1 :
吾輩は名無しである :
2011/05/23(月) 12:15:05.80 文学における批評や理論について意見や情報を交換するスレッド。 記号学、テクスト論、ナラトロジー、精神分析批評、受容理論、マルクス主義批評 ニュー・クリティシズム、ヌーヴェル・クリティック、テマティック批評、新歴史主義、認知論 などなど。
2 :
吾輩は名無しである :2011/05/23(月) 12:16:13.52
3 :
吾輩は名無しである :2011/05/23(月) 12:24:58.80
※入門書 テリー・イーグルトン 『文学とは何か―現代批評理論への招待』 田辺保〔ほか〕編 『文芸批評を学ぶ人のために』 ジョナサン・カラー 『文学理論』 ラマーン・セルデン 『ガイドブック現代文学理論』 フランク・レントリッキア、トマス・マクローリン『現代批評理論―22の基本概念』 フランク・レントリッキ、トマス・マクローリン『続:現代批評理論―+6の基本概念』 フランク・レントリッキア『ニュー・クリティシズム以後の批評理論』上下
4 :
記憶喪失した男 :2011/05/23(月) 15:30:44.07 BE:1551077647-2BP(791)
よし、ここでおれが文学理論について、説明しよう。 まず、恋愛編だ。 文学における恋愛とは、三角関係になって誰かが死ぬ、というのが一つの典型だ。 「赤と黒」 「アンナ・カレーニナ」 「ボヴァリー夫人」 「こころ」 「恋空」 「失楽園」 「ノルウェイの森」 すべてこの形に当てはまる。 二股をかけた人物が死ぬのが、十九世紀の恋愛文学だが、 二十世紀になると、二股をかけられた片方が死ぬことにより、 残った男女に無常観を感じさせる形になっている。
メルの本棚氏はまだ中華国で教師をやっているのか?
6 :
記憶喪失した男 :2011/05/23(月) 15:57:03.67 BE:1495681193-2BP(791)
つづいて、青春編だ。 これは、 学校からの独立と葛藤、 家族からの独立と葛藤、 常識からの独立と葛藤、 という、自己形成とそれができないことによる挫折と信念を描く。 代表作は「世界は密室で出来ている。」
7 :
吾輩は名無しである :2011/05/24(火) 15:31:38.31
ナラトロジーっていまどうなってんの
8 :
吾輩は名無しである :2011/05/25(水) 20:56:09.27
ナラトロジーはプロップとジュネットを数冊読んだだけの知識しかない。 あとチャトマンは少しかじってみようとは思ってる。 その前にルネ・ホッケとマリオ・プラーツだな。
9 :
吾輩は名無しである :2011/05/27(金) 17:00:51.96
ロシア・フォルマリズムは文学が文学作品だけで存在しているんだって理論ですか? それってマラルメにも通じるところがあるし、フーコーも自分の理論はフォルマリズムと共通点があるといっているんで気になるなあ 誰か研究してるひといませんか?
10 :
吾輩は名無しである :2011/05/27(金) 20:05:47.47
易化じゃなくて異化だよ異化
何が書かれているかではなく、どう書かれているかを問うべきだとしたのが、ロシア・フォルマリズムだね。 研究者なんて、まだいるんかな? 構造主義を準備したと言われるが、構造主義には殆ど何も回収されていない手付かずの原野だよ。
昨今だとモダニズム研究とセットになるから、二十世紀特有の理論って扱いに落ち着くかもな
でもロマン主義の批評がベンヤミンで活性化したみたいな再評価はあるかも いずれにせよフォルマリズムをそのまま実践する感じにはならないと思う
昨日
ビートルズにそんな曲があったな
つまらない
つまらないな
誰かいますか?
岩松正洋(千野帽子)がクズすぎる
詳しく
ここに感想でも書こうかと思って『可能世界・人工知能・物語理論』を読んだら、あとがき論説の尊大さと内容の無さに唖然とした
ロシア・フォルマリズムを体系的に学べる本ってありますか
24 :
吾輩は名無しである :2011/11/30(水) 20:11:03.91
コンパニョンで検索するとコンパニオンばっかり引っかかってこま
こんなスレがあったとは… アントワーヌ・コンパニョンかあ。
27 :
吾輩は名無しである :2011/12/01(木) 21:38:42.40
著者にこの注釈不要だよといえばいいだけで、新聞記事に書くようなことでもないよな
アントワーヌ コンパニョン「文学をめぐる理論と常識」 中地義和と吉川一義の共訳だね。ランボーの人とプルーストの訳者かあ。
30 :
記憶喪失した男 :2011/12/02(金) 09:26:41.22 BE:4311430597-2BP(1)
ここでやろう。 恋に目的などない。恋は幸せになるためではない。恋のために死ねる。 こんな恋愛がどんな物語になるのか考える。まったく想像できない。 おれの恋愛観はおかしいのかもしれない。 で、恋愛劇の構想を練るでし。
(・∀・)カエレ!!
32 :
吾輩は名無しである :2011/12/02(金) 09:46:54.03
刑事訴訟法は手続法であつて、刑事訴訟の手続を、ひどく論理的に厳密に組み立てたものである。それは何の 手続かといふと「証拠追究の手続」である。裁判が確定するまでは、被告はまだ犯人ではなく、容疑者にとどまる。 その容疑をとことんまで追ひつめ、しかも公平に審理して、のつぴきならぬ証拠を追究して、つひに犯人に 仕立てあげるわけである。 小説の場合は、この「証拠」を「主題」に置きかへれば、あとは全く同じだと私は考へた。小説の主題といふのは、 書き出す前も、書いてゐる間も、実は作者にはよくわかつてゐない。主題は意図とは別であつて、意図ならば、 書き出す前にも、作者は得々としやべることができる。そして意図どほりにならなくても傑作ができることがあり、 意図どほりになつても意図だふれの失敗作になることがある。 三島由紀夫「私の小説作法」より
33 :
吾輩は名無しである :2011/12/02(金) 09:47:47.08
主題はちがふ。主題はまづ仮定(容疑)から出発し、その正否は全く明らかでない。そしてこれを論理的に追ひつめ、 追ひつめしてゆけば、最後に、主題がポカリと現前するのである。そこで作品といふものは完全に完結し、 ちやんとした主題をそなへた完成品として存在するにいたる。つまり犯人が出来上がるのである。 (中略) 手続法は審理がわき道へそれて時間を食ふことを戒めてをり、いつもまつすぐにレールの上を走るやうに 規制されてゐる。私の考へる小説もさうであつて、したがつて私の小説には、およそわき道へそれた面白さ といふやうなものがない。しかし、それは作家の性格であつて、一概に小説とはむだ話の面白味だなどと いふのは俗論である。 三島由紀夫「私の小説作法」より
34 :
吾輩は名無しである :2011/12/02(金) 09:48:54.63
法律構成は建築に似たところがある。音楽に似たところがある。戯曲に似たところがある。だから、小説の 方法論としては、構成的に厳格すぎるのであるが、私は軟体動物のやうな日本の小説がきらひなあまりに、 むしろかういふリゴリスム(厳格主義)を固執するやうになつた。私には形といふものがはつきり見えて ゐなければつまらない。 したがつて私の小説は、訴訟や音楽と同じで、必ず暗示を含んでごくゆるやかにはじまり、はじめはモタモタして、 何をやつてゐるのかわからないやうにしておいて、徐々にクレシェンドになつて、最後のクライマックスへ 向かつてすべてを盛り上げる、といふ定石をふんでゐる。私にとつては、これがすべての芸術の基本型だと 思はれるので、この形をくづすことはイヤである。 かういふ私の性格は、残念なことに、毎回が短い連載形式には全く合はない。さういふ形式では最初の数回が 勝負であるのに、私は最初の数回で切札を見せるのがきらひだからである。 三島由紀夫「私の小説作法」より
「小説作法」自体にとやかく言う気はないが、精々チボーデ止まりの三島某など出る幕じゃないよ
36 :
吾輩は名無しである :2011/12/03(土) 23:21:14.12
プロレタリア文学は、文学ではない。あれは小説風エッセイでしかない。 一見、プロレタリア文学ではなさそうに見える作品も、内容は、 小説風エッセイで、文学とは呼べないものがたくさんある。
文学理論に寄りかからないと語れないバカw
>>36 小説とエッセイとの区別をご教示願いたいものだねえw
学問板にしては批評家の本を読んでる人は少なそうだなあ。 むしろ創作をやってる人のほうが多いのかな。
41 :
吾輩は名無しである :2011/12/04(日) 21:30:31.22
福田和也の本は読んでるよ
批評家ってまだ息してるの?
>>41 福田和也のほかは?
やはり日本の批評家のほうが読まれてるかあ。
>>40 >学問板にしては批評家の本を読んでる人は少なそうだなあ。
なんでお前ってそういう決めつけすんの?
大衆小説のジャンル論みたいなのって何かありますか?
47 :
吾輩は名無しである :2012/02/21(火) 01:11:27.91
ジョナサン・カラーのとか全然話題にならないね
というかここぜんぜん盛り上がってないな
批評があまり読まれてないってことか
コテがひどくてあまり最近立ち寄ってない あと、昔文学理論が好きだった層は、 映画などの別の媒体の方に移った人が多いんじゃないの
>>51 この板の趨勢から
けっこう昔から時々来ているので
常連さんちーっす
54 :
近刊情報 :2012/03/02(金) 23:57:40.09
読みの抗争(仮) 現代批評のレトリック
武田 悠一:著
発行:彩流社
予価:3,800円+税
ISBN 978-4-7791-1769-5
紹介
「読む」とは何なのか―。
「読む」とはただたんに理解すること、意味と格闘することではない。耳を傾け、
「他者(テクスト)」からの呼びかけに応答する「責任」を果たすこと、
心地よい理解を期待してテクストという「他者」を自己化するのではなく、
私たちを不安に陥れるかもしれない「抵抗」に出遭うこと―。
ジャック・デリダ、ポール・ド・マンの脱構築(ディコンストラクション)から、
バーバラ・ジョンソン、ガヤトリ・スピヴァクのフェミニズム・ジェンダー批評
へ−現代批評を鮮やかに解説し、「読む主体(読者)」とは何かを読み解く。
著者プロフィール
武田 悠一(タケダ ユウイチ)
南山大学外国語学部英米学科教授。著書等に『ジェンダーは超えられるか
新しい文学批評に向けて』(武田悠一 編、彩流社、2000年)、『読むことの
ポリフォニー―フェミニズム批評の現在』(武田美保子、角田信恵、岩田和男、
大野光子他 、ユニテ 1992年)などがある。
http://www.hanmoto.com/bd/ISBN978-4-7791-1769-5.html
質の悪い常連だけが残ったということか。 そりゃ盛り上がらないわな。
君にとっての質の良さが盛り上がってないのは理解した
57 :
吾輩は名無しである :2012/03/20(火) 02:35:07.42
雑談スレッド62のつづき。 近代化が取りこぼしたもののうち、「民衆の声」の貴重さは無視されている。 薩長同盟の倭民族中心史観に舞い戻ってしまい、 それ以前の藩閥政治時代にゆるされていた種類の高度の地方自治性は塗り潰される事になった。 実際、薩英戦争・下関戦争が独立して起きたのもこの高度の地方自治があったからだ。 つまり、明治新政府の方針の中で、記録されざる民衆の声は標準語教育への御一新でこぼれおちてしまう事になった。 よくいわれることだが、藤村『夜明け前』で有名な様に 明治維新では現実の民衆生活へはそのまま、中央からの上意下達の方式が引き継がれていた。 民衆達の置かれた苦しい事情は何も変わらなかった。単に将軍が天皇になり、派閥がいれかわっただけだった。 寡占政を維持したかった薩長藩閥は、民衆の声よりもみずからの権益を優先させたく、結果として自由民権論は弾圧されあの結束主義的な軍事化に進んだ。 こうしてみかえしても、文化の多様性を失わせた大きな理由の一つが、当時の非民主政的な国家統一観にあったと分かる。 天皇制度が維持されている今も、同じ構造がないだろうか? 標準語ではない言葉による声が弾圧されてしまうと、心理的な意味でも文化がやせ衰えてしまう。
58 :
吾輩は名無しである :2012/03/20(火) 02:45:18.17
人類のうみだした多くの文化のうち、どれが将来的に有用でどれがそうでないか、 結局どれが生き残りへの狭い門でほかがそうでないかを見分けるのは難しい。というか不可能だ。 ありたい事は多様性の構図が維持されながら、地球の周囲に共生している事に過ぎない。 そうしてみれば、標準語統合主義も、国連統合主義も、或いはノーベル賞統合主義も本来の文芸の自由に反していると分かる。 民衆の声もそうだが、何らかの模倣、ミメーシス、まねごとと見た写しは、なにも文芸限らないが、ありたいだけ多様である方がいい。 レイヤーとしての標準語がその中の統一コードとして働けばいいのであって、それが強制されるべきではないだろう。教育方針にせよ。 商業主義というものも同じ事で、売られないからといって貶める理由は全くない。宮沢賢治の有名な『雨ニモ負ケズ』がどうしてそこから生まれえたというのか。 多様性を文化に保つ方が長期的に見て得る所大きい。五族共和を謳いながら共産党主導の中国語世界を作り出している場所とは異なる、地方性の豊かさを保つ方がいいと思う。
59 :
吾輩は名無しである :2012/03/20(火) 03:21:09.75
春樹とわたやを論じられてなんぼ
60 :
吾輩は名無しである :2012/03/20(火) 03:43:44.44
この多様化イデオロギーは国家とみればややこしい場合もある。 いわゆる多文化主義の失敗とかファシズムの再燃。黄禍論や白豪主義、原理主義を引くまでもなく。 よって、政府のレベル、つまり国家とか人倫、全体性のレベルでは法的に統一化を行なう必要もかなりある。 しかし、ただの民衆の次元ではおそらく有益だろう。文化の面で。 単に多様な文化があるというだけでも、人間の意識は変わりえる可能性を持っている。
61 :
吾輩は名無しである :2012/03/20(火) 04:23:36.55
62 :
」 :2012/03/20(火) 11:55:58.54
『文学板の構造論』 by 」 文学板とは何をする所か? 現役作家共の文句をいう場所? それとも、過去の彼らへの情報交換の場? 単に創作のよすが? 実は、文学板なるものが文学なのだ。驚くなかれ。これこそ「文」の学問経過そのものなのだ。 我々はこの板に、パピルスを傷つけていた先人や書簡に何かを刻んでいた古人と似た、 ある作為を行なう。乃ち、文芸としての学問とはこの文学板というものそのものの媒介らしさなのだ。 いうなればすべては文学板なのである。我々の心象を映し出す鏡としての。――はるの日にしるす。
63 :
吾輩は名無しである :2012/03/20(火) 12:27:43.58
上知と下愚は移らず 高学歴になったって、本を一杯読んだって、大学教授になったって、プロ評論家になったって、齢70を数えたって 下愚柄谷は下愚のまま ,.... -─-r‐- 、 __ /,シ/ィ /lj !ヽヽヽヽ\ >国家とか人倫 // / ///l|ハl | ヽ丶ヽヽヽ ,.'// 川 | | |l-ゝ! 、 ! | l l | l ヽ !イ //!j !l | l、ゝ==、` lj y'jヾjノ | !/,.- 、!|ヾ!` ヽヾ;;シ ィ;}'´ l ハ rソミ、 `''" 丶ヽ ヽ!j,ヘ、ヽ,! "" _ j ゞ彡ゝ、 u / | rヽ`フヽ _____/ ! lハYゝ,l ! j /∠ミヽ ヽ、_ ゝ- 、 l/ l ヽミΞ=-ニヽ_!lト、 / /l ヽヽ、二ニミゞlノト、 ,.',ィ'ソ| l´ ヽ-- ─‐rニゝヽ 御前賀 夕菜
64 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 13:36:42.10
文芸は、少なくとも日本の文芸は、私小説−文芸誌のループでガラパゴス化している。 小説家といえば駄目人間の変わり者、というレッテルもそうやって無批判なマスコミによる洗脳から生み出される。 平野が東との対談で危機感を持っていると発言していたが、当人はこのループを利用しているに過ぎない。 基本的に、システムは年功序列や新卒採用を模した状態に納まっているので社会からのはみ出し者さえこのレールで特殊化され、奇形味を帯びて終わる。
65 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 15:43:12.03
でポストモダンな文学理論まだー?
66 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 20:26:02.59
サブカルとしての文学。
文字の芸術って昔からそういうもんじゃねw
たまに勝手に高尚なものだと思い込む人間が出てくる 高尚なのは「文学」全体ではないのに
69 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 20:46:17.51
具体的な文学理論まだー?
70 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 21:05:16.74
そこで、文学板のマンガ読み率が知りたくなる。
とりあえず市川春子とか褒めておけばマンガ読みっぽい
72 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 22:21:44.82
>>68 高尚ぶるつもりはないんだが、マンガは読まん。
マンガ読んでて本当に大衆文学がやれるか?
73 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 22:24:59.32
お上が「世界に広がる日本のマンガ」とかアホなこと 言ってるんじゃ文学は廃れるからな。
大衆文学って、昔言われてたときは時代小説などを指すカテゴリーだったよね
マンガ読まないって自慢するのは、むしろ知的関心に乏しいと告白しているようなものでは
いろんなやり方があらあな
77 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 22:42:13.40
でも「なんでも関心を持つ」と注意欠陥とか言われるんだよな
どんな分野にせよ、関心がないというのは自分の限界だと思うんだが それを誇るのって馬鹿じゃね
そら人間の関心にもキャパはあろうよw
二十世紀文学において映画を完全スルーとか難しいのと一緒
82 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 22:43:46.45
物分かりのよさそうな御方が多いですのぅ
自分のキャパのなさを「そんなくだらないことに興味をもつ奴がおかしい」とか正当化する奴は、頭がわるいと思う だから俗悪とかなんとか言うほかなくなる
わからないので無関心ってこともあるのでは
85 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 22:45:01.89
マンガ坊主ども必死だな。
86 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 22:46:52.34
マンガ取り上げられると、空気のないところで 羽ばたく鳩みたいになるんだな。
87 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 22:48:55.31
政治家のロクなのおらんわな。
>>83 どっちもどっちじゃねwww
>>86 芸術とはそういうもんだと思った
あ、独り言です
89 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 22:51:56.97
世の中が幼稚化してんのは分かってんだけどさ。
90 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:03:09.84
例えば小林にはのらくろの弟がいたし、切り捨てたりはしなかったろう。 しかし、話題にもしなかったな。小林がマンガ読みふけってたら 困るだろ。
91 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:04:21.34
マンガが頂点に置かれちまう!
92 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:06:41.44
練炭持ち出すなコラ
頂点とかあんのな
94 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:20:19.52
ブランドスーツ着てブランド時計とブランド靴履いて外車乗って 高級マンションに暮らして、マンガ読みふけってたりするんだ ろうか?
前半と後半のつながりがわからんw
96 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:24:01.69
マンガってのは大衆文化だし、文学エリート主義も下らないが、 マンガがやれることをわざわざ小説で読む必要はねえだろ?
それぞれあっていいんじゃね
笙野スレにもこういった「文学とマンガのライバル関係」みたいなのを主張する人がいたなあ その人はマンガ支持派だったが それぞれそういう表現分野でしかなくね
99 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:33:24.78
2ちゃんねる辺りにゴロ付いて、世の中の雰囲気に半端に 染まってしまうと、自分のことが「なんでこんなに活字ばか りのもの読んで面白いのか」って、ふと不思議に感じるのな。 世の中の雰囲気ってそんな調子でねえの?
100 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:35:24.62
挿絵もないんだぞ? おまいら信じられないだろ?
101 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:44:00.46
大の大人に聞いてんだって!
>>99 2ちゃんも活字じゃね
>>100 ちと被害妄想入ってなくねwww
普通の人でも大学に行ったら論文くらい読むだろうよ
まあこんな言い方するといやがられることが多いのはわかって言うが、
>>100 の人は自分の自我同一性の拡散による不安を「文学の衰退」に投影しているってことになるだろうな。
104 :
吾輩は名無しである :2012/03/29(木) 23:48:10.56
ニート増えるだろう?
世の中から自分を引き離したいのは事実だね。 ちょっと名無しを停止。
若い頃はマンガは読んでたから、世の中の雰囲気は分かるんだけどさ。
張り切って自分語りをどうぞ 文学vsマンガ論とかでごまかさずにな
物わかりの良さそうな面したけりゃすりゃ良いさ。そんな奴ばかりだ。 しかし俺はお断りだ。
全く世の中は物わかりの良さそうなバカばっかりさ。
マンガvs文学論も、「物わかりの良さそうな面したけりゃすりゃ良いさ。そんな奴ばかりだ。」も「世の中」だよな
人に嫌われなくないだと?w
世の中から自分を引き離したいくせに世の中のことばっか言うのな君www 自分語りしたまえよ、世の中なんて対照項なしに
見ろや、この戦後民主主義の完璧な成果! どいつもこいつもマンガに夢中!
そんなんでエリート面されたらかなわんて。 そんな奴はねえだろうな?
世の中への不満はわかったから、君の話を聞かせてくれないかな
ここまで君が述べている「自分」は、世の中の対照項としてしか語られていない 世の中とは関係の無い君を述べてみてくれ
何でもかんでも関心向けりゃ良いってもんでもないぞ。 何もかもになりたいか? 俺は俺自身でありゃ充分だ。
君の関心は君自身ではなく自分を引き離したい「世の中」に向いているように見えるが
勝手に他人の分まで生きようとすんなコラ
ちょっといいセリフだなw
121 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 00:44:50.90
水牛顔妖虫殲滅。
伸びてるとおもったら雑談スレに乗っ取られたのか…
小林の妙な文章読んで発動しちまったわ。
「乗っ取られた」とか「取られた」みたいな争奪戦的発想好きだよな、みんなw
上から目線で他人様を見下ろすんならテメエの二本のアンヨで 立ってナンボだぞコラ
そういう君は立ててるのかい? 「(こういう)世の中ではない俺」という言い方しかしておらぬだろう。 それは「テメエの二本のアンヨで立って」いるのか?
127 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 01:14:24.91
名無しミニハンガンガレ 笑
あ、勝手にやってますのでお気遣いなくw
>>126 貴様がこの世から消えても痛くも痒くもないのは確かだ。
地獄の火に投げ込まれてもなw
人類皆友達とか思ってねえよ。 糞野郎は糞野郎だ。
仲良しクラブで寝起きしてんのか?
この罵倒によって文学理論が進展するのだろうか
あ、余計なこと言った。お前らディズニーランドで暮らしてるんだったなw 達者でな。
134 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 01:54:59.29
小林と同じ能力を持ち合わせないものが かっこだけ真似しようとしても中身がついてこないのだよ
アイドル子ちゃんじゃねえんだから誰彼なしに愛されたいとか 気持ち悪いこと考えてねえよ。 何が文学理論だこの野郎。
エセ無頼乙
愛も憎しみも「関心」なのだよな。
なにこの厨二病全開のコテ
この手の幼児性に対する分析は絶望先生を参照のこと
そういや石原が国際コミケだかの委員長やってたな。 そのせいか知らん。 マンガバカばかりさ。
>>136-139 ああ、貴様らに理解されたいとはつゆほどにも
思ってないよ。
俺には理解者なんて下らないもんはいらんw
ああ、人に愛されたくねえ・・・
全く理解者なんかいらねえさ。 そもそもこんな時代の奴らに俺が理解出来るはずねえ。
マンガ読みながら文学理論はねえだろ? なあ? 恥ずかしいだろ?
俺は消費されるだけのものばかりな同時代文学とかには手は 出さないんだが、マンガなんて古典も伝統もねえ世界だろ。
ハイイメージだ! 次々と消費するぞ! とか言いながら文学も消費する。マンガ読んでいろと。
平日の昼間に必死の連投涙をさそう しかもわざわざageてやがる…
でもマンガ読んでるんだろw バカ相手もそろそろお終いだ。
日本が誇る文化なんだろ。 何この鼻くそみたいな国?
150 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 16:58:56.20
このマイナーコテは昔からいるアホだな 確かウィルソンを読もうとして挫折したとか
何が愛国心だこの野郎w 今年で2ちゃんねる十年です(笑 最初はこの板だってコテだったろ?
>>150 エドマンド・ウィルソンなんてとっくの昔に読了したわ、ボケ。
読み進めなかったのは『パトリオット・ゴア』だけだな。
あれは背景にダーウィン論争とかもあるからな・・・
近代ってのは科学的リアリズムで迷信を払えって時代で、 神話もフィクションも一緒くたに追いだそうとした。 で、小説のリアリズムを追求する内に、小説のフィクショナルな 性質そのものを私小説という形式でノンフィクショナルなものに 置き換えようとした。これが日本の自然主義の一断面だな。
154 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 17:38:34.45
読んだのはウィルソンだけかよ あんたかなりしょぼいな
質問は?
>>154 いや、お前が件寒流とコバしか読んでないのは分かるw
池沼右翼はマンガ読んでろ。 バブル期のポスモダなんてフィクションとしての小説を丸ごと 廃棄したがったろ。そりゃ文学は廃れる。サブカル文学だけさ。
サブカル文学は消費される「小文字」の文学だから、お目こぼし にあずかるだけだ。
>ああ、人に愛されたくねえ・・・ >全く理解者なんかいらねえさ 不特定多数に向けて開示される巨大掲示板にこんなんばっか書いてると どう読んでも「ボクを愛して!ボクを理解して!」という反転表現の 下手クソな厨二病メッセージの痛々しい叫び以外には見えん 思い通りにならん世界への呪いを延々と一人でぶつぶつ愚痴ってる壊れた感じの酔っ払いかよ よくいるよなぁ他者攻撃することでしか自己表現できないしょぼい奴 ありふれていすぎて面白くも糞もない おまえのレスはただ単に幼稚なんだよ もっと説得力持つ論理展開するかもっと昇華して表現しな 文学気取ってるならなおさらだぜ
涙拭けよ…
80年代的理想主義は「ソ連が悪だ」って叫んだら 何でも通っちまったからなw
スレチだ他でやれアホども
80年代言説から逆算して文学の地位がどのように 変化したかを分析するのは、充分に文学理論の 問題だろ?
「ポストモダン」というよりは「ネオモダン」だな。 「アンチモダン」として売り出したのは、マルクス 主義が「モダン」の代表と見なされたからなだけ。
>>164 単なる受容史と時代間比較だけにとどまってるととても文学理論の範疇とは思えんな
それにひたすらマンガを馬鹿にしているだけの発言のいったいどこが文学理論なんだ?
頭悪すぎないか?
167 :
吾輩は名無しである :2012/03/30(金) 22:26:46.17
クロスオーバーさせるのは、サッカーだけにしてください
>>166 まずは文学を考えるのに適切な地平にたたなければなるまい?
マンガ、というよりもサブカルチャーの水平的流動性が 非文学的地平を生む。 携帯やネットが登場すると文学でなくなってしまうのは、 それが抱えている背景のせいだろ。
本物のアホのようだ
ボキャブラリー増やした方が良いぞ。ジャーンとか ドカーンとかあんまり会話で使うなよ。 サブカルチャーというのは、もともと少数民族文化の ことだな。アメリカという中心と、その中心から外れた 日本文化のような。
コテも勢いでつけたみたいだしお前らもちっと長い目でみてやれよw
173 :
ゴミ箱 :2012/03/31(土) 08:59:50.60
>>169 >マンガ、というよりもサブカルチャーの水平的流動性が
非文学的地平を生む。
つまり文学的なものは垂直的なものだと。
こんなに盛大に恥をさらしまくるアホコテも珍しい 低俗(考え方・傾向などが下品で程度の低いこと)の塊のごとき発言の羅列で 脱力するような高尚を気取りなんとか自分以外の低俗を見つけ出して貶めなければ気が済まない 腐れた見当違いの情熱、あまりにも肥大した自己愛、徹底した能力不足 見苦しい以外の何も見出せんわ
垂直ってなんだろうなあ
176 :
吾輩は名無しである :2012/03/31(土) 11:34:56.13
地方労働者は処刑ライダーという古参だよ 見守らなくてよか とりあえずウィルソンについて語ってくれ できなければ痴呆労働者に改名よろ
垂直ってヒエラルキーのことだろうな で自分はリアルのヒエラルキーから抜け出したい、と リアルの垂直ではない文学という別の垂直なら俺は、とかって発想なのかな
ウィルソンってアメリカの左翼なんだから、 民衆のことを見下すわけがない コミックス文化とかな
文学批評理論関連で「垂直」ゆうたら 真っ先に出てるのはロラン・バルトの「垂直の大騒ぎ」だと思うが 少なくともクソコテはそんな次元にはいない ミニハンがちょっかい出すと余計混乱するからつつしめ
水平という言葉からキルケゴールの『現代の批判』を 連想するのが普通だろう。 バルトは寿司ネタの話ししか知らない。天ぷらだっけ?
