1 :
魅死魔幽鬼夫 :
2010/09/10(金) 10:15:34
2 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 10:21:45
あの慌しい少年時代が私にはたのしいもの美しいものとして思ひ返すことができぬ。 「燦爛とここかしこ、陽の光洩れ落ちたれど」とボオドレエルは歌つてゐる。「わが青春は おしなべて、晦闇の嵐なりけり」。少年時代の思ひ出は不思議なくらゐ悲劇化されてゐる。 なぜ成長してゆくことが、そして成長そのものの思ひ出が、悲劇でなければならないのか。 私には今もなほ、それがわからない。誰にもわかるまい。老年の謐かな智恵が、あの秋の末に よくある乾いた明るさを伴つて、我々の上に落ちかゝることがある日には、ふとした加減で、 私にもわかるやうになるかもしれない。だがわかつても、その時には、何の意味も なくなつてゐるであらう。 三島由紀夫「煙草」より
3 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 10:26:01
「いつはりならぬ実在」なぞといふものは、ほんたうにこの世に在つてよいものだらうか。 おぞましくもそれは、「不在」の別なすがたにすぎないかもしれぬ。不在は天使だ。 また実在は天から堕ちて翼を失つた天使であらう、なにごとにもまして哀しいのは、 それが翼をもたないことだ。 そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。蜜蜂たちはそのまつ昼間の よるのなかをとんでゐた。かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、 たくさんの夜光虫のやうに。 苧菟はあるいた。彼はあるいた。泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに 足をすくはれて。…… 彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。 三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
4 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 10:26:42
ほんたうの生とは、もしやふたつの死のもつとも鞏(かた)い結び合ひだけから うまれ出るものかもしれない。 蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば あけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき 迸しるだらう。 ひとたび出逢つた魂が、もういちどもつと遥かな場所で出会ふためには、どれだけの苦悩や 痛みが必要とされることか。魂の経めぐるみちは荊棘(けいきよく)にみたされてゐるだらう。 三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
5 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 10:27:43
無くなるはずのないものがなくなること、――あの神かくしとよばれてゐる神の ふしぎな遊戯によつて、そんな品物は多分、それを必要としてゐるある死人のところへ 届けられるのにちがひない。 星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。しづかに 森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がただよひだすだらう。そのとき星ははじめて、 すべてのものへ露のやうにしとどに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた 絵図のあひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。 星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。 三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
6 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 10:32:41
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。 長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。 三島由紀夫「女の友情について」より 文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。 われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。 思春期に於ては人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時に やることができないのであるが、かういふ人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。 思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは 少年たちを安心させるが、それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な 怠惰な安堵なのである。 思春期を殺してしまつた詩人といふものは考へられない。 三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より
7 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 10:33:33
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、 選択である。 文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに) 芸術作品になつてしまふ。 小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと 勝手であるが、技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ 無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。 理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、 愛は断じて理解ではない。 芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。 三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より
8 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 10:33:57
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。 男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。 個性を超克するところにのみ生れる本当の美の領域では、虚栄心はほとんど用をなさない。 そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ。 三島由紀夫「虚栄について」より 作家は末期の瞬間に自己自身になりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。 安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は 遠まはりを余儀なくされる。それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。――従つて 純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。さうでなければ、その純粋さは 贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。 三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より
9 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 20:41:28
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪と なるのである。 犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが 見られ、犯人は人間の登場すべからざる「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて 罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて健康なものがある。 三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは ナイーヴでなければ意味をなさない。 日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが 完全に払拭されないと芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふが よいのである。演劇とはスキャンダルだ。 三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より
10 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 20:41:59
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。 歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、 その醜さには悪魔的な蠱惑がなければならない。 三島由紀夫「中村芝翫論」より 歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は 却つて近代人ですらないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。 美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育まれる。 類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。 三島由紀夫「歌舞伎評」より
11 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 20:42:45
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが 抱きうる決心である。 三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より 「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。 大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の 「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。 三島由紀夫「師弟」より 大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより 数倍わるくて汚ならしい。 三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より
12 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 20:43:18
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。 三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より 理想主義者はきまつてはにかみやだ。 三島由紀夫「武田泰淳の近作」より 小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。 三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。 三島由紀夫「作家の日記」より 私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。 三島由紀夫「伏字」より 小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、 それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。 三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より
13 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/10(金) 20:52:13
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに 忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。 三島由紀夫「『元帥』について」より 伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、 もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。 三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より 物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと 確実な生の原型になるのである。 三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より 趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。 私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。 三島由紀夫「趣味的の酒」より 衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。 三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より
このキチガイのメモ帳みたいなスレいい加減落とそうぜ
あって困る事は絶対にない!!
16 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/12(日) 00:51:44
若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の 証左にされるのは、少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ 誠実さの証拠にはなる。といふのは、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、 生きてゐようが、自殺してみようが、心中してみようが、青春といふ肉体的状態にとつては 不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、 それゆゑに、さういふものは美しいのである。 三島由紀夫「心中論」より 女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は 微妙に侮蔑と結びついてゐる。(谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものは ないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。しかし氏にとつての関心は、 婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。エロスの 言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。 三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より
17 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/12(日) 00:59:42
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。 良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、 人の心を苛むものがどこかにあるのだ。 三島由紀夫「道徳と孤独」より 文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態を とるにいたらしめる、さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、 ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。 それは野獣をも生むのである。 三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。 三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より
18 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/12(日) 23:15:32
全然愛してゐないといふことが、情熱の純粋さの保証になる場合があるのだ。 若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。 若さはすべてを補ふから、どんな不自由も労苦も忍ぶことができ、かりにも若さがおのれの 安楽を求めるときは、若さ自体の価値をないがしろにしてゐるのである。 自由やと? 平和やと? そないなこと皆女子(おなご)の考へや。女子の嚔(くさめ)と一緒や。 男まで嚔をして、風邪を引かんかつてええのや。 三島由紀夫「絹と明察」より
19 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/12(日) 23:23:09
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。 演劇的批判にしか耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。 三島由紀夫「宗十郎覚書」より 小説の世界では、上手であることが第一の正義である。 ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。 三島由紀夫「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より 少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、 おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への 恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、 稚心を去る暴力手段である。 神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は 拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。 三島由紀夫「檀一雄『花筐』――覚書」より 無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。 三島由紀夫「恋する男」より
20 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/12(日) 23:37:40
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。 三島由紀夫「冷血熱血」より 美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。 まことに人生はままならないもので、生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。 三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より 人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。 三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より 生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつたが、これは何も 浪漫派に限らず、芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのであるから、 死に対する媚態と死から受ける甘い誘惑は、芸術および芸術家の必要悪なのかもしれないのである。 三島由紀夫「日記」より
21 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/13(月) 23:44:24
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。 精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば 若々しさを失ひ、後者に傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、 目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な結合を成就することがある。 三島由紀夫「青年像」より ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして 誠実であるかどうかについてもたえず疑つてをります。 三島由紀夫「青春の倦怠」より 詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。 詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。 小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。 三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より
22 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/13(月) 23:56:38
論敵同士などといふものは卑小な関係であり、言葉の上の敵味方なんて、女学生の 寄宿舎のそねみ合ひと大差がありません。 剣のことを、世間ではイデオロギーとか何とか言つてゐるやうですが、それは使ふ刀の 研師のちがひほどの問題で、剣が二つあれば、二人の男がこれを執つて、戦つて、 殺し合ふのは当然のことです。 三島由紀夫「野口武彦氏への公開状」より 男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なつてはいけないのが男である。 裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。 世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。 “男性を偶像化すべからず”職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を 差し引いたものが、家庭での彼の姿。 三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より
23 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/13(月) 23:58:05
私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、 生活のモラルではサムラヒである。 何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。 孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。 われわれは水晶の数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。 しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には中庸などといふものはありえない。 バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。 三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より
24 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/13(月) 23:59:03
交通量の少ない交差点で赤信号の横断歩道を渡ろうとしたら 園児を連れて散歩中の保母さん(結構かわいい)に 「影響を与えるので子供たちが見ている前で信号無視しないでください」 って言われたとき、ちょっとアウトローな時間に追われるビジネスマンぶって子供たちに 「ボク達、ルールを守ってるだけじゃこの世界は生きていけないんだぜ」 ってかっこつけて去ろうとしたら軽トラに轢かれた
園児に卑猥な言葉を教えて立ち去ればよかったんだよ。なんでこのスレに書くのか… 川端スレに貼ってあった三島の川端に対する人物評は面白かったな
コンビニに入ろうとしたら女子高生から 「すみません、タスポ持ってますか?」って聞かれたので 『はぁ?タスポってなによ?チンポならついてるよ?』と答えたら 「いえ、タバコを買うためのタスポです・・・」とか抜かしたので 『タバコなんて吸うんじゃねえよ。 同じ吸うならチンポ吸えチンポ!』と言ったら 「ポコチンじゃなくてニコチン吸いたいんだよ!」って怒鳴られた。 びびったおいらは速攻で逃げながらも .。oOO(あの女子高生はなかなか上手い返しするじゃねえか・・・) と感心した。 日本の未来も明るいなと感心した。
27 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/14(火) 23:47:16
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、 日光を浴びなければならぬ。体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。 三島由紀夫「文学とスポーツ」より 小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、 練習は必ず毎日やらなければならぬといふことである。 三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より 愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、 すぐれた読者にしかできないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。 三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者への手紙」より
28 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/14(火) 23:48:10
芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。 四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。 三島由紀夫「文学座の諸君への『公開状』――『喜びの琴』の上演拒否について」より われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な 美しさに満足してゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、 どこか落伍者的素質をもつてゐるといつていい。 三島由紀夫「美しきもの」より 芸術上の創造行為は存在そのものからは生れて来ない。自ら美しく生きようと思つた芸術家は 一人もゐなかつたので、美を創ることと、自分が美しく生きることとは、まるで反対の 事柄である。 三島由紀夫「女が美しく生きるには」より
29 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/14(火) 23:56:51
童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。 三島由紀夫「川端氏の『抒情歌』について」より 小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。 強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を 自分の裡に受容しなければならなくなる。 戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。 「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の 笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。 三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
30 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/14(火) 23:57:46
エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、 外に現はれて人の目にふれるときエロティックと感じる。 三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性」より 男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、 この言葉には、あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る 何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。 プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。 三島由紀夫「美しい女性はどこにいる」より
31 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/14(火) 23:59:13
アメリカでは、成功者や金持は決して自由ではない。従つて、「最高の自由」は、 わびしさの同義語になる。 三島由紀夫「芸術家部落――グリニッチ・ヴィレッジの午後」より 芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは 観客に対する思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、 実は同じ根から生れたものである。本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、 世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。 三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より
32 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/15(水) 13:49:03
33 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/15(水) 23:46:36
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。 三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より もし現代において、リリシズムが一見いかにもこれらしい形をとつてゐたら、それは明らかに ニセモノだと云つてよい。これが、私の「現代の抒情」の鑑定法である。 細江英公氏の作品が私に強く訴へるのは、氏がこのやうに「現代の抒情」を深くひそませた作品を 作るからである。そこには極度に人工的な制作意識と、やさしい傷つきやすい魂とが、 いつも相争つてゐる。薔薇は元来薔薇の置かれるべきでない場所に置かれて、はじめて 現代における薔薇の王権を回復する。 三島由紀夫「細江英公氏のリリシズム――撮られた立場より」より
34 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/15(水) 23:48:16
われわれの祖先は、大らかな、怪奇そのものすらも晴れやかな、ちつともコセコセしない、 このやうな光彩陸離たる芸術を持ち、それをわが宮廷が伝へて来たといふことは、 日本の誇るべき特色である。だんだん矮小化されてきた日本文化の数百年のあひだに、 それと全くちがつた、のびやかな視点を、日本の宮廷は保つてきたのである。 三島由紀夫「舞楽礼讃」より 日本人の美のかたちは、微妙をきはめ洗煉を尽した果てに、いたづらな奇工におちいらず、 強い単純性に還元されるところに特色があるのは、いふまでもない。永遠とは、 くりかへされる夢が、そのときどきの稔りをもたらしながら、又自然へ還つてゆくことだ。 生命の短かさはかなさに抗して、けばけばしい記念碑を建設することではなく、自然の 生命、たとへば秋の虫のすだきをも、一体の壷、一個の棗(なつめ)のうちにこめることだ。 ギリシャ人は巨大をのぞまぬ民族で、その求める美にはいつも節度があつたが、日本人も この点では同じである。 三島由紀夫「『人間国宝新作展』推薦文」より
35 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/15(水) 23:50:26
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、 人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。 三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より 文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず 作者の夢が破れたところに出発してゐる。 三島由紀夫「秋冬随筆」より 人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な 花の幻がなければならない。 三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より
36 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/15(水) 23:56:26
歴史劇などといふのは、本来言葉の矛盾である。芝居に現はれる現象としての事実は、 はじめから入念に選び出されたものであるのに、歴史では玉石混淆だからである。 三島由紀夫「歴史的題材と演劇」より 一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。 この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。 三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、 たくさんの船虫に蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、 風雅な住ひを飾るのだ。 俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、 観客席のはうへ顔を向けてゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、 しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。 三島由紀夫「俳優といふ素材」より
37 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/15(水) 23:59:01
守る側の人間は、どんなに強力な武器を用意してゐても、いつか倒される運命にあるのだ。 三島由紀夫「若さと体力の勝利――原田・ジョフレ戦」より 守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。 「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと 「若さ」に敗れる日が来るのである。 三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より 巧くなつて不正直になるのは堕落といふもので、巧くなつてもなほ正直といふところが尊いのだ。 三島由紀夫「原田・メデル戦」より
38 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/16(木) 23:30:20
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。 親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものがあるものだが、お節介な人間は、 善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。 人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると考へてよい。 三島由紀夫「私のきらひな人」より 赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、 すばらしい個性になるだらう。しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、 又々十把一からげの顔になることかくの如し。 三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より
39 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/16(木) 23:31:15
あらゆる芸術ジャンルは、近代後期、すなはち浪漫主義のあとでは、お互ひに気まづくなり、 別居し、離婚した。 純粋性とは、結局、宿命を自ら選ぶ決然たる意志のことだ、と定義してもよいやうに思はれる。 三島由紀夫「純粋とは」より 知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。 三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より 新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。 倫理とは彼の生きる方法だ。 金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の 代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければ ならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。 三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
40 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/16(木) 23:33:31
ブラジルは人種的偏見の少ない国だが、それでも黒人の悲願は白人に生れ変ることであり、 かういふ宿命を抱いた人たちは、当然仮装に熱中する。仮装こそ、「何かになりたい」といふ 念願の仮の実現だからである。 三島由紀夫「『黒いオルフェ』を見て」より 別に酒を飲んだりごちそうをたべたりしなくても、気の合つた人間同士の三十分か 一時間の会話の中には、人生の至福がひそむ。 三島由紀夫「社交について――世界を旅し、日本を顧みる」より 他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。 たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。 われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。 他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。 三島由紀夫「内輪のたのしみ」より
41 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/16(木) 23:34:31
どんなに平和な装ひをしてゐても「世界政策」といふことばには、ヤクザの隠語のやうな、 独特の血なまぐささがある。概括的な、概念的な世界認識の裏側には必ず水素爆弾が くすぶつてゐるのである。 三島由紀夫「終末観と文学」より 今日のやうに泰平のつづく世の中では、人間の死の本能の欲求不満はいろいろな形であらはれ、 ある場合には、社会不安のたねにさへなる。こんな問題は、浅薄なヒューマニズムや、 平べつたい人間認識では、とても片付かない。 三島由紀夫「K・A・メニンジャー著 草野栄三良訳『おのれに背くもの』推薦文」より 剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人殺しの風儀も地に落ちたが、 昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけに エチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、思へば不安な時代である。 三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より
42 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/18(土) 00:38:05
現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、 私は決して咎めないが、現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、 その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を発見するやうな人たちのはうを、私は もつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふのである。 なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、 その恐怖の造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスの ちがひでしかない。 三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より 夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、結婚生活のかなり大事な要素である。 性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史のちがひにすぎぬことが多い。 三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より 「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、 ロックンロール的要素もあるのです。 三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
43 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/18(土) 00:39:30
一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、といふのが人間の宿命である。 現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深く ばらばらに分散させられてゐる時代である。 私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。 「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど 自己破壊的な否定、……云ひうべくんば、青空と雲とによる地上の否定」 そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属して ゐるのである。 三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より
44 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/18(土) 00:40:37
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり 新鮮な美学の発展期には、人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に 一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、古くなるにしたがつて古ぼけた 滑稽なものと見られて行きます。 ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは 理知のもつともなごやかな形式なのであります。 三島由紀夫「文章読本」より 作家は作品を書く前に、主題をはつきりとは知つてゐない。「今度の作品の主題は何ですか」 と作家に訊くのは、検事に向かつて「今度の犯罪の証拠は何ですか」と訊くやうなものである。 作中人物はなほ被疑者にとどまるのである。もちろん私はストーリイやプロットについて 言つてゐるのではない。はじめから主題が作家にわかつてゐる小説は、推理小説であつて、 私が推理小説に何ら興味を抱かないのはこの理由による。外見に反して、推理小説は、 刑事訴訟法的方法論からもつとも遠いジャンルの小説であり、要するに拵(こしら)へ物である。 三島由紀夫「法律と文学」より
45 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/18(土) 00:43:13
私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、 女の黒い髪は最も派手な、はなやかな色であるから、かうして黒い服を着た黒い髪の女は、 世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。 三島由紀夫「恋の殺し屋が選んだ服」より 今でも英国では、午後の紅茶に「ミルク、ファースト?ティー、ファースト?」と丁重に きいてまはつてゐる。同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、 味に変りはなささうだが、そんなことはどうでもいいかといへば、そこには非合理な 各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが英国であることは、今も昔も 変りがない。「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは文化といふものを、 あつさり放棄してしまつた精神のやうに思はれる。 三島由紀夫「英国紀行」より
46 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/18(土) 00:49:29
もし天才といふ言葉を、芸術的完成のみを基準にして定義するなら、「決して自己の資質を 見誤らず、それを信じつづけることのできる人」と定義できるであらうが、実は、この定義には 循環論法が含まれてゐる。といふのはそれは、「天才とは自ら天才なりと信じ得る人である」 といふのと同じことになつてしまふからである。コクトオが面白いことを言つてゐる。 「ヴィクトル・ユーゴオは、自分をヴィクトル・ユーゴオと信じた狂人だつた。 三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より 天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の 諸特質や、その後発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。 三島由紀夫「解説(新潮日本文学6 谷崎潤一郎集)」より 天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。 三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より
47 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/18(土) 20:14:38
白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは 作家の苦悩だけだと思ひ込んでゐはしないだらうか。 三島由紀夫「解説(日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花)」より よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。 三島由紀夫「解説(日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁)」より 「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」 「絎台」「針坊主」「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ 引き入れられる。生活の細目のあらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に 比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、雑多な諸現象に統一的な美意識に 基づく「名」を与へることなのだ。 三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より
48 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/18(土) 20:16:07
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。 共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質は ちがはないといふ仮定が、あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の 相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、さらに辛辣なイロニイが ゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への 挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ 無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふ イロニイが。 日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は 弓のやうに日本人たちをたえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。 三島由紀夫「林房雄論」より
49 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/19(日) 00:37:21
「まづ身を起こせ」といふのが、生来オッチョコチョイの私の主義であつて、 「核兵器よりもまづ駆け足」といふことを、隊付をして学びえたと思つてゐる。 人間の脚は、特に国土戦において、バカにならぬ戦場機動速度を持つのである。 三島由紀夫「自衛隊と私」より 空手は武器を禁じられた沖縄島民の民族の悲願が凝つて成つた武道ときいてゐる。 日本の戦後も占領軍による武装解除がそのまま平和憲法に受けつがれ、徒手空拳で戦ひ、 徒手空拳で身を守るほかに、民族の志を維持する道をふさがれてゐる。 空手道が戦後の日本で隆盛になつたのは決して偶然ではない。 三島由紀夫「第十一回空手道大会に寄せる……」より 正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、 汚ない水は人を病気にさせるのに似てゐる。 三島由紀夫「『第十二回全国空手道選手権大会』推薦文」より
50 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/19(日) 00:38:02
刀が武士の魂といはれ、筆が文士の魂といはれるのは、道具を使つた闘争や芸術表現が、 そのまま精神のあらはれになるためには、その道具と生体の一体化が企てられねばならぬ、 といふ要請から生れた言葉であらう。道具が生体の一部になればなるほど、道具はただの 道具ではなくなり、手段はただの手段ではなくなり、魂といふ幹の一本の枝になつて、 そこにまで魂の樹液が浸透して、魂の動くままに動き、いはば道具は透明になるであらう。 そのとき、手段と目的、肉体と精神、行動と思想の、乖離や二元性は完全に払拭されるであらう。 三島由紀夫「空手の秘義」より 「正義は力」だが「力は正義」ではない。その間の消息をもつともよく示してゐるのが、 空手だと思ふ。空手は正義の表現力であり、黙した力である。口舌の徒はつひに正義さへ 表現しえないのである。 三島由紀夫「『第十三回全国空手道選手権大会』推薦文」より
51 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/20(月) 00:06:04
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、 情報を蒐集し、これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の 上つ面を撫でるだけの、究極的にはニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に 墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、 矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代社会に於て、 真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに思はれる。 三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より 電子計算機を使ふ人間が、ともすると忘れてゐることは、電子計算機の命令に従つて 動くのはよいが、人間は疲れるのに、電子計算機は決して疲れない、といふことである。 人間にとつて、疲労は又、生命力の逆の証明なのだ。 三島由紀夫「クールな日本人(桜井・ローズ戦観戦記)」より
52 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/20(月) 00:06:43
真の東洋的なもの、東洋的神秘主義の最後の一線を、近代的立憲国家の形体に於て 留保したものが日本の天皇制である。天皇制は過去の凡ゆる東洋文化の枠であり、 帝王学と人生哲学の最後の結論である。これが失はれるとき東洋文化の現代文化へのかけはし、 その最後の理解の橋も失はれるのである。 三島由紀夫「偶感」より 日本人は何度でも自国の古典に帰り、自分の源泉について知らねばならない。その泉から 何ものかを汲まねばならない。この「源泉の感情」が涸れ果てるときこそ、一国一民族の 文化がつひに死滅するときであらう。 三島由紀夫「文化の危機の時代に時宜を得た全集(『日本古典文学全集』推薦文)」より
53 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/20(月) 00:07:09
文学には最終的な責任といふものがないから、文学者は自殺の真のモラーリッシュな 契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなはち、 武士の自刃しかみとめない。 三島由紀夫「日沼氏と死」より コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。 踏台を蹴飛ばせば万事をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやれば おしまひだ。……作家が書きつづけるのは、生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に 足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を生かしてゐるのだが、 これはもともと自殺用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで 彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。 踏台が果してゐるのはいかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさない といふことは、半ばは彼の自由意志にかかはることであるが、自殺の目的に照らせば、 明らかに彼の意志に反したことである。 三島由紀夫「武田泰淳氏――僧侶であること」より
54 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/20(月) 00:07:48
芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして 行ひ難いことだ。 三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より 「ぜいたくを言ふもんぢやない」 などと芸術家に向つて言つてはならない。ぜいたくと 無い物ねだりは芸術家の特性であつて、それだけが芸術(革命)を生むと信じられてゐる。 三島由紀夫「不満と自己満足――『もつとよこせ』運動もわが国の繁栄に一役」より 文人の倖は、凡百の批評家の讃辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を 死後に持つことである。しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。 三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
55 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/20(月) 00:25:36
人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙のどこかにすでに完成されてゐるもの―― すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎない。 平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より 日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して 意識することなく神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところに はげしく煌めいてゐること、さうして真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、 かういふことだけを述べておけばよい。 平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より
56 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/21(火) 00:15:20
この地上で自分の意欲を実現する方式に二つはないのではないか? 芸術も政治も、 その方式に於ては一つなのではないか? だからこそ、芸術と政治はあんなにも仲が 悪いのではないか? ラヂウムを扱ふ学者が、多かれ少なかれ、ラヂウムに犯されるやうに、身自ら人間で ありながら、人生を扱ふ芸術家は、多かれ少なかれ、その報いとして、人生に犯される。 …人間の心とは、本来人間自身の扱ふべからざるものである。従つてその扱ひには常に 危険が伴ひ、その結果、彼自身の心が、自分の扱ふ人間の心によつて犯される。犯された末には、 生きながら亡霊になるのである。そして、医療や有効な目的のために扱はれるラヂウムが、 それを扱ふ人間には有毒に働くやうに、それ自体美しい人生や人間の心も、それを扱ふ人間には、 いつのまにか怖ろしい毒になつてゐる。多少ともかういふ毒素に犯されてゐない人間は、 芸術家と呼ぶに値ひしない。 三島由紀夫「楽屋で書かれた演劇論」より
57 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/21(火) 00:17:12
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつて ゐても、醜聞といふものは、いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージと よく符合するやうにできてゐる。ましてその醜聞が、大して致命的なものではなく、 人々の好奇心をそそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには尚更である。 かくて醜聞はそのまま神話に変身する。 微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは 社会生活では当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が 個人の自由を守つてきたのである。しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。 三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
58 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/21(火) 00:18:06
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つて おけば腐つてしまふ。伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の 歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方を よくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの間には決定的な差があるが、 木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次のオリジナルに なるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。 かくて伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の 秋は今年の秋とおなじである。 三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
59 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/21(火) 00:46:38
彼(三島)いいね なかなかいいこと言うね
60 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/21(火) 20:54:07
どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。 …なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は 支那に似てゐる。 「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬しているんです」 私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、 他ならぬギリシアの子供にかう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を 尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に残つてをり、しかもわが日本が、 (古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの競技会に 参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、 いかに世界をおほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。 事実、われわれの精神の仕事も、もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るか とかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。 三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より
61 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/21(火) 20:55:31
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。 フランスのアメリカぎらひは、自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。 ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は 疑り深くて、新聞に書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。 しかし或る非常の事態にいたると、知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、 ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは自分の生活の場に立つて、 蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうな あの民衆の本能的不信は、古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか 歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と考へられたのには、理由がある。 三島由紀夫「遠視眼の旅人」より
62 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/09/21(火) 23:55:59
三島由紀夫の小説なんて読めたもんじゃない。 翻訳は一部外人に受けてはいるが。 崇拝している人はたぶんバカなんだろう。 お勉強が足りなさそうだ。
63 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 00:29:08
>>62 三島の小説は世界的には一流とは言えないでしょうが、美しい日本語や描写に酔えるし、それなりに面白いですよ。
マイナーな短編とかにも面白いのが、結構ありますからね。
たいして読んでないあなたにバカにされようが、そんなこと別に構いませんからね。
どうせ変な偏見で、頭から決めつけてるのがわかるし。
64 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 00:34:14
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に 屈服するとは限らぬと同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。 われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。 民族の深層意識に深くしみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を 数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、 重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに多すぎる血潮や死の時代には、 人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。 今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を 与へがちになるのは、当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで 解決する問題ではない。 三島由紀夫「残酷美について」より
65 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 00:35:42
歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、 血の比喩として使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが 明白な肉感的世界の象徴であり、なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。 ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに観念を交換し、互みに呼び合ふ ものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、 やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の 復活がふんだんに見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続を とつてしか現はれない時代に生きてゐる。 三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より 性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。 三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記――澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より
66 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/09/22(水) 00:36:10
>>63 読書量ないんだろうなあなたは。
ペンキ絵みたいな描写とかくだらないと思うな。辞書から無理やり担ぎ出した言葉の修辞とかもくだらない。
空疎な比喩も空回り(寺田透の有名な三島論読んでみなさい。常識なので)。
そもそも読書量が少ない人の感想なんてバカバカしくて聞いてられないんだよな。
67 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 00:45:01
読書量が決め手ではないね。先天的な文学的感性の有無だろう。 それがあれば三島の文体の空疎さにたちどころに気づくはずだ。
68 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 00:58:46
はいはい、わかったわかった。紋切り型の空疎な三島貶しは他所でどうそ。
69 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 00:59:56
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、 鋭ければ鋭いほど、肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的な ものである。精神の羞恥心が肉を身にまとはせる。それこそ完全な美しい芸術の定義である。 羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。 ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。 三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より
70 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 01:00:58
生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、幸福感を 感じるときには、もう衰退の中にゐるのだ。 春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして 青春は思ひ出の中でのみ美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、 思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春がこんなに人をいらいらさせるのは、 この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。あの春先の まつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるやうに、 顔をそむけずにはゐられない。 三島由紀夫「春先の突風」より
名言至言
72 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 01:17:33
まあ、書かれなくとも一向に構わない、どうでもいい文章だ。
73 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/09/22(水) 01:51:03
>>68 こっちのセリフだぜ無教養w
あっちゃこっちゃのスレに引用貼り付けるなバーカ
ていうかどうでもいいなバカバカしい。
さて寝るか
無駄時間費やしちまったな
サラバダゼ
>>66 横からだけどどのくらい読めばいいの?
いや三島はあまり評価してないけど
>>66 辞書から無理矢理もなにも、三島は少年時代から辞書を引くんじゃなくて読んでいたんだよ
語彙が異常に豊富なのはそういう習慣があってのこと
自分になじみのない言葉がたくさん使われてるからって、否定する根拠にはならないよ
三島の空疎さはよく言われることだけど、詩を書く少年などですでにそこに自覚的であることは表明されてる
当人がよくわかっててやってることを指摘しても、たいした批判にはなりえないだろう
77 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 20:27:06
青春といふものは明るいと思へば暗く、暗いと思へば明るく、自分がその渦中に在るあひだは 五里霧中でありながら、時経てかへりみると、村の教会の尖塔のやうにくつきりと日を受けて 輝やいてゐる。意味があると思へばあり、ないと思へばなく、生の激湍(げきたん)と 死の深淵とにふたつながら接し、野心と絶望を併せ蔵してゐる。ティボーデが、小説に 青年を書いて成功したものの少ないことを指摘してゐるのは、青春のかういふ特質に よるのであらう。いはば深海魚が大気の中に引揚げられると変形されてしまふやうに、 青春の姿は、さういふ変形された形でしかとらへられぬものかもしれない。しかし青春も亦、 病気のやうに、一人一人がその中を生きるもので、いづれは治る病気ではあるけれど、 療法をあやまると、とりかへしのつかないことになる。 三島由紀夫「あとがき『青春をどう生きるか』」より
78 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 20:28:51
飛行機が美しく、自動車が美しいやうに、人体は美しい。女が美しければ、男も美しい。 しかしその美しさの性質がちがふのは、ひとへに機能がちがふからである。(中略) 機能に反したものが美しからう筈もなく、そこに残される手段は装飾美だけであるが、 文明社会では、男でも女でも、この機能美と装飾美の価値が巓倒してゐる。男の裸が グロテスクなどといふ石原慎太郎の意見は、いかにも文明に毒された低級な俗見である。 三島由紀夫「機能と美」より エロティシズムが本来、上はもつとも神聖なもの、下はもつとも卑賎なものまで、 自由につながつた生命の本質であることは、「古事記」を読めばよくわかることだが、 後世の儒教道徳が、その神聖なエロティシズムを忘れさせて、ただ卑賎なエロティシズムだけを、 日本人の心に与へつづけて来たのであつた。 三島由紀夫「バレエ『憂国』について」より
79 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 20:29:21
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神への いたましい堕落と思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては 「基督のまねび」それは愛においても肉体のまねびであつた。近代以後さらにその精神の 純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。 三島由紀夫「精神の不純」より われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。 古代には運命が、中世には信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。 ところが今では、政治以前には何ものも存在せず、政治は自然力の代弁者であり、 したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な患者のやうに、 しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。 三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より
80 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 20:47:03
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の 生きてゐる時代を「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。 あらゆる改革者には深い絶望がつきまとふ。しかし、改革者は絶望を言はないのである。 絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の 根絶に向けられてゐるからである。 「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に 生きようとする欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられた ものではなく、偶発的なものである。なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。 しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く必然的に生きさせるのである。 三島由紀夫「美しき時代」より
81 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 20:48:17
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は 選択後の問題にすぎません。道徳とはいつの場合も行為なんです。 自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついて くるだけのことです。 三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より すぐれた芸術作品はすべて自然の一部をなし、新らしく創られた自然に他ならない。 地球上の人類は、全く未知の人同志が同じ瞬間に必ず息を引き取つてゐるといふ当然すぎるほど 当然な現象を、見て見ぬふりをしてをります。 運命的な愛こそは、人々の社会や国家や民族相互の愛の母胎をなし象徴をなすものである。 三島由紀夫「情死について――やゝ矯激な議論――」より
82 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 20:51:06
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。 長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。 三島由紀夫「女の友情について」より 文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。 われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。 思春期に於ては人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時に やることができないのであるが、かういふ人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。 思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは 少年たちを安心させるが、それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な 怠惰な安堵なのである。 思春期を殺してしまつた詩人といふものは考へられない。 三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より
83 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/22(水) 20:51:24
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、 選択である。 文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに) 芸術作品になつてしまふ。 小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと 勝手であるが、技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ 無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。 理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、 愛は断じて理解ではない。 芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。 三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より
84 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/23(木) 01:01:21
空疎であることに自覚的だったから、それを指摘するのは無意味か? 冗談を言ってもらっては困る。三島は類い稀な知性を持っていた。 だが、残念ながら川端や谷崎のような傑作小説を書ける感性を 持っていなかった。まがい物であることを承知の上で、彼はあくまで 小説を書きたかったんだ。評論家でなく、芸術家でありたかったのだ。
>>84 川端や谷崎のような真性の陰湿な変態や異常者じゃなく、本質的には真面目な道徳的な面の方が強い人だったから、
今一つ悪魔的なものに欠けていたのでしょうね。それが不満な人達もいるんでしょう。
いろいろ偽悪的に記述や作品を書いていても、バランス感覚の優れた真面目な人柄が感じられます。
やはり小説家より、明るい行動人に向いていた人なんだと思います。
86 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/23(木) 10:07:13
刑事が被疑者を扱ふやうに、当初から冷たい猜疑の目で作家を扱ふ作家論が、いつも犀利な批評を成就するとは 限らない。義務的に読まされる場合は別として、私は虫の好かぬ作家のものは読まぬし、虫の好く作家のものは読む。 すでに虫が好いてゐるのであるから、作品のはうも温かい胸をひらいてくれる。そこへ一旦飛び込んで、 作家の案内に委せて、無私の態度で作中を散歩したあとでなければ、そもそも文学批評といふものは成立たぬ、 と私は信ずるものだ。ましてイデオロギー批評などは論外である。非政治主義を装つた、手のこんだ 政治主義的批評は数多いのである。 これが私の基本的態度であるから、はじめから気負ひ立つた否定などは、一度も企てたことがなかつた。 否定が逸するところのものを肯定が拾ふことがある。もしその拾つたものに批評の意味が発見されれば、 本書の目的は達せられたことにならう。 三島由紀夫「『作家論』あとがき」より
87 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/23(木) 10:14:47
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。 男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。 個性を超克するところにのみ生れる本当の美の領域では、虚栄心はほとんど用をなさない。 そこではただ献身だけが必要で、この美徳は芸術家と母性との共通点だ。 三島由紀夫「虚栄について」より 作家は末期の瞬間に自己自身になりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。 安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は 遠まはりを余儀なくされる。それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。――従つて 純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。さうでなければ、その純粋さは 贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。 三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より
88 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/23(木) 10:15:18
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪と なるのである。 犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが 見られ、犯人は人間の登場すべからざる「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて 罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて健康なものがある。 三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは ナイーヴでなければ意味をなさない。 日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが 完全に払拭されないと芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふが よいのである。演劇とはスキャンダルだ。 三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より
89 :
やれやれ、僕は名を失った :2010/09/23(木) 10:15:54
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。 歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、 その醜さには悪魔的な蠱惑がなければならない。 三島由紀夫「中村芝翫論」より 歌舞伎の近代化といふはたやすい。しかし浅墓な古典の近代的解釈にだまされるやうなお客は 却つて近代人ですらないのだ。そんなのはもう古い。イヤサ、古いわえ。 美は犠牲の上に成立ち、犠牲を踏まへた生活の必死の肯定によつて維持され育まれる。 類型的であることは、ある場合、個性的であることよりも強烈である。 三島由紀夫「歌舞伎評」より
91 :
吾輩は名無しである :2010/09/25(土) 11:05:23
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが 抱きうる決心である。 三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より 「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえない。 大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の 「子供らしくない部分」は決して大人には真似られない部分である。 三島由紀夫「師弟」より 大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより 数倍わるくて汚ならしい。 三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より
92 :
吾輩は名無しである :2010/09/25(土) 11:05:48
「商業」それも大規模な商業には、人間の集団とその生活がもたらす深い暮色の香りが たゞよつてゐるやうな気がします。人間が大勢あつまると暮色がたゞよふのです。 インダストリーといふ雰囲気にはどこかメランコリックなものがあるね。 詩情をよびおこすものは消費面より生産面のはうが多いのではないか。 僕はビルディングの窓々にともる灯火よりも、工場街の灯火のはうに、深い郷愁を そそるものがあるのを感じます。…昼のサイレンよりも、工場の作業開始のサイレンのはうが、 何故かしら僕のあこがれる世界に近かつたのです。そこでは又しても暗いどよめきの彼方に、 汚れた河口や、並立つ煙突や、曇つた空や、それらの象徴する漠たる人工の苦悩が 聳(そび)え立つてくるのでした。 三島由紀夫「インダストリー――柏原君への手紙」より
93 :
吾輩は名無しである :2010/09/25(土) 11:06:11
偽悪者たることは易しく、反抗者たり否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる 外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに万全を尽くすことは、 人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が 決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。 人間は自由を与へられれば与へられるほど幸福になるとは限らない。 三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より 理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、 意地悪はヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、 やはり清潔な秩序の精神が、まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活の シンボルであつてほしいと思ひます。 三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より
94 :
吾輩は名無しである :2010/09/25(土) 11:06:35
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。 三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より 理想主義者はきまつてはにかみやだ。 三島由紀夫「武田泰淳の近作」より 小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。 三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。 三島由紀夫「作家の日記」より 私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。 三島由紀夫「伏字」より 小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、 それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。 三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より
95 :
吾輩は名無しである :2010/09/25(土) 11:08:22
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに 忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。 三島由紀夫「『元帥』について」より 伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、 もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。 三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より 物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと 確実な生の原型になるのである。 三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より 趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。 私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。 三島由紀夫「趣味的の酒」より 衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。 三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より
96 :
吾輩は名無しである :2010/09/26(日) 21:15:54
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも 一人だといふ前提は、宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。 ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提をもたないのである。誕生と死の間に はさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。 三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より 君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは 野合といふものである。われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて 似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。 われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。 三島由紀夫「新古典派」より
97 :
吾輩は名無しである :2010/09/26(日) 21:16:33
左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは 世間一般の言葉に飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。 ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と 切り離せぬ関係を持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもない ニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。 暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で 売られてゐる雑誌に、縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかに いたるところにサーディストが充満し、そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに 興じたりしてゐるかがわかるだらう。 三島由紀夫「新ファッシズム論」より
98 :
吾輩は名無しである :2010/09/26(日) 21:16:53
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、 透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。 実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、 土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の 何たるかを知つてゐたからである。 道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで 惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の 道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。 そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。 三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
99 :
吾輩は名無しである :2010/09/26(日) 21:17:09
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。 人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、 男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを 女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、 ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。 これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を 理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、 道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと 私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。 三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
100 :
吾輩は名無しである :2010/09/26(日) 21:17:26
(「危険な関係」の)ヴァルモンは、女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、 女の心をとろかす甘言を総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く 捨ててかへりみない。 …女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに 目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。 人間の文化はこの悲しみ(omne animal post coitum triste《なべての動物は性交のあとに 悲し》)、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて 芸術に限らず、文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源は そこにあるので、余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。 三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
101 :
吾輩は名無しである :2010/09/26(日) 21:18:50
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。 この孤独が生産的な文化の母胎であつた。したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を 味はふことができぬのである。 私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが 理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。 三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
103 :
吾輩は名無しである :2010/09/27(月) 19:56:15
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。 本当の青年だつたら、矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。 青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。 芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、それよりもさらに、幼年期であらう。 肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれない ものだと考へる私は、青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く 評価しないのである。肉体が衰へなくては、本当の青年は生れて来ないのだ。私はもつぱら 「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪はここから生じる。 三島由紀夫「空白の役割」より
104 :
吾輩は名無しである :2010/09/27(月) 19:56:55
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、 老年の智恵に青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の 置かれた状況であつて、青年の役割はそこにしかない。それに誠実に直面して、そこから 何ものかを掘り出して来ること以外にはない。 青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかない。 三島由紀夫「空白の役割」 若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄や お茶の稽古事のやうな稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、 それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。 そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。 三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より
105 :
吾輩は名無しである :2010/09/27(月) 19:58:06
文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬ ヨタ話を書きちらし、一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的 社会観を養つて、日本再建をマイナスすることばかり狂奔してゐる。 若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語が あるものか)だの、「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしい お題目は、私にいはせれば悉く文士の不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。 三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より 中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、 わざとらしくなりがちだ。 三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より
106 :
吾輩は名無しである :2010/09/27(月) 19:58:43
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。 良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、 人の心を苛むものがどこかにあるのだ。 三島由紀夫「道徳と孤独」より 文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態を とるにいたらしめる、さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、 ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。 それは野獣をも生むのである。 三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。 三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より
107 :
吾輩は名無しである :2010/09/27(月) 19:59:19
私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を 大きらひだといふ奴は、よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、 だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。 六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。 三島由紀夫「私の顔」 恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。 三島由紀夫「『恥』」より 映画には青少年に与へる悪影響も数々あらうが、映画は映画なりのカタルシスの作用を 持つてゐる。それが無害なものであるためには、できるだけ空想的であることがのぞましく、 大人の中にもあり子供の中にもある冒険慾が、何の遠慮もなく充たされるやうな荒唐無稽な 環境がなければならない。 私のいちばん嫌ひな映画といへば、それはいふまでもなく、あのホーム・ドラマといふ代物である。 三島由紀夫「荒唐無稽」より
108 :
吾輩は名無しである :2010/09/29(水) 00:09:12
われわれが、お互ひにどんなに共感し共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側に あり、われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに没してしまつて、あたかも 存在しないかのやうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と 主張してゐる不公平なものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。 だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、 目に見えるままの素面を信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の 神秘は、そこにしかないからだ。 三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より 本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。 私は到底お洒落の資格はない。せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも 着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。靴下のことまで考へるのは面倒くさい。しかし もし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、もう一歩進んで、自分の頭の 中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。 三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より
109 :
吾輩は名無しである :2010/09/29(水) 00:13:50
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的な もののどちらを欠いても理想的な芸術ではない。 芸術の根本にあるものは、人を普通の市民生活における健全な思考から目覚めさせて、 ギョッとさせるといふことにかかつてゐる。 ちやうどギリシャのアドニスの祭のやうに、あらゆる穫入れの儀式がアドニスの死から 生れてくるやうに、芸術といふものは一度死を通つたよみがへりの形でしか生命を 把握することができないのではないかといふ感じがする。さういふ点では文学も古代の 秘儀のやうなものである。収穫の祝には必ず死と破滅のにほひがする。しかし死と破滅も そのままでは置かれず、必ず春のよみがへりを予感してゐる。 三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より
110 :
吾輩は名無しである :2010/09/29(水) 00:14:22
立派な芸術は積木に似た構造を持ち、積木を積みあげていくやうなバランスをもつて 組立てられてゐるけれども、それを作るときの作者の気持は、最後のひとつの木片を 積み重ねるとたんにその積木細工は壊れてしまふ、さういふところまで組立てていかなければ 満足しない。積木が完全なバランスを保つところで積木をやめるやうな作者は、私は 芸術家ぢやないと思はれる。 最後の一片を加へることによつてみすみす積木が崩れることがわかつてゐながら、最後の 木片をつけ加へる。そして積木はガラガラと崩れてしまふのであるが、さういふふうな 積木細工が芸術の建築術だと私は思ふ。 三島由紀夫「わが魅せられたるも」より
111 :
吾輩は名無しである :2010/09/29(水) 00:14:55
この世界には美しくないものは一つもないのである。何らかの見地が、偏見ですら、 美を作り、その美が多くの眷族(けんぞく)を生み、類縁関係を形づくる。 幻想が素朴なリアリズムの足枷をはめられたままで思ふままにのさばると、かくも美に 背致したものが生れる。 三島由紀夫「美に逆らふもの」より 男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、 色情はつねに部分にかかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも 「全体」を表現してゐるものは、色情を浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に 近づけるのである。 動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な 環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば 強ひられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、 彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。 三島由紀夫「篠山紀信論」より
112 :
吾輩は名無しである :2010/09/30(木) 23:33:24
本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではないことは、本当の意味で西洋的な 作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の西欧思潮の 大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか 見えないかといふ色合の差にすぎない。 作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへある。 芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に敏感であり、又これを裏目から支える 風土の問題に敏感である。 われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。 西洋イコール批評と云つても差支へない。 三島由紀夫「川端康成の東洋と西洋」より 小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。 三島由紀夫「文芸批評のあり方――志賀直哉氏の一文への反響」より
113 :
吾輩は名無しである :2010/09/30(木) 23:33:47
日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは 後退的であると思ひ込んでゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。 又、進歩主義者の民族主義が、目前の政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を 与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この民族主義は東南アジアでは 怖るべき力になる。 資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、 必ず政策の成功があり、政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。 三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後退国の諸問題」より 今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。 どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。 三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より
114 :
吾輩は名無しである :2010/09/30(木) 23:34:14
風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。 三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より 母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。 三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より 現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり 家にだつてラジオの一台は必要だといふことはありうる。 三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より 日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮 できないものであらうか。ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。 三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より 大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、 喜劇の部類に入らぬ。 三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より 怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、 早く印象が薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。 三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より
115 :
吾輩は名無しである :2010/09/30(木) 23:34:41
作家にとつての文体は、作家のザインを現はすものではなく、常にゾルレンを現はすものだ。 一つの作品において、作家が採用してゐる文体が、ただ彼のザインの表示であるならば、 それは彼の感性と肉体を表現するだけであつて、いかに個性的に見えようともそれは 文体とはいへない。 三島由紀夫「自己改造の試み――重い文体と鴎外への傾倒」より はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。 三島由紀夫「文字通り“欣快”」より 画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら 外国の一流の作家の模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作が ズラリと並んでゐてほしい。 運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、 少なくとも初歩的な段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものに ならないのである。 三島由紀夫「学習院大学の文学」より
116 :
吾輩は名無しである :2010/09/30(木) 23:35:00
芸術とは物言はぬものをして物言はしめる腹話術に他ならぬ。この意味でまた、芸術とは 比喩であるのである。物言はんとして物言ひうるものは物言はしておけばよい。 作品を読むことによつてその内容が読者の内的経験に加はるやうに、一人の女の肉体を 知ることはまた一瞬の裡にその女の生涯を夢みその女の運命を生きることでもある。 三島由紀夫「川端康成論の一方法――『作品』」より 神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。 それを越えうるものは信仰だけである。 三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より 芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、 その生活までも芸術に引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。 三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より 人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。 三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より
117 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 00:12:24
歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。 そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。 三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに 詩と死は同じ仮名である。 三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より 恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも 恋は青春の感情と考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。 三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の 心理作家よりも、北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら 似せようと思ふものには、なかなか似ないものである。 三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より
118 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 00:12:41
人を脅かして、人のおどろく顔を見るといふたのしみは、たのしみの極致を行くものである。 小説家は厳密に言ふと、認識者ではなく表現者であり、表現を以て認識を代行する者である。 認識にとつて歓喜ほど始末に負へぬ敵はない。 人生が一人宛たつた一つしかないといふことは、全く不合理な、意味のない事実である。 行為とは、宿命と自由意志との間に生れる鬼子であつて、人は本当のところ、自分の行為が、 宿命のそそのかしによるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない。 人生では知らないことだけが役に立つので、知つてしまつたことは役にも立たない。 三島由紀夫「裸体と衣装」より
119 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 00:12:58
批評する側の知的満足には、創造といふまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑が、 いつまでもつきまとふことは避けられない。この世には理想主義的知性などといふものは ないのだ。あらゆる理想主義には土方的なものがあり、あらゆる仕事は理想主義の影を伴ふ。 そして批評的知性には、本来土方の法被(はつぴ)は似つかはしくないものであるが、 批評の仕事がひとたびこの法被を身にまとふと、営々孜々として破壊作業に従事するか、 それとも対象から遠く隔たつて天空高く楼を建てるかしてしまふのである。 言葉の本質がディオニュソス的なら、文章の本質はアポロン的、といふ具合に、言葉は 私にとつてはひどく肉体的な、血や精液に充ちたものだ。 三島由紀夫「裸体と衣装」より
120 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 00:13:16
詩は精神が裸で歩くことのできる唯一の領域で、その裸形は、人が精神の名で想像するものと あまりに似てゐないから、われわれはともするとそれを官能と見誤る。抽象概念は精神の 衣装にすぎないが、同時に精神の公明正大な伝達手段でもあるから、それに馴らされた われわれは、衣装と本体とを同一視するのである。 トチリとか失敗とかは正に神秘的なもので、人間の努力の及ぶところではない。 外人がわれわれの国の踊りなり芝居なり美術品なりのイカモノに感心しようとしてゐるとき、 「あれはニセモノだよ」と冷水を浴びせてやるくらゐ愉快なことはない。 三島由紀夫「裸体と衣装」より
121 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 00:13:31
子供たちの目はまだ見ぬ世界への夢に輝いてゐる。この子供たちこそ世界を所有してゐるので、 世界旅行は世界を喪失することだ。尤も、生きるといふことがそもそも人生をなしくづしに 喪失してゆくことなのであるから、人間の行為と所有とは永遠に対立してゐる。 君候がいつかは人前にさらさなければならない唯一の裸の顔が、いつも決まつて恐怖の顔で あるといふことは、何といふ不幸であらう。 ニヒリズムといふ精神状況は、本質的にエモーショナルなものを含んでゐる。 三島由紀夫「裸体と衣装」より よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、 「薇」といふ字はその葉つぱみたいに見えるではないか。 三島由紀夫「薔薇と海賊について」より
122 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 17:02:37
清洌な抒情といふやうなものは、人間精神のうちで、何か不快なグロテスクな怖ろしい 負ひ目として現はれるのでなければ、本当の抒情でもなく、人の心も搏たないといふ考へが 私の心を離れない。白面の、肺病の、夭折抒情詩人といふものには、私は頭から信用が 置けないのである。先生のやうに永い、暗い、怖ろしい生存の恐怖に耐へた顔、そのために 苔が生え、失礼なたとへだが化物のやうになつた顔の、抒情的な悲しみといふものを私は信じる。 古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。 かれらは人間生活をよりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのでは なかつた。死に関する知識、暗黒の血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来 地上の白日の下における人間生活をおびやかすものであるから、一定の智者がそれを 統括して、管理してゐなければならなかつた。 三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」より
123 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 17:03:20
(神輿の)リズムある懸声と力の行使と、どちらが意識の近くにゐるかと云へば、 ふしぎなことに、それはむしろ後者のはうである。懸声をあげるわれわれは、力を 行使してゐるわれわれより一そう無意識的であり、一そう盲目である。神輿の逆説は そこにひそんでゐる。担ぎ手たちの声や動きやあらゆる身体的表現のうち、秩序に 近いものほど意識からは遠いのである。 神輿の担ぎ手たちの陶酔はそこにはじまる。彼らは一人一人、変幻する力の行使と懸声の リズムとの間の違和感を感じてゐる。しかしこの違和感が克服され、結合されなければ、 生命は出現しないのである。そして結合は必ず到来する。われわれは生命の中に溺れる。 懸声はわれわれの力の自由を保証し、力の行使はたえずわれわれの陶酔を保証するのだ。 肩の重みこそ、われわれの今味はつてゐるものが陶酔だと、不断に教へてくれるのであるから。 三島由紀夫「陶酔について」より
124 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 17:20:09
これだけ大量コピペは著作権違反では?
