トルストイ 8

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146吾輩は名無しである
「我々の理性は、その根源的なものに一致しなければならないし、また一致することができる。
 また理性は人間がこしらえたものに決して従ってはならない。
 そしてもしも理性が根源的なものに一致してさえいれば、我々はなにも恐れずに生き抜くことができる(トルストイ大学中退直前の日記。18歳)」。

自分はカレーニンに感情移入していると言えるだろうか?
おそらくは言えない。
彼の理性をトレースすることは自分にとってさほど難しいことではない。
外国語を習得する過程で、母国語に置き換えずに咀嚼して表出出来るようになるポイントがある。
僕はトルストイが描くカレーニン像に、その思考の組立や論理展開に内的必然性を感じる。
言い方を変えるなら、「咀嚼する為に自分の言葉で翻訳する必要を認めない」のだ。
この理性の一致を、覆ってしまえることをイコール感情移入とは考えない。
その言葉を使う事で99%までは正確に情動を整理して表出出来るけど、
残りの1%にこそ真実が宿る。真理が存在する。
あの分量を使ってトルストイが描くということは、その1%を決して無視しないところにその文学性を見る。
99の表現は平易な言葉で表現出来る。
たかだか1点感情移入という表現への違和を可能なかぎり正確に伝えようと努力すると
その1%を描くために僕が描くとここまで長大な雑文が出来上がる。

リョーヴィンは言った。「言葉というものはこの目で見た物から美しさを剥ぎ取るばかりだ」と。
言葉になりきれない情動をあくまで言葉で描くことを、その究極を求める忠誠がトルストイにはある。
使い切ったマヨネーズの容器を切ってゴムベラで掬い出すように、
カップ入りアイスの容器の底まで舐め取るように、
最後の一滴まで全て描き切ろうとするその1%を求める姿勢が
百数十年経て自分を狂わせるのです。

思い知ってください。
中巻カレーニンの独想が始まる前に一節差し込まれています。
彼が感受性豊かであること、涙もろいこと、その情動を受け止める器が彼自身に無く、
その表出はしばしば彼に近しい人の間にも誤解を産んでしまうこと。
その一節を差し挟む必然性を感じてください。
147吾輩は名無しである:2011/01/27(木) 11:48:56
シモーヌ・ヴェイユのwikiから引用します。
>真に美しいものとはそれがそのままであってほしいものである。
>それに何かを付け加えたり減らしたいとは思わない完全性、
>それが「なぜ」そのようにあるのかという説明を要せず、
>それがそのままで目的としてあるもの。

トルストイの小説はそれとして美しいものです。
同時にキチガイによる作劇です。キチガイにはキチガイの論理がある。
で、あるならば挟まれた一節に意味を看取る事が出来る筈。
その意識が僕に>>128を書かせました。
所詮翻訳ものですが、どうか注意力を以て一言一句その一節に必然性を感じてください。


この文章を読んだあなたが、僕に何がしかの傲慢を認めるかもしれない。
「謙虚さを持て」という批難に驕りを感じるかもしれない。
その侮辱に似た感情はアンナがカレーニンに抱くそれに等しく、
僕の抱いたトルストイ像が、一種神憑った真理であるかのような神聖視と
カレーニンの抱く神や真理への確信は同じくして、それは理性の賜物なのです。

それでは。