いんふるえんす
上坂すみれ
>>466 そしてそれはムーのスレスト力の足りなさということでもあるなw
暇出来たら次これな。
http://www.un-go.com/ 『UN-GO』(アンゴ)は、フジテレビ系列「ノイタミナ枠」で2011年10月から12月まで放映された日本のテレビアニメ。ボンズ制作。全11話。
概要
昭和前期に活動した小説家・坂口安吾の『明治開化 安吾捕物帖』『復員殺人事件』等を原案とし、その設定を独自にアレンジ(物語の舞台を近未来にするなど)したオリジナルストーリーとして制作。登場人物も原典からの人物とそうでない人物が混在している。
公式サイト・ストーリーページの『虎山レポート』ではエンディングに出るパスワードを入力することにより、捜査報告書を閲覧することが出来る。
あらすじ
“終戦”を迎えたばかりの近未来の東京。そこでは、探偵業が流行らなくなった代わりに、メディア王・海勝麟六が膨大な情報量と優れた頭脳を生かして、幾多の難事件を解決していた。
しかし、実は麟六の推理には裏があり、それをあぶり出すのが、「最後の名探偵」を自称する結城新十郎と、その相棒・因果。世間からは、「敗戦探偵」と言われているが、それでも2人は力を合わせて、様々な難事件の解決に挑むのだった。
>>470-471 まあ両方機会があれば。
ただ、個人的な見解を述べれば、2ちゃんは2ちゃんで完結させたほうがいいと思う。
あっちとこっちで話がリンクするような事態はなんかやらしい気がする。
趣味の問題だろうとは思うけど
まあしたらばなんで2ちゃんの派生物だよ
まちBBSとかと同じ
宮沢賢治とかもマイナーなテクストには
>>454的な読んでるこっちが「・・・」ってなっちゃう誇大妄想的なテクストがあったりするんだが
あれが文学というものだったりしよう
つまり
>>454とは文学なのである
国敗れてサンガリア
サンガリアは良いよね。
自販機の中で「すいませんねえ」みたいな負の自己主張してる感じが。
少し前のおっぱいでかい頭悪そうな水着のねーちゃんが出てくるだけのCMも潔くて好きだった。飲んだことないけど
>>474 いや、少なくとも俺が知る文学はそういうんじゃないなw
スレタイ忘れてどのスレか探してしまった
ふむ、普段は意識の外なのだが、時おり気になってしまう。
そういうサンガリアやみすず学苑のようなポジションを目指します!
あるけちな男、鰻屋のそばへ引っ越してまいりますと、毎日毎日、鰻を焼く匂いを嗅ぎ
まして、『クンクン、ああ、いい匂いだ。』、なんてんで、この匂いをおかずに、ごはん
を食べておりますと、月末になりまして、鰻屋から勘定を取りにきまして。
男「ええ、勘定を取りにきたって、あたしは匂いを嗅いでいるだけだよ、なんだいこの勘
定書は。」
なんてんで、勘定書を見てみますと、『ひとつ、鰻の匂い嗅ぎ代、六百文』、とありま
す。
男「ええ、鰻の匂い嗅ぐだけで、金取るのかい、わかったわかった。」
ってぇと、この男、財布から金を出しますと、手の中で、ジャラジャラ音を立てまして。
男「さあ、この音を受け取ってくだされ。」
新成人うざっ
ムー大陸は成人式に出るイメージアップないな
ごめん意味が読み取れないw
それこそスレスト力ではなかろうか
というかわたしにとって2ちゃんねるの7割、文学板の8割が
>>483のごとき「意味が読み取れないレス」であるのでスルーしてた
まあムーは名指しされているから気になったのであろう
わたしもミニハンという単語があれば8割の「意味が読み取れないレス」のうちそれを拾ってレスしたりする
「なんて意味?」的な
なんだろう、
>>454にしても、ムーは何を今更みたいに思ったのだね
わたしにとっては2ちゃん文学板がだいたい
>>454みたいなものである
そして
>>474でそれを「文学なのだ」と言ったが、2ちゃんねるは文学である、と思う
2ちゃんのレスはスルーすけば別に痛くも痒くもないが、
>>454は
俺
が
金
出
し
て
買
っ
た
本
である!
