1 :
吾輩は名無しである:
ゆったりいきましょう
哀しみ本線で失踪したい
3 :
吾輩は名無しである:2010/10/02(土) 19:24:33
近代日本文学史において、はじめて、「芸術としての批評」を定立した人。
批評を、真に自分の言葉、自分の文体、自分の肉感を以て創造した人。
もつとも繊細な事柄をもつとも雄々しく語り、もつとも強烈な行為をもつとも微妙に描いた人。
美を少しも信用しない美の最高の目きき。獲物のをののきを知悉した狩人。
あらゆるばかげた近代的先入観から自由である結果、近代精神の最奥の暗部へ、づかづかと素足で
踏み込むことのできた人物。
行為の精髄を言葉に、言葉の精髄を行動に転化できる接点に立ちつづけた人。
認識における魔的なものと、感覚における無垢なものとを兼ねそなへた人。
知性の向う側に肉感を発見し、肉感の向う側に精神を発見するX光線。
遅疑のない世界、後悔のない世界、もつとも感じ易く、しかも感じ易さから生ずるあらゆる病気を免かれた世界。
一個の野蛮人としての知性。
一人の大常識人としての天才。
三島由紀夫「小林秀雄頌」より
4 :
吾輩は名無しである:2010/10/02(土) 19:41:43
野蛮さと繊細さ。
『地獄の季節』の翻訳。
なんか三島がらみで語りたがる奴っておおいよな。
やっぱり男根の世代の人?
6 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/10/02(土) 23:02:01
>>5 三島由紀夫しか読んでない人の書き込みなんでしょう。
隔離スレへどうぞ
あちらなら何書いてもいいけど
小林秀雄スレを荒らさないで
8 :
吾輩は名無しである:2010/10/02(土) 23:33:39
ソ連作家同盟の招きで訪ソしたのは60年安保間もない
1963年、朝日や文春に紀行文を書いてる。
ミシマの切腹は70年。
9 :
吾輩は名無しである:2010/10/03(日) 05:54:57
目利きおやじ。断定おじさん。
と、言えなくもなくもないかも知れない・・・。
Iq84なおまえらにゃ厳し過ぎる世界。
繋がってるんだ! 仲間なんだ!
>私は戦時中、「平家物語」を愛読していた。
ヒコクミンだったわけですね?
・・・愛国者現る(笑
小林に言わせると文体改造など三流文士のやること、
ということ?
よしりんとドラッガーの愛読者じゃねえの?
テクストを作家やその時代から切り離し、切り刻むのが
ポストモダンの高度資本主義社会の流行だっけ。
そういや、ヒントで岡潔が戦後になって数学の世界の
仕事がどんどん抽象化して来るって慨歎しているって
話があったな。戦後体制って奴か知らん。
ひるべるとちゃんのおかげです
そういや全集買いました。ブクで各105で落ちてたんで全15の第四次
(生前刊行のたぶん最後の版。最終巻が本居宣長で)全集買いますた。
おもかったです。そんなんでちょっとググッてたっけ、
あの全集ならタダでも要らん
22 :
吾輩は名無しである:2010/10/08(金) 18:22:39
却下
23 :
吾輩は名無しである:2010/10/08(金) 18:25:24
六十年代のベストセラーなのな。適当なタイトルと裏腹な
内容もさることながら、最初がコンピューターの話題で
始まってるところが、やはり目利きは一味違う。
21世紀のベストセラーはハリポタが圧勝であります。
『バカの壁』が食い込んでるのがナイス
アメリカ中心の21世紀高度資本主義世界においては、何か少し
物事を考えただけで、立派な反体制行為っつう
CO2は温暖化の原因ではない、とか言ったらキチガイ扱いされるだろうな。
権力が、大衆が考えることを嫌うのは時代や地域を越えた話
ではあるかな? バブル期の頃までは考えることの重要さを
タコミミで聞かされたもんだから、意地になって考えるんだが、
本当に考えるってのはそう簡単な話じゃない、随分と覚悟の
いることかも知らん。
29 :
吾輩は名無しである:2010/10/09(土) 20:26:51
ヒントがベストセラーになったのは、2001年の公開の数年前らしいな。
やっぱ先見の明って奴だなぁ。
曰く、コンピューターは計算はするが考えない。
考えるとは創造することである、という風かな。
物書きをメシのタネしてないから要点を三行レスにしちゃう俺。
コンピューターが女流王将に勝っちゃったよ
>>32 渋いとこ突くね
あの女流棋士がだらしねえんだw
安吾スレに書くべきでは?
小林秀雄を最も苛烈に批判したのは高橋悠治だって誰かが言ってた(どのスレだったっけ?)んだけど、
彼の小林批判って30年前に坂口安吾が面と向かって言った事なんだよな。
「小林さんはモオツァルトは書いたろうけど音楽を知らんよ」
>>32 四つのソフトの多数決ってインチキ臭いよ。人間は一人なのに。
37 :
吾輩は名無しである:2010/10/17(日) 23:54:28
世の中は考えない。
計算するだけ。
38 :
吾輩は名無しである:2010/10/18(月) 00:49:18
即効性!ジッキンの!
めまぐるしく走り回るバカ
39 :
吾輩は名無しである:2010/10/18(月) 01:04:32
俺はいつでも、最初の夜に帰って行く。
俺の中で何もかもを根絶やしにした
名もない夜に。
40 :
吾輩は名無しである:2010/10/18(月) 06:47:44
権威としての大衆。
のぼせ上がって、己が醜悪さを誇れ。
41 :
吾輩は名無しである:2010/10/18(月) 23:41:25
「人権の平等を主張しているうちに、人間の顔がのっぺらぼうに
見えて来る、そういう賢者は、現代社会何処にもころがっている。」
ニーチェかぶれのことかな?
42 :
吾輩は名無しである:2010/11/09(火) 17:45:03
「小林秀雄と宗教」だなんてお題は愛国者(笑)の皆さんは
聴きたくもないんでしょうね。
坂口安吾との対談で安吾を「信仰心のない奴だ」とからかってる
のを見つけて思ったんですが。
三島との対談でも「愛国者」はラスコーリニコフを社会主義者で
片付けちまうし、せっかく小林がサルトルにおけるドストエフスキーの
影響を持ち出しても三島は全く乗って来ない。
三島との対談は、半ば意図的に三島が乗って来ないネタもぶつけてるか
知らんけどな。
三島「いつ振り落とされるかわからない荒馬に乗っている」
小林「才能のために道を誤んなさい」
三島「結論が出ちゃった」
果たしてその通りの結末になったとさ。
もうちょっと正確に引用すべきだと思うが…
明治生まれで大正デモクラシーの最中に青春を過ごした小林と
大正の最後の年に生まれて昭和ファシズムの中で人格形成をした
三島とじゃ、感覚が違うのか知らん。
48 :
吾輩は名無しである:2010/11/10(水) 23:23:42
太宰も入水を機に面白がって読んでる。体臭のする男が好きらしい。
終戦間もなく、「反省しない」発言の年に戦争責任を問われ、
同じ年に明大の教授を辞任してんな。教授先生の小林秀雄って
イメージが違う。
小林秀雄はベルクソン論を連載していたみたいだけど、やっぱり原書で読んでたのかな。
個人的には小林秀雄が訳したベルクソンも見てみたかった。
ベルグソンは自分が育てた怪物、つまりナチズムに幻滅して遺稿の
公開を拒否したんじゃないのかな?
「Xへの手紙」の背後には明らかに「暗夜行路」があるが、
そのむこうにはおそらく「明暗」がある。漱石が発見した
「他者」を、志賀直哉は抹殺し去ることによって「暗夜行路」
を書いた。そこには絶対化された「自己」があるだけである。
小林は、この「自己」を検証するところから始めた。
江藤淳「小林秀雄」
われらの文学22
53 :
吾輩は名無しである:2010/11/13(土) 20:10:00
スレ違いだが、同じ巻に江藤がロックフェラー財団の文化交流で
プリンストンに滞在した体験談があるんだが、アメリカの
社会ダーウィニズムの観察から始まってて面白いな。
「アメリカは世界で唯一、社会ダーウィニズムが機能している
国である」、云々。
>>41 …いやね、ヘンな話、モノ読まなくても、考えるということをしなくても
(その能力を欠いてはいても)、決して“ひととして”異常な訳ではない
っつーことに気がついた(笑 今更だが。(じぶん基準で)半分とか、三分の二
くらいの知能しかなくっても。
バカであることは罪ではない。しかし自分が神様だと言い始めたら
話は違って来るだろ。
罪なのかしら? …けれども、ひととの(明確な)差異を認識すること、それ自体が。
…うんww
さっき他所で云ったこととは矛盾している様ではあるがw
あくまでもだから、その対象を限定してっつうことで。
痛みを感じることの出来る者だけが傷つけっつってるだけなんだよ(笑
おれはね。そんなこそが、ちからなんだから。
58 :
吾輩は名無しである:2010/11/14(日) 08:09:52
なにこいつ
キモッ
他者性の問題となるとすぐ「差異」が出て来るのな。
それは対他的自意識であって実存的意識ではない。
それでは「明暗」も分からんだろ。
「意識とは病である」、つまりどうしても合理化出来ない
ものだ。
…えーっと(苦笑 だーから、ナニ聞いてるんだっていう。
自己満足だとまで、云い切っている人間に。
「対他」?「実存」?うーん知らんけんども、――いつだって、
その(なんでもいい)どちらかでしか在ることが出来ない者たちの、
シンプルさ?wをこそ、俺は。
「このじぶん」においての「なにがしか」が、…けれども、
どの様なカタチではあれ、絶対の他者においても存在している、
――もしくは少なくとも、それが、存在し得ることへの、
想像力を手放さないでいる。平等である。人間たらんと、
意志し続けることを諦めない(…あ、いまじぶんちょっと嘘吐きました。。。
うん。あくまでも、俺なりに。
俺はだって、この俺でしか、ありえないんだから。
…んで、話はちと変わるが、そういうもんでない? 「笑い」って。
ちゃぶ台返し。
だから、何度も何度も何度も何度も云っている。云ってきた。
能力と、性質なり人間性なんてのはまた、ぜんっぜん別のカテなんだって。
――まさにその、「一切を」相対化してみせる能力こそが、と。絶対の。
輪郭の曖昧な不定形のぷよぷよした自己。
65 :
吾輩は名無しである:2010/11/14(日) 22:17:45
サルトルの「地獄とは他人」て言葉は、こういうタイミングで
持ち出すと実に分かりやすいと思わないか?
66 :
吾輩は名無しである:2010/11/15(月) 00:12:48
つま先を見たら黒くてぶよぶよした死が転がってるだろ?
最近、美を求める心って読んだんだけど、なんか既視感があるんだけど。
教科書に載ったことあった?
68 :
吾輩は名無しである:2010/11/30(火) 19:17:47
もののあはれなんてのは当たり前に国語時間に習うもんさね。
>>68o are you Kyoto Geisha? Please tell me your reasoning Genji's bad means for adult.
例へば、かういふ言葉がある。「最後に土くれが少しばかり、
頭の上にばら撒かれ、凡ては永久に過ぎ去る」と。当たり前な
ことだと僕等は言ふ。誰かは、それを確かパスカルの「レ・
パンセ」のなかにある文句だ、と言ふだろう。
『ドストエフスキイの生活』書き出し
…いや、読んでないけどw
このまえ石原千秋の本を立ち読みしてたら
小林秀雄のことをボロカスに叩いてたな
石原だからwww
小林秀雄の文章は、一度読んでおくと、然るべき機に鮮明に思い出される。
あの玲瓏たる境地を体感した人なら、彼の言っていることが分かる。
わかった気でいるなんとやら♪
75 :
吾輩は名無しである:2010/12/02(木) 08:00:19
本居も小林ももののあはれに日本的本質論を読み取るのか
知らないが、これは仏教だな。小林は平家物語を愛読して
たろ。
ストア主義者みたいな雰囲気があるね。
江藤の『アメリカと私』に、プリンストンの教授連との会食の場で、
雑談まじりに自分の書いた小林についての評伝が一万部以上売れたと
話したら、目を丸くされた
というくだりがある。その教授は曰わく、「アメリカは大きな国だが、本質的に
プロヴァンシアルな国ですよ」(誰でもパスカルを連想する
場面だが)。
「いずれにせよ、彼はその本を読まないし、読む必要もないので
あった」(江藤)。
77 :
吾輩は名無しである:2010/12/02(木) 11:16:36
オタクの存在しない日本社会とか想像を絶するだろwww
意味がわからない。
80 :
吾輩は名無しである:2010/12/03(金) 08:30:54
>>77 国際スポーツ大会となると、有力なガイジン選手に、誰も知らない
ような日本人選手の印象を聞きたがる日本のテレビ局の迷惑な
インタビュアーみたいな奴だろ。
81 :
吾輩は名無しである:2010/12/03(金) 10:37:11
対談でマルクスはロシア的でないとか何とか言いながら左翼に
否定的な態度を取ってるけど、ナポレオン戦争の煽りで生まれた
ナロードニキ派とダーウィン後の新世代との対立とかまでは
踏み込まないのな。
進化論的な地平を踏み破るのは難しい。ベルグソンに固執して
るんでは尚更だ。
生き生きとした嗜好と溌剌たる尺度ってのは、ショーペンハウアーみたいなのの事をいうんだよ
83 :
吾輩は名無しである:2010/12/03(金) 11:59:23
対談の教養、見識の広さ深さは羨ましいけどね。
江藤も『アメリカと私』でちょっと触れてるエドマンド・ウィルソンの
『憂国の血糊(邦題:愛国の血糊)』の主題は、戦争のメロドラマ化だ。
しかし、キリスト教精神に貫かれたストウ夫人の『アンクルトム』が
覆い隠しているのは、実はアメリカ南北戦争の背景としての
ダーウィニズムを土台にした近代化ではないかという問題もある。
江藤辺りだと科学は分からないで済ましちまうが、小林みたいに
良く考える人間には、現代的な世界観における科学の地位という
のは看過出来ない問題だった。
小林秀雄って日本の文芸批評家だけが
持ち上げるよね。世界評価もないし、
日本の一般読者にもほとんど読まれてないし。
>>85 すいぶんまえから日本の批評家たちも評価してないよ
俺は批評家じゃないけど秀雄様を尊敬してるよ。
その評価してない人達も、当然世界で通用してないよ。
89 :
吾輩は名無しである:2010/12/04(土) 12:28:38
江藤がプリンストンでちょっとばかり講演した時は、結構、
興味引いたらしいけど。
「真贋」の分からん奴は小林は駄目だなwww
90 :
吾輩は名無しである:2010/12/05(日) 09:20:51
小林秀雄がなぜ評価されないか?
嘘ばかり書いているからだ。
誰も読んだことのないような、本をほんの一部分だけを引用する。
ところが、ちょっとした翻訳のニュアンスを変えるぐらいならならいいが、原文にはない一文を挿入するは、
果ては果ては、原文と全く反対の文章を書いて、「ルノワールが言った」と書いてしまう。
もう一度書く。小林秀雄には虚言癖がある。彼の書いている文章にはどれ一つとして信用ができない。
>>90 それは単に、翻訳が下手なだけじゃないか?
他にも2,3の本からの下手な翻訳を切り貼りして、自著としていた人もいる。
いずれにしても、原書が手に入りにくい時代だからこそできた話。
92 :
吾輩は名無しである:2010/12/05(日) 10:31:44
「真贋」で検索したらヒットするだろwww
内容の真偽なぞ大した問題じゃなかろう
94 :
吾輩は名無しである:2010/12/05(日) 14:13:43
小林は科学論が好きな方だったろう。昔は、そういう問題を熱心に
考える人間は多かったようだし、文理を横断して思考する者も
珍しくはなかった。
95 :
吾輩は名無しである:2010/12/05(日) 14:18:25
冷戦期を通じて西側はキリスト教ヒューマニズムとプラグマティズムで
塗り固められてしまって、冷戦が終わるや袋小路の状態が露呈した。
小林が死んだのは83年、我が国が浮沈空母宣言をした年だ。
ポストモダニズムはキリスト教の水割りだからな。
科学的世界観と矛盾しない範囲での。
97 :
吾輩は名無しである:2010/12/05(日) 16:43:35
嗚呼、物言えぬ社会よ〜
とか嘆きながらエコノミック・アニマルやってりゃ良いさ〜
ブヒ
99 :
吾輩は名無しである:2010/12/05(日) 18:06:48
どうせ一度きりの人生なんだから好きなことやって死のう〜
とか、腐った魚みたいな目で言え。何やっても一緒だけどなwww
100 :
吾輩は名無しである:2010/12/05(日) 20:47:54
近視眼的に考えたらニッポンチャチャチャってやってりゃ良いのか知らんが、
それだけやってても、どうせこんな時代はロクな結果にならん。
俺は違う地平の問題を見てるんで、あんまりコミットしたくねえ。
101 :
吾輩は名無しである:2010/12/06(月) 23:53:43
自分の節を曲げないことが生きることの意味それ自体だと
いうことはあるかも知らん。
102 :
吾輩は名無しである:2010/12/07(火) 00:37:30
(宿命といふものは)我々の灰色の脳細胞が壊滅し再生すると
共に我々の脳髄中に壊滅し再生するあるもののようである。
ランボオ(T)
身体感覚だ。
103 :
吾輩は名無しである:2010/12/07(火) 00:46:19
大乗起信論の燻習の概念に似てる。
社会的自我と霊的な自我の界面の感覚なんだが。
104 :
吾輩は名無しである:2010/12/07(火) 01:02:12
貴様らにゃどうせ分かるまい。
ハッ!わかんない
小林秀雄が書いてるのは評論でも批評でもない
ただの随想、随筆だろって、言った批評家がいたな
108 :
吾輩は名無しである:2010/12/07(火) 11:20:54
動物並みの自然体の感受性だけでは、文明は
ここまで発展しなかったかも知らんぞ。
野生の動物が機械的本能だけで動いているなんて話も、
たかが西洋病に過ぎないが。
109 :
吾輩は名無しである:2010/12/07(火) 12:41:34
>>106 そんなこと大昔から言われてることだし、
だいたい本人が自分はエッセイストといってる。
110 :
吾輩は名無しである:2010/12/07(火) 13:38:34
大昔と言ふと少なくても古墳時代よりか以前のことである。
如くあるに、小林秀雄は昭和の人である。すると、昭和時代の小林といふ人の
ことを、古墳時代以前の人が論評してゐるといふことになる。
111ゲット
あちこちでキリ番ゲットしてるのは俺じゃないので。
そこんとこよろしく
114 :
吾輩は名無しである:2010/12/07(火) 19:08:17
小林秀雄を殴ってやりたい
やめた方がいいですよ。
116 :
吾輩は名無しである:2010/12/09(木) 00:04:49
『ヒント』の「読者」で語られる「批評の要諦」なるものは、
スーパー読者の極意だな。
117 :
吾輩は名無しである:2010/12/09(木) 01:47:30
如くあるに
118 :
吾輩は名無しである:2010/12/29(水) 01:58:44
黒澤や小津みたいな同時代映画は小林は見なかったか知らん。
119 :
吾輩は名無しである:2010/12/29(水) 04:26:35
河上徹太郎との対談で、昨今の日本人が最早、宗教的な問題に
悩まなくなりつつあるのを半ば諦め気味に慨嘆しているのは、
1960年代半ば。
120 :
吾輩は名無しである:2010/12/29(水) 11:14:30
人が科学を好むのは科学が死を分子構造の問題に解体するからだ。
テスツ
最近出版された小林秀雄論というと、橋本治の「小林秀雄の恵み」 中野剛志
「考えるヒントで考える」 越知保夫「小林秀雄」 結構まだ継続的にでてるね。
早い内に父を亡くした小林にとって白鳥は、どこか父の面影を
追うが如き存在だったか知らん。小津の作品に登場する笠智衆
風の飄々とした感じで。
なんだっけ? 「俺が認めてる文学者は柳田國男と正宗白鳥だけだ。」 小林は
正宗白鳥についてはごく初期のころから、白鳥の死後にいたるまで、ずっと評価
してたね。 まあ、後人にとっては、小林の白鳥への高評価は訝しい、あるいは
異常なものとしか目に写らなかったようであるけれど。
丸谷才一は白鳥なんてどうでもいいといってたし、柄谷も白鳥については何かの
ついでに言及していたけれど、どうでもよさそうだったし、浅田も「思想と実生活」
論争はくだらない、っていってたね。
同時代人としての小林に対する間合いってもんもあるか知らん。
ボクなどは、小林が死んだ頃にやっと中卒で、アニメなど
見とった。
「同時代人」であるって、そう簡単にはいえないとおもうなぁ。
小林と正宗も、小林と柄谷、丸谷、浅田も。 少なくとも「同世代」ではないな。
小林と白鳥の対談だと漱石が同時代人で出てくるからなw
しかし、墓の中ならまぁ許せても目の前に立ってると
そうも行かないってことはあると思うよ。
>>127 小林白鳥の対談だと、あのふたりの関係は先輩後輩という関係性でみるのが
いちばん適切というか。 対談では漱石も評価してるけど、同時代人としての
評価であるって念押ししてたかなぁ。 というより明治から同時代までの文学者に
ついての歴史的総浚え評価というところだろう。 同時代的視点だけにこだわってる
わけもなく。 そもそも明治以前の文学だって俎上にあがってるわけでね。
>>128 まあ、目の前にいても世代が違うと、腹を割って話せないんだ、などとも白鳥は
対談で述べてるねw
「あの人は」で言うだろ。記憶の風景だよ。
>>130 「あの人は」といったから、同時代人認定? それはそれで想像力ありすぎな
解釈って気がするなあ。 まあ、文学的想像力をもってすれば、時代の壁など
なんの苦も無くのり超えられると、確かに小林はいっていたけどさ。
歴史になってしまった人を「あの人は」とは言わんな。
私らは「漱石は」と言う。どこか抽象的な態度だ。
時間についての小林の考え方はベルクソンの影響を深くうけて、独特なものが
あるからなあ。 過去から未来へと飴のようにのびて流れていく時間、そういう
無機質で均質な時間というものを無条件に前提するから歴史というものが可能に
なるって、そういう認識があるから、合理的歴史を至高の実在とする認識とは
敵対するんですな、認識論的にw
まあ、「あの人は」という発言のかけらから、ここまで風呂敷広げる必要があるのか
書いてしまったあとでは気になってくる。
しかしまあ、小林秀雄独特の時間への感性というのは、弟子筋と目されているので
受け継いているのは見当たらないように思うな。福田恆存にしろ江藤淳にしろ大岡昇平に
しろ。 それが、あまりに特異で反常識的な時間感覚であるからだろうか。
戦前派だとか戦後派だとかいう医者の符牒を信用する方かい。
>>135 サルトルについてのエッセイにでてきたよね、その言葉。
いい言葉だ。
白鳥は明治の始めの生まれで漱石の現役時代には既に若手の
小説家として評価されていた。没したのは戦後の60年代だ。
明治の開国から敗戦まで七十七年、敗戦から今日まで六十余年。
敗戦で、この国は時間が止まってしまったようでもある。
白鳥ならずとも、つまらんつまらんと言いたくなる時も
あるが。
壷の中から。
確かに誰もいない暗闇にいるようだ。
暗闇の中で亡者だけがひしめいとるわい。
友達が欲しいのか。和気あいあいとやりたいか。
ベルグソン云々よりも、宗教的感覚だろうな。近代主義的な
時代感覚のくびきから逃れられるには、そういう資質がいる。
競争が進歩を促す、というような進歩主義的な感覚に小林は
全くかぶれてないではなかったか知らんが、それだけで
万事を解釈しようとする程、浅はかではなかったろう。
競争や自然選択は結果として生じるのであって、それ自体を
目的にしてしてしまった結果、何もかも転倒した考えに
はまっているのが現代と言っても過言とも言えまい。
>>141 見栄を張るなよw なーにが、モジャモジャとだ(口の端で薄っすらと笑う
競争をすれば進歩するってんで争い事を無闇に増やして
退歩するのがこの時代だ。話にならんね。
アメリカが世界を支配しないとアメリカが崩壊するって
大騒ぎしとる。笑い話にしかならん。
>>137 小林流に解釈すれば、「つまらん」というのは、「面白いものはないか」という意味
なんだそうで、面白さに貪欲だからこそ、面白いものを探し求めると、そういう仕組
なんだそうだ。
>>143 まあ、宗教についても小林はあちこちでコメントしていて、自分は信仰ももっていると
いうが、キリスト教とか神道とか仏教とか特定の宗教の信者というわけではなかったね。
個々の宗教のあれやこれやの教義については興味はさほどなかったろう。宗教の
本質的意義なるものをつかもうとしていたというべきか。 それでベルクソンにもどると
ベルクソンの哲学には宗教論もあるし、ベルクソン自身カトリックだったし、小林の宗教
観念についてはそちらからの影響も当然考慮する必要はあるな。
149 :
吾輩は名無しである:2011/01/04(火) 03:02:48
>小林流に解釈すれば
小林はそう思いたかったってことな。
>>149 俺がそういう風に解釈したのさ。それで君はそれに従い、小林がそう思いたかったと
君は解釈したと。 …いや実にどうでもいい回答だな。
最近出版された小林秀雄論にまたいくつか追加。
「小林秀雄の昭和」 神山睦美著
あと、佐藤公一によるいくつかの小林秀雄論
152 :
吾輩は名無しである:2011/01/05(水) 01:46:36
君はクリスチャンだね?