126 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:09:05
世の中には完全に誤解されてゐながら、絶対に誤解されてゐないといふふうに世間に 思はれてゐる人もたくさんゐる。 人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかば シャイネン(ふりをする)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。 ザイン(存在)だけのものになつたら、シャイネンがほんたうに要らない人間になる。 それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。どんなに誠実さうな 人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく 見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の人間ぢやないのだから。 芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。 芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て 歩いてゐるといふのだらうが、そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。 三島由紀夫「作家と結婚」より
127 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:09:37
花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の 着物がはやりだすと戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。…かうした慣習や迷信は、 女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に 時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、 洋服の形の変遷も馬鹿にはできない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いて ゐるかもしれないのである。 三島由紀夫「私の見た日本の小社会」より 知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し 肉化する力を失ふのである。 三島由紀夫「ボクシングと小説」より 知己は意外なところに居るものであります。 三島由紀夫「私の商売道具」より 退屈な人間は狂人に似てゐる。 三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より
128 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:09:59
若い人の清純な心中が、忽ち伝説として流布され、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」の 証左にされるのは、少なくともこのやうな架空の幻影のために彼らが身命を賭したといふ 誠実さの証拠にはなる。といふのは、「恋愛の永遠性」や「精神の勝利」なるものは、 生きてゐようが、自殺してみようが、心中してみようが、青春といふ肉体的状態にとつては 不可能な文字なのであつて、青春のあらゆる特質と矛盾する性質のものであるから、 それゆゑに、さういふものは美しいのである。 三島由紀夫「心中論」より 女体を崇拝し、女の我儘を崇拝し、その反知性的な要素のすべてを崇拝することは、実は 微妙に侮蔑と結びついてゐる。(谷崎)氏の文学ほど、婦人解放の思想から遠いものは ないのである。氏はもちろん婦人解放を否定する者ではない。しかし氏にとつての関心は、 婦人解放の結果、発達し、いきいきとした美をそなへるにいたつた女体だけだ。エロスの 言葉では、おそらく崇拝と侮蔑は同義語なのであらう。 三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より
129 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:10:22
世間とは何だらう。もつとも強大な敵であると共に、いや、それなればこそ、最終的には、 どうしても味方につけなければならないもの。さういふものと相渉るには、政治学だけでは 十分ではない。何か「世間」に負けない、つひには「世間」がこちらを嫉視せずには ゐられないやうな、内的な価値と力が要る。魅惑(シヤルム)こそ世間に対する最後の 武器である。(中略) 美しい病気を(いくら美しくても、病気である限り、もともと人に忌み避けられるものを) 世間全般に伝播伝染させ、つひには健康な人間の自信をも喪失させ、病気になりたいと 願はせるまでもつてゆくこと。すなはち、自分一個の病気を時代病にまでしてしまふこと。 人は、虚偽を以てまごころを購ふことには十中八九失敗するが、まごころを以て虚偽を 購ふことには時あつて成功する。 三島由紀夫「序(丸山明宏著『紫の履歴書』)」より
130 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:10:41
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、 根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。 日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を きかなければ、知識人の資格はない。 知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。 命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。 三島由紀夫「新知識人論」より
131 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:14:47
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が 何かを問ひつめてゐればよいのである。 …権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として 動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。 私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。 三島由紀夫「新知識人論」より ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、 これを逆に申しますと「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。 他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に 若々しくさせるものはありません。 三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より
132 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:17:47
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。 三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より プルターク英雄伝の昔から、少なくともウイーン会議のころにいたるまで、政治は巨大な 人間の演ずる人間劇と考へられてゐた。人間劇である以上、憎悪や嫉妬や友情などの 人間的感情が、冷徹な利害の打算と相まつて、歴史を動かし、歴史をつくり上げる。 三島由紀夫「憂楽帳 お見舞」より チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。共産主義に対する 反乱といふ言葉は、何だか妙で、ひつかかる。 中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに 潜行して反乱軍に参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は 弱い者に味方しようといふ気概を失つてしまつたやうだ。世界中で一番自分が弱い者だと 思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんでしまつたらしい。 三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より
133 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:18:04
どうも私は、民主政治家の「強い政治力」といふ表現が好きでない。(中略) 強面で通して、実は妥協すべきところでは妥協する、といふのと、表面実にたよりなく、 ナヨナヨしながら、実は抜け目なく通すべき筋はチャンと通す、といふのと、どつちが 民主主義の政治家として本当かと考へると、明らかに後者のやうに思はれる。 三島由紀夫「憂楽帳 強い政治力」より 思想といふものは、古からうが、新らしからうが、所詮は人間の持物で、その思想に ふさはしい器となる人物は、とにかく魅力を持ちつづける。 三島由紀夫「憂楽帳 思想の容器」より
134 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:18:52
一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。 それにしても、或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命に なつてしまふといふのは、薄気味のわるいことである。広島の原爆もまた、かうして 一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の宿命になつた。 こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマを いつも演じてゐる。今まで数千年つづいて来たやうに、(略)…人間のこのドラマが つづくことだけは確実であらう。ただわれわれ一人一人は、宿命をおそれるあまり 自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて歩きだせはよいに決つてゐる。 結婚の美しさなどといふものは、ある程度の幻滅を経なければわかるものではない。 子供は天使ではない。従つて十分悪の意識を持ち得る。そこに教育の根拠があるのだ。 三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)」より
135 :
吾輩は名無しである :2010/10/02(土) 19:19:10
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。無気力も、徹底すれば 徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。近ごろはやりの反小説も、小説の裏返しにすぎぬ。 たとへば情熱、たとへば理想、たとへば知性、……何でもかまはないが、人間によつて 価値づけられたもののかういふ体系を、誰も抜け出すことができない。逆を行けば 裏返しになるだけのことだ。 三島由紀夫「川端康成再説」より 現実といふものは、いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露 かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。 夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり一部であるのだ。 古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものに してゐた。われわれは厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、 感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。 三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より
136 :
吾輩は名無しである :2010/10/04(月) 20:00:04
「『西洋古典学事典』を編んで」という記事を月刊「新潮」10月号で読みました(pp.234〜5)。 見開き2ページの短い文ですが、編者ならではの見識が、よく伺えました。 とくに中程からは痛快至極の傑作な内容。覚えず大笑いしてしまったほどです。 オーラルセックスに関心のある向きには必読のコラムでしょう。 これぞ余人には真似出来ぬウィットとエスプリに富んだ小エッセーですネ。
137 :
吾輩は名無しである :2010/10/04(月) 23:47:28
教育も教育だが日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ読めないで どうするのだ。秋成の雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも読めるはずだし、 カブキ台本にいたつては、問題にもならぬ。それを一流の先生方が、身すぎ世すぎのために、 美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造よりもつと罪が深い。 みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐるからである。 現代語訳などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びて しまふ古典なら、さつさと滅びてしまふがいいのである。ただカナばかりの原本を、 漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを入れるとか、おもしろいたのしい 脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんとやつて もらひたいものである。 三島由紀夫「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より
138 :
吾輩は名無しである :2010/10/04(月) 23:48:55
ユーモアや哄笑は、無力な主人公や、何らなすところなきフーテン的人物のみの かもし出すものではないと信ずる。有為な人物はユーモリストであり、ニヒリストは なほさら哄笑する。 三島由紀夫「発射塔 ヒロイズム」より だれだつて年をとるのだから声変はりもしようし、いつまでもキイキイ声ばかり張り上げても ゐられない。古くなる覚悟は腹の底にいつでも持つてゐなければならない。その時がきたら ジタバタして、若い者に追従を言つたりせず、さつさと古くなつて、堂々とわが道をゆく ことがのぞましい。 しかし「オレはもう古いんだぞ。古くなつたんだぞ」と、吹聴してまはるのもみつともない。 オールドミスが「私、もうおばあさんだから」と言つてまはるのと同じことだ。古くなるには、 やはり黙つて、堂々と、新しさうな顔をしたまま平然と古くなつてゆくべきだらう。 三島由紀夫「発射塔 古くなる覚悟」より 自分に似合はないものを思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。 三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より
139 :
吾輩は名無しである :2010/10/04(月) 23:50:44
サドの文学はヒューマニズムで擁護される性質のものではない。また、芸術的見地から 弁護される性質のものではない。サドはこの世のあらゆる芸術の極北に位し、芸術による 芸術の克服であり、その筆はとつくに文学の領域を踏み越えてしまつてゐた。時代を経て 徐々にその毒素を失ふのが、あらゆる芸術作品の通例だが、サドほど、何百年を経ても その毒素を失はない作家はなからう。それはあらゆる政治形態にとつての敵であり、 サドを容認する政府は、人間性を全的に容認する政府であつて、そんなものは政府の 埒外に在るから、政府は一日も存続しまい。つまりサドは芸術のみならず、政治に対しても、 政治による政治の克服、政治が政治を踏み越えることを要求せずにゐないのだ。 三島由紀夫「受難のサド」より 胃痛のときにはじめて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いて ゐれば、存在を意識されるはずのものではなく、まして食卓の話題なんかになるべき ものではない。政治家がちやんと政治をしてゐれば、カヂ屋はちやんとカヂ屋の仕事に 専念してゐられるのである。 三島由紀夫「一つの政治的意見」より
140 :
吾輩は名無しである :2010/10/04(月) 23:52:09
主知主義の能力の限界は、人間が生の非連続性に耐へ得る能力の限界である。この限界を 究めようとする実験は、主知主義の側から、しばしば、且つ大規模に試みられたが、 ゆきつくところは、個人的な倫理の確立といふところに落ちつかざるをえない。 三島由紀夫「『エロチシズム』――ジョルジュ・バタイユ著 室淳介訳」より 実業人と文士のちがふところは、実業人は現実に徹しなければならないのだが、小説家は この世の現実のほかのもう一つの現実を信じなければならぬといふことにあるのだらう。 そのもう一つの現実をどうやつて作り出すかといふと、その原料になるものは、やはり 少年時代の甘美な「文学へのあこがれ」しかない。その原料自体は、お粗末で無力な ものであるが、それを精錬し、鍛へ、徐々に厚く鞏固に織り成して、はじめはフハフハした 靄にすぎぬものから、鉄も及ばぬ強靭な織物を作り出さねばならない。「人生は夢で 織られてゐる」とシェークスピアも言ふ。 その夢の原料は、やはり少年時代に、 つまりはあの汚ない、埃だらけの文芸部室にあつたと思ふのである。 三島由紀夫「夢の原料」より
141 :
吾輩は名無しである :2010/10/04(月) 23:53:15
作家の思想は哲学者の思想とちがつて、皮膚の下、肉の裡、血液の流れの中に流れなければ ならない。 あるとき野球部に入つてゐる友だちが、肺浸潤の診断をうけて学校を休みだす直前、 かへりの電車の中で、突然私にかうきいた。 「君は sterben(死)する覚悟はあるかい?」 私は目の前が暗くなるやうな気がし、人生がひとつもはじまつてゐないのに、今死ぬのは たまらない、といふ感じが痛切にした。 それから半年ほどのちその友だちは死んだ。(中略) 「君は sterben する覚悟はあるかい?」 といふ死んだ友人の言葉が又ひびいて来る。さうまともにきかれると、覚悟はないと 答へる他はないが、死の観念はやはり私の仕事のもつとも甘美な母である。 三島由紀夫「十八歳と三十四歳の肖像画」より
142 :
吾輩は名無しである :2010/10/05(火) 23:31:08
簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。 三島由紀夫「オウナーの弁――三島由紀夫邸のもめごと」より 私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと 興がわかない。見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に 許容しないところのものが、芸術でありスポーツであるが故に許される、といふのが 私の興味の焦点だ。 三島由紀夫「余暇善用――楽しみとしての精神主義」より 犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。 ぼくら小説家は、いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。 映画俳優は極度にオブジェである。 映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。 三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より 舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ 女の心を永久に惹きつけるものだ。 三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より
143 :
吾輩は名無しである :2010/10/05(火) 23:32:30
作家あるひは詩人は、現代的状況について、それを分析するよりも、一つの象徴的構図の下に 理解することが多い。それは多少夢の体験にも似てゐる。ところで犯罪者もこれに似て、 かれらも作家に似た象徴的構図を心に抱き、あるひはそのオブセッションに悩まされてゐる。 ただ作家とちがふところは、かれらは、ある日突然、自分の中の象徴的構図を、何らの 媒体なしに、現実の裡に実現してしまふのである。自分でもその意味を知ることなしに。 三島由紀夫「魔――現代的状況の象徴的構図」より 決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。 目がいつもよく利きすぎて物事に醒めてゐる人の座興や諧謔といふものは、ふつうでは 厭味なものだ。 三島由紀夫「友情と考証」より 作家にとつて、栄光といふものは、奇妙な疥癬(かいせん)みたいなもので、その痒みは 一種の快感であり、それをかくことは一種の快楽にほかならないが、それは仕方なしに くつついて来たものにすぎない。 三島由紀夫「川端康成氏と文化勲章」より
144 :
吾輩は名無しである :2010/10/05(火) 23:33:45
人間は、自分のこととなれば、自分が実在するかどうかは大問題であつて、もし実在しない といふ結論が出れば大変なことになるが、他人のこととなると、他人の実在如何は大して 気にかけないといふ性質がある。 われわれはめつたに会つたことのない遠い親戚なんかよりも、好きな小説の主人公のはうに はるかに実在感を持つてゐる。 三島由紀夫「映画『潮騒』の想ひ出」より 青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。 三島由紀夫「堀江青年について」より 日本の芸能界では、憎まれたら最後、せつかくもつてゐる能力も発揮できなくなるおそれがある。 三島由紀夫「現代女優論――越路吹雪」より 一度自分の味はつた陶酔を人に伝へようとする努力は、奇妙に生理に逆行する。意気沮喪 するやうな努力である。 三島由紀夫「『花影』と『恋人たちの森』」より
145 :
吾輩は名無しである :2010/10/05(火) 23:35:07
処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。だから、それを 書いたあとの感想は、人生的感想によく似て来るのです。 三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より どんな芸術でも、根本には危機の意識があることは疑ひを容れまい。原始芸術にはこの危機が、 自然に対する畏怖の形でなまなましく現はれてゐたり、あるひはその反対に、自然を 呪伏するための極端な様式化になつて現はれてゐたりする。 三島由紀夫「危機の舞踊」より 青春が誤解の時期であるならば、自分の天性に反した文学的観念にあざむかれるほど、 典型的な青春はあるまい。またその荒廃の過程ほど典型的な荒廃はあるまい。しかも そのあざむかれた自分を、一つの個性として全的に是認すること。……これは佐藤氏より 小さな規模で、今日われわれの周囲にくりかへされてゐる。 三島由紀夫「青春の荒廃――中村光夫『佐藤春夫論』」より 近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか。 三島由紀夫「一S・Fファンのわがままな希望」より
146 :
吾輩は名無しである :2010/10/05(火) 23:36:42
嘘八百の裏側にきらめく真実もある。 三島由紀夫「『黒蜥蜴』について」より 二流のはうが官能的魅力にすぐれてゐる。 三島由紀夫「ギュスターヴ・モロオの『雅歌』――わが愛する女性像」より 人がやつてくれないなら、自分がやらねばならぬ。 三島由紀夫「ジャン・コクトオの遺言劇――映画『オルフェの遺言』」より お客を怒らすことは必要だがナメることは禁物だ、といふのが、すべてのショウ・ビジネス (古典から前衛にいたる)の鉄則だらう。 三島由紀夫「Four Rooms」より 顔と肉体は、俳優の宿命である。いつも思ふことだが、俳優といふものは、宿命を外側に 持つてゐる。一般人もある程度さうだが、文士などの場合は、その程度は殊に薄くて、 彼ははつきり宿命を内側に持つてゐる。これは職業の差などといふよりは、人間の 在り方の差で、宿命を外側に持つ人間と、内側に持つ人間との、両極端の代表的存在が、 俳優と文士といふものだらうと思はれる。 本当の芸の境地は、競争や戦ひの向うにある。 三島由紀夫「若尾文子讃」より
147 :
吾輩は名無しである :2010/10/06(水) 02:21:04
三島氏は新保守と言われていた… おいらからからしたら彼は戦後の堂々たる保守でしょ…
148 :
吾輩は名無しである :2010/10/06(水) 23:51:59
能は、いつも劇の終つたところからはじまる。 能がはじまるとき、そこに存在するのは、地獄を見たことによつて変質した優雅である。 芸術といふものは特にこのやうなものに興味を持つ。芸術家は狐のやうに、この特殊な餌を 嗅ぎ当てて接近する。それは芸術の本質的な悪趣味であり、イロニイなのだ。 現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の 実相は、時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、 病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。 ……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに消えてしまふ。 三島由紀夫「変質した優雅」より
149 :
吾輩は名無しである :2010/10/06(水) 23:53:03
現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、周知の とほりである。 それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、人間の死と腐敗の実相は、 赤い血のりをふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、さらに宗教の代りに 似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の代理の贋物が、対立し激突するどころか、 仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、この贋物の三者のうち、少くとも 二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、文学らしきものが 生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、悩まされることに なつたのである。 三島由紀夫「変質した優雅」より 若い女性の多くは、能楽を、退屈に感じて見たがらない。そして、日本でしか、日本人しか、 真に味はふことのできぬ美的体験を自ら捨ててゐるのだ。 三島由紀夫「能――その心に学ぶ」より
150 :
吾輩は名無しである :2010/10/06(水) 23:54:23
男らしさとは、対女性的観念ではなく、あくまで自律的な観念であつて、ここで 考へられてゐる男とは、何か青空へ向つて直立した孤独な男根のごときものである。 男らしさを企図する人間には、必ずファリック・ナルシシズムがある。 「男らしさ」といふことの価値には、一種の露出症的なものがあり、他人の賞賛が 必要なのである。 真に独創的な英雄といふものは存在しない。 あと何百万年たつても、女が男にかなはないものが二つある。それは筋肉と知性である。 三島由紀夫「私の中の“男らしさ”の告白」より 私の文学の母胎は、偉さうな西欧近代文学なんぞではなくて、もしかすると幼時に耽溺した 童話集なのかもしれない。目下SFに凝つてゐるのも、推理小説などとちがつて、それは 大人の童話だからだ。 三島由紀夫「こども部屋の三島由紀夫――ジャックと豆の木の壁画の下で」より
151 :
吾輩は名無しである :2010/10/06(水) 23:55:53
文学の勉強といふのは、とにかく古典を読むことに尽きるので、自国の古典に親しんだのち、 この世界文学の古典に親しめば、鬼に金棒である。 古典の面白さを一度味はつたら、現代文学なんかをかしくて読みなくなる危険がある。 三島由紀夫「小説家志望の少年に(『世界古典文学全集』推薦文)」 古典文学に親しむ機会の少なかつたことが、大正以後の日本文学にとつて、どれだけ マイナスになつてゐるか。又、大正以後の知識人の思考の浅薄をどれだけ助長したかは、 今日、日ましに明らかになりつつある事実である。 三島由紀夫「時宜を得た大事業(『日本古典文学大系 第二期』推薦文)」より 文学だらうと、何だらうと、簡明が美徳でないやうな世界など、犬に食はれてしまふがいい。 文学が人の心を動かす度合は、享受者の些末な窄い関心事をのりこえて、文学独特の世界へ 引きずりこむだけの力を備へてゐるかどうかによつて測られる。 三島由紀夫「胸のすく林房雄氏の文芸時評」より
152 :
吾輩は名無しである :2010/10/06(水) 23:58:38
旅では、誰も知るやうに、思ひがけない喜びといふものは、思ひがけない蹉跌に比べると、 ほぼ百分の一、千分の一ぐらゐの比率でしか、存在しないものである。 私はいつも人間よりも風景に感動する。小説家としては困つたことかもしれないが、 人間は抽象化される要素を持つてゐるものとして私の目に映り、主としてその問題性によつて 私を惹きつけるのに、風景には何か黙つた肉体のやうなものがあつて、頑固に抽象化を 拒否してゐるやうに思はれる。自然描写は実に退屈で、かなり時代おくれの技法であるが、 私の小説ではいつも重要な部分を占めてゐる。 小説の制作の過程では、細部が、それまで眠つてゐた或る大きなものを目ざめさせ、 それ以後の構成の変更を迫ることが往々にして起る。したがつて、構成を最初に立てることは、 一種の気休めにすぎない。 三島由紀夫「わが創作方法」より
153 :
マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2010/10/07(木) 00:01:46
チワワよ、いい加減にしろ。
154 :
吾輩は名無しである :2010/10/08(金) 00:14:14
人のよい読者は、作家によつて書かれた小説作法といふものを、小説書き初心者のための 親切な入門書と思つて読むだらうが、それは概して、たいへんなまちがひである。 作家は他の現代作家の方法意識の欠如、甘つちよろさ、無知、増上慢、などに対する 限りない軽蔑から、自分の小説作法を書くであらう。 三島由紀夫「爽快な知的腕力――大岡昇平『現代小説作法』」より 自分に関するおしやべりが人を男らしくするといふことは、至難の業である。 三島由紀夫「アメリカ版大私小説―N・メイラー作 山西英一訳『ぼく自身のための広告』」より いささかの誤解も生まないやうな芸術は、はじめから二流品である。 われわれは美の縁(へり)のところで賢明に立ちどまること以外に、美を保ち、それから 受ける快楽を保つ方法を知らないのである。 三島由紀夫「川端康成読本序説」より
155 :
吾輩は名無しである :2010/10/08(金) 00:15:16
大体、時代といふものは、自分のすぐ前の時代には敵意を抱き、もう一つ前の時代には 親しみを抱く傾きがある。 三島由紀夫「明治と官僚」より 日本人は、改革の情熱よりも、復興の情熱に適してゐるところがある。 三島由紀夫「幸せな革命」より 小さくても完全なものには、巨大なものには、求められない逸楽があり、必ずしも 偉大でなくても、小さく澄んだ崇高さがありうる。 三島由紀夫「宝石づくめの小密室」より 日本には妙な悪習慣がある。「何を青二才が」といふ青年蔑視と、もう一つは「若さが 最高無上の価値だ」といふ、そのアンチテーゼとである。私はそのどちらにも与しない。 小沢征爾は何も若いから偉いのではなく、いい音楽家だから偉いのである。 三島由紀夫「小沢征爾の音楽会をきいて」(昭和38年)より
156 :
吾輩は名無しである :2010/10/08(金) 00:16:19
猫は何を見ても猫的見地から見るでせうし、床屋さんは映画を見てもテレビを見ても、 人の頭ばかり気になるさうです。世の中に、絶対公平な、客観的な見地などといふものが あるわけはありません。われわれはみんな色眼鏡をかけてゐます。そのおかげで、 われわれは生きてゐられるともいへるので、興味の選択ははじめから決つてをり、 一つ一つの些事に当つて選択を迫られる苦労もなく、それだけ世界はきれいに整備され、 生きるたのしみがそこに生じます。 しかし人生がそこで終ればめでたしですが、まだ先があります。同じ色眼鏡が、 ほかの人の見えない地獄や深淵をそこに発見させるやうになります。猫は猫にしか見えない 猫の地獄を見出し、床屋さんは床屋さんにしか見えない深淵を見つけ出します。 三島由紀夫「序(久富志子著『食いしんぼうママ』)」より
157 :
吾輩は名無しである :2010/10/08(金) 00:17:18
この世は巨大な火葬場だ。それなら、地獄の火にも涼しい顔をして生きなければならないが、 現代はどうもそればかりではないらしい。地獄の焔が、つかんでも、スルスル逃げて しまふのである。そして頬に当るのは生あたたかい風ばかりである。 幼少のころ病弱で、このごろになつてバカに健康第一になつた私などには、殊に健康の 有難味がわかる一方、生れつき健康な人の知らない、肉体的健康の云ひしれぬ不健全さも わかるのである。 健康といふものの不気味さ、たえず健康に留意するといふことの病的な関心、各種の 運動の裡にひそむ奇怪な官能的魅力、外面と内面とのおそろしい乖離、あらゆる精神と 神経のデカダンスに青空と黄金の麦の色を与へる傲慢、……これらのものは、ヒロポンも 阿片も、マリワーナ煙草も、ハシシュも、睡眠薬も、決して与へない奇怪な症状である。 三島由紀夫「最近の川端さん」より
158 :
吾輩は名無しである :2010/10/08(金) 00:18:27
ボクシングのいい試合を見てゐると、私はくわうくわうたるライトに照らされたリングの 四角の空間に、一つの集約された世界を見る。行動する人間にとつては、世界はいつも こんなふうに単純きはまる四角い空間に他ならない。世界を、こんがらかつた複雑怪奇な 場所のやうに想像してゐる人間は、行動してゐないからだ。そこへ二人の行動家が登場する。 そしてもつとも単純化された、いはば、もつとも具体的で同時にもつとも抽象的な、 疑ひやうのない一つの純粋な戦ひが戦はれる。さういふときのボクサーには、完全な 人間とは本来かういふものではないか、と思はせるだけの輝きがある。 三島由紀夫「ウソのない世界――ひきつける野生の魅力」より 狂言の「釣狐」ではないけれど、狐はある場合は、敢然と罠に飛び込むことで、彼自身が 狐であることを実証する。それは狐の宿命、プロ・ボクサーの宿命のごときものであらう。 三島由紀夫「狐の宿命(関・ラモス戦観戦記)」より
159 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 00:28:36
日劇のストリップ・ショウの特別席は、大てい外人の観光客で占められてゐるが、鬼をも とりひしぐ顔つきの老婆と居並んで、ぽかんと口をあけてストリップを見てゐる老紳士ほど、 哀れな感じのするものはない。ああいふのを見ると、私はいつも、西洋人の夫婦を 支配してゐる或る「性の苛烈さ」を感じてしまふのである。尤も御当人の身にしてみれば、 鬼のごとき老妻に首根つこをつかまへられながらストリップを見るといふ、一種の 醍醐味があるのかもしれない。 三島由紀夫「西洋人の夫婦」より 現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。 人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。 だからカトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも 同様だが、生きてゐる宗教とはそんなものなんですよ。 日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんな あすこにあります。 三島由紀夫「インドの印象」より
160 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 00:30:39
一体、赤紙の召集ぢやあるまいし、芝居の大事なお客さまを「動員」するなどといふのは、 失礼な話だ。 芝居のお客は、窓口で、個々人の判断で、切符を買つてくれる人が、あくまで本体である。 われわれ小説家の著書を、団体で売りさばくといふ話はきいたことがない。部数の大小に かかはらず、われわれの本は、われわれの仕事に興味を持つてくれる人の手へ、直接に 流れてゆくのであつて、さういふ読者の支持によつて、はじめてわれわれの仕事も実を 結ぶのである。 芝居といふものは絵空事で、絵空事のうちに真実を描くのだ。 三島由紀夫「私がハッスルする時――『喜びの琴』上演に感じる責任」より 芝居はとにかく芝居なのであつて、それ以下のものでも、それ以上のものでもない。 芝居を「しばや」と発音するほどの年齢の人にも、楽しんでもらへるのが芝居といふものだ。 三島由紀夫「三島さんと『喜びの琴』」より
161 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 00:31:57
旅は古い名どころや歌枕を抜きにしては考へられない。 旅には、実景そのものの美しさに加へるに、古典の夢や伝統の幻や生活の思ひ出などの、 観念的な準備が要るのであつて、それらの観念のヴェールをとほして見たときに、 はじめて風景は完全になる。 ストリップこそわが古典芸能の源であり、女性美の根本である。 苦行の果てにはかならずすばらしい景色が待つてゐる。 観光地といへば、パチンコ屋とバーと土産物屋が蠅のやうにたかつて来てそこを真黒に してしまふ大都市の周辺は、私に黒人共和国ハイチの不潔な市場を思ひ出させる。 いやに真黒なものばかり売つてゐるな、と思つて近づくと、それがみな食料品に隙間なく たかつた蠅なのだ。しかしバーや土産物屋などの蠅よりも、一等始末のわるいのは、 音を出す拡声器といふ蠅である。 三島由紀夫「熊野路――新日本名所案内」より
162 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 00:33:12
「いやな感じ」といふのは、裏返せば「いい感じ」といふことである。 人間と世界に対する嫌悪の中には必ず陶酔がひそむことは、哲学者の生活体験からだけ 生れるわけではない。行為者も亦、そのやうにして世界と結びつく瞬間があるのだ。 三島由紀夫「いやな、いやな、いい感じ(高見順著『いやな感じ』)」より 異国趣味と夢幻の趣味とは、文学から力を失はせると共に、一種疲れた色香を添へるもので、 世界文学の中にも、二流の作品と目されるものの中に、かういふ逸品の数々があり、 さういふ文学は普遍的な名声を得ることはできないが、一部の人たちの渝(かは)らぬ 愛着をつなぎ、匂ひやかな忘れがたい魅力を心に残す。 学生に人気のある、甘い賑やかな感激家の先生には、却つて貧寒な、現実的な魂しか 備はつてゐないことが多い。 正確な無味乾燥な方法的知識のみが、夢へみちびく捷径(せふけい)である。 三島由紀夫「夢と人生」より
163 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 00:37:58
日本人は何と言つても和服を着た姿が、一等立派で一等美しい。女も男もさうである。 三島由紀夫「『恋の帆影』について」より 現在は死灰に化してゐる。「希望は過去にしかない」のである。 三島由紀夫「あとがき(『三熊野詣』)」より 男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。男性の 女性化とは、男性の自己保全であり、なるたけ安全に生きよう、失敗しないで生きようと することを意味します。 三島由紀夫「『複雑な彼』のこと」より 不感症は、戦後の性知識の過度の普及に対する、皮肉な反撃のやうに思はれる。 不感症は凝つた性的技巧などで癒されるものではなく、何か「自然の発露」といふやうな形で、 人間のもつとも柔軟な心の再発見といふやうな形で、癒されてゐる。 三島由紀夫「真実の教訓――選評」より
164 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 22:20:09
相手を自分より無限に高いものとして憧れる気持は、半ばこちらの独り合点である場合が多い。 それがわかつて幻滅を感じても、自分の中の、高いもの美しいもの、美しいものへ憧れた 気持は残る。 三島由紀夫「愛(エロス)のすがた――愛を語る」より 憧れるとは、対象と自分との同一化を企てることである。従つて、異性に向つて憧れる、 といふのは、言葉の矛盾のやうに思はれる。 三島由紀夫「わが青春の書――ラディゲの『ドルヂェル伯の舞踏会』」より フランス人のドイツ恐怖はむしろ民衆の感性であつて、歴史上からも、フランス人は ドイツに対する愛好心を貴族の趣味として伝へてきた。外交官でもあり、社交界に 精通したジロオドウの中には、このやうな貴族趣味が生き永らへてゐて、彼の親独主義は、 別に現実政治と見合つたものではない。いがみ合ひは民衆のやることであつて、 ドイツだらうが、フランスだらうが、貴族はみんな親戚なのだ。 三島由紀夫「ジークフリート管見――ジロオドウの世界」より
165 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 22:21:41
万物は落ち、あらゆる人間的な企図は人間の手から辷り落ちる。しかし落ちることのこの スピードと快さと自然さに、人間の本質的な存在形態があることに詩人が気づくとき、 詩人はもはや天使の目ではなく、人間の目で人間を見てゐるのである。 三島由紀夫「跋(高橋睦郎著『眠りと犯しと落下と』)」より 時は移り、青春は移る。あるひは、文学は不変で、そこに描かれた青春も不変である。 三島由紀夫「(『われらの文学』推薦文)」より 本当に危険な作品は、感覚的な作品だ。どんな危険思想であつても、論理自体は社会的 タブーを犯さぬのであつて、サドのやうな非感覚的な作家の安全性はこの点にある。 これ(言語による言語からの脱出といふ自己撞着)を突破したのはアルチュール・ ランボオ唯一人だが、われわれが言語を一つの影像として定着するときに、われわれは すでに自ら一つの脱出口を閉鎖したのである。 三島由紀夫「現代文学の三方向」より
166 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 22:23:37
ものごとの表面ほど、多く語るものはない。 不安自体はすこしも病気ではないが、「不安をおそれる」といふ状態は病的である。 三島由紀夫「床の間には富士山を――私がいまおそれてゐるもの」より すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。 三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より 美容整形も、因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す 不具者ばかりを扱つた卑賎な仕事で、それだけならいいが、むかしの支那では、 子供のときから畸形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、首と手足だけ出させて 育てたなどといふ奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど 遠いものではない。 三島由紀夫「『美容整形』この神を怖れぬもの」より
167 :
吾輩は名無しである :2010/10/09(土) 22:25:00
緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の 緊張の連続であつて、豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活で あることは言ふまでもない。 テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人は テレビにしがみついてゐれば、いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と 「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、知識の綜合力は誰の手からも 失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることはますます むづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。 三島由紀夫「秋冬随筆」より
168 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 00:05:41
ひところ歴史小説と現代小説といふささやかな論争が起こり、私は「作家は現代を描くべきものだ」といふ 高見順氏の説におほむね賛同したが、この論争の困難は要するに時点の設定であつて、太平洋戦争を題材に 歴史小説を書くこともできれば、その前の左翼運動弾圧の時代を題材に、高見氏のいはゆる現代小説を書くことも できるわけである。 少なくとも自分の体験し生きてきた時期だけを現代小説の取り扱ひうる時期だと考へると、そんな現代意識は 歴史から除外されてゐるかのやうで「現代」といふ観念そのものが、経験主義と、あの悪名高い私小説理念によつて 毒されることになるであらう。そのとき作家にとつての現代とは、きはめて主観的な日々の体験の累積に ほかならず、もつと厳密にいへば、現在のこの瞬間の、感覚的純粋体験そのものになつてしまふ。 三島由紀夫「現代史としての小説」より
169 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 00:06:20
しかし高見氏はもとより、一般人も「現代」といふときに、そこにはおのづから、特殊の歴史意識を含ませてゐる。 歴史がなほ生成過程にあつて、歴史的創造の余地を残し、未決定の要素を含んでゐる場合に、これをわれわれは 通常「現代」と呼ぶのであつて、昭和初期から今までを現代と呼ぶか、安保闘争から今までを現代と呼ぶかは、 呼ぶ人の史観の相違にほかならない。一つづきの歴史を、どこまでを既済の箱に投げ入れ、どこまでを未済の 箱に残しておくかは、その人の考へ方によることである。といつても、平安朝から今までを一つづきの現代と 考へることは、常識上ありえないから、これも相対的な問題である。 が、私の考へるのに、現代小説か時代小説(あるひは歴史小説)か、といふ問題提起には、もう一つ「現代史」 といふものに関する特殊な思想が働いてゐるやうに思はれる。つまり現代史といふものは本当に未決定なのであるか、 本当にその中に住む人間の歴史的創造の余地があるものなのか、実際にわれわれの自由意志によつて選択される 可能性のあるものなのかといふ問題である。 三島由紀夫「現代史としての小説」より
170 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 00:07:41
