■■■トルストイの凄さがさっぱり分からん■■■

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62吾輩は名無しである
いつだったかトルストイがギロチン見物に言って
人を殺すための機械がある種様式美を持って受け入れられている事に強い嫌悪感を示すじゃないですか
Vガンダムに出てくるファラグリフォンって人は丁度SBR(ジョジョ7部)で死刑執行人の家系としてツェペリ家があるように
ギロチンの家系として生を受けた女性なんですね。

そもそもがVガンダムってのは一応13歳だかの少年ウッソを主人公としているロボットアニメなのだけど、
子供向けアニメによくあるような主人公の成長ロマンを描くような作品とは一風変わっていて
むしろ主人公ウッソは語り部として、狂言回しのような性格を持って作品を泳いでいく存在なんです。
成長というベクトルで言うと彼を取り巻く女性たち、特にカテジナやマーベット、男性ではオデロやクロノクルなんか辺りの成長の方がよほど大きい。

未だに僕は”復活”の最終章に於いて、カチューシャがネフリュードフを愛していたが故にシモンソンにくっついていったかというところに
気持ち悪いぐらいの違和感があるのです。
おそらくそれはトルストイも同様で、カチューシャの口から「ネフリュードフを愛するが故に」という意味合いの言葉は聞かれないし
また、トルストイ自身の考えもそこにはなく、その心情というものはあくまで”ネフリュードフの思うところ”としてネフリュードフに語らせるのです。
彼自身は女の情動というものに思いがまだ至らず、「自身を愛するが故か、愛しないが故か」という二元論に落とし込めてその枠内で情動を整理しようとしますが
カチューシャの心情として、犠牲とも愛情とも付かない言葉に成り得ないような女性としての情動がある風に自分には感じられます。(念のため言っときますが性愛じゃないですよ)

Vガンダム作中のファラ・グリフォンという女性は前述のようにギロチンの家系として生を受けたわけですが、彼女自身それを自身に背負わされた運命と認識はしながらも
やはりどこかで人間らしい生、妻となり母となり子を産み育て死んでいく人間らしい生を求めていたように思います。
その優しさはギロチンの家系であることを隠すために鞭を持つ厳しい女性として振舞うことで、さながら大衆からの畏怖の原因をギロチンとは違う鞭によるものだ、と偽ろうとしていくところに見て取れます。

63吾輩は名無しである:2011/01/25(火) 10:48:20
彼女は自分に傅くメッチェを愛していたのか?
ここにカチューシャのネフリュードフに対する心情と同じものを自分は感じるのです。
カチューシャにとってネフリュードフがまるで絵本の中に出て来る理想の王子様であったように、ファラにとってもメッチェはそれで、
純潔を換金されたカチューシャの失望に比して、ファラに対するメッチェの思慕というものはあくまで女主人に傅く下僕のそれでしか無かったのです。
それは生理的嫌悪感を示す人生のトラウマたるギロチンを設置する際のメッチェの手抜かりない所作に「あらかじめ予見していた失望」を現実として認識する時にでる表情がそれを物語っています。
メッチェはあくまで下僕として忠実に主人を守るための人身御供としてファラを生かすのですが、その犠牲を一身に受けたファラはいよいよ破滅への道を辿ります。
3日間の宇宙漂流の際、それまでの考えをまとめ、妻としての生、女としての充実を求めてより一層タシロに献身し、シャクティに背負わされた宿命をある種の皮肉を以て笑い、
メッチェと自身との関係をウッソとシャクティになぞらえて、その結びつきに嫉妬にも似た感情を覚え、ウッソに対して「メッチェのところに行ってもらいたいのだ」と自身を正当化して欲しいのだと心情を吐露します。
その後のウッソの台詞を換言すれば明らかです。

「僕はあなたを好きにはなりませんよ!」

メッチェはファラを愛してはいなかった。二度目の失恋がここです。タシロは含めません。メッチェの代わりの人もタシロと同一項です。

その後ファラはマーベットの妊娠に気を取られ、この作品中もっとも悲劇的なウッソの台詞を聞いて死ぬのです。
僕はファラのメッチェに対する心情というものは愛とは別個のモノだと思います。理性的であるが故の、人間的であるが故の、エゴ全てを呑み込む事が出来る故の。
一応カチューシャ’としておきますが、彼女のネフリュードフに対する心情って本当に愛なんでしょうか。
僕にはいまもって言葉でそれを描く事が出来ないのです。

それでは。