そうだろう。
>>150 >俺がそういう風に解釈したのさ。それで君はそれに従い、小林がそう思いたかったと
>君は解釈したと。 …いや実にどうでもいい回答だな
なんだか、良い文章だと思います。
白鳥って筆名と裏腹に、作品では硬骨漢な人物を
書くのでね。小林が白鳥の態度を「ふん、才能なん
て」って態度で書いてるって評してるのはそういう
こと。「ふん、文体なんて」って文章を書く。
あらくれとは違うのだな。
・・・で、なんとかがかんとかである。
とか平気で書くのな。戸坂潤の悪文
もそうだけど。
158 :
吾輩は名無しである:2011/01/06(木) 01:04:51
かの「本能寺の信長」なんて短編は刃のギラリと
したような作品だが、出だしなんて実にいい加減な
調子だった。
コピペですよ・・・
国の古を慕い、その栄光を楽しみ、もしくは国家の屈辱を悲しむのみな
らず、よく自国の罪過を感覚し、その逃避せる責任を記憶し、その蹂躙せ
る人道を反省するは、愛国心の至れるものにあらずや。(中略)我が国の愛
国心なるもの、(中略)滔々たる天下歴史に心酔するにあらざれば、悲歌慷
慨、外に対して意地を張らんとするに過ぎざるなり。自ら国家の良心をもっ
て任じ、国民の罪に泣くものはほとんどまれなり。甚だしきはこの種類の
愛国心を抱くものを非難するに国賊の名をもってす。良心を痴鈍ならしむ
るの愛国心は亡国の心なり。これがために国を誤りしもの、古今その例少
なからず。
(植村正久「三種の愛国心」『福音新報』明治二九年六月二六日号、『植村正久著作集』1所載による)
信長は、他の侍女に奉仕されて、身体を拭ひ、湯上り浴衣を
着て、頭髪にも櫛を入れた。
(吉か凶か汝<な>がいのち、鬮<くじ>の文字にて極められる。汝
がいのちを賭にして、くじを引く男<お>の子あり。見よ、今くじは
神前にて引かれつつあり、吉か凶か)
湯上がりのすがすがしくなつた信長の頭に、何処からか、かう
云ったやうな小唄が聞こえて来た。小唄でありながら、声音に棘
を含んでゐた。
「あれは誰の声だ。何処で唄ってゐる?」
彼は侍女の千鳥に訊ねた。
「何で御座いますか。わたくしには何の唄も聞えはいたしません」
小林が創作文芸を余りやらなかったのは、
ランボーの影響だろうな。かと言って文芸
の世界から離れることも出来ないで、独自
の世界を展開した。
163 :
吾輩は名無しである:2011/01/07(金) 00:28:22
小林も明治の男のはしくれみたいな
ところはあるか知らんね。
しかし明治というのは進歩的自由主義の
時代でもあるから、一方的に古風なだけ
でもない。
164 :
吾輩は名無しである:2011/01/07(金) 14:47:07
典型的な厨房が好む作家さんだよな
この人の陶芸などのコレクションは素晴らしいが、作家としては低レベルの作品しか残してないし
それをアホなファンがありがたがってる
165 :
吾輩は名無しである:2011/01/07(金) 14:58:01
当時か陶芸家で有名料亭経営者の魯山人(漫画「美味しんぼ」の海原雄山のモデルになった人)などから
小林秀雄はバカにされまくっていたのだけど
魯山人の評価の別れる人だけど、魯山人の作品や影響力はこの先もずっと残っていくだろうけど
小林秀雄はこのまま忘れ去られていくだろう
あれ!?こんなとこにタニシ落ちてる!?
>>163 明治生まれって言っても俺のおばあちゃんとあんま変わらないよ。大正生まれみたいなもんじゃん。
確かに小林秀雄は生前から一流の人たちからは評価されてなかったよね
何さ一流の人って。文学者としては超一流なんだよ。美術畑とか音楽畑の人からディスられてるだけじゃん。
170 :
吾輩は名無しである:2011/01/08(土) 03:35:20
>>165 戦時中にゼロ戦屏風描いたりした
オジャマイヌ犬みたいなお爺さん
だろw
171 :
吾輩は名無しである:2011/01/08(土) 04:23:44
おまえら、アマデウスの上映って、
小林の没年の翌年じゃん。
仕掛けてやがんな〜
オオオー オッオオ
オオオー オッオオ
オオオー ッオッオッアマデウス!
>>160 中島河太郎編集の白鳥全集が100円だったらとびついけれど。
>>161 読んだことあるはずなんだが、全然覚えてない… それとも読んだという
記憶があやまりだったか。
>>162 つーか、詩人としての才能は中原中也におよばないと自覚してたから
詩人の道は歩まなかったというのが、文学史的常識だとおもってたんだが。
とはいえ、小林の批評は下手な詩よりはずっと詩的喚起力に富んでいるよなぁ。
批評文読んで次に小説読んだら激ヘタで笑った
小説が下手というのは小説の才能なかったんだろうな。 もっとも本人の弁明によれば
小説というのが可能になるのは、安定した、あるいは安定したと見える社会に作者が
生きていればこそ可能になるので、日本社会はまともな近代小説かける社会じゃなかった
という話になるんだな。 「私小説論」とか非常にわかりにくい評論として有名であるが
あれも結局、小説とその基盤としての社会というものを論じたものだ。
179 :
吾輩は名無しである:2011/01/08(土) 11:18:28
>>173 モーツァルトの遺骸を無造作に墓穴に
放り込む場面、強烈だろ。
分からんもんだぞ。
大学入りたての頃小林秀雄が流行りで、ふむふむ「疾走する悲しみ」(だっけか?)
ね、いい言葉だねえ…と思ったりしたものだ。
だけど小説の才能は神様から与えられなかったわけで。
その時代の社会とはあんまり結びつけたくないんだ。
あと、睡蓮の評論も目茶苦茶面白かったな。
あれは青春の楽しい読書ってとこか。
むしろ、小説形式に頼ってつまらない小説書いている、現代の自称小説家を何とかしてくれw
>>182 「近代絵画」の「モネ」か? あれは確かに面白い。 視覚のみによって生きる人間の話だ。
「近代絵画」で一番面白かったのは、「ピカソ」だなあ。本人は失敗作っていってるけど。
>>184 ピカソ? もう一度本棚から探し出して読もうかな。
ところで小林秀雄といえば中原中也のファンとして言いたい。
女を中也から取っちゃうなんて、許せん!w
187 :
吾輩は名無しである:2011/01/08(土) 12:05:34
>>178 >「私小説論」とか非常にわかりにくい評論として有名であるが
ああ、盆栽どもにゃ分からんことってあるな。
>>186 長谷川泰子だっけか。その女性についての記憶の断片は、小林の評論では
ときどきさりげなく触れられているね。小林にとっては、どうも非常に苦痛に満ちた
記憶であったらしい、推察するに。
>>187 いや実際わかりにくいと思うよあれ。小林自身が自身と社会との距離感をうまく測定
できていないところがあるというか。
そら、科學だ。どいつもこいつも又飛び附いた。肉體の爲にも魂の爲にも、
―― 醫學もあれば哲學もある、 ―― たかが萬病の妙藥と恰好を附けた
俗謡さ。それに王子樣等の慰みかそれとも御法度の戲れか、やれ地理學、
やれ天文學、機会學、化學・・・・・・
科學。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだらう。
これが大衆の夢である。俺達の行手は『聖靈』だ。俺の言葉は神託だ、嘘も
僞りもない。俺には解つている、たゞ、解らせようにも外道の言葉しか知らない
のだ。あゝ、喋るまい。
『地獄の季節』小林訳
ま、小林は「あの女からとうとう逃げ出した」と言っているからには
泰子をもてあました、そして折角奪った女なのに女から這々の体で「疾走した」のだ。(泣)
「外道の言葉」(笑
>>189 「地獄の季節」の翻訳は当時は斬新だったんだろうが、今読むと古臭く感じるな。
小林がランボーについて書いた作品で一番好きなのは、ランボーIIIだな。
そんなペラペラした感覚じゃ、どんな訳だって一緒だな。
>>193 そ、フランス語勉強しないとダメかもね。
斬新さで読む詩なんてのは、三日で飽きられるだろ。
>解らせようにも外道の言葉しか知らないのだ。
こういうところは、『ヒント』の「読者」の章の「医者の
符牒」云々に反映されてるわけだな。
「地獄の季節」の翻訳では、
>>189の箇所もよかったけど、おまえら全員黒ん坊と
罵倒するところも、印象に残ってるね。
批評家はすぐ医者になりたがるが、私は
患者としてのまずい訴えを信用することに
しているって一文。
>>198 ああ、「外道の言葉」とは「患者の言葉」ってわけね。そういう解釈はありだろうな。
患者の言葉というか患者の訴えか。
小林の訳といえば、「老婆の絶望」と普通は訳されるのを「ババアの絶望」と訳したって
話が有名だな。「外道」って元の詩ではなんて言葉なんだろう。
世間の言葉は昼行灯のお喋りのために
最適化されているからな。
>>201 それにたいして日常言語を異化するのが文学と。
小林だって「ババア」とか口にするのは、本当に私的な場面だけだろうね。
「ババアの絶望」っていう訳は文学かな。 微妙な気もするなぁ。
>>199 いや、そういう分かったつもりで利口ぶってる言葉のこと。
いちいち規制すな。
>>204 何いきなり怒ってるのw?
>>196の意味がわからなかったから、見当をつけただけじゃないの。
そんなら、
>>196みたいなひとりよがりの発言最初からやんなよw
規制? いったいそれはなんのこっちゃらほい。
小林だって、書かずにいられなかったら小説だって書いたろ。
あらかじめ創作意欲を減衰させられているところはあると思うね。
>>206 そう、書かずにはいられなかったから、小説は書いたのさ。「蛸の自殺」とか
「一つの脳髄」とか。 でもうまく書き続けられなかったんだな。
のちの安吾との対談で振り返っていうには、「滅茶苦茶になって」書けなかったと。
志賀直哉がうまく小説書けて、小林が書けなかったのは、才能の違いか環境の
違いか時代の違いか。
『感想』の中で語られているソクラテスのダイモーンってのは、
こういう感覚なんだと思うのさ。
神秘家とは、偉大なる実践家と言われるのが通念になってる。
夢想家とは違うのだよな。
>>210 Xへの手紙か。俺もはじめて読んだときは、とても面白かったが、今考えると小林の
自意識へのこだわりが強くですぎてる気がするな。
まあ、時間がたつにつれ、どの作品が好きか、どの作家が好きか、次第次第に
変化していくということはよくあることだ。現在、好きな作品があるなら、それを
徹底的にしゃぶりつくすのが吉だろうよ。
>あんなものは小説にならねえからって言ってたね。
小林はそういったが、小林が小説にならない、と考えた経験を小説化していったのが
その後の小説というものの展開であった、ともいえないか、などというアイディアを
思いついた。
>>212 >自意識へのこだわりが強くですぎてる気がするな。
そこが好きなんですよ!
>その後の小説というものの展開であった、ともいえないか、などというアイディアを
むしろ小説にならないような題材を小説にするのが才能ですよね。
>むしろ小説にならないような題材を小説にするのが才能ですよね。
同意。
若い時代は自分のスタイルを模索するもんだろ。
小林が創作文芸を自分の主な仕事にはしなかった
のは、結果として間違いではなかったとは?
>>214 thx!!
>>215 小説を書かなかったのは間違いではなかったね。自分の才能を見誤らなかったという意味で。
その代わり、文学界や創元社を立ち上げたんだろ。
やはり白鳥は良いなぁ。「入り江のほとり」の侘びしさの塊みたいな
辰男が、しみじみ最高だ。
>>213-214 お前らには分からんだろう・・・。
まるで俺みたい。
220 :
吾輩は名無しである:2011/01/10(月) 02:46:20
枯れたオタクにもお勧め。
>>218 俺この前白鳥の墓参りしてきたよ。どこにあるかわからんだろう…
>>218 「生まれざりしならば」と一緒に岩波文庫に収められていたような。
「入り江のほとり」 。確かになんの感動もなく読み飛ばした記憶しかない。
ある作品に感動できるかって、八割方偶然に左右されるという気がする。
読者の生育環境経済状態にはじまり、人生経験や読書履歴や読んだ時の
体調や気分にいたるまでの諸々の偶然的要素に。本当の傑作だと、この割合は
もう少し下がるんだろうが。文学批評というのものは、この作品鑑賞を支援する
ことがその本来的意義なんだろう。小林による最後の白鳥批評である「正宗白鳥の
作について」は、そういう批評の教育的機能を果たすことを意図して書かれてるね。
マクロ的には自然主義運動の歴史的意義についての考察であり、白鳥の
自然主義的文学観と一般によばれるものを形成したものとして、島崎藤村や
近松秋江との交流もとりあげられる。藤村の人生における辛酸とか、近松と彼が
ひそかにつきあってた女との狂態がかもす哀愁などが示される。そういう支援がないと
作品だけぽんと置かれて感動しろといわれてもね、なかなか…難しいね。
>>221 白鳥は岡山生まれだそうだが、やっぱり白鳥の墓って岡山にあるの?
いんや。東京にありますよ。
>>222 うんうん、いかにも無縁そうな顔をしてるもんな。
226 :
吾輩は名無しである:2011/01/13(木) 01:26:31
>>224 へえ、東京にね…青山墓地にでもあるんかいな。
>>225 誰の顔が何に無縁なのか、その舌足らずのものいいじゃ
さっぱり他人に伝わらないね。まあ、「顔」っていう言葉自体は
小林の批評におけるかなり重要なキータームだけど。
「顔」という文学的タームの形成にもっとも小林が多く負って
いるのは、サント=ブーヴじゃないかと見当つけてる。
>>227 君の言葉は名医のメスのようになめらかだな。
嫌味だからな?
>>12 こういうのは、テキストを背景から切り離したがる
態度とは対極であるな。
小林は83年没だ。時代は雪崩を打つようにバブル
に向かった。
>>227 顔かあ。「俺の顔の悪口を言うな」ってぶちギレた現代作家がいるんだよ。あれには小林秀雄フレイバーを感じた。
何事も軽やかに受け流すのが
好まれる時代ですからね。
>>229 「嫌味」のひとことをつけて念押ししとかないと、それって普通に
褒め言葉だよねw それはともかく、「名医のメス」から連想される
ことといえば、「徒然草」にある「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、と
いふ。 妙観が刀はいたく立たず」なんてのだな。あまり切れ味が
鋭いのも良し悪しってことだ。 あとは「巧言令色鮮矣仁」とかね。
これはまあ自戒しなきゃならんところか。
>>231 ぶち切れたところに感じたの? 迷惑なフレイバーだなそれは。
いや「俺の顔」っていうメタファーにね。メタファーにも読めるところに。
私は医者の符牒は信用しないことにしてゐる。
>>234 単に自分の顔にめたくそコンプレックスもってただけじゃないの?
自分の顔というのは、コンプレックスの焦点になりがちの器官であるし。
自分の顔はまずいと思ってりゃ、やはりそれを直接いわれると痛いだろう。
ことほどさように、ひとの気持ちを左右する人間の顔というものであるが
その顔というものも角度をちょっとかえてみると、美男美女にみえたり
醜男醜女にみえたり、不思議なもんだね。 写真と実物では全然違う
ということもあるし、化粧前と化粧後でこれは本当に同一人物なのかと
いいたくなることだってある。 しかも顔には表情というものもあり、表情の
変化というのは顔の印象が固定されることに常に抵抗しているわけだ。
という具合に考えれば、自分の顔にもってるコンプレックスというのも
多少は和らいで、ぶちきれることも少なくなるんじゃないかなぁ。
>>235 よっぽど気に入ってるんだねそのフレーズ。俺もだけどさ。
でもまあ、岡潔との対談では、符牒、レッテルというのも、文学批評で
文学評論家がそれを使いこなせることができれば、それは有用なものと
いえるという風にもいってるよ。
道具に使われてる奴なんて珍しくもないがね。
>>237 円周率って何で割り切れないか知ってる?
ルベーグ積分の講義でも始めるつもりか?
>>238 近代の歴史主義にたいしても、心理小説にたいしても、小林はそんな風な
スタンスだったね。
>>239 無理数であるから… といえば十分なのかな。 それともこの回答は
不十分なのか。
>>240 小学生に三行レスで教えられないと駄目さ。
無理数も「出来合いの道具」だろう。
小林が保守っぽくサクラを語ると、ソメイヨシノなど
サクラの内に入らんと言って、山桜を愛でるのな。
そういうひねくれた態度で大衆迎合を避けたがる。
俺は北国の出だから、東京暮らしの時分は、街中の
ソメイヨシノも多少は珍しかったけれども、記憶に焼き
付いているのは、一人で山奥でたき火をして遊んでいる
時に出会った、満開の山桜だな。
一本だけ誰に愛でられることもなく、やや時期遅れに
咲き誇っていたが。
244 :
三浦:2011/01/14(金) 11:09:21
小林が感動した弘前の満開の桜はソメイヨシノだった気がしないでもない
青森くんだりまで出かけないとありがたみもないってわけさ。
>>243 今日出海との対談(だったと思う)では、たしかにソメイヨシノなんざ桜の屑
みたいなこともいっていたがね。あれは笹部新太郎という桜の専門家の意見を
そのまま流してるだけだろう。「さくら」というエッセイでは、そのへんの低級な
さくらだって、やっぱり綺麗、みたいな風に書いてたよ。
桜っていうのも、低級なのから高級なのまでいろいろあるから、桜の
真髄をしるためには、いろいろなところに旅行する必要はあるだろう。
ま、俺自身はあんまり桜に感動したことない。花より団子のひとだから。
とある講演では、笹部博士は桜を滅ぼす日本国を恨んでいる、憎悪している、などと
話してたなあ。そんなに恨みに凝り固まることはないんじゃないかと、そのスタンスに
対してちょっと批判的な言も漏らしていたね。
>そのへんの低級なさくらだって、
たかが符牒も人次第か。
>>236 そんなんじゃないんだって!あなたは小林秀雄様に対する信仰が足りないよ!
>>246 俺は花より薬だな。
>>250 信心は盲目的崇拝にもつながるからねえ。盲目的崇拝というのは批評では
ないんだよw
花より薬か。風邪薬とかビタミン剤とか健康食品とか?
>>247 傾聴に値する見解であるのは確かだな。
褒め殺しみたいに枯らされることもあるよ。
>>252 まあ、褒め殺しにあったくらいならまだマシなのかも。 なんせ小林の周りは
切られた連中の屍で死屍累々というのが、もっぱらの評判であったし。
>>251 小林秀雄を全肯定するなんて出来ないよ。でも批判は坂口安吾の批判で充分だよな。
法律で摂取が禁じられてる薬物なら何でもOKです。
>>255 「教祖の文学」? あれはそれなりにいい批判とはおもうが、あれでおしまいじゃ
もったいないな。 坂口があれ書いた後、小林と坂口は対談やってて、その内容も
結構おもしろい。 梅原龍三郎をめぐる議論など出色の出来だな。
>>253 小林に接ぎ木してた奴らが根本から
やられたんだろ。
>>256 俺はむしろ「教祖の文学」と「伝統と反逆」はセットで読まないと意味がないと思ってるよ。
俺は昔テキスト版を作って読み上げソフトで音声ファイルを作った事がある。伝統と反逆、最高ですよ。二人ともかっこいい。
>>257 接木してた連中だけがバサバサやられたわけじゃあんめー。
そんなんだったら、論戦をやってた小林にほとんど誰も魅力
感じ無いよ。
>>258 そうだね。
>>259 そんなん、ようやったなおいw
聴いてみたい?うpして欲しい?
下らん枝が接がれたり変な虫が
たかったり、よくある景色だからな。
接ぎ木させて貰った相手と競い合おうとか張り合おうとか
する奴は滅多にいないと思うけどね。
聴いてみたいって言えYO!!
>>264 小林の批判者で有名なのといえば、坂口安吾のほかにも、中野重治とか
青山二郎とか、戸坂潤とか、ほかにもまだまだたくさんいるだろう。
こいつら全部小林に接木してた連中にすぎないって、そりゃ言い過ぎ
じゃねーのw
>>265 いわないよーw
もっとちゃんとする予定だったんだけど、もとのテキストファイルをなくしてしまった。
スキャンしてソフトでテキスト化したんだけど、間違いが多い。二人の声を変えたい。
これはパート2。パート1はもっとひどいけど、聴きたい?
「サカグチ」を「サカロ」と読んでいる箇所が非常に多い。
いやもう、出だし聞いただけで、怖気づいてしまったよw
怖気づいてんじゃねーよ!!
小林秀雄の魅力って何なんだろうな。イマイチよくわからん。
全作品読んだけどさ。
東京オリンピックのテレビ放送は誘惑に抗しがたくて、
かじりついたらしい。まぁ、正直だな。
文壇野球だ文士劇だって色々やって交友も広くて、
孤高の人一点張りというわけではなかった。
俺様みたいなウルトラど偏屈野郎とは違った。
一家の長だと、世捨で人でいるわけにもいくまいし。
あれだ、第一次大戦終了後の西洋進歩主義の動揺期
が二十歳代前半で、ランボー
>>189に強い衝撃を受けた
のは時宜にかなったことだったと考えられるわけだ。
これが後に「近代の超克」座談に繋がる。
>>271 だって、まったく平板なイントネーションで非音楽的な調子でいつまでも
会話されてもちょっと聞けないし。
>>272 まあ、何が一番魅力的といわれれば、詩人としての表現力、詩的喚起力かなぁ。
批評であり詩であるようなもののね。 それで読めば誰でも必ず感動するという
もんでもない。いろいろ偶然の要素が左右するんで(
>>222参照)読んでもちっとも
面白くないというなら、もうしょうがない、他をあたるしかないよねw
>>273 ド偏屈かあ。子曰、不得中行而與之、必也狂狷乎、狂者進取、狷者有所不爲也。
>>274 ランボー経験はあまりに伝説化され特権化されてるからなぁ。まあ、普通に時代の
激変期をいきたと考えておいてもいいよね。
そうそう、お前らはそんな調子で消費するのな。
俺にはこの世に居場所はない。死ぬまで世捨
て人でいる。
超克座談でも、ずっと黙ってて、口開いたら科学論
についてズバっと言う。
『ドストエフスキーの生活』の冒頭みたいに自分を
突き放して見ることが出来る人だったろうね。
>>272 全作品読むくらいだから好きなんじゃないの?
>>275 じゃああれ?俺が朗読したら聴いてくれるわけ?
>>276 「地下室の手記」の主人公みたいだ。毒吐きまくり。
>>277 うー… 聞ける声だったらね。
>>278 松本清張も小林秀雄には好意もってなかったみたいだね。
清張の学歴コンプレックスってすごいから、小林が東大出という
だけで、好意をもてるはずがないのはわかるが。清張は日本文学
大賞の選考委員やってて、小林の「本居宣長」が候補になったとき
その内容に反駁するため、資料をひとかかえして選考会場にあらわれた
なんて話があるって。対抗意識がすごいね。清張の出世作になった
「或る「小倉日記」伝」を坂口安吾が強く推していたということを読んで
ああさもありなんと思ったね。
我が友サリエリ?
サリエリといえばスキャンダル。
天才のスキャンダルにひとは惹きつけられる。小林も天才のスキャンダルや
ゴシップをうまく利用して作品をしあげてるよね。「モオツァルト」がそうだし
「ドストエフスキイの生活」も「ゴッホの手紙」にしても。
ランボー詩集後書きの、ヴェルレーヌがランボーを
撃った事件の、「(二人は)各々、情熱の化学に忙し
かった」云々は名文だね。
小林秀雄の文は年を取ってからのほうが好きだな…
私小説論とかXへの手紙は素直に読めなかったし内容も忘れた。
>>282 ランボーとヴェルレーヌの事件、あれもスキャンダルだよね。
>>283 本人も若い時の自分の文章自分で読むと、何言ってるのかさっぱり
わからない、という風にいっていたね。
総合して考えて見ると、バブルボケの
時代ってのは小林の評価はゼロだった
のだよな。
90年代もずっとそうだっけ?