ここまで来ると、小説といふジャンルは、現代史を前にして、一体、自由意志の味方なのか、それとも何らかの 決定論的思想の援用なしには成立しないものなのか、そのへんはまだよくわかつてゐないのである。 たとへば、豊臣秀吉なり真田幸村なりを拉し来たつて、彼らの伝記をよく調べ、時代考証も綿密にして、 その上で、つまりがんじがらめの既定の歴史的諸条件を課した上で、彼らに小説家の自由意志を吹き込んでやれば、 ある程度まで巧みに、彼らを「自由意志の傀儡」とすることができる。かういふ場合、(少なくとも表面上は)、 小説なるものは明らかに自由意志の味方であらう。なぜなら、小説家は何らかの決定論的思想などを援用する 必要はないので、それはすでに歴史が決めてくれたことであり、宿命が選んでくれたことだからである。 かうして書かれた人物は、(巧みに書かれさへすれば)、いかにも活々として見え、いかにも自由に見え、 しかも見事に完結してをり、小説として成功しやすいやうに思はれる。そして小説家の思想は、要するに既定の 歴史の解釈の問題であつて、たとへ作者の人間観が浅薄であつても、歴史そのものがこれを救つてくれる。 高見氏のきらつたのはおそらくこの点であらう。 これな反して、現代小説は成功がむづかしく、アラも見えやすい。第一われわれの耳目に親しい時代は、 読者自身が、目前の現象と作中の描写とを、居ながらにして比較することができるからである。作家はもちろん むづかしいことへ進んで赴くべきである。この点でも私は高見氏に同意である。 (中略)あれほど意志を重んじたバルザックも、「人間喜劇」の総序に、「私はキリスト教と君主政体といふ 二つの永遠の真理に照らされて書く」と宣言してゐる。 三島由紀夫「現代史としての小説」より
171 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 00:14:26
歴史小説や時代小説における「歴史」の代用となるものが、現代小説をともかくも芸術として成り立たしめるに 必要な「形式」として使はれてきたことは、否定しがたい事実であつた。そして現代小説に於ける形式とは、 何らかの決定論的思想の援用でなければならなかつた。あるときにはカトリシズムであり、あるときには悲観的 宿命論であり、あるときには進化論と遺伝の問題であり、最後には社会主義リアリズムであつた。これらは すべて時代々々の、最も流行した決定論のサンプルである。そして読者や文学史家はゆめさらこれを形式とは 思はず、作品の「思想」と呼んだのであつた。 かう考へてゆくと、高見氏の投げかけた問題は意外に大きいのであつて、ひよつとすると、小説家が本当に 現代史といふものに直面したのは、今世紀の意外な事件であり、しかも小説ジャンルの衰退に歩調を合はせて 起こつた悲劇的な事件かもしれないのである。 その例証としては、プルウストとサルトルの二人を挙げるだけで十分であらう。 プルウストの書いた現代小説は、まさに現代といふ時点が、プティット・マドレエヌといふお菓子を舌の上に 味はふその瞬間に凝結してをり、さまざまな現代の事象の大海の上に、彼が落とした一滴のオリーブ油のやうな その「現代」と、彼が失ひかつふたたび見出した尨大な「時」とは、とてつもない対照を示してゐる。 自由意志による未決定といふ現代史の観念を、彼は、無意志的記憶といふ観念で、みごとに手袋を裏返すやうに 裏返してみせたのであるあるが、サルトルが「自由への道」でやつたこともプルウストと等しく(現代史を 決定論で押し包んで、小説形式を救ひ出さうといふやり方と反対の)決定論によらない思想で、現代小説を 書かうとした果敢な試みであつたといつてよからう。 しかしまた皮肉なことに、かうして書かれた作品の人物たちは、自由意志の恩寵からも見放され、プルウストの 「私」は影のやうにさまよひ、サルトルの小説は自由への道半ばに中絶してしまひ、保守的な、幸福な、 大河小説の作者たちが持つてゐた作品の「形式」は崩壊し、いづれもただ小説ジャンルの形式上の衰退に、 みごとな寄与をもたらすことになつた。 三島由紀夫「現代史としての小説」より
172 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 00:15:06
小説にとつての現代史といふ怪物は一体どこにどんなふうにして棲息しどんな相貌をしてゐるのであらう。 一体現代史は、果たして自由意志による歴史的創造の余地を残した未決定のものであるのか、あるひは ひよつとすると、過去のいかなる時代ともちがつた、あらゆる意志が無効であり、あらゆる歴史的創造が 不可能なものであるのか? かういふ疑問が、ますます先鋭になり、小説と現代史の関係がますます困難になつた、 ことに第二次世界大戦後の状況であつて核戦争の危機がその根本原因であることはいふまでもあるまい。 もし偶発戦争によつて、世界が滅びるなら、現代は美しい夕映えの時代であらうが、その夕映えのやうな美しい 決定論も、古典的な自由意志も、ひとしく時代おくれになつた現代では、テレビが刻々とあらはれ消える 無意味な影像によつて、人の心をとらへつづけるのもふしぎではない。 (中略) 未決定の現代といふ観念が、もし怪しげになるならば、小説は無限に歴史に近づいてゆくか、あるひは一個の 架空の時点を設定するほかはない。そして後者への道には、抽象小説(寓話的な小説や風刺小説を含む)と、 戯曲との、二つしか残されてゐないのである。 カフカからアンチ・ロマンにいたる今世紀の異様な小説の系列は、現代小説を無限に歴史から遠ざけようとする 自己防衛の本能を暗示するものであらうし、小説を何とか純粋な自由意志の産物にするための困難な冒険で あつたともいへよう。 一方、ピエエル・ルイスのいはゆる「煙草と小説を知らなかつた」古代ギリシャで、歴史文学は完全に歴史家の 手にこれをゆだねて、みごとな宿命論の枠組に押しこめられた劇文学のジャンルが、独立独歩してゐたやうに、 小説が決定論的思想に背反して、形式を失つた以上、ふたたび古代伝来の戯曲といふ純粋形式へ無限に近づく ことが、もう一つ残された道であるかもしれない。しかしそれが小説の一種の自殺的行為であることには かはりがないのである。 三島由紀夫「現代史としての小説」より
173 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 00:17:02
それからもう一つ、日本人だけにゆるされた現代小説の一方法に、冒頭に述べたやうな私小説の道があつて、 いかなる天変地異が起こらうが、世界が滅びようが、現在ただ今の自分の感覚上の純粋体験だけを信じ、これを 叙述するといふ行き方は、もしそれが梶井基次郎くらゐの詩的結晶を成就すれば、立派に現代小説の活路に なりうると思はれるが、これにはさまざまな困難な条件があつて、それは私小説が身辺雑記にとどまることなく、 小説ジャンル全体の現代の運命を負うて、無限に「詩」へ近づくことでなければならない。 三島由紀夫「現代史としての小説」より
このスレは見るに値しない。 目眩滅法引用すればいいというものではない。
175 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 23:53:33
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に 感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。 世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには 悲しまない。われわれの痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。 三島由紀夫「アポロの杯」より
176 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 23:53:50
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。 一定量以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな 阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに 足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りもしらないものに 思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての 苦痛の不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。 この領域にむかつて、画面のあらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。 その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の高みにまで達してゐない。 一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。 三島由紀夫「アポロの杯」より
177 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 23:54:22
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。 美は自分の秘密をさとられないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは 本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを美しいと思つたりするのである。 時がわれわれの存在のすべてであつて、空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうな ものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎないこと。 時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな証明のせゐである。 狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、 破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも 一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には 意識せざるをえないのと同じである。 三島由紀夫「アポロの杯」より
178 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 23:54:39
(竜安寺の石庭の)直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。 芸術家の抱くイメーヂは、いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。 芸術家は創造にだけ携はるのではない。破壊にも携はるのだ。その創造は、しばしば破滅の 予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の完全性は、 破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである 場合がある。そこでは創造はほとんど形を失ふ。 希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を 信じたかどうか疑問である。かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、 いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均斉の美は、死そのものの不死を 暗示してゐるやうに思はれる。 三島由紀夫「アポロの杯」より
179 :
吾輩は名無しである :2010/10/13(水) 23:54:58
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、 人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。 真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。 われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか。 アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず 不吉の翳がある。それはあの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、 これらを見るためばかりではない。これらの作品が、よしアンティノウスの生前に作られた ものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感しなかつた筈があらう。 彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻が われらの人生の終末の時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、 われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、一旦終つたものをまた別の一点から はじめることができる。 三島由紀夫「アポロの杯」より
180 :
吾輩は名無しである :2010/10/14(木) 00:01:04
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。 三島由紀夫「班女について」より 国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬといふのは、政治的 鉄則であるやうに思はれる。そして一時的に中道政治を装つて、国民を安心させて、 一気にベルト・コンベアーに載せてしまふのである。 ヒットラーは政治的天才であつたが、英雄ではなかつた。英雄といふものに必要な、 爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けてゐた。 ヒットラーは、二十世紀そのもののやうに暗い。 三島由紀夫「『わが友ヒットラー』覚書」より 人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を 押し込むところを見たが、玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、 まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、この規模を大きくしたやうなものである。 ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。その自然の肉に、 コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。 三島由紀夫「『沈める滝』について」より
181 :
吾輩は名無しである :2010/10/14(木) 23:57:44
ひとりひとりの胸にそんなにまで切ない憧れをのこして行つたかなしみは、その哀しみのゆゑに はるかな、たとしへもなく美しい悔いを悼歌のやうにかなでた。だれが悔いる責を負ふ人で あつたらう。さうした悔いのなかには、ねぎごとに似たふしぎな美しさが聳えだしたと、 そんな風に人はだれにむかつて云はう――。 三島由紀夫「世々に残さん」より 年齢はいつも橋であると同時にそれの架る谷間でもある。昔の彼は谷底を見ずに飛越す。 今のエスガイは飛越さうとする時に谷底を見る。しかし可能性の限局ではないのだ。 エスガイは可能性の輪のなかへ入つたのだ。はじめて彼は可能性を己が所有とした。 昔の彼であつたなら、それを彼が、可能性の虜になつてゐる。としか信ぜぬやうな仕方で、 エスガイは輪へ踏み入ることにより、真に輪の外へ出るのではないのか。 三島由紀夫「エスガイの狩」より
182 :
吾輩は名無しである :2010/10/14(木) 23:58:06
われらが一ト度幸福のなかへ入ると、何をしようと幸福の方でわれらを捕へて放さぬやうに みえる。しかしわれらの意識せぬ別の力が、いつのまにかわれらを幸福から放逐して くれるのである。 花には心がある。万象の心の中でも人の心に最も触れやすい心は之である。人が花を 愛づる時、花がなぜその愛に応へ得ぬことがあらう。花の愛は人に愛の誠を教へた。 女には婦徳を、男には平和を。光源氏が世にありし頃、女はなほ花と分ちがたい名を 持ち心を持つてゐた。恋歌は花をうたふ風体の上乗なるものであつた。しかも四時の花は 天候や季節に左右されることなく、極寒の梅も手に触るればあたゝかに、大暑の百合も 人の心に涼風を通はす。 三島由紀夫「菖蒲前」より
183 :
吾輩は名無しである :2010/10/14(木) 23:58:27
否、所謂(いはゆる)花の心は花にもなく人にもない。花を見、且つは触れ、且つは そを愛でて歌詠む時、人の魂はあくがれ出で花のなかへはひつてゆく。花へはひつた人の心は 水に映れる月のやうに、漣が来れば砕けるが月が傾けば影も傾く。その間に目に見えぬ 糸があり、月と潮の満干のやうな黙契があると思ふのは、誤ち抱いた妄想にすぎぬ。 人の心が人の心のまゝになることに何の不思議があらう。鏡の影が像の儘(まま)に 動くとてなど怪しむことやある。花の心は人の心の分身である。人の心が立去るとき 花にも心は失はれる。 苦しみをはじめて得た人はなほその苦しみを味方に引入れて共に住むことを知らない。 その敵たらんと好んで力(つと)め、苦しみは益々耐へがたいものになる。 三島由紀夫「菖蒲前」より
シャツを悉く脱いで半裸になると、却って身がひきしまって、寒さは去った。 ズボンを寛げて、腹を出した。 小刀を抜いたとき、蜜柑畑のほうで、乱れた足音と叫び声がした。 「海だ。船で逃げたにちがいない」 という甲走る声がきこえた。 勲は深く呼吸して、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、 左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突っ込んだ。 正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。 「奔馬」より
185 :
吾輩は名無しである :2010/10/16(土) 22:11:36
グーグル検索 ↓ 念のためうぷ(´・ω・`)まわいが重要 ↑ ヤフー検索 テレビやネットで説明
186 :
吾輩は名無しである :2010/10/22(金) 23:50:55
勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の結社は、 もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする営利法人なら、 いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。 野蛮人が病気よりも医薬を怖れるやうに。 三島由紀夫「奔馬」より
187 :
吾輩は名無しである :2010/10/22(金) 23:52:47
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。 血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのは たしかに穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも 知らないで人生を送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。 ごく少数の異常な純粋、この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と 全く同じ同等の《悪》へおとしめようとする機構なのだ。 三島由紀夫「奔馬」より
188 :
吾輩は名無しである :2010/10/26(火) 11:01:03
硬派とは何ぞや? 第一に、それは紺絣(こんがすり)であり、高下駄であり、青春であり、暴力であり、 単純素朴であり、反社会性であり、小集団のヒエラルヒーであり、民族主義である。 さらに詳しく見てゆくと、そこではエモーショナルなものを、恋愛の代りに、政治が代表してゐると考へられる。 その東洋的な政治概念では、男性的な理想および男性的な人間関係のお手本として政治があり、その理想と 人間関係をつなぐ糸は、エモーショナリズムである。侠客が男なるとは、侠客道のエモーショナルな政治概念を、 わが身に体現することである。これらがあくまで恋愛とちがふ点は、恋愛のロマンチックな個性的主張とは ちがつて、政治におけるエモーションは、自分を既成の理想型に従はせる情動だ、といふ点である。従つて 硬派は、あやまつて軟派的堕落に陥らぬかぎり、決して自己崩壊の憂目を見ることがない。 又、硬派では男性的表象が誇張されるが、この男性的原理の中心は、エモーションと力による政治であつて、 理論的知的政治概念はいはば無性のものとして、異性愛的情念は女性的なものとして斥けられる。 (中略) 私はごく大ざつぱに、右のやうな特色を列挙してみたのであるが、これらの諸要素の文学への類推を試みると、 思ひもかけない展望がひろがる。 硬派が持つてゐたやうな政治概念は、かつてのプロレタリア文学にも潜在してゐたし、その理論的知的なものの 排斥はまた、私小説の基盤であつた。硯友社を経、自然主義を過ぎて、われわれの近代小説の大勢を決した 「軟派的なもの」については、今日われわれは反吐が出るほど堪能してゐる有様だが、近代文学史に見えかくれ して流れてゐる「硬派的なもの」については、ほとんど気づかれてゐない。むしろその点で、尾崎(士郎)氏や 林(房雄)氏は、近代日本人として稀な意識的な作家と云ひ得るのである。 三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より
189 :
吾輩は名無しである :2010/10/26(火) 11:02:39
恋愛の代りに政治を以て、文学のエモーショナルなものを代表させる遣口は、戦後文学の作家の或る者、 たとへば堀田善衞氏などに顕著であるが、氏がもつと硬派的に、知的理論的修飾を捨てたら、もつと純度の高い 文学を生むであらう。太宰治氏は硬派的エモーションを軟派的に誤用した結果、自己崩壊の憂目を見た。 かういふ例は、現代文学において実に枚挙にいとまがない。田中英光氏は自らのデスペレエトな力の弁護に、 民族的基底の助けを借りることができなかつた。石原慎太郎氏は自ら信じた男性的原理を、性愛の領域へ 誤用するとき一貫性を失ふ。阿部知二氏は理論的知的政治概念に縋(すが)つて、文学的に性を喪失する。 ……これらの幾多の「硬派的なもの」の誤用の失敗(その最大の悲劇が横光利一氏であるが)を見ると、 谷崎潤一郎氏、川端康成氏の軟派の二大宗の、赫々たる成功が、今さらながら、日本文学伝統の女性的優雅の 強靭さを思はれるのである。 しかしここに面白いのは、硬派と軟派のただ一つの共通点があることで、それは理論的知的なものへの、日本人の 終始渝(かは)らぬ不信の念である。志賀直哉氏の文学が、一見硬派的に見えるのは、(実は氏の文学ほど 硬派から遠いものはないが)、この伝来の反理智主義の徹底性のためである。 近代文学の行き詰りの打破のためには、自らの中の硬派的要素の反省と発掘も、一つの必要な手続であると思ふ。 しかし硬派は硬派で、(少くとも一つの作品の中で)、首尾一貫してゐなければならない。硬派的一要素の 切り離した誤用、殊にその無意識の誤用ほど危険なものはないことは、右にあげた諸例からも明らかであらう。 三島由紀夫「文学における硬派――日本文学の男性的原理」より
190 :
吾輩は名無しである :2010/10/26(火) 23:57:17
バレーはただバレーであればよい。雲のやうに美しく、風のやうにさはやかであればよい。人間の姿態の最上の 美しい瞬間の羅列であればよい。人間が神の姿に近づく証明であればよい。古典バレーもモダン・バレーもあるものか。 (中略) しかし芸術として、バレーは燦然たる技術を要求する。姿態美はすでに得られた。あとは日本の各種の 古典芸能の名手に匹敵するほどの、高度の技術を獲得すれば、それでよい。ただ、バレーのハンディキャップは、 西洋の芸能の例に洩れず「老境に入つて技神に入る」といふやうなことが望めないことであり、若いうちに 電光石火、最高の美と技術に達しなければならぬといふ点で、却つて伝統と一般水準の 問題が重く肩にかかつてゐるといふ点である。 三島由紀夫「スター・ダンサーの競演によるバレエ特別公演プログラム」より
191 :
吾輩は名無しである :2010/10/27(水) 00:00:17
男のやる仕事でもつとも荒つぽい、命を的にかけた仕事で、しかもこれほど優雅と美を本質とする仕事もめづらしい。 アメリカの埃くさい薄汚ないカウ・ボオイなどとちがつて、闘牛士は、宮廷人のやうな絹の華麗な衣裳をつけてゐる。 そしてその花やかな衣裳の下には、プロテクターはおろか、下着ひとつつけないのが闘牛士の心意気である。 男が色彩豊富なけんらんたる衣服を身につけてふさはしいのは、死と勇気と血潮に関はりあるときだけである。 流行歌手の裾模様なんか、唾棄すべきものである。 闘牛士は、危険によつて美しく、死によつていよいよ美しい。それこそ世間並の男が、いくら口惜しがつても 及ばぬところだ。 ガルシア・ロルカは、闘牛士イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの死を悼んで、四章から成る哀切な長詩を書いた。 「誰一人お前を知らない。知る者はない。けれどもわたしはお前を歌う。 お前の横顔とお前の魅力を いつまでもわたしは歌う。 お前の判断力の著しい円熟ぶりを、 お前の死への欲求と 死の口の味はひを、 お前の男らしい陽気さが持っていた悲しみを。」(小海永二氏・羽出庭梟公氏共訳) 三島由紀夫「闘牛士の美」より
192 :
吾輩は名無しである :2010/10/28(木) 23:09:43
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、 私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。 このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥のやうなきしみを立てる列車が、われわれが眠つて ゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や峡谷や 海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふのでなければ ならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに美しく パセティックなものはない。 空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の 冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう 悲劇的な美を帯びる。 かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する 郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが 夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。(中略) 機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、 又われわれの郷愁をそそるのである。頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところの なかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々と シルクハットさへ冠つてゐた。 三島由紀夫「汽車への郷愁」より
193 :
吾輩は名無しである :2010/10/28(木) 23:11:50
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、 近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、 未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた 時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。 しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて 今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。 それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。そしてそこに、私は時代に取り残された無智な しかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。 それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた 人なら、誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、 さめる日が来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の 帰結であるが、そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。 だからわれわれは蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。 三島由紀夫「汽車への郷愁」より
194 :
吾輩は名無しである :2010/11/04(木) 23:31:03
スタート台の上で、一コースの選手をチラと見てから、手首を振る。両手を楽に前へさしのべたフォームで、 柔らかに飛び込む。競技はこんなふうに、どんな会社よりも事務的にはじまるのだ。 水が佐々木の体を包んだ。それから先は、彼はもう重い水と時間と距離とを、一心に自分のうしろへかきのけて ゆくしかない。 高い席からながめてゐると、八つのコースの選手たちの立てる音は、さわさわといふ笹の葉鳴りのやうな水音に すぎない。ひるがへる腕は、みんな同じ角度で、褐色のふしぎな旗のやうに波間にひらめく。 ――四百メートル。 佐々木は大分引き離された。ターンするところで、あと残つてゐる回数の札を示される。その大きなあきらかな 数字は、おそらく水にぬれた目に、水しぶきのむかうに、嘲笑的に歪んで映るのだらう。 三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
195 :
吾輩は名無しである :2010/11/04(木) 23:32:24
出発点の水にぬれたコンクリートの上には、選手たちの椅子が散らばつてゐる。佐々木の椅子には、赤いシャツと、 足もとの白い運動靴とが、かなたに水しぶきを上げて戦つてゐる主人の帰りを、忠犬のやうにひつそりと待つてゐる。 これらの椅子のずつとうしろには、記録員たちが控へ、さらに後方に、今日はすでに用ずみの飛込用プールが、 いま水の立ちさわぐメーン・プールとは正に対照的に、どろんとしたコバルト・グリーンの水をたたへてゐる。(中略) 出発点へ選手が近づくたびに、大ぜいの記録員たちはおのがじし立ち上り、ぶらぶらと水ぎはへ近寄り、 スプリット・タイム(途中時間)を記録し、また、だるさうに席へ戻る。必死で泳いでゐる選手と記録員とは、 こんなふうにして、十五回も水ぎはで顔を合せるわけだ。そのときほど、この世の行為者と記録者の役割、 主観的な人間と客観的な人間の役割が、絶妙な対照を示しながら、相接近する瞬間もあるまい。 三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
196 :
吾輩は名無しである :2010/11/04(木) 23:33:34
――千メートル。 オーストラリアのウィンドル、11分16秒3といふ途中時間のアナウンス。 千五十メートルのところで、あと九回といふ9の札が示される。 佐々木はひたすら泳ぐ。水に隠見する顔は赤らんでみえる。あの苦しげな、目をつぶり口をあいた顔、あの ぬれた顔、ぬれた額の中に、どんな思念がひそんでゐるか? あんな最中にも、人間は思考をやめないのは 確実なことで「ただ夢中だつた」などといふのは、嘘だと私は思ふ。それこそ人間といふ動物の神秘なのだ。 たとへそれが、一点の、小さな炎のやうな思念であらうとも。 最後の百メートル。真鍮の鈴が鳴らされ、選手はラスト・スパートをかける。 佐々木は六位だつた。平然と上げてゐる顔を手のひらで大まかにぬぐひ、出発の時と同様、左の手首をちよつと振つた。 それが彼の長い旅からの、無表情な帰来の合図だつた。この若者はまた明日、旅の苦痛を忘れて、つぎの新しい 旅へ出るだらう。 三島由紀夫「17分間の長い旅――男子千五百メートル自由形決勝」より
昔の水泳専門誌に載った新人記者の文章かと思った
198 :
吾輩は名無しである :2010/11/05(金) 00:15:53
>>197 その記者は作家なみの凄い筆力の持ち主だったですね。
199 :
吾輩は名無しである :2010/11/07(日) 23:40:35
「なぜ作中人物に自分の名前なんか使ふのさ」 「自分の名前は他人の所有物だからさ」 「言葉がすでに他人の所有物だ。それなら『私』だつていいぢやないか」 「なるほど言葉はみんなの共有物だが、『私』といふ言葉はもつとも仮構の共有物だと 思はないかね。誰も僕のことを、『おい、私』なんぞと呼びはしない。決してさう呼ばれない といふ安心が、『私』の思ひ上りになり、はては権利になる」 「…君の思念の成立ちを描いて、誰がそれを君の思念だと保証するんだ」 「僕の思念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。言葉によつて表現されたものは、 もうすでに、厳密には僕のものぢやない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有して ゐるんだからね」 「では、表現以前の君だけが君のものだといふわけだね」 「それが堕落した世間で云ふ例の個性といふやつだ。ここまで云へばわかるだらう。 つまり個性といふものは決して存在しないんだ」 三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
200 :
吾輩は名無しである :2010/11/07(日) 23:41:51
「しかし世界の旅へ出たときに、君は肉体を同伴して行かなかつたとは云ふまいね」 「当り前さ。肉体は個性より何百倍も重要だからね。僕は旅行鞄を忘れて行つても、 肉体を忘れて行くことはなかつたね」 「肉体には個性はないかね」 「肉体には類型があるだけだ。神はそれだけ肉体を大事にして、与へるべき自由を 節約したんだ。自由といふやつは精神にくれてやつた。こいつが精神の愛用する手ごろの 玩具さ。……肉体は一定の位置をいつも占めてゐる。世界の旅でいつも僕を愕かせたのは、 肉体が占めることを忘れないこの位置のふしぎさだつた。たとへば僕は夢にまで見た 希臘(ギリシャ)の廃墟に立つてゐた。そのとき僕の肉体が占めてゐたほどの確乎たる 僕の空間を僕の精神はかつて占めたことがなかつたんだ」 「つまり精神には形態がないんだね」 「さうだよ。だから精神は形態をもつやうに努力すべきなんだ」 三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
201 :
吾輩は名無しである :2010/11/07(日) 23:43:00
「…結局、君は人間を見ないで、物質を見てきたやうな塩梅だね」 「考へても見たまへ。この地球の裏側に一つの町があつて、そこに人間たちの無数の 生活がある。僕は物を言はない人間の生活といふものが、物質のやうに謙虚なことを 学んだんだ」 「君は生命に触れなかつたのか」 「君はその指でもつて生命に触れるとでも言ひたげだね。猥褻だね。生命は指で触れる もんぢやない。生命は生命で触れるものだ。丁度物質と物質が触れ合ふやうにね。それ以上の どんな接触が可能だらう。……それにしても旅の思ひ出といふものは、情交の思ひ出と よく似てゐる。事前の欲望を辿ることはもうできない代りに、その欲望は微妙に変質して また目前にあるので、思ひ出の行為があたかも遡りうるやうな錯覚を与へる」 どうしても理解できないといふことが人間同士をつなぐ唯一の橋だ。 本当の若者といふものは、かれら自身こそ春なのだから、季節の春なぞには目もくれないで ゐるべきなのだ。 三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
202 :
吾輩は名無しである :2010/11/07(日) 23:44:25
「あれこそは正に、人間が人間を見る目つきだつたね」と私は言つた。 次郎は酒を一口ふくんで、笑つて言つた。 「正確に言へばかうさ。あの娘は僕たちが人間であることを、僕たちの人間的な感情を 期待したのさ。他人の目といふやつはもつと清潔さ。相手を物質としか見ないものな。 ところで、他人の目といふやつは、思ふほどザラにはないね。われわれを睨んでゐたときの 彼女の目に似た目なら、われわれの周囲にいくらでも見つかるけどね。家族の目、恋人の目、 仇敵の目、友人の目、愛犬の目、僕らに対して無関心になりたがつてゐる人々の目、 みんなこれだ。それから戦争中、電車の中で空襲警報が鳴りでもしたら、満員の乗客が、 全部あんな目つきでお互ひを見たもんだ。 戦争時代の思ひ出つて全く妙だね。他人が一人もいなかつた。他人らしい清潔な表情を してゐるのは、路傍にころがつた焼死死体だけだつた」 三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
粗製濫造
204 :
吾輩は名無しである :2010/11/09(火) 16:10:31
三島はレズの女性に強い興味を持ってたんじゃないかな? 舞台化に際して脚本を書いた「黒蜥蜴」の主人公みたいな。 紀平悌子との交際にしても、レズビアン女性への好奇心がもとだと思う。 レズでありながら、男も好きというタイプの女性の怪しい魅力に 捉えられていたんじゃないかな? もし、自決していなければ、「黒蜥蜴」をもっとずっと芸術的にしたような 戯曲を書いていたと思うんだな。紀平をもっとはるかに華麗にしたようなレ ズの女性を主人公にして。
精製乱舞
>>204 レズの女性に恋する物語は「春子」という傑作がありますね。
逆に男性との同性愛の話って、有名どころ除いては 何かあるかな?
>>207 「煙草」かな。三島自身の先輩への思慕体験だと思われるものが描かれてますね。
「殉教」には喧嘩の最中に、やや同性愛雰囲気なシーンがありました。
読みようによっては男性しかでてこない「剣」も男色的世界とみる人もいるようです。
>>207 「愛の渇き」でしょう。三島自身が男色小説っていってるから。
>>209 それは三島自身というより、大岡昇平がそう言ったのを敢えて否定しなかった感じですね。
実際読むと大岡昇平が決めつけるほどじゃなかった。
俊男は浴衣を脱ぎ、褌をとる体操教師の姿をまじまじと見つめていた。 体はむしろ痩せているほうだが、全身のいたるところに筋肉の玉がコリコリしている。 月の光の下にその全裸が見られることは、俊男にとって、この上もない喜びだった。 隆吉の濃い眉、月に照る剃り立ての頬、そして全身はただ、筋肉と毛、それだけだった。 固い引き締まった胸には胸毛が生え、腋窩からはみ出したつやつやした腋毛は胸の下辺の毛とほとんどつながっていた。 胸毛の下は、一筋の黒い毛が臍までつづき、毛もくじゃらの腹部の毛は、真っ黒な影としか見えない密生した陰毛の中へ埋もれてゆく。 陰毛はまた、腿から脛毛へもじゃもじゃつづいていた。 何に興奮しているのか、男根は赤紫の亀頭を光らせて、直立していた。その下には毛もくじゃらの睾丸が重々しく揺れていた。 三島由紀夫『愛の処刑』より
213 :
吾輩は名無しである :2010/11/15(月) 07:29:13
古い応接間は深閑として、そこにはまるで人間がいないかのようだった。 事実、人間は一人もいなかったのだ。 三島由紀夫『美しい星』より
214 :
吾輩は名無しである :2010/11/15(月) 10:33:28
椅子から体がずり落ちて床に倒れた。生きてゐる間は巧く隠し了せてゐたこの女の地声が いよいよ聴かれるのだ。それはゲエといつたりウーフといつたりウギャアといつたりする 声である。乳房や頬や胴を猫のやうに椅子の脚や卓の脚にすりつける。顔に塗りたくつた 真蒼な白粉が彼女によく似合ふ。彼女は頭を怖ろしい音を立てて床へぶつける。白い太腿が 蜘蛛のやうな動きで這ひまはつてゐる。そこにじつとりとにじみ出た汗は、目のさめる やうな平静さだ。 ――彼女と卓一つへだてて彼女の父も、熱心に同じ踊りを踊り狂つてゐるのだつた。彼の 呻き声は笑ひ声と同様に無意味である。「苦悩する人」といふ凡そ場ちがひの役処を彼が 引受けてゐるのは気の毒だ。仔犬のやうな目を必死にあいたりつぶつたりしてゐるが、 一体何が見えるといふのか。彼自身の苦悩でさへもう見えはせぬ。彼は口から善意の 固まりのやうな大きな血反吐をやつとのことで吐き出して眠りにつく。さうでもしなければ 安眠できまいといふことを彼はやうやく覚つたのである。 ――繁子は毒の及ぼす効力をこのやうにまざまざと想像することができた。 三島由紀夫「獅子」より
215 :
吾輩は名無しである :2010/11/15(月) 10:35:21
「良人を苦しめる」といふことが、いつしかその原因も目的も忘れられて、彼女にとつては 生れながらにもつてゐた一つの思考のやうに思はれた。だからそれは容易に彼女の自己抛棄を 可能にした。道徳的な顧慮も亦、きはめて愛とよく似た構造をもつこの自己抛棄の前に 崩れ去つた。良人を苦しめるためになら、彼女自身のあらゆる喜び(そのなかには良人から 何らかの形で今尚享けてゐる喜びも入るのだが)を犠牲にしても悔いてはならない。 それは一種の道徳律に似てゐるのだ。なぜならそれは平気で彼女の本然の欲求を踏み躙つて ゆくからだつた。 しかしこのやうな繁子の不埒な生き方は、見やうによつては最も危険のすくないそれかも しれぬのである。危険なのは「幸福」の思考ではあるまいか。この世に戦争をもたらし、 悪しき希望を、偽物の明日を、夜鳴き鶏を、残虐きはまる侵略をもたらすものこそ 「幸福」の思考なのである。繁子は幸福には目もくれなかつた。その意味で彼女は もう一つの高度の安寧秩序に奉仕してゐたのかもしれなかつた。 三島由紀夫「獅子」より
愛の処刑は正確には中井英夫との共作。創作段階から中井が関わっていたという説もあります。
>>213 にはすごくユーモアを感じる。
最後の貯金通帳の件など、「美しい星」には随所に
ユーモアがちりばめられているね。
三島にはユーモアがないとか、どこかのスレで
批判していた人がいた。確かに少ないかもしれんが、
皆無ではない。「天人五衰」にもユーモアがふんだんにある。
219 :
吾輩は名無しである :2010/11/17(水) 15:07:20
>>217 大杉一家が歌舞伎に出かけて、
ちょうどかかっていた三島の作品はパスして出てくるいう場面もあったな。
221 :
吾輩は名無しである :2010/11/19(金) 00:11:02
もし人類が滅んだら、私は少なくとも、その五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を 書かずにはゐられないだらう。この墓碑銘には、人類の今までにやつたことが必要かつ 十分に要約されてをり、人類の歴史はそれ以上でもそれ以下でもなかつたのだ。 その碑文の草案は次のやうなものだ。 『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。 彼らは嘘をつきつぱなしについた。 彼らは吉凶につけて花を飾つた。 彼らはよく小鳥を飼つた。 彼らは約束の時間にしばしば遅れた。 そして彼らはよく笑つた。 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』 三島由紀夫「美しい星」より
222 :
吾輩は名無しである :2010/11/19(金) 00:16:02
これをあなた方の言葉に翻訳すればかうなるのだ。 『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。 彼らはなかなか芸術家であつた。 彼らは喜悦と悲嘆に同じ象徴を用ゐた。 彼らは他の自由を剥奪して、それによつて辛うじて自分の自由を相対的に確認した。 彼らは時間を征服しえず、その代りにせめて時間に不忠実であらうとした。 そして時には、彼らは虚無をしばらく自分の息で吹き飛ばす術を知つてゐた。 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』 三島由紀夫「美しい星」より
223 :
吾輩は名無しである :2010/11/19(金) 00:18:14
一寸傷つけただけで血を流すくせに、太陽を写す鏡面ともなるつややかな肉。あの肉の外側へ 一ミリでも出ることができないのが人間の宿命だつた。しかし同時に、人間はその肉体の 縁(へり)を、広大な宇宙空間の海と、等しく広大な内面の陸との、傷つきやすく 揺れやすい「明るい汀」にしたのだ。その内面から放たれる力は海をほんの少し押し戻し、 その薄い皮膚は又、たえまない海の侵蝕を防いでゐた。若い輝かしい肉が、人間の矜りに なるのも尤もだつた。それは祝寿にあふれた、もつとも明るい、もつとも輝かしい汀であるから。 三島由紀夫「美しい星」より
221と222は記憶に残ってるけど223は忘れてた。
225 :
吾輩は名無しである :2010/11/22(月) 01:37:52
羽黒助教授らが円盤を目撃する仙台の大年寺山のばら園とは、 いま野草園になっているところだとおもう。 ちなみにその大年寺山には、三島賞作家の佐伯一麦が住んでいるし、 三島ファンで知られる小池真理子の出身校の仙台第3女子高もそのふもとにある。
226 :
吾輩は名無しである :2010/11/22(月) 01:41:05
仙台のUFOは誰のために現れたのかな…
228 :
吾輩は名無しである :2010/11/22(月) 02:34:04
230 :
吾輩は名無しである :2010/11/25(木) 05:30:12
『絹と明察』のなかの、駒沢社長夫人の病室の描写の残酷なまでのリアルさに呆れた。 三島のなかに高まりつつある現実への嫌悪感が感じられる。 四五寸あけた窓からは雨の音が入ってきて、琺瑯引を伝わるいばりの音にまじる。 いばりは徐々に細まって、力のない点滴のあとに止んだ。仄暗い午後の病室に、蒲団のなかの紙の音がかそけく聴かれた。 便器を方附けようとして、附添は紙についた血に目をとめて、眉をひそめて、おやと言った。それを見た房枝が笑い出した。 「何や。あてかってまだ女子やがな」 房枝は笑った。笑って笑って、咳き込みながら笑いつづけた。鼠花火が走りまわるようなそのひびわれた笑いは、 安静時間中の隣近所の病室で、じっと天井を見つめている患者たちの胸のうつろを撃った。
231 :
吾輩は名無しである :2010/11/27(土) 02:41:04
あひかはらず忙しく往来してゐる社会の海の中に、ここだけは孤島のやうに屹立して感じられる。 自分が憂へる国は、この家のまはりに大きく雑然とひろがつてゐる。自分はそのために 身を捧げるのである。しかし自分が身を滅ぼしてまで諫めようとするその巨大な国は、 果してこの死に一顧を与へてくれるかどうかわからない。それでいいのである。 ここは華々しくない戦場、誰にも勲しを示すことのできぬ戦場であり、魂の最前線だつた。 三島由紀夫「憂国」より
232 :
吾輩は名無しである :2010/11/27(土) 12:54:29
「ココアたら何や」 「西洋の汁粉みたいなもんや」 三島由紀夫「潮騒」より
233 :
吾輩は名無しである :2010/11/29(月) 22:46:10
234 :
吾輩は名無しである :2010/11/30(火) 05:15:13
全集第10巻の絹と明察の513頁の1行目、 「はびこり」が「はぴこり」となっているの発見。 誤植だなこりゃ。残念。
「につぽん製」の校訂みてたら、「中華そば」が昔のオリジナルでは「シナそば」になってた。 支那の言葉狩りがこんなところに散見されますね。
ほんとかよ。無茶苦茶だな。それだったら、東シナ海は東中華海、 南シナ海は南中華海、インドシナはインド中華にしなければならんはずだが。
あ、もう一つ。シナチクも中華チクだな。
「命売ります」(ちくま文庫)に「三国人」のマフィアが出てくるけど、今度もし角川文庫で再版された場合、 どうするんだろうね。 外国人参政権、その他が通ったら、「差別語だ」とか朝鮮圧力で塗りつぶされるのかな。
239 :
吾輩は名無しである :2010/11/30(火) 17:57:15
JAPはジャパニーズを縮めて云ったものに過ぎないのだから差別語じゃない、みたいな話だなw
They do that Geisha named changes to Maiko, in Kyoto people. Why aren't you Kyoto women?
