1 :
吾輩は名無しである:
俺だけ?
読みづらくないけど、ホモ臭が半端ない
終了。
4 :
吾輩は名無しである:2010/09/26(日) 19:34:12
読みづらいという事はないが
嫌になる文章
今読むともったいぶった表現が野暮ったい。
6 :
吾輩は名無しである:2010/09/26(日) 20:38:09
ああいうクドいのが「さすが文学だ」としてイケてた時代なんだよ。
昔の人のファッションを見て野暮ったいというのは無粋ってもんだろう。
自演スレ
また糞チワワか。
また毎度の糞アンチの自演腹話術か。
10 :
1:2010/09/26(日) 21:34:56
批判があるだけで自演っていうのは早漏すぎるだろ
正直潮騒ぐらいしか読みやすいのないだろ
11 :
吾輩は名無しである:2010/09/26(日) 22:47:59
日本語を読みこなす力がないから、読みづらいんでしょ?
内容が難解なものはあるけど、文章自体は別に読みづらくもなんともないけどね。
これぐらい読めない人間は、本当に読んでないか、日本語圏外出身の人なんじゃないの?
中上さんを読むよりは楽だったよ全然
13 :
吾輩は名無しである:2010/09/26(日) 22:54:33
>>10 潮騒以外にも、ほとんどみんな普通に読めるものばかりですけどね。
金閣寺の印象の固定観念に囚われて、一つも読んでない間抜けモンキー藁貸し増すねえ〜(笑)
14 :
吾輩は名無しである:2010/09/26(日) 23:00:14
自演を指摘した人間が何ゆえ
15 :
1:2010/09/26(日) 23:16:58
なんで三島ファンの人ってそんな喧嘩腰なの?
たしかに俺の知識が無いから難しいんだろうけど個人的な意見としては俺みたいな馬鹿でも親しめる文章を作って欲しかったんだよ
17 :
1:2010/09/26(日) 23:29:03
こんな俺みたいな小学生で習う漢字ですら読めない馬鹿にも分かる文章を書いて欲しかったんだよ
たまに平仮名も危うくなるけど
18 :
吾輩は名無しである:2010/09/26(日) 23:29:45
三島ババアはキチガイだから
三島にちょっとでもマイナス評価すると半日以内にレスがつく
19 :
1:2010/09/26(日) 23:32:13
自分の書いた文章が誤解を招きそうだから訂正するけど、俺が言う読みやすい文章は無闇に難しい言葉を使わない事なんだよ。
俺が難しいと感じたのは
眺望
茅葺
真鍮
狭窄
これはごく一部
俺の無学を笑え
ちょうぼう
しいたけ
しんちゅう
さくしゅ
だろ簡単じゃん
21 :
1:2010/09/26(日) 23:43:19
本当の事言うと俺中卒だし一冊も本なんて読んだ事はないんだ
でもそんな俺でも分かる文章を書いて欲しかったんだ
22 :
1:2010/09/26(日) 23:49:17
ごめん、嘘ついた
実は特殊学級なんだ
平仮名をカタカナに直すのも難しいんだ
注釈多い
24 :
1:2010/09/26(日) 23:56:05
注釈?・・・「注釈」ってなんて読めばいいんだ・・orz
確かに見慣れない漢字が多いね。
でもそこが魅力でしょうに。
>>22 あなたの文章読む限りでは、そんなに日本語不自由な人には思えませんけど?
それから、三島由紀夫作品には、レター教室とか、にっぽん製とか、娯楽小説で読みやすいやつが結構ありますよ。
ちくま文庫から出てますから、まずそれからお読みになってみてください。
>>21 あ、にっほん製は角川文庫でした。
あと、小説読むのが苦手な方なら、同じ角川文庫からの「若きサムライのための精神講話」などの評論がおすすめです。
28 :
1:2010/09/27(月) 00:12:28
本当に三島が好きなら、批判意見にも耳を傾けるべきじゃないのかな。流石に俺みたいな中学生にはきつかったんだろうけど、
時が立ったらまた読む。
正直俺も悔しかったんだと思う。いろんな本を読んできた中で始めて断念した作家だから。
なんか不快にさせてゴメン
削除依頼出しとく
<<26さんありがとう!!
レター教室から入り直そうと思います。
では
30 :
1:2010/09/27(月) 00:17:49
方向間違えた…
>>28 あなたが知らなかっただけで、万人に読みやすい娯楽小説もたくさん書いてますから、探して読んでね。
32 :
1:2010/09/27(月) 00:20:51
みんなありがとう!!
ところで削除依頼って理由が無いと駄目なの?
>>32 削除依頼しなくていいですよ。放置すれば自然になくなりますから。
34 :
1:2010/09/27(月) 00:32:00
>>33さんありがとうございます!!
不快にさせてしまった方もすみませんでした!!
ではおやすみなさい!!
35 :
吾輩は名無しである:2010/09/27(月) 07:44:22
三島の文章って、陶酔性において源氏物語なんかと共通したところが
あると思うんだな。古代ギリシャ人が言う「ワインの花」というのは
現代人の言うフレーバーのことじゃなくて、もっと強烈な陶酔性のことを
指したらしいんだが、三島の好んだギリシャがそういうところに凝縮され
てるんじゃないかな?(実際に古代ギリシャのワインは薬草がふんだんに
入っており、4倍ぐらいに薄めて飲むのが普通で、それでも大変に酔ったと
いう)。
源氏を英訳したアーサー・ウェイリーはそういう点を強調した訳だと、
海外では見られてるわけで、三島の英訳者らも、同じくウェイリーと
似たような気持ちを持たざるを得なかったんじゃないかな?
ただ、その「陶酔性」については、やはり所詮は好みの問題だと思うんだな。
あとは、三島が細部をあまりにもはっきりと描写するものだから、
読者にとって嘘っぽく見える場合があるってことだな。
生まれた時の記憶の話は有名だけど、普通の人が見てないようなところを
微細に描いたりすると「嘘やろー」とか、突っ込みたくなるわなw
写実主義じゃないからいいんじゃね
抽象派の絵画を指してリアリズムが無いって言うようなもん
ギリシャ・・・源氏・・・いかにもゆとり学生がお勉強しましたという感じですな
三島の文体が生前からどのような評価を受けていたかすら分かってないようだ
写実主義・・・苦笑を禁じ得ませんな
38 :
吾輩は名無しである:2010/09/27(月) 08:16:06
39 :
吾輩は名無しである:2010/09/27(月) 15:12:00
長文君 勉学に励めよ
40 :
吾輩は名無しである:2010/09/27(月) 16:20:45
短文君も便学に禿げめよ
>>1 読み難いうえに浅はかで薄っぺらい
書いていて恥ずかしくならなかったのだろうかと思ってしまう
妙に三島由紀夫に反発する中国人あらわる。
中卒とゆとり
三島の文章を読めない点では同レベル
44 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 13:08:10
「金閣寺」はもう1回念入りに推敲すべきだった。まず、
幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
こんな安易なリズムで始めてはいけない。書き出しが作品全体の質
を決定しがちなのは言うまでもないことだが、ここは少なくとも、
幼時から父は私によく、金閣のことを語った。
と、より楷書的に、散文詩に近い丁寧な呼吸で始めるべきであった。
この欠点は、英訳において見えなくなっている。
おそらく当時三島は「金閣寺」のような水準の作品を
いくらでも書ける、と踏んだのだろう。
ところが書けなかった。
小説家三島の創作エネルギーは枯渇しかけており、
ついにこの代表作を超えることはなかった。
>>44 お前の文章はダラッとしている。よって三島由紀夫を云々語る資格なし。
>>44 丁寧な呼吸は上の三島由紀夫の文章の方だと思う。
>>44 > 幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
ワロタ
この小説の主人公は頭がとろい人という設定なの?
>>44 三島には春の雪という傑作があることを知らない半可通が、つまんない重箱の隅つつきしても無駄ですね。
金閣寺や春の雪のような作品をとうてい書けない人間が、そんなどうでもいいあら探ししても、何の説得力ないし。
ご苦労様でした。
>>47 何がトロいのか意味不明。そんなふうに思うあなたの頭がおかしいだけでしょう。
50 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:01:19
だからね、父親というのは主人公の世界観に一つの契機を与えたが、作品の本質とはあまり関係ないんだよ。
究極のテーマは絶対者と三島を投影した主人公との関係だからね。
父親のところで読点をうってはならないのだよ。単純なことだ。
作家は傑作を書けばいいのだ。あとはどうだっていい。
リズムも悪いし、書き出しでガクッとなって気を取り直して
マアマア良かった、程度の作品にしてほしくなかったな、といっている。
51 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:03:47
ナカタはあたまがわるいので、知事さんのおっしゃることがよくわかりません。
52 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:04:23
53 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 14:12:14
チワワは馬鹿だな。河野多恵子も金閣寺は駄文だといっているぞw
54 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:13:02
>>53 そんな三流が何を言ったところで何の説得力ありませんよ。
56 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:26:11
いや、47がただしい。この呼吸が読めないなら、それまで。
>>47 名前:吾輩は名無しである :2010/09/30(木) 13:29:56
>>44 > 幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。
ワロタ
この小説の主人公は頭がとろい人という設定なの?
>>50 ここまで、は考察しなかったが、確かに自分は昔読んで「ん」となった。
君はすごい。さぞ名のあるお方?
まあ、日本語を完全にマスターしたのは川端康成くらい?
いや、三島は川端以下だよ、こと文章に関しては。と私は思う。
三島読んでて、いくらでも添削できるもん。
>>50 父親のところで読点をうったからって、あんたがごちゃごちゃ屁理屈言ってることと何の関連ありませんよ。
それに、父親の存在や考えも作品の主題の重要な要素ですからね。
>>56 昼間の過疎時間帯に見え見えの自演しなくていいから。
>>56 川端康成にはたくさんの代筆がいたから、本人は日本語マスターなんかしてませんよ。
三島も川端の代筆してますから三島の方が上だよ。何にも知らない半可通ですね、あんたは。
60 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:38:41
誰だ、お前は、優秀なのとアホが、いや頭のあまり良くないのとが、言い合ってるから、割り込んできたハンドルネームayanaxxというものだ。
ばか者、頭が高い。そこへなおれ。手打ちにいたす。
>>58
61 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:44:17
いいや、やっぱり自分で書いたほうが良かったと文章を見て悲嘆にくれ、捨ても出来ず、頭を抱え自殺の遠因になったのですよ、あなた。。
>>59
>>60 そんなリズムの悪い「、」打ちが人の作品にケチつけられません。文章は理屈だけじゃないから。ご愁傷様。
63 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:47:30
>>53 ほう、河野も同じこと言ってたんか。
俺は河野をけっこう読んでるし谷崎論には感心した。
自虐をパロディにできる稀有の女流だよな。
マグナは時々いい提示するな。
つまり、これは俺流のフィクションだという三島の気負いが
あの雑な書き出しや全体の未熟な美文調に影響したわけだろ。
チワワはあいかわらず三島中心の地動説だな。
春の雪がホメられるのは様式美であって金閣寺と同列にはできない。
河野が指摘したとすれば作者の内奥に焦点をすえた文体論だろう
64 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:48:33
のんのん、川端は日本語をマスターしてます。添削できなかったのは、彼だけですから。
>>59
>>61 そんな後悔して死ぬぐらいの人なら、はじめから自分自身で全部書きますよ。
>>63 いくらわざとらしい自演しても無駄だよ。どっちにしろ何の説得力ないから。残念でした。
67 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 14:53:27
あ、天動説w
68 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 14:53:35
チワワは三島をけなした作家は皆三流だからな。本人は否定するだろうがw
ところで寺田透の三島論がどの本にのっているか知っているか?
>>64 あんたの添削なんか別に何の意味ありませんから。自己満足さま。
>>68 そいつの批評が絶対でもないのに鵜呑みにしてるあんたがバカなだけだよ。
最初から嫌いで批評してるのも沢山あるからね。特にサヨク寄りは、恣意を客観に見せかけるのが上手いからね。
んじゃ自演魔マグナさやうなら。きりがないから。
72 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 15:05:41
私の添削で皆大作家になった。
朱筆だらけの原稿見て泣きながら帰った人も再起を決してまた原稿もって来たよ。
どうかね君も?ん?
>>69
気持ち悪っ!
74 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 15:22:57
>>70 河野はサヨクとは思えないのだが。純粋に小説家として批評しているだけだろう。
俺も河野の小説観は少し古いと思うが、三島の文章が拙いというところはびっしりといっていたので引用したまでだ。
自演呼ばわりして逃げるのはわかる。俺はチワワの詭弁が通じない数少ない一人だからだw
75 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 15:28:28
チワワは三島程度しか読んでいないだろ。その他もせいぜい三島を補強する程度しか読んでいないはず。
ある作者の信者になることほど、文学読みとして危険なことはない。
もう少し他の本も読もうぜ。もちろん三島とは一切関連付けなしだ。
三島の文章には好き嫌いはあるだろうけど、「拙い」というのはあり得ないね。
嫌いだからと言ってそんな言葉でしかプロを批評できないなら、作品批評する資格ないね。
あらゆる古典文学、伝統芸能に精通している日本語のプロフェッショナルの三島由紀夫に、
そんなこと言ってる時点で己れの馬鹿を晒してるだけ。可哀想に。
>>74 それからそいつが貶したのは、三島がわざと紋切り型に作った辞世の句のことでしょう。
紋切り型に作ったことも理解できない低脳に、三島文学が解るわけないしね。涙を拭きな。
78 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 17:58:09
まずチワワが三島をプロフェッショナルだと思っているところから誤りなのではないだろうか。
三島は昔の作家では古典をよく読んでいる、というぐらいだろう。
現代の作家はそれほど読んでいるわけはないだろうが、河野も読書遍歴をそれなりには積んだ作家だろう。
そのようなことをいわれても怒るのではないか。
79 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 18:09:55
>>77 貶していたか。河野の「十二章」をチワワがまともに読んでいるとは思えんが。
ついでに言えば確かに三島の辞世は紋切り型に作られているとは思う。だが実際に武士の読んだ歌と比べてみるとどうだろう。
かねてより思ひそめにし言の葉をきょう大君につげてうれしき
という藤田小四郎の辞世がある。確かにこれはうまい歌ではない。
だがこの歌はぶれない。ストレートに耳に入ってくる歌であろう。
それと比べると三島の辞世はどうも空転しているような感じがする。
小四郎の歌と比べると、対象がはっきりしないのだ。それゆえひどく曖昧な歌になって失敗している。
「益荒男が」の方も三島の文学を読んでいないとよく分からない歌である。
もちろん維新の志士たちの辞世には未練はあれど、己の文学で補助しようとするものは見られない。
80 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 18:14:27
>>44 >>47君は重大なことを見逃している。金閣寺の
主人公には吃音障害があると云う設定になっている。
それを知らずにくだらん罵詈雑言のたまうお前には
三島文学について語る資格はない。とろいのは君の
頭の方だったな。
81 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 18:17:15
たとえば三島は西洋の古典をうまく日本古典的タームに摩り替えて再構築(脱構築(笑)とは言わないが)しようとした。
これは三島の特色が現れているものだろう。三島由紀夫と渋沢龍彦は似ていないといわれるが実はよく似ている。
それはこう言う風にうまく西洋産のものを日本のものに摩り替えていくやり方なのだ。
たとえば「海と夕焼」など最たるものだ。これを読んでも三島と渋沢は違う、というやからを俺はどうも信じないな。
しかし実態として、三島も渋沢もそれほど日本古典に通じているわけではないことは、その後の研究が証明しているだろう。
82 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 18:21:24
>>80 吃音者が文章まで拙く書くのはどうしてだ? 文章では雄弁な吃音者もいるだろう。
美文を書く奴だっているかもしれない。作家でも吃音障害のある人物はいたはずだ。
>>81 三島由紀夫は日本の古典文学、古典芸能に通じてますよ、他の作家の誰よりも。あんたが知らないだけ。
十代のときからすでに様々な古典(古今集、万葉集、等々)を考察、解説してます。
馬鹿が何も知らずに戯言ほざいても無駄ですよ。ろくに三島を読んでないのがバレました。ご愁傷様です。
84 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 20:00:01
>>83 > 三島由紀夫は日本の古典文学、古典芸能に通じてますよ、他の作家の誰よりも。
お前は他の作家をまともに読んだことがないだろ?
あるなら三島以外に全集を読んだ作家を挙げてみろ
>>82 金閣寺はどこも拙くないですよ。
金閣寺を上回る文章を書けもしないくせに、文句を言っても何の説得力ありませんから。涙を拭きな。
86 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 20:03:59
古今集や万葉集を十代で読んでいるやつがいても何の不思議もないわけだが。
しかも三島の読んだのは多分、校正されたものだろう。まさか現物を自分で読んだわけではあるまい。
清水文雄に習ったからといっても現物で読んでいたかはなぞが残る。三島は折口のような変態少年ではなかったようだ。
ろくに三島、というがそんな三島の初期の未熟な文章読んでいるわけがないのが普通の連中だろう。
三島の初期までさかのぼって読むのは三島オタクか場合によれば芝居オタクだけであって、三島の大人になってからの作品だけで十分批判にたえる。
87 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 20:04:58
>>85 河野多恵子の批判は読んだか? それを論破した上で拙くないといってほしいものだなw
>>84 他の作家の一体誰が三島より、日本古典文学、古典芸能に通じていたというんだよ、言ってみな。
歌舞伎の台本や、能を下敷きにした戯曲を誰か他に書いた人がいるんですか?
誰が、日本古典オタクのドナルド・キーンと対等に話せたというんだよ。言ってみな。
>>86 三島は原文で読んでますよ。あんたなんかより古典に通じてるプロフェッショナルですよ。
あんたはただ人の批評読んでるだけの上っ面ですから。残念でした。
>>86 何の不思議もないわけでも、それすら読んでない作家だらけでしょうよ、実態は。
あんたが、馬鹿な言いがかりで三島を目の敵にする意味がわかりませんよ。
92 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 20:17:54
>>88 それは別に小説家がやる業ではないからな。それをしなかった丸谷はまあ一応正しい。
たとえばゾラは古典に取材した作品をほとんど書かなかったから、三つの物語を書いたフローベールより劣るとは決してならない。
古典の知識の有無は別に近代的な意味で「作家である」ということとは評価には繋がらない。作品の評価にも関係がない。
言ってみればその当時「小説家ではない」日本古典文学に精通したものならいっぱいいただろう。
ただ単に三島が作家で花々しかったからキーンが接近した、というだけに過ぎない。
>>92 いや、自国の古典文学くらい読んでなきゃダメでしょう、プロフェッショナルな作家なら。
どこの国でも自国の古典くらい読んでるでしょ、作家なら。
馬鹿じゃないの、あんたは。
詭弁馬鹿お疲れでした。
>>92 ドナルド・キーンは三島由紀夫以外に日本古典、古典芸能に通じて話のできる作家はいなかったとはっきり言ってますよ。
95 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 20:27:43
>>93 村上春樹はどの作品も最後まで読んでないと公言してるよ
96 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 20:28:45
>>89 だからそれは「校正された」原文だろ。もちろん校正も重要なことであるが、
古典に詳しい顔をするのであれば原本に当たらねばどうしようもない。
三島の家に写本等は少なかったであろう、と推測するがw
早い話、三島にとっては全部西洋的な価値観を通した古典なんだよな。
西洋の古典を日本的な道具立てを使って作り上げる。表向きは日本だが、その実裏側は西洋である。「志賀上人の恋」を見るべし。
渋沢はそれのマイナー文学版なだけだ。
再利用された古典、フローベールのように、ゲーテのように、なメソッドを日本古典でやっているだけなわけだ。
武陽隠士の言っていた三島の趣味のキッチュさは西洋的な構築の仕方で日本古典を扱ってしまうところにある。
97 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 20:29:23
>>88 読んでないから名前を挙げられないんだろ?
三島以外の作家をロクに読んでもいないで日本文学の何がわかるんだ?
三島のフィルターを通した文学史しか知らないんだろ?
98 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 20:33:00
>>94 ドナルド・キーンが話したことのある作家が何人いるというんだ?
戦後の日本人の作家全員と話を交わしたとでも言うのかね。
>>96 三島は西洋の目も、日本の目も持ってますよ。三島はやっぱり日本人ですからね。
あんたみたいな頓珍漢な上っ面な見方は、ろくに三島を読んでない半可通の典型的な間違いでした。ご愁傷様。
100 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 20:35:56
>>93 俺は別に作家は古典を読まなくていい、といっているわけではない。教養としては必要だ。あくまで教養としてはな。
だがその知識で作品を作り上げることが、作品の評価にはならないといっているわけだw
古典に取材した作品を書きまちたよー、偉いでちゅねぇ、とはならん。
ゲーテにしろフローベールにしろ、その作品の強度で評価されている。
101 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 20:37:37
三島ババアwwww
102 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 20:41:38
そして俺はここでは三島の作品の強度を疑っているw
>>99 そりゃ誰だって日本に生まれりゃ日本人だろう。
肝心なのは西洋的なメトーデで小説を三島が作ってしまったことにある。
しかしチワワの思考パターンと煽りパターンは決まりきっているな。
>>100 三島は教養で読んでないから。好きで子供のときから身に付いてるんだよ。だから、他の作家には書けない日本語の作品や台本が書けるわけ。
あんたみたいな浅知識と違いますよ。
104 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 20:44:11
チワワはほとんどのスレに三島コピペを投下しまくっているからな。変なやつだと思われいるだろう。
まずこいつは教養がない。ものを広く浅く読んでいない。ただ三島のコピペを貼るだけで満足しているとんでもないやつだ。
まぁ三島が生きていたら百パーセント嫌っていただろうな。
>>102 西洋的なメトーデで小説を作って何が悪いんでしょうか? 様々な要素で自分の世界を構築していくのが芸術作品だから、そんなもの当たり前でしょう。
馬鹿じゃないの、あんた。
三島ババアって独身?
>>104 はいはい、論破されるとすぐにそういう逃げだ。ちんけな屁理屈ご苦労でした。
マグナ=武陽
ちんけな知識で知ったかぶりの自演魔。
109 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/09/30(木) 20:51:17
>>105 西洋的なメトーデといっても昔風の、基本的なことをしただけなんだがな。
百年前に使われた手法で小説書いて、何が楽しいの? と思われても仕方ないだろう。
110 :
吾輩は名無しである:2010/09/30(木) 20:52:17
キチガイっぷりがすげーなwww
249 名前:吾輩は名無しである[] 投稿日:2010/09/30(木) 20:28:55
マグナってやつは、武陽ですよ。
たまに名無しで自演もしてるようです。
250 名前:マグナ ◆i.K3ZM.pZo [] 投稿日:2010/09/30(木) 20:48:05
だから俺は武陽ではないw
あいつは一応学問的に知識を蓄えこんでいるのだろう。
それと違い俺は、適当にハッタリをかましているだけだw
251 名前:吾輩は名無しである[] 投稿日:2010/09/30(木) 20:52:09
>>250 自演がバレて、ごまかしですか?