こっちは勝手にやるので気にしなくていいよ 暴走族なんか反社会的なわけだが、彼らの中での上下関係はあるわけやん、ヒエラルキーがある 一般社会の垂直か、暴走族あるいは文学という集団における垂直か、という話かなーなどと 一般社会の垂直の方が上だ、暴走族あるいは文学という集団における垂直が上だ、という議論はどう成り立つんだろ 垂直同士を比べるメタ垂直みたいなのがあるのかね 数学的な座標軸の縦横とかとは別の意味がここでの水平・垂直にはあるよな
集団の属員の数で垂直の上下が決まるわけじゃないだろー? それならそれこそ文学はアニメより下となる
人間は立つときは垂直に立ち上がるもんだ。
属員の数ではなく、個々人の尊敬という感情、心理の問題だろうな 個々人の尊敬という心理の上下を決めるのがメタ垂直?
>>176 もっと古いバージョンがある。ギャグが好き。
>>183 座標変換すればそれは横になる
数学的な縦横とは座標軸が直交軸であるということ以外に本質はないわけだ
ただし地面を考えるなら、重力という要素が絡んでいるだろう
だが重力は10mの高さでも100mの高さでもほとんど同じ
逆に同じ海抜0でも日本と赤道上では微妙に違っていたりする
重力というのはベクトルであって座標軸ではないんだよな
>>183 をそのまま採用すれば、「重力に抗う力」としての垂直なわけだな
言った本人がマンガになってしまっとる。 2ちゃんねるだからってのはあるんだが・・・
大衆化社会ってのは平等主義が基本にあるもんだから、 水平というものを連想しやすいだろ。 安易な奴らは貴族主義ファシズムにピョンと飛びつくんだが。
なんどもいうが文学批評理論を絡めないならスレチだ出てけ ドへたくそな文化批評では不足だからな
三島信者から抗議を受けました。
>>189 垂直の対立項は水平ではなく、下方向を規定する力としての重力だってことじゃないの
それに抗いたい、と
水平がいやなだけなら重力に従って落ちるのも選択肢になりうる。
水平とはそういう平面でしかない、上にも下にも逃れられる
そうではないのならば、その「抗いたい重力」とはなんぞや
いやまあ心理系の用語はもうすでに言っちゃってるけど
>>188 文学もマンガも2ちゃんねるも関係なくね
そういう心理の人はそこいらにたくさんいると思うよ
>>190 過疎ってたんだし多少はいんじゃねwww
ただし、水平の力ってのもあると思うんだよ、数学的ではない、一般的こう言ってよければ文学的意味での水平って たとえば「みんないっせいにゴールインするかけっこ」なんかは、上方向にいくのを阻んでいると同時に下に落ちる力を阻んでる 水平面(線でもいいが)より上にいくのも下にいくのも禁じている この力に抗うのは「重力に対する抗い」とは言えないだろうなあ と思ったが、文化的縦横って結構座標変換されてると思うんだよな 横が縦、縦が横になることが
つか「同じスタートライン」の時点で水平の力な気がするな
そりゃ、生まれて来る時は皆んなヨブみたいに 「我は裸で母の胎を分けたり」とやるだろ。
縦横ってくるくる座標変換されるものだとすれば、逆に言えばある軸を縦と言えばいいわけだ 縦横とは任意であると ある軸を「文学」と名付けて縦にしてるだけなんじゃないの
横並び教育を批判してた身障者の人のブログ思い出した 「重力」によって規定された下方向の果ての「底面」みたいなもんがあるんじゃないの その「底面」が「水平の力」でもあると 有限系としての心理か
やっぱ「重力と恩寵」風の黙想の世界になるな。
で、80年代後半以後の日本のサブカルチャーブームは、どちらかと 言うとカウンターカルチャー的であったと。
201 :
吾輩は名無しである :2012/03/31(土) 16:55:29.99
ショケイはヴェイユ読んだのかよ?
ヴェーユ選集全五巻を揃えるために 東京中の書店を這い回ったが? 90年代の初め頃のこと。
「地獄の季節」みたいな真似を地でやってしまって、 いきなり神がかりになって間もない頃。 んなことはどうでも宜しい。
旧仮名で自費出版しているおっさんとキャラがかぶってるな
ヱバとか大好きなんでねえの? 今時のヤングは?
俺もこんな長生きする予定はなかったのに、 すっかりおサーンになってしまった・・・
「クールジャパン」ってのはニヒリズムのキワモノ趣味だろ。 政府の間抜けヤギどもに教えてやれよ・・・
なんか大人しくなってきたな
消費文化ってのは、文芸の世界とはちょっと 折り合いが良くないな。 煽ってたのは吉本のジジィ辺りか?
どう折り合いが悪いのだろう 消費文化は水平の力を強めるってところかねえ しかし資本主義文化だと捉えればそれはお金による縦が規定された文化だとなる
コテ付ける意味もなくなったな。止めた。 バブルにウンザリしてキレたのもジジィのせいなら、 ヴェーユ知ったのもジジィを介してか・・・
>>210 タルコフスキーの『ストーカー』で、作家が「百年後に
読まれなければ書く価値がない」って愚痴ってるだろ。
それこそ「時代を通じて人々に読まれるか」「その時代の多くの人に読まれるか」ってのが縦横になってはいるよな 文学村の大体構造として
小林のマルクスを巡る古典についての議論?
「流行神」みたいな奴はいるけどな。
216 :
吾輩は名無しである :2012/03/31(土) 21:44:37.81
「大衆的」という言葉の裏には「皆んな一緒」って 安心感がある。 しかし、それだけに人は安住出来るものか?
死んだあとも名を残すなんて欲のかきすぎだ♪
>>216 祖先や未来の人たちと「みんな一緒」もあるんじゃね
それじゃ進歩がない。 抽象理論が苦手なんてソクラテス式になっちまうな。
マルクスは、ギリシャ古典の地位を無条件に認めた上で、 その本質を文明の青春期故のものだと見なしてる。 小林は、これを素朴な味方として、むしろ古典の古典性は 後代の付加によるものだと主張してる。俺もどちらかという と小林寄りの立場だな。東洋人だからか知らんw
祖先や子孫もそいつの妄想でしかないからなあ
「素朴な見方」、ソクラテスは偉大だが。 メシの種に書き散らしてるだけなら悩むこともあるまい。 一切は流れ去る。自分の生きた痕跡も消える。
流れ去るのならほっときゃいいんじゃねえのw マンガも
バカは放置。
226 :
吾輩は名無しである :2012/04/01(日) 14:20:53.66
文芸誌に寄生した連中は銭儲けか風俗壊乱しか頭にない。 一度上がると二度と落ちないから調子に乗る。 大江や石原の世代からそうなってるな。
227 :
吾輩は名無しである :2012/04/01(日) 14:28:26.49
綿矢りさ 金原ひとみ 平野啓一郎 川上未映子 田中慎弥 西村賢太 村上龍 村上春樹 大江 石原 主要なキャラが全員風俗壊乱的悪漢小説屋だから。どう仕様もない文芸誌。
228 :
吾輩は名無しである :2012/04/01(日) 16:10:38.75
ネットでparadigmがとっくに変わっているのに、 いつまでも文芸誌‐私小説のループにこだわっているのが多数派。 金と権力の旨みから抜け出せない。 その団塊世代の象徴=龍・大江・石原・春樹 一個下の世代では、このシステムの旨みを吸うのに適応した 綿矢りさ 金原ひとみ 平野啓一郎 川上未映子 が大口あけて子作り。 田中や西村はその中間地点で右往左往しどちらものこうもり役というところか。 土台、状況は私小説が出版業の中で「小説なるもの」とされるシステムを利用していて、 矢野とか自称やり手がそうでない傾向のものを権力をつかって学歴社会の保守性の中で工面して差異づける級のもの。 革新性はネット上でしか不可能な状況は依然変わらないが、その種の傾向は文芸誌のカルテルからはじかれるしくみ。
229 :
吾輩は名無しである :2012/04/01(日) 16:15:11.14
ゆうすけはくんなって おまえはドナキンスレから出てくるなよ
お前が来るなよ。俺はお前に来るなとは言ってないだろう。邪悪な綿矢りさ。 対話できる俺をはじくお前が悪玉で、社会的多様性を消してしまっている集団主義者。
言論の自由を抑圧するな。邪悪な綿矢りさ。
だれだろうと文学批評理論を絡めないならスレチだ出てけ
233 :
」 :2012/04/01(日) 16:24:25.70
要は、パラダイムが日本独自のガラパゴス化に進んでいる一方で、 その外側にある何らかの傾向は問答無用で抑圧されてくるか、 もしくは、欧米崇拝の延長でそちらのものが逆輸入されるかしか流れがないのが貧困という話。 単に市場と見てだが。
英語を公用語にする企業がもてはやされる時代。
こんな世の中じゃ
236 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 22:15:40.76
あから様な結論だなw
237 :
吾輩は名無しである :2012/04/02(月) 22:25:50.91
>>233 日本語そのものを「ガラ言語」で
アメリカじゃ英語が大流行なんだろ。
238 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 03:04:35.72
小説なんて読む奴は馬鹿
239 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 08:09:06.04
文学の理論家って日本にいるか? 批評家やエッセイストはいるだろうけど
240 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 08:20:50.90
大衆から遊離して文学は成り立つかって議論もあるが、世間は 相変わらずAKBがどうしたって調子。
241 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 10:04:20.16
NHK東京の職員にGPSを付けろGPSを。
文学理論って実際には文芸批評理論のことだよね 名前のせいで、なんか勘違いしてる人多そう 文学理論を学べば文学が分かるとか 実際は、文芸批評が分かるだけなんだけど
物語理論と文学理論は似てるようで違う
narratologyのことなら、ふつうは物語理論じゃなくて、物語論っていう 物語の理論、narrative theoryではなく、narratologyなんだ 文学理論が文芸批評を研究するのと違って、物語論は物語自体を研究する
245 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 18:55:05.49
読まれもせずに書庫に押し込まれる研究書を 書くための学問?
246 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 19:12:35.66
文学理論と文芸批評って違うものなん? おばかなおいらに解説してけろエロイ人
伝統のない国は形式を整えることでそれを補いたがるかね。
伝統がないというより、歴史そのものを拒否したいからか?
それどこの国に言ってるの? ドイツ?
250 :
吾輩は名無しである :2012/04/03(火) 21:52:04.13
ホホホ、どこでしょう?
>文学理論が文芸批評を研究する これは違うと思うがの
ナラトロジーは文学(批評)理論の一つであって全体ではない
253 :
吾輩は名無しである :2012/04/04(水) 07:57:44.78
literary theoryがliterary criticを研究する、 単にtheoryと見れば、criticismの方法論だからそれほど意味がずれているわけではない。 漢字の意味は多少ずれがあるが、批評性は理解だから、意味が違うわけではない。それらは理論だ。
254 :
吾輩は名無しである :2012/04/04(水) 08:02:56.30
日本人のあしき慣習の一つに個性侮辱がある。 こうやって会話も、文体で見分けなければならないから面倒が多過ぎる。 ドイツと日本の類似性がこの個性侮辱。リテラリークリティック。 これに対してこの文体論をするのがリテラリーセオリー。なぜならクリティカルな形式だから。
1.理論を用いて文学テクストを研究・批評する 2.批評自体を研究・批評する どっち?
256 :
吾輩は名無しである :2012/04/04(水) 08:14:48.22
>>255 1.
もっとも上位にあるのが文芸理論。
他は下位。
ただ、文芸理論からは個々の文芸は出てこない。
理由は、文芸の上に考察があるのであって理論から考察されるものではないから。
2.でいう批評の研究は、批評の技術、つまりrhetoric:修辞学でしょう。哲学的にいうと。
批評の対象を問わないで批評性そのものを問うのは、修辞術の問題ではないか。
なんだか考え方が妙に偏ってる感じがするの 単にそれぞれの思想体系(理論)を用いて文学を楽しむんだとおもうんだけどね 仕事行くからばいびー
>理由は、文芸の上に考察があるのであって理論から考察されるものではないから。 これは文芸に限らずすべての理論がそうだわな
でどんな理論も考察対象のすべてを言い切れるわけでもないと だからと言って理論を切り捨てるとかじゃなくて 新しい発見があれば理論は変更されると 今までの理論を用いて新しい発見があったりもするだろう
つまりはあんまり対立する話ではないような
261 :
吾輩は名無しである :2012/04/04(水) 09:06:23.76
ヌーバレバレ(笑)
>>255 批評自体ではなくて、批評の方法を理論化したものが文学理論なんじゃないかな
だから、「理論を用いて文学テクストを研究・批評する」ことができるわけで
文学の技法や形式を分析するのも文学理論だし、フェミニズムや植民地主義を発見するのも文学理論。どうやら後者は文学からかけ離れて思想を社会に訴える狙いのものがあるね
>思想を社会に訴える狙いのもの そういう文学もあるよな
文学で思想を表現するのと文学を利用して思想を表現するのとではアプローチが違う。後者では文学研究といえるのか疑問。主が思想で文学が従のような関係になってくる。
>>265 後者でも文学研究と呼んで差し支えないと思うよ
テクストに新たな意義を紡ぎ出す手法の一つとして
数学みたいに正しい解なんて無いものだしね
テクストをめいっぱい面白がって遊ぶのも文学じゃないかな
英語圏に絞るならば、ニュークリティシズムと脱構築批評の関係を調べれば色々わかるんじゃないの
ジェンダーとかエスニシティ研究の政治性がウザイと思ってる人は、脱構築批評とそういった政治性の関係を追えばいいと思う この二段構えでだいたいの構図はみえてくる
>>267 なんで一気にニュークリから脱構築に飛ぶのかわからん
>>266 差し支えないよ。そういう研究が好きならすればいいよ。ただ、文学理論である以上は根底に「文学とは何か」って言うのがないと文学理論といえないじゃないかって。
>>270 >テクストをめいっぱい面白がって遊ぶのも文学
これが「文学とは何か」への返答だよ
逆にニュークリ以前の意味確定的な文学理論は
予め込められた作者の意図を取りだしたらそこでおしまいみたいになっちゃってつまらん
ってのが受容理論で言われてたな
受容理論やテクスト理論以降は テクストから確定的「正解」を抽出したらおしまいみたいなことにはならない そんなんじゃ正解を取り出したら後は残りかすだしそもそも文学テクストなんかにせずに まんま論文で書いた方がいいってことにさえなりかねない 文学はそういう「閉じた」ものじゃないもっと「開かれた」ものだろう 読者によって自在に意義を付加していって楽しむ広がりのあるものだ ってのが根底の主張にあるかな
>>269 俺にはわかる・・・
ジョナサン・カラーの「文学理論」と「ディコンストラクション」を読んだから
>>273 ならkwsk
俺には途中を省きすぎていてなんか気持ち悪いつなぎ方
実際のところ、新歴史主義の影響は大きいと思う 文学史と通常の史学を組み合わせる路線は、 才覚がないと難しいテクスト論よりも、 題材の面白さで興味を惹くことができるので、 著者にとっても読者にとってもおいしかった
>>274 理論学習をおもいっきりショートカットすることが狙いだから
あなたのように詳しい人には言わずもがなだろうと思う
273の通り、カラーの路線を想定しているんだけど、
カラーの本だけだと彼の淡白な書き方もあるので、
実際に追体験することが難しいと思ったんですね
新歴史主義において歴史は客観的で確固とした事実としてではなく、 語り手によって再編されていく物語の言説として扱われる。 (wikiより) これも一応受容理論の延長線上にあるともいえるんじゃないかな 歴史を絶えざる再解釈が行われ再生産されるテクストと見なしてる 面白いやねー
>>276 ふむ
個々の理論が先行する理論の批判であったり乗り越えを意図して生まれたりしている以上
順を追っていった方が結局のところわかりやすいと思うなぁ
歴史を学ぶときみたいに前後の関係性からみないと一点把握の方が実はムズイような
>>278 個人的には脱構築=なんでもありみたいにまとめられる風潮に疑問がある
ド・マンあたりは精密批評を強く意識しているので、
岩波文庫エンプソンの訳者解題にも不満がある
>>265 どちらも言葉を利用して表現しておる
文学も思想も言葉
281 :
」 ◆WEpcY7BP76 :2012/04/04(水) 22:18:44.60
この分野でもう少しすると千葉が出てくると思うけど、 カント判断力批判以後は理論的透視法がそれ程移動してない。 そこでいう「天才」がまだ使われてる。 平野『葬送』で判断力批判を登場人物達が批評する訳だが、 この認知論のパースがもう直ぐ崩れてくる。 映画・アニメ以降の物語論もそれを取り込むだろう。
千葉って誰よ
283 :
」 ◆WEpcY7BP76 :2012/04/04(水) 22:44:49.47
>>282 千葉雅也
細分化しないで言えば、
文芸理論は分類学でしかないのではないか。
テクスト論・エクリチュール理論・文の分析が、
言語学・文字学と混雑させたが、元々は。
創作理論じゃないものとみれば、創作物の分類が詳しくなるだけ。
284 :
」 :2012/04/04(水) 23:19:33.14
文学・literatureの古典的高貴さみたいなのは いまだに懐古的に使われるけど、 ポップカルチャー以降はそうでもない。寧ろ人後に落ちる。 西洋中心主義も似た意味で古典主義的に使われるが、 本質から見れば同じ潮流にある。 アニメやマンガが戯作や絵巻にかけて持ってきたものが益々そうさせた。 大衆的娯楽と貴族的なそれとは殆ど違いがない。 この理論的地平が必要で、自由主義圏で求められていると思う。
285 :
」 :2012/04/04(水) 23:26:48.13
「小説」が純文学と自然主義派の画策によってメインカルチャー仕立てにされてから、 元々、小説の俗物模倣・卑俗性として語られた理説はかき消されてしまった。 私小説とまで来ると益々そうなる。 漱石は典型的な私小説を、実質、一作しか書いていない。『道草』だけで、 他は私小説としての手法を殆ど使っていない。劇作や文芸でしかないだろう。 漱石にとっても小説は卑俗な手法だったとおもわれる。 柄谷が『近代文学の終り』でいう社会的影響力の終りという意味は、 自分の言葉でいいかえると、近代的個人の自己同一化による慰み物としてのリアリズム小説、が 歴史的な再生産に終わったので芸術史上の、ここでいう歴史主義的な創造性をもたなくなった、という事だが、 テーマ批評・主題批評という方法論を入れても、文芸の分類学は小説を小さな分野としてしか持たないだろう。 これは単に近代科学のもってきたある透視法を語りに仕立てたものでしかないし、世界観としても決して不動不変ではない。
286 :
」 :2012/04/04(水) 23:36:30.04
小説中心主義的な批評のperspectiveはある勘違いでしかないし、 近代的思い込みを逍遥イデオロギー限定に信じ込んでいるだけ。 この近代的思い込みから見れば「生霊」「地霊」は実在しない事になってしまうし、 そこから見ればジョイスも漱石も、或いはデリダも「言葉遊び」になってしまう。 詩劇のrealityが近代のOSで止まっている事を批判的に実践した書物は、 主に日本では文芸誌という保守市場とマスコミのカルテルで抑圧されてしまう。 けど、子規のいた明治まで遡るだけでも、この別のrealityの方が本来の文芸の世界だとわかる。
287 :
吾輩は名無しである :2012/04/04(水) 23:52:21.02
日本的又は関西的東京的湿潤性が、 この時代に、日本語で書かせた文章が 殆ど陰湿な悪さの描写に終わった、というのは 近代の日本の小説のひとつの限界だったのだろう。 その風土の抽象と見て、 その性質を持っている書物はごく奇形的だし 世界中で見て日本の風土にしか量産されていない。 陰湿性を示す人物、川端と大江の小説がスウェーデンから「日本的」とオリエンタリズムで偏見づけられ それに当の東洋人が無自覚に乗って、おろかにも日本人代表振るものだから益々この陰湿性しか出現しなくなる。 ねたみ深さとか足の引っ張りあいとか自殺物語とか、売買春とか淫行とか不倫とか陰惨な殺害とか銭儲けとか、 こういう側面が極大化して示されている日本の近代小説は、世界的に見てもガラパゴス的書物群だが、別に意味がある陰湿さではなく、 単にその不潔な風土の象徴化なのだろう。それは文芸誌という場所そのものの特性でもあり、彼らの女々しさの抽出でもある。
288 :
吾輩は名無しである :2012/04/05(木) 00:07:17.53
受容理論って今はどうなん?
千葉雅也は偽物だと思うよ
評論家だ哲学者だとかと言ってるヤツにホンモノなんていないよ。(笑)
>>288 テクストは読者が読む行為により受容されて初めて作品として意味生成される
(テクスト-読者間の相互作用による意味形成)という受容理論の考え方は、
クリステヴァのテクスト理論を経由して、ポスト構造主義や新歴史主義等に承されとるよ
ヤウスってなんかスキャンダル起こしたみたいと聞くけど、何?
>>292 知ってて言ってるな 理論と関係ないし興味なし
イーザーに比べるとヤウスは弱い?
ヤウスのほうが読みやすい
ヤウスってなんだ?って思ったけど、挑発としての文学史読んでた 文学理論の古本って一部を除いて安いよね
297 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 09:54:34.98
電通の仕業か? 日本の顔に泥を塗るのが大好きな奴ら。
おっと、コテ落とした。歴史「主義」については、それを 規定したり拠り所にするよりも、我々が常に、既に、そこに 存在していて、そこから一歩も逃れることの出来ない 歴史の地平に如何にして着地するかの方が重要だと 思うがね。 敢えて「歴史主義」を強調する必要があるという現代の情況も また歴史的、一過的なものであるに過ぎないかも知れない。
我々は歴史を呼吸することを止められない。 歴史の喪失もまた歴史の産物だと言える。
最悪なのは、修正主義のように、歴史の喪失地平に イデオロギー、または偶像としての偽物の歴史を導入 することだ。 新保守的歴史イデオロギーの根底には虚無がある。
この点はアメリカ保守の聖書史観も一緒だな。現実のキリスト教史を 無視して、旧約第一章から始まって、現代福音派教会まで一直線に 繋げてしまう。ピルグミムファーザースまで無視してしまう。
303 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 13:17:14.93
文学理論の新刊って出てるの?俺は20年か30年くらい前の古本読んで勉強したけど
文学の凝集性が減ってるから動きは鈍化しているね
どの本がオススメ?
304 何言ってんだこのカス? 散々日本や世界荒らし回ってきたゴキブリの集まり(=文芸誌)が今更どうした。
歴史は時代の価値観で常に読み替えられるという見方はあるが、 一方で人は相変わらず聖書を開き或いは仏教の思想を云々する。
死なない人間が文学やって意味があるのか?
309 :
吾輩は名無しである :2012/04/08(日) 18:31:05.97
>>309 はい。文学理論の本でオススメ教えてください。
小林読んでも分からん奴らはさっぱり分からんらしいしな…
最悪なのは自分の言ってること書いてることすら理解してない奴ら。 ソクラテスの偉大さとは自分の知ってることと知らないことを区別した 点にあるとかキルケゴールは言ってたな。
フランケンシュタイン解剖講義ってどう?
>>313 廣野由美子『批評理論入門―「フランケンシュタイン」解剖講義』中公新書
これもいいよね
いろんな文学理論を紹介しながら、それぞれの理論を使って
「フランケンシュタイン」一冊を読むとどんなふうになるかって実例をやってるから
実際の批評論文に読む機会があまりないひとには入りやすいかも
そういう本だったのか たしかにフランケンシュタインって色々な動向の交差点になってるから興味深い
318 :
吾輩は名無しである :2012/04/19(木) 12:41:31.21
次に読む本が見つからない・・・何かおすすめの本ないですかね? 「批評の解剖」「フィクションの修辞学」「動機の文法」「散文の理論」とかが好きです
319 :
吾輩は名無しである :2012/04/20(金) 13:08:45.51
>>318 西洋はイーグルトンあたりがなぞった『詩学』あたりから読んでみる
インドは kane か上村勝彦を読む。
シナは興膳宏〈中国文学理論研究集成〉から『文心雕龍』『文鏡秘府論』あたり。
日本は小西甚一、藤岡作太郎あたりから歌論、芸能論を読んでみるのはどう?
西洋近代だけだと、発想が貧困で限定されちゃうんじゃないか?
できればペルシャ、アラビアもほしいところだが、オイラは知らない。
貧困ってことはないな 今の日本の文学は近代語で書かれるから
>>319 ありがとうございます。詩学はアリストテレスのでしょうか?
上村勝彦は「インド神話―マハーバーラタの神々」だけ読んでます。
興膳宏という人は知らないのですが、文心雕龍は読みました。
文鏡秘府論も読んでみたいとは思っているんですが・・・。
芸能論・演劇論は身を入れて読んでいるんですが、歌論はまったくノータッチだったので読んでみます♪
322 :
吾輩は名無しである :2012/04/21(土) 05:55:59.27
>>321 そうです。アリストテレスです。岩波文庫だとホラティウスも入ってます。
とても読みやすいですよ。しかも西洋芸術論の色々な基礎になってると思います。
渡辺二郎『芸術の哲学』今道友信『美について』も合わせてよむといいかもです。
上村勝彦先生はインド詩論が専門なんです。「文学による解脱は可能か?」という論文もあります。
チョイスがコンサバだなあ… 古典といっていい今道はともかく、渡辺のその本は俺はすすめない 現代文学とか好きじゃない立場なんだろうけど
324 :
吾輩は名無しである :2012/04/24(火) 13:45:24.71
文学理論も最終的には脳科学に取り込まれるものだよね
それはない 一般に脳科学から他の分野を解明している本って、 当の脳科学者が該当分野の古典を学んで、そこに脳科学的なコメンタリーをつける形になるから
>>325 >当の脳科学者が該当分野の古典を学んで
この段階で、多少なりとも文学史・文学理論の知識が前提になるよね。
>>325 脳科学でテクストを分析するんじゃなくて、受容理論的に読者や読むという行為を分析するんだよ
テクストはそれが読まれたときに読者の内面で初めて文学になるからね
現代批評理論のすべて持ってる人いる?
持ってるけどしまいなくした
人によって説明レベルが色々 でもたまに面白い見解を目にすることができる
保守
333 :
吾輩は名無しである :2012/08/05(日) 02:08:07.22
すみませんが、質問させてください。 批評理論史や文学理論史といった本でおススメはないでしょうか? 十九世紀辺りからではなく、アリストテレスなどからカバーしているこの分野の通史的な本が欲しいです。
まずアウエルバッハのミメーシス全読みからだな
じゃないと理論だけ読んでも無駄に終わる
>>334 ありがとうございます。
アウエルバッハとは、勝手に抱いていたイメージと違ったんですが、早速注文してみます。
>>335 趣味なので無駄に終わっても問題ないのですが、やはり何かに繋がった方がいいですよね。
哲学読んでた時も通史を数冊読んでから原典に入ったものですから、文学理論でも最初は通史を読みたいと思って質問しました。
338 :
吾輩は名無しである :2012/09/08(土) 04:53:34.17
>>337 買う!
