三島由紀夫の「金閣寺」を語ろう♪

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49吾輩は名無しである
「天皇」や「文学」以外にも,「金閣」と等号で結びつくものはまだまだあるような気がするので,
それらがどのような特質を持っているのかを考えた方が面白いと思います。
 この違い,かなり微妙ですが,大きな違いです。
アメリカの影 「金閣=天皇=文学」という等式は,いかにも三島由紀夫的な問題設定を呼び込み,興味をそそられるわけですが,
それはそれとして肯定した上で,『金閣寺』という小説を面白く読むために,もうひとつ別の等式を添加してみます。

 今回取り上げたいのは,「金閣=象徴天皇=アメリカ」という等式です。
 『金閣寺』は京都や舞鶴を舞台にした小説ですが,敗戦後の日本を舞台にしているだけにそこかしこに「アメリカ」が影を落としています。
 泥酔したままジープに乗って金閣寺を訪れたアメリカ兵の命令で,痴話げんかの果てに地面に押し倒された女の腹を
「私」が踏む場面があります。

 金と力を背景にしたアメリカ兵が日本人に孕ませた混血児を流産させるという構図は,快楽をともなった「私」の
破壊衝動の発露という点で,おそらく金閣寺を炎上させるラストシーンにつながっています。
50吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 12:36:15
 「私」が『金閣を焼かねばならぬ』と決意するのは,金閣寺を抜け出して舞鶴港のある西舞鶴駅に降り立ち,
由良川を北上して丹後由良海岸のある河口まで歩く第七章の最後(文庫本243ページ)の場面ですが,その背景にもアメリカが顔を出しています。
 「すべてが変わっていた。そこは英語の交通標識がおびやかすように、そこかしこの街角に秀でている外国の港市になっていた。
多くの米国兵が往来していた。
(中略)町の只中へ、深く導かれている運河のような狭隘な海、その死んだ水面、岸に繋がれたアメリカの小艦艇、……ここにはたしかに平和があったが、
行き届きすぎた衛生管理が、かつての軍港の雑然とした肉体的な活力を奪って、街全体を病院のような感じに変えていた。」

 こういう光景の中で「私」が『金閣を焼かねばならぬ』と決意したことの意味は,小さくないはずです。
51吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 12:45:00
金閣寺のいかがわしさ 金閣寺のどこが「アメリカ」なのでしょうか。

 金閣の見物はおいおい数を増した。老師は市に申請して、インフレーションに即応するような拝観料の値上げに成功した。
 今まで金閣の拝観者は、軍服や作業服やもんぺ姿の、つつましいまばらな客でしかなかった。やがて占領軍が到着し、
俗世のみだらな風俗が金閣のまわりに群がるにいたった。

 いくつかの建築様式を折衷し,金箔を張り付けて出来上がった金閣寺は,それ自体がきわめていかがわしい,キッチュな建築物であるわけですが,
「拝観料の値上げ」というような世俗的な問題と無縁ではいられない敗戦後の現実が,引用部分からうかがえます。
 小説の後半では,女遊びをする老師の生臭坊主ぶりが,金閣寺に放火するにいたる「私」の心理に影響を与えていくことになるのですが,
金と女に代表される「俗世のみだらな風俗」というものが,アメリカがもたらした新しい時代と密接に結びついているだろうことは想像に難くありません。
 ここでいう「アメリカ」が象徴するものは,拝金主義であり,享楽主義であり,物欲や肉欲を追求するライフスタイルでもあります。
52吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 12:52:00
 日本国憲法が定めた象徴天皇の影にアメリカがあるように、金閣寺の影にもアメリカがあり、そういういかがわしさの中にある日本社会に対する敵意が、
放火という行為へと「私」を駆り立てたとも考えられるのです。


 ほぼ同じ場所から見下ろすという行為の反復は,物欲と肉欲に彩られた敗戦後の京都(あるいは日本)と,生臭坊主の老師が支配する金閣寺が等価であることを示しています。
 そして,それらがいずれも「中身や実体を欠いた空白」であることも。