一旦忘れられて、復活した。って感じ。
取り上げたのは福田和也とかロクでもない連中だが。
昔の自分のものは読みたがらないってのは、
物書きとしちゃ普通だろ。敗戦挟んでると尚更
だ。本人は関係なさそうに言うけど。
東京創元社ランボオ詩集は、平成元年15版で、
今思えば再版間もなく買ったんだけど、旧字体で
検印も朱肉が向かいのページに滲んでて、古文書
でも見つけたみたいだったね。
>>285 いくらなんでもゼロってことはないだろうが… ニューアカブームの頃も
小林秀雄、徹底的に批判されてたね。
>>286 福田和也は、小林にばっかり掛かり切りというわけでもなし、もっと
手広くやってるからなぁ。福田和也が小林を再発見したとかそれは
なさそうだな。
>>287 戦争挟んでるから読み返せない、ということはあるかなあ。特に戦前戦後で
転向してるともいえないし、そのあたりはあまり関係ないような… そのへんに
ついては橋本治がかなり綿密に分析してたな。
>>288 俺も古本屋で小林の本買ったら、小林自筆の贈呈文が添えられていたのを
見つけたことがあったよ。
創元社は立ち上げに小林が関わってて、
そういうのを意固地に出してたのな。
ニューアカ流行は80年代だろ。
小林って殺生石が好きだったのな。
ニューアカはおフランス系思想が軸だっけ。
アメリカに思想を求める程には、イカレては
なかったとは言えるけど。
フランスのポスモダはマルクス主義的近代性に
対峙するように生じて来た、ポスト・サルトル思想
とでも位置付けるべきか。ブルジョア・ニヒリズム
って言い方もあるけどw
小林はサルトルに拘ってたな。
拘ってないでしょう。存在と無も読まなかったんでしょ。
小林は灯台仏文だしな。サルトルの背後に
ドストエフスキーが見えると三島との対談で
言ってたぞ。
「ヒント」でなかったかな。戦前には資料不足で
分からなかったドストエフスキーの革命家として
の詳細を知って、やや驚きを以て紹介してる。
して見ると、サルトルのような人物も小林には
全く無縁な存在であるとは限らなかったと。
大岡昇平との対談でカミュとサルトルについて軽く論じてるよ。
昔、それで小林がカミュの『異邦人』よりも『ペスト』を
評価しているのを、後者には「無常感」が漂っていて、
戦後だし云々といったら、何故か怒り出した奴がい
たなw
小林は偏見を嫌う性格ではないか? イデオロギーは
苦手なタイプ。
『異邦人』はさる右翼作家が珍歩小説に翻案して
ばらまいて、世の性モラルを大いに乱したりした
せいもあるか知らんw
偏見にアグラをかいているようなニブいアタマでは
殺生石みたいに怖くはなれない。
>>299 最悪のコラージュだよね。その最悪な感じが新しいとか言って受け入れられたんだろうけど、
今や自分が文学代表でございって顔してやがるのが腹が立つよ。
トシは取りたくないけれど〜(ベベン
ってなもんでさ。
石原を殺して芥川賞選考委員に大江を入れろ!
「 龍哉が強く英子に魅かれたのは、彼が拳闘に魅かれる
気持と同じものがあった。
それには、リングで叩きのめされる瞬間、抵抗される人間
だけが感じる、あの一種驚愕の入り混じった快感に通じる
ものが確かにあった。」
こういう性格なんだろな〜
チンコに灰皿投げつけられて喜んだり?ほんとバカじゃねえの。
いや、文学としてはアリかも知れないけど、
中心に置かれるとアレだと思うね。
異邦人論争が昭和26年、「太陽の季節」は
5年後?
>>290 ニューアカブームのあとの90年代って、なにかあったっけ?
思想的、文学的な運動。
>>291 殺生石が好きというより、白鳥が好きなんだね。それで白鳥の文章は
殺生石みたいだと。
>>295 いってたねえ。それでドストエフスキイの人物からは肉感性、「人間の変な
体臭」を感じるけれど、サルトルの小説の登場人物にはそれを感じないと
そういうことをいっていた。それだけでもうサルトルの価値って小林的には
半減するんだよね。
>>297 「フランス人の計算趣味がわからん」ってなこといってたね。
>>298 カミュの「ペスト」についての感想を書いてるな。「カミュの作品は
フランスのモラリストの伝統にたっている。」という風に書いて、まあ
肯定的な解説なんだけど、よくよく読むとかなり厳しいこと書いてあるんだよね。
メカニズム、機械仕掛けで駆動されている小説である、みたいな不満も漏らしている。
これはサルトルへの不満と同型のもんだな。
石原は小林と何回か会ったことがあって、昭和の偉大な文芸批評家との邂逅を
特権的に語るんだけど、小林自身は偉大な文学者というのは、会って話を聞いても
なんにもなりゃしない。作品がすべて、って考え方だからな。こういう考え方からすると
小林との邂逅を語る石原の語りの特権性も無効化されてしまうと、こうなるわけだ。
第一文学者として会ってないでしょ。小生意気なガキの相手をしてやったって感じで。
>>310 まあ、小林は石原の小説をたぶん読んでなかったろうね。それで石原も
小林の作品については、ほとんど読んでない・読めない旨書いてますな。
で、交流を自分のステータスとして語るんだよね。三島とか中上とかと同じ利用の仕方をしようとする。
313 :
吾輩は名無しである:2011/01/16(日) 11:22:16
>>307 ニューアカはともかく、過激派ユダヤ人のソーカルに
ポスモダはやられたな。
めぼしい動きはないねえ。
>>312 石原が三島との交流をステータスとして語っていたのは知ってるけど
中上もそうなんか。
>>313 ポストモダンがダメになりゃニューアカもだめじゃん。親亀こけたら子亀もこける。
315 :
吾輩は名無しである:2011/01/16(日) 11:42:27
760 :吾輩は名無しである:2011/01/15(土) 06:19:37
ふぐすまさんIPアドレス 115.163.139.152
ホスト名(偽装)
=烏賊娘 ◆42euzUlXSM
=吹雪饅頭
=ヘ(^q^)ヘ村上春樹 ◆m0yPyqc5MQ
=(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ
=サザンカ
762 :発狂饅頭(自演中) ◆42euzUlXSM :2011/01/15(土) 06:34:00
オッス! オラ、吹雪饅頭!
ただいま鋭意発狂中でゲソ!
438 :吾輩は名無しである:2010/11/05(金) 22:54:44
どうしてトリップが割れてるのにトリップを変えないの?
痛い発言があるたびに「それは俺じゃない」と言ってるよね。
この状態だと自分の発言だとしても間違いに気づけば後から他人の責任にできるよね。
どうしてこんな卑怯な状態で書き込みを続けるの?
357 名前:ヘ(^p^)ヘ村上春樹 ◆m0yPyqc5MQ :2010/12/28(火) 21:45:30
大麻とかコカインとかMDMAとかやってますけど、他にはしてませんよ。善良な一市民ですよ。
200 名前:ヘ(^q^)ヘ村上春樹 ◆m0yPyqc5MQ :2011/01/15(土) 23:17:51
でも東先生がウンコじゃないか?って言ったら全然ウンコなんですけどね。
503 :ヘ(^p^)ヘ村上春樹 ◆m0yPyqc5MQ :2010/12/31(金) 13:14:19
,,,,,,,,,,,,,,,
/ ,,,, ,,,,\
| ^ ^ |そりゃスゲエ今度産むとこ見せてよ
| ⊃ |
http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/academic/100930/acd1009301001003-p1.jpg \ o / 「ね、ここにいる人たちがみんな マスターベーションしているわけ? シコシコッって?」と緑は寮の建物を見上げながら言った
316 :
吾輩は名無しである:2011/01/16(日) 11:45:29
90年代はナチズムの焼き直しみたいな
奴らが増殖して、同時テロ後にターボ
かかってだろ。
>>316 90年代というのは湾岸戦争でもって開幕したといってよさそう。
その余波、影響はやはり大きいね。
いや、サルトルは中味がドストエフスキーでも
容器がデカルトみたいな印象があって、理屈を
こね始めると退屈だとは思うんだな。「ヒント」を
読むと「シチュアシオン」を面白く読んでた風だ。
「私は自分に逆らって考える」という、ある種、
ひねくれたような態度は小林に似ていて、頭
でっかちな雰囲気があるんだが、それだけでは
片付かない。
カミュの計算趣味は「シーシュポスの神話」の
背景にウィトゲンシュタインの「論理哲学論」が
見え隠れしてて、そこを正直に指摘してるんじゃ
ないか知らん。
「自分に逆らう」という感覚は、実存主義に
ありがちで、カフカも「世界と自分が対立した
なら世界の側につけ」という、やや複雑な
アフォリズムを残している。
経験自我と実存の相克、乃至、葛藤みたいな
もんか。
恋愛すればいいよ本気で
書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした
俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた
ノックアウトされたのだね。
小林は、キルケゴールを読んでドストエフスキーと
そっくりだって、一見、当たり前な感想を漏らしてるな。
>318
サルトルは戦後のフランスにおけるNo.1の知識人だから、小林も無視は
できないよね。 シチュアシオンをとりあげたエッセイでは、対象の特徴を
肯定的に評価するという小林の考える批評の本質により、サルトルの
エッセイを「面白かった」という風に評価してる。 でもまあ、大岡との対談で
サルトルを「残酷」と述べてるし、ジャック・マリタンとの対話でサルトルの
話題がでたときも、「サルトルはつまらん奴」みたいな結論になってた。
まあ、あれだ、ヨーロッパブルジョワヒューマニズムの歴史が第二次世界
大戦によって難破したあとの文学者は、サルトルの路線をいこうとカミュの
路線をいこうと、残酷にならざるえなかったってのはあるだろう。
>>318 カミュの背景にあるウィトゲンシュタインねえ。小林はウィト全然しらないだろうし
そういうことを指摘してるようには見えなかったなぁ。
パスカルは、キルケゴールは、ここんとこ飛躍してるとカミュは指摘しつづけ、最後に
カミュがシジフォスを最後に幸福へと飛躍させるのは手品だって小林はいうんだけど
ウィトって、別に幸福については論じていないんでは?
ウィトゲンシュタインは草稿で幸福とは
生と世界との一致だと言ってる。
残酷にならずに殺生石が務まるもんかね。
対談で、小林は白鳥が新婚夫婦を書いた
『泥人形』と面白そうに評価しているけど、
あれは白鳥が結婚して間もなく発表した
作品で、結婚してすぐさまこういうのを書く
ってのは、小説家ってのは因業な商売だと
つくづく思うね。
>>324 なるほどね、草稿でか。
>>325 まあ、しょうがないよねー。 そうやって生活切り売りすることを
小説家という職業が要請するわけだし。
それで、Wikiでチャッとニューアカを調べると、
最初に目に入ってくるのが「サブカル」。
これだよ、これ。
小林の言う「まったく得体のしれない大衆」がそのサブカルの担い手であったと
いうことだ。
小林が「本居」に手を付けたのは、白鳥が
物故して二年後だ。こういう立ち回りは実に
周到なもんだね。
>>326 柄谷行人が小林の改稿を批判してた(自分もやってるくせに)けど、鎌倉文学館に小林の自筆原稿があるよ。
何かは忘れたけど、写真を撮ろうとして警備員に制止された記憶がある。
へえ、どんな文章?
小説もサブカルな時代だからな。
どんなってどれの話ですの?
どうでも良いわ。
体制道徳の中心で愛を叫ばれても仕方ないしな。
秀雄様は恋愛と政治を対立させて語ってたよ。
アイドル写真集出す総理大臣とか駄目貝?
そういう問題じゃないんじゃなイカ…
色情を政治の具にするなんざ、小林の嫌う
最たる類なものではないか?
>>322 ジャック・マリタンね。ベルグソニアンでネオトミスト、
カトリック。
ベルグソンの虫に食われても余り良いことはない。
ヴェーユはマリタンは、古い徳目を数え上げている
だけだと評してたな。この時代は皆、ベルクソンの
影響が濃いけれど。
ダーウィンの理論によって始まったと言える
通俗的には「進化論」と呼ばれる学説は、
カトリックや、大方の他の文明圏のそれまで
抱かれて来た世界観とは異なる人類の過去像を
提示はしたけれど、そこから思想を汲み取る
には、非常な要心のいることだ。
ナチズムの時代以来、人類は未だにその段階を
乗り越えられていないからな。
民族主義的世界観、我々は奮え立つ。
ナチズムのバラ色の夢。ファナチックな高揚感。
民族の闘争。総力戦。完璧なる全体主義の美。
我々は進化する。
は!?何を言ってるんだか!!
ベルグソンの思想ってのは、行き着く果て
は、こうだって話。だから『感想』も中断に
なった。
フロイトは、人類の暴力性の暴発というのは
仕方ない側面はあると、空爆中のロンドンから
あきらめ顔で見てたらしい。
>>328 近代社会における伝統と大衆文化の
関係はちゃんと考えなければならない
問題だろう。こういう問題は国によって
随分と異なる。アジアの国は近代主義
の文字通りの「輸入」を西洋の圧力の
下で半ば仕方なしに受け入れてきたし、
日本はその上、ほぼ全面的な敗戦を経験
してるからな。
洋の東西を問わず近代主義的大衆文化
というものは非伝統主義的であることに
変わりはないのかも知れないが。
>>337 政治は虫が好かないってさ。
>>338 小林も対話の時は話をあわせたようだけど、マリタンはどうもあまり
好きじゃなかったようだ。プロテスタントは絶対間違いというマリタンの
姿勢がファナティックにみえたらしい。
>>343 大衆文化ってのは、いつでも簡単に伝統と野合するものだと、俺は
思ってるけどねー。
伝統? 集団ヒステリーでなくて?
白鳥の小説の主人公は、小学校の頃に
学んで好きだった美しい漢詩をふと思い
出したりする。我々にはほとんど共感不
可能な感性だ。
そういう世界はもう戻って来ることはない
だろう。我々はそういう喪失感を通じてしか
伝統に根ざせない側面もある。
萩原朔太郎が昭和になって『日本への回帰』で
そういうことを言ってる。
>>345 共感が難しい物は、別に時代的な伝統に限らんだろう。現代の様々な流行や
外国の異文化等々、現代文化だって自己に共感が不可能とみえるものは
たくさんある。 だからある過去への共感が難しいからといって、伝統が存在しない
ともただちに断定はできないのさ。
宇猶宙也,宙猶宇也
空気のような伝統な。アイデンティティは不在なままの。
挙げ句に川端のノーベル賞授賞式の羽織袴姿を指して
「愛国者」だと歓迎する。
>>347 川端を「愛国者」だと歓迎したのって誰さ。少なくとも小林じゃねーと思うな。
小林と川端って、反りがあわなかったようだね。川端康成についても
小林は批評してるね。まあ、一見穏便な書き方で批評してるけれど
裏から読むと、川端文学の価値を完全否定してるとも解釈できてしまう
ような批評をやってるよ。
この文脈で小林のこと言ってるだなんて
思う奴は読解力に相当問題があるぞ。
それじゃ貴様の小林の引っ張り方もアテに
はならん。
空気読めって言うだろう、空気は目に見えない。
>>349 だから誰のことなんだよ?w 言いだしっぺは自分なのに空気嫁
ってなんだそれはw
伝統と大衆性という話だろ。大衆文化なんてものは、
伝統や格式みたいなものとは違うと言われたら、
そうかも知れないが、ポストモダンの商品棚みたい
に光の速度で消費されるものとも限らない。
そうか、80年代以降ってのは、大衆文化が
そもそも存在してないんだな。
何もかも軽やかに消費する時代だからな。
大衆文化というのは、どんな時代にあっても、大量に消費され、すぐに
忘れられるものと相場がきまっている。まあ、文化のこやしだ。
小林って貴族主義とは違うよな。
べらんめえ調でさ。
ハイソとかアッパーとかじゃなしで。
さすがにプロレタリアでもないけども。
都市インテリだよね。 都市の中間階級。
お前らみたいな気取ったインテリは
「あたしゃ」だなんて言わねえよ。
不幸なるインテリたる天寿を全うしたというべきか。
インテリゲンチャな。貴様も全集の一つも
出せるように頑張るんだな。
いまどき全集とか大時代な。
ツイッターのアカは持ってる?
もってない。やり方がよくわからんね。 まあ、アカつくってみるかな…
短小包茎な時代だからな。
インターネット時代への小林の評論が
読みたかったね。どうせまた、ひねくれた
調子で言うんだろうけど。
大衆的なるものを一方的に排除するのは
小林的な態度ではないな。
>>363 ネットなんか、やってないで
好きな人と本気で、つきあえ
って言うんじゃないかと思う
>>363 小林はインターネットについてどう考えたろうか。コンピューターについては
何度か考えを述べているので、それが手がかりになるだろうな。
コンピューターはサイエンスの粋、精髄であるという発言をやってるね。
でも、いくらコンピューターが発達しても人間精神の自発性は代替できない
だろうと。これは強がりにも聞こえるけれどね。コンピューターには将棋は
うてないだろうとも小林は書いていたが、今のPC将棋は並の人間より
ずっと強いからw
>大衆的なるものを一方的に排除するのは
>小林的な態度ではないな。
むしろ柄谷などは、小林の義弟は漫画家の田河水泡だったことに注目して
小林は大衆そのものじゃないか、という風にいったりしたね。
白鳥の小説なんて見合い結婚の話ばかりだ。
小林もいろいろあったろうけれども、恋愛談義
に熱心な方か良く分からん。
小津の映画の世界だね。野暮な話か知らんけど。
>>365 ネットの関係で言うなら、週刊誌ブームについての
言論の質について、競争は良いことだ。洗濯機を
見たまえとやってるだろ。
小津の映画と言えば笠智衆が鎌倉住まいの教授先生を
演じた『晩春』の原作者、広津和郎が同じ頃に『異邦人』
で中村光夫と論争をやったらしいね。
異邦人論争を読みたいんだけど、ほとんどネットに
上がって来ないな。『晩春』の公開された年は、東京
裁判の頃で、論争が起きるのは不思議ではない。
異邦人論争でムルソーの裁判が主眼にされたに過ぎ
なかったのだとしても、当時の日本人には裁く側の
正義は切実な問題だったかも知らん。
「年は取りたくないものです」と相手を切って捨てたのは
中村だろうか。若さだけで片付けると、右翼作家が勘
違いして調子に乗って性犯罪小説を書き散らしたりして。
恋愛結婚じゃないと恥ずかしいってんで、
「婚活」するのな。就職活動感覚で。
>>366 小林な恋愛談義ね。もっと端的なセリフを吐いてるよね。「文学とは女をしることだ」
ってね。まあ、こんな気障なセリフ吐いて様になるのは、小林秀雄くらいだよね。他の
やつがこんなこといっても薄ら肝寒く滑稽に見えるだけだろうなw
>>367 あの対話も面白いね。途中で週刊誌記者が「巫山戯ないでください」とキレルんだよね。
で、冒頭に「これは実話である」という但し書きが書いてあるんだよね。あれは週刊誌
ブームでたくさん刊行された実話系週刊誌の書き方を彷彿とさせるわ。さらには
冗談から哲学からジャーナリスト的技巧まで文章に叩き込んだというヴァレリーの
文章に対する小林の評語まで想起させてしまう。
>>368 異邦人論争ねえ、どっかでまとめて読めないかな。別にネットでなくてもいいから
アマゾンで注文して手に入るなら注文してもいい。
長谷川泰子、美人だよな。手に負えなくて
逃げ出した。追っかけて来て、すったもんだ。
自棄になって道頓堀で与太者と殴り合いして。
青春だね、だけど結婚後は落ち着いたもんだ。
>>370 うーん、それもまたよい文章だね。やっぱりさあ、人間、青年の力と老人の知恵を
兼ね備えるというのが、一番理想的だよねw
自由恋愛が人生の第一義みたいな洗脳を受けとると、
論理的必然によって結婚が人生の終わりになっちまう
からのぅ。
恋愛結婚は三年で飽きるが、見合い結婚は三年で
慣れるもんじゃ。
「異邦人論争」について思いついたことを補足しておくと、アラブ人を殺した廉で
裁判にかけられたフランス人というのはいない、つまり「異邦人」という小説は
フィクションの中で、また歴史をフィクションにつくりかえているしていると、とある
批評家が批判していたね。
小林は『異邦人』よりも『ペスト』を評価したがったんだが、
小林に『異邦人』的なるものがなかったとは誰も思うまい。
長谷川泰子って、晩年は不遇だったのな。
>>375 ちなみにあなたはどちらなのですか?既婚者ですか?
>>377 それも至言だなあ。Xへの手紙に「異邦人的なもの」を見る事は可能ですね。
>>377 「評価したがった」? 小林の「ペスト」についての評論読んでそう思えるかね。
「ペスト」にむしろ小説という形式の行き詰まりを見ているのだが小林は。
「異邦人」や「シジフォスの神話」などの他のカミュの作品については、大岡との
対談で論じていたな。
>>378 大岡が長谷川泰子をモデルにして、彼女に同情的な小説を書いて
いなかったかなぁ。
「異邦人」は中学生の頃読んだが、何が何だかさっぱりわからなかったなぁ。
まあ、いきなり中学生が読んでわかるわけないか…
>>379 至言かねえ。異邦人性の塊みたいにも見えるけど。
不思議なんだね。小林のダイモーン的なものと
常識感覚の平衡能力が。日本の歴史と伝統って
ものを我々は見くびってるのかも知らんよ。
「俺は反省なんかしないよ」と啖呵を切った時に
「歴史の恐さ」ということを言ったろう。人智を越
えた何かへの畏怖心だな。
合理主義の世界は人間観が矮小化されてしまう。
女の尻を追いかけるのが人生の一大事だ
なんて教え込まれて育ちゃ器の小さな奴
ばかりにもなるだろうし。
女もションベン臭くなる一方だし。
小林は自分を小馬鹿にして済まそうとする類の
連中なんか相手にはしなかったろうな。
そりゃま、人間としては普通な態度だから。
>>379 俺は世の中世界中敵ばかりだし、良いトシだし、
長生きもしなさそうだし、キレてるしで、相手が
気の毒だから考えられないね。
俺は世界中から早く死ねと思われてるからなwww
そんなこと少なくとも俺は思ってませんよ。
俺もそんなこと思ってないよー。
でもたぶん信じてもらえないよねーw 「考えてない」なんて証明する
方法ないし。
>>383 >小林のダイモーン的なものと常識感覚の平衡能力が。
これを媒介するのが「考える」「思考する」という営みなんですな。
ゲエテと豚のしっぽが同じく見えるほど遠く離れてみるテスト?柄谷が外部とか呼んで蓮實が遠く離れてって言った領域?
ところで三浦 ◆aKZjWmIOl2って、昔からいるコテなのかな?
いや、昔、知人に三浦さんという印象的な人がいたもんで…
いや、文学の外側さ。文学を知らない俺には行けない領域さ。
文学を知らないなら、君のいる場所は既に文学の外側だ。
砂漠への道という道を歩き通せばいい。
それは違うだろ!そしたら読んでない事が文学を対象化している条件って誤解が生まれるじゃん。それは許せない!
なんじゃ錯乱してるなw
あらゆる感覚の長い、限りない、合理的乱用の結果か。
読んだ方がいいに決まってるよ。みんなもっと新刊を買うべきだと思う。そこは譲れない。
まあ買いたい奴はいわれなくても買うよ。
そう、それは偉い事なんだよ。俺が言うまでもなくさ。俺はブックオフだからさ。
立派なものやんブックオフでさがすなんて。俺も昔はブックオフよく利用したが
最近はアマゾンで買ってばっかり。
俺もAmazonは使いますよ。幸い使えるクレジットカードがあるから。でもどうしてもブックオフ。ダウンロード。
これは支払い能力がないから。これはね、犯罪ですよ。
ランボオにやられるってのは、ともかくも沈黙の恐さを
知ってるってことだね。
>>406 むしろダイモーンに憑かれたものは、外道の言葉とみえるものを吐く以外にない。
>>407 まあ、何だ、そういう犯罪行為を告白したいなら、小説という虚構のなかで
告白するようにしておけって。
まぁ、お喋りの世界とは位相がひっくり返ってる
からそういうのだな。
単なるお喋りがもたらすのは不気味な退屈さ。 あらゆる位相の光が互いに打ち消しあって
常に単色の白色光線にいきつくしかない必然性の世界と。
あの、ほら対談で、最近の連中は宗教に無関心、
無理解な良く分からん奴らが増えたとか言ってる
文脈で宗教の逆説性を持ちだしているだろ。
「聖と俗」だな、俗物どもの神様気取りの世の中でさ。
ああ、文学への信仰が不足してるって文脈の会話ででてきたんじゃなかったっけ。
その話。まあ、神様気取りの俗物は、しょせんムーサイが授ける真の芸術的狂気
には無縁なんだから、正気のなせる彼らの詩は、真に狂気の人々の詩の前には
光を失い、消え去ってしまう運命にある。であるならば、それほど彼らにたいして
厳しくする必要もなかろうよw
>>44 兄(小林秀雄)は私にこういったことがあった。
「キリストのような純粋な宗教経験は事実だ。ああいう驚くべき人間経験があったということは、
そのまま俺は信じる。しかし、これはいろんな神学とか教理とはまるで質のちがったものだろう。
・・・本当に真実として、信じることの出来るのは、キリストの経験と、これをそのまま信じた人が
書き残した聖書だけだと思う」
ともいった。
ある牧師はこの兄の言葉は、すばらしいといった。何故なら何教かの信者になり切り過ぎてい
る人間が多いからだといった。
引用ここまで。小林自身宗教そのものを直接取り扱うのはしたがらない方だから
誤解されやすいのはある程度、仕方ないとは思うんだけど、それがある意味、偉い
ところでもあるんだし。教理の言葉を使わずに宗教的真理の深みまで読者を誘おう
とした。
小林が白鳥に惹かれたのも、白鳥の宗教への態度が、そこら辺にいるありきたりの
宗教信者とは一線を画していて面白い、というわけなんだな。
白鳥が宗教的文学者というのは、世間には通用しかねる逆説である、などといってね。
『泥人形』の終わりが良いんだ。
>>417 「泥人形」かぁ、読んでないからいずれ読まないとな。
>>415 小林のキリスト教論というと、「ドストエフスキイの生活」や「ゴッホの手紙」においても
キリストとキリスト教についての考察はあるけれど、俺が一番好きなのは「ルオー」かな。
「キリストというピエロ」について書かれたエッセイだよ。
小林は偉大なピエロであったと言いたいんでせぅ?
