お釈迦様
ナムアミダブツの無常を悟すのが 能でもありますまいに
その男ぶりで炎の様な私の胸に 飛びこんで下さりませ
俗世に汚れた この女の首を 死ぬ程抱き締めて下さりませ。
『林芙美子詩集』より
読了。
値打ちの無い女って事ですか?
丁寧に文章編むなあと思ったら3ぐらいで終わるし
途中まで妾をめかけって読んでたから最初から読み返したし
なんだかなあ・・・って馬鹿にされた気分のまま。うーん。。。
〜ある女だ。〜歩く女だ。〜ウィンクした。
っていう出だしの三行どう思うよ。
いっちゃん大事な作品の冒頭の二行を同じ「女だ」で終わらせる効果とは。
967 :
吾輩は名無しである:2011/12/16(金) 16:53:22.33
age
この時期に読書はつらいと思う。
ホットプレートで焼き肉いっぱい食って
ビールを浴びるほど飲むほうがいいと思う。
969 :
吾輩は名無しである:2011/12/17(土) 04:23:15.85
その合間に読むんじゃねぇか
おれっちは最近、映画じゃないが寂聴の源氏をよんどる。
また村上春樹容疑者の覚醒剤自慢か
971 :
吾輩は名無しである:2011/12/20(火) 22:42:19.53
梶井の「檸檬」が押入れから出土てきたので読んでみたら、深いい〜
昔は読めなかったのになぁ
「城のある町にて 」の途中で放り出してあった
谷崎を読みませんか?
年明けの旅行に谷崎を選んだところでした、谷崎いいですね。
でも、ここに来られるかが問題です。
あとから楽しませていただくことになるかもです。
谷崎読む!
谷崎の何がいいの?
976 :
吾輩は名無しである:2012/01/28(土) 18:02:09.27
あげてみよう
977 :
吾輩は名無しである:2012/01/28(土) 18:17:29.60
谷崎の前にビッグ錠でも読破してみたら?
谷崎 潤一郎「京羽二重」
谷崎 潤一郎「夢の浮橋」
どっちがいいのかなあ?
とりあえず「京の羽二重」に目を通しまし。
こちらはディープな京都の生活に興味がないと面白くないかもです。
東京育ち沖縄在住ですが、一時期京都の友人の関係で
大叔母が甲斐庄のモデルもやったことのある芸者さんで(デロリではない)
加茂川沿いの旅館を営み、親子三代井上流の名取りという家系で
たかだか100年位の歴史の東京の概念で計り知れなおい
京都の奥深い文化に育まれた人たちを垣間見ることがありましたが、
そのような空気感が描かれています。
「夢の浮橋」の方が一般的と云うのは変だけど
話題に広がりが持てるような気がします。
981 :
吾輩は名無しである:
谷崎って二次元萌えオタクと同じにしか思えない