>>109 はあ? 三島の手法は刑事訴訟法ですよ。
馬鹿なハッタリで知ったかぶっても無駄だよ。ハゲ爺
いかくなるときは必ず合いの手名無しと一緒に消えるコテ。
>>80 ああ、
主人公がドモリだから、
書き出しから何から文章がドモっていると。
なるほどね。
ハイハイ。
>>104 > ただ三島のコピペを貼るだけで満足しているとんでもないやつだ。
違うぞ。チワワは全集を金かけてPDF化して2ちゃんに貼りまくって喜んでる
とんでもないやつだぞ。自分を研究者だといってるぞ。
派遣切りされたニートで、それを社会のせいにして世の中を憎んでるぞ。
スキャンして読んだつもりだから三島関係はすべて読んだと威張るわりに
肝腎なことは何も知らんぞ。笑うだろ?
まあ考えてみればこんなやつに三島あたりちょうどいい守護天使様なんだろな。
116 :
mun:2010/10/01(金) 09:52:23
頭の悪いやつは三島読むなよ
>>114 父親はその時点でもうこの世にいないわけだから、読点を入れた方が回想的になるんだよ。
これが解らないバカは三島由紀夫を読むんじゃないよ。
小学生でも思いつきそうな解説だな
読点を入れた方が、どうみても余韻があって回想的な深みがあるのは自明。
この作品にとっては、一拍置いて語りはじめなければ回想文にならない。
読点をなくした文は単なる凡庸な素人のもので、父親が現存してる場合にしか有効にならないね。
さすがですね、三島由紀夫
老人向けカルチャー教室で小説講座をやったろうかと思うのですが
なんかいい作品ないすか
× 三島は読者に恵まれないなあ
○ 三島は、読者に、恵まれないなあ
入れ食いw
な、チワワ馬鹿だろ
回想とか父親が死んでるとかまるで意味不明
第一章のプロローグで親父は死んだ、溝口は物質のように死骸を眺める
金閣の幻影も存在理由も溝口が新たに自ら構築したものだ
キッカケは親父でなくて誰でもいいんだよ
書き出しは作品の結構と切り離せない
あれはな、三島の評論風の語り口がだらしなく表れているんだよ
謳いあげるような評論ならまあいい、しかしこれは精緻さを
要求される小説なんだ
三島は作品の虚構性を強調するため徒に体裁を繕った
しかし独立した創作として厳しくよめば明らかな破綻だ
そして三島の小説の文章すべてにこの欠陥は共通している
おそらく書き出しをラフにせずもっと引締った散文の形でスタートしたら
作品は生みの苦しみとひかえにずっと完成度が高くなった
三島の小説文章は才能の披歴を優先するあまりユルユルで、読みにくい
127 :
吾輩は名無しである:2010/10/01(金) 23:35:10
チワワ、ばーかw
>>126 何を一人で熱くなって独りよがりの妄想で決めつけてんだか。馬鹿馬鹿しい。頭お大事に。
せいぜいネット内だけで威張ってなよ。
129 :
吾輩は名無しである:2010/10/01(金) 23:39:05
三島の文章はロジカルだ。
そういう文章が日本人の読者は苦手なのでは?
>>126 言っとくけど、あんたが添削した「、」のない文の方がだらしないよ。
金閣寺は全部が回想的な文で、小説じゃなくて「詩」ですから。
あんたの言うことは全部まちがい。ご苦労様でした。
熱く?
おまえを冷徹にいたぶってるだけだが
最初にいったの忘れたか?
お前の根性ためされるのはこれからだよwww
もしかして、ここでウダウダと金閣寺に文句言ってる阿呆は、禁煙ファシズムとかのやつかな?
いろんな文豪の有名作品にケチつけるしか能のない人、名前忘れたわ。
>>131 どこが冷徹? ただの馬鹿馬鹿しい独りよがりのイチャモンにしか見えませんよ。
くだらないこじつけに熱くなってお疲れでしたねぇ(笑)
恐いか?w
>>134 あんたが三島を恐いんでしょ。熱くなってお疲れさまでした。
恐いか?ww
むしろ読みやすいと思うが。
138 :
吾輩は名無しである:2010/10/05(火) 11:20:56
太宰と比較すれば、まあ、読みにくいでしょうね。
139 :
吾輩は名無しである:2010/10/05(火) 12:49:18
>>20 おまえさんはカヤブキをしいたけにして食うのけ?誰をさくしゅするんけ?
谷崎、川端>>>三島
まあ、本人もそういう自覚があったから、
まどろっこしい文体やボディビル、右翼活動なんかのパフォーマンスでキャラ立てたかったんだろう
三島と聞けば、谷崎、川端と比較すること自体、たいして三島を読んでない証拠。
本質的に違うものを比べてもナンセンスだから。
結局、文学者として実際に大したものを書けなかったから、
あれこれパフォーマンスに走っちゃったんだろうな。
>>142 負けおしみ言っても無駄だよ。三島以上の作品も書けない者が。
三島を批評するには
三島以上の作品を書かなきゃいけないのか
たいへんだな
145 :
吾輩は名無しである:2010/10/11(月) 14:32:18
そうか?
ペンキ絵に人形劇で
落語のオチつけて一丁上がりだ
146 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/11(月) 14:47:04
しかしチワワは酷いな。こいつを駆逐しないと文学板は駄目になる。
>>145 三島作品にはそんなオチなんかないけどね。読んでないのがバレました。
149 :
吾輩は名無しである:2010/10/11(月) 15:36:59
タダで書くわけがない
しかもわざと下手に書くのは疲れる
たしかに落語以下のオチがおおいな
三島が悪いとは言わんが、
何でネット上で三島を信奉する奴って馬鹿やキチガイばかりなんだ?
三島をまるで読んだことのない奴が興味持って来ても、
この板の三島スレを見たら読む気が失せると思う。
154 :
吾輩は名無しである:2010/10/11(月) 22:00:15
引用のみなら興味は増すと思うがね
まず、あの引用馬鹿は何なの?
気持ち悪いんだけど
西村京太郎>阿部牧郎>志茂田景樹>南條範夫>和久峻三>早乙女貢>五木寛之>三島>黒岩重吾>猫ひろし>美輪>マツコ>美川>江頭>日景さん
大江なんかも同様だけど、
作者自身が作品の外で政治的な言動を繰り返したために、作品そのものの評価がしにくくなっちゃったのはあるな。
160 :
吾輩は名無しである:2010/10/12(火) 01:13:38
小説の才能は兎も角、タレントとしての人気は高かったんじゃない?
生きてたら市長とか知事になれたっぽいのに
朝生に出て野坂大島小田と掴み合いして欲しかった
万延元年のフットボールと金閣寺は戦後文学のトップ2
戦後文学のトップ2なら
片方は『神聖喜劇』と決まっておる
もう1つはオマケだから三島でも何でもいい
164 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/12(火) 21:03:02
まずチワワは鸚鵡返しが得意。これが特徴的だからコテをつけていなくても一発で分かるw
もういい加減茶番は止めておけ。
>>160 少なくとも、石原(笑)よりはずっと上の位置に立っていただろうね
166 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/12(火) 22:30:24
また自演するな。馬鹿チワワw
>>160 平凡パンチの好きな男性人気投票で三船敏郎やらをおさえて、ずっと一位だったらしいよ。
キムタク並みの人気だったと椎根という雑誌編集者の本に書いてあった。
11PMかプレステージの司会をやってただろうね。あと巨泉番組の回答者
秋山、やすし、江本と選挙活動もしたはず。
で間違いなく小朝や家田荘子みたいな金髪
ぎゃはは
生き永えてればな
死にそこなった三島をみたかったねえ。
ブスっと刺してから
横にガーと引っ張った瞬間に
舌かんだ
狡猾だねやり方が
首チョンパが失敗しても痛くない
乃木大将は堂々と悶絶死した
これが本当のサムライだ
>>173 > ブスっと刺してから
> 横にガーと引っ張った瞬間に
> 舌かんだ
デタラメお疲れさまでした。
>>173 介錯拒んだのは阿南惟幾じゃなかったっけ?
乃木もだっけ?
176 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 04:42:43
三島の文章にはリズム感がない
177 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 05:47:24
読みやすい文章なんて、
噛みごたえのない食い物と同じで味気ない。
178 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 05:56:51
学術論文でもなんでも、
読みやすいっていうことに価値をおく最近の傾向って、
知的な堕落だろ。
ビジネス書とくらべて三島の小説が読みにくいって得意げに書いているブログみたことあるw
179 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 06:46:17
>>178 読みやすいか読みにくいかって大江健三郎がこだわっている。
このスレを立てたの、そっち関係の人間の謀略だったりするんじゃないのか?
180 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 06:47:16
>>179 訂正
読みにくいと否定されている大江健三郎が、逆説的に不満をタレるように
こだわっている。
>>176 ありますよ。三島の真骨頂は戯曲のセリフ回しのリズム感だし、その傾向は小説にも沢山散見されてます。
182 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 16:32:24
>>179 読みにくさっていうか、文章の晦渋さとかも、小説の「色気」の一種だろ。
大江健三郎の初期作品なんかそういう色気が確かにあった。
それを否定する必要ないとおもうけどな。
183 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/15(金) 16:46:42
むしろ三島は読みやすい。だが、それだけだ。そう言う小説が多い。もちろん面白いものもある。
しかし、傑作かといわれるとためらわれる。
>>183 はいはい、毎度のハッタリご苦労さま。たいして読んでないくせに。
185 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 17:42:21
三島の文章は小説も評論も読み易い。読みづらいのは読み手の頭の問題だろう。
もっとも、あの明快な論理的文体が面白さを半減させているとは、よく耳にする話だ。
186 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/15(金) 17:43:40
>>184 三島を全部読む必要はないだろう。全部読むのは三島オタクだけで、文学好きではない。
はい、論破してやったぞw
187 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/15(金) 17:48:37
三島の文章は普段は明快で読みやすいのだが、どこかねじれたようになるところがたまに現れる。ねじれてしまうと何を言っているのか分からなくなり、自分ひとりの世界に閉じこもってしまったかのように思える時がある。
観念だけを繰っているだけで前進しない遅滞を起こしてしまうんだよな。
>>186 全部読めとは言ってないし。
たいして読んでもないでハッタリで言ってるのが解るんだよ、あんたは(笑)
189 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/15(金) 17:58:13
>>188 まぁチワワの三島と言ったら引用を貼り付けるだけだからな。そんな奴にハッタリといわれても、ピンとこない。
三島のエッセイ類は、あまり続けて読みたくはないんだよな。「小説とは何か」も読んだが、あれは今ひとつまともな小説論とは言いかねる。
「小説家の休暇」もどうも青過ぎて読めないところが多い。「太陽と鉄」は読み忘れていた。これは後から読めばよかろう。
あまり読みすぎると、三島一極主義になる。お前は三島教信者といわれているだろうが。それを止めろ。他の本を読め。
武陽にすら指摘されていただろ。
190 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 18:24:33
三島の作品や行動がどこか嘘臭く、作り物めいているのは、
彼のパーソナリティ障害によるものでしょう。
境界例のひとつ、演技性人格障害だったのは間違いない。
平たく言えば、目立ちたがりの構ってちゃん。
まあ、三島は優秀な頭脳と才能をもってたから名声を得られたけど…。
皆の周りにも必ず一人や二人いるでしょ、能力も実績もないのに自信満々でスタンドプレーが好きな奴。
>>189 227:吾輩は名無しである :2010/10/15(金) 18:23:00 [sage]
136:武陽隠士◆UCfK2Lx59s :2010/09/30(木) 22:25:08
【おことわり】
マグナ◆i.K3ZM.pZo=( ̄ω ̄)獲る狸◆ycr5A7VfSw =ヘ(^q^)ヘ鈴木雄介◆m0yPyqc5MQ=(o`.´o)=?コテハン=ときどき名無し
三島は耽美派に分類される作家だから、作り物臭が出ていることはかまわない。
それから、三島の文を読みづらいといっている奴は、長文についていけないんだろう。
俺のように、ダラダラと続く判決文でも読める者にとっては、読みやすい。
>>192 そんな、判決文がどうのこうのとドヤ顔で言わなくても、
普通の文学読みにとってなら、三島の文章は明晰で読みやすいだろw
194 :
192:2010/10/15(金) 18:56:39
うむ、と普通の顔で言ってみた。
195 :
吾輩は名無しである:2010/10/15(金) 19:29:10
まぁ綺麗な文章である
小説を読み初めた青年なんかはハマルだろうな
>>189 「小説とは何か」は別に小説論じゃないからね。そんなこと言ってること自体間抜けだよ。さやうなら(笑)
197 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/15(金) 19:37:20
どこからどう見ても小説論なのだが。詳細に反論できないんだろう。すぐ逃げるのがチワワだからな。
>>190 あんたの言ってること自体が、全く自分自身で三島を読んでないで、どっかの節穴バカが言った一部を
大袈裟に誇張した作り物の感想にしかみえないけど。バカ丸出しでした。
199 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/15(金) 19:39:38
小説論を書こうとして失敗した文章ということか。確かにそれならばそうだな。
>>197 小説論と決めつけるような論文じゃないでしょ。様々なエッセイめいたものも含んだものだし。
>>199 小説論は他のところで書いてるからね。タイトルで短絡する間抜けなあんたがバカなだけ。
そこが争点?
あれが小説論であると見なされると
なにか不都合でも生じるのか
>>198 「どっかの節穴バカ」って誰だよ。テキトーだなw
誇張も何も、パーソナリティ障害について知ってる人間なら誰でも気付くことだがな。
作り物臭いのが悪いとは一言も書いてないし、
三島マンセー以外のレスと見るや、いちいち親のカタキみたいに
キャンキャン噛みついてくんなよ、更年期オバハン。
>>203 そんなレッテル貼ったところで、何の意味ないしね。目立つ人間をそういう纏め方しかできないなら、
文学板に来る必要ないでしょ。
コテハンは何故コテはずすと汚い口調になるんだ?
>>204 文学板ってのは、ちょっとした雑談カキコもできんのか?
たかが2ちゃんだぞw
それこそ、あんたのコピペとヒステリックなレスも
この板に相応しいとは思えんがね。
>>205 誰と勘違いしてるのか分からんが、俺はコテつけたことはないんだがw
そもそも、このスレに書き込むのも今日が初めてだし。
対話の出来る人間など限られている。
>>178 学術論文は(少なくともそれを読む層の人にとっては)読みやすくて当然だろう。
他人に伝えることが目的であって、自己満足色が強い「文学」とは違う。
>>177 三島の文章は「読みにくい」といっても、無駄にゴテゴテしてまどろっこしくしてるだけで。
正直文章としての面白味は感じないなあ。
なんか、無理して頑張って書いてる感じが見えちゃって。
大江の文体を三島が「田舎者が都会風を取り繕っている」みたいに評したって話があるけど、
その評は三島自身にも当てはまる気がする。
>>179 君、そろそろコテハン付けてくれない?
大江スレで相手にされないからって、外にまで出てこないでくれ。
三島由紀夫を信奉する人に聞いたところ
金閣寺の主人公は住職に愛人がいることを知って自暴自棄になり
金閣に火を放った、ということだったが、
この解釈で合ってるの?
>>211 それ、なんてBL?
その方は三島好きではなくて、腐女子ですw
>>212 質問に質問で返す。
オーケー。いいだろう。
いかにも三島由紀夫のスレらしい書き込みだ。
>>209 頑張って書いてるのは当たり前でしょう、仕事だから。
頑張って真剣に書いてるのは私も感じますが、無理してるとは全く思わないね。好きで喜々として文章を紡いでるとは思うけど。
普通の平板な文章なんか軽くエンタメで書いてるからね。
それなら三島は、大江の文章は好みだとはっきり書いて評論してますから、その大江評はガセだと思うよ。
>>211 間違ってますね。人に聞かなきゃ、間違ってることもわからないんでしょうか?
つまんない寸劇お疲れさまでした。
>>214 ガセでしたか。それは失礼。
三島に関して言うと、中間小説とか軽い論評とかの程よく肩の力が抜けた文章の方が好感が持てるな。
個人的な好みだと、文体的に三島や川端はあんまり好きじゃない。
どちらかというと谷崎や大江みたいなクネクネしてる方が好き。
217 :
吾輩は名無しである:2010/10/16(土) 02:03:33
文学に読みやすさを求めるひとって、
何の義理があって小説なんか読むんだろ。
そんなひとのためにマンガやアニメがあるんだから、そっちにいけばいい。
でもね、子規は(オマエが云うかw
>>216 大江の文章も肩に力が入ってるのでは?
だからこそ三島由紀夫はそういう文章が好きだから好感を持ってたんだと思いますけど。
>>219 いや、肩の力が抜けた文が良いってのは三島に関しての話ね。
大江はむしろ力入った文章の方が好きで、エッセイなどの文体は好きじゃない。
221 :
吾輩は名無しである:2010/10/16(土) 18:21:27
大江はエッセイも小説も変わらない悪文
222 :
吾輩は名無しである:2010/10/16(土) 18:26:28
晩年近い谷崎の「気になること」っていうエッセイの中で、
若き大江の「他人の足」の中の二文を取り上げて、批判している。
@戦争は、フツトボオルをできる青年たちの仕事だ。
A紅顔した顔をむりに振りかえって学生がいつた。
この二文に不自然さを感じる人は、
もしかしたら大江よりも谷崎寄りの人なのかもね。
224 :
吾輩は名無しである:2010/10/16(土) 21:05:23
紅顔した顔
>>223 Aはまるで、エクソシストみたいに首だけ180°回ってこっち向いた、っていう感じがするね。
>>225 ある意味、そういう不自然さは大江の持ち味なようにも思えるな。
滑らかな文体の大江なんて逆に不気味だ
>>223 添削してあげましょう。
@戦争、それはフツトボオルをできる青年たちの仕事だ。
A紅潮した顔をむりに振りむかせて学生がいつた。
>>226 それが三島だったら、鬼の首とったみたいにギャーギャー叩きまくるんだろうね、岩波っぽい関係者は。
>岩波っぽい関係者は
誰だよw
>>229 文学板全体に昔のサヨクが漂ってる感じ。
ああ、陰謀論くんでしたか。
これは失礼
>>231 陰謀論? なんですかそれ?
私はただ文学板全体の印象を思ったまま言ったまでですよ。別にそれが悪いなんて言ってまないし。それぞれ思想があるんでしょうから。
いや、君の文体が、とある作家のスレで電波を発信しまくってた人とよく似ていたものでね。
違ったら失礼
234 :
吾輩は名無しである:2010/10/20(水) 02:13:59
255:武陽隠士◆UCfK2Lx59s :2010/09/30(木) 22:11:38
【おことわり】
マグナ◆i.K3ZM.pZo=( ̄ω ̄)獲る狸◆ycr5A7VfSw =ヘ(^q^)ヘ鈴木雄介◆m0yPyqc5MQ=?コテハン=ときどき名無し
↑が私につきまとい、私の自演とか称して名無しやマグナ◆i.K3ZM.pZo(こいつ狸であって私ではない)を使ってきやがって非常に困ってる。
悔しいのは分かるが、いいかげんつきまとうのは止めてくれ“狸”。
マグナ◆i.K3ZM.pZoと( ̄ω ̄)獲る狸◆ycr5A7VfSw が同一人物なのは、サブカルなんとかスレ(今回のサーバーお流れで消えた)で自演コテハンたち(?)が一緒に出てきて認めている
(私に引きこもり野郎と罵倒されたり論破されたりして傷ついたとかナンたらとか、いちいちしょーもねえうるせえ泣き事を連投してきたのは覚えてるぜw)。
私に勝てないことを悟ったからって、手の込んだくだらねえ自演攻撃してくるたぁ呆れたぜ、まったく(まあヒマジンだもんなwよっぽど何度も負けたのがが悔しいらしいwプププ(^〜^))。
とにかく私につきまとってくんな。気持ちわりいんだよ、、引きこもり野郎!
年がら年中パソコンに張り付いて小せえ真似コセしくさってるヒマあんなら、さっさと勤労しろ
235 :
吾輩は名無しである:2010/10/20(水) 02:30:03
右翼の声明文みたいなんだよ
236 :
吾輩は名無しである:2010/10/20(水) 03:41:44
わざとでしょ?「自分の肉を不味くしたい」って言ってたし
お菓子みたいに手軽においしくサクサク食えるようなモンにしたくなかったんじゃね
ライオンの肉みたいに不味くて食えないような文体にしたかったと
おやはや(笑)なんと愚か
238 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/21(木) 18:17:05
やっぱりチワワは馬鹿だ。
はっきり言って野島伸司のほうが日本語うまいと思う
それはない
お前らホントにバカだなあ。
読み難いに決まってんだろがw
昔の文人は、和漢東西古今のありとあらゆる文献に精通していて、
使う言葉のひとつひとつが、その原典の意味を含んだかたちで
表現されてるんだw
古文も漢文も西洋文学もロクに学んでない現代人が
すんなり読めるわけねえだろがw
谷崎潤一郎さんの文章なんかもそうだよ。
三島の文章能力の低さを棚上げして読めないほうがおかしいとか、
まさに糖質か認知症患者丸出しの思考でワロタ
三島の小説の賛否は様々あるけど、その文章能力の高さを否定する評論家は皆無です。
中沢 三島由紀夫みたいな人は太陽を描写する時に、「赫奕として日輪は」とか書いちゃうわけでしょう(笑)
金井 ほとんど横光利一ね
中沢 利一だよね。横溝正史かもしれない(笑)
三島や横光利一以下の、小物の物書きがああだこうだ言っても虚しい嫉妬にしか聞こえない。
中沢 あの人(三島)の最大の不幸は教養があり過ぎたことかな
金井 そうでしょうか。教養が中途半端だった不幸ではありませんか(笑)
>>245 あれは「太陽の描写」じゃないけどね。勲が死んだのは夜だから。よく読めてないバカばかり。
>>247 幸、不幸で芸術家を論じていること自体が、その三流物書きたちの俗っぷりや間抜けさを
逆に晒してるだけにしか見えないね。
『奔馬』には、一八七六年に叛乱を起した武士たちの集団自殺が描かれており、彼らの行動は勲を感奮興起させた
ものであった。正規軍に敗北すると、八十名の生存者はあるいは路上で、あるいは神社の祀られている山頂で、
いずれも礼法通りに腹を切った。(中略)
この血と臓腑の信ずべからざる大氾濫は私たちを恐怖させるとともに、あらゆる勇敢なスペクタクルのように
興奮させもする。この男たちが闘うことを決意する前に行った、あの神道の儀式の簡素な純粋性のようなものが、
この目を覆わしむ流血の光景の上にもまだ漂っていて、叛乱の武士たちを追跡する官軍の兵隊たちも、できるだけ
ゆっくりした足どりで山にのぼって、彼らを静かに死なせてやろうと思うほどなのである。
勲はといえば、彼はその自殺に幾分か失敗する。(中略)
しかし三島は、それ自体うかがい知りえぬ肉体的苦痛の領域に天才的な直感をはたらかせて、この叛逆の若者に、
彼にとってはあまりに遅く来るであろう昇る日輪の等価物をあたえてやったのだ。腹に突き立てられた小刀の
電撃的な苦痛こそ、火の球の等価物である。それは彼の内部で赤い日輪のような輝きを放射するのである。
マルグリット・ユルスナール「三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン」より
中沢 三島由紀夫で面白いと思ったのは『近代能楽集』くらいかな
金井 『綾の鼓』や『卒塔婆小町』?三島由紀夫って、やっぱりつまらない。短編が特に。長編もだけど(笑)
金井って人は要するに三島を貶したいだけでしょ。サヨクによくいるタイプ。
金井 あれ(森茉莉の小説)は奇型の名文なんですよね。『枯葉の寝床』って小説があったでしょう?アラン・ドゥーロンとジャン・クロード・ブリアリをイメージして書いたっていうのね。三島由紀夫も、ほんとは、ああいうのをずっとやってれば、幸福だったんじゃない?(笑)
荒俣宏 金井美恵子 中沢新一 鼎談 『新・短編小説講義』
金井美恵子自身が不幸に見えるね。
最初に読んだ「金閣寺」は、読みにくいというか、感情があまりにも論理立って説明されているので
違和感を感じた。分かりやすいんだけど、入りにくい、そんな世界観。
次に読んだ「春の雪」は、とても自然に世界観に入り込めた。少し絢爛すぎるきらいもあるが、貴族社会
の浮世離れした感じと相まって、違和感はなかった。
いま途中やめにしている「美しい星」は、いかにも日本人が書きそうなSF小説。
美しい星は文学作品です。
この人の軽めの小説はけっこう好き
音楽とか、それこそ潮騒、永すぎた春みたいなの
どっかでブレーキがきいてるやつのほうがいい
のめりこんで書いてるのは、論理論理で書く癖にすぐグチャグチャになるからイヤ
ぐちゃぐちゃなのはあなたの頭。
言葉の使い方、きれいに言葉を使える人
最初に仮面の告白よんだとき、同性愛の話だってことに気がつかなかった。
すらすらと読めない、美しい語と比喩で飾られた文章だけで満足してた。
261 :
吾輩は名無しである:2010/11/28(日) 10:43:45
小説じゃなくて優等生の小論文読まされてるみたいで
金閣寺とか仮面の告白は途中で挫折した。
いちいち説明臭い文章とか比喩が鬱陶しい。
部分部分のどうでもいいようなことを
やたらと細かくリアルに描写してるのも不均衡さを感じた。
音楽は辛うじて読めた。
晩年の作品は知らないけど初期作品よりは読み安そうだと思った。
軽いエッセイとか批評のほうが単純に面白い。
でも太陽と鉄なんていちいち象徴を解読しなければならないので
途中からチンプンカンプンだった。
途中で挫折しても、またあとから読み直すとわかってくることがあるよ。
263 :
吾輩は名無しである:2010/11/28(日) 18:01:56
音楽ってどう読んでもミステリーなんだけど、
本人は文学作品と書き分けて、確信犯でミステリーにしたのかな。
それとも、結果的にミステリーぽいというだけ?