241 :
名無しさん日 :2010/12/01(水) 11:00:15
242 :
吾輩は名無しである :2010/12/04(土) 20:02:45
243 :
吾輩は名無しである :2010/12/05(日) 21:29:26
人間つて誰でも一つは妙な才能をもつてゐるものだわ。 期待してゐる人間の表情といふものは美しいものだ。そのとき人間はいちばん正直な 表情をしてゐる。自分のすべてを未来に委ね、白紙に還つてゐる表情である。 羞恥がなくて、汚濁もない少女の顔ほど、少年を戸惑はせるものはない。 自分の尊敬する人の話をすることは、いはば初心(うぶ)なフランスの少年が女の子の前で ナポレオンの話をするのと同様に、持つて廻つた敬虔な愛の告白でもあるのだ。 三島由紀夫「恋の都」より
244 :
吾輩は名無しである :2010/12/05(日) 21:31:01
本当のヤクザといふものは、チンピラとちがつて、チャチな凄味を利かせたりしないものである。 映画に出てくる親分は大抵、へんな髭を生やして、妙に鋭い目つきをして、キザな仕立の 背広を着て、ニヤけたバカ丁寧な物の言ひ方をして、それでヤクザをカモフラージュした つもりでゐるが、本当のヤクザのカモフラージュはもつとずつと巧い。 旧左翼の人に、却つて、如才のない人が多いのと同じことである。 今の世では時代おくれのあの思想は、いつも私の生きる糧だつた。天皇陛下への絶対の愛、 日本人としての絶対の矜り、理窟はどうあらうと、私は五郎さんの肉体を抱きしめるやうに、 あの人の思想を抱きしめて来たんだわ。弱りかかる心、現実を知つて利巧に妥協的になり かかる心を抑へて、いつも私は心の底からアメリカを憎んでゐた。(中略)私は五郎さんを 殺した屈辱的な敗戦を決して忘れなかつた。それ以後、私は一度もアメリカに負けなかつた 自信がある。 三島由紀夫「恋の都」より
245 :
吾輩は名無しである :2010/12/05(日) 21:32:44
自分の最初の判断、最初のねがひごと、そいつがいちばん正しいつてね。なまじ大人になつて いろいろひねくりまはして考へると、却つて判断をあやまるもんだ。婿えらびをする能力 といふものは、もしかしたら、三十五歳の女より、十六歳の少女のはうが、ずつと豊富に もつてゐるのかもしれないんだぜ。 君はまだ人生の後悔といふやつのおそろしい味を知らない。そいつは灰の味だ。灰を舐めて ごらん。しかも毎日毎日舐めてごらん。もうこの世の中から味といふものは消えてしまふんだ。 何を食べても灰の味がする。後悔ほどやりきれないものはこの世の中にないだらう。 三島由紀夫「恋の都」より
246 :
吾輩は名無しである :2010/12/11(土) 00:06:41
一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な……。要するに、一寸ばかり、といふことは 何てけがらはしいんだ。 体力の旺盛な青年は、戦争の中に自殺の機会を見出だし、知的な虚弱な青年は、抵抗し、 生き延びたいと感じた。まことに自然である。平和な時代であつても、スポーツは青春の 過剰なエネルギーの自殺の演技であるし、知的な目ざめは、つかのまの解放へ急がうとする 自分の若い肉体に対する抵抗なのだ。それぞれの資質に応じ、抵抗が勝つか、自殺が勝つか である。通念に反して、杉雄の体験したところでは、戦争は、精神主義時代ではなくて、 肉惑的な時代だつた。飛行機乗りになつた青年たちも、これに同感の意を表するだらうと 思はれる。 三島由紀夫「急停車」より
247 :
吾輩は名無しである :2010/12/11(土) 00:08:07
戦争の中に育つた一時代の青春といふものに、世間は無用の誤解をしてゐる、と杉雄は考へた。 戦争は畢竟するに、生ける著名な将軍のためのものではなく、死せる無名の若い兵士たちの ものなのである。あとにのこされた母や恋人の悲嘆のためのものではなく、死んでゆく 若者自身のエゴイズムのためのものなのである。愕くべきことだが、人間の歴史は、 青春の過剰なエネルギーの徹底的なあますところのない活用の方途としては、まだ戦争以外の ものを発明してはゐない。青年によつて成就された無血革命があるだらうか? 一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きてゐる。かう感じる ことの、目くるめくやうな感じは、何て甘かつたらう! あれはまるで阿片だ。悪習だ。 一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐へがたくなつてしまふんだ。 三島由紀夫「急停車」より
248 :
吾輩は名無しである :2010/12/11(土) 00:09:21
杉雄は戦争中、家人の疎開のために要らなくなつた箪笥(たんす)を、道ばたに出して 投売りをしてゐるのを見た。ひどく廉(やす)かつたが、誰も買はなかつた。 『あれは全く箪笥だつた』と杉雄は思つた。 『明日は灰になるかもしれないが、むしろ、明日は灰になることがわかつてゐただけに、 あれは正真正銘の箪笥だつた。箪笥は道ばたの筵(むしろ)の上で初夏の陽を浴びてゐた。 桐の柾目は美しく落着いて、この箪笥の純良な原料をはつきりと日ざしのなかに誇示してゐた。 ああいふ明瞭な物質を人間は好かないのだ。あれは生活の中に置くには危険すぎるんだ。 もつとあいまいな、図太い存在、一個の永続性のある家具……さういふものに対してだけ 世間は金を払ふらしい』 彼は戯れに少年向のけばけばしい冒険雑誌の頁をめくる。各頁に色彩と行為が氾濫してゐる。 あらゆる人物は、疾走し、射ち、擲(なぐ)り、よろめき、あるひは倒れてゐる。 『俺も子供のころはこんな本に熱中したもんだ』と杉雄は思つた。男の子は誰もこんな本に 熱中する。成長する。成長してみると、行為はどこにも存在しないのだ。 三島由紀夫「急停車」より
(◕∀◕)「急停車ボク読んだことあるよ」 (◕∀◕)「ボクには難しかったな」 ((◕∀◕)「孔雀が不思議な雰囲気で面白かった」 (◕∀◕))「ラストはビックリしたけど」 (◕∀◕)「奥さんが愛人とそのお父さん殺しちゃう短編も印象に残ってるよ」 (◕∀◕)「お父さんの描写が自分の悪い部分と重なった」
250 :
吾輩は名無しである :2010/12/13(月) 10:17:04
(◕∀◕)「かわいいおじさん かわいいおじさん、こんにちはー♪」
わけわかんない。
253 :
吾輩は名無しである :2010/12/13(月) 22:57:03
『奇蹟』は何と日常的な面構へをしてゐたらう! ねえ、レイモン、君は見神者の疲労つて奴を知つてるか。神がかりの人間は、神が去つたあとで、 おそろしい疲労に襲はれるんださうだ。それはまるでいやな、嘔吐を催ほすやうな疲労で、 眠りもならない。神を見た人間は、視力の極致まで、人間能力の極致まで行つてかへつて来る。 ほんの一瞬間でも、そのために心霊の莫大なエネルギーを費つてしまふ。……君のいまの 不眠症は、『ドルヂェル伯の舞踏会』を書いた直接の結果にすぎないのさ。 僕が『天の手袋』と呼んでゐるものを君は識つてゐる筈だ。天は、手を汚さずに僕等に 触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。レイモン・ラディゲは天の手袋だつた。 彼の形は手袋のやうにぴつたりと天に合ふのだつた。天が手を抜くと、それは死だ。 ……だから僕は、あらかじめ十分用心してゐたのだつた。初めから、僕には、ラディゲは 借りものであつて、やがて返さなければならないことが分つてゐた。…… 生きてゐるといふことは一種の綱渡りだ。 三島由紀夫「ラディゲの死」より
254 :
吾輩は名無しである :2010/12/16(木) 00:48:46
たとへば医者はやはり人間を扱ふ職業だが、患者に対する同情に溺れてはならぬといふ 彼の自戒も、畢竟するところ、人間の病気を治すといふ医学の人間的な目的に包まれて、 一種の人間的な自戒だと考へることができるだらう。しかし文学はちがふ。芸術には 人間的な目的といふものはないのだ。 私は自分が幸福になるのを怖れた。幸福とは、人間的なものすべてとの親和の感情だからだ。 たとへ家族であつても、私と人間どもとの間には、越えてはならぬ境界があつた。さうだ。 小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似てゐる。感染しないやうに、 ピンセットで扱はねばならぬ。言葉といふピンセットで。……しかし本当に細菌の秘密を 知るには、いつかそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。そして私は感染を、 つまり幸福になることを、怖れた。 若さはいろんなあやまちを犯すものだが、さうして犯すあやまちは人生に対する礼儀の やうなものだ。 青年の文学的な思ひ込みなどは下らんものだ。実際下らんものだ。 三島由紀夫「施餓鬼舟」より
255 :
吾輩は名無しである :2010/12/16(木) 00:50:02
女方こそ、夢と現実との不倫の交はりから生れた子なのである。 三島由紀夫「女方」より 人は病気を自分の特質にうまく合致させ、うまく着こなすこともできる。とりわけ永い 病気であればさうである。治英の調和に対する敏感な意識は、早くからこの病気をも 調和のなかに取り入れ、もともと持つてゐた性格の一部としてしまつたのかもしれなかつた。 過労を避けるといふその病気の要請は、陶酔や情熱を避けようとする彼の性向を、むしろ 力強く庇護するものであつたかもしれない。なぜなら後年私は、もつと血色もよく、 性向もまるでちがつた弁膜症の人たちを見たからである。 死の近い病人が無意識に死の予感にかられて、自分を愛してくれる人たちを別れ易くして やるために、殊更自分を嫌はれ者にする、といふ言ひつたへには、たしかに或る種の 真実がある。病苦や焦燥のためだけではなくて、病人のつのる我儘には、生への執着以外の 別の動機がひそんでゐるやうに思はれる。 三島由紀夫「貴顕」より
256 :
吾輩は名無しである :2010/12/16(木) 23:26:31
潔癖な人間には却つて何事もピンセットで扱ふことに習熟したやうな或る鷹揚さ、緩慢さが 備はるものだ。 罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を 人は恕さない。 三島由紀夫「果実」より 寡黙な人間は、寡黙な秘密を持つものである。 恋人同士といふものは仕馴れた役者のやうに、予め手順を考へた舞台装置の上で愛し合ふ ものである。 悪意がないといふことは一向弁明にならない。善意も、無心も、十分人を殺すことの できる刃物である。 三島由紀夫「日曜日」より 占領時代は屈辱の時代である。虚偽の時代である。面従背反と、肉体的および精神的売淫と、 策謀と譎詐の時代である。 三島由紀夫「江口初女覚書」より
257 :
吾輩は名無しである :2010/12/16(木) 23:27:44
世間といふものは、女と似てゐて案外母性的なところを持つてゐるのである。それは 自分にむけられる外々(よそよそ)しい謙遜よりも、自分を傷つけない程度に中和された 無邪気な腕白のはうを好むものである。 巌(いはほ)のやうな顔が愛くるしい笑ひ方をした。強欲な人間は、よくこんな愛くるしい 笑ひ方をするものである。強欲といふものは童心の一種だからであらうか。 残り惜しさの理由は、使ひ慣れたといふ点にしかない。しかしかけがへのない感じは、 これだけの理由で十分であつた。おそらくこれ以上の理由は見つかるまい。 田舎の有力者ほどひがみやすい人種はないのである。 よく眠る人間には不眠をこぼす人間はいつでも多少芝居がかつた滑稽なものに映る。 死のしらせは同情より先に連帯的な或る種の感動で人を結ぶものである。 三島由紀夫「訃音」より
258 :
吾輩は名無しである :2010/12/21(火) 05:03:31
どこで御飯をたべましょう。朝鮮料理はいかが? 私、学生時代によくお友達と食べたわ。 安くて、おいしくて、臭いのよ。 「夜会服」より
かくやくー かくやくー(^^
260 :
吾輩は名無しである :2010/12/25(土) 11:46:38
蘭陵王は必ずしも自分の優にやさしい顔立ちを恥ぢてはゐなかつたにちがひない。むしろ 自らひそかにそれを矜つてゐたかもしれない。しかし戦ひが、是非なく獰猛な仮面を 着けることを強ひたのである。 しかし又、蘭陵王はそれを少しも悲しまなかつたかもしれない。或ひは心ひそかに喜びとして ゐたかもしれない。なぜなら敵の畏怖は、仮面と武勇にかかはり、それだけ彼のやさしい 美しい顔は、傷一つ負はずに永遠に護られることになつたからである。 私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知つた。何ら発展しないこと、これが重要だ。 音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるやうに!)、 決して発展しないといふこと以上に純粋なことがあるだらうか。 何時間もつづけて横笛を練習すると、吐く息ばかりになるためであらうか、幽霊を見るさうだ。 三島由紀夫「蘭陵王」より
261 :
吾輩は名無しである :2010/12/27(月) 00:03:10
……今、四海必ずしも波穏やかならねど、 日の本のやまとの国は 鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ 御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち 人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし 利害は錯綜し、敵味方も相結び、 外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、 邪まなる戦(いくさ)のみ陰にはびこり 夫婦朋友も信ずる能(あた)はず いつはりの人間主義をたつきの糧となし 偽善の団欒は世をおほひ 力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、 若人らは咽喉元をしめつけられつつ 怠惰と麻薬と闘争に かつまた望みなき小志の道へ 羊のごとく歩みを揃へ、 快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、 魂は悉(ことごと)く腐蝕せられ 年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、 道徳の名の下に天下にひろげ 真実はおほひかくされ、真情は病み、 道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく なべてに痴呆の笑ひは浸潤し 魂の死は行人の顔に透かし見られ、 よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り 三島由紀夫「英霊の声」より
262 :
吾輩は名無しである :2010/12/27(月) 00:04:29
清純は商はれ、淫蕩は衰へ、 ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば 人の値打は金よりも卑しくなりゆき、 世に背く者は背く者の流派に、 生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、 世に時めく者は自己満足の いぎたなき鼻孔をふくらませ、 ふたたび衰へたる美は天下を風靡し 陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、 車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、 大ビルは建てども大義は崩壊し その窓々は欲求不満の蛍光灯に輝き渡り、 朝な朝な昇る日はスモッグに曇り 感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、 烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。 血潮はことごとく汚れて平和に澱み ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。 天翔(あまが)けるものは翼を折られ 不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。 かかる日に、 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし 三島由紀夫「英霊の声」より
263 :
吾輩は名無しである :2011/01/06(木) 11:11:17
焼けた河原から河原へ大きな橋がかゝつてゐて、その下を清い多摩川の流れが、昨日の雨に水量を増して大速力で 走つて居ました。 私も河の中を海へ海へと走つてゐました。ところが“流れ”は私達“水”を海へ運んで行きはしませんでした。 陽はかんかんと照りつけて、私達の冷たい体も、ぽかぽかとあたゝかくなりました。両側の河岸では、麦藁帽子を 被つた人々が、呑気さうに、けれども如何にも暑さうに釣をして居ました。白いペンキで塗つた新らしいボートが するすると水面をすべつて行くのも気持のよいものでしたが、古い昔からの渡船がのんびりと、ろを動かし動かし、 眠さうに走つて行くのも何となくいゝ気持になりました。 やがて、私達はごうごうといふ音を立てゝ、何やら暗い所へ入つて了ひました。 これは、かねがね噂に聞いた“海”といふものではなささうでした。第一、しほつからくもありませんし、 《常に頭の上にある》と云ふ太陽さへ、今はどこにも見出だせません。 体が何度か上へ押し上げられ、激しく落とされました。随分長い時間でしたが、やつと日の目を見ることが出来ました。 そこは、浄水池といふところでした。けれども、暫くの間でまた暗い暗い道に入らねばなりませんでした。 道は私達の前居た多摩川とは比べものにならない程窄(せま)くて、ひどく曲りくねつてゐるものですから、 体のもまれやうが大変でした。 やがて妙な音がして私達の体がぐぐつと押し上げられました。 そして、せまい器の中へ納まりました。 さて私達が浄水池へ行つて体を見た時にはあんなにすきとほつて美しかつたのが、今、水道の口金から出て、 器へ入つた拍子に、真白で、すきとほらなくなつて了ひました。 それは、お米をといでゐる女中さんが、お釜の中へ私達を入れたのでした。その為、ぬかにそまつてこんなに なつて了つたのです。 私は絶えず掻きまはしてゐる女中さんの手の間から、台所の中を見まはしました。向側に瓦斯があつて、薬鑵が のつかり、白い湯気を一杯出してゐました。私が湯気と云ふものを見たのは、これが始めてでした。 平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より
264 :
吾輩は名無しである :2011/01/06(木) 11:11:56
面白くなつて一生懸命覗いてゐますと、すぐ私達を、じやあつと捨てゝ了ひました。 捨てられた私達(水)は、白い体のまゝいやな臭ひのする下水へと急がねばなりませんでした。下水には、 黒い大きな泥溝鼠が、我物顔に走つてゐました。 泥溝鼠は新入の私達を迎へて、私達の流れる速さと同じにかけながら、白い私に話しかけました。 「君は多摩川で、鼠の死んだのを見かけなかつたかね」 私は多摩川をそんな汚ない所に思はれるのがいやでしたので、返事をしないで居ましたが、彼は更に云ひました。 「実は僕の弟が、三人とも居なくなつて了つたのでね」私達はそれを聞いて、少し可哀さうになつたとは云ふものゝ、 この下水と多摩川とがつながつてゐるやうに考へてゐる泥溝鼠を可笑しくもなりましたので「そのうちに、 さがし出して上げませう」と云つて別れました。 やがて下水は、大きな深い穴で終りました。そしてまた、暗い鉄管の中を通つて行きました。 闇の中にぽつんと明るい点が見えたと思つたのは、嬉しいこと、河へ注いでゐる出口でした。私達の流れは急に 早くなりました。そしてボシャンといふ音を立てゝ川に落ちこみました。 川は広かつた。そして水はきれいでした。ゆるやかにゆるやかに私達は動き、そして、ふつと自分の体を見たら、 多くの水が混り合つて、すつかり元のやうに美しく透通つてゐたではありませんか。 それからの毎日毎日は楽しい時がつゞきました。 ある時はかはいゝ鵞鳥の子が大勢で泳ぎました。 又、小さな子供が笹舟を、そのやはらかい紅葉(もみぢ)のやうな手で作つて、そつと水に浮ばせたときも ありました。私はさゝぶねを乗せて、ごくゆつくりと歩いてあげました。 小さな子供は、赤いほゝをしてゐて、それはそれは可愛く、さゝぶねが流れるのを追つて面白さうにかけました。 平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より
265 :
吾輩は名無しである :2011/01/06(木) 11:12:18
それは春のことでした。いつの間にか河底で生れた鮎の子は、元気にかろやかに泳ぎました。河辺には荻が茂つて、 私達はするすると、荻の間を進みました。 やがて朝の霧がうすくうすくわからないやうにはつてゐる向うに、土も、それから樹も、丘も山も何も見えないのに 気付いたのです。 そして、なんとなくしほつからくなつて来たやうに思へます。 海へ出たのでした。私は、あんなに多摩川からすぐ海へ行つた友達をうらやましがりましたが、海へ出るのに こんな方法もあつたのでした。 春の日は、水面、もう海面である私達の頭に、金色のこてをあてました。こてにかゝつた髪のうねりは次第に 高まつて、始めて知つた波となつて、白砂の浜にうちつけました。 私は、気持よく、ゆりかごにのつたやうに、波打つてゐたのです。 平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より
266 :
吾輩は名無しである :2011/01/06(木) 23:54:12
「やあ子」が泊りに来るときはその八畳の中央に床をならべた。康子の「す」の音がうすつぺらな感じを与へるので、 「やあ子」といふ彼女の撫肩そつくりな発音の愛称を、私は好いた。風呂から上るとこの小さな女の子は、洋服を きちんと畳んで枕許におくので、おまんはそれを模範として私にも所謂「いゝ癖」をつけさせようとした。 癪にさはつて私がいふのである。 「お床にいれる方があつたかくなるからボクがいれてあげよう、やあちやん」 気のいゝ彼女はこの親切にさからへない。翌朝、私の床のなかに筋目も何もなくなつたしわくちやな洋服を 見出だして、おまんは憤慨し、やあ子は泣き出すのだつた。 大人つぽく肱で頬つぺたを支へながら、やあ子は心臓を下にし、私は左肩を上にして向ひあひ、お互に床ふかく 埋つて千代紙みたいな会話を交はした。それは千代紙のやうに稚拙な色をもち、金粉をかけ、皺がより、断片的な、 子供特有のあの会話の型式なのだ。私は「天井の木目」がこはくなくてすむところから、かうした夜々を好きに思つた。 ひどく心配さうな目附で彼女が云ふのである。「沙漠のね」 「沙漠の?」 「なんだつたかしら」 「え?……」 「ラクダにのつかつて」 「隊商!」 「隊商がね、ラクダでザックザックつてくるでせう。その音がとほくからきこえるの」 「ほんたう?」 「やめようとおもつてもきこえるの。上をむくときこえないけれど枕を耳にあてるときこえてよ。近くなつて くるわよ、だんだん」 「きこえない」 「あらへんね。やあ子とおんなじ方むいたら?」 「きこえない」 「へんね、やあ子ずつときこえてゝよ。また近くなつた……こはあーい」 さう云ふなり彼女は耳をおさへて私の床へはひつてきた。私は強がらないわけにはいかなくなり、 「大丈夫」とおまんの口真似をするのだつた。 その幻聴はやあ子の貧血の前駆症状だつた。 平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より
267 :
吾輩は名無しである :2011/01/07(金) 00:02:01
玩具をみるときの子供の目つきは、ちやうど美しくめづらしい石をみつけたときの原始人の目付に似てゐる。 子供が大人からその玩具の使用法をおそはつて暫く無意識に何度もねぢを廻しては殆ど目的のぼやけた「興味」を 傾けたのち、はじめて子供はその玩具の本当の使用法を知るに到るのだ。玩具は玩具函のなかにあるものではない。 玩具は子供のなかにゐるものなのだ。母親たちはわづか二、三日でその玩具の機械(からくり)をまはさなく なつた子供に悲観してはならない。玩具がもつてゐる不変の機械作用は、ほんの外面のものに過ぎないのだ。 玩具を了解する瞬間に子供にとつてそれは有形のものではなくなり、無形の抽象物……即ち消極的に生活の一部を 支配し、ある重要なつとめを有(も)つものと変る。かくして私のまはりの透明体の城壁の一部――それを 見透かすときあらゆる生物が植物のやうにみえ、あらゆる事物が不自然に拡大されてみえる城壁の一部として、 その玩具があらたに加はつたのを、私はすぐさま感じた。 平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より
268 :
吾輩は名無しである :2011/01/08(土) 00:57:43
召使たちの別棟は、塀近い御長屋風の二階建で、おまんは塀へむいた二階の二間を占有してゐた。私の部屋の傍から、 長い覆附の渡廊下が、その棟に続いてゐた。祭の日に行列の通る時刻を予め問ひ合はせ、その半時ばかり前から、 おまんが私を迎ひに来るのだつた。これといつて刺戟のない日々に引き比べて、その前の晩、私はなかなか ねつかれなかつた。ことにおまんが自分の部屋を「仕度し」にいつてゐる小一時間、私はひとりでそこへ行つて 了つてはつまらない気がするので、あのお年玉を待つときそつくりな気持でおまんの迎ひを待ちこがれてゐた。 倦怠と焦慮の様子は、両者とも時間をもてあましてゐる点で大へんよく似てゐるものである。(中略) おまんの袖に抱かれるやうにして、「御前様にみつかりなさると大変でございますよ」いふおまんの声に せきたてられて、一気に駈けぬける廊下は長かつた。杜鵑花(さつき)の植込の、非常に赤いのが目に残つた。 几帳面で綺麗好きなおまんは、自分の部屋へ私が来るといふので、女の部屋特有な調度類は皆片附けて、隅々まで 掃除したうへ、道路に面した窓を一杯にあけはなしておいてくれた。なかんづく懐かしかつたのは、その時 用意してくれるウエファースだつた。ふだんの「お茶」にはウエファースなぞあまりつかないのに、祭のたびに おまんが揃へておいてくれるのは決つてウエファースだつた。それも子供じみた秘密な儀式の、たのしい 「しきたり」の一つになつた。 私は窓ぎはにちよこなんとすわつて、祭のさきぶれの、ひどくあけつぱなしな雑踏をながめながら、うすい 九重(ここのへ)に頻りにウエファースをひたしては喰べてゐた。さうしてゐる私は、また自分の背中いつぱいに 注がれてゐる、いとしくてたまらないといふおまんの目附をあたゝかく感じて幸福に思つた。 疎らな竹藪と丈の高いひばの並木は街道のざわめきをよく見せた。裏二階はどこも開け放され、物干は満員だつた。 乾物のいろどりの間に、人の顔がいつぱい詰つてゐるのがゴシック模様のやうだつた。 平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より
269 :
吾輩は名無しである :2011/01/16(日) 10:32:19
常朝は、この人生を夢の間の人生と観じながら、同時に人間がいやおうなしに成熟していくことも知つてゐた。 時間は自然に人々に浸み入つて、そこに何ものかを培つていく。もし人がけふ死ぬ時に際会しなければ、そして けふ死の結果を得なければ、容赦なくあしたへ生き延びていくのである。 (中略)一面から見れば、二十歳で死ぬも、六十歳で死ぬも同じかげろふの世であるが、また一面から見れば 二十歳で死んだ人間の知らない冷徹な人生知を、人々に与へずにはおかぬ時間の恵みであつた。それを彼は 「御用」と呼んでゐる。(中略) 彼にとつて身養生とは、いつでも死ねる覚悟を心に秘めながら、いつでも最上の状態で戦へるやうに健康を大切にし、 生きる力をみなぎり、100パーセントのエネルギーを保有することであつた。 ここにいたつて彼の死の哲学は、生の哲学に転化しながら、同時になほ深いニヒリズムを露呈していくのである。 「葉隠」の死は、何か雲間の青空のやうなふしぎな、すみやかな明るさを持つてゐる。それは現代化された形では、 戦争中のもつとも悲惨な攻撃方法と呼ばれた、あの神風特攻隊のイメージと、ふしぎにも結合するものである。 神風特攻隊は、もつとも非人間的な攻撃?
270 :
吾輩は名無しである :2011/01/16(日) 10:32:58
「葉隠」は一応、選びうる行為としての死へ向かつて、われわれの決断を促してゐるのであるが、同時に、 その裏には、殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たはつてゐる。 人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強ひられることもできない。たとへ、強ひられた死として 極端な死刑の場合でも、精神をもつてそれに抵抗しようとするときには、それは単なる強ひられた死ではなくなる のである。また、原子爆弾の死でさへも、あのやうな圧倒的な強ひられた死も、一個人一個人にとつては 運命としての死であつた。われわれは、運命と自分の選択との間に、ぎりぎりに追ひつめられた形でしか、 死に直面することができないのである。そして死の形態には、その人間的選択と超人間的運命との暗々裏の相剋が、 永久にまつはりついてゐる。ある場合には完全に自分の選んだ死とも見えるであらう。自殺がさうである。 ある場合には完全に強ひられた死とも見えるであらう。たとへば空襲の爆死がさうである。 しかし、自由意思の極致のあらはれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、つひに自分で選んで 選び得なかつた宿命の因子が働いてゐる。また、たんなる自然死のやうに見える病死ですら、そこの病死に 運んでいく経過には、自殺に似た、みづから選んだ死であるかのやうに思はれる場合が、けつして少なくない。 「葉隠」の暗示する死の決断は、いつもわれわれに明快な形で与へられてゐるわけではない。(中略) 「葉隠」にしろ、特攻隊にしろ、一方が選んだ死であり、一方が強ひられた死だと、厳密にいふ権利はだれにも ないわけなのである。問題は一個人が死に直面するといふときの冷厳な事実であり、死にいかに対処するかといふ 人間の精神の最高の緊張の姿は、どうあるべきかといふ問題である。 そこで、われわれは死についての、もつともむづかしい問題にぶつからざるをえない。われわれにとつて、 もつとも正しい死、われわれにとつてみづから選びうる、正しい目的にそうた死といふものは、はたしてあるので あらうか。 三島由紀夫「葉隠入門」より
271 :
吾輩は名無しである :2011/01/16(日) 10:35:29
人間が国家の中で生を営む以上、そのやうな正しい目的だけに向かつて自分を限定することができるであらうか。 またよし国家を前提にしなくても、まつたく国家を超越した個人として生きるときに、自分一人の力で人類の 完全に正しい目的のための死といふものが、選び取れる機会があるであらうか。そこでは死といふ絶対の観念と、 正義といふ地上の現実の観念との齟齬が、いつも生ぜざるをえない。そして死を規定するその目的の正しさは、 また歴史によつて十年後、数十年後、あるひは百年後、二百年後には、逆転し訂正されるかもしれないのである。 「葉隠」は、このやうな煩瑣な、そしてさかしらな人間の判断を、死とは別々に置いていくといふことを考へてゐる。 なぜなら、われわれは死を最終的に選ぶことはできないからである。だからこそ「葉隠」は、生きるか死ぬかと いふときに、死ぬことをすすめてゐるのである。それはけつして死を選ぶことだとは言つてゐない。なぜならば、 われわれにはその死を選ぶ基準がないからである。 われわれが生きてゐるといふことは、すでに何ものかに選ばれてゐたことかもしれないし、生がみづから 選んだものでない以上、死もみづから最終的に選ぶことができないのかもしれない。 では、生きてゐるものが死と直面するとは何であらうか。「葉隠」はこの場合に、ただ行動の純粋性を提示して、 情熱の高さとその力を肯定して、それによつて生じた死はすべて肯定している。それを「犬死などといふ事は、 上方風の打ち上りたる武道」だと呼んでゐる。死について「葉隠」のもつとも重要な一節である。「武士道といふは、 死ぬ事と見付けたり」といふ文句は、このやうな生と死のふしぎな敵対関係、永久に解けない矛盾の結び目を、 一刀をもつて切断したものである。「図に当らぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上りたる武道なるべし。 二つ二つの場にて、図に当ることのわかることは、及ばざることなり」 図に当たるとは、現代のことばでいへば、正しい目的のために正しく死ぬといふことである。その正しい 目的といふことは、死ぬ場合にはけつしてわからないといふことを「葉隠」は言つてゐる。 三島由紀夫「葉隠入門」より
272 :
吾輩は名無しである :2011/01/16(日) 10:35:55
「我人、生くる方がすきなり。多分すきの方に理が付くべし」、生きてゐる人間にいつも理屈がつくのである。 そして生きてゐる人間は、自分が生きてゐるといふことのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。 したがつて「葉隠」は、図にはづれて生きて腰ぬけになるよりも、図にはづれて死んだはうがまだいいといふ、 相対的な考へ方をしか示してゐない。「葉隠」は、けつして死ぬことがかならず図にはづれないとは言つてゐない のである。ここに「葉隠」のニヒリズムがあり、また、そのニヒリズムから生まれたぎりぎりの理想主義がある。 われわれは、一つの思想や理論のために死ねるといふ錯覚に、いつも陥りたがる。しかし「葉隠」が示してゐるのは、 もつと容赦ない死であり、花も実もないむだな犬死さへも、人間の死としての尊厳を持つてゐるといふことを 主張してゐるのである。もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじない わけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。 三島由紀夫「葉隠入門」より
273 :
吾輩は名無しである :2011/01/26(水) 11:09:44
○ 私は眺める人間として生れたかのやうであり、幼時から行動を奪はれ、物事の観照と、人間の心理の分析に長じ、 静的な文体を作つたが、いつしか、その反対の行為者としての自分、抑圧されてゐた自分を発見した。しかし 言葉は全く身について、その感覚は幼時から養はれるものであるから、この新しい自分はほとんど言葉では 現はしやうがなかつた。それを私は肉体としてあらはしたのである。 行為者と存在者は別物であるけれど、観察者の目からは等価である。したがつて観察者の陥りやすい誤解は、 この二つを混同することである。私はのちになつてわかつた。しかし観察者の矜持は表現(言葉、知性)にあつて、 その目からは行為者は美しくはあるが、いつも粗雑に見える。そして行為者の矜持は存在形態あるひは運動形態の 終極的瞬間的な美にかかはるから、観察者はいつも卑しげな奉仕的なものと感じられる。この両者の間には もちろん愛も成立するが、この両者に通暁することは人生の大切な知恵である。 行為者と存在者はどちらが永遠でありうるか? これは肉体がほとんど抽象される迄に、純粋化された瞬間的行為と、 ただ存在する肉体美との、どちらが永遠かと問ふのと等しい。流れを中断した横断面が行為者であり、流れを 体現するものが存在者ともいへよう。しかしこの二つはいつも相交はり、行為者の最高の瞬間は、彫刻芸術のやうな 存在的芸術によつてあらはされ、存在者の最高の姿は、音楽のやうな流動的芸術、行為的芸術によつて あらはされうる。肉体は自らの神殿である。魂はそこに収まつてゐる。肉体は心をこめて管理し磨き上げ、 魂も亦さうする。そしてうつろひやすい肉体はその瞬間々々を、言葉を用ひずに、能ふかぎり非分析的に、記録し、 保留し、記念すべきであり、魂の仕事にかまけて、これを怠つてはならぬのである。 三島由紀夫「魅死魔雪翁百八歳の遺言録――己惚れ」より
274 :
吾輩は名無しである :2011/01/28(金) 15:19:36
It is a gracious, bright garden with no special artifice. The place is full of the cries of cicada that sound as though many worshipers were telling their rosaries. There is not a single sound otherwise in the extreme tranquility. There is nothing in the garden. I have come, Honda thought, to a place where there is no memory, nor anything else. The garden is quiet in the full summer sun.... 「The Decay of the Angel」
275 :
吾輩は名無しである :2011/02/03(木) 12:08:49
刑事訴訟法は手続法であつて、刑事訴訟の手続を、ひどく論理的に厳密に組み立てたものである。それは何の 手続かといふと「証拠追究の手続」である。裁判が確定するまでは、被告はまだ犯人ではなく、容疑者にとどまる。 その容疑をとことんまで追ひつめ、しかも公平に審理して、のつぴきならぬ証拠を追究して、つひに犯人に 仕立てあげるわけである。 小説の場合は、この「証拠」を「主題」に置きかへれば、あとは全く同じだと私は考へた。小説の主題といふのは、 書き出す前も、書いてゐる間も、実は作者にはよくわかつてゐない。主題は意図とは別であつて、意図ならば、 書き出す前にも、作者は得々としやべることができる。そして意図どほりにならなくても傑作ができることがあり、 意図どほりになつても意図だふれの失敗作になることがある。 三島由紀夫「私の小説作法」より
276 :
吾輩は名無しである :2011/02/03(木) 12:09:07
主題はちがふ。主題はまづ仮定(容疑)から出発し、その正否は全く明らかでない。そしてこれを論理的に追ひつめ、 追ひつめしてゆけば、最後に、主題がポカリと現前するのである。そこで作品といふものは完全に完結し、 ちやんとした主題をそなへた完成品として存在するにいたる。つまり犯人が出来上がるのである。 (中略) 手続法は審理がわき道へそれて時間を食ふことを戒めてをり、いつもまつすぐにレールの上を走るやうに 規制されてゐる。私の考へる小説もさうであつて、したがつて私の小説には、およそわき道へそれた面白さ といふやうなものがない。しかし、それは作家の性格であつて、一概に小説とはむだ話の面白味だなどと いふのは俗論である。 三島由紀夫「私の小説作法」より
277 :
吾輩は名無しである :2011/02/03(木) 12:09:28
法律構成は建築に似たところがある。音楽に似たところがある。戯曲に似たところがある。だから、小説の 方法論としては、構成的に厳格すぎるのであるが、私は軟体動物のやうな日本の小説がきらひなあまりに、 むしろかういふリゴリスム(厳格主義)を固執するやうになつた。私には形といふものがはつきり見えて ゐなければつまらない。 したがつて私の小説は、訴訟や音楽と同じで、必ず暗示を含んでごくゆるやかにはじまり、はじめはモタモタして、 何をやつてゐるのかわからないやうにしておいて、徐々にクレシェンドになつて、最後のクライマックスへ 向かつてすべてを盛り上げる、といふ定石をふんでゐる。私にとつては、これがすべての芸術の基本型だと 思はれるので、この形をくづすことはイヤである。 かういふ私の性格は、残念なことに、毎回が短い連載形式には全く合はない。さういふ形式では最初の数回が 勝負であるのに、私は最初の数回で切札を見せるのがきらひだからである。 三島由紀夫「私の小説作法」より
泪橋を逆に渡れ
279 :
吾輩は名無しである :2011/02/09(水) 12:56:50
サルヴァドル・ダリの「最後の晩餐」を見た人は、卓上に置かれたパンと、グラスを夕日に射抜かれた赤葡萄酒の 紅玉のやうな煌めきとを、永く忘れぬにちがひない。それは官能的なほどたしかな実在で、その葡萄酒は、 カンヴァスを舐めれば酔ひさうなほどに実在的に描かれてゐる。それならカラー写真の広告でも同じだと 云はれさうだが、実在の模写の背後に、あの神聖な、遍満する光りの主題があるところが、写真とはちがつてゐる。 その光りの下で、はじめてダリの葡萄酒はキリストの葡萄酒たりえてゐるのである。 吉田健一氏の或る小品を読むたびに、私はこのダリの葡萄酒を思ひ出す。単に主題や思想のためだけなら、 葡萄酒はこれほど官能的これほど実在的である必要がないのに、「文学は言葉である」がゆゑに、又、文学は 言葉であることを証明するために、氏の文章は一盞の葡萄酒たりえてゐるのである。 三島由紀夫「ダリの葡萄酒」より
280 :
吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 19:57:55
日沼氏と私は、ほとんど死についてしか語り合はなかつたやうな気がする。氏は、今から考へれば死の近い人特有の 鋭い洞察力で、私の文学の目ざす方向の危険について、掌(たなごころ)を斥すやうによく承知してゐた。 氏は会ふたびに、私に即刻自殺することをすすめてゐたのである。もちろん買被りに決つてゐるが、氏は私が 今すぐ自殺すれば、それはキリーロフのやうな論理的自殺であつて、私の文学はそれによつてのみ完成する、と 主張し、勧告するのであつた。その当人に突然死なれた私の愕きは云ふまでもあるまい。電話で訃音に接したとき、 咄嗟にその死を、私が自殺と思ひちがへたのも無理はあるまい。しかし病死であればあるほど、生きてゐる同士なら 酒間の冗談でも済ませられるものが、済ませられなくなつたといふ重荷は私の肩に残る。いかなる意味でも、 それは冗談ではなくなつたのである。 三島由紀夫「日沼氏と死」より
281 :
吾輩は名無しである :2011/02/10(木) 19:58:57
氏といへども、もちろん私について誤解はしてゐた。私が文学者として自殺なんか決してしない人間であることは、 夙に自ら公言してきた通りである。私の理窟は簡単であつて、文学には最終的な責任といふものがないから、 文学者は自殺の真のモラーリッシュな契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。 すなはち、武士の自刃しかみとめない。そんな男に、文学者としての「論理的自殺」をすすめてやまなかつた氏は、 あるひは私を誤解してゐたのかもしれないが、あるひは実は、私なんか眼中になく、私に託して、自らの夢を 語つてゐたのかもしれないのである。人からきいた話だが、ある雑誌の「私のなりたい職業」といふ問ひに、 「隠亡」と答へた氏であつたさうである。 三島由紀夫「日沼氏と死」より
282 :
吾輩は名無しである :2011/02/14(月) 12:52:52
「友達」は、安部公房氏の傑作である。 この戯曲は、何といふ完全な布置、自然な呼吸、みごとなダイヤローグ、何といふ恐怖に充ちたユーモア、 微笑にあふれた残酷さを持つてゐることだらう。 一つの主題の提示が、坂をころがる雪の玉のやうに累積して、のつぴきならない結末へ向つてゆく姿は、 古典悲劇を思はせるが、さういふ戯曲の形式上のきびしさを、氏は何と余裕を持つて、洒々落々と、観客の鼻面を 引きずり廻しながら、自ら楽しんでゐることだらう。 まことに羨望に堪へぬ作品である。 かういふ純粋な作品については、あまり暗喩に心をわづらはされぬはうがいいだらう。連帯の思想が孤独の思想を 駆逐し、まつたくの親切気からこれを殺してしまふ物語は、現代のどこにでもころがつてゐる寓話であるが、 この社会的連帯の怪物どもは、日本的ゲマインシャフトの臭気を放つことによつて、一そう醜く、又、一そう 美しくなる。大詰の幕切れの、光りを浴びて次の犠牲を求めに出発する家族像は、ほとんど聖家族の面影を そなへてゐる。 三島由紀夫「安部公房『友達』について」より
283 :
吾輩は名無しである :2011/02/14(月) 12:53:53
これは動いてゐる小説である。動いて、動いて、時々おどろくほど鮮明な映像があらはれながら、却つて現実の謎は 深まつてゆく。たえざるサスペンス、そして卓抜な会話が社会の投影図法を描き、犯罪の匂ひと、尾行と襲撃と、 ……その結果、イリュージョンがつひに現実に打ち克ち、そこから見た現実自体の構造が、突然すみずみまで 明晰になる。ラストのモノロオグが、この小説の怖ろしい解決篇であり、作品全体の再構築であるところに、 一篇の主題がこもつてゐる。失踪者の前にのみ、未来が姿をあらはすのだ。安倍氏がその小説の中に、会話の天才を みごとに活かし、「砂の女」よりも「他人の顔」よりも、はるかに迅速に疾走してみせた小説である。 三島由紀夫「安部公房著『燃えつきた地図』推薦文」より
284 :
吾輩は名無しである :2011/02/25(金) 12:05:00.53
インドにいける奴といけない奴がいる。それは個人のカルマによる。 君がインドに行くのではない。インドが君を呼ぶんだ。 三島由紀夫
285 :
吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 14:38:20.71