ぼくは今、現代文学理論を読んでいる
339 :
吾輩は名無しである :2012/09/09(日) 20:06:11.10
すごくどうでもいい
松岡正剛は自己陶酔型の馬鹿だろ 何も知らないのを読むと博識だなあとか思っちゃうけどある程度自分が知ってる著者の本だとこいつ何も分かってないじゃんと分かる それと、まるで自分の知識のように固有名詞をばんばん出してるのは実は入門書的なものに全部書いてあるのを順に並べてるだけってのも俺が見ただけで2つある
342 :
吾輩は名無しである :2012/09/10(月) 05:30:59.83
>>341 そう思う。でも、そう思って読めばいいんじゃない。
もっとどうしようもない人が、専門家でもいるわけだし。
343 :
吾輩は名無しである :2012/09/11(火) 04:46:28.76
問題は松岡正剛じゃなくてバルトだよ 文学理論スレなんだから
344 :
吾輩は名無しである :2012/09/11(火) 06:01:00.21
>>343 どういう意味?
理論だから簡明でなくてはならない。
なんてことじゃないよね?
理論は解釈しているその瞬間はどういう意味か感銘だが、 一本道でも絡まった糸のようになればそれは複雑だ 一本道であることが理論であって、後から見ればそれは簡明でも複雑でもありうる
346 :
吾輩は名無しである :2012/09/11(火) 20:57:51.45
>>344 は?
あくまでバルトの解釈として松岡正剛説とyokato41説と
>>339 説の是非が問題だということだよ
yokato41ってドゥルーズ研究者の千葉とラカンについてやりあった人だな そのブログよくチェックするけど内容が頭に入らない
もうダメだなこのスレ チンカス並みの初心者しかいない
349 :
吾輩は名無しである :2012/09/12(水) 05:14:09.02
>>346 いや、それだとなおさら「問題は松岡正剛じゃなくてバルトだよ」という文の意味が、全然通らないんだけど?
むしろ矛盾してるが、どういう意味?
350 :
吾輩は名無しである :2012/09/12(水) 21:15:23.59
>>349 完全に通ってるよ
>>343 は「問題は
>>341 や
>>342 のような松岡正剛の活動の是非じゃなくてバルト解釈の是非だよ」という意味だし
>>346 は「問題として、バルト解釈が主で、松岡正剛を含む各々の説が従」という意味だから完璧に一貫してる
実際に『テクストの快楽』読んだわ 結論から言うと、ブロガーが正しい 松岡正剛と339が誤読
352 :
吾輩は名無しである :2012/09/12(水) 23:11:29.32
>>350 君はそう書いたつもりなのか?
なら、
>>343 は言葉たらずだ。
そうは読めん。
>>343 だから訊いたんだけど、その答えも不明だった。
>>339-342 の流れもあくまで松岡正剛のバルト解釈の流れでしょ。
それで
>>343 じゃ。そうは読めんは。
>文学理論について語ってくれ
などと書けば明瞭なのに
松岡正剛は知ったかが激しすぎ まあ噂レベルは脱していて入門書レベルの理解は示しているのだが後は自分の想像で無理に著作と著作を繋げる強引な読解が多すぎる このブロガーはラカンとプルーストを相当読み込んでる博識だよ
354 :
吾輩は名無しである :2012/09/18(火) 21:18:08.20
355 :
吾輩は名無しである :2012/09/19(水) 00:13:59.79
アンネの日記はフィクションだからこそ 文学たりうる
文学を本当に理解するためには小説家の人生を知らなければ本当に理解した事にはならない。 その作家さんが生まれてからどういう経験をして、どういう考え方をしてきたか、それ抜きに作品を本当に理解した事にはならない。 文学とは作者の人生に他ならないのです。だから本当に作品を理解するためには作者自身にならなければならない。
大正時代からタイムスリップしてきたのか?
358 :
吾輩は名無しである :2012/10/09(火) 19:45:13.73
359 :
吾輩は名無しである :2012/10/10(水) 00:35:01.27
(゚Д゚~;)カ―――――ッ
≡(#;`Д´)ペッ!
>>356
こういうシーラカンスみたいな 純朴な文学観の人って 化石種として逆に貴重だと思うから もうちょっと大切に扱ってやるべきだ
361 :
吾輩は名無しである :2012/10/10(水) 02:54:15.24
↑一般人は作家と作品と理解の関係を素朴にそう思ってるから、わざわざ大事に扱う必要ナシ
書かれたことのみで勝負できない小説は欠陥品だと思うよ
さすがにそれは「詩」の役割だろ 小説は「題材となる事象」を無視できない
だから作家の人生なんかに関係なく 題材となる事象のみによって勝負できなきゃって話だろ それとも題材=作家の人生の私小説しか知らんの? ほんとに大正時代の人なのか
俺別人だし。 「書かれたことのみ」となると、文体至上主義みたいだろ 小説の場合、人生だけじゃなく「題材」すなわち「文章の外側」が重要 文体だけで勝負できるのは詩
「文章の外側」w ないよ、そんなもん テクスト=文体だと思ってるのも間違いだし 誌が文体だけだと思ってるのも間違いだ
「作家の人生を知らなければ」の立場だと 作者不詳の作品とかどうすんだろね
>>366 あるよ…「言語論的転回」は終了したのを知らないのか
今の話題と言語論的転回が関係ないのは知ってるからご安心をw
370 :
吾輩は名無しである :2012/10/10(水) 08:42:04.30
>>365 せめて、ただのきょうじゅぐらい読んでくれ
イーグルトンとさえいわないんで
カルチュラルターン!
>>370 それだけ読むの副作用でかいぞ、受け売りの馬鹿になっちゃう。
バフチンのポリフォニーの立場から作者の重要性を論じてください
374 :
吾輩は名無しである :2012/10/10(水) 23:14:30.83
おまーらええ加減せいっ 誰それの理論云々はどうでもいいだ、 作品とおまーら自信の関係を書け、オラッ!
作品なんてどうでもいい。無論、作家も。
↑お前もw
作品よりも理論のほうが重要だから(怒)
378 :
吾輩は名無しである :2012/10/11(木) 00:48:05.60
そうでちたか、どうもごめんなちい (;´・ω・`)
379 :
作品(本)と俺様自身との関係だコラッ :2012/10/11(木) 02:41:46.07
読む行為とは歴史的投企であるがその先駆性は挫折を構造的契機としており即ち文体の異化作用とは読む者/読まれる物=読まれる者/読む物の対他対自関係の重層的な構造変動を即且つ対自化する時にいわゆる主体の脱構築=歴史的再編を招来し云々
もうダメだなこのスレ チンカス並みの初心者しかいない
スゲー伸びてんなと思ったら喧嘩かよ
382 :
吾輩は名無しである :2012/10/11(木) 08:50:36.28
喧嘩っていうよりスレ違いの乱入 そういう立場、読みもあっていいと思うけど、 明らかにすれ違い
だめだこりゃ、初心者しかいない
384 :
日刊クソスレファン :2012/10/11(木) 13:55:45.45
クソレスばかりで嬉しいよ☆
文学理論はすべて批評の一種である。 どうだろうねこのテーゼ。 で、サイードによれば、批評には二種類あって、エッセイ的な批評と 理論的な批評があり、文学理論はだいたい理論的な批評によって 想像されると。 しかし現代社会において、文学芸術の占める地歩が、批評や哲学の 領域が、消費社会に包囲され、だんだん縮まって閉塞化していく傾向に 理論的な批評、つまり文学理論は抵抗できず、つまり未来にむけた 可能性が多少なりともあるのは、エッセイ的な批評であるって そういう話をしてるね。つまり、文学理論にはあまり将来的な 見込みはないと。 さすがにサイードも全然見込みがないという 断定は常に控えていたけれど。
四行目、想像じゃなくて、創造だな。
サイードがそんな馬鹿なこと言ったのか。 批評でなくて研究の一種である文学理論もあるのに。
>>387 一行目のテーゼは俺のオリジナルだよ〜 サイードはそんな
「馬鹿なこと」はいってないね。 エッセイ的批評と理論的批評の
区別はサイードのもんだけどさ。
まー大学文学部における文学研究ってのは、現代の文学鑑賞と
どんな関係があるかって、よく問われる問題ではある
文学研究こそが、文学の正典を保持し、価値を維持するための
基礎である、か。
研究と批評の区別がどれだけ厳密につくかって問題はあるな。 文学研究にしろ、文学批評にしろ、作品の正当な鑑賞がなければ なりたたないという前提があるならば。
390 :
吾輩は名無しである :2012/10/12(金) 04:34:23.56
>>388 >文学研究こそが、文学の正典を保持し、価値を維持するための
テキスト・クリティックとクリティシズムは全く別でしょ
西洋的、ギリシャ・ラテン的テキスト・クリティックとは別にシナ的考証学も結構おもしろい
西洋的クリティシズムとは別にインド詩学やシナ詩学、日本歌論もおもしろい
ペルシャ・アラビアは知らないけどこれまた面白そう
美術批評(評論家)と美術史研究(学芸員)と美学研究(大学教授)を一緒くたするみたいな馬鹿なこと言ってんなよ。
高山文彦ガンダム0080の監督なんだな
そういやわたしガンダム処女は種だって言ってたけど
これはなんか見てたな、美樹本も好きだったし
アニメOVAにはまってた時期がありまして・・・
天使のたまごもその時見たな
よし0080借りてこよう
ちなみに押井が出渕批判として書いたメカニカルデザイン論から出渕批判を除去して作ったのがミニパト第2話で、
押井のロボットアニメ概説みたいなものになっていておもしろい
って昔見たはずだけど覚えてなかったwww
>>93 わたし個人の印象だが「すまん」ってのは男言葉な気がするが、それに「まんこ」をつけることで男女性の補完にすみません適当に言いました
>>96 んだなー
あとちらっとぐぐったがホスト部のラーゼフォンパロは声優も同じ人だったかららしい
坂本真綾だな、ラーゼフォンのOPも彼女だった
http://www.dailymotion.com/video/x409bq_yyyyyy-op_music そしてスカイクロラはこれ大人にならない子供の話で、ヒロインが子供を産んでてでも自分は子供のままだから妹って言ってるんだが
「もうすぐわたしに追いつくの」とか言っててこれラーゼフォンと逆だよな、と思った
確か東京が隔離されてて外とは時間の流れも変わってて、東京の中はゆっくりだったと
幼馴染の主人公とヒロインは、主人公は東京に残ってヒロインは外に残って、再会したときヒロインはお姉さんになってた、って話だったな
この設定もなかなかよかった
いかん、アニメがアニメとして見れなくなってる
動画の細かいところとか気になって
スイトが車に乗る動きとかあれって
げしゅたるとほーかい
ごばくごめん
>>392 現にポール・デルヴォーとかマックス・エルンストとか、シュールレアリスムの画家がヴェルヌ「驚異の旅」シリーズをモチーフとしとるやんけ。
396 :
吾輩は名無しである :2012/10/12(金) 21:19:11.54
<正式発表> 島根と浜田の対立から飛躍し、「島根県西部地区」で正式発言する。 日本語一番の夢を壊すものは、韓国語ハングル文字だ。 韓国「人」は敵ではない。韓国「語」は日本語・日本人の敵だ。 日本人が韓国語を学ぶことは、絶対に無駄が多い。 韓国語のように漢字を消去する方向での日本語の修正は、日本語にとって因果が絶対に悪い。 言語一番の夢は、現在、純粋文字を基本にして、英語と中国語にある。 日本語は、現在、「表意・表音両立の応用言語」としての一番の夢がわずかに残されている。 この夢を砕き、漢字を放棄させ、日本語の夢を二番手以下にさせるものは、二番手以下の韓国「語」だ。 日本人は、2番手の夢にひきずりこまれるな。 韓国人とは「英語」か「日本語」で話せ。 韓国「語」は、日本の敵だと断言する。 反論はあるか?
397 :
吾輩は名無しである :2012/10/12(金) 21:44:00.61
>>396 妄想オツ、
言語は単なる習慣なんで、それにいいもわるいもない
飯を食べる時、手、箸、フォークでそれぞれ食べるようなもの
自分の習慣こそ優れていると思うのは、唯の妄想
あと、比べるならローマ字、漢字、ハングル、かな
だけでなく、アジア系文字やキリル文字、ギリシャ文字あたりは視野にいれましょう。
もちろん、言語も。
>>390 >テキスト・クリティックとクリティシズムは全く別でしょ
「全く」というほど、両者がかけ離れてるとはおもえないなぁ。
同じ批評家がテキスト批評、文学作品の批評と、その他の
ジャンルの批評、たとえば音楽とか絵とか手がけてる例って
珍しくないからね。
批評ってのは、いろんな領域を対象にすることができ、何でも
書きたいことを書こうとすれば書けるんで、それが批評の
強みでもあり、弱点でもあるな。まあとにかく、諸々の専門的
諸領域をへだてる壁というのは、批評にとって必然的でも
なけりゃ不可避なものでもないね。
399 :
吾輩は名無しである :2012/10/13(土) 02:27:15.76
>>398 はテキスト・クリティックの意味を解ってない馬鹿なのか。
本文校訂(低部批判)と文藝批評を一緒くたにすんなって。
>>400 クリティシズムっていった場合は、文芸批評だけさすとは限らないからなぁ。
テキスト・クリティックと、リテラリー・クリティシズムは違うっていう主張なら
そっちの主張と一致して、意味はかなりはっきりするけれども。
じゃあなんだ、俺が「全く」違うとは限らないことを示す例としてあげたのが
よろしくないと。テキストクリティックであると同時に、想像力を産物である
芸術的批評でもある作品として、いくつかの批評的作品をあげれば
よかったのか。 国学や古文辞学のテキストクリティークは芸術的であるとか。
>>390 の後半はそういう話だとおもったんだよね。同じ話を俺が繰り返しても
仕方ないから、クリティシズムとはなんぞやって、話をそっちにもってこうと
思ったのさ。
無理がある。文学板で批評と言って、音楽批評や絵画評論なんか想起しないよ普通。
>>395 あいや、
>>339 のURL先が、ね
松岡説は論外だと思うが、そのブロガーと
>>339 が「言語活動の破壊」をどう解釈しているかによる気がするなあ
このブロガーのお母さん精神病だったらしいよ
そういうことを考慮すれば、バルトの言う「垂直」はそのブロガーの解釈の方が正しいと思われる
バルトが言う「言語活動の破壊」って、わたしはバルトよくしらんけど、クリステヴァとかあそこら辺の人だと考えるなら、 「高校生の夢」や「ロマネスクな夢」なんてものにはない、クリステヴァいわくセミオティックなもの、精神病的なものだと思うな
クリステヴァの論は文学理論になるのだろうか
初期の間テクスト性とかはそうだと言えるか
しかし精神分析家になったのちの彼女の仕事は、文学という臨床素材を、精神分析理論で
(わりとオーソドックスに、クラインより優等生)解釈する、ってものなんだな
解釈とはどちらかというと批評だろう
>>385 >文学理論はすべて批評の一種である。
に賛成だな
つかNこれわたしの「論理とは妄想の一種である」のパクリじゃね?www
ギャグですすみません
「批評」を無節操に概念拡張しすぎ。
己れの夢を語ることではないのか!
解釈学と記号論とは不倶戴天の敵同士である。(フーコー)
>>411 その対立って数学的に言えば幾何学と代数学、ヤコブソン的に言えば隠喩と換喩な気がするなあ。
ちょっと話を戻してもうしわけないんだが。
>>405 はわたしの推測・解釈にすぎないわけだけども、もし仮にバルトの言う「垂直」における
「言語活動の破壊」がクリステヴァの言うセミオティックなもので精神病的なものだと仮定して。
「セックスを覗き見する高校生の夢」のセックスが、父母のセックスならば、それは原光景であるゆえ
セミオティックなものである、となって、松岡説も間違いではなくなるが、バルトの言う
「高校生が覗き見するセックス」はそうではないだろう。
であって松岡説も否定される、と。
というか精神分析をやっているならば松岡のこの解釈こそに心理が表れていると考えなければならない。
この松岡の文章から松岡の心理を解釈しなければならないのだが、単に相手の論を批判しているだけ。
彼のやっていることは政治なのだよね。精神分析をやれてない。
まあ最近は精神分析から離れているからいいんだけど。
ああわたしは「解釈」してるからなw
415 :
吾輩は名無しである :2012/10/14(日) 22:16:24.86
>>406 >つかNこれわたしの「論理とは妄想の一種である」のパクリじゃね?www
すると言語は妄想になる?
>>402 批評とは何よりもまず形式であるとすれば、対象が文学であろうと
音楽であろうと、絵画、はたまた映画であろうと、形式としての
批評のカテゴリーに属するはずだな。
>>406 >つかNこれわたしの「論理とは妄想の一種である」のパクリじゃね?www
>ギャグですすみません
ギャグなのか? ツボはどこなんだろう。
>>402 そんな形式だなんて前提がいつ成り立ったんだい。
それに、文学板で批評を話題にしたら文藝批評の話だと受け取るのが普通。
トンチンカンなことを固定ハンドル使ってまで述べなさんな。
418 :
417 :2012/10/15(月) 02:11:54.62
批評理論と文学理論はイコールではないんだし。
形式こそは文学を文学たらしめる重要な要素って、ルカーチも
いってるしw詩と小説と批評をそれぞれ詩らしめ小説たらしめ
批評たらしめるのは、まさに形式にあるといっていいね。
坂口安吾が小林秀雄に、音楽や絵のことなんか書いてないで
もっと現代文学に正面から取り組めって、からんだのを思い出したなぁ。
それに対して小林秀雄は坂口のみかたはあまりに文学的すぎると
返したものだった。つまりあまりに文学的すぎる見方なわけだ、
>>417 は。
>>420 なんかトンチンカンのまま話をそらしとるな。
君が、テキスト・クリティックとクリティシズムをごっちゃにしたのが問題の起こりだった。
それを指摘されたら、批評には文学以外も含むとか釈明にもならん脱線を述べだして、話をそらしとるよな。
それとも、「テキスト」・クリティックがテクストでない音楽や絵画にあるとでも?
(言っておくが、楽譜の校訂とか真贋鑑定とかは本文校訂とは呼ばないから)
>>422 >それとも、「テキスト」・クリティックがテクストでない音楽や絵画にあるとでも?
何いってるんだか意味不明だな。 もうちょっとわかりやすく書いてくんない?
テキスト・クリティックとクリティックは同じものだなぞといってないぞ俺はw
両者は「全く」違うという話には、同意しがたいって述べただけでね。
425 :
吾輩は名無しである :2012/10/15(月) 06:34:07.16
テキスト・クリティックとクリティシズムは全然違うっていわれたとき ニーチェのことなどが念頭にうかんだね。彼はフィロロギスト、古典 文献学者にして、一流の批評家でもあったわけで、そういう例を いくつも思い浮かべると、テキスト・クリティックとクリティシズムは 全然別って話には、簡単には同意できないと、やはり考えるわけだよ。
428 :
吾輩は名無しである :2012/10/15(月) 06:53:15.89
>>427 そういう面は同意ですが、やっぱ違う面はあるでしょう。
実際、所謂、批評やってる人で本文整定やったことある人は少ないような
ほとんど、本文整定は職人芸で他分野で口を出せる人すら少ないような
>>428 現在はそういう本文整定って、専門的知識のある専門家じゃないと
やれないわけだろうな。 あるいは、昔の人文学者は今よりもずっと
広範な知識を厳格な訓練により身につけていたゆえ、批評家にして
文献学者という存在も可能だったともいえるかもね。
「ミメーシス」を書いたアウエルバッハについて、彼のような広範な博識を もった学者はもはや存在しえない、とサイードが書いてたね。 そのような学者をうみだす教育や訓練の場がもはやどこにもないから だってね。
>>425 ですなあ
文学作品という妄想と、それについての批評という妄想と、それについての理論という妄想
3つの妄想ってことで
>>430 人間は外部記憶装置ってものがあるからなあ
現代のPC、昔の書籍、図書館
妄想の外部記憶装置か
龍樹の論法ってのは相手の立論を真と仮定し矛盾を導き出すという帰謬法であり まあ一般的言語感覚で言う詭弁なんだが 彼が同じ仏教徒として批判した説一切有部というのは、確かに龍樹が批判したように 「法が有る」とする、すなわち「言語は存在する」という立場になっていたのかもしれないが、 相手の立論を真とし精査する段階と考えれば、その立論すなわち言語という妄想の解析手段であるとも言える わたしはどっちかてと説一切有部なのだね 説(言語)とは空であるゆえ有るも無いもない(不有不無)という龍樹の立場を取るならば、 精神分析が研究対象としてきた神経症も存在しなくなる 大文字の他者など存在しないとすることは確かに神経症の究極の治療法かもしれぬが、 それだけで神経症が治療できるわけではあるまい 理論と実践は別
433 :
吾輩は名無しである :2012/10/15(月) 09:09:31.79
>>432 は雑談スレに書こうとした誤爆だったんだが話が続いているようでなごんだ
>>433 >それは得意ですよ。
誰が?
435 :
吾輩は名無しである :2012/10/15(月) 11:36:27.65
>>434 オイラが中観が得意だってこと、梵パ蔵漢、特に蔵が得意ですよ。
>>435 そうなんだ、わたしは君の得意分野の話をしているつもりはなかった
>>339 を読み返すと、松岡は「人の欲望とは」と書いているんだな
バルトの言う「垂直」における「言語活動の破壊」がクリステヴァ曰くセミオティックなものだと仮定するならば、
それは欲望というより享楽(の意志)であり、また「高校生の夢」も「ロマネスクな夢」も欲望であるゆえ、
享楽ではない、という意味では間違いではないんだなあ
松岡はバルトの論説に享楽を解釈してないってことだろうな
そういう意味では出だしの「人の欲望には」という言葉は精神分析的には精確な条件付けだって話
享楽は欲望でもありうるが欲望ではない場合もあるゆえ
ただし松岡も時々ラカン系くっちゃべっているがまったくラカン論を理解していないとわたしは思っているが
松岡に対しては、
「バルトの言う「言語活動の破壊」とは、「高校生がセックスを覗き見する」と言うより「父母のセックスを見る」ことだ」
って説明すればいいじゃね、と思う
精神分析理論にも則ってるし、この方が文学的な反論じゃねwww
でそのブロガーについては、彼は身近に精神病者を見て育ってきたわけだから、おそらく「言語活動の破壊」と言われてすぐ
クリステヴァの言うセミオティックを連想しただろうな、と
そうすると、松岡の出だしの「人」には彼の精神病の母が含まれていない、と彼は解釈したのかもしれないな
というわたしの「解釈」(これも妄想である)ですがどないだしょ?
まあ精神病者なんて「人」じゃないと思うけどね
と資格持ち精神分析家から境界例(精神病との境界って意味)と診断されたわたしが言う
正確に言えば「人間なるものという妄想」の範疇に収まらないヒトという生物の一個体、と
>>436 訂正
× クリステヴァの言うセミオティック
○ クリステヴァの言うセミオティックが意味する精神病の症状
>>339 の意見については、まあ欲望は享楽になりうることはあるため、
つまり「高校生の夢」や「ロマネスクな夢」の意味がパラノイアの症状のごときものであるならば、
精神分析的な比喩で言うなればユングレベルにイッちゃってる状態を想定しているならば、
「クリステヴァのセミオティックというような意味としてバルトは「言語活動の破壊」と述べている」
という仮説と矛盾しなくなるだろう
一方、「高校生の夢」や「ロマネスクな夢」が一般的なそれ、神経症の症状を想定しているならば、
その仮説と矛盾する、と
>>339 が「高校生の夢」や「ロマネスクな夢」や「言語活動の破壊」についてどう解釈してるかによると
で、バルトがどういう意味で言ったかはわからん
まあクリステヴァと懇意だったんから、そういう意味なんじゃないかなー、ぐらいの仮説
わたしはそこらへんクリステヴァしか知らないので
まあそーゆー大体の話
「言語とは妄想である」とするならば「言語活動の破壊」とは「妄想活動の破壊」となるわな
ラカン論においては妄想と現実の境界が享楽
>>427 ニーチェは文献学をはみ出してクリティシズムをやり出したら二流の文献学者になった。
『悲劇の誕生』が文献学的にはトンデモ本なのは周知のことだ。
クリティックって言葉が同じだからって、クリティシズムと同じと見るのは無理がある。或いは無知。
>>420 坂口安吾の小林秀雄批判の勘所を外しとるわ。
坂口は、小林が既に他分野(音楽、絵画等)で認定済みの「天才」を論ずるばかりだから批判した。
眼前の生きた渾沌の中から自分の批評眼で見出すことを怠ってないか、ってこと。
坂口だけでなく、寺田透の小林批判にも同様の指摘があった。
小林のゴッホやモーツァルト論など、本職の音楽・美術批評からすれば愚論だし。
440 :
吾輩は名無しである :2012/10/15(月) 20:29:11.84
>>438 もちろんマテリアルな文献学じゃないでしょう。
マテリアルな文献学の限界を感じたから。
ニーチェはそれをソクラテス主義と読んだけど、それはとても重要な指摘だとおも
ただし、ニーチェは指摘しただけで明解に何が問題か読み解けなかった。
ハイデガーはより接近し、論理学・同一律に問題があるところまで迫ったけど、
新しい論理は提示できなかった。
それを遥か昔により完全に提示していたのが釈尊と龍樹菩薩だと確信する。
確かにテロップで「インファナル・アフェアより」って出てたけど このシーンまんまじゃねえかwww ひねれよwww
>>431 まあ、外部記憶装置はあくまで外部記憶装置なんで、いくら膨大な
外部記憶があっても、読むという時間的なプロセスを経ないと人間の
記憶に取りこめない、消化できないという事情は残念ながら変わって
ないようだ。
>>432 龍樹がすきだねw
>>433 >聖書とか西洋文献学だと。
近代の文献学は、聖書の批評と共に始まったって説もあるくらいだな。
>未だに本文整定が未熟なインド・シナあたりだと結構いますね。
へー、膨大な中国古典を一生かけて渉猟するひとびとか。
>>438 ええ、ニーチェが二流の文献学者だとか、ニーチェ研究でいわれてるの
見たことないよw まあ、確かに当時の学会からは干されたが、二流の
研究者に甘んじてたら、干されることもなかったのではないかと思われる。
当時の文献学は実証主義全盛で、「悲劇の誕生」はあまりに主観的って
ことで、実証的学問ではないと烙印を押されたわけだな。まあ、ニーチェが
二流なら、ヴィモラヴィッツ・メーレンドルフは現在も文句なく一流認定されてる
かというと、これは疑わしいし。それどころか、当時のドイツにおける実証主義的
ギリシャ研究自体が、ギリシャ文明の起源をアーリア民族にもとめようとする
根深い欲望に駆動されていたと、現在では批判される始末でw
そうなると、ニーチェの主観性と当時の実証主義的文献学のあいだの
対立というのは、絶対的なものでなく、相対的なものということになるね。
フィロロギストとしてのニーチェの重要な著作は「悲劇の誕生」の他にも
あるので、「道徳の系譜学」なんかがおもいつくな。
>>439 >坂口は、小林が既に他分野(音楽、絵画等)で認定済みの「天才」を
>論ずるばかりだから批判した。
その坂口の批判は、何も音楽、絵画分野に限った話でなくて、文学
分野においても、やはりそういう批判はしてるんでね。「教祖の文学」では
「モオツァルト」と「ドストエスフキイの生活」をどっちもやり玉にあげてるし。
小林と安吾の対談では、音楽や絵画に小林が興味をもつのは
純粋じゃないからだとか、文句つけてるわけでね。 まあ、君のいうような
主張も安吾はしてるとして、俺の主張も別に間違っちゃいないし
認定済み天才批判と相容れないわけじゃないな。
>坂口だけでなく、寺田透の小林批判にも同様の指摘があった。 まあ、小林は小林批判だけで一冊の本ができるくらい、いろんなひとから 批判されたからねえ。坂口や寺田のほかにもいろんなひとが精魂こめて 小林批判してたな。逆に言えば、それだけの大きな影響力があったって ことだな。 寺田の批判は小林批判をあつめた(批判ばかりではないが)アンソロジーにも 載っていて、吉本隆明や作田啓一の批判、美術音楽批評の分野では 高橋悠治や田中英道の批判ものってるね。 そのアンソロジーの後書きで 編集者がいうには、小林について書かれた論文に引用された小林の文を 原文と校合してるとき、元の文より引用された小林の文のほうを読みふける ことがしばしばだったとか。 つまりまあ、どれだけ徹底的に批判されても 文の魅力というのは、そう簡単に解体されないってことだ。
小林の文章ってそんなにいいか・? 過大評価されすぎな気がする
>>447 必要なときに必要なデータをすばやく入手できるってのは、確かに
非常な進歩といえるな。 そういう進歩のいくつく果てに何が
待っているか、想像することもまた一興であるね。
龍樹についてのページを読むと、やはり時代背景としての争論術、弁論術の
発達というのが、論理学の発展の基礎にあるようだ。 これはギリシャもインドも
事情はあまりかわらないわけか。龍樹が古代インド第一の論争家、ソフィストで
あるあんらば、ギリシャ第一の詭弁家、ソフィストといえば誰かな、やはりゼノンか
プロタゴラスをあげるのが一般的か。
>>448 小林の文章って、ひとによって好き嫌いが激しいからね。最初にひとめぼれ
しないと、小林の文章には没入できないな。 つまりまあ、読めるかどうかは
運任せだよw
450 :
吾輩は名無しである :2012/10/16(火) 16:25:21.57
>>447 龍樹菩薩は詭弁じゃないんだけど
西洋論理の同一律や排中律というような装置だけの世界で見ると、そう見えるわけだけど論理学者のプリースト、仏教学者ガーフィールドと非古典論理として捉えようとしてますが間違った方向でしょう。
それより、ティレマンスやマティラルのように論理的に捉えようとする方向が正しように思います。
山口益先生が彼らよりよく、それを進めた梶山雄一先生もよく、それを飛躍的に掘り下げた石飛道子先生は天才だと思う。
>>447 と
>>450 どっちがミニハンなんだ?