「金閣寺」と「仮面の告白」なら読めるよ。
「太陽と鉄」は挫折した。
266 :
吾輩は名無しである:2010/12/11(土) 09:08:28
例えば石川淳だったらその文章のすみずみに江戸期の文学的素養が(私のような素人にでも)感じられ
るのであるが三島にいたっては感じられずせいぜい難しい漢字がところどころにでてくるのでその都度
辞書で調べたり注解を読んだりするのが面倒くさく時には飛ばし読みしたりする位で「三島由紀夫の文
って読みづらくないか?」には賛成である。小説家としての才能はしばらく措く。三島由起夫は古典の
素養がどうとかこうとかという定説があるが疑わしく感じられる。もちろん私だって能楽の喜多六平太
との対談を読みながらとなるほどと頷くことさえあるが、やはり三島由紀夫の文章は近代小説のスタイ
ルであり石川淳のような徹底性が感じられない、かといって(祖母の影響で)幼少期から好きだったと
いう泉鏡花の「別世界へ連れていく」文章でもない。彼の模範とする森鴎外はいわばハードボイルドの
ように非情な文体が特徴であるが、三島由紀夫の小説家としての資質は心理小説家であり心理の流れを
くどくど記述するのには向いてなかったのではないか?くわしい人の教えを乞う。
267 :
吾輩は名無しである:2010/12/11(土) 10:05:38
ちゃあ〜
>>266 森鴎外は少し参考にしただけで、三島は自身のスタイルまでは変えてないでしょ。
どの作品を読んで言ってるのでしょうか。
269 :
吾輩は名無しである:2010/12/11(土) 18:33:52
>>268 三島の森鴎外への傾倒はおそらく学習院時代にさかのぼることができる。国語教師の清水文雄を通じて
日本浪漫派の雑誌に掲載するほどになっていた彼はそのなかでもとりわけ清水と同じ斎藤門下の蓮田善
明に私淑した。蓮田善明は戦争終結の際に上官を射殺して自らピストル自決をした文学者として有名で
あるが、又森鴎外の研究者でもあったのである。蓮田善明が三島に与えた影響はいろいろな意味で大き
いと思うがしばらく措く。2ちゃんねるで「森鴎外」を見てみると三島由紀夫の熱のこもった鴎外讃歌
を読むことができる。
小説家って小説内で使っているような難しい漢字や比喩で日常的にものを考えるの?
271 :
吾輩は名無しである:2010/12/11(土) 20:07:07
ある程度、高水準の文章読解力がないと、三島文学は
、読みこなせないし、理解できない。
>>269 もちろん、三島は森鴎外を賛美して、自身の文体改造の参考にしてますが、それは叙情的に走りがちな傾向を抑え
理知的ものを加えるためで、実際の三島の文体には自身の装飾性や比喩の特徴は残しているので、
鴎外の簡潔さとはやはり別物になっていると思われます。
273 :
吾輩は名無しである:2010/12/12(日) 02:30:50
今私はレイトショーで「ノルウェーの森」を鑑賞して自宅に帰ってきたところであるがこのような作品
を見ると(原作と映画は別ものだとはいうものの)このような作品と比べれば三島も悪くはないんじゃ
ないか?私が間違っていたのではないか、と弱気になっている(笑)。三島の文体に話を戻すと私は三
島の文体が森鴎外の模倣である、というつもりは全くない、というよりむしろ資質の違う作家が無理し
ているのを感じるといったほうが正確である。そしてくり返してしまうが古典的教養があふれた文体と
は感じられない。しかし私は文体の話がしたいわけではなくある海外の小説家に似ているのではないか
ということをいいたいがために前置きとして話題にしただけなのだ。
>>273 三島は日本の古典を十代からほとんど読んでますから、少なからずその世界観や情感は十分反映されてますよ。
もちろん、古典のみならず近代西洋文学の影響があるのは当たり前です、古典の素養がなければ三島のような文学世界は生れません。
275 :
吾輩は名無しである:2010/12/12(日) 11:24:29
>>274 私の言い方が間違っていたのかもしれない、谷崎潤一郎は私のお気に入りの作家であるが特に中期以降
の作品を読んでいるときは面白くて途中でやめられないので文体がどうとかこうとか考えることもない
くらいのせられてしまい後で考えてみると古典的素養なしに書けないことがわかる。残念ながら三島を
読んでそのような経験はすくない(全くないとはいわない)。古典的素養といった言葉でいいたかった
のは難しい語彙をたくさん知っていますよ、といったこととは違うのである。事実谷崎潤一郎を読んで
いて難しい言葉をよく使うなあ、とはあまり感じない。森鴎外の場合プロイセン(ドイツ)から帰国し
ていろいろな概念を日本語に移す必要にせまられて難しい言葉も使ったし造語もつくった。271や273
でいわれていることが定説なのはいくら私でも知っているがそれは本当なのか?、といいたいのだ。
>>275 「橋づくし」とか短編はすらすら読めて、金閣寺などとはまた違った味わいがあると思いますが。
277 :
吾輩は名無しである:2010/12/12(日) 21:40:56
でも三島の短編は正直面白くないでしょう。個人的に彼のいいのは戯曲だと思うがそれはセリフが主で
文章がないからかもしれない(笑)。
>>277 でも三島がもし戯曲しか書かなかったとしたら、それはそれで何か物足りない世界だと私は思う。
やっぱり三島は小説にその謎や面白さが詰まってるし、短編にも見逃せない作品がたくさんありますよ。
だいたい、短編はつまらない、って決めつけ自体が変だし。
カテゴリーに関わらず、つまらないのもあるし、名作もあるから。
>>277 ちなみに、あなたは今まで、何の短編読んだんでしょうか?
橋づくしはどこが面白くなかったの?
280 :
吾輩は名無しである:2010/12/13(月) 21:37:34
そもそもこのスレッドは「三島由紀夫の文って読みづらくないか?」というタイトルなのだからそれに
答えて読みづらいといってその理由を簡単にだが分析してみせたのに私の書いた理由に反論するくらい
であればいや違う読みづらくはないぞということを理論的あるいは人が納得できるほどに分析=記述し
てみせるべきなのではないのかそれができないということは事実上読みづらいということを認めること
になってしまうといってもよいのではなかろうかせめて「森鴎外は少し参考にしただけ」と思う理由あ
るいは証拠となる文章を引用してくれてもよいではないか「三島は小説にその謎や面白さが詰まってい
る」という理由を書いてほしい私ばかりが説明するのは言葉の単純な意味でフェアじゃない。
281 :
吾輩は名無しである:2010/12/13(月) 21:49:25
>>280 三島の文章は比喩表現が多く装飾的だから、簡素な文章よりはすらすら進まないだろうけど、
それは別にあなたが分析した理由でそうなってるわけじゃないからね。
森鴎外の文体と、三島の文体が違うのは自明のことだし。
>>280 それから、三島が自身の冗漫になりやすい叙情性を、森鴎外風理知をとり入れて引き締めたからこそ、
元からあった三島の個性である比喩や装飾性が生きているし、却って論理的で読みやすい文章になってると思いますよ。
漢字がどうとかは置いといて、基本はわりとわかりやすい文章だよ。
284 :
吾輩は名無しである:2010/12/15(水) 21:09:39
少なくとも私の育つてきた時代には、「鴎外がわかる」といふことが、文学上の趣味(グウ)の目安になつてをり、
漱石はもちろん大文豪ではあるが、鴎外よりもずつとわかりやすい、「より通俗な」ものと考へられてゐたのである。
「わかりやすいものは通俗だ」といふ考へが、いかに永い間、日本の知識人の頭を占めて来たかを思ふと、
この固定観念が全く若い世代から払拭された今、かれらが鴎外を捨てて漱石へ赴くのは、自然な勢ひだとも
いへるのだが、しかし、鴎外が本当に「わかりにくいか」といふ問題には、前述のやうな鴎外伝説、鴎外の
神秘化の力が作用してゐて、一概には言へない。鴎外は、明治以来今日にいたるまで、明晰派の最高峰なのである。
三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より
285 :
吾輩は名無しである:2010/12/15(水) 21:13:03
再び問ふ。森鴎外とは何か?
あらゆる鴎外伝説が衰亡した今、私にとつては、この問ひかけが、一番の緊急事に思はれる。
もちろん、綜合的人格「全人」としての鴎外を評価することは重要である。しかしすべての伝説が死に、
知識の神としての畏怖が衰へた今こそ、鴎外の文学そのものの美が、(必ずしも多数者によつて迎へられずとも)
純粋に鮮明にかがやきだす筈だと思はれる。
三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より
286 :
吾輩は名無しである:2010/12/15(水) 21:15:01
鴎外は、あらゆる伝説と、プチ・ブウルジョアの盲目的崇拝を失つた今、言葉の芸術家として真に復活すべき
人なのだ。言文一致の創生期にかくまで完璧で典雅な現代日本語を創り上げてしまつたその天才を称揚すべきなのだ。
どんな時代にならうと、文学が、気品乃至品格といふ点から評価されるべきなら、鴎外はおそらく近代一の
気品の高い芸術家であり、その作品には、量的には大作はないが、その集積は、純良な檜のみで築かれた
建築のやうに、一つの建築的精華なのだ。現在われわれの身のまはりにある、粗雑な、ゴミゴミした、無神経な、
冗長な、甘い、フニャフニャした、下卑た、不透明な、文章の氾濫に、若い世代もいつかは愛想を尽かし、
見るのもイヤになる時が来るにちがひない。人間の趣味は、どんな人でも、必ず洗練へ向つて進むものだからだ。
そのとき彼らは鴎外の美を再発見し、「カッコいい」とは正しくこのことだと悟るにちがひない。
三島由紀夫「解説(日本の文学2 森鴎外)」より
橋づくしは逆説的で皮肉なオチが漫画か落語みたいだと思っただけだな
「逆説的な」オチなんてないし。何を読んでんだか。
だいたい三島の小説には「オチ」なんてものはないから。
その通りだ。
だからダメだってことだろ?
そもそも文学作品にオチを求める方が間違ってるんだけどね。
292 :
吾輩は名無しである:2010/12/16(木) 22:39:49
日本語を明晰にしたいという要求は、ぼくの場合は西欧の影響より、鴎外の影響ですね。あんな明晰で
、美しい日本語が書きたいと思って。鴎外はやはり、漢文学の教養があったから書けたのだろうと思い
ますけれども。ほかの日本語はたいてい、曖昧できらいでした。
三島由紀夫全集40対談から引用
293 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/17(金) 02:43:27
チワワも金井美恵子を貶めるとはいい度胸だな。すこしでも文学に詳しい奴なら金井には喧嘩を売らないはずだが。
さらっと「三島には教養が足りないんじゃない?」という文学好きならうすうす感じているようなことをさらっと口に出してしまうのが金井の良さであり美徳だ。
金井ってのは三島嫌いのサヨクフェミ婆さん。文芸評論なんかしちゃいない。
295 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/17(金) 12:55:29
別にサヨクでもないだろ。実際横光を金井は恐らくまともに読んでいないだろうが、「日輪」という小説が横光にあったことを思い出し、言葉の連想を楽しんでいるように見えるがw
296 :
吾輩は名無しである:2010/12/17(金) 22:44:39
「忙しいものをちょっと鈍くする」というのが、僕のスタイルです。鴎外などのスタイルは、緊迫感が
あると同時に鈍いスタイルだと思いますね。それは「坂を上がって森を過ぎて、一軒の家に辿りついた
」という文章を、鴎外は必ずこういうふうに書くのですね。「坂を上がる。森を過ぎる。やがて一軒の
家に辿りついた」と書くのです。時間をそこで分断する。あれは文章を鈍くすると同時にはっきり分け
るでしょう。形がはっきり見えてくる。私はああいうスタイルは好きですね。
三島由紀夫全集40巻から引用
297 :
吾輩は名無しである:2010/12/17(金) 23:01:26
寺山:ところで三島さんには、これは書けないという世界は何ですか?
三島:ぼくはないと、自信をもっている。鴎外から学んだんだよ。つまり、日本の雑種文化を表現できる
言葉は、どんな下品な雑種文化でも、上品な言葉で表現できることを鴎外は証明しているよ。鴎外
がいま生きていたって、何でも表現しちゃうでしょう、おそらく。
三島由紀夫全集40巻から引用
298 :
吾輩は名無しである:2010/12/18(土) 10:09:33
彼の愛した詩人伊藤静雄から学んだとは思えない「冗慢になりやすい叙情性」と「比喩的表現」が多い
「装飾性」のある文章は人によっては「ゴテゴテしてまどろっこしく」感じたり「読みづらい」と感じ
させるのであるがそれをとっぱらえば「基本はわりとわかりやすい文章」である。だから学生時代に私
がはじめて三島由紀夫の作品を読んだときその作品を読むのに「高水準の文章読解力」が必要であると
は感じられなかったのである。たしか『盗賊』を読んでから新潮カセット文庫で『大臣』と『サーカス
』を聞いたと思う。『サーカス』は三島自身の朗読であった。それ以来時々思い出したようにポツポツ
と読んでいるが彼の作品を読むのに「高水準の文章読解力」が必要だとは感じられない。そしてその「
冗慢になりやすい叙情性」は永井荷風の叙情性のように私には魅力的とは思えないし、ゾラをはじめと
するフランス近代小説の影響を受けつつも同時に江戸文芸に深く精通した彼の作品はある意味で前近代
性(プレモダン)を帯びており近代小説の枠組をはみだしている、とあまり教養のない私のような者に
まで感じられるほどに記述(エクリチュール)にあらわれている。又谷崎潤一郎の『細雪』や折口信夫
の『死者の書』といった作品は、鋭い感受性と深い古典的教養から生まれたものであるが、計らずも近
代小説の枠組を逸脱しているといってもよいと思う。その意味で三島由紀夫の「装飾的」ではあるが「
基本的にはわかりやすい」文章で書かれた作品はほどよく近代小説の枠組におさまっているといって
よくそこに「謎」がそれほど詰まっているとは思えない。
>>298 永井荷風、谷崎、折口と比べても意味ないでしょ。それらと三島の文学は面白さの質が全然違うんだから。
ごちゃごちゃと知ったかぶりお疲れでした。
本当に、醜いやつだな。その性質。
301 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/18(土) 16:29:03
おいチワワ、三島を他の作家と分離するが、三島がそれらの作家と同じ時代の空気を吸っていたし、それらの作家を呼んで影響を受けていることを一切考慮しない、三島中心的考え方はよせ。
だから俺はお前には何度も本を読め、といっているだろうが。他の本をだ。
302 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/18(土) 16:34:21
三島文学の面白さというが、それに疑念が投げかけられているのだからさっさと答えろ。
三島はお前の共依存の相手ではない。お前のやっていることはひたすら三島をつまらなくさせることにしか過ぎない。
>>302 面白くなきゃ読まなきゃいいだけ。
谷崎が面白く感じる人が、三島を面白く感じなくても別に不思議なことじゃないし。
私は谷崎と三島は本質的に、全く違うタイプの作家だと思ってますから。
304 :
吾輩は名無しである:2010/12/18(土) 18:30:42
当時友達になったグループの生徒で、日本浪漫派的の国文学雑誌を出していた。それで国文学が好きに
なっちゃって、一種の流行ですが平安朝の日記類、お能、浄瑠璃など手当り次第に読んだ。そうやって
いるうちにどうしたかげんか今度は鴎外が好きになった。というのはその国文学の或るものがくにゃく
にゃした文体で書かれており、それに飽きがきて明確なものがほしくなって、それがラディゲに還るわ
けにいかず鴎外に還った。そして今に至るまで鴎外の文学が好きなんです。
三島由紀夫全集39巻から引用
>>303 > 私は谷崎と三島は本質的に、全く違うタイプの作家だと思ってますから。
本質的も何も実に当り前(笑)
三島は芸術家としての資質が到底谷崎に及ばないことを真率に語っていますよ。
三島は、谷崎越しに捉えなければ現代の読み手として致命的とさえいえるでしょうね。
気持を洗って、『異端者の悲しみ』からでも読んでみましょう。
谷崎を読み込まなければ、三島については一言も語る資格はない。
逆に谷崎を面白く感じる人なら、三島を、欠落を含めて限定された正確さで読みこなすでしょう
>>305 谷崎に及ぶも何も、本質的に全く違うから別に谷崎を目指してなんかいないからね。尊敬するのとそれは別のことだから。
あんたこそ、間違った先入観だけであれこれ言ってないで、三島を自分自身でちゃんと読みなよ。
基本的に谷崎文学と三島文学はほとんど関係ありませんから。
>>305 谷崎文学と三島を一緒に論じたがること自体が、とんちんかんな日本通の外国人みたいな上っ面バカでしょ。
二人は全然目指してるものが違いますから。勘違い残念でしたね。
308 :
吾輩は名無しである:2010/12/18(土) 19:31:25
俺は村上龍の方が凄いと思う
309 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/18(土) 20:02:25
チワワはやっぱり馬鹿だな。三島と谷崎が違うのは当たり前だろうが。
>>305はまともなことを言っている。
お前の言い草は海外で三島は認められている、じゃなかったのか。そういう基本的なことが読めない外国人の三島評価なんぞたいしたものではないだろう。語るに落ちたなw
>>307 > 基本的に谷崎文学と三島文学はほとんど関係ありませんから。
どうやら三島について「本質的に」何も語る資格のない人のようですね。
三島が最も崇敬したであろう谷崎という先人の轍を注意深く見据えたことは
谷崎論を引用するまでもないのです。
鴎外は三島にとって都合の良いテキストだったでしょう。
しかし谷崎は異います、三島にとって謂わば透明でない、古典そのものの体現者でした。
弱い犬ほどよく吠えるといいますが
おそらく貴方は『浜松中納言物語』をしらずに三島の遺作を語るひとなのでしょう。
愚かというほかはありませんが、それは谷崎が讃えた愚かさと全く異質なものです。
311 :
(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ :2010/12/18(土) 20:45:52
>>310 三島が最も崇敬したのは谷崎じゃないから。
もちろん三島は谷崎文学は大好きでその文芸評論も書いてますけど、別に最も崇敬してた人物でも作品でもないしね。
片や批判的なことも書いてますから。無知お疲れでした。
313 :
吾輩は名無しである:2010/12/18(土) 22:29:51
314 :
吾輩は名無しである:2010/12/18(土) 22:33:14
>>312 ほう。あれが本当に谷崎批判だと思っているのですか?
316 :
親衛A ◆m0yPyqc5MQ :2010/12/18(土) 22:44:12
>>313 強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
強姦国民の血を引く穢れた倭は自殺した方がいいんじゃない?
