トルストイ 8

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182吾輩は名無しである
福本伸行が銀と金という漫画の作中でギャンブルの本質について問いかけるシーンがある。
先輩格の平井銀二が什麼生ギャンブルとはなんぞや、主人公の森田鉄雄が答えて曰くギャンブルとは身投げである、と。
その崖を飛び越えなければならないと感覚は知っている。もう上手く飛べるかどうかは問題じゃない。
東尋坊の断崖絶壁で虚空に身を投げる行為、ただ飛ぶことがギャンブルだと。
非常に上手い喩え話で、僕はアンナの投身の際にそれが思い浮かびました。
禁断の”恋に落ちる”と線路上にその体を落とすのが掛かってるわけですね。

そこではたと気付く。「アンナは二度死んでいる」
読後に彼女を判断しようと試みても、彼女は善悪の天秤に量られることを拒絶する。
曼珠沙華のように美しく花開いた赤は、ただその凛然を以て見る者を虜にする。
虚偽と誠実という対比構造が活かされているとするなら、それは取りも直さず生と死の対比構造に等しい。
優しく微笑む悪魔に魅入られるのはメメント・モリを意識してる人だけでしょ。

読後、僕は第八編の必要性に物凄く疑問を感じた。
タイトルになる登場人物はいないし、脇役のようなコズヌイシェフ視点の語りが
アンナ死後のエピローグとして描かれるだけでリョーヴィンの悟りもトルストイの作家としてのエゴ丸出しで
いやに鼻に付く感じが好きになれなかった。加えて、あのラストではオブロンスキーの独り勝ちにしかならないのだ。
(リクルート成功したとかそんなんじゃなく、”丸く収めたったwwwwうははwwwwwwぐらいの。)
それでも尚第八編に意味を求めるならヴロンスキーの出兵への動機となる。
直接にアンナの死が劇中の人形たちに何がしかの影響を与えたという意味で、彼女に命を認めたのがヴロンスキーだけだからだ。
彼の露土戦争への出兵はアンナの呪いに取り憑かれたためか、或いは真実、彼が誠実に目覚めて添って死ぬ事を望んだためか。

破滅を愛せよ。
神は復讐を為す。
あらゆる自由が取り去られ、思考という自由すら奪われたとき、
純粋な意志は信仰となって人為らざるものを退ける剣となる。


次は”悪魔”を読まないといけないね。漱石にも興味出てきたけど。
そんな感じ。なんか散文になっちゃった。