いや、あれ怖かった、小林が上半身の銅像みたいな
感じで昼間から近寄って来てね。
同時テロの直前くらいで。いくら小林でもさ。男は、、、
>>419 いやいや、小林をピエロにたとえるとか、そんなこと考えてもいなかったなw
いわれて、そういう見方もあるかと、考えたようなものだ。
>>416 白鳥の墓もキリスト教的でも仏教的でもなくて面白いんだよな。木まで生えててさ。あれは故人の意志なのかね?
>>422 わからなーい。遺言には、葬式のやりかたとか、墓のつくりかたとか指示して
あったんだろうか。
そんな事をする人はあんまりいないか。
白鳥は、若い頃に
>>159の洗礼を受けて、
最晩年に娘さんに連絡取って教会に帰った
んだろう。
キリスト教といえば今の教会はひどいぜ。
牧師からひどい。達観してんのか、無関心なのか知らんが。
信者も自分が救われればそれでいいような奴しかいないし。
いや、小林とは関係ないけどさ。
特に福音派ね
>>427どこも同じだとようなものだと思っていたけど・・・
そういえば福音派は…って感じだな。今はどうなんだろう。
とりあえず日本基督教団、アングリカン、バプテスト系はどこも似たような感じでだめだ。
429 :
吾輩は名無しである:2011/01/22(土) 00:51:23
十字軍な時代だからな、ユダヤ式にシャローム!とかやるのな。
そういや、遠藤周作が小林の「信仰」をカトリックだって
褒めてたらしいね。
物知りは、何も考えてはいませんね
かんがふは、物と親身に交わること、物を外から知るのでなく
身にしみて感じて生きること・・・
遠藤周作の小林評は「祈りとは、世界の意義についての
思想である」ってウィトゲンシュタインの言葉を連想するよ。
どっちもドストエフスキー読みだし、不思議ではない。
>>426 俺も一度キリスト教に入信しないかと誘われたことがあるが
どうも入信する気がしなかったなぁ。
>>431 「カムガフ」の語源について、宣長が解釈したところを、小林は
エッセイで紹介していたね。 「彼」と「身」が「交フ」ことが「カムガフ」
ということであるって解釈をね。 そrで「カムガフ」と「カミ(神)」という
言葉は同根なんじゃないかと思ってんだが。つまり主客の合一を
意味する言葉なんですな「カミ」というのは。
>>432 ウィトがドスト読みなの? それとも遠藤? それとも両方?
俺も昔「考える」は「勘返る」だって駄洒落飛ばして
たな。古日本語で「カン」、「カム」、「カミ」は同根
だろうから。
ウィトゲンシュタイは『カラマーゾフ』は丸暗記だったって
Wikiにあったな。キルケゴールは自分には深すぎるとか
謙遜ぽく言ってたり。
さすが歴史に名を残すような学者はアタマが切れる
もんだね。
ヒントの宣長の言語論はウィトゲンシュタイン風だし。
>>434 「勘返る」かぁ、それは文字で読まないとわからない駄洒落だな。
ウィトだってやはりヨーロッパ古典の伝統は身につけてるだね
それなりに。
「黄泉帰り(ヨミガエリ)」って聞いたことねえ?
アレオレ
ヨミってなんだろうねえ。 ヨはヨ(夜)かなぁ。
ヨミに「黄泉」という感じを当てたのは、
死後の世界を火山と結びつけてたから
には違いない。
宣長は邪馬台国九州説の元祖だもんな。
>>439 漢字はなにあてようと自由だからなあ。 しかしまあ、ヨミという音声にも
なにかしらの意味はありそうな気はするな。
出鱈目ってことはなかろう。
「カミ」に「髪」、「上」、「神」と漢の文字を
振るのは当たり前のことで。
「ヤミ」と「ヨミ」は同根か知らんけど。
>>441 「ヤミ」と「ヨミ」か。あ、なんか似てるかも。
あと「病み」だな。こんなのは幾らでも出てくる。
「ヒト」は「ヒトリ」だから「ヒト」であるとか、こんな
話ばかりしてる。
「上様」は「神様」。
「離す」は「話す」だったりしたら
面白いな。ハイデッガー風の解釈術
が必要になるか知らん。
>>444 新井白石が「神(カミ)は上(カミ)である」って解釈やってるそうだね。
ハイデガーも語源学的解釈には熱心だったのかなぁ。
>>447 霊感、インスピレーションについてのエッセイもあったねえ。
「ダイモーン」って言うとキリスト教圏のいわゆる
「デーモン」で、悪魔的イメージがあるけど、普通に
ギリシャ的霊性を意味するんだと思うよ。
>>446 戦前はハイデガーの真似して皆で、語源学的
言霊哲学やってたんだろ。戸坂潤がそれを
批判して。
シュライエルマッヘル的な解釈学は、単なる
文献主義に容易に転落するってか。
文献主義は古典研究から神話史観まで
一直線だからね。
>>449 キリスト教時代に異教の神々はみな悪魔となったからね。
>>450 へえそうなんだ。皆って、たとえば三木清とか?
代表的なのが和辻哲郎でないかな。好戦的ではないが、
御用思想であるという意味で。
小林も三木も戸坂の影響はあって神話史観的ではなかった
と思うが。
そういった世界観の補完のためにベルグソンが
必要だったのだと思う。キリスト教世界の外でね。
>>453 小林も唯物論研究会に所属してたことあるっていうからねえ。
和辻かぁ。小林には和辻への言及ってほとんどないね。和辻といえば
古寺巡礼を想起するのだが、若い頃の小林は古寺や古仏みても
苛立たしさしか感じ無かったっていうし。距離を感じてたろうね。
いや、それが「もののあはれ」や「平家物語」の世界と
ベルグソンの解剖台の上のミシンとコウモリ傘の結婚
みたいな哲学ってのが、なかなか相性が良くないんだ。
>>456 小林はベルクソンとシュールレアリズムむすびつけようとは思わなかったろうなぁ。
シュールレアリズムはラフォルグの破片、精神の衰弱のあらわれとしか認識して
なかったろうし。 あ、そういえば当時の流行であったジャズ音楽にも否定的だったね。
小林は。
まあ、ベルクソン自身がシュールレアリズムについてどう考えていたかは詳らかにしないが。
いやいや、ランボーとロートレアモン(イジドール・デュカス)には、
共通点は多いよ。同時期の詩人で、同じような時代の影響を
受けてる。デュカスの方がパンクっぽいけど、ブルトン流の
ダダイズム的解釈ってのはどうなのか知らんね。
「神話史観」から卒業出来てないのはアメリカも
一緒だな。冷戦時代は左翼的知性がまだ有効
だったから、かろうじて正気を保ってたけどw
>>458 まあ、一般的な文学史的常識によればそうだ。しかし小林の独断的認識に
よれば、違うらしいねw
レオ・シュトラウス派の俗流ニヒリズムも「神話」が大好き
だし。世相談義になっちまうけど。
あれだ、ベルグソンの葬式はナチ占領下のパリで生前の
名声に相応しいとは言えないささやかなものとして執り
行われたんだが、本人の遺言は「カトリックでなければ、
ユダヤ式で」というものだったらしい。
>>462 レオ・シュトラウスかぁ。フランシス・フクヤマがイラク戦争の一年あとに
「アメリカの終わり」という本を書いて、シュトラウス派とネオコンは違うと
弁じていたね。 シュトラウス派の歴史についても論じていて、なかなか
ためになったよ。
ベルクソンの死に対するフランス思想界の反応は皆無だったと、大岡が
対談で指摘してたね。ベルクソンもポーランド系ユダヤ人が父親というし
ナチ占領下のフランスにおけるユダヤ人の記憶というのは、あまりひとが
触れたくないものであるだろう。
こういう話はあるけど。福山君も責任負わされたくないんだろう。
>『なぜレーガン政権にはシュトラウス信仰者がこうも多いんだ?』
>これは1987年の Newsweekに掲載された「Cult of Leo Strauss
>(カルトのレオ・シュトラウス)」という 記事に登場した一節。
>>464 レーガン政権にもいろいろ問題あったけど、冷戦という最大の戦いで
勝利したから、ほとんどの問題点は検討されずに流されてしまったと
いう感じかな。
フクヤマもイラク戦争の処理がうまくいかないと見るや、ネオコンからの離脱を
宣言しましたな。 機を見るに敏というか。
米ソ冷戦構造下のこの国で、東西のイデオロギーに
染まらずに日本人であることを全うするというのは、
なかなか骨の折れることだったろう。
小林はイデオロギーって嫌いだったよねえ。 イデオロギーについては
「イデオロギーの問題」というエッセイでまとまった意見を述べていたように
思う。 内容は忘れたが、読んで感心した記憶はある。
>内容は忘れたが、
砂漠に水撒くようなもんだな。俺は自分で学習したことは
大概、覚えてる。考えも変わりはするが。
>>469 あんまり色々と覚えすぎてると、しまいにはその重荷で身動きが
とれなくなるぜw
実践判断に結びつかないようなことは
余り関心を向けないからな。
イデオロギーってのは基本的に全体主義のために
あるもんだね。小林はナショナリストではないだろう。
漱石の「個人主義」のような人格主義だと思う。
そもそも冷戦時代は国家主義は御法度だったんだから、
不思議なことでもない。反日、反日ってキチガイが大騒ぎ
するが、アメリカを中心とした国際常識だったからな。
小林が死んだ途端にブルジョアニヒリズムの
相対主義思想が流行って、バブルでアタマが
パーになったまま、冷戦終わってバブル崩壊
して、低劣なナショナリズム運動が立ち上がっ
たからな。
黒澤がドストエフスキーを下敷きに現代劇を
撮ったり、シェイクスピアで時代劇を撮ったり
した消化力ってのは、小林を背景に考える
と分かりやすい。
小林の文章は切れ味が鋭い。小津とは
違った切り取り方も出来たわけだ。
「反省しないよ」発言の後、明大教授職から
一升瓶と一緒に転落して以後、ローニンだった
からなw
白鳥全集全13巻、壱萬円でゲーッツ! いい買い物したわw
>>474 先生に質問だが、白鳥ってブルジョワニヒリストだと思う?
小林先生にでも聞けよ。
13巻もあるんだね
白鳥の代表作の『何処へ』の主人公も素浪人みたいな
雰囲気だな。白鳥自身の投射なんだろうけど。
>>478 小林先生はノーというと思うな。で、君はイエスというのかなーと
おもったのさ。
>>479 新潮社版はね。福武書店版は30巻もあるらしい。
さてと、全集をちびちびと読んでいくとするか。
小林が戦後もずっと学籍を保ってたら、
イメージも今とは随分と違ってたろう。
江藤がNHKの解説なんかやってたのと
対照的に、小林には動画もない。
戦後になって、ちょっと荒んだような
雰囲気があったって話は聞くが、それも
仕方ないことだよな。
根っから野良な俺としては、こういうことを
ボロボロ言うんだけどw
>>481 そうなんですか…俺は一冊しか持ってないな。
戦後の日本なんて、たかがそんなもんだって(アッハッハ
バカヤロー!!小林秀雄がいるじゃねえか!
だから小林も戦後はローニンみたいなもん
だったんだって。
そういや、カミュの『異邦人』で、最後にムルソーが
キレて神父に怒鳴りつける言葉には、ランボオについて
の小林の文章に非常に似たものはないか?
石原のチンポ小説じゃなしにだぞ?
>>476 全集読んで(ちゃんと読めてないけど)
それとは、また別に今の時代考えると
それ、言ったのは、偉いなって思った
勇気のいる言葉でもあり、たやすく曲解されて
しまいやすい言葉でもあるね。
俺は言えなかっただろうな…
ムルソーの激白とか、なかなか普通は読み取れん
のだよな。死ぬ程苦しんでなきゃ分からんことも
あるし、そんなに無理して分からんでも良いような
気もするんだけども。
これも宿命論的な態度か知らんけどw
そうそう、俺なんかいざって時は聖書読むしな。
こういうところは白鳥に似てなくもないw
地獄の季節、ひさびさに読み返したら、やっぱりいいなぁ。「言葉の錬金術」とは
まさに至言。
>>483 冬の夜、宿もなく、衣食もなく、諸街道を徒り行き、俺の凍てついた心は
一つの声に締められた。
「強気にしろ、弱気にしろだ、貴様がそうしている、それが貴様の強みじゃないか。
貴様は何処に行くのかも知りはしない。何故行くのかも知りはしない、ところ
構わずしけ込め、誰にでも構わず返答しろ。貴様がもともと屍体なら、その上
殺そうとする奴もあるまい」
>>484 ”一度は”この俺にも、物語を想い、英雄を想い、幸運に満ち満ちて、黄金の紙に
物書いた、 ―愛らしい少年の日がなかったろうか。
俺はがつがつして『神』を待っている。いつまで経っても劣等人種だ
>ところ構わずしけ込め
野良猫みたい。
>>495 かつては、もし俺の記憶が確かならば、俺の生活は宴であった、誰の心も開き
酒という酒はことごとく流れでた宴であった。
ある夜、俺は『美』を膝の上に坐らせた。 ―苦々しい奴だと思った。 ―俺は
思いっきり毒づいてやった。
この身に備わったものは偶像への崇拝と涜聖への愛情、―それこそあらゆる
悪徳だ、憤怒と淫乱、―淫乱も物々しい奴、―わけても嘘と不精である。
正法眼蔵一果明珠ってとこか。
誰も彼もがもっともだ、蔑もうと愛しもうと。俺は思慮分別の、天使の姿にも似た
梯子の頂きに、俺の居場所を持ちこたえているばかりだ。
「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。
それについて今は何の後悔もしていない。大事変が終わった時には、
必ず若しかくかくだったら事変は起こらなかったろう、事変はこんな
風にはならなかったろうという議論が起る。必然というものに対する
人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人間の無智と
野心とから起こったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも
僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性と
いうものをもっと恐しいものと考えている。僕は無智だから反省なぞ
しない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。」
小林秀雄 昭和二十一年
小林の自称する無智はソクラテスの無智かな。
哲学が<反省>という形式をもつ「わたしの思考」(cogito)
の仕事とみなされることによって、それがだれの前で、
だれに対してなされるものかという問いを、自分に対して
立てられなくなったのではないか 鷲田清一
他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。
敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなけ
ればならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
『如是我聞』
ああ、対談で太宰の志賀直哉攻撃について白鳥と議論してるのは
この文章ね。意外に、小林の方が太宰に同情的(?)だけど。
>>493 この下界とキリスト教、それより前は俺には覚えがない。この過去の裡に
俺の顔を見直してみても埒はあくまい。いかにもいつも一人であった、家族も
なかった、俺の喋った言葉さえ、いったいどこの言葉であったか。
キリストの教えの中にも、キリストのような顔をした『高貴な方々』の教えの
なかにも、この俺は断じて見つからない。
>>495 猫と聞けば、もちださずにはいられないフレーズ。
猫っかぶりの読者よ…私の仲間よ、兄弟よ
>>499 ああ、遂にでたか、その発言。
敗戦後にそういう発言するところが、小林の真骨頂といえるな。
橋本治によれば、小林は総力戦の最中に「徴兵制など馬鹿らしい」という意味の
発言をやってたそうな。戦争中も戦後も、ただ時局便乗的な時流に棹差した発言を
続けただけという連中は多いが、さすがに小林は違うね。志賀直哉も、シンガポール
陥落時に帝国陸軍賛美の文章を発表して、あとで太宰にかみつかれていたりするが
小林はさすがにそう簡単にはしっぽをつかませないね。
「変化の激しい時代の思潮」に不即不離で対応しつつ、たえず働き続けている
「批評家魂」のなせるところであるとでも、ひとまず形容しておくか。
>>501 『如是我聞』は青空文庫でよめるね。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1084_15078.html 今回はじめて読んだけど、まあ太宰も気持ちいいくらい、糞味噌に、志賀のこと
やっつけてるねw 一読しての志賀批判の印象をいえば、青森の田舎からでた太宰が
東京生まれ東京育ちの志賀をやってつけてる、東京中心主義へのアンチテーゼが
感じられる、ってなもんだ。
「ヒステリーにはヒステリーの知恵がある」だっけ。
小林の褒め方は。
神を撃てはヴァレリーの引用か。小林も『テスト氏』の
翻訳してる。
>>505 太宰治はヒステリーっていってるね。ヒステリーの批判ということで
志賀へのダメージを少し抑えようとしたんでしょ。
やはり当時は志賀直哉批判するのは相当覚悟がいったってことだろうかな。
神様を批判するのと同じくらいの覚悟が。
そーいえば、坂口安吾も志賀批判やってたなあ。小林との対談で。
転向論、かな。
>志賀へのダメージを少し抑えようとしたんでしょ。
お前と一緒で単純に面白がってるようにしか見えん。
『如是我聞』は戦後間もなくだから、最後は俺は
宮様に読まれてるって最後っ屁みたいな自慢してる。
若い頃に志賀に小林が甘えてたというのも分かる
けどね。
もっと露骨に言うなら戦争中偉そうな顔してたおまいらザマ見ろアッハッハ的な
ことをネチネチと執拗に書き連ねてる。
一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。
私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。
所謂、彼らの神は何だろう。私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をする
けれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。
>>510 そうかなぁ。白鳥との対談でも、小林は志賀のこと、「若い頃非常に尊敬した」
っていってるし、坂口との対談でも志賀の弁護にまわってるよね。
小林が若い頃に心酔したというのはそのとおりなんだろう。ただし若年以降
志賀からは離れるわけだけどね。志賀は英語も読めない無学文盲だといってね。
その点、白鳥は英語が得意だったんだよね。
白鳥は、戦争中、日本ペンクラブの会長やって、戦時体制に協力してるようにみえた
んだけど、そのことについても、戦後、弁明してますね。さほど好戦的、督戦的な言辞は
弄さなかったから、ペンクラブの名前をあまり傷つけなかった、という風にいってたね。
それで「人の上・人の下」というエッセイでは、敗戦という機に乗じて、戦争中の知識人の
ふるまいを声高に糾弾する風潮に嫌悪を感じてることを表明したですな。恐ろしい軍人が
跋扈しているときは軍人に阿り、戦後は戦後で占領軍に阿るというのも、臆病な人間の
ありようとしては当然至極、という風にもいってた。 そんで自分が「人の上」になったつもりで
戦争協力者を非難攻撃するのは「人の下」のやることではないかと述べてた。
こういう白鳥の考え方からすると、太宰の志賀非難は無条件には肯定できないだろう。
世代も近いし、無教会のオジサンの影響から
出発したって点では志賀も白鳥も通じるもの
はあるしね。だからちょっと同情的かって風だ。
こういう話題は身に詰まされる御仁も多かろう
し。
太宰なんかは上からでなくて確信犯的に卑屈な態度で
攻撃してるね。これを小林は「知恵のあるヒステリー」と
評してる。これが大衆にウケる。
>ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。
どう見ても単なる野次。
過去の今から現在の今・・飴のように過去から現在へ
伸びる時間では無く、時間の垂直的な重層性を考える
とき、自分達は、否応無くその過去の上に立っている
一度発した言葉の価値を他の全てと天秤に掛ける覚悟
鷲田清一読んで、こんな感じじゃないかと思いました
昭和十二年の文章に、従軍記者をやりたくて文藝春秋に
頼んで話が決まったんだけど、母君が余りに心配するんで
心を翻してやめてしまったなんて書いてあるぞ。
カーチャン様々だな。
>>504 >小林は総力戦の最中に「徴兵制など馬鹿らしい」という意味の
>発言をやってたそうな。
『歴史の魂』のことかな。ドイツの軍人ゼークトの賞賛から始めて
る講演。岩波新書からこの人の自伝が出たからって話。時代背景を
読み取るってのは難しいもんだね。
孔子が好きとか話してる。明治生まれな人ってのは当たり前に
こんなこと言うもんかな。
>>518 昭和十二年? それ小林のこと? 火野葦平の「糞尿譚」が芥川賞とったので
火野に賞を授与するため、小林は戦争中の中国大陸へいったはずだが。
日中戦争開戦、翌年3月、従軍記者として中国へわたり、「杭州」「杭州より南京」「蘇州」
などを書いたと、新潮社の小林秀雄全集紹介のページにも載っている。
>>519 そうだよ。ゼークトを読むことによって、小林の姿勢が非常に明確になったというのが
橋本治の解釈で、俺はとりあえずそれにのっかって話を組み立ててみたわけ。
「不安定な文壇人の知識」昭和十二年十二月だ。
諦めるのは辛かったが、今はそれでよかったと
思ってゐる。若い知識人の支那帰りの土産話が
支那の知識人は分からんという話ばかりなことに
疑問を呈している。単に不勉強ではないかと。
理由を付けて出かけて見ることにはしたわけね。
>>516 「家庭の幸福は諸悪の根源」と。
>>521 あ、それは読んでないや。 「杭州」「杭州より南京」「蘇州」「満州の印象」は
読んだことあるが。中国の当時の様子をいろいろと詳しく観察してる様子が
窺えるよ。
中国人と日本人じゃ尻のふきかたが違うとか、トイレのつくりも違うとか
そういうことまで観察して書き綴ってるね。
日本人は尻を前から後ろに拭くが、中国人は後ろから前に拭くとか。
いや、逆だったかな…?
戦後の対談では海外に出かけても眼が
単なるカメラになってしまって紀行文なん
て意味がないなんて言ってるからな。
ベルグソン中断して本居宣長ということは
無常ということに書いた一言芳談の一節から過去を回想
した時のような感慨が何も残らなかったんじゃないかな
日本が、だぁーーーい好きな人だもんね
池田晶子の時々書いて見せるアタマの切れる
文章が好きだった。
「ヒント」のプラトンの国家についての章なんかは
池田のエッセイみたいだし。
文庫のまとめ買いしたんで、俺も遅まきにチビチビ
読み始める予定。
>>525 エキゾティズムがどうこう、ともいってたな。
>>526 それは入水直前に書いた文章なの?
>>527 ベルクソンを途中でやめたのは、無学をのりきることができなかった
からだ、といっていたね。つまり、物理学、科学についての専門的
知識も消化できなければ手に負えない代物とわかったと。
最晩年の仕事の仕事として、ドストエフスキーをやるかベルクソンをやるか
本居宣長をやるか、どれにするか考えた末、本居宣長を選んだそうな。
>>528 俺も白鳥チビチビ読みすすめたいんだけど、気の紛れることが多くて
なーかなか、手がつかないね。 とりあえず一巻を今ようやく手にとったとこ。
池田晶子は「哲学の巫女」という売り文句があざとく感じて、あまり
手に取る気がしなかった。結構鋭いこといってるっていうなら、ちょっと
手にとってみるかなー、っと。
>>530『14歳からの哲学』って本は親に読まされたなぁ
内容は忘れたけど「へぇー」ってなったのはなんとなく覚えてる
道徳哲学だった気が…
小林は湯川秀樹とも対談していて、それ読むとノーベル賞とった物理学者と張り合う
べく、物理学も勉強をしていたことはうかがえるね。 実際どの程度はりえたのか
それは俺では評価できないが。
>>531 「14歳からの哲学」ねえ。あんまり興味をそそられない題名だな。
「ソフィーの世界」と似たような読者層をあてこんでいるというのが
見える題名だ。
池田は今時珍しく、宗教的なものを拒絶しない
という点で、小林をちゃんと読める読者だったと
思うが。
あ、晩年、老眼の気が出てたか。
しまったメガネの池田を見たことがない。
これは迂闊だったorz
池田晶子さんは小林秀雄が大好きって何度も書いてましたよね
小林秀雄さんも「批評とは懐疑的に己の夢をかたること」って
だから愛情を持てなければ対象を真に理解することは難しいで
すよね。骨董も恋愛も対象を自分のものにしないとわからない。
男なら言えない言い方も女なら
言える、ということはあると思う。
わしもマルコ伝の十二章の復活問答を言っておったしのぅ。
魂には性別じゃないということじゃ。池田にとっても大事なの
はそこじゃったろうて。
「趙州無字」という公案があってのぅ。
一人の僧が趙州和尚に問うた。
「狗子に還って仏性有りや無しや」(大意:犬にも仏性があるでしょうか?)