317 :
親衛B ◆m0yPyqc5MQ :2010/12/18(土) 22:46:38
>>314 他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
他人に迷惑をかける劣った理性のゴキブリ都民は自害すべきである。
318 :
吾輩は名無しである:2010/12/18(土) 22:53:48
◆m0yPyqc5MQ www
>>318 名前欄に #+ とかくのよ。これであなたも、きっと助かることでしょう。
わたしは先をいそがねば。もう日がくれてしまう。この世界の日が・・・あの人の影が。
へえ
ワオ
「古典的な日本文学と現代的な西洋文学の融合に最高の水準で成功した作家」
「主題は限定されているように見えるが、その核心には常に理想主義者の批評的感覚がある。その美の世界に顕著に現れる、人間の本質への洞察の鋭さは驚きをもたらす。繊細だが輝かしく、はかないが重みのある、芸術と呼ばれる仕事を続けてきた」
三島の谷崎推薦文(訳)
>>315 「あれが」だって。知りもしないくせに(笑)
>>322 それは自身の、三島文学のことを言ってるんだよ。ほとんど三島自身の理想像を、半分お世辞で谷崎を賞賛してるだけの話。
>>323 だから、引用魔のあなたが躊躇うほど些細な文言なのですよ(笑)
他者批評が出来ないとかね、その裏には谷崎称賛があります。老いに対する意見にしても。
三島が谷崎を一辺倒に批判した、そのような資料はどこにもありません。
生噛りの稚拙な知識をもとに思わせぶりの嘘を書いてはいけません(笑)
>>324 そうそう。その意味で引用しました。よくいわれる傾向です(笑)
私にいわせると三島の賞賛文の最高作は「永遠の旅人」であり
他のは全部取って付けたような曖昧で読みにくい批評文である(笑)
この間川端さんが、睡眠薬の服用を急激にやめられたことから、禁断症状の発作を起され、東大病院に御入院中で、面会謝絶と知りつゝ、強引に押し込んで御見舞をしましたところ、もう相当御元気で一安心しました。
「睡眠薬遊び」はもうお懲りになつたでせう、と諫言しましたら、苦虫を噛みつぶしておいででした。
三島由紀夫
昭和37年2月27日、中村光夫への書簡より
…氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露といふよりは、官能の本体つまり生命に対する、
永遠に論理的帰結を辿らぬ、不断の接触、あるひは接触の試みと云つたはうが近い。
それが真の意味のエロティシズムなのは、対象すなはち生命が、永遠に触れられないといふ
メカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、
犯されたときはすでに処女ではない、といふ処女独特のメカニズムに対する興味だと思はれる。
…しかし乱暴な要約を試みるなら、氏が生命を官能的なものとして讃仰する仕方には、
それと反対の極の知的なものに対する身の背け方と、一対をなすものがあるやうに思はれる。
生命は讃仰されるが、接触したが最後、破壊的に働らくのである。そして一本の絹糸、
一羽の蝶のやうな芸術作品は、知性と官能との、いづれにも破壊されることなしに、
太陽をうける月のやうに、ただその幸福な光りを浴びつつ、成立してゐるのである。
三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
>>325 私が意味したのはそんな批判じゃないよ。もっと根本的な谷崎に対する違和感を表明してますから。
あんたは半可通だから知らないようだけど。
>>327 三島の批評文に曖昧なものなんかありませんけどね。あんたの脳味噌が感知できないから曖昧に見えるだけのこと。
332 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/19(日) 12:42:06
おいチワワ。引用をしまくるお前が貼ってこないのはおかしいではないかw
だから根本的な谷崎に対する違和感の裏を検証する能力なんかあんたにないでしょ
嘘つきチワワがw
334 :
吾輩は名無しである:2010/12/19(日) 18:51:53
チワワは字面しかよめないのよw
335 :
吾輩は名無しである:2010/12/19(日) 18:57:52
それを言っちゃあ〜獅子舞よ
336 :
吾輩は名無しである:2010/12/19(日) 18:58:46
www
>>333 三島文学読めば、谷崎文学のタイプとは全然違うのは明らかでしょう。
そんなことも見えないあんたがバカなんだよ。
三島自身も自分を太宰治や横光利一のタイプと同じだと自己分析してますからね。
338 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/19(日) 20:01:26
三島と太宰と横光は全然違うだろう。図太さがなく、若死にするのは共通しているが。
それを言ったら金井の発言も一理ある、ということになってしまうが。自分から墓穴を掘るのがチワワなんだよなw
三島自身が自身の本質が太宰、横光などと同類と分析してるんだからしょうがないでしょうが。
谷崎や川端のような軟派文学のタイプと、三島を含めた上記のタイプは違いが直感的にわからなきゃ、
いくら沢山読書をしても無駄だよ。
340 :
吾輩は名無しである:2010/12/19(日) 20:25:08
いいから早く谷崎の引用してみチワワ
341 :
吾輩は名無しである:2010/12/19(日) 21:56:16
はやくしろや 寝るぞぉ〜クラッw
342 :
吾輩は名無しである:2010/12/19(日) 22:00:01
チワちゃんオシッコして寝なよ
ばいばいwww
343 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/19(日) 22:15:59
>>339 川端、谷崎が軟派? まあいい。
もう必死だな。チワワは太宰も横光も代表作を読んだ程度なんだろう。
344 :
吾輩は名無しである:2010/12/19(日) 22:59:39
マグナが金井を評価してたとは意外
あんなのマルケンと並ぶ糞物書きじゃん
>>343 川端、谷崎は軟派でしょ。どこにも硬派の要素なんかないでしょうが。
太宰や横光、三島は本質的には硬派の人間性の作家。全然別物。
ただ読書量の多いだけの節穴にはわからないでしょうよ。
346 :
吾輩は名無しである:2010/12/20(月) 00:08:53
金井とマルケンでビーフしてほしいよね。
…まあな、俺以外のがナニを読もうが無駄だとは思ってるけども(笑
348 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/20(月) 01:03:18
>>345 おいおい、それなら江戸川乱歩や夢野久作は人間的に硬派だが、作品は軟派だろう。
くだらん。作家の人間性と作品は関係があるだろう。だがそれは必ずしも確かとはいえない。
349 :
吾輩は名無しである:2010/12/20(月) 01:05:58
正宗白鳥は良いぞ。文章が実に雑だからなw
>>348 江戸川は軟派でしょ。彼が、社会的事件や政治的なものに興味を抱いてるタイプとは思えないし。
ちなみに志賀直哉も軟派。
そういや、マグナは乱歩の黒歴史小説『大いなる夢』読んだことある?
353 :
(o`.´o)materialist ◆m0yPyqc5MQ :2010/12/20(月) 15:01:18
で、谷崎を嫁ねば三島は嫁ぬ、と逝った(笑)霊の阿呆(笑) はどこに逝ったので消化ねぇ〜(笑)間抜けマグ名では拉致は飽き増せん殻ねぇ〜(笑)
354 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/20(月) 17:02:59
>>350 チワワにとって軟派か硬派というのは政治的なものや社会的事件に関心があるかどうかで決まるのか。こりゃどうしようもないな。
355 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/12/20(月) 17:12:38
>>352 ふむ。読んでいないな。乱歩はパノラマ島奇譚、孤島の鬼、少年探偵団、屋根裏の散歩者、人間椅子をはじめとした短篇を少しぐらいだ。それでもチワワよりは読んでいるがなw面白いのか?
356 :
吾輩は名無しである:2010/12/20(月) 17:14:21
>>354 どうしようもねぇ糞コテはおみゃあずらあ
357 :
吾輩は名無しである:2010/12/20(月) 19:19:39
>>355 いや、博士の新兵器がアメリカ本土を襲撃して日本が勝利するという、
どうしようもない戦意昂揚小説なんだw タイトルと新兵器の着想は
素晴らしかったのに、世におもねるとつまらなくなるのかな。あまり
あの作品の評論って無い気がしたから、マグナに語ってほしかったんだがw
358 :
吾輩は名無しである:2010/12/28(火) 01:22:10
ナルシスト
むしろ語彙は豊富だが読みやすいというのが三島の特徴だといわれ続けてなかったか
その逆は大江
主語述語など構文は理解しやすいが、単語の使い方が独特だったり、
(「精神」とか)美文的なのと本音的なのが交錯するときがある気がする。
川端康成が軟派って言う人が、本を読んでるとは思えない。
生きながら死人になったような人にそれは無いよー。
コロコロコミックでも読んで、自分、忘れようね。
ココロクッテミロ
363 :
吾輩は名無しである:2011/01/01(土) 10:32:34
川端康成=少女漫画説。昔「花のワルツ」を読んで笑ってしまった。読後の爽快感のなさも似ている(笑)。
364 :
吾輩は名無しである:2011/01/01(土) 23:20:09
川端康成を語るのにわざわざエロティシズム(バタイユ)を持ち出す人が、本を読んでるとは思えない。
少女漫画説で充分です(笑)。
365 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 12:21:28.08
三島でも読んでいろと。
366 :
吾輩は名無しである:2011/02/25(金) 16:46:19.31
三島の文章はレトリックを多用している。異論があるかもしれんが、
フランス文学なんかに近いものがある気がする。
よく小学校などで、
「あの子、イヤな子だよ。すぐ先生にいひつけるんだから」
などと一人がいふと、忽ち噂が伝播して、「あの子」はクラスぢゆうから爪はじきにされる。
かういふのは原始的な集団ほど甚だしいので、村八分なんていふのは、東京のまんなかでは行はれない。しかし
実際のところ、小さな集団の中では村八分はいつもあつて、丸ノ内の近代的なオフィスの内部にだつて、
一寸した悪い噂から生じた村八分の雛型は、いくらも見られる。
この間ある週刊誌の編集長と話してゐて、スキャンダルといふやつは、どのくらゐ迄、宣伝に役立ち、どのくらゐの
度を過ぎると、本人にとつて致命的になるか、といふ問題をいろいろ考へた。長嶋選手の女の問題などは、
明らかに前者に止まり、衆樹選手の悪評判は、悲しいかな後者に接近してゐる、といふのが編集長の意見だつたが、
これも編集長の主観的意見にすぎず、そこのところの境界は、時と場所によつて、又当人の人柄によつて
まちまちであつて、結局はつきりした客観的な目安はつかないといふ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
(中略)
さて、スキャンダルの本質は、社会的人気者や、社会で紳士淑女とみとめられてゐた人が、思ひがけなく露出する
馬脚にあるので、はじめから悪人ならスキャンダルにならない。前科七犯の強盗が、十人や二十人の女を
だましたところで、スキャンダルとはいへない。ニュース・ヴァリューとスキャンダルとは同一ではないのである。
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。当人は否応なしに、
「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、「彼は女たらしではあるが、
几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、親孝行であつた」とか、
さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
――さて、スキャンダルは、人間ばかりでなく、食品にも起る。かつての原子マグロ事件以来の、最大の
食品スキャンダルが、このハウレンサウ事件であつた。
さつき、村八分は原始的な集団のなかで甚だしいと言つたが、マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、
十分、村八分を成立させるやうになつた。ハウレンサウはその哀れな犠牲者だつたのである。そしてハウレンサウは、
スキャンダルのあらゆる条件をそなへてゐた。
第一に、ハウレンサウは、これまで社会に有益な役割をしてゐると考へられ、紳士的な野菜と見なされてゐた。
彼ははじめからナラズ者や、殺人犯人だつたのではなかつた。はじめから青酸加里だの、ネコイラズだつたのでは
なくて、善良な食品だつたのである。おまけに、彼には隠れた善行の噂があり、しかもその善行は誇張して
伝へられてゐた。それがすなはち、有名なポパイの漫画である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
誰も彼も、ハウレンサウ氏を信用してゐた。ハウレンサウ氏は、わづかな費用で、冬のさなかにも家庭を気易く
訪問し、みんなに愛されてゐた。その紳士が、実は、こつそりと、少量づつの毒物を家庭へ運び入れてゐたといふ
スキャンダルが出て、みんなびつくりしたのである。
昨年十月末から十一月はじめにかけて、一流新聞が一面全部の大記事を出したのは読者もよくご記憶であらう。
「ハウレンサウで大騒ぎ。
喰べすぎると“結石”に。
有害なシウ酸が含まれる」
(中略)
それ以来、ハウレンサウ氏は、善人の仮面をかぶつた陰険な悪人の代表にされてしまつた。(中略)
世間では急にハウレンサウを喰べなくなつた。それを私は、へんなこだはり方だと思ふのである。なるほど
結石が出来るのは不快にちがひないが、結石は死亡原因のランクに入つてゐるやうな病気ではない。キャラメル
自動販売機みたいに、上の穴からハウレン草を入れると、下の穴からコロリと結石がころがり出す、といふやうな
ものではない。もし病気や死の原因になることなら、われわれはもつといろいろ不養生を他にいつぱい重ねてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
(中略)
日本で放射能雨の被害が喧伝されてゐたとき、銀座に出てゐて、俄か雨でもあると、いい若者が、あわてて頭に
新聞やビニールふろしきをかぶつて駈けた。
そのころニューヨークへ行つた私は、雨が降つてゐても、平然と濡れて歩く人々におどろいた。ところが
ニューヨークでは、タバコが肺癌の原因になるといふ説が有力で、ふつうのタバコを吸つてゐる人はほとんどなく、
パーティーなどへ行くと、十人のうち八人までが、吸口のついた、ニコチン止めの、まるで味のないタバコを
吸つてゐた。私にはあんな味なしタバコは我慢できないので、平気でラッキー・ストライクなんか吸つてゐると、
みんな私の勇気におどろいた。
かういふふうに、人間の恐怖心は、万遍なくすべてに及ぶわけには行かない。もしさうなつたら、恐怖のあまり、
みんな発狂してしまふだらう。だから、大しておそろしくない一つの恐怖に集中して、ほかの恐怖をみんな忘れて
しまふ傾きがある。
ハウレンサウを怖がつてゐる人は、少くともその間だけ、原水爆の恐怖を忘れてゐられるのであらう。その点では
ハウレンサウは、やつぱり有益な食品といふべきなのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
test
大学といふものが、看板どほり、真理探究の象牙の塔であるなら、よほどの変り者しか大学へ行きたがらぬ筈だが、
実際は就職と出世の必要な段階と考へられてをり、又今のところ世間の大体の仕組もさうなつてゐる。
さて、出世とは何かといふのに、私は京都の坊さんからこんな話をきいた。
江戸時代には名僧知識が多かつた。それは一般の平民にとつては、出世をする道とては坊さんになるほかなかつたので、
幾多の秀才が、仏門に入つたわけだが、明治時代になると、誰でも大臣宰相になれる世の中になつたので、
坊さんに秀才が出にくくなつたといふのである。
(中略)
明治以後、日本はうんと近代化し、うんと民主主義化したわけだが、同時に職能的社会の特色と誇りを失くして
しまつた。誰も彼も腕に何かの技能をつけるのを面倒がつて、ホワイト・カラーのサラリーマンになりたがる。
サラリーマンといふのは、技術者を除いて、腕に何の技能も持たない事務屋の集まりで、本当のことを言へば、
「誰でもつとまる商売」なのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より
さうなると、学校の成績や出身校ぐらゐで人間の優劣を決めなければ、決めやうがない。もしこれが桶屋の試験なら、
桶を作らせてみて巧ければ、学歴もヘチマもないわけだが、目に見えない能力をためすには、学校以外に判断の
基準がない。そこで、いはゆる「いい大学」へ入つて「いい成績」をとるために、親も本人も狂奔するといふわけだ。
(中略)
しかし世間の親の九分九厘は親馬鹿で、親バカといふときこえがよいが、その実、子供はそつちのけで、親としての
エゴイズムと虚栄心にとらはれてゐる。有名校を何度も受けさせて、たうとう落第を重ねた子供がノイローゼになつて
自殺したなどといふのがこの手合で、こんなことなら、裏口入学に秘術を尽くし、ありたけの金とお世辞笑ひを
使つて、低脳息子を有名校へ入れる親のはうが、よつぽど立派である。よつぽどヒューマニスティックである。
ヒューマニズムとは、命をかける代りに金を使ふといふ精神だからだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より
資本主義社会では、金持のはうがトクに決つてゐる。金を持つてゐない親の子に生れれば、自分で自分の能力を
切りひらいて、社会の上層部へのし上るしかない。社会の生存競争の何十年にわたる激闘に比べれば、試験勉強なんぞ、
屁のカッパである。
子供に、こんな苛烈な生存競争を味はせるのは可哀想だ、などといふのは文明人の感傷であつて、未開人の社会の
成人儀式の苛烈さはものすごい。先頃シネラマで、高い高い櫓の天辺から藤蔓で体を巻いて飛び下りる成人式を
見た親は、これと試験地獄とどつちがましか考へてみるがいい。
社会には危険な株なら、いくらでもころがつてゐて安く買へる。安全で将来性のある株にばかり集中するから、
その株が高くなる。試験地獄もこの法則と同じで、子供のために安全で将来性のある株を買はうとするから、
子供も苦しむのである。しかし或る意味では、さういふ株を狙ふ代価として、多少の苦しみは仕方があるまい、
といふほかはない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より
世間には、変り者の親もゐて、子供のためにわざわざ危険な株を買ふ親がゐる。子供を天才画家や、天才
ヴァイオリニストや、第二の美空ひばりに仕立てようといふ親である。かういふ親に比べれば、試験地獄に子供を
かり立てる平凡尋常な親のはうが、よほど子供にとつて仕合せである。
私は永い目で見ると、試験地獄も緩和されるのではないかといふ楽観的意見を持つてゐる。(中略)
何世代かを経て、親がみんな高等教育を受けてゐるやうな世の中になれば、「子供に自分より高い教育を
受けさせたい」といふ夢もなくなるし、同時に、学士様も一向チヤホヤされなくなり、子供に同じ好い目を見せて
やらうといふ夢もなくなる。社会全体の幻滅がもつとひどくなれば、試験地獄も緩和され、再び職能制社会の
理想的な形ができてくるかもしれないのである。すでにその兆候は見えて来てをり、子供は正直なもので、
大臣宰相になることに出世の夢を抱く子供なんか一人もゐず、「えらくなる」とはプロ野球の選手になること
なのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より
大体私は現在のオウナー・ドライヴァー全盛時代に背を向けて、絶対に自分の車を持たぬといふ主義を堅持してゐる。
何のために車を持つか? 一刻も早く目的地へ到達するためだらう。ところが私の家から都心までは、ラッシュ・
アワーでも、バスと国電を使つて三十五分で確実に行くのに、車を利用すれば早くて四十五分はかかる。これでも
なほ車に乗るのは、どうかしてゐる。
こんな時間の問題を見ても、東京はますますニューヨークに近づきつつある。ニューヨークのラッシュ・アワーには、
地下鉄で十五分で行くところを、タクシーで四十五分もかかる。(中略)
もう一つばからしいのは、車の中で新聞や雑誌を読めば、動揺のおかげで忽ち目が悪くなり、気分が悪くなるが、
電車なら、推理小説だのスポーツ新聞だのに読み耽つてゐるうちに、あつといふ間に目的地へ着いてしまふ。
一切あなたまかせだからイライラすることもないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より
都会生活の真髄は能率とスピードだらう。車を持つこと、いやただタクシーに乗ることさへ、今や能率とスピードに
背馳しつつある。あとにのこる車の御利益と言つたら見栄だけだが、かう猫も杓子も車を持つやうになつたら、
一向見栄にもならない。見栄にも実用にもならぬことに、どうしてお金を使はなければならないのだらう。
(中略)
しかし時代の勢ひといふものは仕方がないもので、こんな駄文を草してゐるあひだにも刻々オウナー・ドライヴァーは
ふえつつあり、さなきだにせまい東京の悪路を身動きもできないやうにしつつある。(中略)
自動車はふえる一方、怖ろしき女性ドライヴァーもふえる一方、道路は減る一方、ときたま東京都あたりが発作的に
新道路を作つても焼石に水、といふのが実状であらう。こんなことは困つた困つたと言つてるうちに何とか
破滅的状態が来てやつと解決がつくのだが、それまで高見の見物を決めこむには、まづ自分が自動車を持たないことが
第一条件であり、それより何より、まづ人の車に轢かれないことが肝要なのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より
子供はみんな遊びの達人である。
「遊びをせんとや生れけん
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声をきけば
わが身さへこそゆるがるれ」
といふ古い今様があるが、子供の遊びの純粋さに対する大人の感動と郷愁がよく出てゐる。
大人の遊びは結局この子供の純粋な遊びをまねることであるが、子供の遊びも、チャンバラからお医者様ごつこまで、
結局すべて大人の真似事であるから、遊びといふ点では、大人と子供は別々にあそんでゐても、結局、お互ひの
マネを演じてゐるにすぎない。大人の遊び場所から子供は完全に閉め出されてゐるが、その中で大人のやつて
ゐることは、要するに子供に帰らうとする身振りである。賭け事も、ダンスも、性行為そのものも。
なぜ大人は酒を飲むのか。大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。子供なら、
何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
(中略)子供とちがつて、酔ふためには手続が要り、金がかかる。だから遊ぶためにアクセク働らかねばならず、
遊ぶために緊張過多にもなつてしまふ。これでは本末転倒といふものだ。折角レクリエーションと称して郊外へ
出かけても、混雑した電車や自動車ラッシュで、ヘトヘトになつてしまふ。
遊び人といふ人種がゐて、このごろの用語ではプレイ・ボーイといふ。私より二つ先輩の名高いプレイ・ボーイに、
この間久しぶりに銀座でパッタリ会つたが、あひかはらず上等な洋服を着て、一分の隙もない身なりで、きれいな
女の子を連れて歩いてゐた。(中略)この男は三百六十五日、ナイトクラブ通ひをしてゐる金持息子だが、よくも
飽きないものだと思つて、私はまづその体力に感心するのである。ヤキモチでいふのではないが、いくら女を
とりかへたところで、よほど想像力と空想力が貧しくなければ、三百六十五日ナイトクラブ通ひなんかできる
ものではない。ナイトクラブなんていふものは、映画の張りぼてのセットみたいなもので、ひたすら、高級めいた
セクシーな雰囲気をかもし出すために作られた造花にすぎない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
そんな造花的雰囲気がどうしてもこの男にとつて必要な点では、しかし、三百六十五日、縄のれんの呑屋に通ふ
をぢさんと大差ないかもしれないのである。
誰でも固有の、遊びの条件といふものを持つてゐる。ある人は金をばらまかねば遊んだ気にならず、ある人は
人にタカらなければ有効に遊んだ気にならない。これは貧富の問題といふよりは、気質乃至趣味の問題で、
ハリウッドの大スターでも、決して人の煙草しかのまないといふ「がめつい奴」がゐるさうだ。
大体日本人は家へ人を招く習慣が少ないが、これは日本の家の貧しさばかりでなく、日本料理が作る手数のかかる
ことと、人を招いたらムヤミと御馳走を並べなければならぬといふ旧習のなせるわざであらう。西洋人は自宅へ
人を招くのを最高の礼儀と考へてゐるが、日本では花柳界の料理屋へ招くのがもつとも手厚い接待だらう。
アメリカ人などは、大さわぎをして自宅へ招くが、ろくな御馳走を出しはしない。大ていお料理は一いろか二いろだ。
カクテルなどでは、よくまアこれでお客をするものだ、と思ふほど、ポテト・チップスと南京豆ぐらゐの肴で
すまして、ケロリとしてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
しかし自宅へ西洋人を招くとわかるが、彼らが実にたのしみ上手遊び上手だといふことである。知らない同士も
たちまち十年の知己のやうになり、少しも人みしりをしないでたのしく話し、たちまちたのしげな雰囲気を
作つてしまふ。
それを見てゐると、いかにも遊び上手のやうにみえるが、彼らが本当に内心たのしいのかどうかわかつたものではない。
たえず知つた同士で呼びつ呼ばれつして、家庭的なたのしみをくりかへし、いつも夫婦同伴で、単調な交際の外へ
出ず、ポーカアをやるにも、ダンスをやるにも、顔ぶれが決つてゐるやりきれない小市民生活は、アメリカ映画で
皆さんもよく御存知であらう。「ア・ロット・オヴ・ファン」(面白かった)とか、「エンジョイした」とか、
しきりに言ふが、どこまで口先のお世辞かわかつたものではない。アメリカ流のカクテル・パーティーの
せはしない附合は、私には、何だか浅い、中途半端な、悲しい遊びに思はれる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、散歩でも、
現在自分のやつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。この点でも日本人はテンション族で、
遊びにまで緊張過多なのは前にも述べたとほりだ。
プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の
判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、
「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
このごろデパートを一トめぐりしておどろくのは、いはゆる「グッド・デザイン」の大量進出である。手術室の
メスのやうなナイフやフォーク、紙屑籠のやうな椅子や、椅子のやうな紙屑籠、マナ板まで雲形定規みたいな形を
してゐる。ガス・ストーヴ一つでも、昔風なルネサンス様式模倣の古式ゆかしい形のガス・ストーヴなんか、
東京中探したつてありはしない。(中略)日本座敷にモダンなテレビが置いてあると、何とも醜悪な感じがするが、
さりとて仏壇形のテレビなんてどこにも売つてやしない。一体何を以てグッド・デザインといふか。日本間といふ
ものが消滅せぬ以上、日本間むきの、観音びらきの扉に紫の房なんかのついたテレビ・キャビネットこそ、
グッド・デザインといふものではないか。
こんなことを言へば、進歩的デザイナー諸氏に叱られるに決つてゐるが、私自身が、近来の「機能主義にあらざれば
人にあらず」といふ風潮に逆らつて、もつとも反機能主義的な家を建て、もつとも反機能主義的な家具を誂へた
人間だから、敢て言はせてもらふ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
大体今のグッド・デザインといふやつは、古くさい様式だの、古くさい装飾過剰だのに反抗して生れたものである。
殊に、家具や生活器具は、様式や装飾にとらはれてゐれば、必然的に、使ひ心地のわるいものになつてゐる。
昔の人は、使ひ心地のよさや快適さよりも、様式や装飾のはうを愛してゐたから、前者を犠牲にして、お尻の
痛い椅子や、持ちにくいフォークを我慢して使つてきたわけである。
機能主義といふと、バカに働き者らしく威勢よくきこえるけれども、その実、現代人のナマケ性にマッチしてゐる
やり方かもしれないのである。三度の食事も、コソコソと、昔なら男子禁制の台所の一隅で、リビング・キッチン
とやらのおちつかない合成樹脂の棚の上で、大いそぎですませる。さういふと働き者みたいだが、私に言はせれば、
そんなやり方は、御飯のたべ方を怠けてゐるのである。むかしの人は御飯をたべるのにも、煩をいとはず、
全身全霊をこめて作り且つ喰べた。西洋人のはうが今でも昔流で、フランス人は昼飯も、晩飯も、ゆつくり
二時間ほどかけて喰べる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
グッド・デザインとは、生活に対する一生けんめいな、こまごました、わづらはしい意慾と関心が薄れて来た時代の
産物である。さういふ関心をみんな機械が代用してくれる時代の産物である。
ところで、西洋ではグッド・デザインも意味があるので、ルイ式の家具調度や、曾祖母ゆづりの食器一式に
飽きた人たちが、かういふ簡素なデザインに魅力を感じる意味もわかる。古くさい家具や食器に対する、離れがたい
なつかしさと同時に、不便な憎たらしさがつのつてくると、新デザインの家具や食器がほしくなるのもわかる。
はるかに快適で、便利で、使ひよい。明るく清潔で、手入れも面倒でない。
しかし日本では、そこらへんが微妙である。日本の家ほど機能主義的な家はないので、一間が寝室にも客間にも
居間にも茶の間にもなる。ナイフやフォークやスプーンの代りに、箸が二本あれば足りる。襖は、壁とドアを
兼用してゐる。作りつけのベッドの代りに、ふとんがあり、くたびれたらタタミの上へぢかに寝ころぶことも
できる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
……機能主義やグッド・デザインの狙ひはとつくに卒業してゐるので、日本における西洋風とは、最新のモダン・
リビング、最新のグッド・デザインでも、旧来の日本風よりいくらか反機能的な生活形態をいとなむことに他ならない。
(中略)
日本人は、様式の統一といふことをやかましく云はない。スキヤ建築の座敷にテレビを置くなら、どうしても、
紫檀か何かの箱でなくちや納まらない箸だし、芸者屋の茶の間にテレビを置くなら、ツゲの箱かなんかでなくては
をかしいのに、平気で新式デザインのテレビを置いてゐる。日本座敷の縁側に、パイプを折り曲げた椅子なんかを
置いてゐる。かういふ様式無視は、明治以来の日本人の美意識欠如と進取の気象をよくあらはしてゐる。(中略)
(グッド・デザインは)あくまで商業的成功であつて、「革命」ではないのである。グッド・デザインの販路拡大を、
「革命」だと思つてるデザイナーがゐたら、よほど考へが甘いのである。何もないところを占領するのは
革命ではありません。
その上、その商業主義的成功は誤解を生む。西洋式生活は簡便で安いといふ誤解である。こんな誤解は戦前には
なかつた。あきらかにアメリカ占領後の現象である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』より
西洋人の生活は、見かけ以上にしきたりに縛られてゐる。その点では日本以上である。その上、生活における
様式の統一といふことを重んじる。手術室のメスみたいなナイフを使はうと思へば、まづ家全体を手術室風に
デザインしなければならん。コタツに足をつつこんで、メス式ナイフで、トンカツをちよん切るなんて器用な
ことは、西洋人にはできない。(中略)
早い話が、日本でも、デパートで一人前数百円でメス式ナイフとフォークを買ひ込んで来て、さて、それに
合はせてグッド・デザインのディナー・セット、グッド・デザインの椅子、家具一式、ベッド、それに
ふさはしい家、(中略)……と様式の統一を心がけたら、大へんな金がかかるのである。だから大部分は、
様式の統一をあきらめて、断片だけで我慢する。
貧乏して裏長屋に住んでゐる詩人が、タバコだけは英国タバコを吸ふ。これが日本式ゼイタクであり、西洋への
あこがれといふダンディズムである。裏長屋ならシンセイを吸ふはうが、様式的統一に忠実であり、かつ美的で
あるといふことが、どうしてもわからないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
そんな雑文より主要作品を頼むわ
あと9年の間に『仮面の告白』から
『豊饒の海』までめぼしい作品を
全部テキスト化しておいて
没後50年と同時に青空文庫に上げてくれ
>>389 時間があれば俺がやりたいぐらいだなそれ
391 :
吾輩は名無しである:2011/08/05(金) 11:27:02.36
>>1 三島は翻訳文の欧文脈の影響を受けて書いてるから、外国語を習得していない人には読みづらく感じられて当然だよ。
私どもの少年時代にも、「少年倶楽部」なら読んでいいが「譚海」は読んではいけない、といふのが、親の与へる
ひとつの基準になつてゐた。それだから「譚海」を親にかくれて読むのはたのしかつたが、それにはいつもながら、
「寄らば斬るぞッ」
とか、
「エーイッ! ギャアーッ!」
とか、
「やられたッ! ウ、ウーム」
とか、動物園の叫喚に似た擬音詞がいつぱい詰つてゐた。子供たちは擬音詞を好む。そして残忍殺伐は、遺憾ながら、
子供たちの重要な趣味の一部である。