なんかふたりいて、龍樹についての評価が正反対なんだが。
一方は龍樹は詭弁家であるといい、一方はそうでないという。
452 :
吾輩は名無しである :2012/10/16(火) 16:28:44.46
>>449 ピュロンは明らかに仏教の四句分別を取り入れてるし、仏教論理学を用いたと思われる。
西洋人のギリシャ学者は概ね反対するけどね。
インド学系の西洋人学者は結構、こう考える人もいる。
恐らくパルメニデス・アリストテレスもインドの影響があるように思う。
論証はできないけど。
453 :
吾輩は名無しである :2012/10/16(火) 16:32:07.42
>>451 詭弁家というのは西洋論理学の同一律や排中律を用いて何か論証・主張しているという前提で読むから、
それでは中論などの中観論書は読めませんよ。
あらゆる主張・思想・見解を論理的矛盾を突いて、戯論寂滅(頭が真っ白になるようなもの)に導くのが中観だから
>>452 ピュロンの時代は、アレクサンダーによる東方遠征、ヘレニズムの
時代であったから、東方文化との交流の影響は十分に考えられるね。
まあ、プラトンの時代から、哲学においても、遠く離れた他者の思想への
知的関心はあったわけだけどね。プラトンの場合は、その東方への関心は
ペルシャまでだったわけだな。
パルメニデスやアリストテレスにインド思想の影響ねえ。 オリエントが
ギリシャに対して与えた哲学的影響の嚆矢といえば、ピタゴラスの名前が
普通あがるな。 その「オリエント」という名称から、インド的要素だけ分離
するとか、不可能じゃないかなぁ。
>>453 矛盾を突くというのは、排中律が成立しないと、成り立たないと思うなあ。
456 :
吾輩は名無しである :2012/10/16(火) 16:44:36.17
>>455 そこら辺は、長くなるので、ちょっとネットだと難しい。
石飛道子先生の『龍樹』を読むといいと思うよ
>>456 まあ、アマゾンのほしいものリストにとりあえず登録しておく。
どっちがすごいとかどっちが早いとか言ってるやつって思想にこだわりすぎだろ 常識で考えろよ 竜樹がお前のなんなんだよw
459 :
吾輩は名無しである :2012/10/16(火) 19:53:32.58
>>458 >常識で考えろよ
それじゃ、本質的なことは何もわからんは
>>459 >>458 じゃないけどどっちがすごいとかどっちが早いとか言ってるやつって思想にこだわるのもおかしいんだけどな
本質的なことはないとするのが空観です
ちなみに龍樹は中論など読めばわかるが相手の立論にしたがって排中律を用いておるよ 排中律も空だがwww
相手への反論に排中律を用いて入るが、 「不有不無」で排中律自体をしりぞけてもいる、というのが中論だわな
用いてはいるが、ですた
>>456 >>462-463 って説明できるんだからネットでも難しくなくね?
相手がそれで理解できるかはおいておいて
465 :
吾輩は名無しである :2012/10/16(火) 21:20:28.32
>>463 >相手への反論に排中律を用いて入るが、
まあ、合ってる
>「不有不無」で排中律自体をしりぞけてもいる、というのが中論だわな
違ってる。そう考えると詭弁になる。
>>464 単発の問答ならできるけど、なぜそうなるか筋道建てて説くのは長くなって難しいっす
>>465 まあわたしは詭弁だと思っているがw
石飛さんも龍樹は論理自体を破壊しようとしているみたいなこといってたお
清武が香川並みにならなぁ
ただ龍樹の詭弁はソフィストの詭弁ではないとは思ってるんだよねー ソフィストの詭弁術は聴衆を自分の立場に立たせるって目的があるわけっしょ、その成立経緯を考えたら プロパガンダっつうか陪審員制裁判の弁護士っつうか もっと一般的な大体の意味で「本質を示さない言説」を詭弁って言ったりするじゃん この意味で考えれば、空とは本質がないことだから、彼は空を説いているのだから、 その言説は詭弁である、とすっきりする
469 :
吾輩は名無しである :2012/10/16(火) 22:23:47.39
>>468 本質があると思って囚われているのを、論理的に導いて空っぽ、真っ白にするのが中観ね。
それが実在論、あるいは本質主義に立った西洋論理から見ると詭弁に見えるわけ。
しかし、詭弁ではなく西洋論理が無理があるだけ。それに気づいたのがニーチェで、さらにもう一歩までいったのがハイデガー、ウィトゲンシュタインも結構いい線いってると思うけど
釈尊・龍樹菩薩の足元にも及ばない。ハイデガー、ウィトゲンシュタインが釈尊・龍樹菩薩をきっちり読んでれば、分かったんじゃないかと思うけど。
なので詭弁と言ってもよかろう それを詭弁ではないというのが龍樹の言に何か本質を想定しているゆえではないか? 龍樹はブッダですら空としている
471 :
吾輩は名無しである :2012/10/17(水) 08:41:06.68
>>470 >龍樹はブッダですら空としている
そんなの当たり前。分かってないねえ
うん、君個人の思考は説明してもらわんとわからん 説明しないならわたしはわからんでよい
龍樹はどうでもいいんだけど、
>>339 の人はもう来てないのかな
まあいいや
俺はおもろいネタですた
おいしゅうございました
もうダメだなこのスレ チンカス並の初心者しかいない
玄人の皆さんは今どの理論家に注目してるのですか
>>474 はコピペ
個人的にやってるだけだろうけど
477 :
吾輩は名無しである :2012/10/21(日) 18:40:31.83
やだーなんかまた僕がスレつぶしたみたいじゃんかー
うん
479 :
吾輩は名無しである :2012/10/21(日) 19:55:40.21
いえーい
480 :
吾輩は名無しである :2012/10/21(日) 20:13:21.72
あべこーぼー大好きです
481 :
吾輩は名無しである :2012/10/21(日) 21:13:46.69
>>477 大丈夫、最初からほとんど大したこと書かれてないから
482 :
吾輩は名無しである :2012/10/21(日) 21:35:53.20
俺は大事な事書いた!!
483 :
吾輩は名無しである :2012/10/21(日) 22:17:40.97
おなにっ
485 :
吾輩は名無しである :2012/10/23(火) 00:38:20.60
486 :
吾輩は名無しである :2012/10/23(火) 06:50:09.68
487 :
吾輩は名無しである :2012/10/24(水) 23:31:34.30
>>486 うん、小学生の夏休みの公募ポスターの標語みたいでもあるね。
488 :
吾輩は名無しである :2013/01/22(火) 02:57:54.39
abさんご読むのに時間掛かった。
あんま邦訳されんね
今こういう領域に興味がある奴は表象とかやってるからだろう
あと、若手が翻訳をやらなくなった 業績にならないという理由で 悲しいことだ
それ以前に、日本の大学の文学科では、もう理論はやらんでしょ。 イーグルトンすらまともに読んでない。 若手に訳せる人がいるわけない。
493 :
吾輩は名無しである :2013/06/17(月) 23:20:18.40
この手の知識は独り占めしたくなるのもいけない
理論というほど科学然としてないのも悪い。 認知言語学や人工知能を使った研究でもすればいいんじゃないの。 三浦俊彦みたいに様相論理学でフィクションの存在構造分析するとかさ、 アメリカだとそういうのも結構あるんでしょ。
495 :
吾輩は名無しである :2013/06/18(火) 16:15:54.87
>>494 パーフィットみたいな論理もセンスもある人ならいいけど、
三浦さんの『虚構世界の存在論』はつまんない、なんつうか遊びなんだよね
三浦みたいに研究も創作も両方器用にこなせるやつに憧れを感じる
人工知能とか可能世界論との接合は、マリー・ロール・ライアンとか、ちょっと前だけどやってたなあ。 認知がらみもあるっちゃある。 個人的には、テクスト言語学とか、関連性理論との絡みが気になる。
やっぱりこう・・・ギュッと来たらこう腰でひきつけてバーンなんだよな。 ぎゅッ・・・バーン!な?
499 :
吾輩は名無しである :2013/10/02(水) 21:39:09.67
500 :
吾輩は名無しである :2013/10/03(木) 12:48:09.47
文学理論には、逍遙の小説神髄、四迷の小説総論、漱石の文学論といった明治のものがあるけど、話題にならないの? それともこのスレでは既出?
>>501 それらは
>>1 にある文学理論とはちょいと違わないかな?
逍遥、四迷、漱石の作品を理論が扱う際の参考文献って感じだと思うんだけど
>>502 レスありがとう。
3人の文学理論は、それぞれ文学とは何か、表現するべきことはなにか、表現された文章にはなにが含まれているか、といった内容なので、文章の長短はあるが十分な文学理論だと思う。
特に、漱石の文学論は、心理学などを利用しながらも、鈴木朗や時枝誠記の言語論を思い起こさせるところもある。
自分は外国の文学理論を知っているわけではないが、このスレで語るには十分な内容が含まれていると思う。
504 :
吾輩は名無しである :2013/11/13(水) 10:56:35.49
文学理論の目的というのは、文学作品の価値をどう評価することができるかということにつきるんじゃないだろうか? つまり、客観的な評価基準を設定できるかどうか、ということじゃないの?
>>504 マックス・ウェーバーの価値自由や客観性についての論文を読んでから、出直しませう。
>>505 >マックス・ウェーバーの価値自由や客観性についての論文
ここは草をはやすところなんだろうな?
おとといおいでw
文学理論って、せいぜいカフカ、ジョイス、プルースト、サルトル、カミュぐらいまでしか カバーできていないでしょ? ラテンアメリカ文学は、文学理論の先を行っていると思う。
30年くらい前からタイムスリップしてきたのか?
ラテンアメリカ文学も含めた文学理論教えてください。デリダぐらいまでしか 分からないのです。
510 :
吾輩は名無しである :2014/01/01(水) 17:03:28.90
そもそも文学理論って何よ。
>>510 文章がなぜ美を構築することができるのか、という問題を解明する理論じゃないの?
美学の一部門ではありません。
514 :
吾輩は名無しである :2014/01/24(金) 01:46:41.16
>>32 刑事訴訟法って、対立構造がはっきりしてるからわかりやすいんだろうね
真実性の追求vs被疑者の人権保護ってやつ
全ての論点がこの両者の葛藤で成立してて、それが逮捕および勾留から結審まで貫かれてるから、なんか物語っぽいんだよね
>>513 美以外も含む文学についての理論です。
必ずしも作品や作家を論じなくてもよいわけだし。
文学を。
訊くばっかりの、なぜなに坊やかい。
>>519 あれ?
おまえのカーちゃんでーべそ、みたいな逃げ口上だな。
わからないときは、正直に「わかりません」と言わなきゃだめだよ。
>>521 尋ねる側?
なにか勘違いしてるんだね。
もともとは、
>>511 を否定したのが
>>512 なんだから、まずその否定した理由を説明をする必要があるだろ?
言葉の意味もわからずにいい加減なことを言っちゃあいけないよ。
もう一度チャンスをあげるよ。
文学理論とは、文章がなぜ美を構築することができるかという問題を解明することだろうという意見に対して、美以外も含む文学についての理論だという意見を出したんだから、文学とはなにかを説明しないといけないんじゃないかい?
>>522 > 文学理論とは、文章がなぜ美を構築することができるかという問題を解明することだろう
なぜそう思うのかな?
ちゃんと説明してごらん
>>523 そうこなくっちゃw
表現というのは、個人と外界とのなんらかの接触による軋轢の解消だ。
言い換えれば、個人と外界との矛盾とその止揚だ。
その表現のあり方として、絵画や音楽のように直接的な感覚に共感を求めることもある。
文章の場合は、直接の感覚的な共感というものはない。
それなのに、文章によって感覚的な共感が生じる。
なぜ文章というものが、見てもいないし聴いてもいないのに感覚的な共感を生み出すことができるのか、ということが文学の理論の根幹をなす。
それ以外は、物語であったり人物の性格であったり、そうしたものから派生する作品の主題であったりするから、理論としては二義的なものといっていい。
だから、文章がどう美を表現し美を構築することができるのかということが文学理論だ、と書いたんだ。
さあ、今度は君が文学とはなにかの説明をする番だ。
せっかくチャンスをあげたんだから、がんばれよ。
>>524 > 表現というのは、個人と外界とのなんらかの接触による軋轢の解消だ。
ただの挨拶にでも当てはまる話をずいぶんと大上段に構えたね
「個人と外界とのなんらかの接触による軋轢の解消」?
まさに「おまえのカーちゃんでーべそ」がそれだよ
それ以上の何かだと思うならちゃんと説明してごらん
>>525 その話はあとで聞くから、君が言ってた文学とはなにかを説明してごらん。
順番は守ろうね。
527 :
N ◆.a7VUr.VD. :2014/02/19(水) 01:00:17.50
文学とは言語表現におけるもっとも高尚な手本であるってね。 本居宣長も歌は言語の粋といっている。似たような考え方だね。 プラトンならここで異議を唱えて、何を目的とした言語表現の 技法であるかと、さらなる問いかけをするであろうが。
恋愛をするのに恋愛論は要らない。 というより、そんなのがあるってことそのものが恋愛をしている人間には馬鹿馬鹿しいだけ。 野暮だよ、よそうよ、じゃしかし商売にはならんか、恋愛評論家には? (笑
529 :
N ◆.a7VUr.VD. :2014/02/19(水) 01:21:29.77
あ、例の批評家嫌いがでてきたか。 理論は不必要で 実践さえすればいい? 目の前の女口説くには理論は 不要で、あたって砕けるしかないわけだな。 しかしまあ 経験をつむうちに、口説き方について独自の理論を築く 場合だってあるな。そういう実践にもとづく理論はひとの 参考になるであろう。スポーツでも理論は必要だね。 ゴルフなんか理論をしってるとしらないじゃ、上達の早さに 雲泥の違いがでる。 まあ、文学ってのは、理論的な営為も実践も言語表現に おいておこなわれるという点で、他と違って理論と実践の 敷居が低いということはいえるであろうw
>恋愛をするのに恋愛論は要らない。 それは吉本隆明の台詞ですね。
531 :
N ◆.a7VUr.VD. :2014/02/19(水) 01:47:41.18
>>530 小林秀雄も恋愛と恋愛理論について
そんな風なこといってたね。
たしか小林のは、もっとひねった表現
だったと思ったが。
532 :
吾輩は名無しである :2014/02/19(水) 01:56:19.03
レビトラマンに恋愛について語られるとは、、
恋愛は実践技術はもちろん理念的達成だと思いますけどね。 でなければ単なる性衝動の発露に過ぎない。 言語以前のしぐさとかもあるのだろうけど、 そういうのもひっくるめて文化的洗練でしょう。
534 :
N ◆.a7VUr.VD. :2014/02/19(水) 02:01:22.13
いや〜今日もあたしたちもうおしまいにしましょうよ!って相手に ぶちきれられちゃったよw アハハw
535 :
吾輩は名無しである :2014/02/19(水) 02:20:25.88
同じ人から何回言われたんですか!
536 :
N ◆.a7VUr.VD. :2014/02/19(水) 02:29:02.33
いや〜初めていわれたよ。 前回は一時的に連絡がとれなくなったんだけど おしまいしましょうよ!って、はっきり言われたのははじめてだよw 大事にしてくれない!っていわれてさ〜 そんな大事にしてないつもりは ないんだが、やはり感じるところがあるのかなぁ。
>>536 そろそろ本命を絞ったらいいんじゃないの?
538 :
N ◆.a7VUr.VD. :2014/02/19(水) 03:05:17.89
感覚重視で知性理性の文学を全く考慮してないからダメ。
>>524
>>539 せっかくレスしてくれるんなら、具体的に書いてよ。
どこが感覚重視なの?
知性理性の文学ってどれのこと?
>>523 のひとだったら、文学とはなにか、も書いてね。
>>524 >文章がどう美を表現し美を構築することができるのかということが文学理論だ、と書いたんだ。
単純に「美学」のことでは?
>>541 美学と言いたければ言ってもいいけど、話が最初に戻っちゃうんだよ。
美学ってなに?
そして、文学ってなに?
543 :
吾輩は名無しである :2014/02/25(火) 00:56:26.62
造形の以前に美学論があるのか? 言葉の以前に文学論があるのか? 要するに、普遍はただの名前か?実在か? だけど高級な普遍論争にはならず、 アホな〇〇青年の書生言葉の羅列の論争(?)にしかならないな、 その低級なポストモダンの阿呆たちを悪例としてもちださなくても。
544 :
吾輩は名無しである :2014/02/25(火) 01:05:16.66
ガクシャやヒョウロンカは知らないが、だけど、自然主義(唯名)は単に方法論だな、それは手法なだけでテーマはロマン(普遍)に行くな、すぐれた芸術家は。
545 :
吾輩は名無しである :2014/02/25(火) 01:23:36.13
美女だと思って恋してる純情男に、 君が真実と思うその美しさは君個人の欲望や生理が惹起した幻想で、 君個人にしか存在しない「ただ名のみ」だ、と言ってもしょうがないだろ? その恋は、美とは?への批評の答ではなく、実際の「造形・文学」で創る答なんだから。
546 :
吾輩は名無しである :2014/02/25(火) 01:33:42.40
美女で美しさを見たんだよ。美しい女を見たんじゃないんだよ。 その恋を作っているのが「(すぐれて普遍の)芸術」さ。
547 :
吾輩は名無しである :2014/02/25(火) 01:39:04.27
批評なんかするな。ただ創れ。それでしか答は書けない。 とゆうことですよ、〇〇論が大好きなお若いの。
>>547 あれあれ、また変な人が紛れ込んできちゃったね。
理論が理解できない人はみんなそう言うねw
549 :
吾輩は名無しである :2014/02/25(火) 02:19:18.22
>>548 創造は天性の能力の問題だからね。あんたには端から無理。あんたになんかゆってないよ。(笑
文学ってなに? こういう質問すると、関係ないレスをあふれさせる人がいるんだね。 答えたくなければ無視すればいいのに。
>>542 >美学ってなに?
>そして、文学ってなに?
包括的な“美”を顕すロゴスについての学。
近代ドイツ人がギリシア熱にやられて創出した学問。
>>551 高尚すぎてなに言ってるかわからない。
というより、美とはなにかを研究する学問、と言ってるだけ?
美とは言語において究極のものとなる。 それは理論形式の追及によって可能となる。 プラトン以来の考え方だね。
ヘーゲルやカントの美学はつまるところ論理学だけど? 簡単に言うと言語によって達成される美とは何か?ということ。
>>555 カントの美学は知らないが、ヘーゲルの美学が論理学ねえ?
一度読んでごらんよ。
文学理論講義 新しいスタンダード
テリー・イーグルトンの『文学とは何か』(初版1985年)に代わる、英語圏ではスタンダードな文学理論入門書
著者 ピーター・バリー 著
高橋 和久 監訳
ジャンル 文学・言語
出版年月日 2014年03月刊行予定
ISBN 9784623070435
判型・ページ数 A5・420ページ
予価 本体4,000円+税
在庫 未刊・予約受付中
http://www.minervashobo.co.jp/book/b165992.html これだれか読んだら感想よろしく
>>557 外国の文学理論もいいが、日本のものも読んでおいたほうがいいんじゃないか?
夏目漱石「文学論」、吉本隆明「言語にとって美とはなにか」など。
>>556 ヘーゲルは美学を論理形式による達成だ言っているのだけど?
>>559 それは知らなかった。
どこで言ってるの?
ついでにどんな文脈で言ってるのかも教えてもらえるとありがたい。
っと文学論だ。文学論は理論ってよりも評論的な側面強いし 理論と言えるF+fは稚拙に思えた。それでもそれで作る漱石に尊敬はするけど。 漱石は文学論よりテクスト自体から学ぶこと多い 言語美は三浦つとむと一緒に読んだが、わかりにくいの一言 少なくとも理論を応用して使えるかどうかといえば使いにくい もっと実用的なリーチでも読んでたほうがマシ
>>562 >F+fは稚拙に思えた
どうして?
>わかりにくいの一言
どういうところがわかりにくかったの?
上は理論として単純すぎる、現代の物語論の観点から見ればもっと詳細に説明できる。 下は理論として独自の用語を使ってるし、現代の言語学の観点から眺めればもっとスマートに説明できる
めんどい
読んだよ。
>>568 じゃあ、もう少し具体的に書けるんじゃない?
記憶にあることだけでもいいよ。
書けるか書けないかで言えば書けるけど、めんどいっていってんの
いちいち吉本隆明の言語理論を現代言語学に置き換えて説明するとか有意義にも思えないし、 また漱石の稚拙な論を物語論の観点から説明することに意義を見出せない 最初から物語論と現代言語学をスマートに勉強したほうがましでしょ。それだけ。 そんなめんどくさいことしたい奴はしたい奴に任せろって話だ
>>570 もういいよ。
たぶんネットで仕入れた知識でレス書いたんだろうけど、両方とも思い込みで切り捨てるには惜しい本だよ。
読んでわからないところがあったら、お互いに確認していこう。
>>571 >吉本隆明の言語理論を現代言語学に置き換えて説明する
>漱石の稚拙な論を物語論の観点から説明する
なぜその必要があると思うの?
>>572 思い込みじゃないよ。
吉本隆明読むよりも、スマートに、レイコフ、リーチ、トマセロ、エーコ、ダイアン・ブレイクモア
とかを消化していったほうがまし。
自己表出や指示表出だとか飛躍だの仮構だの学ぶよりもね。
吉本言語学には、認知的枠組みがない上に、社会言語学の観点もない。
言ってソシュールで止まり。古いんだよ。そんな昔の本を惜しい本だとは思わない。
漱石の文学論だって理論と言えるようなものじゃないし、バルトの関数理論地味た初期の理論以下だし
バルやモニカ・フレデリックやリモン=キーナンやハーマンやフンといった
現代ナラトロジーをしっかり読んでいったほうが勉強になると思う
>>574 そこまででたらめを書いて自分が恥ずかしくならないかい?
吉本を読んでないことを責めるつもりはないけど、読んだふりをするのはみっともないよ。
漱石のものも同じ。
こんなところで見栄を張っても誰も感心してくれないよ。
>>575 別に読んでるしでたらめでもないので恥ずかしくないが
漱石の稚拙な理論や吉本をありがたがってるほうが恥ずかしい
本気で吉本や漱石の理論で、現代文学を分析できる、通用すると思ってるなら、やばい
>>576 それなら、自己表出とはなにかを説明してごらん。
なんで俺が説明するんだよ。お前が吉本の言語論に認知意味論的側面や社会言語学的側面があることを説明すればいいだけだろ。 反論があるんなら。読んでないとレッテルを貼るだけしか能のないおばかさん。俺は読んだよ。それを説明しようと試みた竹田の『世界という背理』も手元にある。 少なくとも吉本の自己表出の概念ではバフチンやレイコフのパラダイムは捉えきれないと思うね。
>>579 やっぱり君だったのかw
名前や単語を並べて遊んでもらおうとするお年寄りだったよね。
他のスレだと相手にしてもらえないからこんなところまで入り込んできちゃったのか。
僕も君の相手は飽きたから、これで終わり。
逃げたか。最後までレッテルしか張れないバカだったな
そもそもやっぱり君だったかって意味がわからない、誰かと勘違いしてるのか?俺は文学板じゃ、このスレにしか来ないし そもそも文学理論を語りたくて落ちてたこのスレを建てた だからこのスレにいる。というか吉本隆明を有難がってるほうが爺さんだろ… 吉本隆明はとある爺ブロガーに薦められて手を出した。小宮山書店のガレージセールで並んでるのや 百円本で見つけて揃えたレベルなので、あの値段の高い心的現象論本論なんかには手をだしてないが一応数十冊は手元にある 反核異論や政治的な転向論といったものは面白く読んだし、政治的なスタンスとしての一貫性や切れ味は評価する だが、独自の体系を持つ言語美なんかは、普遍性を志したとあるが、到底容易に理解できるもんじゃなかった 竹田の噛み砕いた曖昧さを廃した説明を読んでソシュールのラングとパロールに対応してるというパラフレーズで初めて消化できた 柄谷もその独自の体系性に辟易してたみたいだが、すげーわかりにくい。 まあソシュールの定義よりもヘーゲルの意識に近いらしいが いずれにせよせいぜいソシュール止まりの古い理論であることは間違いない 現代言語学ではソシュールは乗り越えられてるわけで、んなもん今更わざわざありがたがることはない ほんと、頭の堅い爺さんぐらいだろありがたがるの、さっさと最新の理論をスマートに吸収しとけよと 未だに吉本や丸山圭三郎どまりとかやめてくれ。若者を代表して言うわ、爺さんあんた古いよ
吉本派ジジイがうざいのは確かなんだけど、 哲学だと、殿堂入り哲学者の代理戦争が頻繁に生じて、 カントやヘーゲルのような連中のみならず、 人によってはアリストテレスに準拠することで現代理論を撃つような奴もゴロゴロいるから、 新しいか古いかだけだと弱いと思うわ 特にヘーゲリアンはしつこくて、吉本隆明信者はその亜流とみるのが正しい。 マルキストもヘーゲル亜流だな
いきなりおバカさんとか罵倒するやり口は吉本隆明信者の常套手段で、 そこに同じ土俵で罵倒繰り返すのも愚かしいと思う 俺自身は認知革命以後のナラトロジーの方がもちろんいいと思ってるので念のため。
それより認知言語学ないし認知文法と生成文法派の争い、 そして両者が文学理論にどんな貢献をもたらすのかについての入門書が知りたい。
>>582-584 図星だったんだねw
そんなに相手をして欲しいなら、自己表出の意味を書いてごらんよ。
念のため言っとくと、吉本の言語論は「ソシュールのラングとパロールに対応」なんかしてないよ。
竹田という人がそう書いてるんなら、その人はまったく理解できてないだけ。
吉本とソシュールじゃ、植物と鉱石ぐらいの違いはあるよ。
なにがいいと思うのも君(たち)の自由だけど、まったく理解しないままで否定するんじゃ意味ないだろ?