趙州和尚は答えた。
「無」
この「無」とは、「有」が「無」であり「無」が「有」であるような「無」なのじゃ。
「否定神学的無」と言っても良い。
小林秀雄は、覚悟ということをよく言っています
人には様々な可能性が有るけれども、自分は自分
以外の者として生きられないと、そして歴史も又
否応無くそのようにある。断念しそれでも尚考え
続ける、実朝への共感にそれがあると思いました
池田にあれやられると、あんま見苦しい
死に方出来なくて困っちゃうね(笑
池田の「新・考えるヒント」とりあえず買ってきた。
目次みると、「考えるヒント」へのオマージュかと見紛う。
>>535 写真みると美人だよねえ。
>>536 「新・考えるヒント」パラッと見ただけで、非常な小林の愛読者で
あったとわかるね。
>>537 でも、池田の文章ちょっと読むと、非常に男っぽく感じる。
ま、小林の文章自体、男性的というもっぱらの評価であるから
それに非常な影響うけたら、やはり文体も男性的になるか。
>>539 禅かぁ。
>>497にも「正法眼蔵」が挙げてあるな。 小林は道元も読んで
「道元は蝦蟇みたいだ」と感想を述べたってね。 道元も読みたいが、どうも
なかなかの難物だな道元は。断崖絶壁みたいなもんだ俺にとっちゃ。
>>540 「覚悟」ねえ。まあ確かに戦争中にはそういうことよく言ってたね小林は。
戦争の行く末を望見すれば、とてもじゃないが、楽観的な見通しはない、むしろ
見通しは暗いことは小林にもわかってたろうね。吉田松陰の歌をひいた
講演など、読んでみると聴衆に敗北への覚悟を強いているかのごとく読めて
しまうな。
戦争中に書かれた「西行」「実朝」「徒然草」「当麻」などの随筆からは、覚悟というより
むしろ諦念というものを感じるよ俺は。
>>541 池田晶子、亡くなってしまったね。ずいぶん若くして亡くなったね。
もっと長生きして、ディオティマのように哲学的巫女として、後人を
導いてくれればよかったのに。
>>531 「14歳の哲学」と「41歳の哲学」が三省堂で平積みになってたね。
シンメトリカルな効果を狙ってるんだろうなぁ、やはりこのタイトルは。
>>522 その中国に関する文章で小林の浅薄さよくわかる。
戦時中での、一面の印象で偉そうに語る。
不勉強のくせに
年代順に読んで行こうとしてたのに、つい
真っ先に『真贋』に読み耽ってしまう・・・
そこらの凡人と同じような身になったところに、本当の光が
くるんぢゃないか正宗白鳥(諦観なの?達観なの?)
神または阿弥陀の恩寵性を信ずる立場に立てば人間のいかな
る行為も無益であり、論理観念の欠如を是認する結果となる
(遠藤周作)後に前者に理解を示す 山本健吉著 正宗白鳥から
人は必ず終わりのときを迎える結局それとどう向き合うかの好みかなぁ
>>543 >「道元は蝦蟇みたいだ」と感想を述べたってね
ほう、『実験的精神』だね。あれはいろんな意味で
重要な文章だと思うよ。
鈴木大拙の『禅と日本文化』くらいは読み給へ。
鈴木大拙 妙好人 宮沢賢治 でくのぼうになりたい
熊谷守一 へたもえのうち 親鸞 自然法爾
西行 風になびくふじの煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
一休 有濡路より無濡路へ帰る一休み雨ふらば降れ風ふかば吹け
偉い人ってみーんないっしょのこと考えてるとおもうんだけどなぁ
>>548 へりくだりが大事であるのは耶蘇教も
一緒じゃからのぅ
フォッフォッフォ
『無常・・・』では、「棺を蔽うて事定まる」みたいな
こと言ってるね。生きている人間は未完成、死んで
始めて、その人は完成するんだと。
>>546 俺は別に偉そうとはおもわんかったが。まあ、これは印象論だから
偉そうかそうでないかいくら論じても水掛け論だがね。 とりあえず
見たものだけを書いてるね。 ま、ちょっとくらい勉強したところで
余計な知識が増えるだけで、結局無知であるという状態自体は
たいしてかわんないよw 自分がさも偉くなったような気がするだけでさw
>>547 話の流れかたが心地良いね。小林は落語も好きでよく聴いてたというけれど
一流の噺家の話芸って、こういうもんなんだろうなあと思わされる。
>>548 その本もってたから、今ダッシュして通読してみた。 とりあえずの感想としては
白鳥が「一つの秘密」で書いたような、社会的にはほとんど認知されていない
主観的な罪の意識、小林がフロイトをひいていうところの「社会人として
人前で隠さねばならないもの、さらに云えば、統一ある人格としての自分自身に
対してすら白状したくないもの」というのは、絶対的恩寵以外に救いの道は
なさそうだなあ、と思う。なんせほぼ主観的な意識の問題であるなら、他人には
容易にわからない話であることは、論理的帰結としてそうなる。
>>549 「実験的精神」って三木清との対談か。読んだか読まないか記憶が曖昧。
科学の本質は実験にあり、みたいな内容かおそらく。
「禅と日本文化」ね。とりあえず読みたい本のリストの最後に追加しとくね。
>>552 もうちょっと無遠慮なものいいだったような。
「生きてる奴は何をしですかすかわからない、ま、一種の動物みたいなものだ。」
こんな感じの。
>>553 なにいってんの? いいたいことがわからないんだけど。
なんか俺も記憶だけで書いてるところは読み返すと間違いが多いね。
>>322でマリタンとの対話でサルトルの話題がでたと書いたが、これは
ガブリエル・マルセルの間違いだった。 おわびして訂正します。
実存主義のマルセルね。焼きごて当てられてるような
気分でカトリックの教理を受け入れて改宗した。
>>546 ・・・・薪にすべき木は外にいくらも良き木あるべし・・・
桜はただいつ迄も物のあはれの花をめでむこそは本意ならぬ
・・・・・・・・・言をもて人を捨つる事なからん事を仰ぐ
紫文要領 本居宣長 小林秀雄をそう読んじゃだめなんだょ
小林秀雄と大岡昇平の対談で疑問があるんだけどさ、カミュの「計算趣味」を批判するでしょう。それでいてカミュを「とても正直な人」と評す。どっちだよ?と。
所詮、この世は浮き草の
右から左へ流れる浅瀬
>>558 最初は無神論者だったのが、あとでカトリックに改宗したんだってね。
「旅する人間」(homo viator)っていう観念は面白いな。中世のキリスト教進学者
サン・ヴィクトルのフーゴーの「故郷なき人間こそ完璧である」というテーゼを
想起させる。
>>559 彼は笑って答えてなかったが。
>>561 カミュは「おそらく、よほど正直なひと」っていったのは大岡で、小林はそれに
「そうでしょう、きっと」と同意しただけで、小林が自分から「カミュは正直」と
いいだしたわけじゃないから、それを矛盾してると考えても埒があかないんじゃない?
小林がカミュを評するにあたり、まずでてくる言葉が「計算趣味」なんだが
計算趣味=嘘つきを意味するわけでもないし、カミュが正直という評価にも
「おそらく」とか「きっと」とか留保がついてるし、そういうことを考慮すれば
明白な矛盾せる評価とただちにいえんだろう。
キリスト教進学者ではなく、キリスト教神学者の間違いだね。変換ミスだ。
>>563 大岡昇平が最初に言い出したのは知ってるけどさ。相反する評価を同時に下すってどうなのよ?と思って。
おれは小林秀雄信者だよ。でも尊敬するという事は争う事だって坂口安吾が言ってたじゃない。俺も思う。
それが文学的だと言えばそうかも知れないけどさ。
文学とは普通文学者が考えているより文学的なものではない、この考えは文学的ではないか、と小林秀雄は言ってたね。
まあ、その通りなんだけどさ。
>>565 計算趣味っていうのは、カミュの思想的な評価だろ。哲学的には低級な論文だって
大岡も小林も評価してるね。でも、カミュの文体はいいと。つまり文体の評価と思想の
評価はまた別であると。こう考えりゃ別に矛盾はないやんけ。
>>566 あれも何言いたいのか、聞いただけじゃよくわからんよなあ。
まわりの文学者や文学ファンがみんな文学信じすぎ、文学信者に
みえたから、ただの信者であるだけじゃ十分じゃないっていいた
かったのかと、俺はそう解釈してるが。
河上徹太郎との対談では、「文学信じてる人間には面白いところもあるが
でも面倒くさいところもあるよね」という風にいっていたね。
ああ、そっかあ。論文と小説の評価の違いかあ…
ロラン・バルトは、『零度のエクリチュール』において、カミュの文体を
<白いエクリチュール>と呼んだそうな。
おまいら小林訳『テスト氏』と『異邦人』と『嘔吐』を
読み比べてここに感想文を書きやがりなさい。
そんなのあるのか…読んでみたいな。
>>572 小林訳の「テスト氏」はもってなーい。そして読んだこともまだなーい。
だから無理。 小林訳の「酔いどれ船」が、小林関係では今一番欲しい。
>>573 零度のエクリチュールくらい有名な本なら、図書館にも結構置いてあるんじゃないか
それと、アマゾンで調べたら、最安値491円だった…って、もう最安値あがってるやんけ。
このスレ読んで買ったやつがいるんか?
違う違う。ペストと異邦人と嘔吐の小林訳さ。
>>575 そんなものはないと思う。 ペストも異邦人も嘔吐も小林は訳してなかったはずだよ。
ないよね?全く困ったものだな!!
何が困るのさw 小林以外のひとが翻訳してるんで、それで別にいいじゃないかw
>>574 「酩酊船」なら創元詩集にある。
『ムッシュー・テスト』は岩文で新訳出てるようだ。
評判は悪くない。
岡潔と小林秀雄の対談、岡潔が数学は情緒が大切と言ってるよね、
小林秀雄もそれを感心している。あと本居宣長のやまとごごろと
唐ごころの対比、小林秀雄は人間の意志の力でものごとの全てが
左右できるという西洋的な考えが、ただ嫌いなんだと思うんだょ。
「本をわすれて末のせんさくばかりくわしくしても、むねとする
所の義理にかなはざれば無益の事也」本居宣長読んだ方が・・・
>>579 創元社のページから検索しても、酩酊船がヒットしない。
ググってもでてこないし、神田の古本屋でさがすしか無いかなぁ。
気が遠くなるわ。
テスト氏の新訳か。アマゾンでみるとレビューは全部星5だね。
>>580 岡潔との対談じゃ、岡が漱石や芥川の話題ふるんだけど、小林は
漱石や芥川とは距離あったから、あまり反応しないんだよね。
それで文学の話題では、ピカソやドストエフスキーやトルストイの
話にもってくんだな、小林は。
本居宣長もねー、本居読むんなら古事記伝よんで、源氏よまなきゃ
いけないが、どっちもなかなか手がでないねー。 源氏もいろんな
訳本に手をだしてみたが、だいたい桐壺で挫折するんだw
白鳥も源氏はずっと読めなかったが、アーサー・ウェイリーの英訳で
ようやく源氏を楽しむことができた、という風にいっていたね。
ということは、読むのに挫折したって、それは仕方ないところもあると
弁解の種にもなりそうだ、このエピソードは。
>>584 ほーかほーか、ちょっと紛らわしい書き方だったねw
夏目漱石の「こころ」小林秀雄の心は先生のように揺れ動い
たのでしょうか。源氏物語は一気に読むのは無理ですね。
本居宣長が、あの時代に言ったように世が下るほどに人の感
受性は衰えて退屈な物語に変わったのかな。物語には罪は無いのにね。
日本人の審美眼みたいなものは衰えたという気が、漠然とだが、するなぁ。
でも、人々の感受性はむしろ昔に比べて、感度が上がってると思うときもある。
環境とか条件の変化、いろいろあるだろうけど。
人の世の底知れぬ寂しさは自他対立からくると岡潔は書いています。
その上で芭蕉の「秋深き隣は何をする人ぞ」の句を
「茫々たる三百年この荘重な調べを捕らえ得たのは芭蕉のみ」
と芥川が評しこの考えを敷延して「秋」の一編を創作したと言っています。
自他の区別の薄い世と今のように濃い時代、感受性とは何でしょうか。
他者の痛みが只わかることで無く、自分自身も痛むことかなぁ。
>>587 「他の韻文詩」jかぁ。 入ってる確信はもてないな。 ええいままよ突撃あるのみ。
小林は批評家としては芥川批判から出発したようなもんだね。小林は菊池寛も
重んじてたんだが、その菊池寛がまるで漱石を認めてなかったそうで、ますます
漱石、芥川の場所から外れていくんだよね。
それで最晩年の作の「本居宣長」においては、漱石鴎外が源氏物語に無関心
だったといって、近代文学の正統と、日本の文学的伝統の間に、間隙があることを
示唆していたね。
>>588 我々がそれを望むから、物語は古く読みづらくなっていくと、そう小林はいってたね。
>>589 まあ、別に感受性が衰えてたと嘆くだけじゃ、なんにも前にすすまんし
感受性があがった部分に着目するほうが生産的だな。
>>590 芥川の教養はやっぱり抜群だわ。
>>591の最後から二行目、「文学的伝統」ではなく「物語の伝統」としたほうが
よさそうだ。
漱石なんかは落語聞きながら近代文学の文体を
新しく形成してったって誰か言ってたぞ。
>>593 漱石もずっと「猫」みたいなのばっかり書いてりゃ気楽だったんだろうけどねえ。
まあ、落語はよく聞いてたろうな漱石は。漢詩もうまかったそうで、東洋的教養も
かなりのもんだったんだろう。
ただし源氏物語にたいしては無関心だったと。小林はここに着目してるわけ。
そうそう、源氏って貴族文学だろ。
貴族を題材にした物語ではあるが、当時の教養からすると、物語というものの
社会的地位というのはむしろ低いものとされていたそうだね。
純文学と大衆文学の対立に敷衍すれば、物語というのは当時は大衆文学に
近いものと思われていたというね。
宮廷文学な。貴族階級の娯楽だろ。
そもそも、源氏を源氏たらしめている特色とは?
結局、物語というのは女性がつくり女性が読むもので、男性中心の社会からは
二流の代物とおもわれてたってことじゃないかなぁ。
貴族文学といっても、物語を享受していたのは、下級貴族くらいまでのひろがりは
あったんじゃないの。 まあ、印刷技術もなければ、流通機構もそれほど発達してない
時代のことだから、どのくらいの階層にまで読まれていたかは定かならぬところがあるね。
まあ、伊勢物語とか竹取物語とか他にも当時は物語というのは、それこそ浜の真砂の
ごとくつきることなき量でもって流通していたというのは確からしいが。
宮様が実権を握ってた世界ってのは、
その後の武家政権とは明らかに雰囲気
が違うのは確かだけどね。
貴族の時代は武張ったことはなくて、死刑もなかったというからな。
武家の時代とはだいぶ気風が違うね。 とはいえ貴族時代といえど
下層階級はかなりの負担を強いられて、それがのちのちの武家階級
台頭の遠因になっていくわけだろうが。
で、明治になってから宮様のオーソリチーを
武家社会の感覚と融合させた忠君愛国思想
ってのが唱えられ始めて、男性主義的天皇制
が生じた、と。
諸事神武創業の古にもどしたわけねw
まあ、神武というのもジンギスカンなみの征服者、殺戮者にみえるね
記録よむと。
記紀の編纂は神武だっけか。あの古事記ってのが、
言わないことが大事でさ。推古帝で終わってるのな。
あ、すまん。神武は初代か。邪馬台国論争は歴史板で・・・
古事記を再発見して、邪馬台国九州説を持ちだしたのが
本居だからな。
>>603 記紀の編纂を命じたのは天武ということになっている。
>>605 「馭戎慨言」を読むと、とにかく日本の儒学者が中国を日本より上に
みるのが気に入らないと、それを原動力にして、もの書いてる印象を
うけるな。邪馬台国も大和王権とは無関係な地方的王朝にすぎない
というのが宣長の主張であって。宣長にかかりゃ漢委奴国王印だって
倭の五王だって、みんな地方勢力が勝手にでっちあげた話にすぎない
ってことになるんだね。
それと邪馬台国の位置について論じたのは、新井白石のほうが
先なんだってよ。
何の道もかの道もひとつに混じて心得るはいとくらき事也
儒は儒の立つる本意あり、仏は仏の立つる所の本意あり。
物語は物語の立つる所の本意あり。それをかれとこれとを
強いて、引き合わせるは付会の説といふ物也・・本居さんが怒ってるょ
>>606 本居だとそういう結論になるのか。確かに不必要に
排外的な印象もないでもない。
それで、仏教が天竺ごころな点については何も言わ
ないのな。
まあ、儒仏に引きあわせて読むなんてことは、現代の読者はしないから
そういう心配は現代の読者については、しなくてよさそうだが、「物語の本意」に
したがって読むということは、儒仏のくびきがなくなったとしても、それほど
優しくなっているかどうかはわからんだろうな。あれは難しい観念だよ。
うっかり「私は物語の本意を理解してます。」なんていう顔はとてもできない。
>>608 儒教は天下国家を治める大道、仏教は「父母妻子の恩愛をきよくふりすて
俗世を離れ、山中に篭もり、悟りを開き、成仏するの大道なり」というような
風に、宣長は儒教、仏教を評価していたと思ったね。
「国学」ってのは日本版の儒学みたいなもんだろ。
下手に怪力乱心を語らずで。
小林は孔子も嫌いではなかったと言ってるけども。
>>611 んん、そうね。宣長の国学は、荻生徂徠の古文辞学派から、非常な影響を
うけてるというのが定説になってるね。荻生徂徠は儒学者だから、つまり
宣長の国学は儒学の影響もうけてると。
それで小林がいうには、宣長は徂徠の影響なんか絶対受けてないって
いってるというんだけどね。しかしまあ、本当に影響をうけたかどうかは
時間がたたないとわからないものだ、現在にいて現在をしることは
できない、と小林はいうわけだ。
宣長は最初に朱子学やって、そこから
学問の基礎を学んだんだろう。
小林の態度は孔子に似てなくもない。
『論語』読むと、孔子も実に人間臭い
人物だからね。
小林秀雄は自分自身で本質を考えるんだよって言いたいだけだと思う
今の世のほうが、さらに大きな気がつきにくい「くびき」があるんじゃないかなぁ
だってそれは企業として成立するし国の存続も左右するから
有名な誰かが言ったことを知っても、何もわかってはいない
自分を一番じゃまするのが自分の知識なんだとおもった
>>613 宣長は医学学ぶと同時に儒学を学んだそうな。それで儒学は
徂徠学派の堀景山に学んだそうだから、厳格な朱子学者の
もとで学んだことはないといってよさそうだ。
厳格といえば、国学者賀茂真淵を想起するなむしろ。
>>614 知識がものをみるうえで、むしろ邪魔になることがある、というのは
よくいってるね。
>>606 そうそう、天武な。「大君は神にましませば」。
記紀編纂したのが天武なんて神武の人物像に
影を落としているんじゃないかとも思うんだが。
日本で始めて史書を編んだのは太子で、「推古」の
時代。古事記は推古帝で終わっている。天武の
改革というのは、太子の事跡を過去のものとして
塗り込めるところから始まっているようなところは
あるか知らん。
「蘇我馬子の墓」で小林は太子の作と言われている
経疏について驚嘆の意を示しているけど、太子が
仏教書も論語も読んでいたとする限りは、太子の史書が
中国の史書のような神話的要素の希薄なもので
あったとしても不思議ではないだろう。
禅谷の忠告を慈雲が生涯肝に銘じたように
「様々な意匠」の中で何か一つの考え方に拘る
ことをしないのは、他の全てを信じるため
と小林秀雄が書いています。自分に懐疑的
であろうとした姿勢は、すべてを自分の
夢として語る姿に現れていると思います。
中野重治への弁解のような言葉にその悲しさを感じました。
証明可能なものは信じるには値しない
ということは暗に分かってたとは思う。
安っぽい自己崇拝は最も嫌った。かな?
卑屈と謙虚を混同しないのが難しい世の中かも知らん。
>>616 太子も天皇記、国記という史書を編纂したと言うが、それは残ってないね。
記紀にもそれらの記録は反映しているんだろうかな。とりあえず日本における
歴史編集の事業というのは、太子の時代にはじまったと考えていいんでは
なかろうか。編集というのは、要するに歴史記録の取捨選択だな。何を取り
何を捨てるか、それを選択することはすでにして思想的営為であるといえる
だろう。小林は聖徳太子を「日本最初の思想家」とよんでいるね。
>>617 三経義疏というのは、それ以前に書かれた中国の仏典注釈書と、内容的には
かぶるところが多いらしいね。先行研究の引用がほとんどで、太子のオリジナリティが
あるとすれば、その引用の仕方や、解釈のわずかな差異にあるということらしい。
まあ、なんでこの三経を選んだのか、それだってきっと思想的な理由はあるんだろう。
三経を選ぶこと自体も太子の思想的営為の一部とも考えられるね。
>>618 様々な意匠か。 プロ文が時代の先端になる予感をうけて、時代の見取り図を
書いてみた、という風な印象だな。 改造の懸賞論文で一席になった宮本の
「敗北の文学」は時代の波に乗ろうという意思が明瞭で、地図を書いて見せるより
波乗りの意思を示したほうが、時代の要請にあっていたということなんだろうな。
>>619 パスカルか? パスカルについてのエッセイもいいね。パスカルの賭けというのも
ずいぶんといろんな議論されてるんだな。まあ、小林はパスカルの論述の姿勢に
注目することで、賭けについての議論の大部分をスルーするわけだけど。
>>620 草柳大蔵が小林のことを「文壇の神様」と呼んだことがあるそうで、その評を
聞いて「言うに事欠いて、自分を神様扱いするとは嫌なことだ。」と漏らした
そうだね。
>>621 卑屈も謙虚も小林にとっちゃ自意識の遊戯の一部だったんだろう。
たまに自己卑下めいた言葉も書くが、卑屈という印象は俺にはないな。
むしろユーモアを感じるというか。
>>623 意思ではなく、意志としたほうがよさげ。
正宗白鳥集一巻、読了した。やっぱり、第一次大戦後の
思想的混乱で、白鳥も行き詰まって田舎に引っ込もうと
してんのな。その後の作品は、それまでのと違って、前
向きな感覚が欠けている印象がある。
昭和になって夫人同伴で二度も渡欧してるしな。
息苦しい時代だったせいか知らん。
二度目の渡欧なんて小林とトルストイ論争やって
間もなくだ。昭和ファシズムのギスギスした日本に
辟易したんだろう。
前へ進むのに謙虚さでいく人と理想追求でいく人が
あるとすれば芥川は後者と岡潔は言っています。
昔の日本人の多くは前者かな正岡子規は後者だけど
小林秀雄は前者かな。賭ける、捨てる、思い出す
>>627 渡欧したのは、円本ブームで、海外旅行やれるだけの金が
はいってきたからでしょw
それでヒットラーのドイツや社会主義ソ連、物質主義のアメリカの
様子を見て、感想を書いたそうな。
>>629 芥川が理想追求というのはわかるが、その他は結構むずかしい。
対談で白鳥を理想主義者と小林が評してたっけ?
小林は求道者かな。
>>630 ふーん。男子普通選挙が治安維持法とセットで
履行された時代だ。
田舎に隠遁しようとして出来なかったいきさつや、
その後の震災直前に書かれた代表作なんか読んで
ると、カネが理由なだけの話にもしかねるけどね。
>>631 思想と実生活論争か。白鳥はリアリストで小林は理想主義という
対立軸だったのが、結局白鳥の姿勢も理想主義ということになって
論争の対立軸が消失してしまうという…
>>632 海外旅行いって、ヨーロッパ文学者の生地を見学したいという希望は
折にふれて白鳥は語っているし、そういう希望だって大きいと思うなあ。
復古思想とアジア主義が蔓延する時代には尚のことね。
リアリスムに理想があっても良いだろう?