ところで、このごろでは赤本漫画は姿を隠すどころか、大人の読者をも吸引してゐるらしい。(中略)
日本にも、この種の「大人」の激増しつつあるのが昨今で、赤本漫画、アクション漫画も、そのはうの需要を
充たしてゐるらしい。まさか学校を出て背広を着るやうになつて、路上でチャンバラもできないから、テレビや
映画のアクション物の見物から、ピストルの蒐集、射撃の練習にうつつを抜かしてゐる大人は増える一方である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
ここに男の大人の哀れな見果てぬ夢がある。女は、子供のころ夢みた、お嫁さんごつこや台所ごつこやお人形ごつこを、
大人になれば正々堂々と実現できるので、結婚して台所仕事をして赤ん坊を生めば、同時に子供時代の夢も
充たされる仕組になつてゐる。男はさうは行かない。そこで銀行につとめながら、銀行ギャングの映画に
熱中したりする妙なことになる。哲学を講じながら、こつそりチャンバラもの映画を見に行くやうなことになる。
男にとつては、幼児期の夢は、やがてその実現不可能を思ひ知らされ、夢としてのままに生き長らへる他はないことを
知らされるのである。これがすべての男の残酷な運命だ。
先頃私もアクション物映画に出演して、ピストルをふりまはしたが、このピストルといふものの持心地のよさと
云つたら、筆舌に尽しがたいもので、これでは自分の子供が成長してピストルいぢりをはじめても、とても
鹿爪らしい教訓などはできまいと思はれた。今もあのひやりと掌に重たいピストルの触感、弾倉をしらべるときの
手応へは、私の夢路に通ふのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
(中略)
それはそれとして、低俗、幼稚、残忍、粗悪、などと世間の最低の悪口を浴びてゐるこれらの赤本漫画は、
ひとたび子供に対する悪影響といふ問題を除けて考へれば、却つていろんな面白い問題を提起してゐる。
かういふものを一生けんめい読んでゐる大人の顔は(もちろん私の顔も含めて)、全然白痴的かといふと、
さういふものでもなく、カントの哲学書に読み耽つてゐる顔と、そんなに大差ないのではあるまいかと思はれる。
(中略)
ただ世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」
「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、
知つておいて損はなからう。男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものは
ありえない。「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
さて今回はカメラの悪口を言はせてもらふ。私はカメラを持つてゐないからである。国内の旅行はもとより、
二度の海外旅行にも、カメラを持つて行つたことがないといふのが、私のヘソまがりの自慢である。(中略)
私がカメラを持たないのは、職業上の必要からである。カメラを持つて歩くと、自分の目をなくしてしまふ。
自分の目をどこかへ落つことしてしまふのである。つまり自分の肉眼の使ひ道を忘れてしまふ。カメラには、
ある事実を記録してあとに残すといふ機能があるが、次第に本末転倒して、あとに残すために、現在の瞬間を
犠牲にしてしまふのである。
ゲーテの生きてゐたころは、カメラなんかなかつたから、彼は、
「お前は実に美しい! しばし止まれ!」
などと言つてゐた。こんなことは今ならお茶の子サイサイで、天然色フィルムを仕込んだカメラを向ければ、
その美しいものは、「しばし止まれ」どころか、永遠にとどまつてゐる筈である。
とどまつてゐる筈である。しかしさうではないかもしれない。
美しいものは、カメラを向けた瞬間に逃げ去つてゐるかもしれない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
まあ一例が、湖水のかたはらを歩いてゐて、白鳥が今正に飛び立つところを見たとしよう。これは実に美しい
瞬間である。思ふがはやいかカメラを向け、手練の早わざ、見事に白鳥の飛び立つ瞬間をとらへるかもしれない。
いよいよ現像して、友だちにも自慢する。アルバムに貼り込む。何度もくりかへして眺めては、
「ああ、よかつた。あのとき撮つておいて」
とたびたび自己満足の嘆賞を洩らす。
ところで、アルバム上の一枚の天然色写真には何が映つてゐるか。湖面から飛び立たうとしてゐる一羽の白鳥である。
なるほど写真としては美しい。しかし、それが本当に、その瞬間美しいと思つた印象と同じものかどうかと
いふと疑問である。
それから先は、われわれ文士といふものの考へ方だが、そこに写つてゐるのは一羽の白鳥にすぎない。しかし
美しさの印象といふものは、一羽の白鳥よりも大きなものである。写真は一羽の白鳥しか写さないが、われわれの
目は瞬間にもつと大きなものを写す。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
たとへば、撮影者が、その瞬間に、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の一小節を思ひうかべてゐたとする。写真には
そんなものは写らない。しかしわれわれの肉眼には、目に見えてゐる対象、一羽の白鳥以外に、音楽も写つてゐれば、
歴史も写つてをり、さういふものが渾然として美的印象を形づくつてゐるのである。
アルバムに貼られた一羽の白鳥の写真は、彼自身は美しいと思つて何度も眺めるかもしれないが、それは彼自身が
そのときの美的印象を思ひ出しながら見るからである。何度も見るうちに、その印象もだんだん忘れられて、
一羽の白鳥そのものしか目に映らなくなる。まして、ただ写真を見せられる人が、誰も彼も、それを美しいと
思ふかどうか疑問である。
われわれ文士は、実物の証拠よりも、そのときの印象のはうを大切にする。なぜなら、写真は万人にそのときの
私の印象同様のものを与へるわけには行かないから、文士としての私のやるべきことは、そのとき現在の私の
美的印象を心ゆくまで味はひ、その上で、それを強め、深め、分析し、言葉を通じて、何とか私の印象を万人に
伝へなければならないからである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
このとき、あわててカメラを向けて写真をとつたりすれば、美的印象はスルリと私の手から脱け出してしまふ。
飛び立つ白鳥はフィルムに残されても、それはもう私にとつては、ただの剥製の白鳥にすぎない。
――以上は、私の、小説家としての、写真不信の原則論である。
しかし写真にもいろいろな利点はあつて、その利点と限界をよくわきまへてゐれば、カメラきちがひも悪くないと思ふ。
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力がある。
みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど血湧き
肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい椅子が
誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
しかし写真といふものは、そんなものではないことは、さつきの白鳥の写真の話でもわかるとほりである。
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
三島の文章読んでると「おいしんぼ」系料理漫画を思い出す
大仰な表現が似てる
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」
「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」
などとお世辞を言ひ合ふが、どちらも肚の中では、
『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの赤ん坊の可愛らしいこと!
どこへ行つたつて、こんなにキリャウのいい子はゐやしない。誰でも《まア可愛らしい》つて言ふから、誰が
見たつて、きつとさうなんだわ。(中略)』と、自分の言つたお世辞はみんな忘れて、さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。なぜかといふと、赤ん坊の可愛さなどといふものは、あまりにも主観的で、あまりにも
エゴイスティックで、あまりにも普遍性のない感情だから、さすがの言葉も追ひつけず、写真ぐらゐが丁度
いいところだからである。しかしかへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に
見せるものではない、といふことである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
冗長だ。しかも陳腐。
つまらなさをとことん突き詰めるような真剣味がもっとあれば趣もあっただろうに。
空にはときどき説明のつかぬふしぎな現象があらはれることはまちがひがない。それが大てい短かい間のことで、
目撃者も少なく、その目撃者の多くには科学的知識も天文学的知識も期待できないから、堂々たる科学的反駁を
加へられると、自分の見たものに自信がなくなつて、はつきりこの目で見たものも妄想のやうな気がして来るで
あらう。かうして葬り去られた目撃例は少なくないにちがひない。
或る日のこと、北村小松氏から電話があつて、五月二十三日の朝五時ごろ、東京西北方に円盤が現はれるかも
しれない、といふ情報が入つた。
(中略)
いくら待つても、空には何の異変もあらはれなかつた。飛行機一つ通らず、ときどき屋上をかすめて飛ぶ朝の
小鳥たちの、白いお腹を見るだけであつた。空がこんなに静かで何もないものだとは知らなかつた。
(中略)
五時二十五分になつた。
もう下りようとしたとき、北のはうの大樹のかげから一抹の黒い雲があらはれた。するとその雲がみるみる西方へ
棚引いた。
「おやおや異変が現はれたわ。円盤が出るかもしれなくつてよ」
妻が腰を落ちつけてしまつたので、私もその棚引く黒雲を凝視した。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より
雲はどんどん西方へむかつて、非常な速さで延びてゆく。西方の池上本門寺の五重塔のあたりまでのびたとき、
西北方の一点を指さして、妻が、
「アラ、変なものが」
と言つた。見ると、西北の黒雲の帯の上に、一点白いものが現はれてゐた。それは薬のカプセルによく似た形で、
左方が少し持ち上つてゐた。そして現はれるが早いか、同じ姿勢のまま西へ向つて動きだした。黒雲の背景の
上だからよく見える。私は、円盤にも葉巻型といふのがあるのを知つてゐたから、それだな、と思つた。
三、四秒、肉眼で追つたのち、私はあわてて双眼鏡を目にあてたが、妻も写真機のファインダーをのぞいてゐる。
私が双眼鏡から目を離したとき、すでにその姿はなかつた。妻はファインダーの中にキャッチしてゐたが、
シャッターを切る自信がないままに、出現してから五、六秒で、西方の雲の中へ隠れたのである。
――これを見て、われわれが鬼の首でも取つた気になつたのは言ふまでもない。
しかし周囲は意外に冷静で、父の如きは、夫婦が共謀してデッチ上げをやつてゐるんだ、と頭から信じない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より
肝腎な目撃者の妻も、
「あれ、きつと円盤よ。信じるわ、私も。でも一度見たから、又見なくてもいい」
とケロリとしてゐる。
日を経るにつれて、私の自信も何だか怪しくなつてきた。それが果して円盤だつたかどうか、科学的に証明する
方法はないし、北村小松氏も風邪で寝てをられて、目撃されなかつた。
日ましに私は、自分で見たものが信じられなくなつてゐながら、人が「そりや目の錯覚だらう」などと言ふと、
腹が立つのである。とにかくわれわれ夫婦が、ヘンなものを見たのはたしかである。それを誰にも信じさせることが
できないのは、妙に孤独な心境に私を追ひ込んだ。(中略)しかしもしあれが円盤だとしたら、乗つてゐた宇宙人は、
今ごろ私のあやふやな心境を、嘲り笑つてゐることであらう。「ここに俺がゐるのに、あいつは地球人の
つまらん常識にとらはれてゐる」といふ彼らの笑ひ声が耳にきこえてくるやうな気がする。
哲学的見地から云ふと、かうしてここにわれわれ人間が生存してゐるといふ事実も、宇宙人の存在以上に確実な
ものといへるかどうか、甚だあやしいのである。夏の星空がそのことを教へてくれてゐるやうだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より
406 :
吾輩は名無しである:2011/08/21(日) 01:21:33.08
>>11 おまえの洞察力はその程度かよw
回りくどいのは認めるよー
だからって読みづらいやつは日本人じゃないとか。アホすぎだろw
文章力すげーと思うけど読んでると眠くなる
去る六月二十二日のこと、読売新聞の「夫の注文」といふ欄に、「いい年をしてミーハー趣味」といふ題の
投書が載つた。その投書は、「テレビといへば鶴田浩二にうつつをぬかし、タンスの上の写真立てには仲代達矢が
ニンマリ笑つてゐる。茶の間のガラス戸には大川橋蔵があつちを向いたりこつちを向いたり。そんなミーハー趣味より、
少しは知性を高める本でも買つたらどうか。子供が大きくなるといふのに、おばあさんになつても石原の
ユウちやんはいいねなどといふことになるのではイウウツだ」といふ趣旨のものだつたが、その反響は俄然
ものすごく、百通近くの投書が来た。(中略)
こんなつまらないことに賛成したりムキになつて反対したりする投書族の心理はさておき、この種のミーハー
奥さんは、百通の投書を氷山の一角として、日本全国に無数にちらばつてゐると考へてよからう。ブロマイド
ぐらゐで満足してゐるあひだはいいが、若い映画俳優や歌手の後援会には、三十代以上の奥さんも、相当なる
パーセンテージで参加してゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
さて、ブロマイドを飾るのが低俗かどうかなどと論ずるより先に、ブロマイドといふものが何を意味するかを
考へたはうが早い。
鑑賞用美男などといふと体裁がいいが、ブロマイドは明らかに人気にもとづいてをり、その人気とは、悲しいかな、
芸よりもむしろ、その俳優の性的魅力にもとづいてゐる。だから、身もフタもないところ、女性にとつての、
男優の顔のブロマイドは、男性にとつての女のヌード写真とさしてちがはない意味を持つてゐると云つていい。
ただ女性にとつては、男の顔だけで十分なので、女性ヌードに対抗して、ハリウッドで、男優の水着姿の
ブロマイドを一杯売り出したところ、案に相違して、ちつとも売れなかつたさうである。
もし芸や人格や名声にあこがれてのことなら、乃木大将や坂東三津五郎や、毛沢東の写真を飾ればいいわけで、
ブロマイドの男優たちは、若くて美男であるといふことを、全然内容ヌキで買はれてゐるわけだが、顔といふものは
おのづから人間の気質を暗示するから、何とでも言ひのがれができる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
この「言ひのがれ」といふことが、女性にとつてのブロマイドの魅力の一つである。
「仲代達矢つて、孤独で、ニヒルで、どこか悪の漂ふ魅力だわ」
などとブロマイドを見ながら言つてるが、それは映画の作つたイメージにすぎず、仲代君が本当に孤独でニヒルで
悪党であるかどうか、本人にきいてみなければわからない。いや、本人にもよくわからないだらう。性格はよく
顔と反対の場合があるのである。しかしかう言つてる分には、
「仲代達矢の顔見てると、シビれて来るわ」
などと旦那様に告白するよりは無難である。旦那様も、どうにもシビれさせやうのない自分の顔は棚上げにして、
何とか奥さんの要望にこたへて、「孤独で、ニヒルで、悪の漂ふやうな魅力」を身につけようと努力するかもしれない。
その結果、旦那様が、本当に手形偽造や公金費消にでも手を出したら、それは奥さんの責任といふものだが……。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
しかしミーハー奥さんがブロマイドを飾り立ててゐたら、まづ旦那様は、自分の若さと性的魅力をすでに失つたか、
あるひははじめから持つてゐなかつたか、に気づかなければならない。そのくらゐの敏感さもなくて、
「少し知性を高める本でも買つたらどうか」
などと言つてるのでは、現代の亭主として落第である。
若い美男俳優のブロマイドは、奥さんよりも旦那に向つて、不断に、
「お気の毒ですなア。別に僕はお宅の御夫婦仲の邪魔をしてるわけでもなし、薄つぺらの無害の紙きれですが、
旦那よ、あなたの確実に持つてゐないものを、僕は全部持つてゐるんですからなア」
と話しかけてゐるやうなものである。亭主たるもの、豈(あに)奮起せざるべけんや。
しかし、深夜ひそかに亭主も耳をすまして、ブロマイドが何を独り言を言つてるか、ちよつときいてみる必要がある。
奥さんの鏡台の上で、あるひは茶ダンスの上で、かれらはかう言つてゐるのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
「僕も商売だから、かうしてお宅のガタガタの鏡台や、安物の茶ダンスの上で、歯を見せて御愛想笑ひをしてゐるが、
あなたにして上げられるのは、これだけですよ、奥さん。もしあなたがヘンな気を起して、僕の家を突然訪ねてでも
来られたら、うちの玄関番が、うやうやしくお引取りねがふほかはないでせう。何しろ僕は、ひどく忙しくて、
ひどく疲れてゐるんですからね。今は僕も独身ですが、いづれ結婚するときは、十代か二十代はじめの、ピチピチした
若いきれいな娘をもらひますよ。奥さんと僕ぢやね、年もちがひすぎるし、生活感情も何もかもちがひすぎますもの。
くれぐれも己惚れてヘンな気を起さないで下さいね。僕たちの付合はこれだけにしておきませうね」
――もちろん知的な女も、美男俳優のブロマイドを見て、心を動かされることはあるだらう。しかし彼女が一切
その意志を表明せず、ブロマイドなんかを身辺に近づけないのは、右のやうな深夜のブロマイドの独り言を、
ちやんときいてゐるからぢやないかと思はれる。知的な高尚な女は、耳がとてもよく利くのだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
さて本題に戻つて、いはゆるミーハー奥さんは可愛らしい。彼女の耳にはそんな独り言は永遠にきこえないのである。
しかもきこえないから、暴走するかといふと、さにあらず、適当なところで止まつて、よそへ行けば亭主の
惚気を言ひ、年をとれば、それこそ孫を相手に「裕ちやんはいいね」などと言つてゐる。
ミーハー奥さんのブロマイド道楽は、女性が無意識に出してゐる小さな可愛らしい尻尾であつて、かういふ尻尾を
出してゐる女性は、無意識の美徳を持つてゐるから、永遠に可愛らしい。おばあさんになつても可愛らしい。
男性はこの尻尾に感謝すべきである。こんな尻尾のどこにも見えない知的で高尚な女こそ本当の魔物である。
しかし、男性もへんないたづらつ気を出して、奥さんのこんな無意識の尻尾を気にして、その尻尾をギュッと
引張つたりしないはうがいい。引張られた尻尾は忽ち九尾に裂け、おそるべき魔性をあらはし、目は怒り、口は裂けて、
女性の怖るべき本質をむき出しにするであらう。賢明な男とは、女をして、女の本質に目をひらかせないやうに、
いつもうまく誘導してゆくことのできる男である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
私はこの世に生を承けてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、
赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る
おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に陶然と
することができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。
冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(中略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、
「あの人、ケチね」
などといふ。
「アラ、心臓ね」
「図々しいわね」
と言はれたこともある。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に
見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが
できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱に十円玉を投じてゐるものと思はれる。一体、
弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか? それなら、人に弱気や羞恥心を起させることを、
この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する人たちが
その大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良なやさしい魂を
脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。もつと弱気でない、
もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ脅迫するなら、そつちから
いただく方法を講じたらどうだらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』より
大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の
鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら
金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを
した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へコッソリ
お金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けようといふ気で
金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでもあるのに、
社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。藤原工大を建てた藤原銀次郎氏などは例外中の例外である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い羽根
なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと
獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふものである。
ところで、昔から、民衆といふものは、ちつとも悪いことをしないのに、神仏の罰ばつかり心配し、えらい人たちは、
悪いことをさんざんしてゐても、罰なんか心配しない。その上、民衆には濃厚なセンチメンタリズムや古くさい
相互扶助精神があつて、自分に金もないくせに人に恵みたがる。さういふところにつけこんで来る「愛の運動」式の
ものは、警戒しなければならぬ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を
ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、大金持だけに
慈善行為の権利があるとは何だ、われわれにも平等の権利を与へろ、といふ主張もある。助けられる立場にゐながら、
人を助けたい人もある。
赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。
さて、赤い羽根の審美的存在価値はあまり香しくない。あれは何に似合ふか。背広に似合はず、スーツに似合はず、
似合ふのは、還暦の赤いチャンチャンコぐらゐであらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、
かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと
クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうなハイカラな
風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、日本人が外国人なみ
(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな国民なら、とつくの昔に
一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する抵抗精神はなかなかのもので、
占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、今以てキリスト教徒は人口の
二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義のありつたけをつくした酒池肉林の
無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと
思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて
しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領される
おそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。
こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の舌足らずの
祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうになつたのは
もつともである。
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、どれほど
クリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、「ソーラン節」や
「おてもやん」程度には普及してきたのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
(中略)
一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、
デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの
つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて
よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ
行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。
クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。
(中略)
子供のころはクリスマスごろにいつも初雪を見たが、年々暖かくなるこのごろのクリスマスは、綿細工の雪ばかりで、
本物の雪に会ふチャンスはほとんどなくなつた。クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、
ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元して
しまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、
有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。
これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。
ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の祭の
ミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふハイカラな
お祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。日本にゐて外国の祭に
ウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と喜ぶのが何だか気恥かしい
のである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
(中略)
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、
クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。
そこのところが、どうしても私にはわからない。
多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードをかついで
ゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。
クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の祭には、
たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと苦しい
ものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、形のある重い
オミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる「苦シマス」が、
日本的クリスマスの本質なのかもしれない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
、
ゝ
私は本当のところ、恋愛結婚も見合ひ結婚も、本質的に大してちがひのないのが現代だと思つてゐる。
それをムリに区別して考へるのは、恋愛がタブーであつた徳川時代の常識に、いまだにとらはれてゐるのである。
つまりこの二つは、「禁止を破つた結婚」と「公認された結婚」といふやうな、相対立する概念ではなくなつて
ゐるのである。
禁止されてゐればこそ、恋愛(不義)の火も燃えさかるので、適当に理性的に恋愛してゐる若い世代は、結婚に
ついても全然理性的で、形だけは恋愛結婚、実質は、見合ひ結婚よりは、はるかに理性結婚に近い、といふやうな
例も多いにちがひない。
恋愛といつても、大都会でこそ、偶然の出会ひによる珍妙な一組も成立するが、その大都会でも、多くの恋愛は、
職場などの小さな地域社会から生まれる。浮気のチャンスはころがつてゐても、恋愛のチャンスはどこにでも
ころがつてゐるわけではない。無限の選択の可能性があるわけではない。みんな要するに、何かの形の生簀の中を
泳いでゐて、同じ生簀の魚と恋してゐるにすぎないのである。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
外国の社交界ともまたちがつた、日本独特の見合ひ結婚の利点は、なまじつかな恋愛結婚より、選択の範囲が
かへつてひろいといふことである。だれかの口ききで、いろんな職業、いろんな地域の相手とも、見合ひにまで
進むことができる。
北海道の果ての娘と、九州の果ての青年とが偶然に出会ふ確率は少ないが、見合ひなら、さういふ結びつきも
十分にありうる。
アメリカのオールドミスが、日本の見合ひ結婚の話を聞いてうらやましがるのももつともで、アメリカの
(上流を除く)一般社会では、結婚自体が苛酷な生存競争であることは、「マーティ」といふあはれな醜男を
描いた映画で、皆さんもご承知であらう。
結婚生活を何年かやれば、だれにもわかることだが、夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、
結婚生活のかなり大事な要素である。性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史の
ちがひにすぎぬことが多い。
見合ひ結婚といふせつかくの日本特産物を、失はないやうにすることが、結局これからの若い人たちのしあはせで
あらうと思ふ。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
428 :
吾輩は名無しである:2011/12/10(土) 10:52:49.94
女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。声に翳りがほしい。
いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、風が吹くたびに木かげと日向が
一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない木影のやうな声が私は好きだ。
寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の広告放送の声。
燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしくきこえるが、そこらで
自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、時折かういふ声を発見して、美しいなと思ふ
ことがある。
(中略)
時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。電話のむかうの声の
たゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別!