銭出してまでこんなもん読みたくはない。
あと同様の理由で2ちゃんねるは文学ではない。
銭出してまで読む価値があるのが文学。
これ定説な
あ、別にミニハンに怒ってるわけじゃないからねw
青空文庫どうなるんだよw
それは青空文庫に聞けよ。
>>488 すまんかった
しかしLGのエアコン買って1年待たずに壊れたわたしに比べたら損失額は大したものではなかろう
まあ正直
>>454みたいなの読みたければ電波サイトまとめとか巡回して見てけば1時間足らずでそれレベルは見つかるけどな
いや読みたくないw
えーたのしいのに
なかには顔写真を出してやってる人とかいるよ
どうであろうな。
今パラケルススやらキルヒャーやらの文献を読み漁っていて、
確かに今の視点からすれば電波のオンパレードなんだが、
しかしそれは論理の放埒な暴走というよりは、むしろ
ある種のバランス感覚や思慮深さの結果であったりする。
まあ思考と想像の「垂れ流し」ではないわけだ。
結局読むに値する、見るに値する表現というものには、
それが一見どんなに放埒に見えても、必ずどこかに分限がある。
すなわち、それを越えれば表現が単なるノイズと化してしまうような境界線だ。
表現は、その境界線と「厳密に戯れる」ものであり、
その自己の内と外の間の緊張のあるなしが、そこらの電波と文学との境目なのだろう。
銭出してまで読む価値があるのが文学って主張を青空文庫が言うなら青空文庫に聞く
ああこの間そんなこと言ってたよ。たしか
確かに主張してるやつを見過ごして不確かな伝聞を頼る理由がない
みのがしてくれよう
というか真面目に答えても面白い結論にならんからなあw
「銭を出してでも読む価値がある」ことと、
「たまたま銭を出さずにゲットできた」ことは矛盾しない。
ダイヤを拾ったとして、それが金を払って得たわけではないからといって、
その価値を失うわけではないのと一緒。
うむ。いやしくもプロの肩書でペイ発生するもの書くんなら見合ったクオリティ出せよってところに落ち着きそう
つか文学の本じゃないだろw
ダイヤがそこら中の道端に落ちてたならその価値は下がるだろうなあ
一般的な人工ダイヤはケイ素混じりの物理的にバッタモンダイヤなのだが
炭素だけで、つまり本物のダイヤと同じ人工ダイヤも作れなくないんだな
でもプロが見ると、内部があまりにきれいすぎるとかで、人工ダイヤとバレてしまうらしい
普通宝石に傷や汚れがあったら値打ちが下がるものだが、人工宝石は内部に傷や汚れがないから価値が下がる
という妙な話になってたりする
価値って不思議だな
まあ価値という観念自体が妄想だとすれば、妄想だから、ある意味
価値があると思えば価値がある、価値がないと思えば価値がない
そういうものだとなる
価値という言葉にすると話ややこしくなると思うんだな
ムーの考えるパラケルススの文章と、
>>454の文章の、ムーの主観における違いはどういうものか、という話なら聞こう
>>496なんかはそういうレスでよい
「ムーはそう思ってるんだな」という
ムーの妄想する境界線はなんだろう、とか
あと青空文庫に限らず今じゃキンドルでも太宰とかならタダで読める
>>505 「象徴哲学大系」全四冊揃えで四千円也
他の話はめんどいので今度
たっけ
初カキコ…ども…
ここもすっかり役割を失ってしまったようだな。
悲しいことだ。アチラが立てばコチラが立たず。
作為のある軽さについて考える時真っ先に頭に浮かぶのはやはり「自然」という判断基準だ。
日本人はどうも自然を絶対化して居るように思われる。
人は自然の前では沈黙しなければならないと思っている。
その沈黙がもう一つの判断基準「調和」である。
昔から自然に手を加えすぎることはタブー視されてきた。
自然は人が生まれる前から存在する規範であり、役割であり、働きであるからではないか。
そうした自らに先立つものを絶対的なものとして捉える。
それは自分の中にもう一つの可塑性を持った判断基準があるから。
つまりそれは「好き嫌い」である。
好きも嫌いも教育によっていくらでも変わる。
そういう形作られた存在として我々がある。
私に先立つ形で存在する他のあらゆるものに馴染むことが好むことを基礎を作るのだ。
選択能力の無い頃から既に選択的に何かが私に与えられてそれが私の中で基礎を作る。
その基礎は基準になる。基準として当てはまるか、はまらないかが感覚的に決定される。
基準として当てはまることは自分という内部と、自分じゃないものという外部の調和を意味する。
調和感覚は過去と現在が関係していることを証明する感覚である。
ある種の因果関係が感じられることは混沌を否定し秩序を浮かび上がらせる感覚である。
人が生物として生存する限りにおいて、秩序的なものは全て快感となりうる。
この秩序的なものの代表が自然という秩序である。
自然の中の軽さ。
自然法則の不変性と効き具合は妙である。
自然は、何もかもが予定調和であり決定論的であるとは呼びがたい現れ方をする。
これほど複雑で豊かで冗長であるのにしかも調和がとれているという妙。
この妙味、カオスとコスモスの配合率が軽さ、軽快さということではないか。
自然状態の人間を思う時、そこにはひとさじのコスモスだけがある。
コスモスは知である。知自体は様々にあるが、その人の中にある知はかなり限定されている。
というより、限定されるべきものであるのかもしれない。
知は柔軟ではありえず、もし柔軟な知というものがあるとすれば、それは、
信念を固めた状態を解除し、それを捨てるという運動を連続させる様子のことではないか。
あるものがある。それ自体は揺るがない。
この現象の揺るがなさは、しかし、信念を付加したり解除したりすることで、
自らに対して揺らぐ。
現象に様々にゆらぎを与えるのが知である。
あるものが揺るぎないものとして現れて見える時、人は、何かしらの信念を持ってそれに対峙していることになる。
この対象に対する向き合い方が知識である。そして、知識は自然ではなく人工の側に属する。