いや、アジア主義は悪くないが、当時は帝国主義と
セットだから。
「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ」
『徒然草』
難しいもんだのぅ・・・。
>>636 それ白洲正子さんも書いてますよね。小林秀雄と捕らえかたが少し違うのかな
わたしにはわからないです。徒然草は三十八段が読むと完璧すぎて、
「名利につかはれて、静かなる閑なく・・・万事は皆非なり。言ふにたらず、願ふにたらず」。
それなのに、この後二百四十三段まで書いたのか不思議です。
小津の映画好きかね。
『無常という事』は有名だけれども、
川端さんに言った云々なんて件は、
川端にとっちゃ匕首を突きつけられ
ぱなしにされたみたいなもんだ。
そうい一面もあるけども。
山本健吉さんは芭蕉その鑑賞と批評のはしがきに
「目標は作品であって作家でなはない。詩であって詩人ではないのである・・・
・・・作品の背後を探って一人の人間の生活に到達するような探求でなく・・・
・・・個性的なものでなく没個性的なものを探ろうとした。作品を作者の
現実の感情や思想の等価物と考えないからである。」と書いています。
山本健吉さんの態度を尊敬します、作家が全てを賭けたのは作品の方だから。
いや、俺は乱暴な独学者なんて恐れ入ってしまいますな(笑
>>638 うまく言えません。小津安二郎の作品はとても静かで・・(言葉)の表現は少なくて
それなのに、その空間の、何か言うに言えない、感情の余韻が・・・
たとえば速水御舟や村上華岳の絵には普通は描けないものが書いてあるようにです。
いや、それがね。ついこないだ深夜にやってた
パレスチナの自爆テロ映画みてたら、ヒロインが
主人公の男性の、占領地での単調な生活での
退屈そうな顔を指して「日本のミニマリズム映画
みたいよ」みたいなこと言っててね。
静かで良い作品だったけれども。
キタニストだったらすまん。あれも一種のミニマリズムだとは
思うんだが…。
>>644 永井龍男の青梅雨・・・
小林秀雄も車谷長吉も書いてますよね好きだから
これが三島由紀夫のあこがれた清浄な美しさなのかもね
人はなぜ「美しい」がわかるのか 橋本治 何度も読みました
美には傷以外の起源はない・・・ジャンジュネ かっこいいです
白鳥の『人生恐怖図』に登場する夢見る貴婦人みたいな
雰囲気かもしとるね。
そういや、『戦艦大和ノ最期』の吉田満を賞賛してる
文章、どこだっけ。
あ、すまん。もともと小林らが創元から出したのだな。
愚問だった。
白鳥も小林も、悪人なんて信じない点では
一致してるだろう。
善人も信じてたか分からんけどな。
>>644 ミニマリズムなんとなくわかります。こんな解釈ですけどどうですかぁ
三島由紀夫は著書の中で小林秀雄にヴォリンガーの「抽象と感情移入」を
読むといいよって言われて、自身の創作にその影響を受けたと書いています。
「反生命的なもの無機質なもの無機質的な合法則性と必然性を志向する抽象衝動と
生命的なもの有機的なものに対する感情移入衝動とは、正に対極をなす・・・
前者が主としてギリシャ以来の西洋美術を動かし、後者は主としてエジプト以東の
東洋芸術であり、それは感情衝動が生みおとした・・」例えばヒンドゥー芸術でしょうか?
面白いと思ったのは日本は東洋にあって、優れたものは抽象的なものが多いという
指摘です。小林秀雄の旅に関する記述、西欧と東洋に対する態度はこれと関連性が有
るように感じました。確かに茶道・能・光琳・北斎・等日本の美意識は生命に溢れた
物よりも枯山水のように抽象的なものを好むように思います。必要最低限の美
三島はXへの手紙を読み込んでたよね。対談を読んで思った。
>>651 いや、単純素朴ってことかも知らんけどねw
ただ、上辺だけ真似しても近代芸術にしか
かならんと。
小林との対談で、白鳥が
「小説は売れるもんを書かないといかん。
ワシもこの頃気づいた(ワッハッハ」
ってやった後の作品な、『人生恐怖図』、78歳の作。
迷作。
90年代はアメリカが近代アートを一所懸命にやってたけど、
ああいうのは、どうにも駄目なもんだね。歴史のしっぺ返しを
食ってしまう。
『モオツァルト』は天才論ね。
なるほどなぁ…。
「天才とは99%の努力と1%の閃きである」
エジソン
『モオツァルト』読まれてねえし。
昭和21年発表だもんな。解説で江藤が賛嘆してっけど。
俺モオツァルトは読んでないけど、文庫になってるしょ?でもモオツァルトが小林秀雄のアキレス腱だと思うな。
ベートーベンは創作に集中すると「ラプトゥス」って呼んだ
躁状態になったんだと。自我の統合が強まると普段緩んでる
自我の周縁部分が再統合に対して抵抗するんで、一時的に
キチガイみたいな気分になる。
ああ、そうだ。統失の治癒手段としての読書ってないもんかね。
リカちゃんにでも聞きたいな。
俺は病院にかかったことはないぞ。
神懸かりにはなっちまったがなwww
あ、読書療法って当たり前にあんのか。
このクスリは効きが良すぎるか知らん。
「私は別に天才狂人説を取ろうと言うのではない」だと。
まぁ、西洋的天才概念なんてもんは、所詮は近代主義の
鬼子でしかないからな。
665 :
吾輩は名無しである:2011/02/12(土) 03:05:10
テスト氏
666 :
吾輩は名無しである:2011/02/12(土) 03:46:45
グラスの底に顔があったって良いじゃないかっ
667 :
吾輩は名無しである:2011/02/12(土) 03:57:27
白鳥の『頭蓋骨(どくろ)と墓場』のカタコンベの
描写は清々しい。
>>634 まあ、白鳥も武士道は野蛮残虐、東洋思想は東洋思想の復古を唱える
唱道者がいうほどの価値はない、というようなことを良くいっていたから
思想的復古主義の流行には批判的だったんだろう。しかしまあ、ファシズムの
日本が嫌だったというのが第一の動機なら、戦争が終わるまでずっと海外にいて
しまいには海外に亡命したようなかたちになるんではないか。トーマス・マン等の
ようにね。 しかしまあ、白鳥がやったのは亡命ではなく、観光旅行であって
海外旅行が終われば、ファシズムの日本へとしっかり帰ってくるんだな。
>>636 海外から近代批評の方法が日本へ導入され、批評家は批評文の精緻を
競う有様になったが、彼らの性根をみれば、みなおめでたいのである、と。
>>638 小津について書いたのを見たことがない。小林も白鳥も。
>>645 青梅雨は岡との対談でも推奨してたね。
>>649 ドストエフスキー的な悪人は信じてたんじゃないの。「白痴」について
書いたものでは、「白痴」にでてくる馬鹿と嘘つきと卑怯者のことを
書いたといっていたし。岡との対談でも無明ということを論じてたね。
ピカソは無明を描いた画家である、という岡の発言に対して、「無明を
書く名人というもの、その価値をどうお考えになりますか」といっていた。
>>651 三島は小林の文章よくよんでたね。「金閣寺」も小林の「金閣焼亡」という
文章からインスパイアされたと、どっかで書いていたような三島は。
>>652 まあ、他の作品もみなほとんど読んでたろう三島は。
>>654 へえー、せっかく全集もってるんだから読んでみよっと。
「迷作」かw 小林は「天使捕獲」をいちおししてね、その
対談では。
>>656 「モオツァルト」も「ゴッホの手紙」も「ドストエフスキーの生活」も
天才論だよ。 天才の私生活を論じた論ともいえるかな。
世評の高い天才は私生活ではこんなに変人なんだ!って、やはり
大衆ののぞき見的興味を煽るよね。
>>667 小林が絶賛してたね、「頭蓋骨と酒場」。 白鳥はフランス革命の本質を
幻視したのかな、その酒場で。
新潮日本文学全集の巻には『天使捕獲』入ってねえのよ。
小林も神経症患ってたことあったな。この時代には特に
珍しいこととは見なされないが。青山脳病院とか。
>>672 >新潮日本文学全集の巻には『天使捕獲』入ってねえのよ。
ありゃまー。
小林も若い頃は自分は半基地外だったといっていたね。しかし
神経症で入院したこともあったのか。盲腸かなんかで入院したことが
あるのは知っていたが。
青山脳病院ね、斎藤茂吉が院長やってたところ。
小林の時代にはフロイトがブームになっていて、純粋に言語的な
コミュニケーションの技法によって治療をおこなう精神分析は
文学者からも大きな関心が寄せられていた頃だったな。
ぶんがく学研究者 興味の方向(個性・著名人の評価・分析分類・言葉の意味・作者本人)
ぶんがくが好き 興味の方向(普遍・言葉の意思・作品そのもの)
ひと夫々どうでもよいのですがこれらはまったく違うので意見がかみあわなくても気にしないでね。
文学の世界はそれほど広大なのさ。 何しろ、文学に対して絶望した人間
文学への一切の望みを自ら扼殺した人間にも文学はあるというんだから。
『人生恐怖図』は時々、ページの上隅の作品タイトルを
チラ見しながらクスクス笑うのが楽しい作品だね。
戦前の白鳥のフランス紀行文で夫人と腕組みするのが苦手で
二人でトボトボ歩いてあら、通行人にこうやって歩けって
腕組みを教えられた話あるけど、自分は日本で中国人なら
もっと世界的だみたいな件があんのさ。
戦前な人の感覚ってこんなもんかね。中国が共産化して、
逆にライバル意識がなくなってしまったのかもな。
>>668 小林秀雄の戦争責任は日本の近代史みたいに複雑だな。
戦争はいやだ。
けれども戦争が始まってしまったら私には責任がある。
私は日本が負ければ良いとは絶対に思わない。
何の役にも立たないかもしれないけれども
私は前線で家族や好きな人のことを思い戦う人を心から応援する。
そして戦争が終わって勝っても負けてもそれを恥はしない。キリッ
反戦平和とは言わないでも「民族の存亡を賭けた国家総力戦」、
「一億玉砕」みたいなスローガンの乱舞の世の中でゼークトを
持ち出して異を唱えた。岩波がそんなものを出した時代。
>>669 「鈍き刀」は元は荘子の養生主篇の包丁解牛だろうね。
切れすぎな刃物は対象をバラバラにしてしまう。筋目に
沿って使えとは言うけど。
我々は当たり前に「包丁」と言うけど、使いこなすのが
難しいっつう
683 :
吾輩は名無しである:2011/02/15(火) 03:29:32
昔、生まれてことかた抜いたことのない剣をぬいて
みたことがあってね。
錆びてボロボロで使いものにならなかった。
ジンセーって奴。
ティラシの裏。
>>681 ありがとうございます。
わたしなりに納得しました。
>切れすぎな刃物は対象をバラバラにしてしまう。筋目に
>沿って使え・・
白洲正子さんは、職人が刃物を使いこむうちに幾たびも研ぎ磨かれ
磨り減った状態をそれに例えていらっしゃったと思います。
刃物が研ぎ磨かれた歳月は、職人の技と尖ったこころも磨いたと受け取りました。てへっ
太宰治は
「わたしは議論をして勝ったためしがない。必ず負けるのである。」
と言っています。簡単そうだけれども、凡人にはできないその態度に、
芥川に末期の目があったように、太宰には見る目でなく見える目があった
んだなと思いました。小林秀雄は兼好を見えすぎる目と書いていますよね。
687 :
683:2011/02/16(水) 03:18:23
ジンセーあまぐねえさ。
小林が微笑んでる気がしたんで『モオツァルト』から読み始めた
んだが、「ラプトゥス」に罹って先に進まん…
毎ページ、線引いて犬の耳やってると馬鹿らしくなるしな。
集中力がない時に読むと大事な文章読み流しちまうし。
そうですね。
徒然草は現代語も読んでたのしいですね。
原文はその時代のままの息づかいがありこれもまた趣が感じられて好きです。
小林秀雄全集では本居宣長を読むたびに受ける印象が変わるのが面白くてなんだか嬉しいです。
エマソン読んだかみたいな一文もある。
『モオツァルト』。
『アマデウス』を見ながら一緒に読むと嫌みったらしくて実に良い。
盆栽が天才を葬るの図だ。
フォアマンがキューブリックを葬った映画か?
キューブリックの『バリー・リンドン』がアカデミー賞で
フォアマンの『カッコーの巣の上で』に敗北した後に、
キューブリックは『シャイニング』でニコルソンを使って
るもんな。脱線。
その後で1984年に撮ったのが『アマデウス』な。
リメイクの2002年頃は俺も危うく墓穴に放り込まれそうだったしw
なあんだ、おまいら分かってんじゃん。みたいな。
またテラシの裏…
小林の音楽好きは日本のレコード針のパイオニアだった親父さん
の影響があるだろうな。
CDプレーヤーの発売開始が1982年の秋。小林の死んだのは翌年の春。
一つの時代の終わりだったと。
まだレコードは生きてるよ。
反省とか清算とかいう名の下に、自分の過去を他人事のように語る風潮は
いよいよ盛ん・・・・・・小林秀雄
一つの戦争をまともに生き抜いた者のみが次の戦争を欲しない。然らざる
者は「終戦」の翌日から、再び戦争を開始する。林房雄
今、二人の言う、その通りです。
石原に対する嫌みか。
勇気と忍耐を巨大な虚無にために浪費するよりも
それを今、惜しまず使い切る。
「モオツァルト」論はモオツァルト論としては強すぎるだろうか。
いや、そんなことはないはずだ。
なんてな。非常にためにはなった。
俺でなきゃ絶対書けないはずの文章書くからな。
小林は自分の人生には、モオツァルトの音楽のように低音部がないという
自覚があったか知らん。家庭人として概ね健全な生涯を送るには、
時代の演奏に身を委ねなけりゃならない。
うまいこと言ってんじゃねー!
合いの手を有難う御座います。
バッハみたいに堅実に生きた小林はモオツァルトを好み、
俺みたいな自堕落な暮らしだと逆にバッハに走るんだな。
そんなに熱心なファンでもないけども。
僕が、はじめてランボオに、出くはしたのは、二十年程昔であつた。
あの頃にまとめて体験した異様な感覚世界は、いろいろと
手傷を負ったりしたせいで、随時とぼやけてしまったが。
それはすごくよくわかるな。
芸術家にとって最も驚くべきは在るがままの世界を見るという一語に尽きるのだ
それがこの世のものであろうがこの世のものでなかろうが・・・最後には・・・
忘我の謙譲をもって見るということに他ならない。
天才は夭逝か長寿のどちらかですね。
理想の追求が過ぎると・・・自分が消えるほど薄くなると長生きかな。
>>691 徒然草からは時代の息づかいを感じる、その通りだよね。鎌倉末期の時代の
空気っていうのかな。 日野資朝の逸話や、仏教界にまつわる皮肉なエピソード
から感じられるのは、既製の権威が崩壊しつつある時代の空気というような
もんだな。 まあ、いつの時代でも既製の権威とは常に崩壊しつづけている
ものかもしらんけどさ。
>>692 「モオツアルト」とエマソン?
>>695 墓穴からの生還おめ
>>697 ダイヤモンド加工の技術者だっけ? 小林の親父さん。
>>699 「精算という言葉は大嫌い」と昔からいってたね、小林は。
>>704 ないんではなく、普通には聞き取れないほど低い音なのかもしれない。
>>709 夭折だろうと長寿だろうと、どっちにしろ死ぬことには変わりあんめー。
長らく見失っていた自分がそのままゴロリと小林の文中に
転がっているのを見つけるのは驚きだ。
必然でもあるんだが。
安易に触らないようにはしてたからな。
小林の亡霊に会ったのは十年前、真昼の幽霊でもちょっとは
不気味だったが。
そう、『感想』解禁を売りに全集が再販された頃だ。
間もなく小泉フィーバーが始まった。
>>710 エマソン選書『精神について』の冒頭は良いぞ。
精神について、なぜ歴史が最初に語られるのか。
716 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 12:42:29.18
全集再販を期に出た新潮社の『百年のヒント』は2001年4月
だから、ちょうど第一次小泉内閣発足の頃だな。
小林に会ったのはその後か。
717 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 13:00:46.63
小泉のネオコン新自由主義改革の思想背景として小林の
ベルグソン論が利用されたのな。小泉が進化論発言やって。
所詮は生兵法だったけど。
自演連投丸出しスレ
719 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 13:17:36.03
良い話だろう。あれからちょうど十年だ。
胸熱。
721 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 13:52:24.39
『百年のヒント』の最後ページの本文組見本の最後箇所見ろよ。
私の人生観
「ヒットラアの様な演説気違ひになりますと、雄弁術といふものが
発達すれば書くといふ様な陳腐な表現形式は、将来大打撃を受けるで
あらうといふ様な事を「我が闘争」の中で言つてをります。人によつて
考えは…」
小泉いらっしゃい、みたいな切り方。
722 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 15:50:41.81
ふた昔前の文学青年みたいな知能レベルのおじさん
連投に次ぐ連投でひとり遊びご苦労様です!
放置はもったいないので晒しておきますね(笑
>長らく見失っていた自分がそのままゴロリと小林の文中に
>転がっているのを見つけるのは驚きだ。w
>小林の亡霊に会ったのは十年前、真昼の幽霊でもちょっとは
>不気味だったが。ww
723 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 15:58:12.89
ようボク、二桁の足し算は卒業したかい。
みんなグルなのさ。
724 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 16:06:52.48
>みんなグルなのさ。www
725 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 16:17:18.59
説教せんとならん。小林を下敷きにナチズムの焼き直しとは。
726 :
吾輩は名無しである:2011/02/22(火) 16:23:41.63
『アマデウス』のディレクターズ版再公開が翌2002年だ。
何やってやがんだか。
>>715 エマソンってボストン生まれなのかぁ。俺と一緒やんw 親近感が湧いたな。
>>717 小泉がベルクソン引用したことなんてあったっけ? まあ、当時はアメリカ
絶好調だったかんね。 別に余計なイデオロギー的修飾をくわえんでも
アメリカとの連携は十分正当化できた。
>>721 小泉もヒットラーにたとえられたことは、結構あった。それは正しい。
ただし、今の世の中、ちょっと演説がうまい、ちょっと権力志向が強く
見られる、となると、たちまちヒットラーのレッテルが貼られるので
あんまり何度もシールを貼り直していると、粘着力はだんだん弱くなる。
小泉さんがヒットラーに例えられた。それならばたいしたことでは
ないのだけれども、そのときの国の様子そのものがそのようで有っ
た。その異様な状況に国ごと酔うそのことが恐ろしいのだと思う。
粘着力など核心ではない。何かをきっかけに人のどこからか湧き
上がりそれは誰にも止めらることができないそれが証明された。
小泉の絶叫演説なんか上手なもんか。ボロを出さない
徹底したメディア操作は畏れ入ったけどね。
俺が本気になったらすぐ降りたよ。
>>729 まあ、メディア時代の政治ってそういうもんでしょう。 選挙で
勝つためには、テレビの利用が必須。 これは日本でもそうだし
欧米諸国でもみんなそうなんだってね。 とはいえ、批判的な
視点を保ち続けるということは、誰にだってできるわけで、そういう
当たり前の考え方を忘れないことが重要なのかなと。
そういう「危険な」考え方はレーガン政権辺りから支配的に
なったんだと思うよ。日本では小泉達まではやらなかったけど。
アメリカのナチズム紛いなそういう政治スタイルを誰も声を
大にして批判したりはしなくて、馬鹿朝日辺りがスゲーって
な調子で取り上げるんで、皆、染まってしまってて、俺も
小泉時代までは疑問にも思わなかった。
>>732 それもよく2chでは見かけた話だが、本当かなぁ。半信半疑だね。
>>733 選挙で国民の手で政治家をえらんでるから、ナチズムと一緒にするな!と
猛抗議されそうだな、そんなこというと。
>>735 確かにそういう批判はあったが、それでも同時テロのあと、イラク戦争がおき
アメリカは現地の治安維持に苦慮して、膨大な犠牲を出し、それへの批判が
おおきくなって、共和党は負け、それで黒人大統領オバマが誕生したわけで
それはアメリカによる自己批判の能力のあらわれ、民主政治への希望であると
当時は受け止められてたろう。
自民党がヒットラーの選挙戦略に学んだ? まあ、選挙戦略に学ぶだけなら
別にいいんじゃないですかw 政治家は選挙に勝つために、ほとんどあらゆる
手段を駆使しなくてはならないものであって。まあ、選挙で勝ったあとに全権委任法
などを通して、選挙制度をやめてしまうとか、そういうことをしなけりゃいい。
しかし、自民党もヒットラーの選挙戦略に学んでるわりには、最近はさほど
パッとしないね。 支持率は一応上昇してるが、民主党の敵失に助けられてる
だけだね。
その本でアメリカのSWCに睨まれてマルコポーロ廃刊事件に
発展したの。この魔書は2005年の日本の9.11選挙でも大活躍
したであろうw
へえ、その本とマルコ・ポーロ事件を媒介するのがSWCと。
本当かいな。 ヒットラーの選挙戦略を分析したけど、ガス室は
ねつ造という主張とは直接関係ないし、SWCがその本に抗議した
なんて記録はあるんかいな。たぶんなさそうだな。
やはりSWCは、ヒトラーそのひとについての見直しよりは、ユダヤ人の
ホロコーストにたいする見直し、抗議の焦点はここに集中するだろう。
ヒトラーの選挙戦略がうまかったとか、演説がうまかったとか、アウトバーンを
つくったのはヒトラーであるとか、そういうこといったって、別にそんなに
厳重な抗議はこないと思うよw
PDF読みなさい。これは周知の事実と考えるべき。
『考えるヒント』の「ヒトラーと悪魔」も面白かったろう。
調べたら日本で『我が闘争』の翻訳が始まったのは
1932年、天皇機関説事件と国体明徴声明の少し前
くらいだ。小林はもちろん、同時代で読んでる。
>>739 ああ、pdf読んでみると、SWCが抗議したって書いてあるね。じゃあ、俺の
推測は間違ってたか。
「ヒットラーと悪魔」、確かにおもしろかったね。
「ナチズムとは組織や制度ではない。むしろ燃え上がる欲望だ。その
中核はヒットラーという人物の憎悪にある。」 これがマイン・カンプを
読んだ当時、小林によって書かれた短評なんだけど、当時の小林は
現実主義者ヒットラーみたいなことも書いてたんで、小林のヒトラー評価も
それなりの振幅があったんではないかと思われるな。
こんな文章もいいね。
「ヒットラーは一切の教養に信を置かなかった。一切の教養は見せかけであり
それは様々な真理を語るような振りをしているが、実はさまざまな自負や欲念を
語っているに過ぎないことを確信していた。」
「ヒットラーと悪魔」は、「十三階段への道」という映画を見て書かれたエッセイ
なんだが、映画についての感想を書いた文章は、なにか含みある書き方だよね。
「私達は事実をみていたわけではない。が、これは夢ではない、事実である、
と語る強烈な精神の裡には、たしかにいたようである。」
終わり箇所が良い。
「しかし、正銘の悪魔を信じている私を侮る事はよくない事だ。
悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力が
あろう。」
悪魔は信じても神は信じないような奴ばかりな時代だが。
小林は「社会改良家」に対して軽蔑的なことを言う。
理想的な社会には愚かな人間は居場所がないからだ。
そこは分かっていて、凡百の保守言論人とは違ってサルトル
なんかに関心を見せて見る。
俺は決して有り得ない奴なんかじゃないはずだ。
今の時代のレベルが低すぎるのだ。調子に乗らせる
わけにはいかない。
「でも宗教問題に限らぬが、宗教の問題も現代では、通念としてしか
もう現れない。不思議なんだな。宗教というものを誰も、もう考えて
ないのね。ぜんぜん考えてないのよ。宗教というようなものが、そういう
大変パラドクシカルなものであるということはぜんぜん考えてない。
だからみな合理主義なのよ。非常に浅薄な合理主義だな。だから驚い
ちゃうのだな。驚いたって、すぐ忘れるから、驚く甲斐もない。ああ、
そういう人もあるのかと…。」
河上徹太郎との対談「白鳥の精神」昭和三十八年
小林秀雄は、当時すでにジャーナリズムを信じすぎてはいけないと言っている。
大衆が嫉妬、欲望から逃れられず意図された敵を持って、扇動されやすいかを見抜いていた。
また、吉田満の『戦艦大和の最後』の出版に尽力した、その中で伝えきれなかった
事を、その後『戦艦大和』の中で吉田満はその本意を伝えている。
一旦始まってしまえば、戦争の中には、人を酔わせ、後戻りを許さない、美(死)があると警告している。
これ聴きたい…
NHK第二放送
昭和三十八年一月一日
「現代の心」
司会 手塚富雄
小林秀雄
鈴木大拙
南原 繁
国会図書館とかで聴けたり…しないよね。
白鳥が死んだのが前年の暮れ近くなんで。
大拙の西行伝も面白かったが。
小林は国家を聖と見なしていたろうか。
近代的国家主義というものは、そうしないと成り立たないところはある。
751 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 12:32:47.85
日本の近代愛国主義は、封建主義的忠君思想の延長。
鉄斎は儒者、鉄斎について何か書かれた文章は始めて読んだが。
前近代世界の人だ。この時代からは遠いはず。
孔子は求道者だ。小林は孔子にも似ている。
752 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 12:47:08.05
鉄斎的なるものへの遠さは、論語的なものへの遠さだ。
論語を読まずして「論語読みの論語知らず」を
言ったって仕方ない。
753 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 13:15:46.88
>>746 戦争において死=美でなければならないのは、
それがやはり聖でなければならないからだ。
754 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 13:20:07.49
国家なる聖の前にはいかなる俗も情け容赦やく徹底的に弾圧し、
根絶しなければならない。
755 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 13:23:30.49
逆らうならは虐殺も何ら躊躇してはならない。
国旗国歌の聖ならんがためだ。
756 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 13:32:22.64
愛国を食い物にする寄生ブルジョアの奸族の
如きは生かしておくは国の恥。
正に聖涜であると。
757 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 13:33:50.63
見つけ次第、殺せ。
血も涙もなく屠殺せねばならない。
758 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 13:39:54.96
個人を抹殺し、自由を弾圧せしむ。
ただ唯一、国家なるものの聖と
ならんがためにである。
759 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 13:49:20.61
・・・と、まぁ、これがいわゆる愛国者精神というものですね。
似 非 愛 国 主 義 の ブ ル ジ ョ ア 階 級 を 虐 殺 せ よ 。
>>742 「諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、
『マイン・カンプ』に怪しげな逆説を読んでいる。福音書が怪しげな
逆説の蒐集としか映らぬのも無理のないことである、と。」
>>743 小林が愛読してたのは、ランボー、ボードレール、ニーチェ、ドストエフスキー
みんな近代の進歩主義を軽蔑してるようなのばっかだもんね。当然のこと
ながら、小林の姿勢も、そういう詩人、文学者、哲学者に深く影響される。
反進歩主義の極北といえば、シオランの名前もあがるかと思われる。
小林もシオランを読んでたそうな。 「歴史とユートピア」から、一節ひこう。
「地上楽園の信奉者たちと私の不和の、その深い理由を指摘せねばならぬと
したら、私は次のように明言しよう。 すなわち、人間の抱く一切の企図が
遅かれ早かれ人間自身に刃を向けることになる以上は、理想的な社会形態を
追求してもむだなことだ、と。人間の行為は、たとえ高潔なものであろうととも
結局は人間を粉砕するべく、人間の前に立ちふさがるのである。
各人は、例外なく、おのがじし夢見るものの犠牲となり、みずから実現するものの
犠牲となるだろう。」
>>744 レベル? 現代のレベルが低すぎるかね。 じゃあ、レベルの低い対象は
無視すればいいね。それが一番。レベルが低いとつぶやくとすら過剰な
敵意をあらわすことにつながると。
>>745 白鳥が死にのぞんでキリスト教に改宗したっていうのが、当時は驚きを
もってとられられていたそうだね。 こっちは当時の世相や白鳥の位置に
ついて知らないことが多いから、そんなに白鳥の改宗が、当時の文壇で
そんなに驚きをもって受け止められたということに、まず驚いてしまう。
>>746 戦後、先の戦争についての、おびただしい数の論説、賛美、評価、反省
非難、罵倒がジャーナリズムにあふれかえったが、真に価値ある言説は
稜々たるものと小林はいってた気がするね。 その数少ない価値ある
言説が「戦艦大和の最後」であったと。
>>747 国会図書館いって調べてみるか。
>>750 愛国心については否定はしてなかったろうな。「愛国心は性欲のようなもの」って
いう発言があったね。 小林は性欲というものそれ自体は否定しない、だから
愛国心も否定しないのさ。 まあ、性欲丸出しのふるまいは、ガツガツして
みっともないだろうから、節度ある振る舞いは必要だろうがねw
白鳥は「国家観については書けない」っていってたね。内村鑑三の「偶然
生まれたる国は愛するに足らず」という言葉をひいてみたり、小林よりは愛国心と
いうものにたいして、もっと用心深く構えてるね。
『プラトンの「国家」』みたいな文章が小林にはあらあね。
古来、聖なるものである宗教性を抑圧して、国家を聖なる
ものとするのが近代だと言えるだろう。
もっとはっきり言えば「国家」という近代主義的世界観に
おける人工概念に。
死と美が合致するのは、それが永遠に通じる宗教的な
意義を帯びる時だ。近代国家総力戦における死も、ある
種の殉教と見なされる。
766 :
粕漬マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2011/02/25(金) 19:22:39.91
もしかしてNは元Cこと7sqafLs07sか? そうだとすれば懐かしいな。
マグナはウザいから書き込まないで。
768 :
粕漬マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2011/02/25(金) 19:27:33.20
まだ川上スレッドのことを引き摺っているのか。もうどうでもいいだろ。お前にとってはw
いや、カシス問題だよ。てめーが自演も辞さないクソコテだって事はわかってんだよ。だから嫌いなんだよ。
770 :
粕漬マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2011/02/25(金) 20:30:26.78
くだらん。もう自演はいいだろう。キャラを変えるのは自演の範疇では無いだろうしな。
そういうことで他人を排撃していっても詰まらんぞ。
なかよくしょうね。
もうすぐ桜の季節だよ。
みんなもお花見行くんでしょ。
>>770 俺はお前が嫌いだし、お前は俺の敵だ。これは変わらない。
マグナ=狸ってのは別によかったのか?