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、それをごまかす小さな咳の
可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと思ひ描かせることがある。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
429 :
吾輩は名無しである:2011/12/10(土) 10:53:15.90
いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと声と言葉の関係に移る。
私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に見るやうな気持がして
きらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女のおしやべりには絶対にかなはない。女のおしやべりが
はじまると私はいかにも男らしく沈黙を守らねばならぬ。世の男女の役割は、習慣によつて躾けられ、かうなると
いやでも、男は男らしく、女は女らしくならねばならぬ宿命があるかに思へる。女のタイプライターのやうな
お喋りがはじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。
尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつてしかもおしやべりで
ない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性はいかにも優雅にみえるが、ともすると
細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
430 :
吾輩は名無しである:2011/12/10(土) 10:53:46.17
女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない明るさ賑やかさ
快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方をするやうな女がいい。批判、皮肉、
諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、
男に委せておけばいい。何かなるたけ意味がなくて洒落れたことを言つてゐればいい。若い女性の存在価値は、
何も意味がなくてありさうにみえるところにあるのであつて、これは若い男性の存在価値が頗る意味があつて
しかもなささうにみえるところにあることと対蹠的である。
(中略)
私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を踏むやうに、「ことよ」と
早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院に
ゐた時からで、聖心では何でもかんでも、行住座臥すべて「ことよ」である。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
431 :
吾輩は名無しである:2011/12/10(土) 10:54:12.73
「そんなこと知らないことよ」
「そこまで行つてさしあげることよ」
「いいことよ」
「さうだことよ」
あまり「さうだことよ」がつづいてうるさい時は、軽くかう言つて逆襲する。
「さうだことか?」(中略)
女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、カアテンごしにきこえる
姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界のふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ
滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることが
つまらない。襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。
「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」
「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな感覚的な没論理的な
主張は……」
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
利口パン
433 :
吾輩は名無しである:2011/12/30(金) 16:57:25.78
尾崎紅葉の「金色夜叉」の箕輪家の歌留多会の場面は大へん有名で、お正月といふと、近代文学の中では、まづ
この場面が思ひだされるほどです。
(中略)
三十人あまりの若い男女が、二手にわかれて、歌留多遊びに熱中してゐるありさまは、場内の温気に顔が赤くなつて
ゐるばかりでなく、白粉がうすく剥げたり、髪がほつれたり、男もシャツの腋の裂けたのも知らないでチョッキ姿に
なつてゐるのやら、羽織を脱いで帯の解けた尻をつき出してゐるのやら、さまざまですが、
「喜びて罵り喚く声」
「笑頽(わらひくづ)るゝ声」
「捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き」
「一斉に揚ぐる響動(どよみ)」
など、大へんなスパルタ的遊戯で、ダイヤモンドの指輪をはめた金満家のキザ男富山は、手の甲は引つかかれて
血を出す、頭は二つばかり打たれる。はふはふのていで、この「文明ならざる遊戯」から、居間のはうへ逃げ出します。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
434 :
吾輩は名無しである:2011/12/30(金) 16:57:50.58
――むかしの日本には、今のやうなアメリカ的な男女の交際がなかつた代りに、この歌留多会のやうな、まるで
ツイスト大会もそこのけの、若い男女が十分に精力を発散して取つ組み合ひをする機会がないわけではありませんでした。
紅葉がいみじくも「非文明的」と言つてゐるやうに、かういふ伝統は、武家の固苦しい儒教的伝統や、明治に
なつて入つてきた田舎くさい清教徒のキリスト教的影響などと別なところから、すなはち、「源氏物語」以来の
みやびの伝統、男女の恋愛感情を大つぴらに肯定する日本古来の伝統に直につながるものでありました。百人一首の
歌の詩句は、古語ですから柔らげられてゐるやうだが、どれもこれも、良家の子女にはふさはしくない、露骨な
恋愛感情を歌つたものばかりでした。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
435 :
吾輩は名無しである:2011/12/30(金) 16:58:16.61
お正月といふと、日ごろスラックスでとびまはつてゐるはねつかへり娘まで、急に和服を着て、おしとやかに
なるのは面白い風俗ですが、今のお嬢さんは和服を着馴れないので、たまに着ると、鎧兜を身に着けたごとく
コチンコチンになつてしまふ。必要以上におしとやかにも、猫ッかぶりにも見えてしまふわけです。
私はさういふ気の毒な姿を見ると、ちかごろの日本人は、「日本的」といふ言葉をどうやら外国人風に考へて、
何でも、日ごろやつてゐるアメリカ的風俗と反対なもの、花やかに装ひながらお人形のやうにしとやかなもの、
ととつてゐるのではないかといふ気がします。
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、ロックンロール的要素も
あるのです。たださういふ要素が今では忘れられて、いたづらに、静的で類型的なものが、「日本的」と称されて
ゐるにすぎません。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
436 :
吾輩は名無しである:2011/12/30(金) 16:58:42.16
実際、地球上どこでも、人間が大ぜい集まつて住んでゐるところで、やつてみたいことや、言つてみたいことに、
そんなにちがひがあるわけはなく、たまたま日本が鎖国のおかげで孤立的な文化を育て、右のやうな要素までも
すべて日本的な形に特殊化して、表現してきたのは事実ですが、今日のやうに、世界のどこへでもジェット機で
二十四時間以内に行けるほどになると、「日本的なもの」の中の、ツイスト的要素はアメリカ製で間に合はせ、
シャンソン的要素はフランス製で間に合はせ、……といふ具合に、分業ができてきて、どうにも外国製品では
間に合はない純日本的要素だけを日本製の「日本趣味」で固める、といふ風になつてくる。
それでは、一例がお正月の振袖みたいな、わづかに残されたものだけが、純にして純なる本当の「日本的なもの」で
あるか、といふと、それはちがふ。そんなに純粋化されたものは、すでに衰弱してゐるわけで、本来の
「日本的なもの」とは、もつと雑然とした、もつと逞ましいものの筈なのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
437 :
吾輩は名無しである:2012/01/09(月) 17:15:58.37
(中略)
今年はいよいよオリンピックの年ですが、今から私がおそれてゐるのは、外人に向つての「日本趣味」の押売りが、
どこまでひどくなるか、といふことです。振袖姿の美しいお嬢さんが、シャナリシャナリ、花束を抱へて飛行機へ
迎へに出ること自体は、私はあへて非難しませんが、一例が次のやうな例はどうでせうか?
日本の服飾美学の伝統はすばらしいもので、江戸の小袖の大胆なデザイン、配色など、今のわれわれから見ても、
超モダンに感じられます。日本人の色彩感覚はすばらしく、それ自体で、みごとな色の配合のセンスを完成して
ゐます。この感覚の高さは、決してフランス人にも劣るものではありません。しかし一方、先年、フランスから
コメディー・フランセエズの一行が来たとき、舞台衣裳の配色の趣味のよさ、調和のよさ、(中略)カーテン・
コールで、登場人物一同が手をつないで舞台にあらはれたときは、その美しさに息を呑むくらゐでした。しかし、
突然、日本のお嬢さん方の花束贈呈がはじまり、色彩の城はとたんに、見るもむざんなほど崩壊しました。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
438 :
吾輩は名無しである:2012/01/09(月) 17:16:21.32
色とりどりの振袖姿、色とりどりの花、わけても花束につけた俗悪な赤いリボンの色、……これで、今まで
保たれてゐた寒色系統の色の調和は、一瞬のうちにめちやくちやにされ、劇の感興まで消え失せてしまひました。
かういふのを「日本的」歓迎と思ひ込んでゐる無神経さ、私はこれをオリンピックに当つてもおそれます。本当に
「日本的な」心とは、フランスの衣裳美にすなほに感嘆し、この感嘆を純粋に保つために、かりにも舞台上へ
ほかの色彩などを一片でも持ち込まない心づかひを示すことなのです。そこにこそ「日本的な」すぐれた色彩感覚が
証明されるのです。右のやうな仕打は、決して「日本的」なのではありません。
「日本的なもの」についていろいろと心を向ける機会の多いお正月に、今年こそ、ぜひ、本当の「日本的なもの」を
発見していただきたいと思ひます。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
439 :
吾輩は名無しである:2012/01/09(月) 17:32:58.17
慶應卒の水嶋ピロ先生の小説でも読んでなさい
440 :
粕漬マグナ:2012/01/09(月) 17:51:30.40
晒し。
441 :
<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん :2012/01/10(火) 18:41:48.14
三島は文章が上手になる以前に作家デビューをして、
訓練をつまずに作家になった。
だから、文章が下手だったりする。
しかも、一番脂が乗る時期になる前に自殺した。
442 :
吾輩は名無しである:2012/01/10(火) 22:34:11.31
いや金閣寺がピークでそっから右肩下がり
443 :
吾輩は名無しである:2012/01/10(火) 22:40:03.11
下がっても日本で一番
金閣寺ピークとかあまりにも読書不足だね。
445 :
まぐな〜、見てるか〜?:2012/01/17(火) 22:10:13.70
744 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:34:17.32
>>737 下半身パイナップル腐れまんこ臭気プンプンババア、部屋中むせ返るほどパイナップルの臭いさせまくりやがって、きたねえだよ、さっさと出てけ。
パイナップル色に黄ばんだパンティ何日着てれば気が済むと思ってるんだ。
このパイナップルオリモノ糞ババア、パイナップル腐れまんこババァ!
754 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:39:27.49
>>737 パイナップル腐れまんこは哲学板でも汚いおばさんだと、文学板にまでベタベタきたねえパイナップルマン汁、を滴らせてやがるからな。
ジャネットの様なパイナップル汁が好きなやつは、深いに思わんのだろうが、その腐れ汁ベタベタが心底いやでいやでたまらんのだよ。
パイナップル膿まんこオリモノドロドロクソババア! オリモノパイナップルウジムシクソババア!
446 :
まぐな〜、見てるか〜?:2012/01/17(火) 23:59:54.93
1000:吾輩は名無しである:sage:2012/01/17(火) 23:57:20.96
>>991 744 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:34:17.32
>>737 下半身パイナップル腐れまんこ臭気プンプンババア、部屋中むせ返るほどパイナップルの臭いさせまくりやがって、きたねえだよ、さっさと出てけ。
パイナップル色に黄ばんだパンティ何日着てれば気が済むと思ってるんだ。
このパイナップルオリモノ糞ババア、パイナップル腐れまんこババァ!
754 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:39:27.49
>>737 パイナップル腐れまんこは哲学板でも汚いおばさんだと、文学板にまでベタベタきたねえパイナップルマン汁、を滴らせてやがるからな。
ジャネットの様なパイナップル汁が好きなやつは、深いに思わんのだろうが、その腐れ汁ベタベタが心底いやでいやでたまらんのだよ。
パイナップル膿まんこオリモノドロドロクソババア! オリモノパイナップルウジムシクソババア!