私はごく最近、「諸君!」七月号で、貴兄と高坂正尭氏の対談「自民党ははたして政党なのか」を読みました。 そして、はたと、これは士道にもとるのではないかといふ印象が私を搏ちました。私は何も自民党の一員では ありませんし、この政党には根本的疑問を抱いてゐます。しかし社会党だらうと、民社党だらうと、士道といふ 点では同じだといふのが私の考へです。 実はこの対談の内容、殊に貴兄の政治的意見については、自民党のあいまいな欺瞞的性格、フランス人の記者が いみじくも言つたやうに「単独政権ではなくそれ自体が連立政権」に他ならない性格、又、核防条約に対する態度、 等、ほとんど同感の意を表せざるをえないことばかりです。 貴兄に言はせれば、三島が士道だなどと何を言ふか、士道がないからこそ多数を擁して存立してゐる自民党なのだ、 といふことになるかもしれません。しかし、「ウエスト・サイド・ストーリイ」の不良少年の歌ではないが、 すべてを社会の罪とし、自分らの非行をも社会学的病気だと定義するとき、個人の責任と決断は無限に融解してしまふ。 現代社会自体が、自民党のこの無性格と照応してゐることは、そこにこそ自民党の存立の条件があるといへるで せうし、坂本二郎氏などはそんな意見のやうです。 しかし、貴兄が自民党に入られたのは、そのやうな性格を破砕するためだつた筈です。私はこの対談を二度読み 返してみて、貴兄がさういふ反党的(!)言辞を弄されること自体が、中共使節の古井氏のおどろくべき反党的 言辞までも、事もなげに併呑する自民党的体質のお蔭を蒙つてゐる、といふ喜劇的事実に気づかざるをえませんでした。 貴兄が自民党の参院議員でありながら、ここまで自民党をボロクソに仰言る、ああ石原も偉いものだ、一方それを 笑つて眺めてゐる佐藤総理も偉いものだ。いやはや。これこそ正に、貴兄が攻撃される自民党の、「政党といふ ものの本体は、欺瞞でしかないといふことを、政党としての出発点から自分にいひ聞かせてゐるやうなところ」 そのものではありませんか。 三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
286 :
吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 14:39:02.52
私の言ひたいのは、内部批判といふことをする精神の姿勢の問題なのです。この点では磯田光一氏のいふやうに、 少々スターリニスト的側面を持つ私は、小うるさいことを言ひます。党派に属するといふことは、(それが どんなに堕落した党派であらうと)、わが身に一つのケヂメをつけ、自分の自由の一部をはつきり放棄することだと 私は考へます。 なるほど言論は自由です。行動に移されない言論なら、無差別に容認され、しかも大衆社会化のおかげで、 赤も黒も等しなみにかきまぜられ、結局、あらゆる言論は、無害無効無益なものとなつてゐるのが現況です。 ジャーナリズムの舞台で颯爽たる発言をして、一夕の興を添へることは、何も政治家にならなくても、われわれで 十分できることです。もちろん貴兄が政治の実際面になかなか携はれぬ欲求不満から、言論の世界で憂さ晴らしを されてゐるといふ心情もわからぬではありません。 では、何のために貴兄は政界へ入られたか? 貴兄を都知事候補にすることに、ほとんどの自民党議員が反対し、 年功序列が狂ふのを心配してゐる、と貴兄は言はれるが、もともと文壇のやうな陰湿な女性的世界をぬけ出して、 権力争奪と憎悪と復讐が露骨に横行する政界に足を踏み入れた貴兄にとつては、そんなことは覚悟の前であつた 筈です。 私は貴兄のみでなく、世間全般に漂ふ風潮、内部批判といふことをあたかも手柄のやうにのびやかにやる風潮に 怒つてゐるのです。貴兄の言葉にも苦渋がなさすぎます。男子の言としては軽すぎます。 昔の武士は、藩に不平があれば諫死しました。さもなければ黙つて耐へました。何ものかに属する、とはさういふ ことです。もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危ない一点にしか ありません。 私は政治のダイナミズムとは、政治的権威と道徳的権威の闘争だと考へる者です。これは力と道理の闘争だと 考へてもよいでせう。 三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
287 :
吾輩は名無しである :2011/03/01(火) 14:39:26.60
この二つはめつたに一致することがないから相争ふのだし、争つた結果は後者の敗北に決つてゐますが、歴史が 永い歳月をかけてその勝敗を逆転させるのだ、と信ずる者です。もちろん楽天的な貴兄の理想は、この力と道理を 自らの手で一致させるところにあるのでせうし、悲観的な小生の行蔵は、道理の開顕にしかありません。しかし 今のところ貴兄の言説には、悲しいかな、その政治的権威も道徳的権威も、二つながら欠けてゐます。貴兄に 言はせれば、すべては自民党が悪いのでせうが、どうもこの欠如は、貴兄のケヂメを軽んずる姿勢に由来する やうに思へてなりません。W・H・オーデンは、「第二の世界」の中で、「文学者が真実を言うために一身を 危険にさらしているという事実が、彼に道徳的権威を与える」と言つてゐますが、これは政治家でも同じことです。 「士道すでにみちたる上は、節によるこそよけれ」と、斎藤正謙が「士道要論」で言つてゐる「士節」とは、 この道徳的権威の裏附をなすものでもありませう。 三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
288 :
吾輩は名無しである :2011/03/09(水) 11:09:14.78
僕はどこにゐてもその場に相応しくない人間であるやうに思はれる。どこへ出掛けても僕といふ人間が、あるべきで ない処にゐる存在のやうに思はれる。(中略)これは驕つた嘆きといふものだらうか。かういふ嘆きに低迷して ゐるのは、僕の心構へが甘いからだらうか。真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。 彼はむしろ自ら客を招くべきであらう。自分の立脚点をわきまへ、そこに立つて主人役たるべきであらう。 とはいへ、この居心地のわるさが多くの場合僕の作品の生れる契機となつてゐる。僕は偶々口に入つた異物に 対する不快よりも先に、口に入れられた異物自身の不快を知つてゐる。このことは却つて、ある時代に生きる 人々の不幸を知るより先に、ある時代それ自身の持つ不幸を直感せしめる捷径である。少くとも僕はさう信じたい。 ――僕を招かれざる客として遇する時間と場所の更に奥・更に彼方に存するものと僕は不幸を頒ち合ひ、頒ち 合ふことによつて親近感を得ようと欲しもする。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より
289 :
吾輩は名無しである :2011/03/09(水) 11:09:37.14
今我々がそれと対決を迫られてゐる戦後の茫々たる無秩序は、我々の好悪・理論・道徳的信念のよく左右しうる ところではない。解釈は可能であり、依然として解決は不可能である。たゞ僕は招かれざる客としてかう直感する 自由をもつてゐる。「無秩序自身にとつて無秩序は不幸であるに相違ない」と。僕は時代が自身に不幸を 課したのだと思ふ。 そしてまた人間がこの期に及んでも抱いて離さないナルチスムスの凄惨さを考へる。人間は己が病毒を指摘される ことによつても容易に己惚れる。この弱味につけこむ者が喝采を博するのは当然なことである。人間を人間から 放逐すること以外に、よき治療法は残されてゐないのではないかとさへ思はれる。それといふのも僕は戦争時代に 人間が人間を見失つたとは考へてゐないからだ。戦争時代には人は今よりももつと切なく、人間といふ最愛の者の 消息にひたすら耳を澄ましてゐたと知つてゐるからだ。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より
290 :
吾輩は名無しである :2011/03/09(水) 11:10:02.56
然しナルチスムスの昂進は、地上に嘗てないほど孤独が繁殖してゆくのと正比例するやうである。ナルチスムスの 考察は孤独の考察に帰着するやうである。そのためにも僕は招かれざる客の冷め果てた目が自分に備はつてくるまで 待ちたいと念(ねが)ふ。その目を養ひ育てることが当為ではなくて義務だと感ずる。僕はその時人間関係を フラスコの中、真空状態の中にとぢこめてみたい。心理の化学変化をしらべ、元素の周期律表のやうな、心理の 様式化と象徴化を完成したい。人間を一旦孤独といふ元素に還元し、いかに複雑微妙な結合を示す時も、その 元素の姿を見失はぬやうにしたい。かうして抽象化された熱情が、熱情本来の属性を悉く備へながら、たとへば 乾板の上に定着された焔の一瞬の姿のやうな、もはや身動きならぬ形をとるのが見たい。定着は、いひかへれば 表現は、瞬時の出来事であるべきである。何ものもとらへぬ瞬間と凡てをとらへる瞬間とは、同一の瞬間である筈だ。 物そのものでもなく固化した標本でもない生(芸術の対象としての)は、かうしてとらへられる他はない。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より
291 :
吾輩は名無しである :2011/03/09(水) 11:10:22.38
(中略)(僕が好んで戯曲を読むのも)人間の孤独と、対話の絶望的な不可能とをあれほど直截に感じさせる型式は ないからである。言葉による表現といふ行為もかくて一の戯曲的行為に他ならないとすれば文学は戯曲にその 一つの典型を見出すことができる。偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦、独白に他ならぬ。 ゲエテが「諸々の山頂に、安息ぞ在る」といふあの詩句をキッケルハーンの頂に書きしるした時、彼は独白者の 運命を予覚したのであつたらう。 しかしいかに孤独が深くとも、表現の力は自分の作品ひいては自分の存在が何ものかに叶つてゐると信ずることから 生れて来る。自由そのものの使命感である。では僕の使命は何か。僕を強ひて死にまで引摺つてゆくものが それだとしか僕には言へない。そのものに対して僕がつねに無力でありただそれを待つことが出来るだけだとすれば、 その待つこと、その心設(こころまう)け自体が僕の使命だと言ふ外はあるまい。僕の使命は用意することである。 平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より
292 :
吾輩は名無しである :2011/03/09(水) 17:46:37.09
何とでも仰いまし、私は誰も馬鹿にしていはしません。その代り尊敬も致しません。 持ちつ持たれつで動いている世の中が丸い輪のようなものだとすると、私はその輪の 切れ目になりたいんです。 そらで覚えていたので、どの小説だったかちょっと定かではありません。 確か“青の時代”だったように思うのですが。
293 :
吾輩は名無しである :2011/03/09(水) 21:02:10.95
294 :
吾輩は名無しである :2011/03/26(土) 11:48:59.60
男は一人のこらず英雄であります。私は男の一人として断言します。ただ世間の男のまちがつてゐる点は、 自分の英雄ぶりを女たちにみとめさせようとすることです。 「何くそ! 何くそ!」 これが男の子の世界の最高原理であり、英雄たるべき試練です。 「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。 子惚気ばかり言ふ男は、家庭的な男といふ評判が立ち、へんなドン・ファン気取の不潔さよりも、女性の好評を 得ることが多いさうだが、かういふ男は、根本的にワイセツで、性的羞恥心の欠如が、子惚気の形をとつて 現はれてゐる。 動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。 男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは一つもない。 三島由紀夫「第一の性」より
295 :
吾輩は名無しである :2011/03/26(土) 11:49:21.68
女は「きれいね」と、云はれること以外は、みんな悪口だと解釈する特権を持つてゐる。なぜなら男が、 「あいつは頭がいい」と云はれるのは、それだけのことだが、女が「あの人は頭がいい」と云はれるのは、概して その前に美人ではないけれどといふ言葉が略されてゐると思つてまちがひないからです。 「積極的」といふのと、「愛する」といふのとはちがふ。最初にイニシァチブをとるといふことと、「愛する」と いふこととはちがふ。 相手の気持ちをかまはぬ、しつこい愛情は、大てい劣等感の産物と見抜かれて、ますます相手から嫌はれる羽目になる。 愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。 小説家と外科医にはセンチメンタリズムは禁物だ。 男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、どの恋愛読本にも 書いてないのはふしぎなことです。 三島由紀夫「第一の性」より
296 :
吾輩は名無しである :2011/03/26(土) 11:49:41.32
変り者の変り者たる所以は、その無償性にあります。世間に向つて奇を衒ひ、利益を得ようとするトモガラは、 シャルラタン(大道香具師)であつて、変り者ではありません。 変り者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からは どう見ても無意味なものに対して、頑固に忠実にありつづける。 男の性慾は、ものの構造に対する好奇心、探求慾、研究心、調査熱、などといふものから成立つてゐる。 男には謎に耐へられない弱さがある。 男に与へられてゐる高度の抽象能力は、この弱さの楯であつたらしい。抽象能力によつて、現実と人生の謎を、 カッチリした、キチンと名札のついた、整理棚に納めることなしには、男は耐へられない。 人間は安楽を百パーセント好きになれない動物なのです。特に男は。……こればかりは、どんなにえらい御婦人たちが 矯正しようとかかつても、永久に治らない男の病気の一つであります。 三島由紀夫「第一の性」より
297 :
吾輩は名無しである :2011/03/26(土) 11:50:00.43
スタアといふものには、大てい化物じみたところがあるものです。 政治家の宿命は、死後も誤解を免かれないところにあるのでせう。 俳優といふショウ・アップ(見せつける)する職業には、本質的にナルシスムと男色がひそんでゐると云つても 過言ではない。 宗教家ほどある意味では男くさい男はありません。そこでは余分の男がギュウギュウ抑へつけられ、身内に溢れて ゐるからです。 宗教家といふものには、思想家(哲学者)としての一面と、信仰者としての一面と、指導者、組織者としての一面と、 三つの面が必要なので、それには、男でなければならず、キリストも釈迦も、男でありました。 三島由紀夫「第一の性」より
298 :
吾輩は名無しである :2011/03/28(月) 12:09:23.94
新人の辛さは、「待たされる」辛さである。 私もそのころの太宰氏と同年配になつた今、決して私自身の青年の客気を悔いはせぬが、そのとき、氏が初対面の 青年から、 「あなたの文学はきらひです」 と面と向つて言はれた心持は察しがつく。私自身も、何度かさういふ目に会ふやうになつたからである。 思ひがけない場所で、思ひがけない時に、一人の未知の青年が近づいてきて、口は微笑に歪め、顔は緊張のために 蒼ざめ、自分の誠実さの証明の機会をのがさぬために、突如として、「あなたの文学はきらひです。大きらひです」 と言ふのに会ふことがある。かういふ文学上の刺客に会ふのは、文学者の宿命のやうなものだ。もちろん私は こんな青年を愛さない。こんな青臭さの全部をゆるさない。私は大人つぽく笑つてすりぬけるか、きこえないふりを するだらう。 ただ、私と太宰氏のちがひは、ひいては二人の文学のちがひは、私は金輪際、「かうして来てるんだから、 好きなんだ」などとは言はないだらうことである。 三島由紀夫「私の遍歴時代」より
299 :
吾輩は名無しである :2011/03/28(月) 12:10:01.44
青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。人間には、知らないことだけが役に立つので、 知つてしまつたことは無益にすぎぬ、といふのは、ゲエテの言葉である。どんな人間にもおのおののドラマがあり、 人に言へぬ秘密があり、それぞれの特殊事情がある、と大人は考へるが、青年は自分の特殊事情を世界における 唯一例のやうに考へる。 小説は書いたところで完結して、それきり自分の手を離れてしまふが、芝居は書き了へたところからはじまるので あるから、あとのたのしみが大きく、しかもそのたのしみにはもはや労苦も責任も伴はない。 芝居の仕事の悲劇は、この世でもつとも清純なけがれのない心が、一度芝居の理想へ向けられると、必ずひどい目に 会ふのがオチだといふことである。その一例として、今もときどき私が思ひ出すのは、加藤道夫氏のことである。 三島由紀夫「私の遍歴時代」より
300 :
吾輩は名無しである :2011/03/28(月) 12:10:25.28
芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。自分だけは犯されまいと思つても、 いつのまにかこの毒に犯されてゐる。この世界で絶対の誠実などといふものを信じたら、えらい目に会ふのである。 或るアメリカ人が、ニューヨークで、芝居を見るのは実に好きだが、劇壇の人たちはcorrupt people(腐敗した 人たち)だからきらひだ、と言つてゐたのも、一面の真実を伝へてゐる。 しかし、煙草のニコチンと同じで、毒があるからこそ、魅力もある。こればかりは、どう仕様もない。 大体私は「興いたれば忽ち成る」といふやうなタイプの小説家ではないのである。いつもさわぎが大きいから 派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの小説家である。このごろの銀行が、派手なショウ・ ウィンドウをくつつけたりしてゐる姿を、想像してもらつたらよからう。 忘却の早さと、何ごとも重大視しない情感の浅さこそ、人間の最初の老いの兆だ。 三島由紀夫「私の遍歴時代」より
301 :
吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 20:21:30.01
文学に対する情熱は大抵春機発動期に生れてくるはしかのやうなものである。一度女と寝てみたいと少年が 夢みるやうに、一度小説といふものを書いてみたいと、少年は空想する。 (中略) ニイチェが孔雀のやうなきらびやかな奇警な本をつぎつぎと書いたのは、彼の梅毒初期であつた。それと知らずに 彼自身は自分が天才である証拠としか考へなかつた。しかし芸術家の健康とはかくの如きものである。彼の精神が 最高度の高さと深さと幅において表現される状態が、この一種宙に泛んで透明な自我の構造をすみずみまで 見渡せるやうな状態が芸術家の本当の健康の姿である。生涯にわたつて創造力の朗らかな湧出の尽きない作家とは、 いはば内部のどこかしらに梅毒初期の症状の如きものを恒久的に手なづけてゐる作家であつて、ゲーテのやうな 人間をふつうの意味で健全な悠々たる半神のやうに思ふのは俗見にすぎず、ゲーテはむしろ病症を巧みに固定し 再構成した作家であつた。思春期もまたかくの如きものである。 三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より
302 :
吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 20:21:51.74
われわれは人生を自分のものにしてしまふと、好奇心も恐怖もおどろきも喜びも忘れてしまふ。思春期に於ては 人生は夢みられる。われわれ生きることと夢みることと両方を同時にやることができないのであるが、かういふ 人間の不器用に思春期はまだ気づいてゐない。 (中略) 思春期にある潔癖感は、多く自分を不潔だと考へることから生れてくる。かう考へることは少年たちを安心させるが、 それは自分がまだ人生から拒まれ排斥されてゐるといふ逆説的な怠惰な安堵なのである。谷崎潤一郎氏の「少年」は この心理の証明であり、「神童」はそれと全く反対の方向の正常な心理の解明である。(中略) 「神童」の主題は、あらゆる思春期の怠惰をもたない勤勉と立身出世の主題でありこの人生における勤勉は、 人生における怠惰の上に成立つてゐた「神童」の名を滅ぼすのであるが、このとき滅びるものは「神童」の 名のみではなく、彼の中にあらゆる抵抗を以て育つてゐた純潔な怠惰、詩の本能もまた滅びるのである。思春期を 殺してしまつた詩人といふものは考へられない。 三島由紀夫「文学に於ける春のめざめ」より
303 :
吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 20:39:22.91
作品といふものは作者の身幅に合つた衣裳であつてはならない。自分自身になり切つたとき作者は死ぬのである。 ところが作者の身幅に合つた衣裳は、あたかも作者が自分自身になり切つてゐるかのやうな錯覚を読者に与へる。 自分自身になり切つたら作品は書けない筈なのを、なほかつ、自分自身になり切つたかのごとき作品が存在するのは をかしい。そこには何かまやかしがなければならない。そのまやかしとは、作者と作中の主人公が同一人で あるといふトリックだ。私小説が非難されるのはこの点であらう。尤も私は志賀直哉氏の暗夜行路などは、 いはゆる私小説だと考へてゐない。 たとへば禅が不立文字をとなへるのは、禅といふものが、「自己自身になりきること」を直接の道標とするからで あらう。自己自身になりきることが一生の道標である点では、文学もかはりがない。ただそれが直接の道標では ないだけである。直接の道標であれば作品は要らない。 三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より
304 :
吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 20:40:21.10
一生の果てに、瀕死の瞬間に、自己自身になりきらうと目指す文学がある。それを純粋な文学と私は呼ばう。 白鳥は末期の一声を美しく歌はうがために、一生を沈黙のうちに暮すといふ。作家は末期の瞬間に自己自身に なりきつた沈黙を味はふがために一生を語りつづけ喋りつづける。白鳥の一生の沈黙と、作家の一生の饒舌と、 それは畢竟同じものである。 安易に自己自身になりきれるかのやうな無数のわなからのがれるために、純粋な作家は遠まはりを余儀なくされる。 それも誰よりも遠い、一番遠い遠まはりを。――従つて純粋な作家の方法論は、不純のかたまりでなければならぬ。 さうでなければ、その純粋さは贋ものである。一つの純粋さのために千の純粋さが犠牲にされねばならぬ。 三島由紀夫「極く短かい小説の効用」より
305 :
吾輩は名無しである :2011/03/31(木) 21:13:26.46
なぜ自分が作家にならざるを得ないかをためしてみる最もよい方法は、作品以外のいろいろの実生活の分野で活動し、 その結果どの活動分野でも自分がそこに合はないといふ事がはつきりしてから作家になつておそくない。 小説家はまづ第一にしつかりした頭をつくる事が第一、みだれない正確な、そしていたづらに抽象的でない、 はつきりした生活のうらづけのある事が必要である。何もかもむやみに悲しくて、センチメンタルにしか物事を 見られないのは小説家としても脆弱である。 バルザックは毎日十八時間小説を書いた。本当は小説といふものはさういふふうにしてかくものである。詩のやうに ぼんやりインスピレーションのくるのを待つてゐるものではない。このコツコツとたゆみない努力の出来る事が 小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかはりないと思ふ。 なまけものはどこに行つても駄目なのである。 三島由紀夫「作家を志す人々の為に」より
>小説家はまづ第一にしつかりした頭をつくる事が第一、みだれない正確な、そしていたづらに抽象的でない、 はつきりした生活のうらづけのある事が必要である よく言うよ。こいつからいたづらに抽象的でない部分を取ったら何も残らないくせにさ。
>>306 いや、三島は法学部出身だし、基礎的な頭は具体的でしっかりした勤勉家だよ。その基盤があるから、一連の壮大な創作物や優れた評論が書けたわけよ。
それがわからないあんたの目は節穴。
308 :
吾輩は名無しである :2011/04/23(土) 22:04:10.77
これに尽きる。 正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇つた。 (豊穣の海 第2作「奔馬」)
309 :
吾輩は名無しである :2011/04/23(土) 22:38:18.34
310 :
吾輩は名無しである :2011/05/03(火) 16:12:48.13
「また会うぜ、きっと会う。滝の下で」 「春の雪」より
311 :
吾輩は名無しである :2011/05/13(金) 18:10:37.83
天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。 三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より 人間のあらゆるいやらしさと崇高さとがちっとも矛盾しないのが人間だと思うんですよ。 三島由紀夫 河上徹太郎との対談「創作批評」より 大正文壇とはちがつて、いまは、「徹吉が書斎のほうへ暗い廊下を歩いていった」と書くとして、その場合に 読者は、徹吉は実はだれなんだろうとか、これは「私」のことだろうかというようなことは考えなくなってきた。 それを作者も心得て書いている。ことばの表現おのおのにしても、ここにあるトンボを書くにはたしかにこの ことばしかないか、ということばに対するフェティッシュな信仰みたいなものはなくなっている。(中略) ことばに対する異常な集中力、梶井(基次郎)さんなどにあったそういうものはなくなった。それから人称に 対する潔癖さ、「私」と書くか「彼」と書くか、それによって心理が全部変わっちゃうような、そんな潔癖さも なくなって、そういう点では最近の小説はことばに対する感覚が昔とかなり変わってきたということは感じます。 三島由紀夫 伊藤整・本多秋五との対談「戦後の日本文学」より
312 :
吾輩は名無しである :2011/05/13(金) 20:58:24.67
こんなやつの小説読んでたら、言文一致体の進化がとどこおるよ。読む必要なし。
314 :
吾輩は名無しである :2011/05/16(月) 21:12:55.86
……下手なピアノの音を私はきいた。 (中略) そのピアノの音色には、手帖を見ながら作つた不出来なお菓子のやうな心易さがあり、 私は私で、かう訊ねずにはゐられなかつた。 「年は?」 「十八。僕のすぐ下の妹だ」 と草野がこたへた。 ――きけばきくほど、十八歳の、夢みがちな、しかもまだ自分の美しさをそれと知らない、 指さきにまだ稚なさの残つたピアノの音である。私はそのおさらひがいつまでもつづけ られることをねがつた。願事は叶へられた。私の心の中にこのピアノの音はそれから五年後の 今日までつづいたのである。何度私はそれを錯覚だと信じようとしたことか。何度私の理性が この錯覚を嘲つたことか。何度私の弱さが私の自己欺瞞を笑つたことか。それにもかかはらず、 ピアノの音は私を支配し、もし宿命といふ言葉から厭味な持味が省かれうるとすれば、 この音は正しく私にとつて宿命的なものとなつた。 三島由紀夫「仮面の告白」より
315 :
吾輩は名無しである :2011/05/16(月) 21:13:32.74
驟雨がやみ、夕日が室内へさし入つた。 園子の目と唇がかがやいた。その美しさが私自身の無力感に飜訳されて私にのしかかつた。 するとこの苦しい思ひが逆に彼女の存在をはかなげに見せた。 「僕たちだつて」――と私が言ひ出すのだつた。「いつまで生きてゐられるかわからない。 今警報が鳴るとするでせう。その飛行機は、僕たちに当る直撃弾を積んでゐるのかも しれないんです」 「どんなにいいかしら」――彼女はスコッチ縞のスカアトの襞を戯れに折り重ねてゐたが、 かう言ひながら顔をあげたとき、かすかな生毛(うぶげ)の光りが頬をふちどつた。 「何かかう……、音のしない飛行機が来て、かうしてゐるとき、直撃弾を落してくれたら、 ……さうお思ひにならない?」 これは言つてゐる園子自身も気のつかない愛の告白だつた。 三島由紀夫「仮面の告白」より
316 :
吾輩は名無しである :2011/05/16(月) 21:14:14.93
半月形の襟で区切られた彼女の胸は白かつた。目がさめるほどに! さうしてゐる時の 彼女の微笑には、ジュリエットの頬を染めたあの「淫らな血」が感じられた。処女だけに 似つかはしい種類の淫蕩さといふものがある。それは成熟した女の淫蕩とはことかはり、 微風のやうに人を酔はせる。それは何か可愛らしい悪趣味の一種である。たとへば赤ん坊を くすぐるのが大好きだと謂つたたぐひの。 私の心がふと幸福に酔ひかけるのはかうした瞬間だつた。すでに久しいあひだ、私は 幸福といふ禁断の果実に近づかずにゐた。だがそれが今私を物悲しい執拗さで誘惑してゐた。 私は園子を深淵のやうに感じた。 三島由紀夫「仮面の告白」より
317 :
吾輩は名無しである :2011/05/16(月) 21:14:57.27
私は体を離して一瞬悲しげな目で園子を見た。彼女がこの時の私の目を見たら、彼女は 言ひがたい愛の表示を読んだ筈だつた。それはそのやうな愛が人間にとつて可能であるか どうか誰も断言しえないやうな愛だつた。 三島由紀夫「仮面の告白」より
318 :
吾輩は名無しである :2011/05/30(月) 12:05:16.87
女の踝が美しいのは、このいかにも慎みのない突起が、なめらかな脚のつづきに現はれて、 そこで突然動物的なものを感じさせるからだらう。 ヤクザ特有の死に関する単純な投げやりな見解、真情を隠して抵抗する可愛い女、それらは 身についた卑俗と卑小の独特の詩を荷つてゐる。凡庸さを一寸でも逸脱したら忽ち失はれる やうな詩が、かういふ物語の中にはこもつてゐる。天才に禍ひあれ。この種の詩は決して 意識されてはならず、看過されるときだけ薫りを放つのだ。そして大多数の映画は すばらしいことに、すべてを看過しながら描写してしまふ。 三島由紀夫「スタア」より
319 :
吾輩は名無しである :2011/05/30(月) 12:05:48.09
「霧の夜道に青い灯に、 別れた瞳が気にかかる」 この種の凡庸と卑俗の詩は、言葉の置き換へのゆるされない厳然たる存在だといふことに 誰が気づくだらう。人がかういふ詩の存在を許すのは、それらが紋切型で無力で蜉蝣のやうに 短命だと思つてゐるからだ。ところが永生を約束されてゐるのは実はこれのはうで、 悪が尽きないやうに、それは尽きない。鱶(ふか)のお腹についてゐる小判鮫のやうに、 それはどこまでも公式の詩のお腹について泳ぐのだ。それは創造の影、独創の排泄物、 天才の引きずつてゐる肉体だ。安つぽさだけの放つ、ブリキの屋根の恩寵的な輝き、 うすつぺらなものだけが持つことのできる悲劇の迅速さ、十把一からげの人間だけが見せる、 あの緻密な念の入つた美しさと哀切さ。愚昧な行動だけがかもし出す夕焼けのやうな 俗悪な抒情。……すべてこれらのものに守られ、これらの規約に忠実に従つた、この種の 物語を僕はとても愛する。 三島由紀夫「スタア」より
320 :
吾輩は名無しである :2011/05/30(月) 12:06:35.00
幸福がつかのまだといふ哲学は、不幸な人間も幸福な人間もどちらも好い気持にさせる力を 持つてゐる。 「見られる」といふことがどういふことか、世間の人にいくら説明しても無駄だと思ふ。 正に「見られる」といふ僕らの特質が、僕らを世間から弾き出し、世外の人にしてしまふ 原因だからだ。 僕は、一緒に寝てくれといふ女より、どこかで自涜してゐる女のはうが、はるかに 好きなことはたしかである。僕が本当のラヴ・シーンと考へるものはこれしかない。 スタアはあくまで見かけの問題よ。でもこの見かけが、世間の『本当の認識』の唯一つの 型見本、唯一つの形にあらはれた見本だといふことを、向う様も十分御存知なんだわ。 世間だつて、結局認識の源泉は私たちの信仰してゐる虚偽の泉から汲んで来なければ ならないことを知つてるの。ただその泉には、絶対にみんなの安心する仮面がかぶせて なければ困るのよ。その仮面がスタアなんだわ。 三島由紀夫「スタア」より
ランボー詩集の序文が好き
322 :
吾輩は名無しである :2011/06/04(土) 12:05:11.95
われわれが築くべき次代の駘蕩たる文化も亦、古い時代の駘蕩たる文化の残した生ける証拠を基ゐにして築かれる。 平岡公威(三島由紀夫)「沢村宗十郎について」より
323 :
吾輩は名無しである :2011/06/05(日) 19:05:41.54
真夏の豪華な真っ盛りの間には 我らはより深く死に動かされる
また三島は「生活に足るものには様式がなくてはならない」 と書いています。年中行事・しきたり・礼儀作法・言葉遣い、 そのようなものから突如として異常な情熱が立ち上がります。 生活は様式によってこれを包み隠そうとし、 情熱は様式に逆らおうとします。情熱と様式の間に生じる緊張が、 様式をよみがえらせこれを高めます。 観客は生活を代表し、俳優は情熱を代表しなければなりません。 しかし現代のように観客の生活が無秩序になり様式が失われた時代には、 精神が様式を要求し生活に秩序をもたらさなければならない、と言うのです。 だから「僕の書く脚本は、悲しいかな、精神的なものになる。」 (「贅沢問答」昭和26年)
325 :
吾輩は名無しである :2011/06/06(月) 18:06:37.04
日本の歴史の上の創造即ち「むすび」は段階的なものではなく、デカダンスの次の空間から生れるものではない。 「かへる」のではなく、いはゆる復古でもない。その前によこたはるものゝ「はじめ」が次の「はじめ」を誘致する。 「をはり」は「はじめ」を誘致するのではなく、「はじめ」が常に「はじめ」につらなるのである。これは 日本風な創造であり、仏教風な輪廻思想ではない。「はじめ」の連結により歴史が形づくられるが、「をはり」と 「はじめ」は革命思想でむすびつけられるのではない。「はじめ」が「はじめ」に結びつきうるのは血の ありがたさで血の連続なきところにはかゝる結合はうまれない。支那では「はじめ」が「はじめ」にむすびつくなど 考へられぬ。日本ではじめて天壌無窮の御神勅ははじめて意義をもつのである。 平岡公威(三島由紀夫)18歳「近松半二」より
326 :
吾輩は名無しである :2011/06/22(水) 16:31:54.81
ナルシシズムというのは、自分の問題じゃないでしょうね。他人からの関心の問題ですからね。ですから、 自分へのこだわりとちょっと違うかもしれませんね。自分へのこだわりは、ナルシシズムと反対かもしれませんね。 もし、自分へのこだわりを捨てたければ、もっとみんなナルシシストになればいいのですけれども、なりきれない。 実のところわれわれ人の悲劇などにはそんなに興味はない。人が破産しようが、病気になろうが、死のうが、 われわれはのんきに生きている。これは、たとえば自分の最愛の人が死んだり病気になったりすれば、また問題です けれども、世間というものは、人間の悲劇なんかに興味をもたないものだ。 たとえば人の家にいって、アルバムを見せられるほどいやなことないでしょう。(中略) 自分になんかだれも興味をもってくれないというのは、まず社会の根本原則ですね。 三島由紀夫 秋山駿との対談「私の文学を語る」より
327 :
吾輩は名無しである :2011/06/22(水) 16:32:25.97
僕は、もし「私」というものがあれば、地獄を見たものが「私」だと思うのですよ。地獄を見たからこそ、 生きにくいのだというのは、「私」ではないのです。僕がさっきからいう「私」、「私」という意味は、つまり、 「私」を小説に書いているのは、「私」にこだわるのはいかんじゃないかという意味は、もう一つ深い意味で言えば、 それは「私」はないのだということを言うのです。いま「私」と考えられているは、地獄を見た人間がこの世で いかに生きにくいかということを、縷々と述べるのが「私」だというのです。「存在理由を分析すること」が 「私」だというふうに考える。その存在理由の曖昧さ自体に「私」があるというふうに考える。そうじゃないのですね。 「私」の存在理由は明らかなのです。地獄を見た人間なのです。それは表現できないのです。こだわる必要もなにも ないのです。神でもいいです。芸術家を人から聖別する。そこだと思うのです。なにかを見ちゃったのですね。 三島由紀夫 秋山駿との対談「私の文学を語る」より
328 :
吾輩は名無しである :2011/06/22(水) 16:32:54.05
僕は、自分の本質がなにかということを考えるということはやめたのです。(中略)自分とはなんだという問題ですね。 つまり、ほじくってほじくって、玉葱の皮をむいていくでしょう。だんだん孤独になって、いまの大江君の 「万延元年」など見ると、そういう感じが非常にしますがね。玉葱の皮むいている。 (芯が)あるはずかもしれないけれども、皮だけかもしれない。一番簡単な通俗的な方法は精神分析ですね。 僕が自分の精神分析をすれば、どんな精神分析学者よりもうまくやる自信がありますよ。なんでもあります、 僕の中には。僕には無意識がないというと、安部公房は怒るのですが、僕の変なことをやる動機なりなんなり、 精神分析で解釈すれば、なんでもつくのです。 なんでもできますね。どんな精神分析学者をつれてきても驚かない。僕のほうがうまいでしょうね。人間というのは、 やはり動機で動くものじゃないと思っています。 三島由紀夫 秋山駿との対談「私の文学を語る」より
329 :
吾輩は名無しである :2011/06/22(水) 16:33:33.37
日本人の「男らしさ」というものは、どうして日本の現代文学でできないのだろうかということをとても考えました。 そのマンリネスを除いては、近代日本だってある筈がないと思うのです。そのマンリネスというもの、たとえば 浪花節にしかないものを、尾崎士郎の小説、火野葦平の小説はそのあるものをもっている。あれは、あんなふうな ラフな形でしか出てこないでしょう。あれをもっともっとデリケートに分析していくと、どうなるだろうか。 そういうデリカシーを与えたら消えちゃうだろうかということを、いろいろ考えてみたのだけれども、自分の 小説の中では必ずしもうまくいっていないのですがね。そういうものの探究を少しやりたいと思っています。 あまりにも日本近代文学の主人公は男らしくないし、人間関係も男らしくないし、「抱擁家族」などもっとも そうですし、男らしさなど全部欺瞞かというと、絶対そうでないと思うのです。 三島由紀夫 秋山駿との対談「私の文学を語る」より
330 :
吾輩は名無しである :2011/06/22(水) 16:34:08.24
不思議でしようがないですよ。確かにそういうもの(マンリネス、繊細で強いもの)があるはずだし、現実に 生きている日本人は、中にはそういう人間だっているはずですけれども、出てこない。近代文学に出てくる人間は、 みんな限られていてみんな病気ですね。なんだかみんないやな人たち、つきあいたくない人たちばかりぞろぞろ 出てくる。 強いものはただラフで、非常に鈍感なものと考えられている。それは芥川以来、大正文化人以来の固定観念で、 芥川はそういうことだけにしか生きていなかったからしようがなく書いたのですけれども。(中略) 谷崎さんにしても川端さんにしても素晴らしい芸術家だけれども、男というものは一人も出てこないでしょう。 元禄時代、元禄時代というけれども、西鶴はちゃんと書いていますよ。男の世界を書いている。人間がデリケートな 感情から発して、激しい行動に一直線につながるところを書いてますね。 三島由紀夫 秋山駿との対談「私の文学を語る」より
331 :
吾輩は名無しである :2011/06/25(土) 11:58:15.86
ベケットでね、「ゴドーを待ちながら」ね、僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。それは二十世紀文学の 悪い一面だよ。ゴドーが来ない。これはいやしくも芝居でゴドーが来ないというのはなにごとだと、僕は怒るのだ。 メトーデをだんだんマスターから教わって、マスターピースを作ってマスターになるのだよね。だけどそれは、 西洋の歴史はメトーデの伝承の歴史だね。日本はそうではない。秘伝だろう。秘伝というのは、じつは伝という 言葉のなかにはメトーデは絶対にないと思う。いわば日本の伝統の形というのは、ずっと結晶体が並んでいるような ものだ。横にずっと流れていくものは、なんにもないのだ。そうして個体というのは、伝承される、至上の観念に 到達するための過渡的なものであるというふうに、考えていいのだろうと思う。 三島由紀夫 安部公房との対談「二十世紀の文学」より
332 :
吾輩は名無しである :2011/06/25(土) 11:59:25.96
そうするとだね、僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。 どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に、しかし たえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。そうして僕は死んじゃう。次にあらわれて くるやつは、まだなんにもわからないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは 教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで 模索して、最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、結晶体の上の 一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。 三島由紀夫 安部公房との対談「二十世紀の文学」より
333 :
吾輩は名無しである :2011/06/27(月) 15:59:52.85
三島:人間の生存本能や、自己防衛本能を超越できたら、人間というものはもう少し飛躍するのだろうと思いますけど、 気違いはそれが飛躍してしまうんですね。 尾崎:近所の脳病院には患者が三百人くらい入ってましてね、(中略)東大生ですが、非常にまともな口を きいていて、どこが変っているんだろうと思っていると、「ちょっと向うの山をご覧なさい」というんですよ。 見ると、「ほら、あれが動いているでしょう。あの山が動いているうちはだめですよ」。(笑)「じゃあ君は、 地球が自転するその動きだと思うのか」といったら、「そうじゃないのだ、あの山の震動だ」って。(中略) 三島:それは何かバイブレーションを感ずるのかもしれないですね。僕はやっぱり物体というものは、バイブレート するものだと思うんですよ。物体自体が、一つの構成要素がバイブレートしていなければ、この宇宙は成り立たないと 思うな。ほんとうはバイブレートしているのかもしれないけれども、われわれにはその動きが全然見えないわけですね。 三島由紀夫 尾崎一雄との対談「私小説の底流」より
334 :
吾輩は名無しである :2011/07/02(土) 13:57:28.18
三島:ぼくはスピードというのは、ある観点からみた主観的なスピードにすぎないと思うよ。たとえば「お能」と いうのはとてもスピーディーだよ。ある時点からある時点へ飛んじゃうでしょ。舞台二回りぐらいすると東北から 京都に着いちゃうからな。あのスピード、どうしてみんなわからないのかな。 寺山:俗物は、斬られるときには居合抜きより、田中新兵衛みたいにゆっくり斬ってもらいたがる。(笑) お能の速度は居合抜きだから宮廷向きで大衆性がない。速度というのはイデオロギーなのですね。 三島:お能のスピードは、電光石火をスローモーションで撮れば、ああなるに決まっている。恋愛でも、ドラマでも、 迅速そのものにすべてが過ぎてしまって、あとは何も残らない。それで、塚の上に秋の風が吹いている。それしか なくなっちゃうんだから、すごいよね。どんな美女も、すぐ白骨になっちゃうしさ。 三島由紀夫 寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
335 :
吾輩は名無しである :2011/07/02(土) 13:57:58.21
寺山:カカトを三センチずらすと、三年経ったりするわけです。 三島:そのくらいのスピードだね。SFでこんなのがあったね。どこかの砂漠で不思議な彫刻が発見された。 手が空を指さしていた。それから十年経ってまたそこに来てみたら、こんどは手が下っているんだよね。この彫刻、 ほんとは生きてる人間なんだが、その人間の時間感覚では手を上げてから下げるまで十年ぐらいなんだ。 寺山:しかし、同時に何もしないやつが、おれの速度は肉眼では見えないだろうっていうふうにいい出す世の中だから。 三島:そうだ、だまされるよ。 三島:時間を支配しているのは女であって、男じゃない。妊娠十ヵ月の時間、これは女の持物だからね。だから 女は時間に遅れる権利があるんだよ。 寺山:ただ女は二十八日ごとに血が出てくるもう一つの時間を信じてるから、精工舎が作った時計の時間に対して、 無頓着になってしまっている。女は時計そのものですからね。 三島由紀夫 寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
336 :
吾輩は名無しである :2011/07/02(土) 13:58:35.45
三島:ぼくとっても時計が好きなんだよ。よく銀座あたりへ行って、百二十万とか八十万とかいう時計の前で しばらくヨダレをたらすんだ。女房は安い時計ばかり持って歩いている。時計買ってやろうかっていっても、 絶対に欲しがらない。亭主は時計のところで立ち止まる。これには何か本質的なことがあるんじゃないかと思うんだ。 寺山:三島さんは刺青するみたいに、背中に時計をはめ込んだらどうですか。 三島:そう。女は自分が時計なんだから、肉体がちゃんと時計の役割をして、規則正しく自分の影響を受けている。 時間内存在なんだよ。男は時間外存在になりかねないから、しょっちゅう時計に頼らないと、こわくてこわくて。 寺山:だからぼくは、男はいつも偶然的な存在だから、外側に時計を探して歩いていなきゃいけないんじゃないかと 考えるのです。 三島:かもしれないね。自分をしばるものが欲しくて欲しくてしようがないんだよ、男というのは。時間を 逸脱するっていう危険がしょっちゅうあるから。 三島由紀夫 寺山修司との対談「エロスは抵抗の拠点になり得るか」より
337 :
吾輩は名無しである :2011/07/03(日) 01:36:56.76
三島由紀夫って金閣寺の放火犯と仲が良かったのですか?
