>430 続き (前スレ480の補足)
―――そこに曖昧なものなくして何らの断定も出来ないこと、ここにもまた悪徳がある。
――宇宙の責任が追及されるとき、ひとは形而上学にある意味を賦与し得るさ。
私はしばしば*そう放言したが、直ちに忌まわしい気持に充ちみちてぞつとする。そこに《存在》以上のものを
表わすことは思惟のよくなし得るところではないのであろう。
「不合理ゆえに吾信ず Credo,quia absurdum.」 *「しばしば」書き込めないのでひらがな表記
カントがモノ自体は不可知である以上、形而上学的な探求は「空虚」であるとされた場所から
埴谷の「存在論」の考究もスタートした
その表現手段として小説を採用した事は折に触れ縷説している事である
>461 続き (前スレ480の補足)
埴谷 (前略)
レーニンは、物の本質に次第に近づいていって物の全体像がわかるようになるというんだが、カントは、物自体は絶対わからない
という。しかも、不可能へ向かっていわば仮象への空しき努力をつづけてきているという。あっ、これだと思ったね。
それで僕のスティルネル理解は非常にはっきりした形をとるようになった。自分が真の自分だと思いたいところから
さらにつき進んでいけば、自我の底にはさらに未知の自分があって、それを探求していく無限の過程も仮象への過程もともに含めて
そのすべてが自ら働く自我であるということだ。カントとスティルネルが僕のなかでようやく一致したわけだ。
自我というものは二重、三重、四重、さらにそれ以上の多次元の自分であるとともに、それを追求し、未知の自分を発見するのも
仮象の自我を創成するのもまた、絶えず自らに重なろうとしつづける自我であるということだな。
(中略:ポジティヴな「自同律の不快」へ)
そして、このらっきょうの皮むき風な無限探求を最後の最後まで押し進めようとして結局僕は文学に行きついてしまうことになる。
大岡昇平◎埴谷雄高 「二つの同時代史 U 大正から昭和へ」
三輪与志のノートに記された「Ich式」は
こうした「自同律の不快」――自我の無限探求を示したものであろうか
(補足終わり)
>462 続き
「一種の奇蹟」――それは消滅した訳ではなく、ケミカルに適切な処理により、再びその輝きを取り戻すのである
とはいえ、アラビヤの歴史上、その輝き――「絶えざる進歩」を夢想するのが容易ならざるコトは
現下の政治的混沌をみれば足りる
それは置いといて……
この日津田康造が「暗い気分」に苛まれていたのは、「あの奇蹟」についてであった
この本を読み終えて共通する感想だとすればニヒリズム→アナキズム
と解釈しがちだが、何かが足りない
作者はイエスと釈迦に説法で本質の媒体を説き伏せようとした趣だったのか
理解に苦しむが敢えて中華思想を外している節があることは否めない
埴谷さんには陸王学路線を書いてほしかったのが残念だ