奥泉光 part4

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250質問者 ◆uOAKVsxcZE
ここでも盗作問題について語られてますね。2ちゃんねらーはこういう話題が大好きのようで(2ちゃんねらーに限らずかな)。
私は『シューマンの指』の全体を把握していないので、盗用疑惑についてはこれ以上意見するのをやめておきます。

奥泉は非現実感覚の捉え方と、感覚を文章に表す技量が凡人のそれで、
ポッポが描いた「感覚描写や詩的表現力」を上回る根拠を提示できていないというのが実情のようだ。
奥泉は作品に登場させた天才芸術家の閃きを「本来は文章では描写できないもの」として諦め、
「音楽の精霊が飛び込んできた」「天使の翼に乗って運ばれてくる」という神がかり的な現象を示す比喩で逃げ切ろうとしている。
「文章では描写できない」という諦めはポッポにもあるだろうが、二人には決定的な違いがある。
奥泉は文章そのものに芸術性を備える企みを放棄したが、ポッポは文章そのものに芸術性を備える企みで音楽に対抗している。

大江健三郎とオルハン・パムクの対談では両者が「私は常に詩人として小説を書こうとしている」と言った。
シューマンは「音楽の勉強に疲れたなら詩人の作品を読んで疲れを癒しなさい」と言った。

詩的な表現とは、音楽で得られる感覚的な響きを文章から得られるように描いたもののことだ。
朔太郎や中也が生きていた時代と違い、詩を読める人間が減った現代では、
ポッポの作品の読み方を理解している人が少ないのは当然のことだ。
おそらくポッポの作品を楽しめない人は、普段から詩を積極的に読み、何度も感動するという経験を積んでいないのではないか。
そういう人はわかりやすく、具象的に描かれたものからしか何も得られない。

「まるで感情の小数点以下までも正確に算出するような力を得ていたのだ。
 あれは、さまざまな感情に建った柱の陰を透視するような力だった。」

これは詩的ではないが、芸術的センスの性質を示す比喩として素晴らしい。
凡人と天才の感覚の違いに作者本人が気づいていることが見受けられる。
「音楽の精霊」「天使の翼」と言って終わるだけの奥泉とは能力が違いすぎる。
ポッポの作品を「好きではない」と言うのは勝手だが、「才能がない」という発言は適切ではない。
「大蛇と影を重ねて」は並みの芥川賞作家に書けるような安い代物ではないからだ。