338 :
吾輩は名無しである :2011/07/03(日) 02:03:06.04
背中に時計をはめ込んだら見れないだろww
339 :
吾輩は名無しである :2011/07/03(日) 13:46:06.18
たしかにw
341 :
吾輩は名無しである :2011/07/05(火) 10:07:42.00
三島:ゴンブローヴィッチはエロティックでない哲学なんて信用できないという。青年がなぜ特権を持っているか。 それはエロティックということです。学生新聞の文章を読んでごらんなさい。妙な観念的なことを書いていて、 何を言わんとするのか全くわけがわからない。だけど性欲が過剰だということだけはよくわかる。 芸術はそういうものがなければいかぬということだ。あんなわけのわからぬ文章をつくるもとがなければいかぬ。 それがなかったら、いくら技術的によくても、いかに美的であっても、根本的なことに欠けているだろう。 エロティシズム自体が一種の生命主義みたいなことになっちゃう。 (中略) もちろんインポテでもエロティックであり得る。谷崎が一番エロティックだったのは「瘋癲」時代だったかも しれない。谷崎という人はエロティックということを忘れなかった人だ。 志みたいなものだ。あれは偉いと思う。 (中略) 中村:そうすると肉体を離れるね。 三島:でも肉体から出てきたものだ。絶対に肉体から出てきて、それはただの観念じゃない。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
342 :
吾輩は名無しである :2011/07/05(火) 10:08:09.62
西洋人を見ているとわかるでしょう。いい年をして脂っこいセックス。ちょっと話がそれるけれども、 サンフランシスコのシンポジウムで一緒になった、実に高潔なイギリス紳士の探検家がいた。そこに日本人の 二世みたいな女が来た。この女があとでぼくにこぼしていましたけども、その追っかけ方ときたらたいへんなもので、 ほんとに閉口したそうですわ。あのおじいさん、もう七十ぐらいでしたかな。それでああいうものを持っていると いうことは絶対肉体からくるので、日本人にはちょっとわからないようなところがある。西洋の哲学でも思想でも、 みなああいうものを抜きにしては考えられない。宗教もそうでしょう。キリスト教で抑圧した性欲の激しさと いうものはすごい。だからバタイユとかクロソウスキーみたいな作家が出てくる。 中村:(中略)あれはやっぱり西ヨーロッパ人がキリスト教というタガをはめるに足る強い肉体を持っていると いうことだね。 三島:ぼくもそう思います。日本人ではあんなことをする必要はない。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
343 :
吾輩は名無しである :2011/07/05(火) 10:08:44.50
三島:ぼくは自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、太陽崇拝は母であり 天照大神である。そこへ向かっていつも最後に飛んでいくのですが、したがって、それを唆かすのはいつも 母的なものなんです。(中略)ずいぶん右翼のいろんな手記を読んだりしたけど、おふくろがみんないいおふくろで、 息子の行動を全部是認している。おやじは心配しますね。たとえば中村さんなんかは父性愛で心配するが、 おふくろは心配しながらも、息子が人殺しをするというと、いいよいいよといって是認してしまう。おふくろの 力というのはとても大事なんです。右翼のあれを読むと、みなおふくろ好きなんです。イタリアのギャングが 帰着するところは全部おふくろなんです。何か人間の行動性とおふくろと関係があるようだ。 (中略) 日本人の行動性の裏にはおふくろがべったりくっついている。それを発見するのです。(中略)いくら女を 締め出してもだめです。最終的におふくろが出てくる。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
344 :
吾輩は名無しである :2011/07/05(火) 10:09:10.37
三島:小説は人間をどこかへ連れていけばいい。長々とただ語っていけばいい。それにはスタイルによって 人を物語に乗せることですね。 (中略) 中村:ぼくは、日本の近代小説がいちばん忘れているのは物語だと思う。物語を否定したわけでしょう。 三島:完全に否定した。 中村:そんなバカなことはないんだよ。西洋人は近代小説で物語というものをある意味で否定したろうけども、 実はそうじゃないんです。それは夫婦喧嘩みたいなもので、「このバカ野郎」といっているのを見ると、ほんとに これは別れるのじゃないかと端では思うけれども、実はそうではない。西洋の場合はそういうものだった。 ところが日本では、それを端から見て、これはどうも、別れるのじゃないかと思っちゃったようなところがある。(中略) 結局物語というものを何かの形で復活しなければ小説などというものは滅びてしまう。 三島:ぼくも絶対そう思う。 中村:ところが物語というものはなくならない。 三島:民衆がある限りなくならない。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
345 :
吾輩は名無しである :2011/07/12(火) 10:27:22.68
三島:ぼくはヒーローの魅惑という以上の、もっと魔的な、デモーニッシュなことをいっている。ヒーローが 魅惑があるに越したことはない。だけど物語というものは、人を知らぬ間に誘い出して、どこか水の中にボコンと 落として溺れ死させるようなものですね。 中村:そういうものがあればいい。 三島:せっかく自分がここに坐っているのになんでおれを連れて行くのだといっても、自然にあとをついて 行っちゃうようなもの。笛を吹いている人間は魅力があるわけでもないのだけれど、ただ魔的なものに惹かれて 行っちゃう。自分はそれによって感動したわけでもないし、それによって自分が高められたり低められたりする わけではないけれども、自分が必ず水の中で溺れちゃう。物語というものは必ずしまいには人を滅亡させちゃう。 そういう魅惑があれば、たいへんな文学だと思う。 中村:死、結局そうかしら。 三島:そこへ行っちゃう。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
346 :
吾輩は名無しである :2011/07/12(火) 10:28:18.00
三島:やっぱり死ですよ。芸術というのは何か根本的に死のイデーがあって、そして人をひきずってゆく力でしょう。 虚無などというものは人は信じたくもないし、実体に囲まれて住んでいる。(中略)これ以上のものが何が ほしいんだというのに、どこかから変な笛の音が響いてきて、結局どうにもならない虚無のなかに陥れられちゃう。 (中略) 川端さんの「眠れる美女」にもあります。そういうのがぼくは文学だというように思うんですね。虚無へ向かって ひきずってゆかないものは必ず贋ものだと思う。どこからきた確信か知らないけども、そう思う。 (中略) やっぱり西鶴も偉いが近松も偉いと思う。ああいう日常的な三面的なつまらない事件を扱って、些々たる人間の コンフリクトを扱って、非常に低い次元からはじめて虚無へひっぱってゆく。あれは社会科学者にいわせれば、 封建制度下のやむを得ない脱出だというけれども、絶対そうじゃないな。 中村:それはそうだ。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
347 :
吾輩は名無しである :2011/07/12(火) 10:29:28.30
三島:ぼくはドナルド・キーンで感心しているのは、「道行」で人物の背が非常に高くなるということ、それまでは 背の低い人間たちが争ったり恋したり泣いたりしている、それが心中直前の「道行」の文章にきてそこで背が すっと高くなるという、あれは非常にうまい批評だと思う。やっぱり背の高くなる文学というのは非常に必要ですよね。 ぼくはいま安岡君の「幕が下りてから」を読んでいるのだけれども、あんなに人間が背が高くなることを 信じない人というのはつらいだろうな。 中村:それはおもしろい。そういう意味ではあの人は魅力がない。 三島:魅力がない。 中村:とても悧巧だからね。 三島:大江(健三郎)君は、少なくとも背が高くなるという可能性は信じているでしょう。自分は絶対ならない けれども、誰かがなるだろうということを信じている。それが自意識と結びついて変なことになっちゃうかも しれないけれども、少なくとも安岡君とちがうのはそこだ。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
348 :
吾輩は名無しである :2011/07/14(木) 10:56:48.47
三島:作家がピエロというのは前提条件で、どこからどこまでピエロなんだから、自分でピエロだといったら ピエロでなくなっちゃう。つまりピエロが出てきて、私はピエロですピエロですといったら絶対ピエロで なくなっちゃう。メドラノの曲馬、あれは悲しそうだからいいので、私はクラウンですよといったらクラウンで なくなる。日本の私小説というのはどうもそういう感じがする。 中村:また意見が一致しちゃう。 三島:(中略)太宰は、私はクラウンですよと絶えずいっていた。だからおもしろくもおかしくもないし、 そんな当たりまえなことをいうなと言いたくなる。 中村:太宰はともかくとして、日本の私小説は大まじめで、大いに悲劇的な表情で喜劇的なことをやってたんじゃないの。 三島:自分が気がつかないでね。自分が気がつかないというのはクラウンとはちがう。クラウンは全部知っている。 そして一生懸命やる。人は大笑い。それが芸術家だと思う。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
349 :
吾輩は名無しである :2011/07/14(木) 10:57:19.55
三島:日本の小説家は自分がクラウンだということを知らない。そして私はクラウンですよというのだけれど、 腹の底でそう思っているかどうかはわかりません。 中村:思っていない。 三島:もし自分はクラウンだといえば、どこかの女が、冗談おっしゃってはいけません。クラウンじゃ ありませんよと……。 中村:必ず言ってくれると思っている。 三島:あれは耐えられない臭味だな。 中村:とくに太宰はね。 三島:耐えられない。ぼくは安岡君のものを読んでも気に食わないのもそれなんです。安岡君が、「私」は醜男だ、 どうせ滑稽だ、女房にいじめられてばかりいるとか、そんなことはちっともおもしろくもおかしくない。 中村:そういうことになれば、何がおもしろくておかしいかということになる。 三島:それはクラウンが毅然としてクラウンであること、やっぱり毅然としているということです。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
350 :
吾輩は名無しである :2011/07/14(木) 10:57:56.49
中村:結局そうだね。だけど、ある意味でいえば安岡君は毅然としているんじゃないの。 三島:やっぱりそうじゃない。こんどの「幕が下りてから」を読んでもそうじゃないと思う。 中村:それは読んでないけれども、だいたい彼などは何かかんか言っていても、非常に自信があって、最後の ところは毅然としているのじゃないかしら。それでなければやっぱり人はついてゆかないよ。 三島:ちょっとそこは疑問に思うな。 中村:あなたは考えようによれば安岡君のいうことを非常に真正面から受けとっているのに対して、普通の読者は もうすこし横から見ていて、そんなことをいっているけれどもあいつはまあ自信があるのだと……。 三島:だけど、そういう読者を相手にするというのは卑怯じゃないですか。ぼくはそういうことは嫌いなんです。 中村:そこまでいえばそうよ。 三島:いちばん嫌いなんです。 中村:それはどういうことだろう。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
351 :
吾輩は名無しである :2011/07/14(木) 10:58:26.52
三島:つまり、どこかでなあなあでなれ合いで、おれはこうやっていても、おれの偉いということは人がわかって くれているのだぞ、ということがどこかに残っているからですよ。そんな意識は捨てればいい。 第三者、ぼくの理解者がどこかにいて、ぼくのことを偉いと思っていたら、ぼくは偉いというふうにすれば いいじゃないですか。人が偉いと思ったら偉いと思えばいいし、人が滑稽だと思ったら滑稽であればいいので、 それについて自分は偉いとか滑稽とかいう必要は毛頭ない。 中村:安岡君はどう言ってるの。 三島:安岡君はいつも自分はクラウンだというふうに自己規定する。あれは狡いと思う。安岡君をまじめに とっている人がいくらでもいるだろう、そういう人間に対して失礼だと思う。読者を考えた場合に、読者に対する 礼儀というものは非常に大事だと思う。読者がもしぼくをある一点においてまともにとってくれているなら、 ある一点でまともなんですよ。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
352 :
吾輩は名無しである :2011/07/15(金) 23:22:50.12
中村:あなたの小説の読者は何千か何万か何十万かいる。 それが自分のイリュージョンをあなたに対して持っている。 三島:それがすなわちぼくそのものだ。 (中略) ぼくはだけど、これだけ大きなことを言う以上、イリュージョンのために死んでもいい。ちっとも後悔しない。 中村:それはよくわかっている。それでなければイリュージョンはつくれない。 (中略) 三島:たとえば西郷隆盛が死んだときは、(中略)おしまいのあれは、西郷とすれば死ぬことはないのに、 わざわざ出かけていって死ぬようにする。あれはイリュージョンの完成です。乃木大将、あれもイリュージョンの 完成です。人間というものにはそういうやみがたい欲求があるのじゃないか。 中村:それは人間じゃない、名士です。 三島:名士だというんですか。 中村:そうだよ。あなたはやっぱり気の毒だけど人間にはなれないよ。 三島:あんなことをいう。名士というけれども、それでは特攻隊はどうですか。 中村:特攻隊は名士ですよ。 三島:それは光栄だ。そんなら名士になっていい。 中村:あれは大名士だ。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
353 :
吾輩は名無しである :2011/07/15(金) 23:23:23.00
三島:そんならあなた、あらゆる人間の名誉欲とか名誉心とか、概念的な誇りとか誉れとか栄光というものは 全部そうじゃないの。文学というものは栄光とは何の関係もない。 中村:文学は栄光と非常に関係があるけれども、もうちょっと女々しいものだと思う。 三島:おそらくそうでしょう、最後のところは。文学の栄光というものはほんとになにか疥癬みたいにくっついて きちゃう。(中略) ほんとうをいえばね、川端さんが文化勲章をもらったときにぼくは何だって文化勲章をもらったのだろう、 あんなに人間嫌いで、人間を否定して、人間世界をいやがっている人が、どうしてあんな小説を書いて文化勲章を もらうんだろうということをもうちょっと穏当に書いたことがある。それはぼくの文学者と栄光の関係についての 基本的な考えなんです。 中村:だけど、それはあなたの川端さんに対する非常な買いかぶりです。ほんとうは文化勲章がほしい人です。 それはあなたのほうがもうちょっと偉い。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
354 :
吾輩は名無しである :2011/07/15(金) 23:23:54.01
三島:文学の栄光というのは何か賎しくていやなんだ。栄光は栄光でとっておきたいし、文学は文学でとって おきたい。それがぼくのやみがたい二元論なんだ。どうしてもそれでやりたい。 中村:それでやりなさい。 (中略) 三島:文学者についている栄光は全部贋もので、文学賞でもなんでも全部嘘みたいな、なんか汚ならしく いやらしい感じがする。人前に出て賞状など持って写真をとるでしょう。ほんとうにみじめだ。 中村:あたりまえだ。 三島:オリンピックで一位になって月桂冠がつく栄光と何たる差だろう。 (中略)一つの作品で文学賞をとったときの、あの自分だけが知っている何ともいえないいやなもの、ほかのやつが 「おめでとう」などといってくれる、そういうものに対する何となくいやなもの、スポーツなどにはそういうものは 絶対ないと思う。 (中略) ぼくは自分がいやらしくない人間だとは毛頭思わない。しかし文学がいやらしいことはよくわかっている。 だけど栄光だけはきれいに別のところにとっておきたい。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
355 :
吾輩は名無しである :2011/07/17(日) 16:15:56.94
三島:こんどの大江君の「万延元年のフットボール」を読みました。非常にいい作品で、好きですけれども、 どうしてある上昇的な理念へ向う人間を表現するのに、自分のほうは衰亡あるいは降下、衰退、そういう立場でしか とらえられないのか、とても歯痒くてしようがない。 中村:大江君のように才があれば、そういうものでしかとらえられないということはない筈なんだ。ところが それをやるでしょう。 三島:そして成功するんだ。 中村:それはやっぱり読者にある形でおもねっているのだと思う。 三島:文学的には成功する。 中村:成功するのだけれども、それは大江君という人が悧巧すぎるのかバカなのか、そこは非常にむずかしい ところでね。たしかに成功しました。だけれども、成功したことがいままである日本文学の範囲の外に出たかと いうと……。 三島:絶対に出てない。 中村:出てないから成功している。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
356 :
吾輩は名無しである :2011/07/17(日) 16:16:58.85
中村:たとえば左翼の人たちが自分は反権力だと思っているでしょう。かりにああいう人たちが考えている革命が 成功すれば、それこそすぐ権力者になるでしょう。 三島:彼らはガリガリの権力亡者です。権力意識というものが彼らを押しているいちばん根本的な潜在意識だと思う。 それは日本の近代的文化人知識人の共通点です。ですからぼくは反教養主義のものすごいものしか認めない。 たとえば野坂昭如とか……。 三島:太宰治を好きになっているほうがぼくを好きになるよりまだ安全ですね。 中村:それは非常に安全だ。 三島:ぼくを好きになる青年は太宰治を好きになる青年より少ないから安心です。 中村:太宰より多かったら大へんだ。(笑) 三島:でも、なかには石原慎太郎を好きになる青年がいるし、そのほうがぼくよりずっと安全だし、勧めるね。 大江君などいちばん安全だよ。でもだんだん少なくなりますよ。そして時代おくれになって青年が振り向きも しなくなるから、そのときにいい小説を書くでしょう。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
357 :
吾輩は名無しである :2011/07/17(日) 16:42:45.88
年長者に対する口の利き方を知らない三島は見苦しい。 また、中村とか武智とか、野坂とか石原とか、三島に媚びたんだよな。 これはさらに見苦しい。 安岡章太郎なんて三島より年上だぜ。それを目下みたいに言って。 かつての虚弱児が大人になって体を鍛えて強くなったら、大人になって 幼い頃のガキ大将に久しぶりにあった時に居丈高に振る舞うことが 多いのと似てる。大人になったら、礼儀を守らなけりゃならんのだが。 三島は武士と言うよりも、乱暴狼藉の足軽タイプだな。 西洋の騎士とも正反対だ。
358 :
吾輩は名無しである :2011/07/17(日) 16:54:57.38
年上だろうが馬鹿は馬鹿。 斬り殺すのが武士の作法でござる。
359 :
吾輩は名無しである :2011/07/17(日) 16:59:41.47
>>358 阿呆か、それは足軽の作法だよ。
三島の芸術論なんて今や、何の価値もないものを担ぎ上げてるお前は
近代文学の延命に力を貸してる可能涼かよw
360 :
吾輩は名無しである :2011/07/17(日) 17:17:38.78
>>359 はぁ? 近代文学の延命?
なにを的はずれなこと言ってんだか(笑)
三島の論も読めない馬鹿とは。呆れる(笑)
361 :
吾輩は名無しである :2011/07/17(日) 17:25:18.01
>>359 それから、あれっぽっちの批評や批判を、年上に失礼とか、あんた馬鹿じゃないの?
そんなこと言ってたら、何にも話題にできないし(笑)
362 :
吾輩は名無しである :2011/07/17(日) 19:39:18.29
>>361 お前のような阿呆が何を調子に乗ってるんだ?
敬語という伝統的習慣を守れない三島は何なんだよw
>>362 三島の方が作家として先輩だから、敬語なんかわざわざ使う方が慇懃無礼でわざとらしいでしょ。バカじゃないの。
日本で生まれ育ってないね、あんたは。
三島:(小高根二郎の「果樹園」に)戦争中、丹羽文雄が「海戦」を書いたときに、ぼくを非常にかわいがって くれた先輩の蓮田善明が丹羽を非難攻撃した話が出ている。丹羽という男はいかに頑冥固陋な男か、海戦の最中、 弾が飛んでくるなかでも一生懸命メモをとって海戦の描写をしている。これは報道班員として任務を遂行して いるわけで、そのために丹羽は名誉の負傷までしている。ところが蓮田は丹羽を非難して、なぜそのときおまえ 弾運びを手伝わないかといっておこっている。(中略)そこにはかなり重要な思想が入っていて、ほんとうに 文学というのは客観主義に徹することができるか、文学者はそういうときにキャメラであるのか、単なる「もの」を 記録する技術者であるのか、あるいは文学とはそういうときにメモをとることをやめて弾を運ぶことであるのか、 という質問を蓮田がしているのじゃないかとぼくは思う。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:ぼくはそれは丹羽文雄が悪いとは決していってない。丹羽文雄は己れの信奉している文学の観念に 忠実だったと思う。ぼくは丹羽文雄のシンセリティーを微塵も疑わない。 (中略)総力戦というのは人間をあらゆるフィールドにおいて機能化してゆくものですね。大砲を撃つ人は大砲、 報道班員は文章によって記録あるいは報道し、あるいは軍宣伝のために利用される。そういう近代的な総力戦では 丹羽は正しい任務を果たしている。だけど文学というものは絶対そういう機能になり得ないものだということを 信じたい。 そうすると、文学が絶対に機能になり得ないということを証明するためにはどうすればいいかということになると、 そのとき弾を運べばいいじゃないかという結論になっちゃう。いかに邪魔でも、どいてくれといわれても。 (中略) 中村:それは戦時でなくいまの技術社会でもそうだね。 三島:いまおこっている問題なんだ。それは戦争の話と考えていない、いまおこっているものだ。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
三島:ぼくはその問題はそういうふうに現代の問題として考えるのだけれども、文学の機能化ということと 文学と行動との問題はいつもからみ合っているというふうに考える。なぜなら、現代技術社会における行動とは その九九%までが、自分の機能によって縛られているもので、これは戦時中から「職域奉公」という思想で はじまっていた。文学にしたって同じなので、(中略)文学文学と言っていればいいかというと、それこそ受身で、 しらずしらずのうちに機能化されてしまっているということが現代なんだと思うな。(中略)平和な時代だと、 実に複雑なヴァリエーションに富んでいて、のんびり芋掘りの話を書いていても、文学好きの実業家の消閑の具に 使われているかもしれないから、うかうかしていられぬわけだ。(中略)文学をこういう「しらずしらず」の 機能化から目ざめさせるには、文学外の行動の必要が起ってくるのじゃないか。その弾運びだけが文学だという 状況が来るかもしれないのではないか。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
367 :
吾輩は名無しである :2011/07/20(水) 10:13:47.04
三島:つまり、文学者が、言葉イコール行動、文学イコール行動と信じていることは、しらずしらずの機能化に からめとられる危険があるので、あるとき自分の機能から絶対に離れたところで「何かのため」という行動を やってみたらどうだ。(中略) そこで、自分をそうやって文学からあるとき弾き出す力というものを、文学に本質的に具わった逆説的な (ある意味で健康な)能力と考えるか、そういう力はもともと文学に存在しないと考えるか、で考えが完全に 二分されると思う。蓮田善明はその前者の考え方をした人だと思うし、僕は狭義の文学というよりも、どうしても そういう広義の文学というものに魅力を感じる。そしてそれは、どちらがより強く文学を信じているか、という 信仰の形の論争にもなると思います。しかし、現実の例は、それほど高尚な話ではなくて、今起っている文学の 機能化というのは、簡単にいえば中間小説化ですよ。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
368 :
吾輩は名無しである :2011/07/20(水) 10:14:27.48
三島:汚れてない思想というものはぼくは文学のなかにあるかどうかは疑問で、汚れてない思想というものは、 もしその思想を信奉すると文学を捨てなければならぬかもしれないという危険がいつもある。それが文学と行動との 問題にぶつかってくる。 (中略) もし技術社会のなかにおける文学の機能ないし技術ということを考えれば、いまのテレビなどに毒されている 大衆が要求し、その大衆が人生の慰めあるいは疲れ休めとして要求する技術的によくできたおもしろい小説で 十分じゃないか。それ以上に現代読者ないし現代社会は何も要求していないと思う。一部の気ちがいじみた青年は 文学に哲学を求めたり文学に思想を求めたりするかもしれないが、社会はそんなものを全然要求していない。 ですからプロレタリア文学時代よりいまの時代のほうが文学が社会から要求されていないという意識は強かる べきだと思う。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
369 :
吾輩は名無しである :2011/07/20(水) 10:15:31.05
三島:ぼくは最近アイラ・レヴィンというアメリカ人の「ローズマリーの赤ちゃん」という大衆小説の飜訳を 読んだ。こんなおもしろい小説を読んだことはない。すごくうまくできている。サスペンスの積み上げから何から 完璧です。しかし何もない。思想もなければ哲学も何も徹底的にない。そのかわり技術の高さは日本の大衆小説を 百倍しても追いつかないくらい技術が高い。そういうものがあるんだね。 中村:やっぱり金になるからみんな勉強するんだね。 三島:ぼくはあの小説を読んで、「群像」なんかに載っている純文学は技術という点において百倍劣ると思ったね。 中村:それは千倍かもしれない。 三島:音楽もアメリカやソ連ではそうなりつつある。アメリカもソ連に非常に似た傾向がある。演奏技術など 非常に高度に達している。技術社会の人間というのは技術を喜んで、ほかのものをべつに喜ばない。 三島由紀夫 中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
ローズマリーの赤ちゃん読んでみてえ
三島が生きてたら、続編「ローズマリーの息子」にはガッカリしたと思う。
>>369 まあ三島は自分の作文が松本清張の文章にはどうしてもかなわないと悟ったあげく
面当てにこういう事言い出したんだな
>>369 まぁ西郷札の再会の場面読んで三島は嫉妬で小便ちびったという話もあるくらいだからな
最も成功したと言われている金閣寺でも中村光夫に他は誉められても
金閣炎上場面の筆のいたらなさは難ぜられているしな
小説家としての描写力の迫真性リアリティの欠如という致命的欠陥を自分でもわかっていただけに
松本清張の天才に嫉妬したのも無理はないが
そこで技術だの積み上げだの持ち出して松本清張の一筆書き的天才性に183言ってみたくなったんだな。
374 :
吾輩は名無しである :2011/07/26(火) 00:09:42.76
松本清張も高学歴にいらざる喧嘩売るほうではなかったけど 三島にはチクチクやってたから デビュー以来甘えんぼの末弟で虐められた事のなかった三島は恨み骨髄だったらしい
>>373 あんたは三島の言っている主旨を全く理解してないようだね(笑)
松本清張とか畑違いの作家のことなんか、三島の分野と関係ないし、そんな純文学も書けない人に嫉妬するわけないでしょ。
なんか、橋本治のでたらめ偏向本を鵜呑みにしてるようだけど、空想で決めつけて、そんな的はずれ言われてもねえ(笑)
三島は、松本清張が作品内容に共産思想やイデオロギー思想を入れてたから、そういうのは芸術作品とは見てなかったんだよ。
純粋な技術だけのローズマリーみたいなミステリー作家じゃないでしょ、松本清張は。三島の言ってる対象になってないし。
それと、松本清張は一筆書きの天才じゃないでしょう。周りに代筆者や共産党仲間がいて一人で書いてないからね。
>>374 わざわざsage消して自演しても3連投バレバレだよ。
377 :
吾輩は名無しである :2011/07/26(火) 09:17:54.23
>>375 純文学って……今時そんな死語使う人がいたとは流石2ちゃんとしか言いようがありません
三島が松本清張に嫉妬してたのは歴史的事実ですよ
しかも三島の言ってる「技術」ってリアリティーのことじゃないし。 どこまで的はずれなんだか、ブサヨは。
379 :
吾輩は名無しである :2011/07/26(火) 09:55:03.53
さよう、三島は技術という言葉にはひときわ拘った それは三島自身の文章にはあらゆる飛躍がなかったから 才能の刻印たるイマジネーションの飛躍それをもたらす詩人の資質のなさは 三島自身も渋々認めている それでも書きたい人の三島は技術に拘るしかなかった
また的はずれ言ってる(笑)技術偏重を批判している三島の論旨を全く理解してないバカのようだわ。 本当に日本語の理解力がない人ですね。そんな人に三島の言うことや作品がわかるわけないはずだ(笑)
>>377 そんな事実どこにもないけどね。太宰のことは同じ芸術家としてライバル視して、嫉妬もあったと思うけど、
松本清張なんてそもそも三島と目指してるものが違うし、全然、質が違うから嫉妬もクソもないし。バカ丸出し(笑)
共産党思想を大衆小説に織り込む政治勢力の御用達作家に嫉妬するわけないしでしょ。
382 :
吾輩は名無しである :2011/07/31(日) 22:38:28.68
(西洋では)フレッシュとボディは違うのだ。キリスト教は、フレッシュは否定するが、ボディは否定しない。 それは受肉という思想があるから。インカーネーションでもって、ボディが復活するのであって、フレッシュは 復活しない。フレッシュは滅びる。日本ではそれが、フレッシュとボディの区別がない。日本の体という場合には、 フレッシュとボディは渾然一体なんです。それで「源氏物語」の闇のなかにあらわれる女体は、やはり フレッシュでありボディである。同時にその背後のものを暗示しているね、一つながりのあれですね。 それが日本の「色」というものだと思います。 西洋人は女と教養のある話をするにはね、カクテル・パーティーで、これはタダですね。肉体で寝るには娼婦を 買えばいい。これは金を払えばいい。その中間形態というのがほとんどないでしょう。日本は、その中間形態が 無限にある。ほとんど「快楽」と日本で称されているものは、その中間形態のことをいう。 三島由紀夫 山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
383 :
吾輩は名無しである :2011/07/31(日) 22:39:46.15
(日本では)女というものを楽しみの対象としてみて、女と睦み楽しむというような状態にも、これはかなり いろいろな階梯があります。全部性欲でただ寝るだけか、あるいは教養のある女と付合うか、という二律背反がない。 これもぼくは分裂がないと思うのです。西洋では、ジイドの「狭き門」ではないけれども、ほんとうに愛する女とは 寝られない。それで愛さない女とは寝られるという、いつもそこで対立がある。日本だったら、ほんとうに 愛する女とだったら、好きなら寝りゃあいいし、また、ただ金で買った娼婦との間にも心中さえするような、 精神的な関係が生まれる。娼婦との心中というのは、西洋ではばかばかしいことで、あり得ない。ところが 近松ものは、ほとんど娼婦との心中でしょう。こういうふうに、日本では、そのあいだがとても広いのですね。 (アメリカで)プレイボーイ・クラブみたいなものができて、中間形態ができた。(中略)寝るか、精神的に 愛するか、どっちかだと思っていた人間が、中間形態があることに気づいたのは、アジアの 影響ですよ。 三島由紀夫 山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
384 :
吾輩は名無しである :2011/07/31(日) 22:41:20.24
生まれ変わりと日本の霊魂観は、ぜんぜん違いますね。(中略) 仏教はまず霊魂がないということからはじまったわけですから、根本的に違うのですね。生まれ変わりというのは、 霊魂がないということからはじまったのだから。しかし、その生まれ変わりは、仏教以前からありますよ。(中略) 輪廻観は仏教の前からあったものを、ヴェーダの時代からあったものを、仏教が取り入れたのだけれども、 日本に来た輪廻観は仏教を通している。仏教を通しての輪廻観と日本の霊魂観とは、完全に衝突する。 (中略) 七生報国というのは、自分の意思だものね。だから七生報国をやるためには、自分は今度牛に生まれては報国が できないでしょう。人間に生まれて、天皇陛下に忠義を尽くすというのでは、これは、自分の意思で「我」が 働いてるし、とてもあれは仏教観とは相容れないですね。 (中略) 仏教がはじまってから、アートマンが完全に否定されたのだから、霊魂というものはなくて、生まれ変わりの 主体はないのだというね。(中略)しかし輪廻説は、そのアートマン説よりももっと前にある。 三島由紀夫 山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
385 :
吾輩は名無しである :2011/08/01(月) 07:59:15.16
三島はフレッシュとか、ボディとか非常に観念的に理解してるね。 これは間違い。
↑ と、三島がキリスト教の「観念」を評論しているのが解ってない間抜けが。
387 :
吾輩は名無しである :2011/08/01(月) 12:41:01.75
>>386 キリスト教の観念もくそもない。
三島は分かってない。
俺には評論家のボケどもが気付かないオリジナルな観点があるんだよw
お前ごときが、調子に乗ることじゃないw
↑ と、三島の文章読解能力のないとんちんかん間抜けが涙目で言い訳。
ここにもとうとう芝好きの俺様厨が現れたか。。。
390 :
吾輩は名無しである :2011/08/01(月) 23:13:57.46
↑ と、意味不明な供述を繰り返しており(ry
392 :
吾輩は名無しである :2011/08/02(火) 00:27:16.74
393 :
吾輩は名無しである :2011/08/05(金) 11:25:58.23
>>384 続き
ぼくは日本で不思議なのは、暴力神あるいは破壊神というものは、ルサンチマンによってしか、起こらないのだね。
ルサンチマンがなければ、そういう破壊神の思想が起きないのだ。風土の、もっと苛酷な国、たとえばインドなどは、
破壊神がちゃんといる。(中略)(日本では)暴力ないし破壊を事とする神というのは、それは須佐之男命
(すさのおのみこと)がそうかもしれない、唯一の例かもしれんけれども。
それで、なにか人間におそろしい、冥界から害を与えるのは、みんなルサンチマンがもとになっていて、これは
男も女を問わないのだね。
(中略)
なにか強固な人間意思、政治意思が、まっすぐにいこうとすると、怨霊がたたるでしょう。たとえば道長でも
そうですが、それから時平がそうですね。清盛がそうでしょう。それから天皇家にさえ怨霊がいるのだから。
最近までいた。天皇家の怨霊がいたでしょう。近衛家は九代たたったのでしょう。ほんとうにたたったのですからね。
このあいだで絶えたのです、満州で抑留されて死んだあの方で。
三島由紀夫
山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
394 :
吾輩は名無しである :2011/08/05(金) 11:27:45.66
もう一つは、嫉妬の怨霊ですね。ジェラシーの表現というのは、日本の芸能のいちばん中心を占めているのですね。 日本の英雄信仰、あるいはヒロイズムというのは、みな幽霊的ですね。(中略)日本人には、どうもヒロイズムを ヒロイズムとして認めたくないような、へんなものがあるのだね。ヒロイズムが一度怨霊を通過して出てくると、 はじめてヒロイズムが公明正大に認められるのだ。 西洋文学と比べて、(日本の)そのヒーローというものは、あまり行動的、男性的じゃないですね。道長は 政治的英雄であっても、武人ではない。 日本人の嫉妬について、村松剛が言ったひと言を忘れないのだが、天皇制がなぜ日本に合っているかというと、 日本人が嫉妬深いからだと、うまい説明だと思ったな。つまり、一つのクッションを置いて、権力を授受しないと、 絶対に日本人は承服しない。日本人同士の互選では、権力というものは一日も成立たんと言うのだ。 裏もわかっちゃって、佐伯さんを大統領にしたくても、あまり裏を知っていると、どうもねということに なっちゃうのだな。(笑) 三島由紀夫 山本健吉・佐伯彰一との対談「原型と現代小説」より
395 :
吾輩は名無しである :2011/08/05(金) 23:57:51.46
まあ、私も喜劇の部類で残念ですけれども、悲劇にはなりそうもない。 (中略) 失敗した悲劇役者というのが僕じゃないかしら。一生懸命泣かせようと思って出てきても、みんな大笑いする。 僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でもなんでもない、ただ爆弾持って 駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、 百メートルを十六秒以下でなければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。 アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。ベトコンはやせて いるから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。どうして日本のインテリというのは、 ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との 関係において。 三島由紀夫 石川淳との対談「破裂のために集中する」より
396 :
吾輩は名無しである :2011/08/07(日) 00:15:05.27
亀井勝一郎さんが、芸術は罪だってなことを言って一生苦しんだわけだ。どうしても芸術では救われないし、 芸術ってことに固執している間は、永遠に罪を犯していかなきゃならんてことをいった。あんな気楽なことを言って いられたのは、彼に技術がなかったからだよ。というのは、彼は、創造的文学者として、本当の技術ってものの こわさを知らなかった。だからあんな気楽なことを言えた。(中略)技術が手から離れたら、どうなるか、 そうしたらオートメーションの時代になる。技術社会になる、あるいは原子爆弾ができちゃう。ほとんど人間の 意思がかかわらないようなところで機械がどんどんオートマチックに回転して、恐ろしい罪を犯すかもしれない。 あるいは世界がフッ飛んじゃうような技術ができるかもしれない。そういう技術ってものとわれわれの技術は どう違うんだ。われわれは肉体の罪を持ちながら、技術というものに一種の浄化作用を認めなければ、芸術って ものは成り立たない。 三島由紀夫 石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
397 :
吾輩は名無しである :2011/08/07(日) 00:16:18.29
ところが、肉体というものを認めず、技術ってものにも浄化作用を認めないで、肉体と技術をくっつけている、 亀井勝一郎さんのような人はどこへ行くかというと、はっきりいえば、肉のない技術へいくほかないじゃないですか。 彼は、地獄へ落ちていますよ、そういうことをいえば。(笑)ぼくは、大きらいなんだ、ああいう考え。 肉のない技術っていうところへ落ち込むような考え方は、結局、もとへ戻ってくると、肉ってものを軽蔑する、 あるいは肉と技術とのつながりを軽蔑する。あるいは技術自体の浄化作用、ピュリフィケーションの機能を 軽蔑することになる。(中略) 技術が罪ないし肉にしっかり縛りつけられていることが人間的であるということが言えますね。もし、技術が 罪ないし肉を忘れたら、その瞬間、技術自体が堕落するかもしれない。そうすれば、あるいは集団的な技術になり、 原子爆弾をつくり、破壊的な技術を、幾らでも非人間的な技術をつくれる。 三島由紀夫 石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
398 :
吾輩は名無しである :2011/08/07(日) 00:17:58.47
ですから、芸術家の信ずる人間というのは、ある意味で罪の肉なんだけれども、それにプラス・アルファがある。 そのプラス・アルファが非常に芸術家にとって問題じゃないか。これが作家にとっても一生の問題じゃないかと 思います。簡単にいえば、芸ってことなんだが、芸って何だろうか。(中略) 自分の中に引き止められている、技術が制御されている、技術が、技術自体を無にしちゃうような、水爆の 爆発ですね、そういうところまでいかないように、技術を引き止めているものは、節度といっていいでしょうか、 それは何なんでしょうか。理性じゃないでしょう、少なくとも。 理性ってのは、必ずそっち(水爆)へ向かっちゃう。 (中略) その技術が制御されているというのは、美しい形だと思うんです。何によって制御されているか、罪のある肉に よって制御されている。(中略)その節度の、非常に危ない、スレスレの節度だけに芸術があるわけですね。 (中略)そういう節度に、芸術家は身を賭けながら、自分の中に虚無を引き止めている。 三島由紀夫 石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
399 :
吾輩は名無しである :2011/08/10(水) 22:48:09.76
自分に危険がないような暴力行為はまったく意味がない。それにはモラルがないですからね。ですから、 アウシュヴィッツや、原子爆弾には、いまでも反対ですね。それは、ヒューマニズムとちょっと違うんだな。 ヒューマニズムだからそういうことをしちゃいけない、というのとはちょっと違う。 技術が肉から離れるとか、肉が技術を置き去りにするということが、文学作品の中で起こる場合、それはモラルを 侵しているんじゃないですか。たとえば政府に頼まれて小説を書くと。(中略)彼がほんとうにそう信じている場合、 書いたっていいわけだ。もし、信じてなかったらどうか、っていう問題がありますね。 あるスタイルが、ある時代を体現しちゃうということ、いつも不思議に思うんですが、バロックの時代に、 どうしてバロックが支配的なスタイルとなったか。 スタイルの支配力ってものは、一種の歴史の謎だと思うんですよ。 三島由紀夫 石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
400 :
吾輩は名無しである :2011/08/10(水) 22:49:42.45
無を、スタイルによって自分の中にうまく引き止めた人間、それが芸術家じゃないでしょうか。 (中略) 一般にスタイルってものは、ある個人のいちばん深いところから出てきて、社会のいちばん浅いところまで 支配しちゃうようなものでしょうね。後世から見ると、それがその時代のスタイルというふうになって、非常に 歴史的なものになっちゃうんですね。不思議ですね、これは。 (中略) ぼくが、精神分析っていうものを、根本的に信じないのは、そこのポイントなんです。 (中略)精神分析ってのは、ついにスタイルの問題を解決しない。スタイルを解決しなきゃ、芸術は絶対分らない。 精神分析は、いつも超歴史的なモメントを持ってきて、いつもおんなじところへ引き戻す。おんなじところへ 引き戻して、どうしてミケランジェロがいて、どうしてワットーが出てくるか、そういうスタイルの問題を、 何ら解決しない。 三島由紀夫 石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
401 :
吾輩は名無しである :2011/08/10(水) 22:51:21.73
ですからあれは、あらゆる芸術美学がそうですが、フロイトも芸術論でいちばん失敗していますね。カントも 「判断力批判」では失敗していますね。かりにも美ってものに哲学者がタッチしたり、あるいは哲学者以外の ああいう学者がタッチしたら、全部まちがえるのはそこです。ぼくは、けっきょく、それが歴史だろうと思うんです。 芸術っていうのは、非常に個性的なあらわれ方を、自分ではしていると信じているんだけれども、どんなことを してもできない。それが芸術なんですね。 大江(健三郎)の中には、学生運動のスタイルもあるんです。純芸術的なスタイルとばかり言えない部分もある。 大江の持って回り方には、純芸術的な持って回り方とそうでないものもある。大江の、あるゼネレーションとか、 大江の見たり聞いたりしてきたものの中にある曖昧模糊としたものをひきずっていますね。つまり、素直に この花は赤い、っていうことが、どうしても言えないんだな。 三島由紀夫 石川淳との対談「肉体の運動 精神の運動――芸術におけるモラルと技術」より
402 :
吾輩は名無しである :2011/08/14(日) 00:03:35.44
小西:おもしろいことには、女の役なのに、能役者は男の声でうたいますね。これをわれわれは何の不思議もなしに 受け取っています。しかし、もしあれを女のような声でうたわれたら、おかしくて聞いておれない。 キーン:ときどき、しろうとの能でほんとうの女の人が舞うでしょう。ほんとに気味が悪い。 三島:いつも言うんですけれども、能が日本の芸能のほんとうの形だと思うので、歌舞伎の女方が女のまねするのは ほんとうの女方の堕落だと思いますね。ですから、歌舞伎の女方も、義太夫がほんとですね。そういう女方は 時蔵で終りになっちゃった。ちゃんと男の声でやっていた。 三島由紀夫 小西甚一、ドナルド・キーンとの対談「世阿弥の築いた世界」より 芸術家というものは、かなり追いつめられて来てから、始めて自分の「場」を発見するんだね。そして芸術家の 価値というものは成功したとか成功しないとかいう問題でなく、自分の宿命を見究めたかどうかにあるんだと思うな。 三島由紀夫 戸板康二との対談「歌右衛門の美しさ」より
403 :
忍法帖【Lv=19,xxxPT】 マグナ ◆i.K3ZM.pZo :2011/08/14(日) 01:53:55.15
思うんだが活字のものはやっぱり活字で読んだ方がよい。
404 :
吾輩は名無しである :2011/08/14(日) 22:43:46.27
三島:僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、 否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。 武田:いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。 三島:でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。 武田:それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。 三島:そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。 武田:いやだろうけど、それは我慢していかないと……。 三島:それじゃ、我慢しないでだよ、たとえば、戦後社会を肯定して、お金をもうけることは非常に素晴らしい ことだ、これならだれに対しても恥ずかしくない、と言えるかな。 武田:言えないでしょう、それは。 三島由紀夫 武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
405 :
吾輩は名無しである :2011/08/14(日) 22:44:40.57
三島:言えないでしょう。そうすると、われわれだってどっちもいけないじゃないの。どうするのよ……。 武田:だから最後まで強気をもつということよ。 三島:強気をもつということは、もう小説を書くことじゃないだろう、そうすれば。文学じゃそれは解決できる 問題じゃない。 武田:だって、小説だって、あの長いもの書くのに、強気でなければ書けないよ。 三島:しかし僕は、それは絶対文学で解決できない問題だと気がついたんだ。まあ頭は遅いけど。 たとえば政治行為というものはね、あるモデレートな段階で満足できるものなら、自分の良心も満足するだろう。 たとえば、デモに参加した、危険を冒して演説会をやった、私は政治行為をやったということで、安心して文学を やっていられる。私は自分の良心にこれだけ忠実にやったんだぞ、ということで、文学をやる、小説が売れる、 お金が入る、別荘でも建てる、犬でも飼う、ヨットを買う、そんなことほんとうにいやだな。 武田:それは、あなたはいやでしょうね。 三島:ほんとうにいやだな。 武田:だけども、つまり政治行動というものは、ほんとうはそうじゃないからね。 三島由紀夫 武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
406 :
吾輩は名無しである :2011/08/14(日) 22:45:55.75
武田:文学をやっていれば、いちおう決定しないですむ、というような風習が日本にある。 三島:あるんだよ。それは日本ばかりじゃない、僕はヨーロッパからきた風習だと思うよ。日本だったら 決定してますよ、明治維新までは。それは、ものを書く人間、詩をつくる人間、それから、少くとも文章を 書く人間は決定してますよ。だけど、いまの日本じゃ、非常にヨーロッパ的になったんです。つまり、ものを 書く人間のやることだから、決定しないですむんだという考えがある。僕はとってもそれがいやなんだよ。 (中略) 僕は、学生が東大で提起した問題というのは、いまだに生きていると思っているけれどもね。つまり、反権力的な 言論をやった先生がね、政府からお金をもらって生きているのはなぜなんだ、ということだよ。簡単なことだよ。 周の粟をくらわず、という人間がぜんぜんいないということだよ。これは根本的批判だよ。 私立大学ならそれはいいよ、だけど官立大学じゃそれは成り立たんじゃないですか。 三島由紀夫 武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