違うでしょ。
>>764 聖なるものは抑圧されてるか。誰の目の前にもあるのに、それに
みんな気づかないだけかもしれない。
>>765 プラトンの国家ヒエラルキーにおいては、「美しい」国家ほど様々な
国家制度を比較した場合の順位は低いんだな。僭主独裁制が
もっとも美しい国家であるんだ。(ただしそれは最悪の国家でもある)
「美」という観念と、正義、理性、国家という観念は容易に両立しえない
という、そういう思想があるね、「国家」編には。
>>766 なんか、いろんな奴に間違われるが、俺はそいつでもないよ。
というか、そのハンドル使用した記憶ないよ。
まあ、マグナも鈴木もイカ娘もザリガニも、俺から見たらそんなにレベル
かわらないし、あんまり無駄な喧嘩すんなよw
>>776 「最も美しい国制、僣主独裁制」て、皮肉じゃなかったのか・・・
>>777 皮肉もあるだろうが、単なる皮肉とは思わないな。
国家から美をつかさどる詩人は追放されねばならない、というのが
プラトンの「国家」における主要な主張であることは間違いないわけでね。
そういう意図は読み落としてたなあ
他の対話では正しいものは美しい的な主張はよく見られたと思うから
読み返して比較してみよう
リビアとか僭主独裁制っぽいよね。 カダフィが独裁者なんでしょ。
大佐は砂漠の読書男だ。
「緑の書」か。 日本語で読めるんかな。
「偶像崇拝」が面白かった。「赤不動」を審美的に切って
捨てて如来来仰図を持ち上げる。宗教美術に対して現代の信仰の
喪失と美術の自律性を論じ美術家は偶像崇拝家だと言う。
古典美術から流行のピカソへ話題が飛び、二科展の現代美術の
技巧的騒乱状態に話が移る。くたくたになって会場を出て
食堂で牛乳を頼むと、婆さんが間違えて苺の氷水を出して来る。
小林はそれを見て子供時代の記憶を思い出してしぼんでしまう。
見事なオチだ。
冒頭の「赤不動」の切り方が宗教的なものを安易に無視して
つまらんと思いながら我慢して読むと、最後の場面がアイロ
ニーに満ちて読めるのだな。
プラトンの「国家」はプラトンの思想だが、これをソクラテス
から読み解くのが小林でないか知らん。
プラトンの書くソクラテスの問答法は、議論を決して逸らさない
芯の通った態度でなかなか面白かった。
ディベート術なんてものは言葉そのものの意味でソフィズムだな。
ソクラテスは祈りの人だ。
クセノフォンの『ソクラテスの思い出』をしてソクラテスは
実は孔子に似ていると言った人もいるが。
788 :
吾輩は名無しである:2011/02/26(土) 03:43:20.22
新潮で全作品出してんのか。
書き入れ時だな。
そうですね。
最初の人は書かない、それを書けないと知っているから。
禅の公案
対話ですよね、言えなくて、書けないけど、ある
自分で考えるしかない
790 :
粕漬マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2011/02/26(土) 12:47:37.46
>>776 ふむ。文体が似ているように思ったのでな。
痛い奴が沸いて来たなw
小林が『モオツァルト』書いたのが今の自分と同じ年の頃だと
いうのがどうにも痛い話。時代が違うとは言え。
「無常といふ事」なんて四十の作だ。
「記憶するだけではいけないのだろう。
思い出さなくてはいけないのだろう。」
おまえら助けてょ
小林世代はアラフォー男子は「初老の男性」だからな。
それにしてもだょ?
>>791 おめえのレスがいちばん痛いよ
低能おやじ
アタマの良さそうなバカハッケン
だから図書館の書庫の片隅に眠ってるだけの書物は存在しない
のと一緒だと言ってるだろ。
クイズコンピューターとかじゃねえぞ?
(´・ω・`)?
文化のない国は何でもコンピューターで解決しようとする。
801 :
吾輩は名無しである:2011/02/27(日) 02:46:52.61
「おふえりや遺文」は良い。「地獄の季節」の「錯乱」の
余力を吐き出した感覚。
802 :
吾輩は名無しである:2011/02/27(日) 03:12:53.04
本人談でランボオに出会ったのが廿三と。
分かる分かる。
803 :
吾輩は名無しである:2011/02/27(日) 06:22:39.49
小林秀雄は批評家という肩書きだったが、中身は芸術家。他の批評家と比べる自体が間違いだ。
804 :
774:2011/02/27(日) 06:25:06.79
小林秀雄は批評家という肩書きだったが、中身は芸術家。他の批評家と比べる自体が間違い。
「モオツァルト」で言うならロダンみたいなもんだな。
彫像で表現するか文章でやるか、みたいな。
806 :
吾輩は名無しである:2011/02/28(月) 02:42:56.92
あ、そうだ君たち、『近代の超克』の諸井三郎の近代音楽論は
面白かった。小林の影響のある文章の標本みたいなもんだ。
807 :
吾輩は名無しである:2011/02/28(月) 03:30:25.28
なぜかアーヴィング・クリストルを思い出した。
「度を越して疑う者は信じるに至る」、これは含蓄のある
言葉だ。懐疑論では不徹底ってことだ。
懐疑論は知的モラトリアムだ。おそらく精神的でもある。
大抵はポーズに過ぎない。下らないことなら何でも鵜呑みに
して暮らしてる。
二酸化炭素温暖化説とかな。
なんで鈴木がしぶとく生き延びてんの?
心ある人の支えの中でなんとか生きてる今の僕で、弱音晒したり愚痴をこぼしたり人の痛みを見て見ないふりをして。
「最上の批評は常に最も個性的である。そして独断的という
概念と個性的という概念とは異なるのである。」
様々なる意匠
「個」性、「差異」でなしに。
「自分らしさ」なんて態度は既に他者の眼差しに媚びている。
皆と同じでいたければ、自分であることは出来ない。
自分であるには、全てであることは諦めなければならない。
自分であることは、宿命であると。
『感想』中断は白鳥の教会に帰って死んだ翌年だな。
ソ連作家協会の招きでドストエフスキーの墓参りに出掛けた
まま、再開しなかった。
817 :
吾輩は名無しである:2011/03/05(土) 02:54:26.65
ラッセルの岩波『西洋哲学史』にやられたんじゃないかとか
あるけどな…。
818 :
吾輩は名無しである:2011/03/05(土) 03:18:03.68
若い頃のは魔筆の冴えがまだまだだからな。
西洋文化で弛み切った脳に小林の古典の蘊蓄が沁みるんだろう。
ラッセルはみすずでした…。
まいったー、『本居宣長』が面白い、、、
何この冒頭の遺言書の話題?
821 :
吾輩は名無しである:2011/03/06(日) 03:06:03.88
堪えきれずに一番、美味しそうなのに食いついてしまった。
ヴェーユも言ってたけど、お腹がすいてパンにかじりつくような
読書が最高だ。
822 :
吾輩は名無しである:2011/03/06(日) 03:19:32.27
シャクチョークーの別れ際の厳しい忠告から始まって、
念入りな宣長の遺言について、死後「ところが、仔細はやはり有った」
この冒頭の掴み技。まて、次号。みたいな。
823 :
吾輩は名無しである:2011/03/06(日) 03:26:27.00
「本居さんは源氏ですよ。では、さようなら。」
これは厳しい。
824 :
吾輩は名無しである:2011/03/06(日) 03:53:48.92
眠れなくて桜の短歌を一年で三百首とか、厳しいよ。
3/1に新潮文庫から橋本治の『小林秀雄の恵み』が出たけど
あれはどうなの?誰か読んだって人いませんか?
僕は願い下げにしときます。
新手の新興宗教か。
世の中にはやりきれない瞬間はあるもの。
2002年第一回小林秀雄賞とか、辛すぎるだろう。
次は池田晶子賞狙えよ。
小泉改革ワールドのチープなイメージがダブって、重さゼロだな。
調べ直したら、ベルグソンをやっつけてるラッセルの『哲学史』が
邦訳されて、それからベルグソン論の『感想』が連載開始したのな。
調べ違いだった。
ラッセルの『哲学史』は、不毛な現代社会への導きみたいに
終わってる。俺も読む前からそれは何となく分かったし、それだけ
じゃラッセルは片付かないのも雰囲気的には分かってた。
大した話ではないんだが。
三島との対談も『感想』開始の頃にやっとる。
832 :
吾輩は名無しである:2011/03/16(水) 04:22:33.35
『宣長』は戸坂とかシュライエルマハとかホロートとか
分からないと厳しいかも知らんな。
833 :
吾輩は名無しである:2011/03/27(日) 20:23:03.30
串田純一
834 :
吾輩は名無しである:2011/04/18(月) 00:28:56.79
こいつも外来種だったんでないかな。
835 :
吾輩は名無しである:2011/04/18(月) 20:31:58.19
今となっては、お笑い芸人だなw
「女は俺が成熟する場所だった。」wwwwwwwwwww
何を気取ってまんねやw
>>835 それ誰か哲学者が言ってて今ではすっかり凡庸な言葉になりましたね。
でも実感こもってるよなあ。
838 :
吾輩は名無しである:2011/04/18(月) 21:04:18.91
>>836 女受けを狙ったパフォーマンスに過ぎないんだなw
「本居宣長」の場合は、宣長を通じて大和心という処世術に
目覚めたってことが言いたかったんだろうな。「間違ったことを
言っても良いじゃないか、私は保守の本流でいたいのだ。」と、
いう訳なんだろうな。無学な俺にもそのぐらいは分かるw
>>838 その通り。馬鹿は無理して背伸びせんでもよい。
馬鹿なりの読み方をして満足しているのが一番だ。
840 :
吾輩は名無しである:2011/04/21(木) 22:32:49.75
まわりがよってたかって持ち上げて
そのおこぼれに預かろうって魂胆だからな
それにしてもタダの酒乱だって事くらいは、はっきり言うべきだよ
酒飲むともう目つきからしてトロンとしてキチガイ丸出しだったらしいね
帝大で学問に挫折して文学に逃げ込んだ人間が
どのように振舞えば自身の面目と世間の憧れを獲得しうるか?
この最初の具体例が小林秀雄といえる
そこら辺の職人やチンピラが「女は俺が成熟する場所だった」
といっても世間の嘲笑を買うだけだが
帝大出の良家の子弟が言うと唸り声が上がるのだよ
で、こういった小林流の処世術はジャンルこそ違え
例えば香川照之や小沢健二に受け継がれているのです
なんだか陳腐な意見だね(笑)
初代高学歴文芸タレントというのはほぼ確定した見解だけど?
ふぅーん。
845 :
三浦 ◆aKZjWmIOl2 :2011/04/22(金) 07:59:03.93
『本居宣長』は処世術じゃなくて、日本人の本質を掴むって内容じゃなかったっけ?
まあ、そうだけど。
847 :
吾輩は名無しである:2011/04/22(金) 13:23:14.08
なんだかんだと言ったって、ヒョーロン家だろ?
他人のフンドシで相撲を取ってるだけ。
いいの悪いのなんてのはバカでも言える。
小泉なら「感動した!」だって全国放送だ。
くだんない。
848 :
吾輩は名無しである:2011/04/22(金) 15:43:11.44
何の世界でもそうだが、
ヒョーロン家の言うことなんか実際のプレーヤーにはクソの役にも立ちゃしない。
そのクソ未満を「神様」と敬っているのが、しかしあんたらなんですか、と。(嗤)
まあ、物をちゃんと読んだことのある人間ならわかるだろうが、
評論家だの作家だのという肩書きだけで踊らされて、
やれあいつは評論家に過ぎない、とか語る連中ほど、哀れなものはないな。
世間の評判、物の上っ面。そこでしか判断してこなかった悲しい人生w
小林秀雄はガチだよね。
851 :
吾輩は名無しである:2011/04/22(金) 22:54:03.28
>物をちゃんと読んだことのある人間
おい、誤解すんなよ。俺は「物をちゃんと『作っている』人間」だよ。
だから、そーゆってるんだよ。
あっ、ゆっちゃった。あはははは。^^;
あんだって?
>>847 >他人のフンドシで相撲を取ってるだけ。
作家を歴史人物にたとえるのなら
小林は歴史年表を作ったやつなんで
天下は取れないが歴史と天下を語る
こういうずるい事を小説の世界で一番最初に考えたのは大したもんだよ
そういう勝ち方ね
坂口安吾が小林秀雄は批評で文学を生かした男だって言ってたよ
そうだよ
「我らの世代によって初めて自国の文学の歴史を語れるのだ」と啖呵をきったわけだから
そう言うのは批評でしか出来ないの
つまり、小林によって初めて「国民文学」というスキームが作られたってわけ
それまでは個別の流派と小説が散在していただけだから
856 :
吾輩は名無しである:2011/04/23(土) 11:00:26.21
小林持ち上げたのは左翼文学全盛時代に
それだけじゅあかんよと言ったからだよ
そういう政治的な意味が大きい
ちょっと持ち上げすぎだけど、担ぎやすい人物ではあったんだな
857 :
吾輩は名無しである:2011/04/23(土) 11:43:45.44
>それまでは個別の流派と小説が散在していただけだから
いつの時代でも、付き合っているのがどのグループでも、
作家は一人一派だよ。常にたった一人で自己完結だよ。
その意気地が無いなら、正に「国民文学」作家でしかないよ。(笑)
>>857 >いつの時代でも、付き合っているのがどのグループでも、
>作家は一人一派だよ。常にたった一人で自己完結だよ
あの頃は所属雑誌や学閥で動いていたからなあ
そういうバラバラの奴らをプロ芸を対抗軸として国民文学というハッタリをかまして
その神輿になったわけだ
まあ、戦後に統一社会党に対抗して保守合同を実現した
どっかの政党のようなものだ
君はもう少し文壇史を勉強しなさい
わかりましたか?すずきくん
コテハン外しはもう少し上手くしないとね
残念だけど、それ俺じゃないよ。俺は自演はしないって言ってるの知らないの?
861 :
吾輩は名無しである:2011/04/23(土) 16:45:36.91
>>835 「意匠」の一句な。つまらん奴はつまらん箇所ばかりこだわる。
初期の作品群は小林がランボーに遭遇してから作風が激変する
のが面白い。
あ、「Xへの手紙」か。初期作品は生乾きの感は否めないが、
まだ二十代だからな。小林の出発点を理解する意味で読むのは
無駄ではないだろう。
Xは30代じゃなかった?
まだ熱に浮かされてて、「俺がランボオだ」って口の端に
出かかってるよ。写真に写れば一人だけソッポ向きたがって
た時代だろ。
ファンタン・ラトゥールの描いた食卓のランボーを真似て。
ランボー翻訳が二十代の終わり頃だ。そんな顔もしたくなる
だろう。翻訳するってのは、読み流し出来ないからな。
866 :
吾輩は名無しである:2011/04/24(日) 00:39:29.91
原子力一家と同じで純文学一家なんだよな
文芸神獣はさしずめ東電だな
しかし私小説をめぐる論争ほど珍奇なものはありませんぜ
小林白鳥にしても平野謙にしても中村光夫にしても
純文学なんて大提灯でっちあげたもんだから
ああいう事になるんだな
やっぱり根底にはプロレタリアート解放に資するべき左翼文学への対抗意識があるんだな
小説はなにか有益なものという幻想が。
867 :
吾輩は名無しである:2011/04/24(日) 02:19:11.12
誤訳だらけのランボー可哀想w
だって英訳本からの翻訳だろう?
東大仏文だって。
母国語だって誤読しかしない奴らばかりだからなw
>>866 >小説はなにか有益なものという幻想が。
それはないよ
まあ、小説をダシにして自分をいかに売り込むか?
という魂胆があったとは思いますが
ダーウィニズムの及ぼした思想的影響について不注意なんで、
ドストエフスキー理解も一歩、踏み込みが足りないのが残念。
ベルグソンどまりだからな。
「ドストエフスキイの作品がソヴェトで評判が悪いのは、彼の
小説の反動的な或いは反革命的な思想によると言われています。」
ドストエフスキイ七十五年祭に於ける講演『考えるヒント3』
一般的なドストエフスキー理解ってこんな調子だな。小林も
特に異を唱える風ではない。
1848年〜、フランス10月革命を発端にした「諸国民の春」
1850年代、ロシアで社会主義サークルの弾圧とドストエフスキーの流刑
1859年、ダーウィン『種の起源』
1860年、ツルゲーネフ『父と子』(ニヒリストの誕生)
1861年、アメリカ市民戦争(南北戦争)勃発
1864年、ドストエフスキー『地下室の手記』
1866年、ドミトリー・カラコーゾフによる初の皇帝暗殺未遂事件
1870年代、ナロードニキ運動
ロシアへのマルクス主義の流布は遅かった。
カラコーゾフもニヒリストだったわけだな。
>>872 小林の語り口って、そこから深いところにだんだん入っていく感じじゃないの
>>873に追加
1861年、近代イタリア王国建国
1870年、ローマ・カトリックの法王不可謬宣言
1871年、普仏戦争でフランスの敗退をきっかけに法王領消滅(バチカンの囚人)
大審問官を書いた『カラマーゾフ』執筆は1878〜80年。
>>874 小林の『カラマーゾフ』論は未完で終わってる。
カラコーゾフ事件くらいは眼中にあったようだが、上手くピントが
合わなかったのか知らん。
カラマーゾフ論は1941年だ。
『カラマーゾフ』の構想時のタイトルは「偉大なる罪人の生涯」。
主役のモデルはロシアの皇帝暗殺未遂犯第一号だなんて書いたら
厄介なことになったかも知らんけどな。何しろ天皇制ファシズムの
真っ只中だ。
岩文の年度別出版目録の1938年には、小林訳の『地獄の季節』が
ちゃんとある。岩波茂雄と歴史学者の津田左右吉が「日本文化を
破壊する悪魔的虚無主義」として右翼に弾圧されたのがその翌年。
879 :
吾輩は名無しである:2011/04/24(日) 20:15:54.16
自由主義学問の弾圧の先兵になったのは、蓑田胸喜慶應大学教授の
主宰する原理日本社。
慶應ってのは、そういう伝統があるかね?
福澤の説いた義塾精神がまだ生きていたんでしょう
福澤の「天は人の上下に人を作らず」は、アメリカの何某の
書いた『コモンセンス』が下敷きになっていて云々という
小林の一文はどこにあったっけ?