「最新の理論をスマートに吸収」するためにも、まず理解することが必要だ。
誰の名前を出そうとどんな理論を出そうと、なにひとつとして具体的な説明がないw
それがどういう理論でなぜそれがいいと思うか、ひとつでいいから書いてごらんよ。
それとも本気で、適当に他人の名前を出して適当に当てはめて、なにか言ったつもりになってるのかい?
吉本隆明主義者でもなさげ単に煽ってるだけじゃね それより竹田も柄谷も理解できない理論って何なの?
明確な定義をしてないクソ理論ってだけだろ
吉本隆明言語学は理論ではなく宗教か 信者や宗派によって意味や解釈が違うと
>>587 竹田という人は読んだことないから知らないけど、柄谷だったら吉本だけじゃなくてマルクスも理解してないよ。
柄谷は、幻想の共同性が国家である(マルクス)ということがわからない。
だから、吉本の共同幻想論も理解できないんだろう。
>>588 >>589 だから読んでごらんといってるんだ。
吉本は自分の概念に明確な定義をしているよ。
読んでいないもの同士で他人の感想読んでわかった気(わからない気)になっちゃいけないと思う。
入信しないで宗教批判するな、と
>>589 ほんとそれ
吉本は明確な定義をしている!といって
吉本隆明信者はほかの本のほかの場所の発言をいろいろ持ってきて
これが定義だといってる状態だから
ちなみに現代言語学から見れば吉本隆明の言語学とか 社会性を排除していて噴飯もの たとえば狩猟人が海を見てウと発音するということを 言語の発生として見ているのだが この定義だと、猫が海を見てにゃーんと鳴いても言語になってしまう。 つまり他者を措定しない言語論なんだよ吉本の場合は。だからトンデモ理論になる その上自己表出と指示表出という概念の定義が曖昧な上に そのトンデモ発生論の上に基礎づけられてるので 信者がいろいろと定義を考えださなきゃいけない状況に陥ってる
>>592 とりあえず、「言語にとって美とはなにか」を読んでからレスしようよ。
>>593 だからね、どこをどう読んだらそういう理解になるのかな?
ほんとうに読んでそう書いてるんなら、日本語の読解力に問題があると思うよ。
ちなみに吉本信者の爺ブロガーを擁護しとくけど、その人は爺で吉本主義者だが言語学を大学院で先行した人で 言語美については、現代の言語学を齧ってたら捨ててしまうようなもんでしょと言ってる
吉本の言語論は手を出さないほうがいいのはわかった 信者の定義論争に巻き込まれるとかクソだな
>>596 その爺さんは、読んでないか日本語の読解力が無いかのどちらかだということはわかる。
そもそも「言語にとって美とはなにか」は言語学じゃないしw
吉本の言語論は 吉本の「言語論」じゃなくて 「吉本の言語」論だから
キータームの定義が定まってないとかわろた それ理論としてダメだろ
ドゥルーズは著作の中では定まってると思うが
>>602 それでは、「差異」の定義と「反復」の定義を書いてみてください。
ちなみに、確かにドゥルーズも定義してるけど、吉本のはもっと明確に定義されてるという意味だからね。
吉本はドゥルーズより上だみたいなアレかw
>>604 上下にどれほど意味があるかは別にして、ドゥルーズの文学理論や思想への影響は知らないが、吉本の自己表出と指示表出の視点による表現論は文学理論に大きな示唆を与えたし、思想に対しては観念の3形態という基軸を提示した。
ちなみに、吉本の言語論としての表出概念は、時枝言語学の詞と辞に対する表現としての根拠を説明しているということもできる。
お前さんすげえジジイだな 団塊世代か
>>607 ゆとり世代をバカにしてるんじゃないよ。
うらやましいと思ってるんだ。
でも、そのユトリを生かせなかった人が多いのが残念だ。
と、補足しとく。
文学理論が美学に接近するなんて、明治時代かよ。 ジェラール・ジュネットとかアントワーヌ・コンパニョンとか、読まれてないのかね。
ジュネットの芸術作品論は美学への接近と読んだが コンパニョンも美学寄りだろう
外国のだれそれの名前を出したがる人に聞きたいんだが、その人の論考が正しいと思う根拠はなんなの? 具体的な内容と正当性の根拠を書いてみてくれないか?
いけねえ、大人げなかった。 知ってる名前を羅列してるだけだったっけな。
いまだに引きずっているとは 知らない名前を羅列されたのが よほど悔しかったんだな
>>613 うん。
悔しくは全然ないけど、なぜ羅列したがるのか知りたい。
哲学板でもそういう人がいたけど、向こうはソーカル的な冗談だった。
このスレの人はどうなのかなって。
吉本隆明だとアリで外国人だと駄目という馬鹿な発想
>>615 誰がよくて誰が悪い、じゃなくて、名前だけの羅列と内容に踏み込んでいるかの違い。
ここでそんなこと書いたら正体割れる研究者もいると気付こう 符牒だけべらべら喋るやつを封じるのは良くない
ようは、リゴリストは愚かしい、泳がせるという発想をもとう
>>617 >ここでそんなこと書いたら正体割れる研究者もいる
どんな妄想だよ。
だいたい自分の理論を持ってる研究者なんか見たこともない。
職が欲しくてニッチな分野を探してるだけじゃないかw
そう言い切ることこそ妄想
>>620 じゃあ、妄想だという証拠に、標準的な理論を展開して見せてくれよ。
君の研究なんかじゃなくて、一般的な理論でいいからさ。
日本の文学理論とか語れると思ってるのか… 吉本なんて研究すらされてないゴミだぞ 文学理論に関しては国文学の連中ですら海外の英米文献を読みあさってる
>>623 まず文学を私の目の前にもってきてください
トンチかよ
文学者共同体が研究する学問が文学です
今は制度論や草稿研究が主流だから、学問を一発で倒したがる素人が作品本質主義を唱える
>>627 ふーん。
制度や草稿を研究する目的は、なに?
>>626 そうすると、大学教師がやってるのは学問でも文学でもなくて、文壇の作家、批評家がやってるのが学問で文学だということだね?
かように吉本隆明信者は「自立」や「試行」の手前勝手な定義で、 「学者全員」を理由もなく侮る
>>630 理由もなく侮ってるんじゃなくて、理由があって侮ってるんだと思うよ。
大学教師の作家なんかいないんだからw
いや、少しはいるかも知れないけど、他の職業に就いてる作家の率と変わらないんじゃないか?
そもそも、文学系の大学教師の最高峰が蓮實だろ?
認識古くない? 今は作家で大学教師なんか全く珍しくない 大学を排他的に捉えて敵視すればよかった、高度成長期の吉本の言説は半世紀以上前の認識
作家で教授なら、高橋、三浦、中沢も堀江とかか、 客員教授含めりゃ結構行くんじゃね、 村上だってそうだし、佐藤もそうだろ、
>>634 下の名前まで書いてくれよw
それから、作家になってから大学教師になった人は趣旨が違うよ。
大学(院)で文学を勉強して、そのまま文学の研究で大学に職を求めた人たちのことを言ってるんだよ。
ついでに、批評を含めて自分の文学理論を提示している教師も教えてくれよ。
松浦とか柴田とか蓮実とか上に挙げた三浦とか猫猫先生もそうだろ
吉本隆明が大学を過剰に敵視したキャラ売りで成功したのは、 「高卒でも威張ってる学者どもを倒せるw」と思った読者に支えられてたからだよな 吉本に見るべき思想は色々あるけど、過大評価と過小評価しか目立たないのは、 本人が喧嘩屋で、信者がそのケレンにやられたからだろうと思っている
>>637 >「高卒でも威張ってる学者どもを倒せるw」
それは悪いことなのか?
下の名前も挙げられない臆病者じゃあ、吉本信者、にも勝てないのは無理もないな。 本家に勝つどころか、足下でじゃれつくことさえできないだろw
下の名前なんて挙げなくても知ってなきゃいけないレベルのしか言ってないが…
>>639 端的に言って学者を侮りすぎだと思うよ
吉本隆明の尻馬に乗った団塊世代のおっさんの駄弁とか、付き合ったことあるけどね
>>641 知らないよ。
そんな連中は研究者間のおままごとだろw
作家だから大学に招聘された人とちゃんと区別して、フルネームで書いてみろよ。
仲間内で誉めあったって、外の社会には通用しないんだよw
>>642 尊敬できる学者にあったことがないんでねw
周囲に学者はたくさんいるけど。
ようは、吉本信者の典型として「大学教員は自動的に駄目」みたいな潔癖症があげられる これは吉本本人が喧嘩で啖呵切る時には有効だが、 信者が真似しても無意味。 また、「くだらない大学教員をあげつらう」ことで、 「大学教員が全員くだらない」という論理的な誤謬に陥るやつがあまりにも多すぎた だからゆるやかに衰退していったんだと思う おれは個人的には、批評空間とか呉智英みたいな執拗な吉本アンチもどうかと思うが、 そいつら以上に追随者が駄目すぎた
吉本信者が「内輪」を形成している事実にめをむけないとだめ ようは、中小企業主が会社員に対して 「お前らは世間の厳しさを知らない」といばる構図と一緒。 実際には、ただの恣意的なパワハラを行使したい奴が、 適当に先制攻撃放ってるだけ。 吉本信者の仕掛ける論争の大半は、そういう性質の愚論だった。
吉本信者が無学で無知で単なるルサンチマンになってるのはわかった
吉本信者がまずいのは、 「全否定はしないけどそんなにすごいものでもない」 みたいな俺のような吉本評にすら噛み付くところだな
>>645 >>646 信者の話はいいから、吉本の文学理論のどこが悪いのか具体的に書いてみなよ。
そうじゃないと、「吉本隆明の尻馬に乗った団塊世代のおっさんの駄弁」以下になっちゃうだろ?
学者についてマジレスすれば、学者というのはただの趣味の人。
好きなことをひたすら続ける熱意と愚かさを合わせ持っている。
オタクと同じ。
職人というのは、必ずしも自分の好きなことを仕事にしているわけじゃないのにその仕事に集中しているから、尊敬されることが多い。
学者やオタクは好きなことやってるだけだから、それ自体は尊敬も侮辱もされるようなことじゃない。
学者が侮られるのは、自分の社会的地位がたんなる趣味の延長によってもたらされたことに対して無自覚なためだ。
>>648 そんなにすごいものかすごいものじゃないのか、感想だけ書いても無意味だろ?
吉本の理論をこういうものだから、たいしたことはないんだ、とか内容を書かないといけないよ。
その「職人」の規定に649自身がナルシスティックに同一化しているだけだろう
>>650 学問との折衝を拒んで勝手に独自性を主張するところが駄目なんだよね
「私は市井に塗れているからその辺の苦労知らずは全員倒せる」みたいな全能感が、吉本批評最大の魅力であり宿痾でもある
吉本って文学理論を書いてたっけ? おれの感想にすぎないけど、結局、文学とはなにものなのかをわからないままに死んでしまった人だと
もう吉本信者相手にしても文学理論なんて語れないんだから別でやれよ
>>651 僕が自分の好きなことを仕事にしているわけじゃない、ということ?
わりと好きなことを仕事にしてるけど、恵まれているという自覚はあるよ。
>>652 >学問との折衝を拒んで
誰かが吉本の何かの理論に論争でもしかけて、吉本がそれに応じなかったと謂うこと?
具体的に書いてくれないとわからない。
>>653 そんな話は、はじめて聞いた。
具体的に指摘できる?
>>654 >>655 吉本のどの本を読んでそういう結論に達したの?
読んでないのに、読んだことにしちゃいけないんじゃないかい?
吉本信者が語りたいのは吉本理論であって文学理論ではない
吉本隆明のことをずっと思想家だと思っていたけど、文芸評論(文芸批評)もしている。 文芸評論をする以上、なんらかの文学理論を持っている。 それが彼独自のものであろうと、おれには興味がない。おれの文学理論wからみれば吉本は最後まで文学がわからないままに死んだ人であって…… 関係ない人だと思っていたら最終学歴のところではないけど同じ学校の先輩だった
若いころ詩人やってたから一応文学者に分類される
>>657 吉本信者、吉本理論、文学理論。
それぞれの定義を書いてみて。
>>658 「おれの文学理論」って、どんなものなの?
吉本信者=吉本理論は知ってるが文学理論は知らないバカ 吉本理論=吉本が主張しているだけで普遍性のない理論 文学理論=文学者共同体が研究している理論
>>661 そんなに馬鹿丁寧に答えてやる義理もあるまいよ
「吉本信者」を定義をしてもらわないと分からないって
もはや日本語が不自由なレベルだから
「普遍性の定義は?」「文学者共同体って?」
と来るのが目に見えてる
「具体的に書いてくれないとわからない」
「定義を書いてみて」「どんなものなの?」
そこまで一々人に聞いて納得しなきゃ気が済まないやつは
吉本の本なんて1ページ目から先へ進めないだろうになあ
これってもう小学生の
「何時何分何十秒〜? 地球が何回まわった日〜?」
の域に入った負け惜しみであって、ただ泥仕合に持ち込みたいだけよ
>>661 それ、同義反復だろ?
>>662 >「吉本信者」を定義をしてもらわないと分からないって
>もはや日本語が不自由なレベル
なるほど、定義は不要なのか。
小学生の疑問に答えられない文学理論の研究者というのもいるんだな。
いや、ごめん。
君は研究者じゃないんだから、そこは訂正しよう。
君は、小学生の疑問に答えられるくらいの知識と教養すら持ち合わせていないんだな。
吉本の唯一無二性を認めさせるまで食い下がる、それ以外できないのが信者 批判的検討を行えるならば吉本読者 こういう区別でいいと思う
>>664 ああ、はじめてちゃんとした答えが出てきたね。
それなら一般的な言葉の使い方だ。
ところで、吉本信者というのは実在するのかな?
誰かの妄想の中だけじゃないの?
>>665 あなたは信者では
批判的な言及が皆無だから
すぐに「妄想」などの罵倒語を混ぜて喧嘩に勝とうとする、 そういうマウンティングが吉本理論を大いに損ねたんじゃないの
> ところで、吉本信者というのは実在するのかな? 実在するよ、と答えれば 「具体的にどこの誰?」だろ? 具体的に挙げてみせれば 「どうして信者だと言えるの?」だろ? 理由を説明してみせれば 「信者で何が悪いの?」だろ? 小学生レベルと言われてぐうの音も出ないからと 幼稚園児レベルに逃げるのはいかがなものかなあ
吉本の論争での姿の模倣だからね ようは本人のキャラを消費している
>>660 文学理論を価値基準とよみかえてほしい。自分なりの(比較的万能な)文学理論を導き出した(つもりな)ので文学板に出入りして検証中
671 :
吾輩は名無しである :2014/03/05(水) 21:11:44.36
>>666 君、あたま悪すぎない?
>>667 これは、喧嘩なのかい?
>>668 僕からの問いかけの内容ががわかってるんなら、はじめから具体的に書けばいいだろ?
リンゴってなんなのって聞かれて、そんな質問には答えられん、なんて威張ってるだけじゃ、幼稚園児にも見放されるよw
>>669 吉本の誰との論争の姿を模倣してると思うの?
吉本と誰かの論争をひとつぐらいは読んだことがあるの?
>>670 ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって ぼくは廃人であるそうだ
吉本隆明の詩にこんな一節がある。
ぼくを気やすい隣人とかんがえている働き人よ
ぼくはきみたちに近親憎悪を感じているのだ
ぼくは秩序の敵であるとおなじにきみたちの敵だ
こんな一節もある。
詩の一節だけの評価はできないかも知れないが、可能なら、君の価値基準で批評してみてくれないか。
この詩集の全編が必要なら、申し訳ないが探して読んでみてくれ。
>>671 吉本の無謬性を前提としてないか?そしてそこが少しでも崩れると食い下がるだけで、吉本に対する批判的検討を一切加えていないのでは?
という疑問に全く答えてないね
>>671 >君、あたま悪すぎない?
こうやって必ず相手を罵倒する語彙を入れずにはおれないのが駄目すぎ
吉本隆明の「論破」スタイルに没入しているのでは駄目でしょう、という指摘が全く見えていないのはよくないでしょ
675 :
吾輩は名無しである :2014/03/05(水) 21:20:30.79
>>672 僕が書いたことのどこが崩れて、どう食い下がってると思うの?
なんか見当違いのことを思い込んでないかい?
とりあえず、吉本の何に批判検討を加えて欲しいの?
具体的にいえるくらい吉本の本を読んでるんなら、応じてあげよう。
676 :
吾輩は名無しである :2014/03/05(水) 21:23:30.09
>>673 >>674 君(たち)、吉本の雑文すら読んでないだろw
他人の噂と聞きかじりで知ってるつもりになることを、あたまが悪いと言ってるんだよ。
677 :
吾輩は名無しである :2014/03/05(水) 21:25:39.97
一人ぐらい、文学とは何か、を書いてみてよ。
紙は白く文字は黒い
そこに文学があるから読むんぢゃね?
>>671 > リンゴってなんなのって聞かれて、そんな質問には答えられん、なんて威張ってるだけじゃ、幼稚園児にも見放されるよw
このリンゴは腐ってる、食べられないよ
という話をしているところへ
リンゴって何なの?定義して!といって
そもそもの腐っているという事実をウヤムヤにしたいわけでしょ
答えられんと言ってるのではなく、
問題はそこじゃないし、しかも答えてあげたところで
君はそれに納得するわけにはいかない人なんだね……と言ってるの
むしろ答えられんと言えば見放してくれるなら
(=諦めてくれるなら)この話題は一件落着するんだけど
吉本理論が腐ってる件を覆すのを諦めて、君にそれができますかねえ
吉本信者が論破ゲーム、そして「最後まで立っていた者が勝ち」の原理でしか動いていない事実が明らかになった。 吉本の表出論で「世界文学」を扱うことは超困難で、 そんなことをする手間をかける者がいないことは自明といえる
683 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 00:53:23.07
>>680 それじゃあ、吉本の理論のどこが腐っているのか具体的に説明してごらん。
吉本は詩人であって言葉によって闘う格闘家だけど、最後まで立ってさえいれば勝てるという亀田方式かも。 言語や言葉については語っているけど文学理論(自分のツール)を語ったことがあるのかどうかは疑問だ。 文芸評論もやっていたのでそれなりの文学理論(価値の抽出方法など)を持っていたのは間違いないだろうけど
685 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 09:16:58.01
>>684 「言語にとって美とはなにか」という本は文学理論として提出されてる。
学術論文的な書き方が好みなら「初期歌謡論」。
参考までに。
>詩人であって言葉によって闘う格闘家 こういう薄っぺらな言葉を情緒的に使うってのが正に詩人だなw
687 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 11:20:23.63
日本における文学批評家や文学理論家の問題点はただひとつ著作や論文や批評を「英字で書かないこと」にある 世界の思想史や文学理論をいくら習得したとしても英字で書かなければ議論に参加できるはずもなく 井戸端会議を繰広げるくらいのことしかできない(日本文学が孤立するだけでなく批評自体の客観すら失われるだろう) 現状は身内同士で「あれはちがう」「これはちがう」と意見交換するだけでまさしく井戸端会議のそれでしかないわけ 「英字で書かないこと」は「議論の放棄」そのものであり相互干渉の機会を著しく低下させていることを問題視すべき 日本は英語圏でないのだから批評家や理論家こそ英語圏で活躍してほしいところだな(文学に関わらず人文全体における重要な問題)
>>687 英語圏以外の文学者や哲学者が英語で書く例は多くないと思うけど?
それはともかく、そんなに優れた英語圏の文学理論を説明してみてくれないか?
君は、なにを書いても内容がでてこない。
たとえば、文学とはなにか、でもいいよ。
>>683 やっぱり見放せなかったねw
吉本理論が腐っているかいないかってことと
それを君が納得するかしないかってことが
君の中では同一なんだよね
だからこその信者なんだろうけど
君に納得していただかなければならない理由が
こちらには無いというのに「説明!」「説明!」「定義!」「定義!」……
吉本は2年前に死んだけど
君が「死の定義」を求めても納得できる答えがなければ
生き返るかもしれないから試してみたら?
君の食い下がり戦法ってそういうことだからね、頑張って
690 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 12:06:08.57
>>688 「そんなに優れた英語圏の文学理論」←英語圏の文学理論が優れているとは言うていないのだが…
優劣以前に形式における問題点を指摘しているわけで英語圏の人々が優れているなんて述べてない
科学分野ならば必ずといえるほど英字で論文を書くがそれは英語圏の科学が優れているからではなくて
英語圏の科学者が多いからなわけ要するに相互干渉を促すための合理に基づいた選択として英語で書くだけ
客観性を獲得したいもしくは問題を共有しようとする意思さえあれば英字で書くのが当然の帰結に思えるのだが
※申しわけないがおまえのレスがそもそも反論なのかさえわからないから質問の意図が汲めない(長文スマソ)
691 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 13:10:56.90
優れた創作家が学者評論家が飯のタネで論じてる「文学理論」なんぞなんかで創作するわけ無ぇーだろ、阿呆。w 理屈は後から貨車で来る、ってやつだ。英語で書こうが何語で書こうが、くだらねえよ、そもそもで。www
692 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 13:23:56.91
どこに行って何を見るのも研究者・評論家以外は大変だ、って時代じゃない。 缶詰品ならそれこそ大変なレア物だってネットで簡単にDL出来る。 誰もが現物を簡単に体験でき極めて精巧な複製を所有できるその時代に 「美味かったよ。君も是非食べて。感動的に美味いから絶対に感動するよ」 の行列ラーメン評論以上にすばらしい批評が世にあるわけないだろ。(笑
吉本理論には亀田メソッドかつB級グルメ的な意味で中毒性があった ここで粘っている奴がその実例である
694 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 14:57:54.98
作品が優れていれば優れた作家になれるわけではなく作品が優れていると評価されてはじめて優れた作家になる ↑おまえらがここんところを理解しなければ批評家や理論家の重要性はわからぬままだろうな ※以下補足 美術作品がより顕著なので近代絵画を例として挙げればジャクソン・ポロック(画家)やバーネット・ニューマン(画家)の作品も クレメント・グリーンバーグ(批評家)とハロルド・ローゼンバーグ(批評家)の言説により美術史上重要な部分に位置付けられた 両者の作品は「美術史上重要な部分に位置付けられた」ことにより付加価値(美術史上の価値)を獲得できたといえる 勿論両者の作品が言説から独立して優れた価値を持ちえていることが最低条件ではあるがそんなものは評論不可能 「貨車で来る」とはまさに日本人らしい言葉だな…信じた作品を黙々つくりあげてさえいれば貨車が来るなんて フランス人なら便器でも論理立てて美術史上に位置付ける/日本人は浮世絵でさえ自力で売込むことがができない 英語圏で発言力をもつ日本人の批評家や理論家がいたにこしたことはない…貨車を待つなんて御人好しがすぎる
>>689 だからね、具体的に書いてみなよ。
なに一つ具体的なことが書けずに罵倒を繰り返しても、やっぱりただの見栄っ張りのおバカさん、の姿がより顕わになるだけだよ。
吉本の理論のどこがどう変なのか、ひとつでいいから書いてごらんよw
>>690 別に反論なんかしてないし、質問でもないよw
なんでもいいから、具体的な理論の中身を書いてごらん、と言ってるんだ。
寝言まで英語で言うようになったんで、日本語が理解できなくなっちゃったのかい?
書いてごらん 書いてごらん 書いてごらん 書いてごらん なんで訊けば答えてもらえて当たり前と思ってるんだろうな とっくに答えの出た件でお前1人が納得できなくても こちとら痛くも痒くもないと何度言ったら分かるのやら 駄々をこねれば何でも与えてもらえたころから成長していないのね 幼稚園児呼ばわりしたのさえ買いかぶりで まさかの乳児レベルだったとは
697 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 19:59:00.39
>>696 繰り返すけど、質問してるんじゃないよ。
できるものなら書いてみろ、と、嘲笑してるんだ。
そんなことも理解できないんじゃ、幼稚園児にも笑われちゃうかも知れないよ。
それとも、相手の言葉をリフレインのように響かせてるのは、乳児の泣き声なのかな?
>>685 文学理論とは読解(≒誤読w)のためのツールであると思い、このへんに出没するようになりました。
「言語にとって美とはなにか」は文学理論というより、ツール以前のものかな、と考えます。「だからそれがなんなんだ」というぐらいにしか思えません。
「初期歌謡論」は探して読んでみます。じぶんなりの文学理論も、小説の機能とは詩の機能と同じだと理解した時点から始まっているので、歌謡=詩に対してどのようなことを語っているのか気になります。
とりあえず。吉本隆明そのものが文学理論であり誤読ツールそのものである、とするならば同意します
699 :
吾輩は名無しである :2014/03/06(木) 21:27:52.07
>>698 まず、文学理論を読解のためのツールだとする意味がわからない。
個別の作品論を期待しているなら、吉本に限らず、いろいろな人がいろいろなものを書いてる。
普通に読解のためなら、普通に辞書や文法書を利用して、作品によっては作者の生涯やその時代の社会状況、さらにその国の文化の歴史などを検討する。
つまり、作品ごとの個別の状況を確認すれば十分じゃないのかな。
自分で勉強すればいい。
読んだのならわかるだろうが「言語にとって美とはなにか」でも、そうしたことには触れている。
>吉本隆明そのものが文学理論であり誤読ツールそのものである
なにが言いたいのかわからない。
吉本隆明の著作は多岐にわたるから、文学に限らず、さまざまな分野の読解に参考にはなるが、人そのものが理論なんかであるわけもない。
ちなみに、「だからそれがなんなんだ」という、それ、とはなにを指しているのかな?
>>699 ごめんなさい。文学理論を知らない人だとはつゆ知らずよけいなことをいってしまいました。わすれてください
>>700 おまえのカーちゃんでーべそー、みたいな逃げ口上だなw
許してやるよw
>>700 読んでもいない本を読んだとか見栄を張るんじゃないよ。
わかったかい?
なんだか負けたみたいにいわれてるなぁw 「だからそれがなんなんだ」というのは SO WHAT? のことですね。一時期流行ったので引用しようとしたら見つからなかった。 吉本の言葉あそびには意味が無いわけじゃないけど、中身はない。中身が重要なのではなく周辺の運動に意味がある。 これは郡司ペギオ幸夫の生命壱号の「空」に何かが求められるかもしれない
文学理論を用いて文芸批評がなされる。文学理論をツールとして使用<<可能>>なことは自明
>>697 > できるものなら書いてみろ、と、嘲笑してるんだ。
こちらは
してあげる義理がないからやらないよ、と、冷笑してるんだ
君のようにむずかる乳児をあやしてあげたくても、
俺は吉本理論というおしゃぶりを持ってないの
それは吉本というママのおっぱいから
まだ離れられない子どものためだけのものだから
まだ分からない?
>>705 そんなことより、ひとつでいいから具体的な理論を説明してごらんw
社会主義リアリズム論に抵抗するための『言語にとって美とはなにか』なんかいまさら持ち出されてもなあ。 亀井秀雄を読んだ方がまだマシ。
>>610 『フィクションとディクション』は「非芸術的」文学の評価枠組を作っただろ。
そういやなんでミーケ・バルって翻訳ないの?