1001:1001 ::Over 1000 Thread
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
447 :
吾輩は名無しである:2012/01/18(水) 15:17:12.63
格の正しい、しかも自由な踊りを見るたびに、私は踊りといふもののふしぎな性質に思ひ及ぶ。無音舞踊といふ
のもないではないが、踊りはたいがい、音楽と振り付けに制約されてでき上がつてゐる。いかに自由に見える
踊りであつても、その一こま一こまは、厳重に音楽の時間的なワクと振り付けの空間的なワクに従つてゐる。
その点では、自由に生きて動いて喋つてゐるやうに見える人物が、実はすべて台本と演出の指定に従つてゐる
他の舞台芸術と同じことだが、踊りのその音楽への従属はことさら厳格であり、また踊りにおける肉体の動きの
自由と流露感は、ことさら本質的なのである。
よい踊りの与へる感銘は、観客席にすわつて、黙つて、口をあけて、感嘆してながめてゐるだけのわれわれの
肉体も、本来こんなものではなかつたかと感じさせるところにある。踊り手が瞬間々々に見せる、人間の肉体の
形と動きの美しさ、その自由も、すべての人間が本来持つてゐて失つてしまつたものではないかと思はせるとき、
その踊りは成功してをり、生命の源流への郷愁と、人間存在のありのままの姿への憧憬を、観客に与へてゐるのである。
三島由紀夫「踊り」より
448 :
吾輩は名無しである:2012/01/18(水) 15:17:42.48
なぜ、われわれの肉体の動きや形は、踊り手に比べて、美、自由、柔軟性、感情表現、いやすべての自己表現の
能力を失つてしまつたのであらうか。なぜ、われわれは、踊り手のあらはす美と速度に比べて、かうも醜く、
のろいのであらうか。
これは多分、といふよりも明らかに、われわれの信奉する自由意思といふもののためなのである。自由意思が、
われわれの肉体の本来持つてゐた律動を破壊し、その律動を忘却させたのだ。
それといふのも、踊り手は音楽と振り付けの指示に従つて、右へ左へ向く。しかしわれわれは自由意思に従つて、
右へ向き左へ向く。結果からいへば同じことだが、意思と目的意識の介入が、その瞬間に肉体の本源的な律動を
破壊し、われわれの動きをぎくしやくとしたものにしてしまふ。のみならず、何らかの制約のないところでは、
無意識の力をいきいきとさせることができないのは、人間の宿命であつて、自由意思の無制約は、人間を意識で
みたして、皮肉にも、その存在自体の自由を奪つてしまふのだ。
三島由紀夫「踊り」より
449 :
吾輩は名無しである:2012/01/18(水) 15:18:14.51
踊りは人間の歴史のはじめから存在し、かういふ肉体と精神の機微をよくわきまへた芸術であつた。武道も
もともとは、戦ひの技術を会得するために、まづ肉体に厳重な制約を課して、無意識の力をいきいきとさせ、
訓練のたえざる反復によつて、その制約による技術を無意識の領域へしみわたらせ、いざといふ場合に、無意識の
力を自由に最高度に働かせるといふ方法論を持つてゐるが、踊りに比べれば、その目的意識が、純粋な生命の
よろこびを妨げてゐる。
踊りはよろこびなのである。悲しみの表現であつても、その表現自体がよろこびなのである。踊りは人間の肉体に
音楽のきびしい制約を課し、その自由意思をまつ殺して、人間を本来の「存在の律動」へ引き戻すものだといへる
だらう。ふしぎなことに、人間の肉体は、時間をこまごまと規則正しく細分し、それに音だけによる別様の法則と
秩序を課した、この音楽といふ反自然的な発明の力にたよるときだけ、いきいきと自由になる。
三島由紀夫「踊り」より
450 :
吾輩は名無しである:2012/01/18(水) 15:18:44.27
といふことは、音楽の法則性自体が、一見反自然的にみえながら、実は宇宙や物質の法則性と遠く相呼応して
ゐるかららしい。そこに成り立つコレスポンデンス(照応)が、おそらく踊りの本質であつて、われわれは
かういふコレスポンデンスの内部に肉体を置くときのほかは、本当の意味で自由でもなく、また、本当の生命の
よろこびも知らないのだ、としかいひやうがない。
(中略)ずいぶん話が飛んだやうだが、実は私は、新年といふ習慣も、この踊りの一種であるべきであり、新春の
よろこびも、この踊りのよろこびであるべきだといひたかつたのである。新しい年の抱負などと考へだした途端に、
われわれの自由意思は暗い不安な翼をひろげ、未来を恐怖の影でみたしてしまふ。未来のことなどは考へずに
踊らねばならぬ。たとへそれが噴火山上の踊りであらうと、踊り抜かねばならぬ。いま踊らなければ、踊りは
たちまちわれわれの手から抜け出し、われわれは永久によろこびを知る機会を失つてしまふかもしれないのである。
三島由紀夫「踊り」より
451 :
吾輩は名無しである:2012/01/18(水) 19:20:34.89
ノーベル賞の候補にはならなかったが、太宰の文章は三島よりも上だ。
翻訳不可能なほどのレトリックの嵐。
三島が過大評価だとは言わないが、太宰はもっと評価されていい。
文章のうまさじゃ芥川がダントツだろ
三島は次点でもいいけど、太宰だけはねぇよ
太宰の文章は美しいとかじゃなくてあたたかさとユーモアがあるんだよ。
454 :
吾輩は名無しである:2012/01/23(月) 16:26:32.64
羽田のインタビューが感じがわるかつたとしても、(事実相当に感じがわるかつたと想像されるが)、新聞記者の
心証をよくするといふことが、太平洋横断といふ達成された事実と何の関係があるのか。太平洋横断をした青年が、
何で英雄気取りになつてはいけないのか。かういふことをした青年が、凡庸な世間の要求するイメージに従つて、
頬をポッと赤らめて頭を掻いたりする「謙虚な好青年」でなければならぬ義務がどこにあるのか。又世間が
どうしてそんなものを彼に要求する権利があるのか。……考へれば考へるほど、腑に落ちないことだらけである。
大体、青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。ヨットで九十日間、
死を賭けた冒険ををして、それでいはゆる「人間ができる」ものなら、教育の問題などは簡単で、堀江青年は
この冒険で太平洋の大きさは知つたらうが、人間や人生のふしぎさについて新たに知ることはなかつたらう。
そんなことは当たり前のことで、期待するはうがまちがつてゐる。
三島由紀夫「堀江青年について」より
455 :
吾輩は名無しである:2012/01/23(月) 16:26:52.82
のみならず堀江青年に、テレビや映画のまやかしものの主人公のやうな、出来合ひの「好青年」を期待するはうが
まちがつてゐる。そんな好青年は、決してたつた一人で小さなヨットで太平洋を渡らうなどとはしないだらう。
かういふ孤独な妄執は、平均的な「好青年」などから芽生える筈もない。たとへばこのごろの「カッコいい
若者たち」の六尺ゆたかの背丈と、五尺そこそこといはれる堀江青年の背丈とを比べてみるだけでもいい。
ラスウェルは「政治」の中で、リンカーンの情緒的不安定や、ナポレオンの肉体的劣等感について詳さに述べてゐる。
今度のジャーナリズムの態度は、大衆社会化の一等わるい例を、又一つわれわれに示した。それは社会的イメージの
強制であり、そのイメージは凡庸な平均的情操から生れ、無害有益なものとして、大衆社会からすでに承認された
ものである。これは一堀江青年のみならず、芸術に対する大衆社会化反応の進みゆくおぞましい時代をも暗示する。
三島由紀夫「堀江青年について」より
456 :
吾輩は名無しである:2012/01/26(木) 12:36:23.88
何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない。酒の上だと云つて、無礼を働らいたり、
厭味を言つたり、自分の劣等感をあらはに出したり、又、劣等感や嫉妬を根にもつてゐるから、いよいよ威丈高な
嵩にかかつた物言ひをしたり、……何分日本の悪習慣で「酒の上のことだ」と大目に見たり、精神鍛練の道場だ
ぐらゐに思つたりしてゐるのが、私には一切やりきれない。酒の席でもつとも私の好きな話題は、そこにゐない
第三者の悪口であるが、世の中には、それをすぐ御本人のところへ伝へにゆく人間も多いから油断がならない。
私は何度もそんな目に会つてゐる。要は、酒席へ近づかぬことが一番である。酒が呑みたかつたら、別の職業の
人間を相手に呑むに限る。
何かにつけて私がきらひなのは、節度を知らぬ人間である。一寸気をゆるすと、膝にのぼつてくる、顔に手を
かける、頬つぺたを舐めてくる、そして愛されてゐると信じ切つてゐる犬のやうな人間である。女にはよく
こんなのがゐるが、男でもめづらしくはない。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
457 :
吾輩は名無しである:2012/01/26(木) 12:36:52.35
(中略)
私が好きなのは、私の尻尾を握つたとたんに、より以上の節度と礼譲を保ちうるやうな人である。さういふ人は、
人生のいかなることにかけても聰明な人だと思ふ。
親しくなればなるほど、遠慮と思ひやりは濃くなつてゆく、さういふ附合を私はしたいと思ふ。親しくなつた
とたんに、垣根を破つて飛び込んでくる人間はきらひである。
お世辞を言ふ人は、私はきらひではない。うるさい誠実より、洗練されたお世辞のはうが、いつも私の心に触れる。
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
お節介な人間、お為ごかしを言ふ人間を私は嫌悪する。親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものが
あるものだが、お節介な人間は、善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。善意のすぎた人間を、いつも
私は避けて通るやうにしてゐる。私はあらゆる忠告といふものを、ありがたいと思つてきいたことがない人間である。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
458 :
吾輩は名無しである:2012/01/26(木) 12:37:23.99
どんなことがあつても、相手の心を傷つけてはならない、といふことが、唯一のモラルであるやうな附合を私は
愛するが、こんな人間が殿様になつたら、家来の諫言をきかぬ暗君になるにちがひない。人を傷つけまいと思ふのは、
自分が(見かけによらず)傷つき易いからでもあるが、世の中には、全然傷つかない人間もずいぶんゐることを
私は学んだ。さういふ人間に好かれたら、それこそえらいことになる。
……ここまできらひな人間を列挙してみると、それでは附合ふ人は一人もゐなくなりさうに思はれるが、世の中は
よくしたもので、私の身辺だつて、それほど淋しいとは云へない。荷風も、一時は無二の親友のやうに日記に
書いてゐる人間を、一年後には蛇蝎の如く描いてゐるが、それはあながち、荷風の人間観の浅薄さの証拠ではなく、
人間存在といふものが、固定された一個体といふよりも、お互ひに一瞬一瞬触れ合つて光り放つ、流動体に
他ならぬからであらう。好きな人間も、きらひな人間も、時と共に流れてゆくものである。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
459 :
吾輩は名無しである:2012/01/26(木) 12:37:48.40
とまれ、誰それがきらひ、と公言することは、ずいぶん傲慢な振舞である。男女関係ではふつうのことであり、
宿命的なことであるのに、社会の一般の人間関係では、いろいろな利害がからまつて、かうした好悪の念はひどく
抑圧されてゐるのがふつうである。
第一、それほど、あれもきらひ、これもきらひと言ひながら、言つてゐる手前はどうなんだ、と訊かれれば、
返事に窮してしまふ。多分たしかなことは、人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると
考へてよい、といふことである。私のやうな、いい人間をどうしてそんなにきらふのか、私にはさつぱりわからないが、
それも人の心で仕方がない。ニューヨークの或る町に住むきらはれ者がゐて、そいつは悪魔の如く忌み嫌はれ、
そいつがアパートから出てくると、近所の婆さん連がみんな道をよけて、十字を切つて見送るといふ男の話を
きいたことがあるが、きらはれ方もそこまで行けば痛快である。私も残る半生をかけて、きらはれ方の研究に
専念することにしよう。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
いつもおなじひとがなげすててくよ
461 :
吾輩は名無しである:2012/01/30(月) 22:40:22.44
張り合ひのない女ほど男にとつて張り合ひのある女はなく、物喜びをしないといふ特性は、愛されたいと思ふ女の
必ず持たねばならない特性であつて、かういふ女を愛する男は、大抵忠実な犬よりも無愛想な猫を愛するやうに
生れついてゐる。
(中略)
冷たさの魅力、不感症の魅力にこそ深淵が存在する。
物理的には、ものを燃え立たせるのは火だけであるのに、心理的には、ものを燃え立たせるものは氷に他ならない。
そしてこの種の冷たさには、ふしぎと人生の価値を転倒させる力がひそんでゐて、その前に立てば、あらゆる価値が
冷笑され、しかも冷笑される側では、そんな不遜な権利が、一体客観的に見て相手にそなはつてゐるかどうかを、
検討してみる余裕もないのである。
こんないら立たしい魅力も、しかし心を息(やす)ませないから、実は魅力の御本尊の自負してみるほど、
永続きはしないものである。
三島由紀夫「好きな女性」より
462 :
吾輩は名無しである:2012/01/30(月) 22:40:48.45
(中略)
ありがた迷惑なほどの女房気取も、時によつては男の心をくすぐるものである。かういふ女性の中には、どんなに
知識と経験を積んでも、自分でどうしても乗り超えられない或る根本的な無智が住んでゐて、その無智が決して
節度といふことの教へを垂れないから、いつも彼女自身の過剰な感情のなかでじたばたしてゐるのである。
(中略)
恋愛では手放しの献身が手放しの己惚れと結びついてゐる場合が決して少なくない。しかし計量できない天文学的
数字の過剰な感情の中にとぢこめられてゐる女性といふものは、はたで想像するほど男をうるさがらせてはゐないのだ。
それは過剰の揺藍(ゆりかご)に男を乗せて快くゆすぶり、この世の疑はしいことやさまざまなことから目を
つぶらせて、男をしばらく高いいびきで眠らせてしまふのである。
私は時には、さういふ催眠剤的な女性をも好む。
これはさつきの議論と矛盾するやうでもあるが、一方、認識慾のつよい男ほど、催眠剤を愛用する傾きも強く、
その必要も大きいといふことが云へるだらう。
三島由紀夫「好きな女性」より
463 :
吾輩は名無しである:2012/01/30(月) 22:41:44.66
この世にはいろんな種類の愛らしさがある。しかし可愛気のないものに、永続的な愛情を注ぐことは困難であらう。
美しいと謂はれてゐる女の人工的な計算された可愛気は、たいていの場合挫折する。実に美しさは誤算の能力に
正比例する。
(中略)
可愛気は結局、天賦のものであり天真のものである。
そしてかういふものに対してなら、敗北する価値があるのだ。
ほんのちよつとした心づかひ、洋服の襟についた糸屑をとつてくれること、そんなことは誰しもすることであるが、
技巧は、かういふ些細なところでいつも正体をあらはしてしまふ。
私は小鳥を愛する女の心情の中にさへ、暗い不可解な無意識の心理を、忖度せずにはゐられない不幸な人間であるが、
たまには、(時には気候の加減で)さういふ時の女にかけがへのない天真さを発見する。
何かわれわれの庇護したい感情に愬へるものは、おそらく憐れつぽいものではなくて、庇護しなければ忽ち
汚れてしまふ、さういふ危険を感じさせる或るものなのであらう。ところが一方には何の危険も感じさせない
潔らかさや天真さといふものもあり、さういふものは却つて私を怖気づかせてしまふから妙である。
三島由紀夫「好きな女性」より
464 :
吾輩は名無しである:2012/02/18(土) 17:13:31.59
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。
別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。
宿の表てつきは、丁度、芝居の「一本刀土俵入」の取手の宿とそつくりで、いかにも古雅なものだが、道の往来は
芝居のやうには行かず、すぐ県道に面してゐるので、石材を積んだトラックや大型バスが通るたびに、宿全体が
家鳴震動する。
それでまづ寝つきを起され、又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、
酒宴がはじまつた。
と、それにまじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、ラヂオをかけながらの酒宴といふのも
へんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
465 :
吾輩は名無しである:2012/02/18(土) 17:14:30.17
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついたやうな
騒ぎになつてしまつた。
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。
しばらく音がしないで、寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に
一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に
眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
466 :
吾輩は名無しである:2012/02/18(土) 17:15:27.18
(中略)
――かうして一日たち二日たつた。
最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。
二日目にはもう隣室の話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。
三日目になると完全にコツをおぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を
張りあげ、食事がおそいときは、
「おそいぞ!」
と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、
「うるさいぞ!」
と怒鳴つて、夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んで
ゐる人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべき
ものであつた。
都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、隣りのラヂオが
うるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
467 :
吾輩は名無しである:2012/02/18(土) 17:16:31.05
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを
真似なくてもいい。
西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない孤独がひそんでゐるのである。
(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつたはうが
賢明なのかもしれない。少くとも、さうしておけば、U2機事件みたいなのは、起りやうがないのである。
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが
そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を
発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
468 :
吾輩は名無しである:2012/02/18(土) 17:37:34.92
Windows VISTAのサポートは延長されるかでもめてます。
469 :
吾輩は名無しである:2012/03/01(木) 17:29:32.32
、
470 :
吾輩は名無しである:2012/03/02(金) 06:40:49.93
2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。
三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!!
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!
『春の雪』の映画化だって断然オレを主役に決定してただろうしサッ!!!
471 :
吾輩は名無しである:2012/03/04(日) 04:56:35.90
ナッちゃん、素敵〜!
472 :
吾輩は名無しである:2012/03/04(日) 12:07:01.03
本格ミステリーのほうが読みづらい
473 :
吾輩は名無しである:2012/03/04(日) 12:27:44.34
>>441 三島由紀夫も草葉の陰で、おまえなんかに読んでもらいたくないと言うてるで
474 :
吾輩は名無しである:2012/03/05(月) 03:03:40.79
文章下手糞だよ。美辞麗句をただ並べていればいいって物じゃない。
マニュアル本よりも退屈だね。
475 :
吾輩は名無しである:2012/03/26(月) 10:58:30.01
どうしても心の憂悶の晴れぬときは、むかしから酒にたよらずに映画を見るたちの私は、自分の周囲の現実を
しばしが間、完全に除去してくれるといふ作用を、映画のもつとも大きな作用と考へてきた。大スクリーンで
立体音響なら申し分がないがそれは形式上のこと、それで退屈な映画では何にもならぬ。(中略)これを一概に
「娯楽」といふ名で呼ぶのは当を得てゐない。私の映画に求めてゐるのは「忘我」であつて、娯楽といふ名で
括られるのは不本意である。私はただの一度も、映画で「目ざめさせて」もらつた経験もなく、又目ざめさせて
もらふために、映画館の闇の中へ入つてゆくといふ、ばからしい欲求を持つたこともないのである。
官能の助けを借りながら、知的探究をさせてもらふ、といふ、怠け者の欲張りが、いはゆる芸術映画の観客の
大半なのであらう。目に見えるものはいやでも官能に愬へ、しかも音が加はり、色彩が加はりすれば、どんな
知的な映画でも、その複合的効果を免かれることはできないのである。
三島由紀夫「忘我」より
476 :
吾輩は名無しである:2012/03/26(月) 10:59:20.41
そして忘我とはこれ又複雑な要素を含み、エロティシズムや恐怖といふ感覚的衝撃も十分忘我の材料になりうる
けれども(因みに、笑ひはたえず人を目ざめさせるから、忘我のたのしみには適しない)、知的なパズルも亦、
しばし自分の頭脳を他人のなかなか隅におけない頭脳の支配に委ねるといふ快感において、忘我のよすがになる
わけであるから、私が喜んで見る映画は、おのづから限られてくる。そしてこれらすべての条件を具備したものが、
他ならぬヒチコック映画なのであるが、今度の「トパーズ」を含めて、ヒチコックの近作に、往年の色艶が褪せて
来たことは淋しい。
美しい人間が出てくる、といふことも映画の与へる忘我の大切な要素であり、「トパーズ」にもやはりキューバの
地下組織の代表者として、目もあやな美人(カリン・ドール)が現はれ、その死までも華麗を極めてゐる。
美しい人間といふものは映画にしか出て来ない、といふのがわれわれの年齢の人間の、幼時から温めてきた信仰で
あつた。逆も真なりで、映画に出る人なら美しい人間に決つてゐた筈であつた。
三島由紀夫「忘我」より
477 :
吾輩は名無しである:2012/03/26(月) 10:59:50.54
ところが人間の肉体に対する信仰がどこかで崩れ、肉体の「偉大さ」が信じられなくなつてしまつた。これが
スター・システムの崩壊につながつたことは言ふまでもないが、美貌のみによつて偉大である、といふシンボル賦与の
役割を映画がすでに果さなくなつたことと照応してゐる。
その代りにタブーが取り去られ、「性」が映画の中央にしやしやり出てきて、どんな無気力な性を描いても、
性が主人公である映画が続出するやうになつた。現在氾濫してゐる二流映画の中で、私が感心したのはギリシアの
「猫の舌」ぐらゐのものであるが、面白いことには、性が前面に出てくればくるほど、スターは不要になり、
この面からもスター・システムの崩壊は推し進められてゐることである。
スターは性的シンボルであつたが、それは覆はれた性的シンボルであり、性の無名性の逆説であつた。
三島由紀夫「忘我」より
478 :
吾輩は名無しである:2012/03/26(月) 11:00:19.82
すなはち性的対象が一つで、こちらが不特定多数人だとすれば、たつた一つの性的対象に対してできるだけ多数の
不特定人が集まれば集まるほど、経済的効率は上るわけであるから、そのためには宣伝が必要になり、宣伝の
公共性がスターをいやが上にも有名にすると共に、性の無名性(性的独占の条件)はますます薄れ、人々は共有の
法則に従はざるをえなくなる。そこに神聖化が行はれ、幾多の処女伝説が発生した。しかしブルー・フィルムでは、
この事情は逆になる。俳優は無名であればあるほど、性的独占の対象として直接性を帯び、それはいかにも任意の
対象といふ風情をそなへ、観客と俳優は一対一で映像の性関係に入ることが容易になる。そのためには、公共性を
必然的に持つ宣伝は、すべてを阻害することになる。
未来の映画は、すべてブルー・フィルムになるであらう。そして公認されたブルー・フィルムの最上の媒体は、
ヴィデオ・カセットになるであらう。なぜならそれは映像の性的独占を可能にするからだ。
三島由紀夫「忘我」より
479 :
吾輩は名無しである:2012/03/26(月) 11:00:54.91
これはもう予期された結末であるが、それといふのも、映画は性を扱ふ時に圧倒的な効果を発揮するにもかかはらず、
劇場映画に要する厖大な制作費の条件は、性を無名性と個人的独占から遠ざけるやうにしか働らかないからである。
かういふことをうすうす感じてゐるからこそ、若い監督たちはあのやうな難解な映画を次々と作るのであらう。
どんな形而上学的主題も、或る巨大な性の影に包まれてゐるといふのが映画の本質であるのに、性を前面に扱へば
扱ふほど、かつてのやうなスターといふ存在のシンボル操作による、あの性の万能性・公共性・象徴性・神聖性は
失はれたのである。従つて、映画は或る巨大な性の影の庇護下にあらゆることを語りうる媒体であることを自ら
諦らめねばならず、一方では文学的演劇的な形而上学的主題へ逃げ、一方では芸術映画に特有な、汚ならしい
男女優による汚ならしい性的シーンの氾濫になつたのであらう。
かくも忘我から遠いものはないために、私は、これを見定めて、忘我を与へてくれさうな映画を見るとき以外に、
映画館へ足を運ばなくなつたのであつた。
三島由紀夫「忘我」より
、
・
482 :
吾輩は名無しである:2012/06/08(金) 21:40:47.76
少年時代には、ホテルといふものは、日本の西欧化の一つのあこがれのシンボルであつた。東京にはホテルらしい
ホテルは帝国ホテルしかなかつたし、戦時中の日本主義全盛時代にも、ホテルの中だけは、欧化主義の治外法権が
ゆるされてゐた。堀辰雄の小説には、神戸などの洒落た小ホテルが、いかにもヨーロッパの一港市の憂愁にみちた
小ホテルのやうに描かれてゐたし、私も大人になつたら、そんなところへ一人旅をしてちよつと微熱を出して、
部屋に引きこもつて、洋書でも読んでゐたらよからうと思はれた。(中略)
ところが成人して作家になつた私にとつていつしかホテルは牢獄になつた。急ぎの、集中を要する仕事は、いつも
ホテルに自己監禁をして、仕上げるのが習慣になつたからである。ホテルに対するロマンチックなイメージは
完全に消失した。同じ形の窓を並べたあの巨大なコンクリートの巣を見上げると私はすぐさま、その一室で机に
向つてゐる自分の姿を思ひうかべ、異様な圧迫感にふたがれるのである。(中略)
三島由紀夫「ホテル」より
483 :
吾輩は名無しである:2012/06/08(金) 21:41:19.20
なぜホテルで仕事がはかどるかといふと、その完璧な非人情、その無機質のサーヴィスが、仕事に対して、何ら
人間関係の邪魔物を持ち込まないからである。室内にする音は、冷暖房装置の衣ずれのやうな風音と、こちらの
原稿用紙の紙の音ばかり、集中を妨げるものは何一つなく、衣食住は機械的に保障されてゐるから、腹が減つたら
電話一本かければよく、フロに入りたかつたら、人手を借りずに入れる。何だか、寂しい、清潔な、福祉国家の
一員になつたやうな気がするし、フランスのランチエ(年金生活者)の生活感情に似たものを味はへる。何ら
不安も希望もないこんな状態が仕事に必要なのだ。つまり、生きながら死んでゐるといふ、ぜいたくな仮死状態を、
ホテルが保障してくれるのである。
仕事が行き詰まると、ドレス・アップして食堂へゆく。わざとメニューにない料理を注文したり、クレソンだけの
サラダを作らせたりして、ウェイターを困らせて、ヨーロッパの気むづかしい独り者の金持の老人のやうな
晩餐をする。ああはなりたくないと思つてゐるやうな人物に変身するたのしみ。(中略)
三島由紀夫「ホテル」より
484 :
吾輩は名無しである:2012/06/08(金) 21:41:50.41
窓を見る。高速道路の上を車が流れ、ネオン・サインが地の果てまで、瑠璃光を放つて散らばつてゐる。動いてゐる。
動いてゐるけれども、この大都市の歓楽には、人間の欲望の組織化にはあたかもホテルの密室と同じやうな、
無機質の「完璧なサーヴィス」のにほひがある。人間にはこれこれのものだけを与へておけば、それで必要にして
十分であり、それ以上のものを与へる要はないといふ管理者の不人情がある。おびただしい赤・黄・紫・緑・青の
ネオンには、たしかに過剰と競争があるけれども、その熱気は、冷たい一枚のガラスの窓からながめると、
冷蔵庫の中でしんしんと四角い小さな氷を作つてゐる機構のやうに、「冷えきつた熱気」といふふうに感じられる。
そしてこれだけの大都会が、あたかも仕事中のホテルの密室のやうに、ただ人間を仮死状態に置くために活動して
ゐるやうに見えるのである。私はこんな世界におさらばをするのには、大した抵抗を覚えないやうな気がする……。
三島由紀夫「ホテル」より
485 :
吾輩は名無しである:2012/06/08(金) 21:42:17.50
――もとよりかうした感想は、仕事に疲れた一文士の誇張にすぎない。ホテルといふ抽象的環境が、世界を
むやみに抽象的に見せてゐる心理作用にすぎない。いはばこれは幻覚なのだ。
しかし、かうした「はかなさ」の幻覚だけが、私を仕事へ向かはせるのもたしかなことだ。もし人生を十分に
愛してゐたら、文学をやらうなどといふバカな気を起すわけがない。「はかなさ」から仕事が生れ、別乾坤を
作り出さうといふ意欲が生れる。ともすると、仕事をするためには、人工的に「はかなさ」を作りだす装置が
必要なのかもしれず、ホテルはその最適の装置である。
三島由紀夫「ホテル」より
486 :
吾輩は名無しである:2012/06/27(水) 03:25:41.92
【 おかしなものを吸引・使用・服用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】
487 :
吾輩は名無しである:2012/06/27(水) 07:47:39.05
ハナレメ笑
488 :
吾輩は名無しである:2012/06/27(水) 07:54:38.60
午前三時の対話
489 :
吾輩は名無しである:2012/06/27(水) 18:26:34.59
アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。
【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。
490 :
吾輩は名無しである:2012/06/29(金) 23:27:30.19
491 :
ピヤッチョ:2012/06/29(金) 23:47:27.69
読みづらい
三島氏の文体は
主語述語形容詞副詞を
ピアノの旋律を奏でる
様な素敵があり特徴的だが
それを多用しすぎて
冗長的に思えて疲れる
これだから法学部出身は困るみたいな先入観さえ感じる
492 :
吾輩は名無しである:2012/07/05(木) 05:44:55.48
奇妙なことだが、去年読むのを挫折した金閣寺が、ついこないだ再読したところ、普通に(この言い方は語弊があるかもしれないが)読めた。
不思議ではある。
>>493 よくあることさ、休読中に脳内熟成していて再読は美味しくいただけるのだ
うまいこと言うね
読みにくいと感じるものは自分の知能レベルが足りてないと思った方がいい
497 :
吾輩は名無しである:2012/07/06(金) 21:47:36.95
498 :
吾輩は名無しである:2012/07/09(月) 11:25:58.92
「11,25自決の日」三島由紀夫と若者たち
サウナのシーン
満島の弟が三島の愛人役を地のママで演じてやがるゼッ!!!!!
阿部寛も出れば丸々ホンモノだったのにナッ!!!!!!!!!!!!