407 :
吾輩は名無しである :2011/08/14(日) 22:50:08.87
武田:たとえば、いまヘドロの問題があるでしょう。ヘドロの一番の問題は、われわれが紙を使って生きていると いうことですね。もし日本文学全集が出なくて、あるいは大新聞があんなに増頁しなかったら、石狩川のヘドロも 大昭和製紙の田子の浦のヘドロも出ないですよね。それを自分が、自分の芸術、あるいは自分の美をうたいあげる 根底は、けっきょくそのヘドロによって支えられているという感覚がないと、無限に批判できますよ、それは。 (中略)画家の使う絵具だって、映画監督の使うフィルムだって、全部ヘドロを出しているんだもの。それを ふまえないで公害問題を言うと、それこそまた戦後の空虚だね。 三島:またはじまっていると僕は思うんだ。つまり、公害を批判すれば、またそれでいいんだ。(笑)文学と いうものは、そういう(偽善的な)ものにいつも反抗してきたはずだろう。ところがいま文学の機能というのは、 ほとんど反抗しないようなところにきちゃって、反抗する力もなくなっちゃったんじゃないの。そういうものは ウソだということを。 三島由紀夫 武田泰淳との対談「文学は空虚か」より
408 :
吾輩は名無しである :2011/08/16(火) 10:03:59.85
戦後のいまの世界を見ていますと、たいていのことはフィクションで片づいちゃう。(中略)思想的な激突を やる代わりにテレビでもって討論会をやる。そんなふうに、だんだんだんだん影がうすまってくるわけですね。 そしてすべてがフィクションの世界にとけ込んでしまって、どこに生死を賭けた大事があるのかわからなくなってくる。 激突しても、これは本当に死ぬ気があるのかどうか、殺す気があるのか、あるいは殺される気があるのか わからないところで対決する。それが現代ですね。「葉隠」は、そういうものを非常に嫌うわけですね。 そういうのは芸能に携わる人間のやることであって、(中略)武士というものはそういうものじゃなくて、 本当に死ぬということが武士なんだから、そういう点で、河原乞食なんかいくら軽蔑してもかまわないという 考えですね。現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、なにから、 やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。 三島由紀夫 相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
409 :
吾輩は名無しである :2011/08/16(火) 10:04:49.64
全学連の運動というのはね、方向がどうあれ、根本は実感主義の復活ということだと思うのですね。これは 全学連のみならず、右の学生もそうなのであって、(中略)自分の成長期に、なんら実感にふれないで大人に なっていったらどうなるだろう、すごい恐怖だと思うのですよ。われわれは、少なくとも空襲という実感が ありましたね。それから死体がそこらにころがっているという実感がありました。中世の人間は、「方丈記」も そうですが、そういう実感の中から初めてフィクションも出てきた。 私はインドに去年行きまして、ベナレスで、癩病の乞食がいっぱい並んでいるところを見て、なるほど弱法師と いうのは、ここから出たんだと思ったのです。そして芸術の根源というのは、ああいうところにあって、ああいう 恐ろしい実感、あのファクトを一生懸命洗練したり、磨き上げたり、抽象化するから芸術が起こるのであって、 現代みたいにファクトがないところで、どうやって芸術をやっていくのかという危機感は、私どももっているわけです。 三島由紀夫 相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
410 :
吾輩は名無しである :2011/08/16(火) 10:05:47.93
たとえば、私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。うそでかためれば安全、 謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、 不特定多数の人間の平均的な好みに自分を会わせれば成功だし、会わせれることができなきゃ失敗。これが 現代社会ですよ。 (中略) 現代的コミュニケーション、現代的対人態度というものの中にある毒を清めたいときに、「葉隠」を読めばいいと思う。 「葉隠」をサラリーマンの心得みたいに思うことは、ずいぶん間違いだと思うのです。 ぼくは、もうちょっと人間関係ががたぴししたらいいと思うのです。人間関係全部ががたぴししないから、 集団の衝突になっちゃうのがいまの世の中だと思いますし、いまの近代社会というものの宿命だと思います。 どうも人間関係ががたぴししないで、あまり円滑にすべりすぎるから、一方では衝突が起こるのだろうと思います。 三島由紀夫 相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
411 :
吾輩は名無しである :2011/08/16(火) 14:17:47.04
管理人がいるマンションの居住者って、黒の割合が高いんですよね。 あとTUC(黄色いマークの店)の客や内容を精査してください。。
413 :
吾輩は名無しである :2011/08/19(金) 19:38:34.86
肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか、これは私がいつも考えて きたことであります。なぜなら、われわれは自分の肉体の外へ一ミリも出られない。こんな不合理なことが あるだろうか。 おれの作品は何万年という時間の持続との間にある一つの持続なんだ。ぼくは空間を意図しないけれども、 時間を意図している。 たとえば安田講堂で全学連の諸君がたてこもった時に、天皇という言葉を一言彼等が言えば、私は喜んで一緒に とじこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。(笑)これは私はふざけて言っているんじゃない。 堂々と言っていることである。なぜなら、終戦前の昭和初年における天皇親政というものと、現在いわれている 直接民主主義というものにはほとんど政治概念上の区別がないのです。 空間を形成する日本人というのは諸君のような新しい日本人だ。ところが時間の中に生きている日本人というのは まだ日本にはいっぱいいるのだよ。(中略)その人間の中にあるものだね、私は日本人のメンタリティの一つの 大きな要素と考えるのだ。 三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
414 :
吾輩は名無しである :2011/08/19(金) 19:39:57.69
文化というものは一つの長い時間の集積でもってここにまた自分の中に続いている。外在すると同時に内在する その中から自分がセレクトするというのが自分の現在一瞬一瞬の行為である。 時代は抹消されても、その時代の中にある原質みたいなものは抹消されないのだよ。 私にとっては、関係性というものと、自己超越性――超時間性といいましたかな、そういうものと初めから私の中で 癒着している。これを切り離すことはできない。初めから癒着しているところで芸術作品ができているから、 別の癒着の形として行動も出てくる。 天皇を天皇と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに、言ってくれないからいつまでたつても 殺す殺すといってるだけのことさ。そろだけさ。 言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかにどんなふうに残るか 知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して私は去っていきます。 三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
415 :
吾輩は名無しである :2011/08/25(木) 17:13:41.63
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。そういうときに何が あるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。 ぼくの考えをいうと、「わだつみの像」というのは、ある悲しい記念碑ではあるけれども、どこに根拠があるかと いうんだ。テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか 出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる。「きけわだつみのこえ」なんていうセンチメンタルな本を誰かが 作為的に集めて、平和主義の逆の証明にして、ああいう像をおっ立てた。全学連は、何だかわからないんだけれども、 この野郎、大学の進歩教授と一つ穴のムジナだろうと、ひっくり返しちゃった。(中略)この次ひっくり返すのは、 広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本は よくならないぞ。 「きけわだつみのこえ」なんていうのは、一つの政治戦略だ。前からぼくは反発していた。 三島由紀夫 鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
416 :
吾輩は名無しである :2011/08/25(木) 17:14:08.66
三島:いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは “正しい”という意味なんだから。(笑) 鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。 人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。 三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。 鶴田:昭和維新ですね、今は。 三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。 鶴田:三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。 三島:ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。 三島由紀夫 鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
417 :
吾輩は名無しである :2011/08/28(日) 01:28:20.84
ここに三島の引用文を貼っている人に申し上げます。 引用元を明記しているとはいえ、権利者の許しを得ず 過度な写しを行うことには常識的な限界があることを弁えて下さい。 削除、とはいいませんが、以後気をつけて頂きたい。 平岡威一郎 代理人
418 :
吾輩は名無しである :2011/08/28(日) 09:32:36.48
言葉によつて表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものぢやない。 三島由紀夫
何とかこの四巻全巻を出してくれるやう、御査察いただきたく存じます。さうすれば世界のどこかから、 きつと小生といふものをわかつてくれる読者が現はれると信じます。 三島由紀夫 昭和四十五年十一月 ドナルド・キーンへの書簡より
>>417 威一郎さんにお願いがあります。
是非、奔馬を映画化してください。これが三島由紀夫が一番精魂込めた力作だと思います。
偽物だろ。
成りすましは分かっていて、皮肉で書いたんだろ。
423 :
吾輩は名無しである :2011/09/04(日) 12:42:23.87
日本で一等いけないのは、政治家よりも、全学連よりも、新聞だと思います。 -ドナルド・キーン宛書簡-
424 :
吾輩は名無しである :2011/09/07(水) 22:33:34.72
義理人情に酔ふやくざと等しく、もつとも行為の世界に適した男は、「感性的人間」なのだ。日本的感性に素直に 従ふ男は勇猛果敢になり、素直に従ふ女は貞淑な働き者になる。 三島由紀夫「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』」より
425 :
吾輩は名無しである :2011/09/09(金) 00:14:29.37
女の美しさといふものは一国の文化の化身に他ならず、女性は必ずしも文化の創造者ではないが、男性によつて 完成された文化を体現するのに最適の素質を備へてゐる。 三島由紀夫「映画『処女オリヴィア』」より
426 :
吾輩は名無しである :2011/09/10(土) 20:09:43.50
緑の芝生に赤いお屋根、マイホームのために人間が死なんよ。人間は目に見えるもののためには死なない。 人間ってもっとスピリチュアル(精神的)なものだ。 -東大を動物園にしろ-
427 :
吾輩は名無しである :2011/09/13(火) 00:16:52.80
三島:チャップリンでは「殺人狂時代」が好きだ。「ライムライト」は大嫌い。 荻:三島さんはやはり濡れたのが嫌いなんだ。 三島:大嫌い。 荻:「しのび泣き」(ジャン・ドラノワ)なんてのは濡れたところと乾いたところの境目みたいなものだけれども。 三島:ああいうものは許容できる。ガイガー検査器をあてると、許容量のリミットだね。 荻:映画というものがすぐセンチメンタルに湿ってくるということ、これも考えなければならない問題でね。 三島:「二十四の瞳」は困った映画ですね。木下恵介さんのああいう傾向は買えないな。 荻:あの人は一歩退いて自分をいじめることができる作家だ。乾かすこともできる。湿らすことも……。 三島:だけど日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。 荻:しかし映画はそのポリシーが……。 三島:あるのだね。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が 「二十四の瞳」を買うのはただ政治ですよ。 三島由紀夫 荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
428 :
吾輩は名無しである :2011/09/16(金) 11:32:41.82
映画も芸術の一種と仮定すると、人間の芸術的感受性が、映画のおかげで低下するといふものでもないので、 むしろこのごろの若い人は、われわれが少年時代に、小説の耽溺に際して働らかせた分量の感受性を、映画に 向けてゐるとも云へるのであるから、十代のお客だつて、たとひ小学生のお客だつて、ジャリなどと呼んで 甘く見るべきではない。このあひだ「恋人たち」のカットに積極的に賛成したといはれる某映画批評家などより、 かういふジャリのはうが、よつぽどコンモン・センスに富んでゐる筈だ。 三島由紀夫「映画見るべからず」より
429 :
吾輩は名無しである :2011/09/16(金) 23:15:26.96
試写会の雰囲気といふものはあまり好きでない。ふだんはちつとも笑はないくせに、オリジナル版だつたりすると、 わざと面白さうに笑つたりする。皆より早く見られるのと、必ず坐つてみられるのと、この二つが試写会の利点で、 入場料を倹約したやうな気にはなれない。芝居だつてさうで、入場料を自分で払つてみれば、つまらない芝居も 面白く見られるものである。 三島由紀夫「私の洋画経歴」より
三島:鏡花を今の青年が読むと、サイケデリックの元祖だと思うに違いない。 鏡花は、あの当時の作家全般から比べると絵空事を書いているようでいて、なにか人間の真相を知っていた人だ、 という気がしてしようがない。 三島:ニヒリストの文学は、地獄へ連れていくものか、天国へ連れていくものかわからんが、鏡花はどこかへ 連れていきます。日本の近代文学で、われわれを他界へ連れていってくれる文学というのはほかにない。(中略) 永井荷風はやっぱりどこへも連れていってくれないですよ。 澁澤:じゃ谷崎潤一郎さんは。 三島:谷崎さんも、もうひとつ連れていってくれない。 澁澤:つまり地上しか……地獄へもいかないわけね。 三島:天国へもいかない。川端康成さんはある意味で、「眠れる美女」なんかでどこかへ連れていくね。 澁澤:地獄ですね。 三島:地獄ですかね。鏡花が連れていくのは天国か地獄かわからない。あれは煉獄だろうか。
431 :
吾輩は名無しである :2011/09/21(水) 01:00:05.56
ある人物と決定的な出会をして、それから終生離れられなくなるずつと以前に、むかうもこちらに気づかず、 こちらもほとんど無意識な状態で、その大切な人物にどこかでちらと出会つてゐることがあるものだ。私と太陽との 出会もさうであつた。 三島由紀夫「太陽と鉄」より
432 :
吾輩は名無しである :2011/09/21(水) 01:09:46.17
名文は後にも先にも 金閣寺燃やしてタバコで一服だろ
434 :
吾輩は名無しである :2011/10/02(日) 11:19:56.35
サン・サーンスは、作曲家としてよりも薔薇作りとして有名だつたさうだが、私も小説家としてより、人斬りとして 有名になりたいものだと思つてゐる。 三島由紀夫「『人斬り』出演の記」より
435 :
吾輩は名無しである :2011/10/02(日) 11:20:37.05
「もの」を選ぶといふのは、最終的には総合的判断である。総合的判断とは、非合理的なものである。 フィクションとはいひながら、殺意が、そこにゐる人すべてを有頂天にするといふのは、思へばおかしな人間的 真実である。 三島由紀夫「『人斬り』田中新兵衛にふんして」より
436 :
吾輩は名無しである :2011/10/06(木) 10:02:56.71
日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。日本の胸には緑色の蛇が食いついている。この呪いから逃れる道はない。 三島由紀夫 ヘンリー・スコット=ストークス宅の食事会での発言より
437 :
吾輩は名無しである :2011/10/06(木) 10:15:21.49
僕は凡そ小説を読むのに、主義や思想についての偏見をもたず、共産党の小説でも右翼の小説でも作品の価値に ついては、素直に感動する魂をもちつづけたいと思ふのです。先輩の小説でも、中学生の小説でも、よいものには 搏たれる魂をもちたい、他人の中にある何物かに愕く心は自分に愕く心であり、他の発見は、自己の発見であり、 他に感動しなくなれば自己の発見も終る、僕はかういふ信念を川端さんから学びとりました。 しかし日本の文学であり日本語を使つてゐる以上日本語として美しくなければ感動するわけにはゆきません。 三島由紀夫 昭和22年12月25日、清水基吉への書簡より
438 :
吾輩は名無しである :2011/10/11(火) 23:43:52.09
「しがらみ」からの解放といふことが、一体男性的なことであるか大いに疑はしい。自由が人を男性的にするか どうかは甚だ疑はしい。 三島由紀夫「鶴田浩二論――『総長賭博』と『飛車角と吉良常』のなかの」より
439 :
吾輩は名無しである :2011/10/18(火) 11:04:58.02
むかしはどこの家の中も暗かつた。このごろの団地の子供は、ハバカリへ行くといふことの恐怖も快楽も知らない。 あの怖ろしい暗い穴の中から、立ちのぼつて来て目にしみるアンモニアの匂ひ、それから煙出し片脳油の 胸せまるやうな悲劇的な匂ひ。 遠い汽笛、……どこの家でもきこえて、子供の夜を、悲しみでいつぱいにしてしまつたあの汽笛、しかし同時に 夜に無限のひろがりと駅の灯火の羅列とさびしい孤独な旅を暗示したあの汽笛は、どこへ行つてしまつたのか。 三島由紀夫「ポップコーンの心霊術――横尾忠則論」より
440 :
吾輩は名無しである :2011/10/22(土) 19:01:37.34
拙者一人で片付ける仕事があるが‥かまえて手出しは無用たぞ。 (映画人斬りより)
441 :
吾輩は名無しである :2011/10/28(金) 19:48:08.59
それはたとへば、聯隊の軍旗祭の記念の風呂敷だ。いやに赤つぽい桜、富士、旭日の光芒、紫、黄、赤などの ものすごい配色。あそこには、栄光といふものと生活のさびしさとがせめぎ合つた、ヒステリカルなけばけばしさが あつたのだ。私は証言する。むかしの日本人は、さびしかつた。今よりもずつと多い涙の中で生きてゐた。 嬉しいにつけ、悲しいにつけ、すぐ涙だつた。そして軍隊の記念の風呂敷の、あのノスタルジックな極彩色は、 その紫がただちに打身の紫、その赤がただちにヒビ、アカギレの血の色を隠してゐた。人間といふものは もともと極彩色なのだ。 大日本帝国の一人一人の生活は、湿つた暗い蒲団に包まれてゐた。なぜ蒲団はあのやうに暗く、天井はあのやうに高く、 ハバカリはあのやうに臭く、そしてあらゆるものに、バカバカしく金ピカのレッテルが貼つてあつたのだらう。 三島由紀夫「ポップコーンの心霊術――横尾忠則論」より
442 :
吾輩は名無しである :2011/11/03(木) 10:00:53.46
私の子供時代はそんなものであつた。そしてさういふ、さびしい極彩色の日本人の生活を私はなつかしむ。 家のどこかでは必ず女がこつそりと泣いてゐた。祖母も、母も、叔母も、姉も、女中も。そして子供に涙を 見られると、あわてて微笑に涙を隠すのだつた。私は女たちがいつも泣いてゐた時代をすばらしいと思ふのである! しかし泣いてゐた女たちの怨念は、今のやうな、いたるところで女がゲラゲラ高笑ひをし、歯をむき出してゐる時代を 現出した。むかしの女の幽霊は、さびしげに柳のかげからあらはれ、めんめんと愚痴をこぼしたが、今の女の幽霊は、 横尾忠則の絵にあるやうな裸一貫の赤鬼になつて跋扈してゐる。うわア怖い! 三島由紀夫「ポップコーンの心霊術――横尾忠則論」より
443 :
吾輩は名無しである :2011/11/03(木) 10:01:25.80
恥部とは何だらうか。それはそもそも、人に見せたくないものだらうか。それとも人に見せたいものだらうか。 これは甚だ微妙な、また、政治的な問題である。 横尾氏の夢寝にも忘れぬ英雄、高倉健は、花札の刺青を背中に散らした土俗のアイドルであると同時に、近代都市の 映画産業のメカニズムを通じて、深夜興行といふもつとも文明的な興行形態の中に生きのびてゆく幻影なのである。 死んでもらひませう! さういふ血の叫びをあげるとき、われわれの中の血の叫び、あらゆる進歩主義者、 改良主義者、ヒューマニストが、おぞ毛をふるつて避けて通る血の叫びが、よびさまされて、かう怒鳴る。 「カッコいいぞう!」……しかしそのとき、こんなパセティックな共感のうちに、われわれは無限に喪失してゆく。 何かを。何を喪失するともしれず、ただ喪失してゆく。ハバカリの匂ひを、農村を、血の叫びを。……そして 何十年かのち、コンピューターに支配された日本のオフィスの壁には、横尾忠則のポスターだけが、日本を 代表するものとして残されるだらう。 三島由紀夫「ポップコーンの心霊術――横尾忠則論」より
444 :
吾輩は名無しである :2011/11/03(木) 10:11:03.22
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、 その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、さらに 戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として抹殺するに いたつたのである。 以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。 神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、 いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な問題に 触れた行動であることが理解されたのであつた。 三島由紀夫「一貫不惑」より
445 :
吾輩は名無しである :2011/11/14(月) 10:27:53.14
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。 男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。 男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。しかし、作法こそどうしても くぐらなければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま 相手の心に通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の 罠を隠してゐるとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方に だまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。 三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
446 :
吾輩は名無しである :2011/11/27(日) 23:49:38.75
千年前に書かれた作品でも、それが読まれてゐるあひだは、容赦なく現代の一定の時間を占有する。 われわれは文学作品を、そもそも「見る」ことができるのであらうか。古典であらうが近代文学であらうが、 少くとも一定の長さを持つた文学作品は、どうしてもそこをくぐり抜けなければならぬ藪なのだ。自分のくぐり 抜けてゐる藪を、人は見ることができるであらうか。 美、あるひは官能的魅惑の特色はその素速さにある。それは一瞬にして一望の下に見尽されねばならず、その速度は 光速に等しい。それなら、長篇小説のゆつくりした生成などは、どこで美と結ぶのであらうか。きらめくやうな 細部によつてであるか。あるひは、読みをはつたのち、記憶の中に徐々にうかび上る回想の像としてであるか。 三島由紀夫「日本文学小史 第一章 方法論」より
447 :
吾輩は名無しである :2011/11/27(日) 23:51:28.83
われわれは文学史を書くときに、日本語のもつとも微妙な感覚を、読者と共有してゐるといふ信念なしには、 一歩も踏み出せないことはたしかであつて、それは至難の企てのやうだが、実はわれわれ小説家が、日々の仕事を するときに、持たざるをえずして持たされてゐる信念と全く同種のものなのである。 かくて、文学史を書くこと自体が、芸術作品を書くことと同じだといふ結論へ、私はむりやり引張つてゆかうとして ゐるのだ。なぜなら、日本語の或る「すがた」の絶妙な美しさを、何の説明も解説もなしに直観的に把握できる人を 相手にせずに、少くともさういふ人を想定せずに、小説を書くことも文学史を書くことも徒爾だからである。 いかに作者不詳の古典といへども、誰か或る人間、或る日本人が書いたことだけはたしかであり、一つの作品を 生み出すには、どんな形ででもあれ、そこに一つの文化意志が働らいたといふことは明白である。 三島由紀夫「日本文学小史 第一章 方法論」より
448 :
吾輩は名無しである :2011/11/27(日) 23:52:05.65
文化とは、創造的文化意志によつて定立されるものであるが、少くとも無意識の参与を、芸術上の恩寵として 許すだけで、意識的な決断と選択を基礎にしてゐる。ただし、その営為が近代の芸術作品のやうな個人的な 行為にだけ関はるのではなく、最初は一人のすぐれた個人の決断と選択にかかるものが、時を経るにつれて 大多数の人々を支配し、つひには、規範となつて無意識裡にすら人々を規制するものになる。 文化とは、文化内成員の、ものの考へ方、感じ方、生き方、審美眼のすべてを、無意識裡にすら支配し、しかも 空気や水のやうにその文化共同体の必需品になり、ふだんは空気や水の有難味を意識せずにぞんざいに用ひて ゐるものが、それなしには死なねばならぬといふ危機の発見に及んで、強く成員の行動を規制し、その行動を 様式化するところのものである。 三島由紀夫「日本文学小史 第一章 方法論」より
449 :
吾輩は名無しである :2011/12/07(水) 10:36:52.62
古代において、集団的感情に属さないと認められた唯一のものこそ恋であつた。しかしそれがなほ、人間を 外部から規制し、やむなく、おそろしい力で錯乱へみちびくと考へられた間は、(たとへば軽王子説話)、なほ それは神的な力に属し、一個の集団的感情から派生したものと感じられた。このことは、外在魂(たまふり)から 内在魂(みたましづめ)へと移りゆく霊魂観の推移と関連してゐる。 相聞は人間感情の交流を意味し、親子・兄弟・友人・知人・夫婦・恋人・君臣の関係を含むが、恋愛感情がその 代表をなすことはいふまでもない。 記紀歌謡以来、恋の歌は、別れの歌であり遠くにあつて偲ぶ歌であつた。 別離と隔絶に、人間精神の醇乎としたものが湧き上るのであれば、統一と集中と協同による政治(統治)からは、 無限に遠いものになり、政治的に安全なものであるか、あるひはもし政治的に危険な衝動であつても、挫折し、 流謫されたものの中にのみ、神的な力の反映が迫ると考へられた。 三島由紀夫「日本文学小史 第三章 万葉集」より
450 :
吾輩は名無しである :2011/12/07(水) 10:38:22.56
万葉集は、人が漠然と信じてゐるやうな、素朴で健康な抒情詩のアンソロジーなのではない。それは古代の巨大な 不安の表現であり、そのやうなものの美的集大成が、結果的に、このはなはだ特徴的な国民精神そのものの 文化意志となつたのである。それなくしては又、(文化に拠らずしては)、古代の神的な力の源泉が保たれない、 といふ厖大な危機意識が、文化意志を強めた考へられる。のちにもくりかへされるやうに、一時代のもつとも 強烈な文化意志は、必ず危機の意識化だからである。 芸術行為は、「強ひられたもの」からの解放と自由への欲求なのであらうか。相聞歌のふしぎは、或る拘束状態に おける情念を、そのままの形で吐露するといふ行為が、目的意識から完全に免かれてゐることである。「解決」の ほかにもう一つの方法があるのだ、といふことが詩の発生の大きな要素であつたと思はれる。その「もう一つの 方法」の体系化が、相聞だつたのである。 三島由紀夫「日本文学小史 第三章 万葉集」より
451 :
吾輩は名無しである :2011/12/07(水) 10:39:20.70
情念にとらはれた人間にとつて、解決のほかにもう一つの方法がある。しかもそれは諦念ではない。……これが詩、 ひいては芸術行為の発生形態であつたとすれば、「鎮魂」に強ひて濃い宗教的意識を認め、これを近代の個性的 芸術行為と峻別しようとする民俗学の方法は可笑しいのである。表現と鎮魂が一つのものであることは、人間的 表出と神的な力の残映とが一つのものであることを暗示する。それはもともと絶対アナーキーに属する情念に属し、 言語の秩序を借りて、はじめて表出をゆるされたものである。 三島由紀夫「日本文学小史 第三章 万葉集」より
452 :
吾輩は名無しである :2011/12/07(水) 10:40:31.06
しかしこれを慰藉と呼んでは、十分でない。それは本来、言語による秩序(この世のものならぬ非現実の秩序)に よつてしか救出されないところの無秩序の情念であるから、同時に、このやうな無秩序の情念は、現世的な 秩序による解決など望みはしないのである。相聞は、古代人が、政治的現世的秩序による解決の不可能な事象に、 はじめから目ざめてゐたことを語つてをり、その集大成は、おのづから言語の秩序(非現実の秩序)の最初の 規範になりえたのである。人はこの秩序が徐々に、現世の秩序と和解してゆく過程を「古今和歌集」に見、さらに そのもつとも頽廃した現象形態として、ずつと後世、現世の権力を失つた公家たちが、言語の秩序を以て、現世の 政治権力に代替せしめようとする、「古今伝授」といふ奇怪な風習に触れるだらう。そして「古今和歌集」と 「古今伝授」の間には、言語的秩序の孤立と自律性にすべてを賭けようとした「新古今和歌集」の藤原定家の おそるべき営為を見るであらう。 三島由紀夫「日本文学小史 第三章 万葉集」より
453 :
吾輩は名無しである :2011/12/22(木) 14:10:45.14
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日のわれわれの胸にも直ちに通ふのだ。 この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。 遊猟の一見賑やかな情景の中にも、自然の暗い息吹は吹き通うてゐる。 外来既成の形式を借り、これを仮面として、男の暗い叛逆の情念を芸術化することは、もしその仮面が美的に 完全であり、均衡を得てゐれば、人間感情のもつとも不均衡な危機をよく写し出すものになるであらう。それは あの怖ろしい蘭陵王の仮面と、丁度反対の意味を担つた仮面なのだ。 三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より
454 :
吾輩は名無しである :2011/12/23(金) 12:34:24.42
三島いいですなあ
>>454 全然。完全に下らないただの装飾。荒らしだとおもっている。
456 :
吾輩は名無しである :2011/12/24(土) 00:04:35.53
現代の教育で絶対にまちがつてゐることが一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。古典の暗誦は、 決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。ヨーロッパでもアメリカでも、 古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし。 三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
457 :
吾輩は名無しである :2011/12/27(火) 12:12:13.84
序文といふものは、朝、未知の土地へ旅立つてゆく若い旅人に与へる「馬のはなむけ」のやうなものである。 言葉にはふしぎな逆説的機能がある。言葉で固く鎧へば鎧ふほど、柔らかな生身はますますいたましく鋭い外気に さらされなければならない。 胸甲のやうな言葉の金属性は、現代に対する敏感な反応であつて、言葉をうすい皮膚のやうになめらかに身に まとつてゐる既成歌人たちは、現代に対して鈍感なだけのことである。その代り、彼らは傷つくことから 免かれてゐる。抒情は言葉の皮膚の上にとどまつてゐるからだ。しかし赤い立派な胸甲を持ちながら、春日井氏の 魂は裏返しの海老である。その魂は、歌集のいたるところで、活作の海老のやうにぴくぴくと慄へてゐる。 私はこの肉の顕在を愛する。 三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より
458 :
吾輩は名無しである :2011/12/27(火) 12:12:40.80
歌には残酷な抒情がひそんでゐることを、久しく人々は忘れてゐた。古典の桜や紅葉が、血の比喩として 使はれてゐることを忘れてゐた。月や雁や白雲や八重霞や、さういふものが明白な肉感的世界の象徴であり、 なまなましい肉の感動の代置であることを忘れてゐた。ところで、言葉は、象徴の機能を通じて、互(かた)みに 観念を交換し、互みに呼び合ふものである。それならば血や肉感に属する残酷な言葉の使用は、失はれた抒情を、 やさしい桜や紅葉の抒情を逆に呼び戻す筈である。春日井氏の歌には、さういふ象徴言語の復活がふんだんに 見られるが、われわれはともあれ、少年の純潔な抒情が、かうした手続をとつてしか現はれない時代に生きてゐる。 現代はいろんな点で新古今集の時代に似てをり、われわれは一人の若い定家を持つたのである。 三島由紀夫「春日井建氏の『未青年』の序文」より
459 :
吾輩は名無しである :2012/01/14(土) 15:59:21.46
米国中西部の人は、昔の京都の人のやうに、魚は中毒ると決めてゐて子供のときから食べない習性がついて ゐるらしく、ニューヨークに住んでも魚(海老さへも)を頑として食はない人がずいぶんゐる。生れてから 肉しか食べたことがないといふのは、人生の半分を知らないやうなものだ。 三島由紀夫「紐育レストラン案内」より 女が自然を敵にまはす瞬間には、どんな流血も許される。彼女の全存在が罪と化したのであるから。 三島由紀夫「『イエルマ』礼讃」より 自信といふものは妙なもので、本当に自信のない人間は、器用なことしかできないのである。 三島由紀夫「武田泰淳氏の『媒酌人は帰らない』について」より 大体、作家的才能は母親固着から生まれるといふのが私の説である。 人生が最悪の事態から最善の事態にひつくり返つたときのおそろしい歓喜といふものは、人の人生観を一変させる ものを持つてゐる。 三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」より
460 :
吾輩は名無しである :2012/01/16(月) 16:04:36.49
三島ピースの夢は無限大!
461 :
まぐな〜、見てるか〜? :2012/01/17(火) 22:09:12.35
744 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:34:17.32
>>737 下半身パイナップル腐れまんこ臭気プンプンババア、部屋中むせ返るほどパイナップルの臭いさせまくりやがって、きたねえだよ、さっさと出てけ。
パイナップル色に黄ばんだパンティ何日着てれば気が済むと思ってるんだ。
このパイナップルオリモノ糞ババア、パイナップル腐れまんこババァ!
754 +1:まぐな ::2012/01/17(火) 20:39:27.49
>>737 パイナップル腐れまんこは哲学板でも汚いおばさんだと、文学板にまでベタベタきたねえパイナップルマン汁、を滴らせてやがるからな。
ジャネットの様なパイナップル汁が好きなやつは、深いに思わんのだろうが、その腐れ汁ベタベタが心底いやでいやでたまらんのだよ。
パイナップル膿まんこオリモノドロドロクソババア! オリモノパイナップルウジムシクソババア!
462 :
吾輩は名無しである :2012/01/28(土) 14:35:06.87
そもそも作品以外のどこに作者の本音があるだらう。附け加へた言葉は整形手術のやうなものである。鼻のひくい おかめ面の作品を書いておいて、「作者の言葉」で整形手術的言辞を弄する。神の与へた容貌の一部の変改は、 自然の調和をやぶつて、もつとをかしなものにしてしまふにきまつてゐる。いきほひ舞台を見てゐても、むりに 高くした鼻ばかり目について、顔全体が見えなくなる。せつかく粋な目もとの持主が、不自然に盛り上げた鼻の おかげで、相殺されてしまふ。かさねがさねも整形手術は施すまじきことである。 三島由紀夫「作者の言葉(『灯台』初演について)」より
463 :
吾輩は名無しである :2012/01/28(土) 22:03:12.38
また関西
464 :
吾輩は名無しである :2012/02/03(金) 10:32:20.84
人間の生命とは不思議なもので、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど、人間は強くないんです。 というのは人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているのであって、生きるのも自分のためだけに 生きることにはすぐに飽きてしまうんです。すると死ぬのも何かのためだということが必ず出てしまう。 それが昔いわれた大義というものです。そして大義のために死ぬということが人間の最も華々しい、あるいは 英雄的な、あるいは立派な死にかただと考えられたわけです。しかし、今は大義がない。これは民主主義の 政治形態というものは大義というものがいらない政治形態ですから、当然なんですが、それでも心の中に自分を 超える価値が認められなければ生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。 三島由紀夫 NHKインタビューより
465 :
吾輩は名無しである :2012/02/22(水) 16:43:17.22
いやしくも盟約を交はして事を起こした同志であれば、動機の深浅、運動経歴の長短、性格の相違等は問題ではない。 男として誓ひ合つた一集団は、栄辱共に等分に受けるのが当然である。その中で、誰それは純粋であり、 誰それは相対的に不純である、等の差別があるべきではない。従つて、加盟将校のうち、一を英霊とし、他を 怨霊とするが如き見地は、幽界をうかがふ生者のさかしらにすぎぬと思はれた。 絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな 状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。 三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
466 :
吾輩は名無しである :2012/02/22(水) 16:43:55.01
私は本来国体論には正統も異端もなく、国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があつて、むしろ 国体思想イコール変革の思想だといふ考へ方をするのである。それによつて、平田流神学から神風連を経て 二・二六にいたる精神史的潮流が把握されるので、国体論自体が永遠のナインであり、天皇信仰自体が永遠の 現実否定なのである。 道義の現実はつねにザインの状態へ低下する惧れがあり、つねにゾルレンのイメージにおびやかされる危険がある。 二・二六は、このやうな意味で、当為(ゾルレン)の革命、すなはち道義的革命の性格を担つてゐた。 あらゆる制度は、否定形においてはじめて純粋性を得る。そして純粋性のダイナミクスとは、つねに永久革命の 形態をとる。すなはち日本天皇制における永久革命的性格を担ふものこそ、天皇信仰なのである。 三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
467 :
吾輩は名無しである :2012/02/22(水) 16:44:44.02
ファクトに対して想像力がある。そしてもし、ファクトを認めることが冷静な理性の唯一の証左であるなら、 精神の自由がファクトの味方になることはまづ覚束ない。自由は或る場合に、理性がファクトに縛られることを 容認しないのみならず、理性をして、理性自身のファクト以上の価値に目ざめさせようと努めるのであらう。 想像力はそのやうにして故意に高められた理性を基盤にして栄え、精神の自由の核ともいふべきものを形づくる。 そのとき、自由人はファナティズムと容易に結びつくのである。 三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
468 :
吾輩は名無しである :2012/02/22(水) 16:46:52.46
追ひつめられた状況で自ら神となるとは、自分の信条の、自己に超越的な性質を認めることである。 決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、男性的な美徳である。 事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。弱さとは そのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか? もしさうだとすれば、強さとはファクトを 容認した諦念に他ならぬことになり、単なるファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が 最悪の状況に立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは「最後の楽天主義」の 英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、つひには実在となる。なぜなら、悔恨を 勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の最後の自由の証左だからだ。 三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
469 :
吾輩は名無しである :2012/02/22(水) 16:47:48.95
日本テロリズムの思想が自刃の思想と表裏一体をなしてゐることは特徴的であるが、二・二六事件の二重性も亦、 このやうな縦の二重性、精神史的二重性と共に、横の二重性、社会学的二重性を持つてゐる。それは同時に、 先鋭な近代的性格を包摂してゐる。 私は、少なくともこれが成功してゐたら、勝利者としての外国の軍事力を借りることなく、日本民族自らの手で、 農地改革が成就してゐたにちがひない、と考へる。 むかしの殿様は、毒味を重ねて運ばれる冷え切つた料理に馴らされて、すつかり猫舌になつてしまつてゐた。 われわれの舌もさうなつてをり、いきなり熱い料理に接すると、火傷をする。さらでだに、あらゆる情熱が 人に不快を与へるやうな時代に、われわれは生きてきたのである。 三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
470 :
吾輩は名無しである :2012/03/02(金) 06:34:39.13
2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を 俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ! そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!! 勿論、言下に断ってやるゼッ!! どんなに哀願しても無駄なのサッ!! アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!! 分かったナッ!!!!!!! 『春の雪』の映画化だって断然オレを主役に決定してただろうしサッ!!!
471 :
吾輩は名無しである :2012/03/04(日) 04:53:29.64
ナッちゃん、素敵〜!
これ(皮肉・シニスム)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義に もとづく自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。 すべてを見てしまつたと思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に滑稽の要素を 剔出するのはこの迷蒙の作用である。いきほひ感情は無力なものになり、情熱は衰へ、何かしら あいまいな不透明なものになり終つた。愛さうとして愛しえぬ苦悩が地獄の定義だとドストエフスキーは 長老ゾシマにいはせたが、近代病のもつとも簡明な定義もまたこれである。 (中略) 悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます強められ、 おのづから近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から生み出された古典主義である。 喜劇は近代をのりこえる力がない。(中略)偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには 諷刺は冷却の作用をしかもたないだらう。 三島由紀夫「悲劇の在処」より
@
474 :
吾輩は名無しである :2012/05/06(日) 10:48:06.98
ものを書くことと農耕とは、いかによく似てゐることであらう。嵐にも霜にも、精神は一刻の油断も ゆるさず、たえず畑を見張り、詩と夢想の果てしない耕作のあげくに、どんな豊饒がもたらされるか、 自ら占ふことができない。書かれた書物は自分の身を離れ、もはや自分の心の糧となることはなく、 未来への鞭にしかならぬ。どれだけ烈しい夜、どれだけ絶望的な時間がこれらの書物に費やされたか、 もしその記憶が累積されてゐたら、気が狂ふにちがひない。……しかし、今日も亦、次の一行、次の 一行と書き進めてゆくほかに、生きる道はないのだ。 三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 書物の河)」より
475 :
吾輩は名無しである :2012/05/06(日) 11:07:38.49
476 :
吾輩は名無しである :2012/05/06(日) 11:42:45.71
確かに。 創造はモーツアルト(キリギリス)の遊びであって二宮金次郎(アリ)の労働じゃない。
477 :
吾輩は名無しである :2012/05/06(日) 11:49:51.38
しかしまあ、キリギリスにゃあキリギリスなりの苦労があるし、 冬の季節になれば餓死凍死、だけどね。(笑)
478 :
吾輩は名無しである :2012/05/29(火) 16:01:17.96
にせものの血が流れる絢爛たる舞台は、もしかすると、人生の経験よりも強い深い経験で、人々を動かし富ます かもしれない。音楽や建築に似た戯曲といふものの抽象的論理的構造の美しさは、やはり私の心の奥底にある 「芸術の理想」の雛型であることをやめないのだ。 三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 舞台の河)」より
479 :
金神弁天 :2012/05/29(火) 20:09:38.61
まあまともなパフォーマーだわな 最高傑作のパフォーマー防衛庁に突入して、テレビ中継されて 腹を切って死ぬ。今のテレビにこれくらいまともなことをやれる のでしょうか?次は是非村上春樹が防衛庁へ突入して、見事に 腹を切って死んでください。 ノーベル賞とって生き恥晒す左巻き似非絶対悪の大江健三郎の ゴミ屑よりはよっぽどまともな日本男児だ。大江健三郎は国籍 剥奪して南極に島流しにしても足りないくらいの腐ったズベ公。 極悪人大江健三郎の水死体はどうしようもない汚物だ。
480 :
吾輩は名無しである :2012/06/12(火) 10:18:09.09
評論の天才だよなぁ 生きてたら、今でも影響力持ってるだろうね
481 :
吾輩は名無しである :2012/07/09(月) 11:27:08.11
「11,25自決の日」三島由紀夫と若者たち サウナのシーン 満島の弟が三島の愛人役を地のママで演じてやがるゼッ!!!!! 阿部寛も出れば丸々ホンモノだったのにナッ!!!!!!!!!!!!