>>707 まあ、読んでもいない本のことを、いまさら、とかねw
言語にとって美とはなにかって、版によって違いはあるかもしれないけど、吉本隆明がバカであることを自分で証明してたようなw 単なるエッセイは文学理論の対象になったとしても文学理論としては使えないし
団塊の世代の(アイドル)芦原将軍というくらいが正しい評価か
初期歌謡論を(軽く)読んでみました。 批判しているサイトもたくさんありますが、引用の前後を読まないで批判しているものも多いので要注意ですね。 ひとつ残念なのはオカルトになりきれていないというところでしょう。なんでフレイザーの類感呪術・感染呪術にたどりつかないのか。 詩あるいは言葉における魔法を解き明かしていれば文学理論にもなりえたでしょうが、吉本自身が語っているように完成されたものでもありません。 吉本が生きていたら(わたしですら)教えてあげたいことがたくさんありますw
吉本隆明が江戸時代に整備された50音表記以前の音節を熟知していたとは思えない。 また、平安貴族によって和風に再解釈された歌謡には、 当然のことながら平安歌人の素養とされた唐風の自然観や文学観が含まれているわけで。 であるならば、現代に伝わる文学テキストから古代庶民の歌謡(おと)と意識に迫るのは非常に困難。 そもそも万葉集に記載されている催馬楽(庶民の歌謡)の原文は漢文ですよ。 ここからどうやって書き言葉以前の庶民意識や美意識(おと)を再現するのか? 未開人の禁忌習俗には語感的なものも含まれるわけで、それがうたの起源だと思うんですけどね。
>>714 軽く、じゃなくて、重く、読んでみれば?
>>715 >どうやって書き言葉以前の庶民意識や美意識(おと)を再現するのか?
そんなところに主題はないよ?
ほんとに読んだのかよw
717 :
吾輩は名無しである :2014/03/09(日) 10:12:15.21
テリー・イーグルトンの『文学とはなにか』は驚くほどおもしろく読めたな 文学理論を政治らしきイデオロギーと看破するのは痛快であり悲しくもあった
>>716 >ほんとに読んだのかよw
書店で枕詞あたりの件をパラッと読んで買うのをやめました。
吉本隆明のおもしろさは、そのたぐいまれなる誤読力と天下り的な結論へ結びつけようとする妄想性にある。 「誤読」こそ真の文学理論であり、そのようなものを探しているんですが、お心当たりの方はご一報を
>>718 そうだろうなw
でも、よくそれで「書評」を書くよなw
>>719 誤読するには読まないとだめだよ。
読みもしないでネット情報頼みで妄想してると、また寝られなくなるよ。
吉本に人気があるのはわかったけど、読んだことあるのが一人だけというのも寂しいね。 擁護、批判以前の問題だ。
現行世代に人気皆無だから仕方ないね
>>722 うん。
若年世代ほど、日本語の読解力がなくなってる気がするな。
それと、現実社会に対抗しようとする姿勢もなくて、現実のニッチな場所で満足してる。
だから流行物が好きだし、根拠のない自尊心を身につけたがる。
若年層の一部にある愛国価値観もその現われだろう。
国という概念を考えることもなく、愛国と言っておけば気が済むみたいな連中が増えてきたようだ。
日本語の読解力があることと吉本信者の数は相関性ないだろw そういう誤解をしてしまう読解力はこわい
725 :
吾輩は名無しである :2014/03/09(日) 13:42:40.69
吉本が『初期歌謡論』で万葉以前から、新古今までに渡って 論じてるらしいが、そもそも初期というなら、 万葉と、それ以前だけで良さそうに思うんだが。 そもそも、何故、吉本が日本の歌謡の起原を書く必要があったのか、 それが不思議なんだな。作品論か作家論で何故、 満足できなかったのか? 国文学者の誰一人もやらないから、吉本がやった? 俺の推測では、吉本は新古今的世界に特別な思い入れがあったと思う。 『初期歌謡論』は、花田が『小説平家』で触れた新古今的世界に対する アンサーだったのではないか? 発行当時、既に花田は亡くなっていた訳だが。
柳田国男の民俗学もどきがやりたかったんだろう 共同幻想論も遠野物語の読解で売れた
共同幻想論はいきなりフロイトを出していたような記憶がありますが。
>>725 >そもそも、何故、吉本が日本の歌謡の起原を書く必要があったのか
それは彼が詩人であり、国家共同体成立以前の民衆意識を拠点にしたかったからでしょう。
でもそれは現存するテクスト群から抽出するのは難しいと思いますね。
729 :
吾輩は名無しである :2014/03/09(日) 14:27:34.61
南方は柳田の山人論も、折口のマレビトも認めていなかったのでは? だが、南方の『摩羅考に就いて』も、俺にはすっきりしなかった。 三浦しおんの父親が国文学者なんだが、この人が南方の論に賛成しつつも、 語源については南方は明らかにできなかったことも指摘してる。 俺は既にこれら一連の問題にけりをつける解答を得たが。
730 :
吾輩は名無しである :2014/03/09(日) 14:42:30.00
吉本の「僕が真実を口にすると、ほとんど全世界を凍らせる。」 だったかな? これの発想は非常にヘルメス的では? あるいはポーの『ユーレカ』みたいな?
「という妄想によって ぼくは廃人であるそうだ 」がつづく。 (僕が真実を口にすると、ほとんど全世界を凍らせる)「という妄想」によって 「ぼくは廃人である」(と全世界から同定される)そうだ つまり、「真実」とその「表現」によって「全世界」から 「真実」=「妄想」、「表現者」=「廃人」という形で疎外されることが 「全世界」から「そうだ 」という形で暗示されている。
なんだかラノベみたい
733 :
吾輩は名無しである :2014/03/09(日) 21:00:17.88
じつは、この「真実」というのはたいしたことをさしてなくて、普通の社会的な常識や社会の序列を無視して事実を語ると、といった程度のこと。 それだけ作者にとって現実の社会秩序の壁が大きかった、ということ。
娘のよしもとばなながスピリチュアルなのも頷ける
735 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 10:19:03.37
吉本の「僕が真実を口にするとほとんど全世界を凍らせる。」の「真実」が 「王様は裸だ!」の子供のセリフに似た性格のものだった可能性はあるわな。 本を読んでても、単純な疑問にぶち当たった時に、それを書いた学者や 参照されてる学者達に向かって言いたくなる気持ちと似てると思う。 「お前ら、良い給料もらって世間から褒めそやされてて、こんな大事で 当然の疑問を長年ほったらかしにせず、さっさと解決しろよ!」と。 先輩のアドヴァイスに従ったり、学界の通例に従ってると、一般人が 当然感じる疑問を素通りしてしまうことが多過ぎるように思う。 吉本は取りあえず、国文学や心理学の分野でそう感じていたんじゃないかな? 俺も、欧米の学者の本なんかでも、同じようなことをしょっちゅう感じる。
だから吉本の後追いって矛盾も甚だしいんだよ 信者が全員駄目だった理由
>>735 一例として、社会的な成功者には嘘つきが多い、というようなことだそうだ。
それは底辺知らなさすぎ 底辺は嘘つきめちゃくちゃ多いぞ
意味あるよ。 「社会的成功者の嘘つき」を焦点化することで、「それ以外の階層の嘘つき」が有耶無耶になるレトリックの問題点。
>>740 そんなことじゃなくて、社会的な尊敬を得ている成功者が嘘つきだということ。
底辺の嘘つきはもともと尊敬を得ていないw
だから、その言葉を聞いた周囲の人たちが、一瞬凍りついた表情になるという話。
>>740 つまり、自分の言葉が世界を凍らせる、というのは実体験なんだよ。
吉本と文学理論といえば、理論信仰と実感信仰について是非 触れておかねばなるまい。 この枠組みを見出したのは丸山であるが 吉本の理論についての態度もまた、実感信仰、理論軽視の 日本近代文学へのアンチテーゼの面が強いといえるな。
文学理論なんてこんなネタ理論、2chならネタスレでああこうゆー人もいるようだけど、 こんなもんを教えてる学んでるなんてガッコもあるんだなあ・・・。 もうこれは、新興宗教の存在と同じく、社会心理学で解析するだからそれだよな。(笑
東大教養学部と(世間的には)ずっと下がっての早大文学部、ついでのおまけの東工大wが、日本の人文の諸バカの根源だ、と。(笑
人文を小馬鹿にしている奴よりは、ずっと真摯な研究者がいくらでもいるよ
747 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 15:29:33.46
あえて「人文科学」とは言ってないでしょ?3っつの学校しか出してないでしょ? ちなみに自然科学なんてもんは、全世界の大学・研究機関が諸バカの根源、だって言って、 もっとメチャクチャに小バカにしてるよ。(笑
お前がまともには全然見えない ゴシップ屋にしか
749 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 18:47:32.41
東工大に文系の学者集めた研究所はある 博士課程があったような
751 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 19:03:08.61
吉本の嘲笑が嫌いって書いた者だからな 団塊世代のクソみたいな論破宣言の山 その結果何も論じられなかった
「ぼくが真実を口にするとほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって……」 妄想しているのは、ぼく=吉本、ぼく≠吉本、ぼく以外の誰か、ぼく以外の全員、それ以外のパターンが考えられる。 もちろん妄想しているのは吉本なのだが、構造はもっと複雑かもしれない。 吉本の言葉を踏むと、空虚の回りで言葉が連なって回転を始める。回転にのらない限り、外側に弾き飛ばされるか中心の空虚に投げ込まれる
754 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 19:17:20.82
吉本新喜劇を真面目にどうこう言ったってしょうがない、お笑いなんだから。 あはははは、と笑って、旧世代新喜劇。忘れ去ってそれでおしまいw
755 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 19:41:10.99
>>753 だから、それは吉本自身の実体験だって、教えてあげたじゃないか。
妄想しているのは誰かということ。 G・ベイトソンの学習T・Uのように、妄想T・妄想Uなどと考えると、妄想の妄想は誰の妄想でどっちの妄想のことかとw 実体験ともなれば、さらに複雑でペンローズのツイスターあたりの構造すら考えられるわけで
757 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 20:55:01.30
>>756 自分自身は普通のことを言ってるつもりなのに、相手が異常なことを聞いたと感じてる。
この差を妄想と表現した。
こんな初歩以下の解説させるなよ。
人の名前を挙げれば何かがわかると思ってるのかい?
その妄想空間の構造のことを考えているわけだが。まあ魔法だと思って無視してくれい
759 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 21:22:54.09
>>758 妄想空間の構造かよw
そんなものが客体のようにあるわけないだろ?
妄想というのは、個人の個人としての頭の中か、個人の共同性としての頭の中にしかないんだ。
妄想空間なんていう設定は、個人と個人の共同性を捉え損ねた無意味な思いつきだよ。
空間というのは、とりあえず、ですが、情報空間としましょう。 >この差を妄想と表現した とした以上、なんらかのノルム(のようなもの)を定義できるわけです。あなたが意味を与えてしまったんですよw
まあなんつーてもグリゴリー・ペレルマンが物理をもちこんでポアンカレ予想を解いてしまう時代なわけでして、文学すらも物理、すなわちこの空間の構造から逃れられないと思います。 繋がって運動(回転・変化)しているという基本的なところから文学理論も再構築されるだろうと予測します。 量子論というより繋がっているということから、ペンローズのスピンネットワークの発展形であるツイスターによって文学理論が表現されてしまう時代が来るかもしれませんよw
762 :
吾輩は名無しである :2014/03/10(月) 22:10:18.70
>>760 バカだね君はw
情報空間などというものはないと言ってるんだよ。
個人の頭の中にあるだけだよ。
その内容が個人だけの場合と個人の共同性の中での場合とで異なるだけ。
>>761 ソーカルの批判そのままだな。
とりあえずソーカルでも読んでおきなw
>その内容が個人だけの場合と個人の共同性の中での場合とで異なるだけ。 うんうん。それですよ。それがもう少し入り組んだ形になるとツイスターのイメージと重なってくる。 このやりとりはとてもやくにたってますよw こっちのイメージをきちんと文系側から意味づけしてくれている。 ソーカルなんてふるい話だねぇ。ソーカル批判そのものってのはどっちを批判してるのかわからないので意味不明だけど
くだらねえ。そんな言い方、もうコケおどしにもならねえよw
>>763 意味不明?
君の書き方がソーカルが批判した書き方とそっくり同じだな、と書いたんだ。
わかったかい?
>>763 =自称高校・大学除籍(公称ではそれは中卒という。そう言われたくなければ入学金の領収書くらいは出せw)理系w栗原www
わからなければ魔法の言葉だと思ってもらえればそれでよい。 ペレルマンが物理をも利用してポアンカレ予想を解いた以上、ソーカル事件は読みなされるべきで、エネルギー保存則やエントロピーや量子論が文学にも影響を与えることは事実と考えるべきだろうと思う。 しかし、そこにあるのは衒学的なものではなく、「当たり前」なもの。当たり前なことの証明を数学や物理に求めるのは正当な行為。 現在の文学理論では現代の読者が古典の作者に影響を与えることも可能であり、それに正当性を与えるなら量子論を使えばよい
ポアンカレ予想,エネルギー保存則,エントロピー,量子論 こうゆうのが魔法の言葉だってさw正に中卒理系www
要するに中学理科どまりで高校物理より上は知らないから、 そこからはみんなおんなじ「魔法の言葉」なんだよな、中卒理系にはwww
衒学気取りなんてさえまで届かないこういった阿呆となんの話をしたってしょうがないよな、そりゃなw だけど文学理論がどうの現代哲学がこうのってゆってるポモってみんなこうなww もちろん浅田とかなんとかってのもさwww
771 :
吾輩は名無しである :2014/03/11(火) 04:03:27.11
魔法の言葉? まほおのことばで たのしーい なかまーが ぽぽぽぽーん おはよう おはようなぎ
>>767 ソーカル事件、wikiで調べただけだろw
おまけにwikiすら読み間違えてるw
どちらかといえばソーカルに批判的だからね。 数学問題に物理を持ち込んでもフィールズ賞の査読(じゃないけど)をパスしたということ。数学で閉じていなくてもいいんだ。 文学は最初からなんもありでいいじゃねーかと。バカ発見装置としてのラカンやらクリステヴァやらをつぶんすんじゃねぇ
774 :
吾輩は名無しである :2014/03/11(火) 20:57:44.22
ま、文学の内部に物理も数学もあるわけで、思考停止する側に問題があるのは明白。 そんなことより、文学とはなにか、ですね。 文学とはプロレスである、なんてのは理由をつけないといけないのでパス。 文学とはエントロピーを扱うものである、というのは根本的すぎるかもしれない。heat death や cold death へ向かわないようにするために文学はある。それと同時にheat death や cold deth に向かわせるのも文学である。 増加するエントロピーを祓うのが文学の(ひとつの)目的なのは事実だろうが、それでいいのかとも考える。21世紀の文学の当面の目的は、それでいいのかもしれない
>ま、文学の内部に物理も数学もあるわけで 仰る通りですが、一般にそれが分かっている人間は殆どいない。 ベルクソン、フッサール、パースといった19世紀末の数学に造詣の深い哲学者たちが気づいたわけで。 また、文学への物理や数学の混入を通俗レベル(数式の導入とかね)で剔抉しようとした場合、 その正否を判定できる研究者も殆どいない。
そういえばカント哲学にピュタゴラス学派の匂いを敏感に察知したハイネがいたか。 ハイネはここから派生するであろう形而上学的専制に反して 汎神論的世界観を主張している。
エントロピーはトマス・ピンチョンを読むのに必要だから少しぐらい間違っていたとしても基本的な概念は文学に入っていると思う。 しかし、(えたいのしれない深海魚の消化できない油を含む)エンガワやトロを喰ってピーになるものだという解釈すら文学では許される。 文学全体を扱おうとするとなんでもありだし、文学を拡大していくと物理世界すなわち宇宙と等価になる。考え方によっては宇宙よりでかい。 「文学とは」を語るのであればミニマムな文学から出発したほうがよさそう。もしかしたら文学ビックバンの痕跡がみつかったり……
う。ビックって打っちゃった。おそらくそこに背景放射のようなビッグバンの痕跡が発見されるのではないかと。 汎神論的世界観といえば、夢の中での話だけど、「神の論理」がでてきてすべてを論理的に解決してくれた。なんだそれでいいのかと思ったんだけど夢のことなので詳細はおぼえていない
エントロピーは情報理論でも使われている。
本当はエントロピーではなくネゲントロピーで説明したかったがネゲントロピーは否定されているようだ。 文学は食物であり排泄物でもある。作者と読者がいると仮定すると、作者が生み出した食物を読者が食べて排泄する。作者が読者の排泄物を食べて排泄したもの、それが作品である。 作者と読者のそれぞれの口と肛門が相互に接続された循環形式のムカデ人間こそが文学の正体なわけだw 文学ムカデ人間理論
そういえばそんな映画があったねえ。
文学を読んでいて、これはカレーなのかカレー味のうんこなのかって思う。 うんこを喰っているのではないか。本当はうんこなんじゃないかと。 作者が排泄物から食料をつくりうる酵素やら細菌やらを持っていればいいんだが、そうでない作者が多いような
>>783 >文学を読んで
文学理論以前の日本語の乱れだなw
>>784 いや、そこは「文学を読んで」でいいのよ。伏線だから。そのうちなんらかのきっかけで展開するだろう読者論のためのね。
考えたうえで書いたところなんだなそこだけ。たくさんの打ち間違いや変換ミスがあるし推敲なんかしないし、入力BOXからはみだしたところもキチンと確認してないしw
「文学をめぐる理論と常識」を読書中
実のところ「文学をめぐる理論と常識」を読んでいて、「文学理論」と「文学の理論」の違いのところでつまづいてしまった。 そんなこと考えてもなかったわけ。ミニマムな文学を考えるとするならそこに最低限必要なアクターは何かと。 それは「読み手」または「読者」であろうと。 「読む」という行為の対象は「作品」でも「テクスト」でもなく、とりあえず対象となるのは「文学」だろうと思いながら余計なものを削って「文学を読む」になってしまった。めんどくせーからこれでいいやとw <<文学>>のようにカッコつきにすべきだったかもしれない。 この本を読んでいるのは「読者」という項目があったから
カッコに入れて先送りするのは現象学の手法か
東洋思想だと「文学」の定義はキチンとなされているが 欧米の場合はその定義や枠組が不安定だね。
>>789 なるほど、そおいうことだったのかー。
ミニマムな文学を考えるとき「読み手」さえいれば(ミニマムな)文学は成立する、と考えているけど、そういう定義がすでにあるのかどうか、自分で定義しなきゃならないのはめんどー。
作品側に主題は不要。極論すれば作品すらも不要だとまで持っていきたいw
作者が殺されたとしてもテクスト内部には作者がいる。そのテクスト内部の作者や作者の意図らしきものもすべて排除しても<<文学>>は成り立つ。 そう考えているだけ。 人工<<文学>>言語と、万能チューリングマシンと等価な人工<<文学>>マシンを制作するならば、それは人工生命とアプローチでよいだろうし、最終的には人工生命と等価なものになる、と思う。 扱う世界が異なるだけ。宇宙が計算機ならば<<文学>>も計算機だ
う、「同じアプローチ」だ。「同じ」が抜けた。まあ、精神活動ということにおいて生命と同じもの。あるいはもうひとつの「生命」か。 それが「魂」かどうかは取り扱わない。半自律/半自立なソフトウェアが<<文学>>かもしれない
スタンリーフィッシュの本がみつからなかった。しかたねーからイーグルトンを読み直そう。 ミニマムな<<文学>>にはイーグルトンのいうような価値観よりも少し原始的な<<回路>>を想定しています。 文学とは(合法/非合法)ドラッグであるという文学ドラッグ理論は誰でも思いつくよなぁ
>>792 >作者が殺されたとしてもテクスト内部には作者がいる。
近代小説は近代読者の想定下で形成される。
この場合の「近代読者」というのは作者の生活圏外に設定された抽象的な読者であり、
かかる意味合いでは作者にとっての内なる他者(つまり自己投影)といっても良い。
この「内なる他者(=自己投影)」への語りかけの表出が「作品」であり、
読者は作品の中に呼びかけ主体としての「作者」を読み取るが、
この「作者」もまた「近代読者」の「内なる他者(=自己投影)」に過ぎない。
おおっと、誰も書かないからてきとーにつっぱしってたw
>>795 反日者の自己投影によってできたのが「ネトウヨ」かもしれません。それは実在しない。
文学をめぐる理論と常識(原題:理論の悪魔)、行為としての読書、文学とは何か、まとめて読書中
のっけから「反日」のような存在を立てるのもたいがいだろ
毒物やタブーを持ち出すのも文学の手法かも。 イーグルトンを何年かぶりでよみかえしてるが、マルクス主義の人らしく、分析は正しくできているが結論がおかしい部類の人。その結論はどこから出てきたのかと問い詰めたい
30-Second Brainは、読みたい本だ。これってアレを使えば数学的にソレを実現できそうだし、ソレは量子アニーリング法と同等かそれ以上に量子計算してるんじゃないかと。そんなヒラメキを与えてくれる。 計量ではなく計算文学って誰もやってないのかねぇ。単純に考えれば人工知能の一分野か。テクストとか知識を扱うというところでは文学(理論)と同じなんだが
反日、なんて無意味な概念が理論を語ろうとする人間から出てくる時代なんだね。 ひどい劣化だね。
2ちゃん初期からそういう奴らが入れ替わりやってきてると思うが 劣化以前の想定がおかしい
803 :
吾輩は名無しである :2014/03/19(水) 17:47:55.47
>>802 >2ちゃん初期から
笑いをとりたいんだよね?
いやまじで。文学板昔からおかしいやつだらけでは。 そして一般に何かが「劣化」していると言いたがる奴は、 「俺は優れている」と言いたいだけである
805 :
吾輩は名無しである :2014/03/19(水) 19:38:00.75
>>804 そうかw
劣化というのは、2chなんかのことじゃなくて一般社会のことだよ。
以前なら、反日だの愛国だのというプロパガンダ用語は右翼の冗談に過ぎなかった。
それが現在では政権や政権の同伴政党まで堂々と吹聴して恥じるところがない。
そういうことを劣化と言ったんだ。
2chの初期なんか知らないし、知ってることが自慢になるとも思えない。
だから、笑うところなんだろうな、とw
ファナティックな左翼が荒れてたころもこんななんじゃないの?
“反日”というのは小林よしのりや西尾幹二らによる教科書問題に端を発しているような気がしますね。 いわゆる保守派による左派批判の文脈から派生したラベリングが ウヨ/サヨ二分法という粗雑な罵倒合戦に帰着した、と。 まあ、最近の西尾幹二氏は真の敵は左派ではなく自由主義者であった、と軌道修正していますが。
「反日」にひっかかるってことは批評理論としての反日理論は役に立つかもしれないってことだね。 ポストコロニアル理論の一地域に特化して派生したものだと思ってたわけだが
809 :
吾輩は名無しである :2014/03/19(水) 20:35:52.04
>>806 荒れたかどうかは知らないが、最近の無思考ネトウヨ君たちよりはずっとマシだったんじゃないの?
ネトウヨに限ら右翼を自認する連中には理論はない。
ただ、小さな自尊心を国家に託して国家と自分を一体化させたがってるだけ。
もともと国家というのは政権のことだから、さまざまな利益の代表のひとつであるに過ぎない。
自分の実体的な利益を基に政権を賞賛する人もいれば、理念的な同一性を求めて政権を賛美する連中もいる。
右翼というのは、その理念を国家に求める。
ただ、その理念というのが、実体のない自己の小さな自尊心の投影であるというところに理論の構築を妨げてしまう根拠がある。
他我の対立が民族を軸に敵/味方関係に発展するというのは ヘルダーやフィヒテそして国民文学の成立にかかわることでは? 最近ではバリバールがこのような視点で フィヒテやルナンのテキスト読解をしているみたいだけど。
811 :
吾輩は名無しである :2014/03/19(水) 20:40:42.99
812 :
ヘノモチン :2014/03/19(水) 20:42:03.99
804 >ただ、その理念というのが、実体のない自己の小さな自尊心 の投影であるというところ 左翼の、東アジア共同体等の、みんな仲良しこんにちは幻想もどっこい 、どっこいなんじゃないの。 くわえて、その幻想が、壮大でオリエンタリズムなだけに、なかなか幻 想であることに気がつけないんだよね。
?
>左翼の、東アジア共同体等の、みんな仲良しこんにちは幻想もどっこい >どっこいなんじゃないの。 それは大東亜共栄圏思想でもあり、沿革的には岡倉天心や安重根も言っていたことなので ウヨ/サヨ二分法で論断できるものでもない。
しかし、話がウヨ/サヨになるとスレが荒れるなあ。
816 :
ヘノモチン :2014/03/19(水) 20:50:00.23
訂正 804 〜 809
817 :
吾輩は名無しである :2014/03/19(水) 20:51:04.83
>>812 ネトウヨ君にとっての左翼の代表は鳩山かw
鳩山はただの資本主義者だよ。
やっぱり、知的下層は無知だな。
ネトウヨは実在せず、それは反日者の自己投影にすぎない。 これにはこう続くべきだ。 反日者は実在せず、それはネトウヨの自己投影にすぎない。 ポストコロニアル理論の観点からいえば、これらはアイデンティティ問題にほかならない。 防衛機制からいえば自己投影ではなく投影。投影されるのはアイデンティティが不明確なままに分裂した相反する自己のどちらか。 ネトウヨ=反日者、と捉えている
テクスト理論によって作者が殺され、読者理論?によってテクストが殺され、最後にxx理論によって読者が殺され、そして誰もいなくなる。 読者殺しの犯人は誰になるのか? 作者の亡霊なのか? そして何か残るものはあるのか?
言語による無限循環
作者の死はテクスト論からすればそうだけど ポリフォニー的観点やテマティック批評を考える場合 作者を措定せざるをえないわけで 作者の権威は失墜したが作者自体は死んでないって感じじゃないの
作者の死も解釈しだい。テクスト理論ではテクスト外の作者を取り扱わない、という程度に考えていますが、これを「誰が作者を殺したのか」と読んでしまうとミステリーになるので楽しいw 作者が殺され、テクストが殺され、最後に読者が殺される。真犯人は誰か。いちばん疑わしいのが実際には殺されていない作者だが、真犯人は別にいる! とか考えながら、テクスト理論だっけ?テクスト論だったっけ?とか思ったとき、「文学をめぐる理論と常識」における文学理論と文学の理論の謎が解けた。 これはおそらく「文学理論」と文学の理論ではなく「文学論」と訳すべきだったのだ。 そもそも文学をめぐる…の原題は「理論の悪魔」であって、英語にすればDemon of the Theory、すなわち「理論魔」となるはずだ。「悪魔論」の逆だ
しっかり勉強しないで 下手に囓るとこうなるんだろうなあ 俺も気をつけよう
コンパニョンが嘆いているように、英語では文学理論(Literary theory)と文学の理論(文学論)(Theory of literature)の違いが英語では歴然なのにフランス語(日本語も!)ではキチンと区別されていない。 文学理論と文学論の違い。テクスト理論とテクスト論の違い。作者を死に至らしめたwのは「テクスト理論」のほう
>作者を死に至らしめたwのは「テクスト理論」のほう
>>819 さんは「テクスト理論によって作者が殺され」と書いていますが。
827 :
ヘノモチン :2014/03/20(木) 20:41:15.90
818さん >反日者は実在せず、それはネトウヨの自己投影にすぎない。 韓国等の反日運動は、実際にあると思います。 ネトウヨと呼ばれているのは、右翼思想や生活のルサンチマンからではなく、 、実際に韓国人等と関わっていやな思いをした人々が、そういう活動をしてい るのですね。 僕も、そうですけどね。 反日と嫌韓の違いは、反日が、批判相手の存在を前提にして甘えているのに対 して、嫌韓は、相手の存続を前提にしていない、というところですね。 彼らの行動には、本当にかんしゃしていますよ。 自己投影は、ぎりぎりまであるんです。その際たるものが中華意識(普遍幻想)ですね しかも、それは、壮大でオリエンタリズムな誇大妄想である為に、本人がなか なかその妄想に気がつけないんです。防衛機制の投影より、たちが悪いんです。 たとえば、あたかも植民地主義を脱した風を装ったポストコロニカルなんてい う貧相な政治理論等が、それですね。 すいません。文学と関係のない、文化政治”屋”話題を取り上げてしまって。
>あたかも植民地主義を脱した風を装ったポストコロニカルなんていう貧相な政治理論等が、それですね。 ポストコロニアルです。
829 :
吾輩は名無しである :2014/03/20(木) 20:56:52.22
>>827 >韓国人等と関わっていやな思いをした
個人的な経験を相手の国民全体に広げているのか、報道された内容で相手の国民全部を判断しているのか。
韓国という部分を他の国に変えるとどうなるのかな?