499 :
弧高の鬼才:2012/07/18(水) 15:39:57.87
熟語に頼りすぎだな
それは詩的言語とは違う
そうだことよ。
501 :
吾輩は名無しである:2012/07/26(木) 00:06:17.54
一度運動のたのしみを知つた人間は、麻薬患者と同様で、もう二度と運動のない世界へ
戻れるものではない。
テレビのおかげで、大方の家庭の茶の間の団欒といふものは台なしになり、みんな沈黙して画面に
向かつてゐるだけだから、画面からスポーツ用語や流行語は教はるけれど、会話のたのしみや
会話の能力は衰退してしまふ。昔から茶の間といふものは、会話の能力の道場であつた。
三島由紀夫「何もせぬ人」より
502 :
吾輩は名無しである:2012/08/18(土) 14:09:25.28
これらの写真を見て、私のまづ感じたことは、知るべからざる事実を知り、見るべからざる事実を見た、
といふことに尽きる。人類の創始以来見ることのできなかつた月の裏側が見られる時代であるから、
母体の中の胎児の生成が見られてもふしぎはないかもしれない。
かうして二十世紀といふ「事実の世紀」は、ますますデータを増すことになつた。
科学はそれで大いに研究の手がかりをつかむだらう。しかし文学は、これらの写真を見て、何か
新しいものをつかんだといふわけにもゆくまいし、人間の想像力はこれくらゐのことはもう知つて
ゐたのである。
(中略)
これらの写真で、私は人間の生命の神秘がいよいよ深められた思ひこそすれ、解明されたといふ感じは
少しもしなかつた。
明るさの中にこそ神秘がひそむ。人間の生命も、闇の神秘から、もう一つ深い白昼の神秘の中へ
躍り出たのだ。
三島由紀夫「事実と神秘と」より
503 :
吾輩は名無しである:2012/08/22(水) 13:26:36.48
あのヨーグルトを固めたやうな男が、男性の性的魅力の代表であるといふことについては、異論のある人が
多いと思ふ。(中略)
年増女の母性愛をくすぐる憂愁も、あどけなさも、少女の英雄崇拝にうつたへる体力も、不良つぽさも、
性的経験のある女に対する魅力も、それのない女からの憧れも……何もかも一身に具備して、歌の一ふし、
体の一ひねり、ことごとくセクシーならざるはないといふこの男。しかもそれを男の中の男と呼ぶには、
何か欠けてゐるやうな男。なまぐさい若さの、動物電気みたいなものを、存在すべてにしみこませて、それで
成功した男……。(略)
しかし、男といふものは、別にそんな存在になるために生まれてくるわけぢやない。プレースリーは、男性に
おける突然変異であり、ひどく自然に反したもので、一種の「性の神」になるやうに生まれついた男である。
ひよつとすると、彼がアメリカ人であるといふことは、女性の権力が強くなりすぎた社会における、男性の
側からの永い怨みと復讐のしるしかもしれない。
三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より
504 :
吾輩は名無しである:2012/08/22(水) 13:27:12.62
「ああ、女たちよ。威張れ。威張れ。いくらでも威張れ。お前たちのおのぞみの歌、大好きな歌をうたつて
やるからな。ほら、俺が歌ふと、どうしたんだい? 今まで威張つてたお前たちが、急にしびれて、引つくり
かへるぢやないか。男の暴力を封じ、経済力をむしばみ、権力を弱めてきたお前たちが、
ハ、ハ、ハ、ハートブレーク・ホテル
だなんて、俺が下らない歌を、ふるへ声で歌ふと、とたんに降参して城を明け渡すぢやないか。なんて君らは
低俗な趣味なんだ。どうだい、腰を振つてやらうか。うれしいか。ざまあみろ。俺の前ぢや、みんな仮面を
はがれてしまふんだ。いくらとりすました顔をして、威張つてゐたつて、こんな下品な歌一つで一コロなんだ。
どうだ。男にはやつぱりかなはないといふことがわかつたろう。(略)」
――プレースリーの歌をきいてゐると、私は砂糖菓子みたいな歌詞のむかふがはで、彼がたえず右のやうに
歌つてゐる声をきくやうな気がします。
三島由紀夫「第一の性 各論エルヴィス・プレースリー」より
505 :
あの名無しがすごい:2012/08/22(水) 14:23:23.35
ちょー読みづらい
彼が旧帝大法学部出身
だった事や父親が
官僚だったという肩書き
にまけて
庶民は一つの
小説家という見方で
判断できんくなってんのかな
506 :
吾輩は名無しである:2012/09/01(土) 22:17:30.16
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507 :
吾輩は名無しである:2012/09/02(日) 17:08:11.04
三島由紀夫の文章ほど読みやすいものはないと、石原慎太郎の文法不明の
悪文を読んでからあらためて再認識した。
508 :
吾輩は名無しである:2012/09/10(月) 12:04:57.16
息子が大きくなれば全学連にならぬかとおそれをののき、娘が大きくなれば悪い虫がつきはせぬかと
ひやひやする、親の心配苦労をよそに、息子ども娘ども、
「お前の高校は処女が一割だつていふぜ」
「アラ、わりかしいい線行つてるわね」
などとほざき、オートバイのマフラーをはづして、市民の眠りをおどろかし、雨の日には転倒して頭の鉢を
割り、あわてた親が四輪車を買つてやれば、たちまち岸壁から海へどんぶり。山へ出かけては凍え死に、
スキーへ出かけては足を折る。身体髪膚、父母からもらつたものは一つもないかの如くである。
蔭では親のことを「あいつ」と呼び、働きのない親は出てゆけがしに扱はれ、働きのある親とは金だけの
つながり。いつも親に土産を買つてかへる今どきめづらしい孝行者と思へば、万引きの常習犯で、親が
警察へ呼び出されて、はじめてそれと知つてびつくり。これなどは罪の軽い方で、いつ息子に殺されるかと、
枕を高くして寝られない親もあり、こどもの持つてゐる凶器は、鉛筆削りのナイフといへども、こつそり
刃引きをしておいたはうが無難である。
日曜日も本に読みふける子は、あつといふ間にノイローゼになり、本を読まぬ子はテレビめくら。親父の
代には不良は不良でも、硬派の不良となると世間も認めたが、今は硬軟とりまぜの時代で、親の目には
一向見当もつかず、軟派とおもへばデモ隊で声を嗄らし、硬派とおもへばいつのまにやらプレイボーイ
とかになり下がり、娘が「オレ」と言ひ、息子は「あのう……ぼく」と言ふ世の中。
三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より
509 :
吾輩は名無しである:2012/09/10(月) 12:05:31.82
ここに一人の悪息子あり。これ以上りつぱな女はないといふほどの、心やさしい若い継母に育てられ
ながら、心のねぢくれた極道者、遊びの金に詰まつては父親の金庫をねぢあけ、勘当の一歩手前まで
行きながら、継母のとりなしで、どうやら息をつないで来た若者。
あるとき、父親が不治の病で一年も保たないとわかつたので、父の財産、生命保険、一切合財、
三分の一を継母に持つて行かれては一大事と、悪友に相談をもちかけるに、
「そりやおめへ、むざむざ、血のつながらねえ女に、財産をしよつぴいて行かれる手はねえよ。何とか
早くあの女のカタをつけなくちやいけねえな。それはさうと、おめへのおやぢは、あの女に惚れてることは
たしかなんだな」
「あの年で見られたザマぢやねえよ。惚れてるのもいいとこさ」
「そんならこの手はどうだ。西鶴といふ小説家の『本朝二十不幸』巻の四、『木陰の袖口』といふ短篇
小説に出てる手だよ。西鶴つていふのは、おめへも知らねえだろ、永いこと同人雑誌で苦労してゐる
古手の作家で、だれもあいつの本なんか読んでる奴はゐねえから、使へるよ。おい、うまくいつたら、
アイデア料これだけだぜ」
と両手をひろげてみせた。
三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より
510 :
吾輩は名無しである:2012/09/10(月) 12:06:13.80
息子は悪友からきいた手順を呑み込み、父親に或る日こつそり、
「おやぢさんの体の具合が悪くなつてから、お継母さんが俺に色気を出して困るんだよ」
「そんなばかなことがあるか」
「嘘だと思つたら、あしたの朝、出かけるふりをして、生垣からのぞいてごらん」
朝、庭の柿を実も色づいて、ちやうどもぎ時だと息子は木の下へゆき、継母も庭へ出てくると、息子は、
頚筋背中に急に虫が入つたふりをして、
「お継母さん、早くとつてくれよ」
と呼べば、継母も何気なく、シャツの袖口から手をさし入れ、しばらく探して、
「見つからないわ。でも心配だから、裸になつてごらん」
とシャツを脱がせ、ズボンの中へ落ちたかと探るところを、遠くから見てゐた父親は、やつぱりさうだと
怒りに狂ひ、継母の言ひ訳もきかず、その日のうちに離婚の手続き、継母は泣く泣く家を追ひ出され、
その後数ヶ月で父親も死去、財産を一人占めにして北叟笑(ほくそえ)んだ一人息子は、相続税の
巨額に大びつくり、俺より上手は税務署だと、カブトを脱いだといふことだ。
三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より
>>510 マジレスを期待したいんだけど
あなたがいつも貼ってる三島のテキストって
全部自分で手打ちしたもの?
小説や戯曲もやってる?
あと8年くらいでコンプリートできそう?
著作権切れたらどっかにうpしてくれる?
512 :
吾輩は名無しである:2012/09/11(火) 10:12:13.06
手打ちですよ。小説も戯曲もやってますけど、名文の部分だけで全部はやってません。
著作権が切れたら代表作の全文は青空文庫に出るよ。
それ以外のマイナー物は出ないかもしれないから、そのときはどこかにUPするかもしれませんが、
先のことはわからないね。
513 :
吾輩は名無しである:2012/09/11(火) 11:24:37.71
名文、、、ねえ。。。。。(笑)
514 :
吾輩は名無しである:2012/09/11(火) 11:30:41.09
だらだらだらだら垂れ流してる馬のしょんべん。(嗤)
515 :
吾輩は名無しである:2012/09/15(土) 12:04:14.42
516 :
吾輩は名無しである:2012/10/02(火) 23:28:45.64
森田
, ´` ヽ
三島 、' ,.、、,.、 '; 、 」\VヘV
ゝ > 、 `; ; _>
Yヘ| -≧y ,_!ソ > ====、
'⌒>、 /V| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ー y、ュヾ/ -z ̄ lll 〃
ト- 'ヘ/ ヽ ゝ T三ゝ/_ _> 〃 ll ll
ミ v; \ ___,. -= fミ)`'ー  ̄オノノ> 、 ´ ̄7 =''
彡 y、' 、 ,ヽ / // ヽ ̄ ソ `` \ 7 ==z_
K_´` `'メ/ )\ !、 ,, // ー =' ヽ /ヘ  ̄ ||! ||!
>─--- '____ / ,ト、 // ミ .} /ー 〃〃
/  ̄ ̄ / /ハ //。 ハ :。 イ{ ”| レ'´|/V
>-、 ト { ノ |ノノ ー--‐' ー--‐'ノ | |
\_____ ノ 'イ イ ! ミ ! / :| :|
 ̄\ / |\_{ `T ,,: 7 } |ヽ ノ
/ ./ \ i '' :c:''T _.ノ ト {
ノ /、 /> :. _; ,| | }
/ / \/、 / ヽ、 (ノ{) ヽ:} |: :l
/ :/ ( \ ⌒ソ__ハ ) | |
{ ゝ ,. ⌒ 丶、 _´彡` ⌒ヽ | |
| / ! ,. "〃" 、 \ ノ
ゴモラトンキン
スレチかもしれないが小林秀雄が彼についての小品なり評論を書かなかったのは何故なんだろう?
と思う。たしか対談が一つあったきりだったような気がする。
魔的な才能がさしてる意味を考えているんだけど、さっぱり分からない。
自決の時の小林の言い分では日本の歴史そのものとまで言わしめたのにな。
大江健三郎の文章はそのままサルトルの飜訳だといつても、誰が不思議に思ふでありませう。サルトルと
大江氏の文章は発想においても資質においてもちがつてゐることはもちろんであります。彼は意識的に
その用語を、サルトルの使つたやうな用語の概念に近づけようとして使つてをります。それは戦前ならば
飜訳調の文章と思はれたでせうが、いまは、われわれはそれをさほど飜訳調の文章と感じないので
あります。むしろ飜訳調の文章と大いに言はれたのは、新感覚派の時代の初期の横光利一氏の文章で
あります。
(中略)
現在では飜訳調の文章は、横光氏の時代がもつてゐたやうな、人の感覚に抵抗を与へる効果といふ
ものは、すべて失つてしまつたのであります。われわれは飜訳文の氾濫によつて、もはやどんな不思議な
日本語もさほど不思議と思はなくなるに至りました。そのもつとも極端な例は、石原慎太郎氏の「亀裂」の
文体のやうなもので、ここでは、日本語はいつたん完全に解体されて、語序も文法もばらばらにされて、
不思議なグロテスクな組合せによつて、異常な効果を出してゐます。しかし石原氏にとつて損なことは、
その文章が横光利一氏のやうに、故意の飜訳体の形において人の感覚に刺戟を与へ、それからめざめ
させるといふ効用を、現在はほとんどもつてゐないことであります。
三島由紀夫「文章読本 第二章 文章のさまざま―文章美学の史的変遷」より
520 :
吾輩は名無しである:2012/11/21(水) 17:59:49.12
戦前戦後を通じて、文壇ベスト・ドレッサーを求めれば、まづ堀辰雄氏に指を屈する。彼ほど着こなしの
うまい作家はゐなかつた。自分に似合はないものは一切身につけず、似合ふものをかぎわける特別な
能力をもち、まさに、
「デリケートな若い男性の高原の避暑地むきリゾート・ウエア。しかもフランス風な典雅な味を失はない」
といふキャッチ・フレーズつきで「男子専科」からぬけ出したやうであつた。
もちろんおしやれのうまさは、くづした着こなしのうまさでもあり、堀辰雄氏は、くづした着方をしても十分
板についてゐた。
現在では、ベスト・ドレッサーとしては、井伏鱒二氏をあげるべきであらう。氏はもともと、上等なものを
くづして着る特別な渋いおしやれであるが、氏のおしやれには、官服ベスト・ドレッサー森鴎外氏の
パロディーの気味もある。
人が似合ふからといつてウのマネをするカラスの野暮さ加減は堀辰雄氏の亜流の文学によく現はれて
ゐる。ベレーなどといふものは、だれでも似合ふといふものではない
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より
521 :
吾輩は名無しである:2012/11/21(水) 18:00:31.07
――ところで私の好みをいふと、あんまり着こなしのうまい作家を見ると、多少ヤキモチも働いてゐるに
ちがひないが、何だか決定的に好きになれない。もちろん他人の借り物のおしやれをして得々としてゐる
手合ひは論外だし、よぼよぼの老人がむりにジン・パンツをはいたり、胃弱の青年がむりにTシャツを
着たりするのは全くいただけないが、自分に似合はないものを思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の
持つべき美徳の一つである。井伏鱒二氏が突然真つ赤なアロハを着たり、安岡章太郎氏が突然
シルクハットをかぶつたりしたら、私はどんなにもつと氏らを好きになることであらう。
ところで、もつとも変幻自在、タンゲイすべからざる隠れたベスト・ドレッサーの名をあげておかう。それは
深沢七郎氏である。
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より
522 :
吾輩は名無しである:2012/11/22(木) 06:15:02.55
三島も相当オシャレさんだつたであらう
523 :
吾輩は名無しである:2013/01/01(火) 14:41:59.95
元旦さうさう、今年は戦争がありさうだなどと言つてみたところで、何にもならないことである。太宰治が
ある年頭の希望といふアンケートの返事に、「ねがつたつて何も出来やしねえ」と書いたことがあるが、
さう書いたところでやはり人間は願ひ事をするのである。それではひとつ悪いはうへ願つてみたら当る割合が
大きさうに思はれるが、人間の願望は他人の不幸をこそ希(ねが)へ、なかなか自分の不幸をねがふはうへは
傾きかねるものである。
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。小説「二十五時」が面白く読まれるのは、
何ぼ何でも自分だけはあれほど不幸な目に会ふわけがないといふ安心からであり、この安心には理由がないが、
その理由のなさはあの小説の不安の理由をもあいまいにしてしまふ。
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようと
せずに、ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は
結局弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。
三島由紀夫「言ひがかり」より
524 :
吾輩は名無しである:2013/02/13(水) 11:17:16.64
&
525 :
吾輩は名無しである:2013/05/23(木) 22:40:49.68
美文名文
526 :
吾輩は名無しである:2013/05/26(日) 02:05:10.13
527 :
吾輩は名無しである:2013/05/26(日) 15:17:44.16
そうなんですかあ
顔はかっくいいよな
晩年はちょっと傀儡っぽい写真もあってコワいけど
529 :
吾輩は名無しである:2013/05/28(火) 09:10:08.92
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞が
この青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。青年は、沖縄で
反基地闘争の日本人が米兵の銃剣に傷つけられた報復として、せめて米国の代表者に傷を負はせようと
したのが目的であり、個人的には何の恨みもないと表明した。青年が過激な右翼団体に属してゐたといふ
経歴はなかつた。
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年を
これほど口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を
持つたのである。左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。
かういふヒステリー症状は、ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、
かれらは何を隠さうとしたのであらうか。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
530 :
吾輩は名無しである:2013/05/28(火) 09:10:51.05
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の
列に入つて、もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ
日本文化であると宣伝してゐればよかつた。昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で
浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、
少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュではRevue Japonais といふ日本人の
レビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。在仏日本大使館は誤解をおそれて、
大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
531 :
吾輩は名無しである:2013/05/28(火) 09:11:33.73
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを
憎み、明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。電線の下を通るときは、西洋の魔法で頭がけがれると
云つて、頭上に白扇をかざして通り、あらゆる西欧化に反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の
魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が
日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、一つの
例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた
もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、
このやうに純思想的文化的叛乱ではない。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
532 :
吾輩は名無しである:2013/05/28(火) 09:12:11.23
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の
歩みと共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の
近代ほど、光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。私の四十年の
歴史の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の
二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。
そして、失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が
起るのであつた。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
533 :
吾輩は名無しである:2013/05/28(火) 09:12:57.43
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられると
しても、あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した
事例であつた。それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、
ヴィエトナムがどこにあるかさへ知らなかつたのである。
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題で
あることに気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人の
サムラヒたちは、そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、
といふことを知つてゐたのである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ
日本の近代化の中にひそむ危険の、最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の
危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中にあつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
三島悠紀夫
535 :
吾輩は名無しである:2013/09/28(土) 19:44:38.46
536 :
吾輩は名無しである:2013/09/28(土) 20:12:11.00
>>われわれが現在感じてゐる日本文化の
危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中にあつたものの、
みごとな開花であり結実なのであつた。
三島はこういう嘆きを放ちながら、親しい小林秀雄よりも丸山真男を、
たぶん、高く評価していたんだろうね。
537 :
吾輩は名無しである:2013/09/28(土) 22:33:43.68
窓の前に小さな円卓があってな、観葉植物がある。藤掛椅子が5脚あっってな、三島が部屋着姿の配給権を戦線が近づいてくる。
鍵にかかる部屋にでてくる女の子がひたすら可愛かった
似たようないのかな
>>535 強い者が弱い者を助ける事を悪いとは言ってないだろ
弱い者が弱い事に甘えるのが悪いと言っているんだ
>>539 誰かを助けることができるなんてことは、ほとんどない。
誰かが「あなたを助けたい」というのなら、警戒して当然だ。
そしてその相手には「誰かを助けるより、自分自身を助けよ」と言ってやったらいい。
たいてい、そういうことだ。
>>536 三島は丸山真男を批判してます。
小林秀雄のことは賛美してますけど。
>>538 「雛の宿」が少し似たような少女が出てくるかな。
543 :
島本町で凄惨なイジメを受けて廃人になった方へ:2014/09/13(土) 13:35:33.53
>大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて廃人になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。僕のほかにも、イジメが原因で精神病になったりひきこもりになったりした子が何人もおる。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。イジメに加担する教師すらおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメはなかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
>島本町って町は暴力とイジメと口裏合わせと口封じと泣き寝入りの町なんだなあ
子供の時に受けた酷いイジメの体験は、一生癒えない深い傷になる
暴力とイジメの町に巣食うヤクザ・チンピラ・ゴロツキ・不良・ いじめっ子・殺人鬼・ダニ・
ノミ・シラミなどを監視して非難するのは暮らしやすい町を作るのに必要だ
544 :
吾輩は名無しである:2014/09/23(火) 19:52:17.68
誰が読んでも読み辛い。
よっぽど屈折して生きていたんだろう。
自殺して大正解だろう。
鏡子の家で初めてコケるまで三島はベストセラー連発だったんだけどな
三島の親父の本によると三島の葬儀は下町の普通の主婦みたいな人がたくさん駆けつけて
涙を流して別れを惜しんでくれたのが印象的だったらしい
つまり特に学があるわけではない一般大衆のファンも多かったわけで
自分も含めての話だけど、単に日本人全体の日本語の能力や知的レベルが落ちただけじゃないかな?
>>545 有名人がセンセーショナルな死に方をしたら
とりあえず騒ぐ人たちってのは昔も今も変わらず存在するわけよ
「葬式に駆けつけて泣く」の現代バージョンが
ツイッターで「RIP」「RIP」とつぶやくやつだろ
そういう「学があるわけではない一般大衆のファン」は多かったかもしれないが、
日本人全体の知的水準の指標になるエピソードじゃないと思うな
むしろ読みやすい。
読みにくいのは大江健三郎とか石原慎太郎の悪文
>>546 そういう輩ももちろんいただろうが、小説が手軽な娯楽や情報源として大衆の生活の中で占めていた割合が
当時は現代とくらべものにならないくらい大きかったのが想像に難くないと思うが
549 :
吾輩は名無しである:2014/10/25(土) 06:27:09.62
よく三島由紀夫はわざと難しい言葉使ってる衒学主義だって言うやついるけど
幼い頃から国語辞典読んでたら一般人が言う難しい言葉と難しくない言葉の違いなんて判断つかないやろ
>>549 太宰にも硬質な文章の作品はあるし、三島も「夏子の冒険」や「命売ります」みたいに
エンタメ色の強い読みやすい作品をたくさん書いてる
自分で考えたのか中村剣って人の引用なのかわからないが、頭の悪そうな文だな
552 :
正理会:2014/10/28(火) 17:38:22.74
不道徳教育講座は普通に読みやすい。
石原慎太郎のエッセイは文章がへたくそなのがよくわかるよ。
夏子の冒険は途中で三島作品だという事を忘れるくらい軽快だね
不道徳教育講座は読みやすかった。
その後に仮面の告白を読んだけど、一文一文、抽象的な表現の意味するところを考えて整理しながら読んだので、なかなか時間もかかったし、少しは読みにくいと感じたかな
556 :
吾輩は名無しである:2015/01/07(水) 06:31:05.97
■■■
通名の方々:
テレビ局・新聞社・ラジオ局・出版社・
芸能人・テレビに出てる人・本を出している人・雑誌の表紙・芸術家・
スポーツ選手・アダルトビデオ・性風俗・ヤクザ・暴力団・部落(同和)・
教員・大学教授・ノーベル賞受賞者・医師・弁護士、検察官、裁判官・政治家・公務員・
経団連・経済同友会・公益法人・旧軍人・巣鴨プリズン・明治政府〜・
塾・予備校・専門学校・ 自動車教習所・ 商店街・飲食店・寺・2ちゃんねる・
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洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのですが、
こんなものに影響をうけた女性は、スープを音を立てて吸ふ男を、頭から野蛮人と決めてしまひます。
エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より