882 :
吾輩は名無しである:2011/04/26(火) 09:44:20.86
883 :
吾輩は名無しである:2011/04/26(火) 17:38:34.01
カラマーゾフ論には諸説論じてあるけど、あんまりアテに
ならんね。ドストエフスキー自身、政治的に微妙な立場に
いたわけで。
884 :
三浦 ◆aKZjWmIOl2 :2011/05/07(土) 19:27:30.98
橋本治の『小林秀雄の恵み』読んだけど面白かった。
内容は小林秀雄と、小林秀雄の『本居宣長』について。
橋本治の論の進め方がちょっと丁寧すぎてくどいけど、『本居宣長』読むなら併せて読む価値のある本だと思う。
885 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 10:39:30.73
岩城 宏之のパクリだけど、
音楽を志す者は作曲家になろうとする。
作曲の才能が無いと分かるとピアニストになろうとする。
ピアノの才能も無いと知ると何かの楽器の演奏家になろうとする。
なんの音楽の才能も無い、と絶望すると指揮者になって一生を棒に振る。
で、このオチは、
その指揮者にさえなれない奴が音楽評論家になる。
しかしさすがに、
音楽評論家にもなれないパーが、音楽評論家を評論する。
は音楽の世界にはないね。
驚くべきことに、しかし文芸評論の世界には、ところがそれがあるんだな。
そんなことをするバカは、だから、もうどうしようもない白痴なだけなんだけどな。(嗤)
886 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん:2011/05/08(日) 11:10:04.15
『モオツァルト』は天才論だって。
冨山房百科文庫の『近代の超克』の作曲家の諸井三郎の近代
音楽論は、小林的で独特の切れがある。
党派の歴史的相対性というような観点を良く踏んでる。
小林はライバル抜きに成り立たないような思想を軽蔑した。
典型的なのがカウンター・カルチャー、或いはサブ・カルチャーに
縁が深いポスモダの相対主義、ニヒリズムだ。小林が死ぬや否や
日本では一大潮流になった。
889 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 19:47:37.25
永遠に根ざさない、前の世代の上にアグラをかいているだけの
思想というのは駄目なもんさ。近代思想全般にはそういうところが
ある。
小林はマルクス主義の弁証法的な思考には余り好意的な理解を
示さなかった。ポスモダも、それが単に乗り越えの思想である
限りは同じことだろう。
近代の超克というテーゼ自体が否定されてしまうがな。
ポスモダなんてものは、所詮は冷戦期のアメリカ中心の西側的
価値観の御用思想なわけだが。
890 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 19:50:51.19
こう言っても良い。
小林が死んだのが1983年、翌年から世界は1984になった。
はあ、そうなんですか…
892 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 19:56:34.60
『アマデウス』でサリエリが無造作にモーツァルトを墓穴に
放り込んだのが1984年のことだ。ループネタだがな。
893 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 20:10:42.44
>『モオツァルト』は天才論だって
凡俗(評論家は例外無しでこれ。念のため)の天才論ほどくだらないものはないな。あはははは。
894 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 20:14:32.96
バカには分からんよwww
895 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 20:29:30.77
オマエの自己紹介どおりでたしかにそうだな。オレのような天才でなければ天才はわからん。^^
ま、しかし、楽譜は楽典を勉強したんで読めるが、それで音楽を頭の中で奏でられるほどではない。
モーツアルトは好きだ、と言えるだけで、音楽的にどうこうとは言えないから言わないな。
小林ナントカってのは、そこんところはどうなのかな? ゲラゲラゲラ。(嘲笑)
896 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 20:43:53.27
自分よりアタマの良い奴がこの世にいて、それに従って生きて
いれば良いって納得できるようじゃ小林は分からんよ?
897 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 20:50:40.39
オレ様より頭のいい奴はこの世にいないんだけど? ^^;
ただ、音楽は、好きか嫌いか以上のことを言うことができないからね、それ以上のことは言わないってだけだ。
勿論、こんな音楽を好きだなんてどうかしてるんじゃないか? は他人に言ったりするけどね。(笑)
898 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 20:51:28.57
自分よりアタマの良い奴というのは具体的な誰かじゃなくとも
良い。何となく世の中というものは、信用に値するのだという
ような曖昧な安心感に埋もれていないだろうな?
899 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 20:55:04.99
好き嫌いだけで語れるのは芸術じゃない。
ミッキーのテーマソングみたいなもんだ。
900 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 20:57:29.00
好き嫌いは趣味だから許される。サブカルや大衆娯楽さ。
901 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 21:00:16.44
大量消費文化としての音楽、流行りもの、ポストモダン。
作家になれなかったやつが評論家になって、評論家にもなれないワナビがここで腐っているというわけか
903 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 21:03:19.12
音楽は趣味だよ。
バッハだって王侯貴族の食事の際の伴奏者なだけだ。
芸術は、好きか嫌いか、だけでいい。
それは正に自分の感性の表明なんだから。
904 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 21:05:07.83
百年後に聴かれなければ意味がない。
むかしむかし、あるところに糞滓人種わがいました。わのなまえは、てんのーです。
糞滓わは、じんしんばいばいをしてすごすエタです。とてもにんげんのしょぎょうとはおもえませんね。
ところで、糞滓わは、おんがくをきくしゅみをもっていました。それは、糞滓わのうたです。こういうの。
♪うげっへうげっへくそかすわ うげっへうげっへくそかすわ
うげっへうげっへくそかすわ うげっへうげっへえどのかす かうぞー うるぞー
いしはらのぜいにくだ! うげっへうげえっへっへくそかすわ かうぞー うるぞー てんのーえた
そして、せんねんかんも、そのみやこはつづきました。なまえはわです。くそかすわのはなし。
906 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 21:13:32.38
百年後に聴かれるには精神が必要だ。
三ヶ月で飽きて良いなら感性だけでも
済むだろう。
907 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 21:19:46.83
感性は精神の中に入らないのか?
それどころか、精神の最もメインなものだと思うのだが?
つぎのおはなしねー
むかしむかしあるところに、ひょろっぽしろんぼがいました。ながいので、しろんぼにします。
しろんぼはえばりんぼう。ながーいおはなでまわりをみくだしていました。「えっへん、おれがしろんぼ」
しろんぼはあるひ、むかしのはなしをながーくかけば、じぶんのながーいはながどうしてながいか、
きっとわかるとおもいつきました。そこで、まいにちまいばん、おおがんばり! ついにけいずをつくりました。
「えっへん。おれはしろんぼ。だれよりものしり、ながーいものは、なんでもしろんぼのあかし!」 しろんぼのはなし。
909 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 21:46:55.14
センスとマインド、スピリットは別物だろ。
910 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 21:48:19.89
触覚だけならゴキブリにだってある。
911 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 21:57:40.61
「君がどんな本を読んでいるかを言ってみたまえ。しからば私は君がどんな人間かを言い当てよう」
ってのは誰の言葉だったっけ?
同じく
「君がどんな絵画や音楽を好きか嫌いかを言ってみたまえ。しからば私は、君がどんな人間性を持っているかを言い当てよう」
もあるさ。
感性は知性同様、後天的なもので彼自身の学習(広い意味)によって形成されたものだよ。
つぎのおはなしねー。これでおしまいね。つかれたから。
むかしむかしあるところに、おうえんげんぱつろうがいました。おうえんげんぱつろうのしゅみは、おんがくかんしょう!
ぼーずのたかいおーでぃおで、たけみつみちるのえらーいおんがくをかけ、えつにひたるのがにちじょう。
そこでむすこがききました。「げんぱつろうじじ。なんでえらーいおんがくをばかりきくのですか」
げんぱつろうじじはいいます。「それはね、むすこよ。これが、えらーいおんがくだからなんだよ。うん。」
げんぱつろうじじはとうきょうというところのせいじょうというところにすんで、きょうもさがにかまけます。おうえんげんぱつろうのはなし。
913 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 22:10:12.69
漫画描きは漫画読むなって漫画の大先生が言うだろ。
漫画は大衆娯楽だが、大衆娯楽だからっていい加減な
態度で描いたらそれだけのものにしかならない。
大衆娯楽なんて無駄だから削減しろだなんて小泉改革みたいな
ことはいわないが、俺はそういう世界にはいないんだ。
914 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 22:21:04.03
>>903 昔の哲学者は音楽を芸術として見なすことができなかったけど
それは一種の無知の表明で、というよりは時代的制約があって
YMOの革命について知ったとき俺は音楽とは芸術だと知ったね
俺はこの時代に従属するつもりはないんだ。
頭がおかしくなりそうだ。
916 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 22:36:16.00
世捨て人にでもなんの?
とうの昔に捨てたよ。俺を無理に巻き込もうとするから、
この国が壊れちまった。
918 :
吾輩は名無しである:2011/05/08(日) 22:45:17.25
俺はこの時代に従属するつもりはないんだ。頭がおかしくなりそうだ。」と呟くオジサン。
ここは昔話の庭。多くの人はあの世にいったあとでみる光景です。「おれは、そうか…村春か」
村春というのは、むかしばなしで有名になった、ポルノ作家! そうして死後の世界にいくまえ、ここに寄り道したのです。
「おう、村春。おれ、おまえしってるぞ」話しかけてきたのは柄谷工人。「おれはおまえの小説だいきらいだもんねー」
村春は答えました。「くそ評論家めが。お前らのせいでどんだけ苦労したことか…おっと、これも前世のことだったな」
そうして村春は21世紀の墓標を抱えて、オープンカーにのりこみます。「柄谷工務店。たのんまっせえ。ふぁっ」今日も平和な昔話の庭。
まだ終わりじゃないんだぞ。俺だって出来たら破局は避けたかった。
>>499 >歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えてる。
小林は最後の審判でも見てたんだろ。
921 :
ごみ川しょうのどくじこうほさく!:2011/05/08(日) 23:04:12.77
小林が死んだ翌月から俺は中卒で家出て男子寮で監獄暮らし。
ああ、なるほどなあって思うね。
チラシの裏だよ?
ひと月目のゴールデンウイークに丸刈りヤクザ目つきで
帰宅してね。
ケリは入るはパンチは入るわでもう大変!
まだ十一時半なのに!
もうGW終るとか基地外だろ
927 :
吾輩は名無しである:2011/05/09(月) 23:26:32.09
捨てたれど
隠れて住まぬ
人になれば
なお世にあるに
似たるなりけり
西行
928 :
吾輩は名無しである:2011/05/09(月) 23:51:18.27
世捨人歴は二十年だ。
小林がランボーに出会った年頃とそう変わりはないな。
929 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 00:13:06.85
小林の若書き読むと「神様は」云々ってランボー丸出しだからな。
930 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 01:05:03.67
ただの読書感想文なだけ。金出して読むようなもんじゃない。
あはは
932 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 17:44:24.67
頑張れラノベ読者
933 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 18:48:16.55
>>499の発言は、『地獄の季節』を岩波に預けたりした小林の
戦時中の振る舞いとセットで買ってくれ。
934 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 18:50:50.27
戸坂に乞われて唯物論研究会に名前貸したりな。
いや久しぶりだな、ここに来るのも。
>>826 読んだ読んだ。 かなり細かく小林の文章を分析してるね。
そういう細かい分析に耐える文章だかんね、小林の文は。
>>831 「感想」にラッセルの影響ってあるんかね。まあ、ほとんどないと思うな。
>>836 小林の引用?
>>872 小林のドストエフスキーはカーが下敷きって有名じゃない。
まあ、「ドストエフスキイの生活」を書いてからも、ドストについては
いろいろ調べ続けていたようだけど。 ペトラシェフスキー・サークルと
ドストエフスキーの関係についても、「ドストエフスキイの生活」と
ずっと後に書かれた「ネヴァ河」では、ずいぶんと分析の結果が
異なっている。
>>885 文学者、詩人、文芸批評家にとってのピアノは何か?
それは言語そのものなのさ。 詩人にとって言葉はピアノ。
もちろん文芸批評家にとってもね。
言葉というピアノを演奏させれば、ひとによって上手い下手があるのは瞭然と
なってしまうんだな。 へたくそが演奏すると、言葉の不協和音ばっかりが鳴り響く。
こういう小林の言語観というのは、誰から受けたものだろうな。やはりニーチェかな。
まあ、ランボーやマラルメ、象徴派の詩人からの影響も当然あるだろうな、小林の言語観。
「文學とは他人にとって何であれ、少なくとも、自分にとっては、或る思想、或る觀念
いや一つの言葉さへ現實の事件である、と、初めて教へてくれたのは、ランボオだつた
ようにも思はれる。」
おっと、ボードレールも忘れちゃいけないね。 「表現について」という講演では
ニーチェ、ボードレール、ワーグナーを軸に、音楽表現と言語表現の差異と同一性に
ついて語っているね小林は。 あれも小林の言語観がよく出てる講演だったな。
941 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 22:38:57.79
そもそもで批評家・評論家なんて「家」はないよ。
まあ、感想文書いてそれ売って金を貰っているやつもいるようだから、
批評屋・評論屋、くらいならいるんだろうがね。
要するに、そこは「プロ」なんてものはいない世界だ。
だからあんたらもそれで金を貰っていなくったって、全く小林とかってのと同等だ。
プロがいないんだから「アマチュア」呼ばわりはされないからね。
とゆーわけだから、せいぜい講釈にお励みなさい。あはははは。(嘲笑)
批評のプロねえ。小林はプロを自認してたよね。とりあえず、職業として批評家やって
それで金がはいってくるなら、プロといっていいんじゃないの。 魚屋が魚を売り、肉屋が
肉を売るように、批評家は批評を売って職業批評家=プロになると。 一見すれば
どこにも問題ないな。
批評家にプロはいないだろうって、ただの独断じゃないのw 仕事して金がもらえればプロ
それがプロの定義さ、きっとw
「批評家なんてのはいなくて、批評屋しかいない」という如何にも頭の悪そうな
なんの論証もない独断を前提にすべての論を組み立てているから、ちょっと
つついただけで、すぐに崩れ落ちるような脆弱な論しか述べられないんですなw
怖いね−、文章って。 頭の善し悪しが、すぐにまるわかりになっちまうからねw
944 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 22:53:37.99
>>944 >>941に主張はあるじゃない。「批評家」は「家」ではなく、存在するのは批評屋だけど。
これがその主張だろ。俺はその主張にちょっと反駁してみたわけ。 主張がなければ論は
なし。まあ、たいした意味の無い独断的な主張だけで構成された論を論とよべるかどうかと
いう問題はあるがな。一寸の虫にも五分の魂、蝶々蜻蛉も鳥のうちなら、
>>941も論と
よべるってね。
946 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 23:06:39.18
N ◆.a7VUr.VD. まだいたのかこの汚物
947 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 23:09:03.35
プロボクサーってのは世界チャンピオンだけに与えられる称号なんだよ。
この意味解かる?
金貰ってりゃあプロだ、なんてことを言う奴には解からんよね、勿論?(嗤)
なんか反吐を吐いてるのがいるな。
>>946 反吐を吐くしか能がない
>>946こそ汚物そのものだよねw
>>947 >プロボクサーってのは世界チャンピオンだけに与えられる称号なんだよ。
>この意味解かる?
いや全然。世界チャンピオンになったことなくても、ボクシングで生活してる
ボクサーっていますがね。 何がいいたいかさっぱりわからんねw
950 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 23:20:16.42
オールオアナッシングの世界で、【自分の名前】、だけで生きられる奴って意味だ。
まだ解からんか?w
N氏が出てくると必ず荒れるなぁ
>>950 Winner take all っていいたいん? Winnerだけがプロであると。
まあ、君がそういう意見もつのは自由だけど、それほど一般的な
意見でもないな。 プロ野球において優勝したチームの選手だけが
プロであり、プロサッカーでも、プロゴルフでもみんなそうだ、って
それは極論であると普通はおもうんじゃないの。
>>951 なんか俺に突っかかってくるのが多いね。 こっちから荒らしてるつもりはないんだがねw
レスに対応してくと、どういうわけか荒れることが多いんだな。 当方の不徳のいたすところ
かいな、これも。
954 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 23:31:19.68
竹田青嗣偽の方がよっぽどおもしろいよ。失せろジジイ。
>>954 誰それ? そんなのこのスレにいたっけか。
956 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 23:37:45.65
わざわざボクシングっていう、
興行でももっともハングリーなプロスポーツを出しても解からんか・・・。
文学板なんだから、そのくらいの雑学知識はあるとおもったんだがねw。
陰口では、人々はのうのうとして棘を出し、棘を棘とも思わない。 醸し出される
きたならしい空気で、みんな生き生きとしてくる。 平常は構えてきれい事に
小ぢんまりと蒼ざめた男が、ふとなまなましい音をあげたりする。そんな時、私は
なるほどと、きたならしさに心を打たれる。このきたならしさを忘れまい。これは
批評の秘訣である。
悪口なら反吐が込み上げてくるようにこみ上げてくる。 根が馬鹿な証拠である。
脛に傷をたんんと持っている証拠である。
批評家失格 I より
>>956 世界チャンピオンだけがプロボクサーで、そのほかのボクサーは、たとえ
ライセンスをもってて、試合でファイトマネーをもらっていてもプロじゃないの?
まず、それをきっちり説明しろって。
959 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 23:48:28.62
オイ、相撲じゃねえよ。
客を呼べてゼニになる試合は世界タイトル戦しかねーんだよ。w
>>959 チャンピオンの座をかけた世界タイトル戦でも前座の試合はやんだろう。
961 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 23:51:53.85
で、プロボクサーとよべるのはチャンピオンだけっていうのを、批評業界に
あてはめるとどうなるんだ。 批評業界でも非常に少数のチャンピオンの名に
ふさわしい批評家だけがプロをなのる資格があり、そうでないのはプロの名に
値しないと、そういう結論になるわけ?
963 :
吾輩は名無しである:2011/05/10(火) 23:58:15.54
だから、批評とかって世界には、その【プロ】がそもそもでいないでしょ、ってその話。
あ〜、シンド。(笑)
じゃあ、批評家でも客よべて銭になるのはプロだろうな。
プロの定義は
>>959で出たね。
965 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 00:01:37.66
小林の批評は難しい割には売れたからねえ。当時は客もたくさんついたし。プロといって
いいねw「本居宣長」は難しい本だけど、一万部以上売れて、鰻屋のおかみさんまで
買ってくれたって、小林は自慢してたね。 これもプロの証明といえるわけだな。
>>941は批評の自立性という点では興味深い問題提起をしたんだが
比喩としてのプロボクシング(特に興業収益面)で墓穴を掘ったな
968 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 00:05:47.10
いや、売り上げそのものよりも実力の問題だろ
970 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 00:12:23.41
かくほどにな〜んにも知らない連中がこんなにいたとはね。(笑)
>>968 >959
>オイ、相撲じゃねえよ。
>客を呼べてゼニになる試合は世界タイトル戦しかねーんだよ。w
これがまずかったね
問題提起は良かったんだけど
比喩とその補足で悪手を指したんだよ
>>968 実力の問題、まあそうだけど。それを測定するのが難しいよね。
アメリカの批評家で、日本の批評業界で著作の売り上げを最重要視してるのは
おかしい、みたいな文句つけたひとがいるけど、(たしかS・ソンタグだったような)
そういうひとは単なる売り上げだけでなく、「真の実力志向」なわけだろうね。
まあ、売り上げ以外の基準としては、アカデミズムの堅牢性くらいかなあ。
これはこれで弱点を内包してるのは見やすい理だけどさ。
973 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 00:27:58.57
「力」のある批評ってのは確かにあるんだよ
だから価値多元化の時代においても批評家を否定することはできないと思う
974 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 00:33:32.38
>>971 プロボクシングのリアリズムは明日のジョーだ、って思ってる程の阿呆ばっかりだとはね。
さすがに予想外だったね。(笑)
>>973 小林が「批評」というもの、それ自体について語った言葉で、いちばんまとまってるのは
やはり「批評について」かなぁ。
まったくそのまんまの作品名だな。 批評は非難でも主張でもなく、学問でも研究でもない
っていう説。それは生活的教養だっていうんだけどね。 これもまたよくよく考えると理解が
難しい考え方だ。
976 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 05:39:06.20
いえーい
>>937 不協和音は素人の出す不快なノイズではありません。
セロニアス・モンクという天才ジャズピアニストがいて、この人は不協和音の名手です。
数学的な計算に裏打ちされたモンクの不協和音は、ロックシーンにも影響を与えました。
978 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 10:12:15.70
モーツアルトにも「不協和音」という正にそのものの曲があるね。
そのレコード買って聴いたことがあるんだけど、
1度聴いただけで2度と聴きたくないと思っただけ。
979 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 11:10:51.78
小林は言葉のセンスが卓越している。小林の書いた小説を読みたい人がかなり居たのも
無理はない。三島も小林の書いた文章が好きだったと聞く。
980 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 11:24:44.73
そういえばAVの女王と呼ばれた小林ひとみってのがいたなあw
ダカラドウシタ? カスガヨリアツマッテイッタイドウシタ? ウジムシノハンショクカ?
982 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 12:05:27.28
小林とかがどーのこーののぽっとん便所スレには蛆虫しかわかないw
983 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 13:22:00.25
>>979 >だったと聞く。
どこで聞いたんだ?捏造はすなよ。
>>977 そうなんだ、なるほど。音楽についてはそんなに詳しくないから、うっかり
見当違いのことを口ばしってしまったようだね。
まあ、セロニアス・モンクやモーツァルトのようなひとたちは才能が豊か
だったから、協和音を用いた安定した作曲にあきたらず、不協和音を
つかうことに新しい意義をみいだしたんでしょう。 つまり十分な作曲家と
しての技量があって、わざわざそういうことをするんで、ピアノの素人が
適当に鍵盤をたたいてでる不協和音とは違うんでないか?
>>979 「金閣焼亡」についての三島の感想をあらためて探してみたけど
見つからないな。どこでよんだんだっけ… まあ、三島が小林を読んでいた
というのは、対談を読むだけでもわかるよね。三島の「金閣寺」には、小林から
盗んだところがいくつもあるって、本人がいってるし。
985 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 16:31:51.63
>>984何も知らない983みたいのを見ると白けちゃうね。
986 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 16:59:22.92
>ピアノの素人が適当に鍵盤をたたいてでる不協和音とは違うんでないか?
このシッタカおっさん、な〜んも分かってねえなあw
オイオイ、玄人がピアノを叩くと協和音で素人が叩くと不協和音だなんてことがあるわけねーだろ、バカ。ゲラゲラゲラ。
987 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 18:00:47.26
江藤が言ったGHQの思想言論統制ってのは、ようするに
原理日本社の蓑田みたいなのが戦後はいなくなったことを
言ってんだろ。志賀も同じ目にあったが、仕方ない話だろ。
988 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 18:21:56.59
江藤が電波飛ばし始めたのは90年代のポスト冷戦期かな。
小林はバブルの彼方に埋もれ、西側は統合を失い、イデオロ
ギーは極端に走りやすい電波の季節だったからなw
989 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 19:56:48.65
このぽっとん便所スレも残すところあと十数スレでDAT落ちして倉庫行きか。
まあ、小林ナントカのファンってのは如何に阿呆か、ってことがよく分かって、
それはそれで収穫だったな。
特にコテハン「N ◆.a7VUr.VD. 」は凄まじいものがあったな。あはははは。
どっかでこんな連中にまた出くわさないとも限らないから、その時、
オマエこんなに阿呆なくせになに利口ぶってる気でいるんだよ、と
過去レスコピペ付きで言わなければならないこともあるかも知れないから、
くだらないだけのスレだけど自分のハード・ディスクに保存して置くわ。(嗤)
990 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 20:08:34.72
訂正
十数スレ −> 十数レス
わりとこういう細かいところが気になるんだよな、オレ。完全主義者だから。^^
>>985 >>983=
>>986かなぁ。内容の薄い馬鹿っぽいレスしかできないのに
自分の頭の良さについては、絶対の自信をもってるらしいところが
よく似てるね。まあ、馬鹿だって虚栄心もあればプライドもあるもんな。
むしろ馬鹿ほど虚栄心が強いというか。
>>990の「俺、完全主義者
だから…」とか失笑もんだよなw
小林も若い頃はたくさん論争して、非常に辛辣な発言も多いね。
柄谷によれば、小林の批評がマルクス主義者との「交通」によって
輝いた時代か。そのあと、小林は文芸論争ほとんどやらなくなるんだな。
馬鹿におまえは馬鹿なんだと、いくらいっても無駄だっていってね。
全然そんなの意味をなさないんだそうだ。ただ上知と下愚はうつらずだ。
自分はそんなに頭の良さそうなことはいえないけど、頭の中では
いろいろ難しいこと考えてるんだよ〜って、文学部の学生がよくいう。
頭の中でいくら難しいこと考えてても、それを表現できなけりゃ
まるで意味がないんだな。 むしろ俺って難しいこと考えて頭いいんだ〜
っていう、自意識だけが肥大化していく、それもまた近代文学の
流す害毒のひとつである。
小林はこんなことも書いていましたな。
993 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 22:35:52.77
いきなり再登場して延々チャットしてるとスレ潰しと疑われ
ちまうぞ。
もうこのスレもおわりだし、後は埋めるだけだね。
995 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 22:40:00.19
人間という現象の人間自身の側からの自己解釈という、戸坂の
キルケゴールを貫通したハイデッガー理解は素晴らしい。
昔の日本人の考える力は半端でなかった。
人間的生の人間の側からの自己解釈だっけな。
我々はバカの集まりみたいに見えちまうよ。
>>977 モンクはインテリだが、数学的な計算なんかしとらんよ
998 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 23:01:47.75
科学とは自然を拷問にかけて口を割らせることだそうだ。
我々はついに逆襲を食ってしまった。
999 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 23:05:07.52
999
1000 :
吾輩は名無しである:2011/05/11(水) 23:05:53.04
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