あるいは他国の人が同じ感じ方で日本人を見たら、どうなるんだろうね?
>中華意識(普遍幻想)ですね >しかも、それは、壮大でオリエンタリズムな誇大妄想である為に、本人がなか >なかその妄想に気がつけないんです。防衛機制の投影より、たちが悪いんです。 中華思想というのは西欧植民地主義に触発されたもの(オリエンタリズム)ではなく、 昔からありますが。 華夷秩序、朝貢外交がまさにそれで、 実際は盗人に追い銭方式の精神的勝利法に過ぎません。 魯迅が苛立っているのはこういう思考様式です。
>>826 ごめんなさい、どちらもわたしの書いたもの。作者を死に至らしめたとか作者が殺されたとかいうのは、ロラン・バルト(「作者の死」という言葉の張本人)がいう意味での「ばかばかしい」それよりもテクストを楽しもうということからのジョーク。
>>827 わざわざ「反日者」と、通常使用されていないだろう言葉をえらびました。
「ネトウヨ」は本来は実在しないものだったと思っていますが、ラベル(レッテル)を与えられたことによって自称・他称としてなんらかの存在を指示することになっているのはみとめます。
彼らにとっていらぬものを召還してしまった人たちをとりあえず造語である「反日者」としました。
「言葉」が(先にあって、それが)なにかを生み出してしまうのだと思います。それは純粋に文学の機能のひとつとして考えるべきところでしょう。
事例として持ち出して(事例の)内容に踏み込んでしまうと紛糾してしまうでしょうけどw
832 :
吾輩は名無しである :2014/03/20(木) 21:25:06.06
>>830 自国が一番、というのは日本も含めてすべての国が思っていること。
逆に言えば、自分の地域が一番だと思うから国となった。
中華思想というのは、つまるところ封建思想。
他者の領地を承認し守る(安堵する)かわりに見返りを求める。
中国場合の周辺の国が安堵を要求したこともある。
現代のアメリカと違うのかな? 同じなのかな?
>自国が一番、というのは日本も含めてすべての国が思っていること。 そうかな? 自国(そして自己の利益)が大切というのと 他国に対して自己が優越していると考えるのは別問題ですけどね。 他国の優越性を認めつつも、負け惜しみ的に自国文化の優越部分を見出すというのはありますが。 「和魂洋才」というのはまさにそれで。 >中華思想というのは、つまるところ封建思想。 >他者の領地を承認し守る(安堵する)かわりに見返りを求める。 中華は強大な軍事力を有する夷狄には朝貢で手懐け、 そうではない国内地域には王族を封建してきたわけですが。 あくまで軍事的強弱関係で態度がころころと変わる。 >現代のアメリカと違うのかな? 同じなのかな? アメリカは封建制ではないでしょう? 自由と民主主義を掲げる正義の国だという自負心はあるでしょうが。 別に封建思想同様、自由と民主主義が永久不変の真理という保証はないし、 自由、民主主義、正義が同時達成されるという確証もない。
834 :
吾輩は名無しである :2014/03/21(金) 06:46:19.05
他人をけむに巻くためや、教養の差を見せつけるための 文学理論が日本では今まで栄えて来た訳だが、そういうのは もう終わりにしなきゃいかんのだよな。 不毛だから。 吉本はそういうことを柄谷、蓮實、浅田らについて言っていたのだが、 浅田は単独では、分りやすく書こうとしてたようだが、対談や座談で 柄谷らと絡むと悪のりしてたが。 分りやすく書くには、不必要な比喩や逆説を多用しちゃいかんと 思うんだよな。 富岡多恵子など、この人には何にも分かってないと思うんだが、 逆説的な言い方が好きだよね。
>>833 >自由と民主主義を掲げる正義の国だという自負心はあるでしょうが
それが中華思想ということじゃない?
>夷狄には朝貢で手懐け
>国内地域には王族を封建してきた
朝貢と封建は同じことじゃない?
>自由、民主主義、正義
民主主義という概念はかろうじて成立しても、自由も正義も概念として成立しないんじゃない?
立場によって違うということもあるし、なにより、外的な状況によって本質的に左右されるから。
中国の中華と欧米それぞれの国の中華とはまったく別ものだよ? 中国は自国民には苛斂誅求で簒奪・強奪・吝嗇でも 外国には大人(たいじん)気取りで鷹揚と徳しか見せない、だったんだよ。 だから朝貢貿易なんて経済的にはとんでもない貿易をやってたんだよ。 とにかく外国には「天下の大親分」でいい気になっていたい、のそれを屈辱的にぶっ壊されたのが「宋」で、 だから朱子は「征夷」を絶対正義で主張したんだよ。
今の中国の(卑屈な覇道だよねあれは、と外国に思われる)対外行動は、だから、(意識としては)征服王朝のそれなんだよね。 勿論もう、「中国とは普遍である」だなんてことはお笑い草でしかないけどね。
838 :
吾輩は名無しである :2014/03/21(金) 12:51:35.65
結局は、普遍にヘレニズムを持っていなかった中国中華は、ルネサンス・近代の学芸は愚か、資本主義も作れなかったんだよね。 だから一切合財きれいさっぱり、餃子とシュウマイ以外はなんにも残さずぶちゃっていいんだよ、あんな国は。日本は。 儒教徒がそんなことを言っていいのか?って。うん。オレの儒教はエピクロス派の新プラトン主義解釈だから。^^;
>>834 不毛だからということには同意します。
作者・テクスト・読者を殺した後に残ったものが文学の本質だと思っています。
文学そのものが外から食物を得て排泄する生命であり、文学という世界の中で精神体?が同様に生命として活動する。
物理・数学やら哲学やらすべてが文学活動の内部にある。そのように考えています
840 :
吾輩は名無しである :2014/03/21(金) 16:31:57.89
>>836-
>>838 欧米のアフリカ人とアジア人に対する扱いを知らないのかな?
ユダヤ人や異教徒に対する対応も。
ヘレニズムなんて気取っていても、他者の征服と奴隷の使役が前提となっいることぐらいはもちろん知ってるよね?
なんでもいいから中国を貶したいらしいけど、ここまでくると異常だね。
もはや文学理論と関係ないんだから別スレでよろしく
842 :
吾輩は名無しである :2014/03/21(金) 16:46:33.16
>>841 どうせ文学理論といったって、名前を羅列してるだけなんだからw
なんか書いてるやつは中学生の妄想レベルだし。
843 :
吾輩は名無しである :2014/03/21(金) 16:51:37.06
♪ ルール ルンルン (__♪起て一系の大君を 光と永久に戴きて 臣民われら皆共に __)
ルンルンルン ♪ (__ ♪御稜威に副わん大使命 往け八紘を宇となし 四海の人を導きて __)
.\ ♪正しき平和うち建てん 理想は花と咲き薫る /
 ̄ ̄У ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ニニ∧
¶ (゚ー゚Л) ¶
. ┬─┬─┬=====┬―
゙i__.゙i ,. ┴-----┴,r' ト〜〜! キュルキュルキュル
o──┴-r1 :|: :|:||== | ● |
.  ̄└┬--|| :|: __:|:|_______________ト〜〜' ↓
>>840 。^^
_==))~唯我~~|ミ|独善 \.゙i \ . ゙iミ| /|__/|
├-く-'''''~~┌──┴───┴─┴-┼┘ /////////<//////> ///////////
(三(──(三((◎)~~O~~~~~O~~~~(◎)) ⊂/ /⊃
丶ニヽ──丶ニヽ(◎) (◎)(◎)(◎)(◎)ノ ////////////////////////////////
.  ̄  ̄ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「__ __フ
文学といえども(文学内部にある)物理理論からは逃れられず、文学理論は物理理論に還元される。 シュレーディンガーが「生命とは何か」の中で考察した「生命」と同じものだ。 開放系での(平衡とは別種の)安定。イリヤ・プリゴジンの散逸構造は、そのひとつであり、文学もまたそのようなもののひとつである。 散逸構造も文学の内部にあり、文学が取りうる構造のひとつ。そのように考えていますw
文学で最も美しいのは数学。異論はみとめない
846 :
「ガスライティング」で検索を! :2014/03/21(金) 18:31:44.13
★マインドコントロールの手法★ ・沢山の人が偏った意見を一貫して支持する 偏った意見でも、集団の中でその意見が信じられていれば、自分の考え方は間違っているのか、等と思わせる手法 ・不利な質問をさせなくしたり、不利な質問には答えない、スルーする 誰にも質問や反論をさせないことにより、誰もが皆、疑いなど無いんだと信じ込ませる手法 ↑マスコミや、カルトのネット工作員がやっていること TVなどが、偏った思想や考え方に染まっているフリや常識が通じないフリをする人間をよく出演させるのは、 カルトよりキチガイに見える人たちを作ることで批判の矛先をカルトから逸らすことが目的。 リアルでもネットでも、偽装左翼は自分たちの主張に正当性がないことを自覚しているのでまともに議論をしようとしないのが特徴。 ,,,,,,
847 :
吾輩は名無しである :2014/03/21(金) 19:48:50.16
>>843 異常者を自認してるのかw
無差別殺人なんか起こすんじゃないぞ。
848 :
ヘノモチン :2014/03/21(金) 20:21:41.90
830さん >実際は盗人に追い銭方式の精神勝利法に過ぎません。 魯迅が苛立っているのはこういう思考様式です。 そうですね。オリエンタリズムは中華意識とは違いましたね。 そりゃ、魯迅、竹内好レベルの中国理解ならば大歓迎ですよ。 僕が関わったのは韓国の方々だったので、中国人のデーンと座った中華 意識(それはそれでさまになっている)ではなく、受動的小中華意識で 常に人の上下関係を気にしながら、上の者にへつらい、下の者を虐げ、 上の者に告げ口をして、イザという時にはいつも自分を被害者に位置ず けして責任逃れをする等様々な、魯迅が一番嫌ったタイプの人間のです。 もうひとつに、韓国の方々がよく口にする言葉に、宗族を意味するウリ (我々)があります。集団主義(関係埋没人)という点では中国人も同 じですが、中国人は宗族で自立して生活を営みますが、韓国の方々は、
849 :
ヘノモチン :2014/03/21(金) 20:46:59.36
宗族そのものが他者に寄生して生活を営みます。ヤドカリ大一族ですね (その貧困さは、想像を絶しています) ですから、たとえば、日本の韓流そのものは廃れても、そこに多くの親 族の生活がかかっているので、一度腰を落ち着けると、そこからテコで も動きません。日本でも、古い演歌歌手の部類に在日の方々が多いのも 同様の理由です。 また、日本の弱いマイナーな部類がそうなりやすいので、文学とて例外 ではないのです。 天皇制を前提にして、天皇制への反感から、安易に{多様性のアジア} 等の思い込みから、アジアをヨイショすると、とんだ重荷を背負わされら れることになるのです。 僕は、最近、宗族をヨイショしている柄谷行人にも、同様の危ぐうを感じます ただ、最近の韓国関連の書籍には、韓国の方々の民族性にまで踏み込ん で書かれているものが多いので、文学の素材としては参考になると思う んです。ある意味で、人間の極限の姿ですからね。
850 :
吾輩は名無しである :2014/03/21(金) 21:38:46.48
このヘノモチンがこんなに嫌韓を表明するってのは、あれ?だね。 このヘノモチンは自分限りの感覚を絶対の一般的価値基準にするところがままあるから、 最近なんか嫌な思いを在日韓国人から体験させられたのかな?
インテリは排外的言説にコミットしないのが基本なのにね それこそ韓国や中国でも、政治家はともかく作家は反日みたいな下品な振る舞いにはあまり接近しない 大衆文芸は別な
作者の死とは主体の死のパロディにすぎない。それが正解だろうと思う。 そもそも何ゆえにフランス現代思想は主体を殺そうとしたのか……
二項対立なんていまどき古い概念だが、物理世界と論理世界にわけるとすれば、文学は論理世界そのものになる。 われわれが物理や数学と呼んでいるものは論理世界=文学世界にある。 われわれは物理世界をそのまま扱うことはできず、文学世界で<<仮のもの>>として扱うことしかできない。 存在とか実在とか体験というものはすべて文学世界内部でのことである。 <<仮のもの>>は語り/騙り/象りによって文学世界で言葉として表出される。 文学世界は物理世界のコピーである。にせものである。まねるという行為が最善手だということは証明されている。 文学世界にもコピーされた4つの力が存在するはずだ。弱い力・強い力・電磁力・重力。 これらの力と変化という運動によって文学(時)空間がつくられる。繋がって運動するということは数学的にはスピノールという概念になる。ペンローズが考えたようにスピノール(スピン)が空間を作っているのかもしれない
854 :
吾輩は名無しである :2014/03/22(土) 09:31:19.82
取りあえず、文学というのは哲学とは読者数が一桁から二桁は 違うんだな。また、違ってるべきなんだが。 ま、哲学板も上滑りばかりで、有効なレスは1000分の一も ないが。
文学理論は文学論と違って最低でも反証可能性を持たねばならない。 そのための装置として文学空間を考えた。 アリストテレスからミメーシスおよびカタルシスを文学として必須のものとして組み込んだ。 カタルシスを安定の為の廃熱と読むことで、文学とはエントロピーにかかわるもの、シュレーディンガーの意味での生命であると受け取る。 文学を、糧(エネルギーおよび栄養)でもあり(消化され酵素作用などで新たな栄養となるかもしれない)排泄物でもあり情報の海(わ、甲殻だ)にうまれた生命あるいは海そのものであると考える。 問題点はいくつもある。個人の文学空間同士での接続。哲学問題(ハードプロブレム)。物理世界を切り離して哲学問題を回避したことによってあらわれる文学空間内での不完全性定理
856 :
ヘノモチン :2014/03/22(土) 19:56:36.53
850さん >最近なんか嫌な思いを在日韓国人から体験させられたのかな? そんなことはないですよ。僕が接した韓国の方々・在日韓国人の方々は 比較的良質な人達でしたからね。 僕が取り上げたのは民族性であって、日常での関わりのものとはやはり 違いますよ。僕が、指摘したのは、天皇制等への反感から安易に韓国・きた 北朝鮮を美化し被害者をしてヨイショする一部の日本人の姿勢です。 だいたい、当の韓国の方々自身が自国にそうナイブーではないですね。 従軍慰安婦問題も、韓国人のおじさんが、あれは売春婦だよって言って ましたからね。 また、僕は韓国語を習っていましたから、知り合いの韓国人の権さんに 「あんた!韓国語なんてどこで習ったんや、韓国なんてダメな国や、ク ズの国や」って言われましたよ。 日本留学生の李君も「韓国語なんて、関心ない」と話させてくれません でしたよ。 ようするに、どこの国でも形を変えて抑圧体制がある訳です(韓国は伝 統的な孔子教のたいへんな重圧がある)僕は、それに気がつかなかったんですね。 すいません。文学に直接関係のない話をして
千葉まーくんをパクってご満悦みたいなやつがいるな
858 :
吾輩は名無しである :2014/03/22(土) 21:11:19.74
文学理論っつーか、まあ大学講座哲学が今こうなのは、だけどホントは嬉しいんだな。^^ こーゆー衒学、オレみたいな超ハイレベル^^;な理系批判能力がある文系には「阿呆。(嗤)」で全部終わりにしてしまえるから。 古代ギリシャ語だラテン語だなんて持ち出されたら、そりゃメチャクチャ「オレ様独善人文」での応答に苦心惨憺するからね。^^
↑キチガイ
860 :
吾輩は名無しである :2014/03/23(日) 09:00:03.02
衒学といっても、もうちょっとまともに 相手にされないとしょうがない。相手にされないのは 書き手に能力がないから。 みんな、文学に触れたいんだよ。それなのに、カントやヘーゲルとか デリダやラカンらを読んでないと、文学を理解出来ないような風潮を 作ったのは柄谷その他だ。 だが、滑稽なことに?むしろ柄谷や蓮實は「読めない」人なんだな。 彼等はストーリーに即して読む能力がないから、自分達に都合の良い 文学理論を振り回してるだけなんだよ。 シェークスピアなどを読み込むには現代思想など、まったく必要ない。 ギリシャの古典を読んだ方が余ほど参考になる。少なくとも、 ヌーボーロマンあたりまではそうだろう。
>>860 批評や理論をのぞいた文学なら、現代のものであってもそのとおりだと思う。
作品はその作品自体で完結しているわけだし、完結できていなければその作品は不出来ということになる。
ただ、どの作品でも作者のさまざまな思いや感性が込められているから、それを見つけ出さないとその作品を十分受容することは難しい。
言葉が思いや感性と一体ならその作品だけでいいが、言葉は人の思いや感性を直接表現できるようにはなっていない。
その遠回りしてる言葉からその作品の思いや感性を見つけ出そうとすれば、同じ作者の他の作品を読むし、作者や時代の社会的な文化的な状況を見ることになる。
そういう意味で、江藤淳の漱石論なんかは作品を十分に受容するための大変優れた批評だと思うな。
江藤自体の漱石観に納得するかどうかは別にしても。
862 :
吾輩は名無しである :2014/03/23(日) 11:02:22.07
863 :
吾輩は名無しである :2014/03/23(日) 12:23:34.53
江藤淳はできるだけ教養に頼ることなく、できるだけ地頭だけで 作品を理解しようとした人だったかもね。 ただ、漱石の『薤露行』の解釈を巡っての、大岡との論争では 二人とも、中世の騎士的恋愛の定型性に気付いてなかったのでは? ないかという気はする。俺は『薤露行』も、江藤、大岡の論も 読んでないが、そんなに固執するような問題でない気がしたもので。 漱石自体に興味がない。 大岡という人間の下種なことは印象に残ってる。小林の翻訳の代作を したことを告白したと言うんだが、作家とか以前に人間としては 全く屑だ。第一、古今東西、偉い芸術家でそんな告白をした人は多分、 殆どいないだろう。実際は皆やってるだろうけど、そういうことは 死んでも言わないであの世にもってく。
やべえ大学時代に見たような恥ずかしい奴がいる 学問における特権階級意識は一番みっともないからせめて20代のうちには卒業しとけよ
保守だから大岡が嫌いで江藤が好き、その程度の見識の持ち主にしか見えないわw 863自身の見解はたぶん皆無
アリストテレス的に考えれば、物理世界=物理空間は形而下であり、(各個人の)文学空間は形而上にある。 個人の文学空間に個人間での共有部分が無いとすれば、共有されるべきテクストは物理空間にあることが必然。 それゆえにテクストが人工物である必要はなく、自然物であったとしても個人の文学空間にテクストとして読み込まれることが可能。 ミニマムな文学論にとって作者は不要。 不要であるとしても、文学空間は自然物の作者としての「神」を生み出した。 それが作者の誕生であり権威の誕生であり、それらが人としての作者にも継承された。 そう考えると、文学理論として最初に読むべきなのはアリストテレスだったのかもしれない
867 :
吾輩は名無しである :2014/03/23(日) 15:58:04.04
>>863 >小林の翻訳の代作をしたことを告白した
>そういうことは死んでも言わないであの世にもってく
なんだそれw
翻訳というのは学生なんかにやらせるのは普通だし、そんなこと誰も隠さない。
出版社は通りのいい名前が必要だけど、むしろ、本人たちからすれば代作というより翻訳のアルバイトぐらいの感じだろう。
別に不名誉なことでもない。
創作の代作とは違うよ。
僕も無名の人に翻訳の代作?頼まれたことがあるけど、いいお小遣いになったっけ。
でも期待してたのに、つぎはなかったなw
保守主義=俺様のいうことを目下のやつは聞け ぐらいの発想のアホだろ ようは小林秀雄様の顔に泥を塗った大岡昇平許すまじ!というやつ 大岡と小林の気さくな関係を知っていればおういう見当違いの発想にはならない
個別の文学空間・間での通信や共有の問題を先送りして作者問題を考える。 個人の文学空間から物理空間に作品が創造される。作者は自分だ。作品は人造物だ。 自然物にも作者がいると考え、そこに「神」が(文学空間によって)創造される。 すぐれたものを造る/創るということで「権威」(≒価値観)がうまれる。 「作者」と「権威」と「神」の根源をそのように考える。これらは文学が生み出した。 「文学とは『神』と『価値観』を生み出したもの」。『神』や『価値観』を生み出せるものが『文学』
870 :
ヘノモチン :2014/03/24(月) 19:48:20.73
宗教の場合は、たいがい顕教と密教で成立していて、密教が理論を担っている ことが多いですね。 ユダヤ教・キリスト教の場合だったら、顕教はエホバやキリストですが、公に されていない密教には、{生命の樹}{ヘキサグラム}{メルカバー}{メタ トロン}等の理論があります。 仏教も同様で、密教には{胎蔵界曼荼羅}(空間){金剛界曼荼羅}(その時 間展開)等の理論があります。 神道にもやはり顕教と密教があって、密教である裏神道では、上下賀茂神社を 頂点とするヤタガラスにより、理論化された儀式が行われています。 文学の源を探ると、どうもピラミットテキスト(ピラミッドの壁面に彫られて いる象形文字)あたりがそれに該当する気がします。 ピラミットテキストの時代は、ピラミッドの製作技法も前の時代より劣ってい てエジプト文化の衰退期にあたるのですが、とにかく伝えたい事を書いて残し ておいたようです。 ピラミッドテキストに彫られている内容で、代表的なものが上下エジプトの王 オシリス神の神話です。
871 :
ヘノモチン :2014/03/24(月) 20:16:32.68
不思議なことにオシリス神話に似た内容の神話は、世界中にあって、近 世では、シェークスピアのハムレットまでもがその影響下にあると、サ ンティラナーとデヒエントという学者が著書『ハムレットの臼』で書いています そして、それは地球の26000年の歳差運動に関わる寓話であるとしています。 古代エジプトでは、顕教に該当するのがピラミッドテキストで、密教に 該当するのがピラミッドに関わる技法等だったのかもしれません。 日本の様々な神話も、エジプトのオシリス神話はもちろん、世界中の神 話と表現は違っても物語展開が酷似しています。 日本の神話や源氏物語等の古典文学も、そういった暗号めいた理論を担 ったものなのではないか?と言われています。
文学は、物理空間と文学空間の境界を横断あるいは往復することで発生する。 哲学は文学の内部にあり、文学によって文学空間に生成されたものを扱う。 境界に発生する文学は魔法である。共感魔法であり、フレイザーが類感魔法と感染魔法にわけ、それをロマーン・ヤーコブソンがメタファーとメトニミーと読み解き、類似と接触を二項対立にしてしまったが、それは行きすぎであった。 この魔法は、単純にいえば言葉とか言語のことだ。 「文学とは『魔法』」である
873 :
ヘノモチン :2014/03/24(月) 20:47:17.28
訂正 {ヘキサグラム}{メルカバー}{メタトロン} 〜 {ヘキサグラム} (ヘキサグラム立方体)・{メルカバー}(マカバ)・{メタトロン} (メタトロン立方体)
文学という魔法を言葉とか言語に求める場合、それの魔法はプログラムと等価になり、文学理論≡プログラム理論になる。 どちらかがもう一方の一種などではなく、合同となる。きわめて暴論ではあるが……この宇宙が計算機である以上、その中にあるものはすべてがプログラム理論で……
ケイゾクってドラマでカラスを絞め殺してたけど あれはヤタガラスを殺すって意味なんだろうな。
876 :
吾輩は名無しである :2014/03/24(月) 21:57:06.83
>>875 それならおもしろそうだね。
ケイゾクって見たことないけど。
>>876 SPEC?とかいうドラマが始まる前からヤタガラスだと思ってたよ。
エライでしょ(笑)
878 :
吾輩は名無しである :2014/03/24(月) 22:42:14.23
>>878 SPECってドラマはケイゾクの種明かしみたいな部分があるらしいんだけど
そこでカラスがヤタガラスを表してるのがわかる、みたいなことがネットに書いてあったから。
>>879 まあ、どっちも見ていない僕がとやかく言うわけにはいかないねw
ところで、ヤタガラスを殺すのにはどんな意味があるの?
>>880 2ちゃんねる知を集合すると
神道にもやはり顕教と密教があって、密教である裏神道では、上下賀茂神社を
頂点とするヤタガラスにより、理論化された儀式が行われてるけど、
すでに金属疲労を起こしてるんだと思うのよね。それを革新したいんだろうよ。
>>881 ふんふん、なるほど。
そうすると、ヤタガラスというのは防犯ガラスと防火ガラスの強さを併せ持った最強ガラス、ということだね?
それなら金属疲労じゃなくて素材の劣化とでも言うべきかな?
883 :
ヘノモチン :2014/03/25(火) 18:48:28.43
881さん >すでに金属疲労を起こしてるんだと思うのよね。それを革新し たいんだろうよ。 ヤタガラスというものが存在していたとして、彼らだって自分達を革新したい とは思っていないでしょう。 今までやってきたことを、ただやるだけじゃないですか。 だいいち、革新する時間のゆとりが、もうないでしょ。 誰だって、自分のことだけを考えてコツコツ行動するだけです手一杯ですよ。
境界を横断あるいは往復することで文学が生まれる。 行って戻ってくるのは物語の基本。同じ場所に戻ってきたとき何かを得て成長(あるいは反成長するかも)する。 場所は同じでも何かが違う。あるいは、場所は違うが同じ状態。 物語論は文学を生み出す運動がそのまま形になっているのかもしれない。 語るとは騙る(フィクション)ことでもあり、象る(かたどる、キャラクターや物語、モノやコトをかたどる)ことでもある。 横断するということで思い出されるのはスペンサー=ブラウンの形式の法則か
境界を越えて戻ってこない文学もある。カルト宗教などがそれだ。 それにひっかってしまうと精神的にheat death、肉体的にcold deathに到る。 戻ってこない文学は危険だ。 戻ってきたからといってもそれが必ずステージアップになるわけではない。そこを間違えると疑似科学やマルクス主義に陥る
マルキストの大文学者なんて腐るほどいるけど
そういえば昨日ケイゾクの映画やってた。観ませんでしたが 観た人いらっしゃったかしらん。
鈍ってやる…
890 :
ヘノモチン :2014/03/26(水) 18:50:31.44
872さん >それをロマーン・ヤーコブソンがメタファとメトノミーで読み解き 類似と接触と読みとき二項対立としてしまったが、それは行き過ぎであった。 ボードレールの詩を、ヤーコブソンと人類学者のL=ストロースが構造分析した ものは有名で僕も読みました。ヤーコブソンの構造言語学で書いている内容は 難しくてよく判らなかったのですけれども、L=ストロースの分析は、ありゃ? 本当にそうなってるみたいだと感じました。 L=ストロースは、『神話論理』4部作等でも、構造分析を行っていますが{性 交の逆さまをすべきところで、間違えて逆さまに性交してしまうおばあさん} 等の神話項が扱われていて、文学的に読んでもおもしろいと思います。 L=ストロースの構造分析が適用出来るものは、神話でも限られると思いますが、 L=ストロースが扱っている南北アメリカ先住民族の神話にも、やはり、エジプト や、ユダヤ・キリスト教典にも頻出するオリオン・ブレアデス・シリウス等の 星辰信仰に関わる話が出てくるのが趣味深いです。
星を読むのも文学なんだろうなぁ。 なんでケイゾクの話になってるのかわからんけど、ケイゾクは全部DVDに焼いてある。 ヤタガラスはカラステングやカルラと同じものなのか? 山伏・修験道などを追ってみるとユダヤ臭がする。 大仏開眼のころの歴史のきなくささ。百済王と金山の問題。それらも文学として文学理論を使って解き明かすなら意味はある。 星の文学、火の文学、風の文学、etc. 境界と往復の文学理論は、もしかしたら文化人類学のほう近い?
