トルストイ 8

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128吾輩は名無しである
上巻最大の山場はカレーニンとアンナとの掛け合いにあると思います。
いいですか。トルストイのえげつなさというのはこのカレーニンの独想の最中、
そのまさにただ中にあってアンナとヴロンスキーが情熱的に体を重ねてるというところにキモがあるんです。
唐突に妊娠の告白がありますが濡れ場の描写は無いんですよ。
その濡れ場に変えてアレクセイ・カレーニンの独想を描くんです。
わかりますかね、このえげつなさ。
恋という情動に対してあくまで宗教をそのテリトリーと据え置き、
尚も理性の枠内で説得しようとするこの男をアンナとすれ違わせたのは彼の落ち度であるのか、
或いはカレーニン自身の情動を整理する時間があった不幸を惜しむべきなのか。
僕はねぇ、彼のアンナへの思いこそが愛なのではないかと思うのです。
それはオブロンスキーのドリィに対する同情とは全く別個の。
神の慈しみを乗り越える人間の強さと、人間であるが故に押し止められない情動とがバランスを取りながらアンナへの訴えかけとなるわけです。

愛というやつはねぇ、他者を他者と認識して、どこまで思い悩んでも至らない人間の深さを認めないと始まりやしないんですよ。
その”絶望”を出発点にしないと愛は有り得ない。
その意味で同情というやつは人間の深さというものに思いの至らないお馬鹿さんであるか、
ないしは「お前ごときはその深淵さの自覚ができない安っぽい人間であるのだから僕を以てすれば君の悩みも何もかもお見通しさ」という驕り、
このどちらかでしかないので、それをしない(することが妻への侮辱であるとする)カレーニンの払う人間に対する敬意というものは、
人を人として見る・他者性を認識する・対等に話をする人間に対して最低限気をつけなければならない礼儀の顕れであり、
それこそがエリートの驕りでもあるのです。
侮辱という境界線をアンナとの間に引き、倒れかかろうとする妻への情動を拳を握りしめて耐えながら訴えかけることの苦悩というもの。その姿勢こそが愛なのである、と。