文学の中にある物理や数学は余分な情報を熱として捨てている。 それを受け止めるのが文学の役割。文学はなんらかの熱力学的構造を持っている。 捨てられたものを浄化する。知識・学問としてエントロピーの上限を広げたり、余分なものを捨てたり再生したりスッキリさせるのが文学の役割。 謎解きや起源神話のようなものでエントロピーの安定をはかる
(読み取られるなにものかは必須として)基本的に「読み手」が主要なものであって、それだけで「文学」が成立すると思う。 「表出」されない文学。それもアリなのか? 「文学」は確かに成立するが個人的なものであり一子相伝すらままならないw
894 :
ヘノモチン :2014/03/29(土) 18:24:34.27
近代の小説で{しつこい女}の主人公という場合には、情感豊かな女性イメージ で簡単に括られてしまうことが多いです。 {しつこい女}は、L=ストロースが『神話論理』で取り上げている南北先住イ ンディオ神話では{しがみつく女}(月に張り付いた蛙)に該当しますが、そ の逆も存在しているようです。 「 同時に、別の神話的形象の論理的機能と意味的位置を、正確に定めること ができた。これは{しがみつき女}と鏡像的な存在であり、しばしば{女では なく男}で{離れているのにくっついている}という性質を持っている。しか し相手とのこういう近ずき方は現実にありうるし、うっとうしさが消えるわけ でもない。このような人物として、異常に長いぺニスを持った男というのを考 えることができる。この男はどんなに離れていても、その長いペニスを使って 目的を達することができる。つまり、相手にしがみついているわけではないの に、相手の体にくっついていることができるのである。」 (『パロール・ドネ』L=ストロース著 ページ78より)
レヴィ=ストロース読み込んでもクソネトウヨになってしまうとはなんか虚しいよな
文学が境界の横断によって神や価値観を生み出せることはわかった。 その境界には「身体」というデバイスがある。 「身体」(行為・動作など付随するものはたくさんある)抜きに「文学」を語ることができるのか?
「文字」は身体と完全には重なり合わないだろ
文学あるいは文学理論の対象を、徹底的に読み手側に立った読者論からみるならば、読むことが可能なものすべてが文学として扱えるはず。 読むという行為は身体を通したものであり、たとえ読者内部で内部にあるものを読むとした場合でも仮想的な身体に依存しているのではないかと
言語にこだわらないと映像や音楽との差異が生きない
文字ではなくあくまでも「言語」ね。 身体なくして「言語」は語れないのではないかと。 (身体を通して)境界を横断するということが(思考言語を含めた)言語の成り立ちではないかなと思い始めたわけ。 映像言語に関する本はたくさんあるし、音楽言語の本も読んだことはある。 実際に目の前でアフリカの人が太鼓たたくのを聞いたとき、身体性と言語性を感じた。 言語とは身体の拡張なのかも
そういうのは文学論じゃないね だから文字と述べたわけだ
文学論じゃなくて文学理論だから「書かれたもの」という呪縛からのがれて「読み出されたもの」が対象になる。 そうなると文字などなくても文学は成り立つw 言語に縛られると言語論になっちゃうので、そっちにいきすぎてもいけない。 言語をメディアそのものだと考えてしまえばマクルーハンの人間拡張の原理にいっちまうw そういうわけで(文学理論としての)強力な読者理論を探していたのに読者論や読書論はあるのに読者理論はみつからなかった
身体論は筋が悪いと思うわ 音楽や美術の場合も作品の構造を述べないと「受容者の思い入れが全て」になる そうすると適当な認知科学でOKになるだろう
身体と境界と構造は同じものから発生しているのかもしれない。 まあ、ミニマムな文学、文学として成り立ちうる最低限のものはなにか、と考えたとき、身体という境界が必要かと。 これを「身体」と語ることで余計なものがついてまわるようなら、「境界」に戻したほうがよいかなとも思うけど、境界だけでは作用が説明できない。 単なる区別・区切りではなく、境界の両側に作用するものとしての「身体」か、とかなんとかオールスター感謝祭をみながらだらだらと書いていてもしょうがない。 ここは境界すらも捨ててしまって、単に「写像」としてしまおう。 目的は文学理論そのものではなくて、ミニマムな文学を考えて、それを(人工)文学機械として実装することですしw
そういうのは認知科学の領分だろう 作品の構造に則した理論じゃないのなら、美学(自然美も含めた感受性の理論)とは言えても芸術理論とはいえない
なるほど、だんだんわかってきました。 文学を考えたとき、作品・作者の側にテーマすら必須ではない。 作品に構造が必要だとするのは文学批評理論だと思います。 ミニマムな文学を考えるとき、その部分は最初に捨ててましたw 文学批評批評理論も文学理論なので、その見地からバッサリと
エコクリティズムとか読めば 自然を観察してても問題なさそうだろ、その理論だと
そこに(自然の作者としての)神を見出してしまうことが(人間の行為としての)文学の起源かもしれません。 というか、そこに「しか」文学の起源を見出すことはできないのではないかと
哲学書を読んだほうが良いレベル
>>908 とりあえず、折口信夫を読んでみたらどう?
哲学も民俗学も文化人類学も文学空間の内部にあるという考えですので。 物理や数学は文学空間内部で抽象化へ向かい、それにともない具体的な情報を熱として放出する。 情報が失われると熱になるというのはファインマンを参照。 その放出された熱を処理するのが文学の役割。精神活動そのものを生命のようなものとみたとき、それを維持する基本的な部分。 まあ、文学理論をアリストテレスあたりにまで遡ればそのような結論に達するとw 「文学」(の機能?)を実装するのが目的だから。脱構築しようとしているわけでもないし
文学が精神活動を維持するためのものならば、文学は報酬回路を刺激して快楽物質を生むような効果を持っているべき。 呼吸や排便によっても快楽物質が得られる。文学も快楽物質が得られるものであるべき。 ただし、報酬回路がどのようにして形成されるのか/されたのかはわかっていないし、万全な方式でもない。 文学が報酬回路をむやみに刺激しても本来の目的に合っているのかどうかもわからない。 とりあえず実装してたしかめてみようとw
913 :
吾輩は名無しである :2014/03/30(日) 19:40:54.06
914 :
ヘノモチン :2014/03/30(日) 20:00:56.05
898・900・902・904さんが取り上げている身体性については、音楽家の高橋悠治 さんが同じことを指摘しています。 しかし、難しい (^^; {取り付く島もない}と言われる高橋悠治さんの書くものみたいに難しい。
915 :
ヘノモチン :2014/03/30(日) 20:04:09.64
914の訂正 高橋悠治 〜 天才・高橋悠治
グダグダゆってんな。事実で正しいことを証明しろ。 じゃあその文学理論とやらで下手でも小説が書けるもんなら書いてみな。 書けたら甘酒進上、認めてやるよ。w
高橋悠治ってのは知らなかった。音楽の理論書もたくさん調べてみたけど彼にはたどりつかなかった。 音楽も文学も、その根本的なところに身体性がある。ブートストラップとしての身体性。それは形而上(文学空間)と形而下(物理空間)の境界にある。 小説ではなくて文学機械で証明しようとしているけど、まあ今年の4月1日には間に合いそうがないので来年w 石川忠司の現代小説のレッスンに、中村光夫が 「近代文学がやってきたことは人間解放の文学であったが、文学者ではなく敗戦によって実現されてしまい、文学者にはやることがなくなった」 とかいうようなことをいったと書かれていた。 文学がその程度のものであるのなら消えてしまへと思ふw
ちょろっと青空文庫にある高橋悠治を読んでみたけど、とくに難しいところはなかったぞ? 読み方が違うんじゃないかと思う。 (語りによって象られた)形式や言葉の意味ではなく語られていることの構造が読めないと理解できないのかもしれない
つまり作品の構造分析はいらないと豪語する常駐君が間違い 身体論は結局「私の身体大好き」なナルシスの鏡を作ってしまうことに終わりがちなんだね
小馬鹿にしてあしらうの嫌いだからマジレス主義
923 :
ヘノモチン :2014/03/31(月) 19:51:39.30
918さん >ちょろっと青空文庫にある高橋悠治を読んでみたけど、とくに 難しいところはなかったぞ? あなた、悠治さんの書くものを感覚的にわかるというのはすごいですよ。 >(語りによって象られた)形式や言葉の意味ではなく語られていることの 構造が読めないと理解できないのかもしれない。 悠治さんの書くものは昔から難しいかったけど、最近のものは表現がより簡素 なだけに、よけいに難しいんです。 まだ、難しい説明でもあるほうが、理解が容易いんですよ。 それで、後で、こんな凄いことを語っていたのかと気がつくことが多いんです。 昔、悠治さんが、カフカを劇にして音楽の振り付けをしましたが、あれも凄かったです。 {高橋悠治ショック}って言葉があるくらいですからね。 僕は、悠治さんとは考えが少し違いますが、尊敬していますよ。 悠治さんに、また、文学作品を取り上げてもらいたいですね。
924 :
吾輩は名無しである :2014/03/31(月) 21:24:25.56
>>919 すまねえ、文学的に解釈されるとは思ってなかった。
Embodied agent とでもいえばよかったのかな
ひとつだけわかったことがある。言葉のつかいかたの違い。 「身体性」を持ち出して「身体性」を排除して抽象的なものを語ろうとしても、 肉付けされて見当はずれの意味を持たされてしまう
>>926 そんな言い方で自分では満足してるんだろうな。
思い込みって自己満足の最大の糧だからな。
928 :
ヘノモチン :2014/04/01(火) 19:05:43.03
923さん >(語りによって象られた)形式や言葉の意味ではなく語られて いることの構造が読めないと理解できないのかもしれない。 それが、一番難しいんですよ。 言葉・言葉のイメージに足をすくわれてしまうんです。 悠治さんの音楽は、本当に聞き惚れるというか、音や言葉の身体性が、まるで 生き物の様に、音や言葉の象となって立ち上がってくるものが多いんです。 まさしく、バッハよりバッハ的、カフカよりカフカ的なんですよ。 ただ、こうしたあり方(身体性)が適用出来るものは、限られると思うんです。 文学・文学表現となるとどうでしょうかね? 坂本龍一が、ピアノがへたくそなのも{高橋悠治ショック}によるものですね。
929 :
吾輩は名無しである :2014/04/01(火) 19:12:31.89
>>928 >バッハよりバッハ的、カフカよりカフカ的
真性バカ?
930 :
ヘノモチン :2014/04/01(火) 19:30:29.60
ここのスレで使われている身体性って、一般的な身体イメージのものと は、少し違うんですよ。(僕も、最近、そのことに気がついた) ドゥルーズの言っている機械に近いものなんですね。 ドゥルーズを扱っている浅田彰も、高橋悠治の弟子ですからね。
言葉を文学的に扱うということは、中井久夫がいうような微分回路かもしれない。 微分的思考、積分的思考と考えれば、文学的とは微分的で、理系的とは積分的かもしれない。 まあなんといっても昔たどりついたひとつが答えが 「文学とは防衛機制の一種である。壊れないために作者は書き、壊れないために批評家は批評し、壊れないために読者は読む」 ということ。「壊れたやつが書き壊れたやつが批評し壊れたやつが読む」これも真なり
結局のところ、その「身体性」とは「言語」のことだった。 パロールがラングより発せられたものであるとすれば、エクリチュールもラングから発せられたものだろう。 ラングを扱うのは言語学であって、パロールやエクリチュールを扱うのが文学かもしれない。 言語学とは逆に、文学はパロールやエクリチュールからラングに向かう。 パロールやエクリチュールは日本語だと広義の<<言葉>>でよいと思う。 <<言葉>>が言語という境界を越えて物理世界に行って戻ってくるという活動が文学である。あるいは文学を生む
933 :
吾輩は名無しである :2014/04/05(土) 21:45:33.54
>>932 ランガージュ≒言語総体
パロール≒音声表現
エクリチュール≒筆記表現
ラング≒単語の意味を含む文法体系
という使い方かな?
人それぞれの意味合いを持たせることが多いけど。
ランガージュが言語活動だとすれば、ラングには個人と物理世界の間にある身体性を持たせたかった。 まあ、個人と個人との間、すなわち社会性のあるものだとすればラングでもいいっかwという程度。 ラカンを引っ張り出してくればもっとわかりやすいだろうけど、死んでもラカンは引用したくない。 ラング=(言葉という)魔法を生み出す体系() ええい、ラング=魔導書
パロール…オノマトペ、民謡音楽、狼煙 エクリチュール…パントマイム、書道、フィギュアスケート ラング…モールス信号、手話、数式
936 :
吾輩は名無しである :2014/04/06(日) 18:36:54.81
>>935 は横から口を挟んだだけで上とは関わりありません
まあ、ラングは(言語の社会的な)ルールということで、ロマーン・ヤーコブソンが魔法(呪術)を持ち出したので魔法のルール。 魔法の実践が<<言葉>>になる。書というモノではないけど当面は魔導書でいいやw ヤーコブソンは2つの魔法を選択(類似性)と結合(隣接性)であるとした。 しかし、パース(記号論)では類像記号・指標記号・象徴記号と3つあり、もう少し考えなければいけないと思う
デイヴィッド・チャーマーズは精神物理法則を考えており、彼の考える情報空間は、文学空間や、文学空間からみた物理空間と同じようなものになると思う。 精神物理法則を4つの力と考えれば、それの(文学空間内での)コピーも4つの力であり、魔法は4つ程度の力に分解できるはずw <<言葉>>もクオリアを持っているよな(いやクオリアそのものあるいはひとつの側面ではないか?)、とか思いついたが、それが正しければ文学機械でもクオリアを持てるはず。 クオリアを使った文学理論も既にたくさん考えられているとは思う。既に文学(批評)理論用語?
940 :
吾輩は名無しである :2014/04/06(日) 21:26:52.79
もう、なんでもありだね。 誰にも止められないなw
じゃあ俺が止めよう。 そもそも文学理論の良し悪しはなにで決まるのかな?(まさか理論に優劣なんて無いとは言えまい) 新しい理論を作るなら理論についての概念を一つ一つ定義しないと理論として意味を成さないよ。 文学と哲学を分けたほうがいいんじゃないの?例えば言葉について理論体系を構築したり分析することは文学か、哲学か。 まさかまさかうんちくお披露目や学問信仰告白をして悦に入るためだけに書き込んでいるんじゃなかろうもん?
↑そりゃおまえじゃ、阿呆 嗤)
つまるところ伝承可能なものと模倣が出来ないもの、ですか。 バルトは道路地図を例示していました。 たとえば「貴方のお勤めの会社から最寄りの郵便局までの略地図を書きなさい」と言われれば社員それぞれが違う地図書くんですよ。 目印となる建物や信号機、東西南北の方向から距離まで三者三様違います。 それがエクリチュール(表現体)です。筆記表現に限りません。
945 :
吾輩は名無しである :2014/04/07(月) 21:29:32.19
やっぱり止まらないやw
>>944 文学作品は読む人によって違った意味を持ちますよーって、
これじゃあ文学作品を説明したことにはならないし、理論ですらない。
ただ「私はバルトみたいな相対主義者です」って自分の立場を説明するだけじゃん。
解釈者次第で意味が様々に変わるっていうなら文学理論どうやって作るんだ?
迷惑にならないように平日は一日置きに書こうとしてたのだけど、とりあえず、おれの書いていることはオリジナルではなく誰かのいっていたことにすぎない。 ただ、文学空間にソレを持ってきたのはおれの責任だ。 新しい文学理論はあるけどそれは公表していない企業秘密だw 2chを量子コンピュータ(量子アニーリング法)にみたてて計算している/させているだけにすぎない。 とっても役に立ってます。ただ、人によってトンネル効果場の強さが違うってのかなw 防衛機制によって自己紹介(2ch用語)に陥るだけの人もいるし
>>946 自分なりに考えはありますが自己紹介にしかならないので上の方にお任せします。
相対主義を貫くと文学作品をを説明できないよ。ただの感想発表会になっちゃう。 なるほど貴方はそう読むんですか。私はこう読みました。終了。 これは文学じゃなくて哲学じゃないか。道徳哲学的には正しいよ多分。でも、 作品の特徴や構造を説明する理論体系が自分の頭のなかだけにあってしかもこの理論は他者と共有できない。 ってなると、そんなの理論じゃないし科学でもない。そんなこと言うんだったらいっその事、 「文学はマラルメ以降徐々に、その言葉が、それが述べる事柄とまた同時にまた同じ運動において、 その言葉を言葉として解読可能にする言語を言表するような、ひとつの言語活動になりつつある」byフーコー とか、 「ある対象を批判するとは、それを正しく評価することであり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を、 積極的に肯定することであり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、 また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必死のものだ」 「批評するとは人をほめる特殊の技術だ」と小林秀雄は言っている。 みたいに、誰それがこんなことを言ってた、って書き込む方がまだ意味があるんじゃなかろうか。
>>947 それでも十分迷惑なんだけどw
自分のブログかなんかでやれば?
一人で妄想してるからさびしいんだろうが、一人に耐えられなければ文学理論なんてまとめられないよ。
スタンリー・フィッシュすら読んでないアホが多いのか
スタンリーフィッシュ読んでないけど、読者論は文学理論なのか?ということは、お前は文学(の一部)なのか? てことは俺はお前という文学作品を始めから終わりまで鑑賞し、解釈してないからお前はお前だけでは存在しないな。
953 :
吾輩は名無しである :2014/04/08(火) 19:13:45.33
>>951 読んでるとお利口なの?
読んでると読んだ人の説が正しくなるの?
読んでると他の人の理論は理解しなくていいの?
まさかねw
955 :
吾輩は名無しである :2014/04/09(水) 00:36:53.41
しかしこのスレ3年もってるよorz 何という過疎板
まあなんにしても、文学理論が他から持ってきた理論で成り立っているままなら正当性は薄い。 それらの持ってきた理論も同じ文学空間内にあるとすることでやっと正当性/正統性が得られるし、それでしか(人間には)扱えない。 ここで計算してもらったおかげでいろいろなことがわかった。 (知識・概念などを)共有する機構を説明する理論は、現在のところ量子論しかないだろう。 脱構築系の文学理論以外で量子論的文学理論をみかけた方はご一報くださいw
なにやらスタンリー・フィッシュがでてきているのでついでに。 個人の文学空間同士がなにかを共有するなら解釈共同体のようなものが必要になる。 文学空間同士が共通して参照できるのは物理世界(=テクスト)しかない。 しかし、解釈するものである以上文学空間になければならない。 これを解決できる理論は量子論しか、いまのところ、考えられない
作者殺しのミステリーだけではなく、「このクラスにテクストはありますか」もミステリーだった。 人の数だけ文学理論がある。 (そんなものあるのかどうか知らないけど)カテゴリー批評理論wによればエロサイトのCategory一覧ほどに文学理論がある。 これは作品よりも批評に対する批評批評理論に使うのが楽しい。 2chのレスというものはほとんどがカテゴリー批評理論による罵倒あるいは防衛機制の発現で成り立っている
「身体性」は文化記号学のほうで拾うことができた。 おそらく(人工)解釈共同体にも身体性が必要なんだと思う。文学においては物理的身体だけでなく論理的身体(=文学的身体=文学!)が
960 :
吾輩は名無しである :2014/04/20(日) 21:27:05.00
ヽ 異議あり!! ,ヘ .へ ) ,. ' 〉=γ''≫'´V`ヽ、' \ `v'⌒ヽ/⌒ヽ/__ ,. ‐- .. _ . '´ //〃// , 、 \、. \ _,ィ7/ __ `` ー- 、 , '´ //r’ ´ / A \ ヽ〉 \ _x==//// ゝヽ ̄ヽ ー- ' ,. '´ /Z´》ii. / ∠、 マ ∧` .トヾ .x<///////! 、_ ヽ' ノ_,.〉 / ./ 〔{゚_}|',トレイιノ V ,_ト、 |ミ-ゝ ,x<//////////|x`>、..ノ=┘ / / ヾt λ ト 、ιリλ!>升////////////∧////| / / x` -‐ νィ´//////////////////X,//| / / ノ` 、 彳'´ V///////ZZ≫=――===''''''´ > 、 , ' / _i<_r' ̄イ У´ ̄ ̄ 、 > 、 / / '",. |,イ_λ/ | / \ > 、 / / /,.ィ / | ==V / \ ` 、
アルファベットだけを用いている西洋の文芸理論と ひらがな・カタカナ・漢字の三種を用いている日本での文芸理論は おのずと異なるはずだ 日本ではかんたんに言えば絵文字を見ている 実体の見える姿に近い、描かれたシンボルマークを眺めている 西洋では本質的にはそのような記号は見てない 言葉それも発音の影にある、言い表されたものから見える姿を脳内に結像するしかない 文章およびそれ以前の単語が脳に及ぼす作用からして違う、 おそらくは脳の使い方も違う 漢字系統の言語は音無しで孤立できる 我々が中国語を眺めているとなんとなく意味が分かりそうな気がするのはそのためだ 実際、その漢字の中国の発音なんてのは知らないが意味だけは通ずる、 そういう局面が多々ある 音を欠いていても意味が通じる、だから音無しで孤立している 昨今は企業のCIなどで大量のシンボルマークを目にする 日本にも家紋が大量に揃っている つまりは意味の源泉は脳―視覚の系に作用するかたちそのもの、 自然の写し身たるシンボルマークを眺めることで意味が発露する 東アジア文化圏は記号そのものになりきらない半生の視覚物体すなわち漢字でコミュニケーションをとっている それらの漢字の集まりである文章の扱いも やはり東洋と西洋では理論の根本が違うはずだ 日米のバイリンガルなのに英語のディスレクシアを発症している……という事例もある、 このように、言語記号がどのように脳に作用して意味を生成しているかを観察する、 現代はここまで根本的な事から始めるべきだ
>>961 >言語記号がどのように脳に作用して意味を生成しているかを観察する
これはどうかなあ?
「脳科学」みたいなところでやってるようだけど、なかなか成果はあがってないようだし、あるとすれば身体的な要素も加味する必要があるだろうな。
さらに言えば、それが完全に言葉との対応が取れるなら、あらゆる理論はコンピューターで解析できるだろうな。
行為としての読書、やっと買える価格のが見つかったと思ったら図書館廃棄本か・・・
>>961 現代はここまで根本的な事から始めるべきだ・・・って、認知言語学って知ってる?
965 :
吾輩は名無しである :2014/04/25(金) 19:40:17.82
>>963 どうせ誰も読んでないから新品同様、でよかったんじゃないの?
ジョナサンカラーのピンク色の「文学理論」を読んで「理論」に興味を持って 次にカラーの「文学と文学理論」を読んだら、前書きに「理論は死んだ」って書かれてて笑ったな アントワーヌ・コンパニョン「文学をめぐる理論と常識」の序章なんかを読むと 「文学をめぐる〜」が出た1997年には、既にフランスでは文学理論は過去のものだという見方が広まってたみたいだけど (ジュラール・ジュネットでさえ、もう文学理論から離れたよって書いてあってちょっとショックだった) 2004年に出た「岩波講座別巻 文学講座」は、「これからは文学理論やー!」みたいなノリで書かれてるようで 海外と日本の温度差を感じるねぇ
(20世紀に席巻した類の)文学理論は過去のものというだけだと思うんだけども
「書き手・メッセージ(としてのテクスト)・読み手」と考えれば、文学理論の種類も(最低でも)この3つの組み合わせの数だけあると考えられる。 メッセージの種類だけでなく書き手の(いろいろな意味での)種類や読み手の(これもいろいろな意味での)種類によってさらに数は増える。 「いろいろな意味での」というところでもさらに数が増える。爆発的に数が増える。 XはXのままで抽象化して基本的な3つのところで考えれば、書き手」側からの創作・制作(ポイエーシス)の理論が足りない。 アリストテレスの「詩学」ぐらいしかみつけられない
ドイツロマン主義の批評は読んだのかい?
>>967 このスレでいう「文学理論(Theory)」って「(20世紀に席巻した類の)文学理論」のことじゃないの?
>>970 留保なしに「理論は終わった」とか言うと幼稚な感じになるし、
もう21世紀入って十数年になるぜ
>>971 終わったといっても始まるといっても、まったく意味がないよねw
実際、文学とは何か?よりも 物語とは何か?の方に流れちゃって そっちのほうが領域広くてみんな自由にやってるかんじだしな
>>973 ということは、客観的な評価軸なんかはなくなっちゃって、自分の感覚だけで作品を論じるという退行状態なのかな?
でもその方向だと、小林秀雄にも追いつけないんじゃないかい?
>>974 精神分析批評みたいなのやんなくなって
fRMIとか使う神経科学や認知心理学やナラティブ・セラピーと接合したりしてる
fMRIだった。あとはもうゴリゴリの物語論 ドゥルーズやデリダなんかのポスト構造主義もほとんどててこない
それこそ物語論なんてとっくに過去のものだろ なんで文学理論とか物語論の文献って、ある時期を境にめっきり数が少なくなってるんだろう? って感じたことないか?
物語論は単に翻訳されてないだけで めちゃくちゃ文献多いような、 今週も10本以上新しいのきてたし 新しい論者が外部の領域から流入してくるし
あとは、たとえば今までナラトロギアのシリーズが42冊でてるだろ あれだけでも読むの大変
日本の外国文学研究者が退行しているだけ いきなり小林秀雄に戻るみたいな発想はいかにも文芸批評的な発想だなあと思う
日本でも心理学系の人達は一応頑張ってるみたいだけど、、 文学分野は国文系の人達がわずかながらやってるって印象 10年ぐらい遅れるのはいいとして、 しかし、未だにグレマスレベルにとどまってる芸術系大学の 物語論講義を見たときは、さすがにやばいなと思った
別にグレマスはグレマスでいいんじゃないですかね
その後の言語学や文学理論の発展を考えると、 全部古くなったといえるかもしれないウィリアムエンプソンだって、面白く読めるわけだし
ああ、別にグレマスが時代遅れとか 今ではアクタント理論が通用しないとか言ってるわけじゃない
ただグレマスの構造モデルだけでは足りないわけで、 エージェンシーやポジショニングといった観点も教えようよと そっちのほうが発展性もあるわけだし
美大は認知心理学は認知心理学でやるからいらないんじゃないの
静的理論にとどまったままで 動的な理論をやってないってこと
よくまとまった邦訳がないと、美大生向けでは無理だろ ていうか日本語のいい本あったら教えて
理論の基礎となった本の邦訳はあるが ブルーナーとかゴフマンとか、まとまった本となると邦訳ないな 結局、邦訳されてないのが問題か
理論か印象批評か?みたいな雑な二項対立にすぐ戻ってしまうの、どうにもならんの? 吉本隆明と小林秀雄の話題が多すぎるのもそのせいだろ 日本語でアップデートされた議論が読めないと不毛が続く 多分「英語読め」だとこういうのは止まらない
991 :
吾輩は名無しである :2014/04/26(土) 18:56:38.94
>>975-
>>989 ラベルはいらないから、具体的な内容を書いてよ。
英語読めとしか言えないのが今の現状だな
ところで次スレは
個人的には物語論は別にして建てたい気持ちはあるけど そこまでまだ需要なさそうだしな
相対的に新しい邦訳教えてplz
amazonで発売日が新しい順で並べたらええんやで それか出版社のサイトを見るか
文学理論とはなにかを問うこと自体が文学理論でもあるという状況では、名前を羅列するか勝手な感想を振りまくしか書きようがないのかもしれない。
998 :
吾輩は名無しである :2014/04/27(日) 01:33:11.48
全体をざっくりと俯瞰的に見れる人もいるだろう。
英語読めない、本を借りるのもいやだ、 名前を羅列するだけじゃなく教えろって程度の人間は 多分学校にいったほうが早いな
文学理論をめぐる日本の状況と海外の差を頑張って埋めよ
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。