482 :
吾輩は名無しである :2012/07/10(火) 16:51:39.18
私の肉体はいはば私のマイ・カーだつた。この河は、マイ・カーのさまざまなドライヴへ私を誘ひ、今まで 見なかつた景色が私の体験を富ませた。しかし肉体には、機械と同じやうに、衰亡といふ宿命がある。私は この宿命を容認しない。それは自然を容認しないのと同じことで、私の肉体はもつとも危険な道を歩かされて ゐるのである。 三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 肉体の河)」より
483 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 16:27:55.96
自分の恋人を弱者だと感じることぐらゐ、女にとつてゾッとすることがあるだらうか! 三島由紀夫「永すぎた春」より
484 :
吾輩は名無しである :2012/07/16(月) 16:40:29.97
べーつにーー
485 :
吾輩は名無しである :2012/07/20(金) 13:34:10.30
作家気取りの不様な長谷川櫂 とんだ嗤い種だ! 三島由紀夫気取りだとか
486 :
吾輩は名無しである :2012/07/26(木) 00:00:00.13
この河と書物の河とは正面衝突する。いくら「文武両道」などと云つてみても、本当の文武両道が成立つのは、 死の瞬間にしかないだらう。しかし、この行動の河には、書物の河の知らぬ涙があり血があり汗がある。言葉を 介しない魂の触れ合ひがある。それだけにもつとも危険な河はこの河であり、人々が寄つて来ないのも尤もだ。 この河は農耕のための灌漑のやさしさも持たない。富も平和ももたらさない。安息も与へない。……ただ、 男である以上は、どうしてもこの河の誘惑に勝つことはできないのである。 三島由紀夫「無題(『三島由紀夫展』案内文 行動の河)」より
487 :
吾輩は名無しである :2012/08/07(火) 07:40:52.74
488 :
吾輩は名無しである :2012/08/16(木) 23:15:31.86
この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐつてゐる。かつて無数の若者の流した血が海の 潮(うしほ)の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらは ありありと見る。徒(あだ)に流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮は唸り、 喚(おら)び、猛き獣のごとくこの小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。 それを見ることがわれらの神遊びなのだ。手を束(つか)ねてただ見守ることがわれらの 遊びなのだ。かなた、日本本土は、夜も尽きぬ灯火の集団のいくつかを海上に泛(うか)ばせ、 熔鉱炉の焔は夜空を舐めてゐる。あそこには一億の民が寝息を立て、あるひはわれらの 知らなかつた、冷たい飽き果てた快楽に褥(しとね)を濡らしてゐる。 あれが見えるか。 われらがその真姿を顕現しようとした国体はすでに踏みにじられ、国体なき日本は、 かしこに浮標(ブイ)のやうに心もとなげに浮んでゐる。 あれが見えるか。 三島由紀夫「英霊の声」より
489 :
吾輩は名無しである :2012/08/20(月) 10:03:57.72
世間は鳩山新内閣が、その甘い猫撫で声で、デフレ対策を中断して、半病人の老宰相に対する 世間のセンチメンタルな同情に十分応へてくれるのを待つてゐた。 クリスマスになれば、養老院の老人みたいに、首相は孫たちにかこまれて讃美歌を歌ふだらう。 申訳ばかりの政治面に、鳩山首相の寝ぼけたやうな顔が載つてゐた。この半病人の、憐れな、 泣き虫の、たるんだ下唇をつき出した顔には、棚ざらしになつて埃をかぶつたやうな善意だけが 浮んでゐた。ぬるくなつた豆スープみたいな顔が、政治の嶮しい機械仕掛を完全におほひかくし、 感傷的な靄(もや)を世間いつぱいにひろげてゐた。 三島由紀夫「鏡子の家」より
490 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 17:23:22.74
小泉八雲が日本人を「東洋のギリシャ人」と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に 迎へられる運命にあつたといつてよい。 祭には行列がつきもので、行列は空間と時間とを果物かごのやうに一杯に充たしてくれなくてはならぬ。 彼が右手に聖火を高くかかげたとき、その白煙に巻かれた胸の日の丸は、おそらくだれの目にも しみたと思ふが、かういふ感情は誇張せずに、そのままそつとしておけばいいことだ。日の丸の その色と形が、なにかある特別な瞬間に、われわれの心になにかを呼びさましても、それについて 叫びだしたり、演説したりする必要はなにもない。 オリンピックはこのうへなく明快だ。そして右のやうな民族感情はあまり明快とはいへず、 わかりやすいとはいへない。オリンピックがその明快さと光りの原理を高くかかげればかかげるほど、 明快ならぬものの美しさも増すだらう。それはそれでよく、光と影をどちらも美しくすることが必要だ。 オリンピックには絶対神といふものはないのであつた。ゼウスでさへも。 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火―開会式」より
491 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 17:32:18.84
石原や野坂は三島と対談する時はビクビクもんだったなw 怒らせたら、ぶった切られるんじゃないかと、怖れてたんだなw
石原と対談する前の待ち時間に、石原に自慢しようとした 三島が日本刀を抜いて振ってみせていたら、 鴨居に日本刀を引っ掛けてしまい、非常に気まずい思いをした 石原は三島の運動神経のなさを、彼の死後に暴露した
493 :
吾輩は名無しである :2012/08/26(日) 20:41:14.71
>>492 たいしたことないことで、いかにも自分が三島より偉かったとでも言いたげで
アホくさい話だった。
運動神経のないことは、三島は自分で「実感的スポーツ論」で書いてるよ。
石原の暴露でもなんでもない。
495 :
吾輩は名無しである :2012/08/27(月) 16:59:13.47
私は進歩主義者ではないから、次のやうに考へてゐる。 精神をきたへることも、肉体をきたへることも、人間の古い伝統の中の神へ近づくことであり、 失はれた完全な理想的な人間を目ざすことであり、それをうながすものは、人間の心の中にある 「古代の完全性」への郷愁である、と。 精神的にも高く、肉体的にも美しかつた、古典期の調和的人間像から、われわれはあまりにも かけはなれてしまひ、社会にはめこまれた、小さな卑しい、バラバラの歯車になつてしまつた。 ここから人間を取りもどすには、ただはふつておいて、心に念じてゐるだけでできるものではない。 苦しい思ひをしなければならぬ。人間の精神も肉体も、ただ、温泉につかつて、ぼんやりして ゐるやうにはできてゐない。鉄砲でも、刀でも、しよつちゆう手入れをしてゐなければ、さびて 使ひものにならなくなる。精神も肉体も、たえず練磨して、たえずみがき上げてゐなければならぬ。 これは当り前のことなのだが、この当り前のことが忘れられてゐる。若いうちに、つらいことに 耐へた経験を持つことほど、人生にとつて宝はないと思ふ。軍隊のやうな強制のない現在、 一人一人の自発的な意志が、一人一人の未来を決定するにちがひない。 三島由紀夫「きたへる――その意義」より
「金閣寺」のスレにあったカキコ ーーーーーーーーーーー!ーーーーー >234 名前:吾輩は名無しである :2012/08/11(土) 16:07:15.62 三島由紀夫作「 金閣寺」 を語るには、執筆当時の三島由紀夫自身の特異な " 状況" を 把握しておくことが、不可欠である。 10歳も下の特別な出自の美女との恋愛に没頭した時期で、連日連夜 逢瀬を重ねていた。 「 金閣寺」を書くたみの京都取材旅行にも伴い、 祇園町の花見小路にあった「 近江照 」に宿泊した。 列車だと誰に遭うかわからないからと、羽田から伊丹に飛び (ブロペラ機だったという) 京都祇園町へ車を走らせた、宿に着くと、まだ日暮れには間があるにもかかわらず 「 公威さんたら、すぐに床を延べてくれと言ったときには、 指図された女中さんよりも、 わたくしのほうがキマリの悪い思いをしたことをおぼえています」 恋人談 ……そうした濃密な日々の中から、名作は生まれた。
497 :
吾輩は名無しである :2012/09/01(土) 20:24:20.23
,.-‐/ _.: ,ィ ,.i .∧ , ヽ. ,:' .l .::;',. :::;/_://:: /,':/ ', l、 .i ヽ ,' _::| .::;',' :;:','フ'7フ''7/ ',.ト',_|, , ',.', ,' .::::::!'''l/!:;'/ /'゙ / '! ゙;:|:、.|、| 'l ,'. .:::::::{ l'.l/ 、_ _,. 'l/',|.';| l :::::::::::';、ヾ  ̄ `‐-‐'/! ';. ! :::::::::::/ `‐、 ゝ !'゙ | | ::::::::/ \ 、_, _.,.,_ ノ::: ! |::::/ _.rl`': 、_ ///;ト,゙;:::::/ 天知る地知る子知る我知る `´ /\\ `i;┬:////゙l゙l ヾ/ ,.:く::::::::`:、\ 〉l゙:l / !.| 天網恢恢疎にして漏らさず /:.:.:.:\:.:.:.:.`:、ソ/:.:| | | /.:.:.:.:.:.:.:.:.:\:.:.:.:У:.:;l /./
498 :
吾輩は名無しである :2012/09/01(土) 21:46:08.83
,.-‐/ _.: ,ィ ,.i .∧ , ヽ. ,:' .l .::;',. :::;/_://:: /,':/ ', l、 .i ヽ ,' _::| .::;',' :;:','フ'7フ''7/ ',.ト',_|, , ',.', ,' .::::::!'''l/!:;'/ /'゙ / '! ゙;:|:、.|、| 'l ,'. .:::::::{ l'.l/ 、_ _,. 'l/',|.';| l :::::::::::';、ヾ  ̄ `‐-‐'/! ';. ! :::::::::::/ `‐、 ゝ !'゙ | | ::::::::/ \ 、_, _.,.,_ ノ::: ! |::::/ _.rl`': 、_ ///;ト,゙;:::::/ 天知る地知る人も知る `´ /\\ `i;┬:////゙l゙l ヾ/ ,.:く::::::::`:、\ 〉l゙:l / !.| 他人を罵倒しおのれは満足とは畜生にも劣るぞよ /:.:.:.:\:.:.:.:.`:、ソ/:.:| | | /.:.:.:.:.:.:.:.:.:\:.:.:.:У:.:;l /./
汐見和順ってなんて読むの?
500 :
吾輩は名無しである :2012/09/04(火) 20:40:27.89
「かずより」だと思うよ。
501 :
吾輩は名無しである :2012/09/08(土) 10:05:36.28
私が「私」といふとき、それは厳密に私に帰属するやうな「私」ではなく、私から発せられた言葉の すべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したり還流したりすることのない 残滓があつて、それをこを、私は「私」と呼ぶだらう。 三島由紀夫「太陽と鉄」より
502 :
吾輩は名無しである :2012/09/09(日) 00:23:57.41
100点満点中5点
503 :
吾輩は名無しである :2012/09/09(日) 17:15:48.74
芸術家といふものは、どこかに野蛮なところがなければいけないのだ。 三島由紀夫「養父の若さ」より
504 :
吾輩は名無しである :2012/09/10(月) 11:22:20.00
>>501 訂正
私が「私」といふとき、それは厳密に私に帰属するやうな「私」ではなく、私から発せられた言葉の
すべてが私の内面に還流するわけではなく、そこになにがしか、帰属したり還流したりすることのない
残滓があつて、それをこそ、私は「私」と呼ぶであらう。
505 :
吾輩は名無しである :2012/09/17(月) 10:15:23.41
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮であつても 少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、衰亡して しまふ。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を名目にした 家畜道徳に乗ぜられてはならない。 三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
武道てな人間の内なる野蛮を飼い慣らすためにやんだろ? それが日本の「自然な」伝統では?
507 :
吾輩は名無しである :2012/09/28(金) 16:46:03.05
私は往々人生に悲劇を期待して、いつも喜劇に報いられるといふ妙な運命をもつてゐる。 三島由紀夫「あとがき(「三島由紀夫作品集5」)」より
508 :
吾輩は名無しである :2012/10/02(火) 17:27:08.86
作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて 書くのが、要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである。ロマン派のネルヴァルも、心理主義の プルウストも、自然主義リアリズムの二流作家よりも、ある意味では透徹したリアリストであつた。 三島由紀夫「解説(川端康成『舞姫』)」より
こんつらもんが「美文、名文、名言」だってさw まあ、人類滅亡の瞬間まで人類はバカとつきあわなきゃなんねえから しょうがねえけどなw
名文か美文かは脇においても
>>465 これ普通の短編小説一冊分の熱量がこもったような恐ろしい(美しい!ああ、言ってしまった。)
文章だなあ。
511 :
吾輩は名無しである :2012/10/26(金) 19:38:24.44
一名おしやれ横丁とも呼ばれる御幸通りは、銀座八丁のウェイスト・ラインである。この西洋風の 美人は、長い美しい脚を新橋のはうへのばしてゐるが、あいにく京橋方面の頭のはうは空つぽだと いふうはさだ。 三島由紀夫「につぽん製」より
ケツを掘ったり掘られたりのヤツが、何をどうこう言ったってしょーがねえんだよ、バカ(嗤
ケツのまわりはクソだらけ。直腸ザーメンクソ虫(嗤
514 :
吾輩は名無しである :2012/10/28(日) 17:59:41.67
なぜ私たちは戦争といふのか、なぜいくさといひ戦ひといはないのか。戦争とはリアルなもののなかで 成程もつともリアルなものかもしれないが、それをリアルの線でばかりみてゐることを、いかなる私たちの 祖先が私たちに教へたのか。 平岡公威(三島由紀夫)「夢野乃鹿」より
キンタマまわりは正にミソクソ一緒(嗤 美しいもクソも無えよ(嗤
516 :
吾輩は名無しである :2012/10/29(月) 18:02:37.14
俺は三島ファンなので コピペ豚野郎のせいで 読者を大量に喪失している事態を嘆く コピペ豚野郎は三島に泥を塗っている 消えろコピペ豚野郎!!!
518 :
吾輩は名無しである :2012/11/01(木) 17:02:00.80
玩具といふものはいかにも静かなものだ。子供たちの孤独にふさはしい静かなものだ。大人はもつと 騒々しい玩具で遊ぶ。 三島由紀夫「青の時代」より
>大人はもつと騒々しい玩具で遊ぶ。 ケツ遊び。掘って掘られてよがり声が騒々しい。 「お隣さん!トンネル工事遊びでうるさいですよ。だいいち変な声を出さないでください!」(嗤)
520 :
吾輩は名無しである :2012/11/03(土) 20:27:16.29
何とでも仰言ひまし。私は何も馬鹿にしてゐはしません。持ちつ持たれつで動いてゐる世の中が 丸い輪のやうなものだとすると、私はその輪の切れ目になりたいんです。 三島由紀夫「青の時代」より
肛門が切れてるオマエがゆーな(嗤)
522 :
吾輩は名無しである :2012/11/13(火) 12:43:10.74
夕焼を見る。海の反射を見る。すると安里は、生涯のはじめのころに、一度たしかに我身を訪れた不思議を 思ひ返さずにはゐられない。あの奇蹟、あの未知なるものへの翹望、マルセイユへ自分等を追ひやつた 異様な力、さういふものの不思議を、今一度確かめずにはゐられない。さうして最後に思ふのは、大ぜいの 子供たちに囲まれてマルセイユの埠頭で祈つたとき、つひに分れることなく、夕日にかがやいて沈静な波を 打ち寄せてゐた海のことである。 安里は自分がいつ信仰を失つたか、思ひ出すことができない。ただ、今もありありと思ひ出すのは、いくら 祈つても分かれなかつた夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より一層不可解なその事実。何の ふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して分れようとしない夕焼の海に直面したときのあの 不思議……。 安里は遠い稲村ヶ崎の海の一線を見る。信仰を失つた安里は、今はその海が二つに割れることなどを 信じない。しかし今も解せない神秘は、あのときの思ひも及ばぬ挫折、たうとう分かれなかつた海の真紅の 煌めきにひそんでゐる。 おそらく安里の一生にとつて、海がもし二つに分かれるならば、それはあの一瞬を措いてはなかつたのだ。 さうした一瞬にあつてさへ、海が夕焼に燃えたまま黙々とひろがつてゐたあの不思議……。 三島由紀夫「海と夕焼」より
523 :
吾輩は名無しである :2012/11/13(火) 12:44:33.32
安里は昔を憶ふ。故郷の風物や故郷の人たちを憶ふ。しかし今では還りたいといふ望みがない。何故なら、 それらのもの、セヴァンヌは、羊たちは、故国は、夕焼の海の中へ消滅してしまつたからだ。あの海が 二つに分れなかつたときに、それらは悉く消滅した。 そのとき佇んでゐる安里の足もとから、深い梵鐘の響きが起つた。山腹の鐘楼が第一杵を鳴らしたのである。 鐘の音はゆるやかな波動を起し、麓のはうから昇つてくる夕闇を、それが四方に押しゆるがして拡げてゆく やうに思はれる。その重々しい音のたゆたひは、時を告げるよりもむしろ、時を忽ち溶解して、久遠のなかへ 運んでゆく。 三島由紀夫「海と夕焼」より
524 :
吾輩は名無しである :2012/11/22(木) 02:07:19.68
525 :
吾輩は名無しである :2012/11/26(月) 15:11:51.31
男の痴愚は珍らしくない昨今であるが、痴愚にまで達した女の純粋性をあからさまに露呈してゐる女性は、 今の小利口な世の中を巧みに渡ることができるとは思はれない。政治に暗く、経済に暗く、社会に暗く、 しかしその暗い全景の一部分に、丁度ルネッサンスの風景画のやうに、啓示のやうな光りを強く浴びてゐる 部分がある。そこだけ草が輝き、羊の背が光つてゐる。そこだけ木立は光りにあふれた籠のやうに見え、 そこだけ流れは光彩を放つてゐる。そここそは、女だけに特権的な、不可侵の情念の領域なのだ。 三島由紀夫「詩集『わが手に消えし霰』序文」より
526 :
吾輩は名無しである :2012/11/28(水) 13:07:52.52
福沢諭吉が、商人道徳の張本人のようにいわれていますけどね。彼は武家出身ですから死ぬまで毎日 居合いを抜いていた。こういう一面があるからプラグマディズムの哲学も生きてくる。 三島由紀夫 中山正敏との対談「サムライ」より
527 :
吾輩は名無しである :2012/11/29(木) 10:36:17.42
>>517 お前が見なければいいだけだ。
三島の名文をネットで勘所味わえるんだから
俺はいいと思う。張ってくれている人は
御苦労さんといいたい。
528 :
吾輩は名無しである :2012/12/03(月) 13:11:56.54
まやかしの平和主義、すばらしい速度で愚昧と偸安への坂道を辷り落ちてゆく人々、にせものの経済的繁栄、 狂ほしい享楽慾、世界政治の指導者たちの女のやうな虚栄心……かういふものすべては、仕方なく手に 委ねられた薔薇の花束の棘のやうに彼の指を刺した。 あとで考へればそれが恩寵の前触れであつたのだが、重一郎は世界がこんな悲境に陥つた責任を自分一人の 身に負うて苦しむやうになつた。誰かが苦しまなければならぬ。誰か一人でも、この砕けおちた世界の硝子の かけらの上を、血を流して跣足で歩いてみせなければならぬ。 幼児が自動車に轢き逃げされて、血まみれの体を路上に横たへたといふニュースをきくとき、数十人の 死傷者を出した列車事故や、数百戸を一ト呑みにした洪水のニュースをきくたびに、彼は身をすくめて、 自責の念におののいた。この同じ地上に住む以上、すつかり統一感を失つた世界とはいへ、彼はやはり あらゆる犯罪、あらゆる不祥事に対して、無答責であるとは云へないのだ。そしてかういふ身を裂く苦しみだけが、 世界の全体感を回復するかもしれないのだ。彼がある朝、庭の生垣の茶の花の一輪を摘むときに、この地上の どこかでは、ふしぎな因果関係によつて、(おそらく摘まれた茶の花が原因をなして)、誰かが十噸積の トラックの下敷きになつてゐるかもしれないのだ。 それでも、なほかつ、彼の肉体が痛まないとは何事だらう! 一人の人間が死苦にもだえてゐるとき、その 苦痛がすべての人類に、ほんのわづかでも苦痛の波動を及ぼさないとは何事だらう! こんな肉体的苦痛の 明確な個人的限界につきあたると、重一郎は又しても深い絶望に沈んだ。どうしてあの原子爆弾の怖ろしい 苦痛ですら、個人的な苦痛に還元され、肉体的な体験だけで頒(わか)たれることになつたのだらう。あの 原爆投下者の発狂の原因は、彼にはありありとわかるやうな気がした。 三島由紀夫「美しい星」より
529 :
吾輩は名無しである :2012/12/03(月) 13:17:09.90
今や人類は自ら築き上げた高度の文明との対決を迫られてをり、その文明の明智ある支配者となるか、 それともその文明に使役された奴隷として亡びるか、二つに一つの決断を迫られてゐる。 人類にとつての最大の敵は人類自身であります。 アメリカは、広島への原爆の投下によつて、自らの手を汚しました。これは彼らの歴史の永久に落ちぬ 汚点となりました。 三島由紀夫「美しい星」より
530 :
吾輩は名無しである :2012/12/06(木) 20:16:42.22
ある人をよく知つてゐるつもりでゐて、温厚ないい人物だと思つてゐると、突然、彼の狂的な一面に触れて、 びつくりすることがある。かういふ人生のドラマは、ボクシングの試合でも見られることがある。 三島由紀夫「観戦記(原田・ジョフレ戦)」より
531 :
吾輩は名無しである :2012/12/20(木) 19:58:22.33
われ一人お国を背負ふといふ覚悟をもつて、大高慢で事に当たる武士は、そのときもはやファンクションでは ない。彼が武士なのであり、彼が武士道なのである。したがつて、武士道一途に生きるときには、人間はただ 人間社会の歯車に堕する心配はない。しかし、技術に生きる人間は、ことに現代のやうな技術社会の一機能 として作用する以外に、自分の全人的な人生を完成することはできないのである。したがつて、武士が 全人的な理想を持ちながら、同時に別な技術に執着することになつては、機能をもつて全体を蝕むことになる だらう。「葉隠」がおそれたのはここであつた。その理想的な人間像は、一部が機能であり、一部が全体で あるやうな折衷的な人間ではなかつた。全人には技術はいらなかつた。彼は精神を代表し、行動を代表し、 そして国がよつてもつて立つ理念を代表してゐたのである。 三島由紀夫「葉隠入門」より
532 :
吾輩は名無しである :2012/12/21(金) 10:22:15.80
不遇のときに人よりも厚く、得意のときには遠くから見守る、といふのが本当の友人である。 三島由紀夫「序(丸山明宏著『紫の履歴書』)」より
私の少年期は薄明の色に混濁していた 三島由紀夫「金閣寺」より
534 :
吾輩は名無しである :2012/12/29(土) 20:28:48.21
上田秋成は日本のヴィリエ・ド・リラダンと言つてもよい。苛烈な諷刺精神、ほとんど狂熱的な反抗精神、 暗黒の理想主義、傲岸な美的秩序。加ふるに絶望的な人間蔑視が、一方では「未来のイヴ」となり、一方では 稀代の妖怪譚となつて結実した。 ロボットと妖怪。これは共に人間を愛さうとして愛しえない地獄に陥ちた孤独な作家の、復讐的な創造なのである。 リラダンは作中で、この比類ない創造、失はれた精神の代位とも称すべき無機質の美の具現を、海中の深淵に 投ぜざるを得なかつたし、秋成もまた、幾多の貴重な草稿を、狂気のやうになつて古井戸の中へ投げ入れざるを 得なかつたのである。二人ともに、己れの生涯を賭けた創造の虚しさを知つてゐた。 私はのちにむしろ雨月以後の「春雨物語」を愛するやうになつたが、そこには秋成の、堪へぬいたあとの凝視の やうな空洞が、不気味に、しかし森厳に定着されてゐるのである。こんな絶望の産物を、私は世界の文学にも ざらには見ない。 怪奇小説はいつも感性に対する逆説である。なぜならそれが読者の感性を征服する使命をもつために、 作品自体が作者の感性を征服しつくしてゐる必要があるからである。作品が極度に感性に愬へることを 要するために、作品の形成は無限に感性から遠いものとならねばならぬ。 三島由紀夫「雨月物語について」より
535 :
吾輩は名無しである :2013/01/16(水) 20:12:50.39
作家というものは、自分の過去の作品について、これは値打があるのだとか、これは立派なものを書いたのだと 言い出したら、おしまいじゃないですか。作家というものは、創る人間であって、守る人間ではない。文化の 保護などということは、作家の仕事ではありません。ぼくは自分の過去の作品は、そういう意味では絶対に 愛せないですね。たとえ多少の値打があったにしても。そしてもし焼けば、本人が焼くのがいちばんいいと 思うのです。上田秋成は、みんな自分の原稿を井戸のなかに放り込んだでしょう。 三島由紀夫 林房雄との対談「対話・日本人論」より
you tubeで「新唐人テレビ」を検索して見てください。 それを見ると中国人も中国の民主化を望んでいる事がわかります。 新唐人テレビは中国の民主化を望む中国人自身によるテレビ局で、海外に拠点をおき、 中国共産党の圧力に屈する情けない日本のマスゴミよりもよっぽどまともなテレビ局です。 日本語による吹き替えも毎日アップしています。 日本では中国共産党の圧力により報道出来ないニュースが沢山取り上げられています。 新唐人テレビのような勇気ある報道機関を広める事で、中共の圧力に屈し、真実を伝えない 日本のマスゴミのへなちょこぶりを浮き彫りにする事にもなります。 さらに新唐人テレビを衛生放送を使って中国国内に放送する計画まであります。 これはある意味、中国共産党に対する強力な「兵器」です。 新唐人テレビを日本や在日中国人の間に広めて、中共が日本に戦争をしかけてくる前に中共を内部崩壊させましょう!
537 :
吾輩は名無しである :2013/01/30(水) 16:58:38.48
政治というものは生に委任して継続されるものであるか、死に委任して継続されるものであるか。政治がひとつ 完成した段階に来たら、その次の形は完全な破壊と無しかないのか。あるいはそれの先に向上があるのか。 つまり進歩という概念のもう一つ先ですね。そこになにがあるかという問題でしょう。それは文学と同じ問題で、 さっき埴谷さんがおっしゃった、非常に危険な文学観だと思いますが、つまり、死と生と両方を文学が 総合しなければならないとすると、死滅を、自分の死ということを文学のテーマにすれば、いつかは文学を ぬけ出して、自分が死ななければならない。政治の立場で人を平気で死なせるという立場に立てば、これも必ず 文学をぬけ出して、字の上で人を殺してもしようがないのだから、実際に人を殺さなければならない。そのときに、 文学というのはまったく、文学の自己否定の上にしかなり立たんということですね。文学自体の否定の上にしか 文学はなり立たん。 三島由紀夫 埴谷雄高と村松剛との対談「デカダンス意識と生死観」より
538 :
吾輩は名無しである :2013/03/08(金) 22:59:57.96
死といふやつは、当り籖(くじ)のやうに身をひそめてゐるんです。 三島由紀夫「大障碍」より
539 :
吾輩は名無しである :2013/03/20(水) 12:08:47.03
暗殺の方法にもより、また暗殺者の覚悟にもよるのですが、暗殺を非難するのはやさしいが、皆さん 暗殺できますか。これは大変な勇気がいると思うのです。あれだけ警備の大勢いるところで、死刑を覚悟で やるというのは大変だと思う。私は人間の行動というのは、行動のボルデージの高さで評価するから、 それが気違いなら別として、一人の個人である場合は、その個人の中のドラマが、どれだけのボルテージ、 人間性の強いものに達したか。 三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン その一」より
540 :
吾輩は名無しである :2013/03/29(金) 20:05:30.22
君、まじめというのはこの中に入っているんだよ! 言葉というのはそういうものだ。この中にまじめが 入っているんだ。わかるか! 三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
541 :
吾輩は名無しである :2013/03/30(土) 00:21:06.92
くだらん
説教くさいんだよ、三島は
543 :
吾輩は名無しである :2013/04/13(土) 22:45:51.45
しかしフライパンの中から見ると、フライパンは、フライパンには見えにくいものである。 三島由紀夫「卵」より
544 :
吾輩は名無しである :2013/04/30(火) 22:34:31.91
家庭といふところはふしぎな厳密性を帯びた場所であつて、ここでは巧緻を極めたミスティフィケーションも しばしば破られる。 三島由紀夫「どくとるマンボウ結婚記――北杜夫さんおめでたう」より
545 :
吾輩は名無しである :2013/04/30(火) 23:44:30.31
今更ながら三島の文章力はすごいと思う 書きたいと思ってもそうそう書けるもんじゃない
なんでもねえよこんな文章 オマエが無芸無能だからこんな程度の文章さえ書けないっつーだけだわさw
547 :
吾輩は名無しである :2013/05/01(水) 03:01:55.57
ミスティフィケーション(笑)(笑)
文章初心者→三島すげえ天才だ…… 文章初級→三島やるじゃん 中級者→三島? あんなの誰にでも書けっからwww 上級者→やっぱり三島はすごかったでござる(土下座)
そりゃな、屋根付霊柩車のコテコテ細工な文体は 三島みたいな螺子一本外れてどっかに行ってる天才(笑)じゃなきゃ そもそも書こうとしないわなw シンプル・イズ・ベスト、だよ。お若ぇーのw
なんでアンチが沸いてるわけ? すごいものはすごいんだよ 日本語の可能性を広げた人でもある
拡がってねーよ
悔しかったら三島を越える名文書いてみろよ ザコがうるせえんだよ
コテコテ細工が名文ならば屋根付霊柩車も名車の内。(字余りw) 名文じゃないよって言ってるんだよ。美文気取りの駄洒落な滑稽文なだけだよってね。 それを越える名文もなにも、だから、はなから「書いてみろ」の問題にはならないよ。w
554 :
吾輩は名無しである :2013/05/02(木) 09:36:37.33
三島なんか話にならん。比喩にしろなんにしろ大江のほうが上手い。
いや大江は下手くそだよ、なにもかもが、どんな誰よりも。 いくら三島でも、大江のほうが上手いと言っちゃあ、そりゃあんまりってやつですよ。w
556 :
吾輩は名無しである :2013/05/02(木) 15:19:57.74
出版社にもつとも大切なのはプレステージ(威信)である。 三島由紀夫「プレステージ――集英社と私」より
557 :
吾輩は名無しである :2013/06/07(金) 16:20:46.76
三島由紀夫もカラオケで唄うのかな? 「来てよ、その火を飛び越えてぇ〜♪」
うちの家族はずっと海女を続けてくと思って見てる あの地震の時にはあそこには居られないだろうに。
559 :
吾輩は名無しである :2013/06/09(日) 16:04:10.19
>>557 美輪のステージで、船乗りの恰好で歌ったことがあるらしいので、
カラオケとか好きそう。唐獅子牡丹が十八番でね。
薔薇族は硬派じゃねーよ。それも女役の掘られじゃねーかよw
561 :
吾輩は名無しである :2013/06/14(金) 16:46:05.75
あゝ希望といふものは、何といふ力で人間を小さく限定し、何といふ快い狡さを人間に教へることだらう。 三島由紀夫「青の時代」より
562 :
吾輩は名無しである :2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に 自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の 同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子 三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、 小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。 三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」 後の井脇ノブ子である。 今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを 身につけている
563 :
吾輩は名無しである :2013/07/30(火) NY:AN:NY.AN
肉の交はりはそもそも心の交合の模倣であり、絶望から生れた余儀ない代償ではないだらうか。 三島由紀夫「美しい星」より
肉の交はりじゃねえだろ、ホルモンの交わりだろ 三島のセックス論なんてのは羊頭狗肉、じゃなかったヒレ頭モツ肉だw
という、つまらないダジャレにもなってないアル中爺さんの戯言でした。
新年に想ふのは「葉隠」の一章。マスコミが作る「ものの見方」にとらはれず自分の考へ方で生きていく勇気を もちたい。一念一念といふのは、さういふことだし、その積み重ねが、私を私らしくするのだから…… 三島由紀夫「真(まこと)を胸に――若さに生きよう」より
567 :
吾輩は名無しである :2014/03/12(水) 17:32:39.54
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。 スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。 「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。 当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、 「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、 親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略) マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。 三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
568 :
ヘノモチン :2014/03/12(水) 20:41:02.62
なかった、嘘の想い出を回想する本多先生です 「本多はプールのそばから身を起し、次第に強まる日射しを避けて、卓 を抜きん出ているビーチ・パラソルを苦労してひらき、その日かげの椅 子に座って、又プールの水面を眺めた 朝の珈琲が後頭部の痺れるような覚醒をなお保たせていた。九メートル 幅の二十五メートルのプールの水底の白線が、青いペンキのゆらめきの 中に、遠い若い日の運動競技につきものであった。あの石炭の白い線や サロメチールのハッカの匂いを思い出させた。すべてに白い清潔な線が きちんと幾何学的に引かれ、そこから何事かがはじまり、そこで何事か が終わったのだ。しかしそれは嘘の思い出だった。本多の青春は競技場 などとは縁もゆかりもなかったのである」 (『暁の寺』ページ314より)
569 :
吾輩は名無しである :2014/03/15(土) 06:02:48.07 BE:3652188858-PLT(14000)
570 :
吾輩は名無しである :2014/03/16(日) 14:37:03.90
諸君の中に、一人でも俺といっしょに立つ奴はいないのか… 三島由紀夫 「最期の演説」より
571 :
ヘノモチン :2014/03/18(火) 19:16:00.85
神宮外苑の森・覗き現場の人生模様 「この森周辺の{見物人}のうち、この二十年間に死んだ年寄りはずいぶん多 かろうということ、若い{俳優}のほうでさえ、結婚してここを去ったり、交 通事故で死んだり、若年癌や若年高血圧や心臓・肝臓などで死んだものも少く あるまいということ、もちろん{俳優}の異動は{見物人}よりはるかに甚だし しいから、今ごろかれらは東京から私鉄で一時間もかかるべッド・タウンの団 地の一室で、女房子供のさわぎをよそに、睨みかまえるようにじっとテレビジ ョンを見ているであろうということ、そうして彼らが今度は{見物人}になっ てここへ来る日が近いということ。。。。。」 (『天人五衰』より)
直接の言葉ではないですけど… これほどまでに崇高な精神を持つ日本人が いたとい言う事実に驚愕 七生報国
573 :
吾輩は名無しである :2014/03/30(日) 12:27:31.92 BE:2191313164-PLT(14000)
よく世間で”童心を失った人”という言葉を聞きますが、 童心を失った人は、自分の思春期までの人生を、 ただ子供のばかばかしい無経験なことと考えていて、 それをしっかり捨て去り、おとなの散文的な、世俗的な、 実は一段とつまらない人生の方にばかり 目を向けている人のことを言うのです-わが思春期-
575 :
吾輩は名無しである :2014/04/08(火) 04:04:44.50
行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽せないからこそ行動なのである。-行動学入門-
576 :
吾輩は名無しである :2014/04/09(水) 03:07:43.88
のうのうと生きて、みにくい中年や老年の姿をとるにいたる人間は、 決して少年の神とはなりえない。少年は、自分のまま、 あるいは数年後の自分のままの姿で、永遠化された存在を神として祭るのである。 -「狂った年輪」をみて-
577 :
吾輩は名無しである :2014/04/10(木) 04:32:07.50
「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。-第一の性-
578 :
吾輩は名無しである :2014/04/11(金) 04:45:24.02
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ という意識が、いつも私の心の片隅にあった。 本当の青年だったら、矛盾と不正に誠実に激昂して、 殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。-空白の役割-
海がなア、島に要るまつすぐな善えもんだけを送つてよこし、 島に残つとるまつすぐな善えもんを護つてくれるんや。 三島由紀夫「潮騒」
芥川舞踏会 三島由紀夫は本作を、「短編小説の傑作であり、芥川の長所ばかりの出たもの」[2]と評し、「美しい音楽的な短篇小説。芥川の持つてゐる最も善いもの、しかも芥川自身の軽んじてゐたものが、この短篇に結晶してゐるやうな感じがする。 それは軽やかさと若々しさとうひうひしい感傷とである。時代思潮に毒された擬似哲学的憂鬱ではなくて、青春の只中に自然に洩れる死の溜息のやうなものである」[1]と解説し、「この短篇のクライマックスで、ロティが花火を見て呟く一言は美しい。 実に音楽的な、一閃して消えるやうな、生の、又、死のモチーフ。この小説の中に一寸ワットオのことが出てくるが、芥川は本質的にワットオ的な才能だつたのだと思ふ。時代と場所をまちがへて生れてきたこのワットオには、 本当のところ皮肉も冷笑も不似合だつたのに、皮肉と冷笑の仮面をつけなければ世を渡れなかつた。『舞踏会』は、過褒に当るかもしれないが、彼の真のロココ的才能が幸運に開花した短篇である」[1]と述べている。
週刊少年マガジン」に連載されていた『あしたのジョー』を愛読していたという。夏のある日の深夜、講談社のマガジン編集部に三島が突然現れ、 今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』)で、 帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、「『あしたのジョー』を読むために、毎週水曜日に買っている」と答えた。 財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。 当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった
日輪を見た
三島:ぼくはほうぼうで引用するが、アーサー・シモンズの言葉、「芸術でいちばんやさしいことは、涙を 流させることと、わいせつ感を起させることだ」というのがあるが、これは千古の名言だと思う。 荻:逆に言えば、映画は末梢を刺激するようにできている。 三島:セックスの点がそうね。あんなセンジュアルなものはない。映画の根本的なものかもしれない。オッパイが 出てくれば、三メートルぐらいに拡がっちゃう。そういうことと涙と関係があるからね。 荻:映画ってものは観客をどうしても同化作用に引き込ませる。映画ですぐ作品のテーマということが問題に なるのもそこね。たとえば頽廃的なもの、悪影響を及ぼすもの……。 三島:映画でいちばん信用できないのはそれなんです。人間的な限界をのり越すということなんだよ。彫刻は、 大きな彫刻はあるにしても、人間の限界にとどまっているからね。無害なんだ、芸術として。小説も人間の限界に とどまっている。 三島由紀夫 荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:映画は人間の限界を飛び越すからね。オッパイは三メートル、十メートルになっちゃう。それは人間の 仕事でなく、拡大する機械の仕事なんだ。そういうものによって訴えるということは、人間的な限界を踏み越した ものだと思うね。 荻:それはおもしろいな。みんなこの問題はマス・コミュニケーションの問題としてしか考えていない。 たくさんの人々に見られるから危険だというふうにしか考えない。 三島:ぼくは非人間的なものが危険だという考えだ。 荻:その点をまた映画は大変な武器にして来たわけでね。 三島:オッパイが十メートルになるということは、現実の世界にはない。シネマスコープは十メートルになる。 そんな昂奮はないかもしれない。そういう点でラクロの「危険か関係」のように、「観念がいちばんわいせつだ」 という信念で作られたエロ小説から考えると、十メートルのオッパイは観念なんだ。観念が拡大されて人間以上の ものになっている。 三島由紀夫 荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
三島:ラクロがどんなに努力しても、人間の想像力のエロチシズムから出ない。映画は想像力を越して、ただちに 官能に命令する。そこが危険なんだ。そういうものを狙ったものが。ぼくも木石でないから感ずる。それは 芸術でないと感ずる。そういう武器はすごいよ、映画は。観念が拡大されて人間を追い越すという点では 恐るべき武器だ。どこまでも行っちゃう。古代ローマのコロシアムのショーね、あれなんか登場人物がほんとうに 死ななければ満足できなかったのだ。今やプロ・レスリングがそうだし、ボクシングがそうだ。 荻:抽象的なルールのないスポーツみたいなものなのね。 三島:ギリシャ劇がいつかローマの円形劇場のショーへ堕落して行ったのと小説が映画になったということは、 符節を合している。そこまで言うと身も蓋もなくなる。映画にもいい所があるけれども……。 (中略) 荻:一部の映画作家がむしろアンバランスなものを作ろうというところに、いわゆる映画芸術の悲劇があるのかも しれない。 三島由紀夫 荻昌弘との対談「映画・芸術の周辺」より
渋谷:イタリア映画はどうですか。 三島:嫌いなんですよ。なぜかというと見え透いていてね。あんなに見え透いたもの芸術じゃないと思うね。 そうしてね、ひとつひとつ言えば、あの「自転車泥棒」なんか、父子の義理人情からすぐさま共産主義へ持ってゆく、 理論的な飛躍の癪に障ること。それから「無法者の掟」の結末の浪花節的なこと。実につまらぬものだと思う。 「パイサ」を見たときは非常に面白かった。 (中略) フランスの映画は、露骨な理論的飛躍がない。そこで止めておくから、見る人が理論的に追求して自分のほうへ 持ってゆくでしょう。「自転車泥棒」には理論的な押しつけがましさがセンチメンタルの後ろにあるので、 一面から質的相違に見えるけれど、センチメントはセンチメント。シモンズが文学論で言ってるけれど、芸術が われわれに訴える涙ぐましさは猥褻さの効果とあまり変らない。そういう意味での涙脆さにすぎぬ。社会問題なんかは、 もっと理論的にイデオロギッシュに考えるべきだ。 三島由紀夫 吉村公三郎・渋谷実・瓜生忠夫との座談会「映画の限界 文学の限界」より
すべての詩人、劇作家、小説家、エッセイスト、文芸評論家、そして文学関係の学者のみなさんについて、好き嫌いで判断しないようにしているし、事実、判断は不可能である。判断の基準は、あくまでも個々の作品だ。 退屈の皮をうまくかぶって日々を事なかれでやりすごしている自分が心底から揺り動かされる作品、それがわたしには「いい作品」ということになる。 三島由紀夫の仕事でいえば、彼の小説群や評論群で心を衝き動かされたことはない。しかし、三島戯曲の中にはすごい作品がある。とくに『サド侯爵夫人』は、 その完璧なまでに空虚な構造、噴飯物寸前のみごとな台詞修辞法によって、二十世紀の世界劇文学を代表するに足る一作である。 三島自決の報は、市川市の自宅で聞いた。ちょうど『十一ぴきのネコ』という戯曲を書いている最中で、わたしはとっさに、「この作家は、結局のところ書くという仕事がつまらなくなったのだな」と思った。やがて事情がわかってくるにつれて、 「この偉大な劇詩人は森田必勝という青年によって黄泉の国に強引に連れ去られてしまったのではないか」と考えるようになった。最近、中村彰彦さんの著書を読んで、 この考えは確信に近くなっている。三島さんの真剣めかした遊びは、生真面目な狂気に破れてしまったのである。 三島以後の日本は、ますますアメリカ合衆国のお稚児さんになってきたようだ。そのうちにアメリカの准州になるかもしれないが、それを防ぐためには、三島さんの嫌っていた日本国憲法を攻撃的に駆使するしかない。そのためにも、わたしには筆がある。
589 :
吾輩は名無しである :2014/10/03(金) 19:35:42.96
人々の肉体的な死も、精神的な死も、そのたび毎に世界を硝子のやうに粉砕する。 かれらは似合ふ着物を選ぶ。……だがさういふ彼自身の確信が、清一郎はきらひだつた。 彼だけは自分の確信にそむいて生きようと思ふ。彼だけは決して急がず、あせらず、 あの預言的な一般的な世界崩壊、制服のやうに誰にも似会ふ包括的な世界崩壊へむかつて 生きようと思つてゐた。そのためには彼の金科玉条がある。すなはち他人の人生を生きること。 三島由紀夫「鏡子の家」より
私が高校生のころ、マニアにしか知られていなかった渋谷のタトゥーショップの予約が現在5ヶ月先までいっぱいだという。肌に描かれたタトゥーを見ると、自分のことを「透明な存在」であると語ったあの少年のことを思い出してしまう。 神戸の事件当時、容疑者と同じ14歳だった私にとって自分を「透明だ」と揶揄する感覚は理解しがたいことではなかった。彼にとっても私にとっても、自分の命がただ存在するだけではそれは透明であり無形体で、 他者の視線や自分について語られる言葉によって初めて自分は輪郭を持ち得る。承認されたい、というよりもっと切実な「自己」に対する焦燥感がそこにある。 なぜ自己の輪郭に対して確固とした自身が持てないのだろうか。私たちの育った言語空間を考えてほしい。第2次ゆとり教育の施行と同時に教育課程に入った私は「個性の尊重」「個人の自由」という言葉の中で育った最初の世代である。 あまりに尊重された「個」は肥大し続け、「自己」という曖昧なコトバを具現化する、という不毛な課題を作り上げた。自分がなにものかであると信じる気分は、自分はなにものでもないような不安を孕んで私たちの中に波及している。
90年代後半からものすごい速さで一般化したキャバクラや、数年前から業界で初めて希望者の供給が需要をこえてギャラが下落したアダルトメディアで、自らを商品化していった彼女たちも、自己の「輪郭」を作るために、 自分について語られる言葉や自分につけられる値段を求めているのかもしれない。 神戸の少年が自己を肉体に例えて「透明だ」と語った気分は、せめて肉体に「見える外殻」を与えようとタトゥーを入れる彼らのそれに似ている。そして「少年A」「酒鬼薔薇聖斗」 という名前や彼について語られた数々のコトバで外殻は透明でなくなったとしても、そこには空洞化した巨大な自己像が残ると思うと、同じように社会の気分で肥大してしまった「個」を持つ彼らの、タトゥーによって可視化された外殻は妙に痛々しい。
592 :
吾輩は名無しである :2014/11/06(木) 20:42:57.36
ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家は バネをもつてゐる人形のやうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。 彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に世を去つた。彼は今も異邦人だ。 だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の生まじめは、 もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。 あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。 三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
>>562 >28歳の時に婚約をしたが、「結婚して何人かの子供を育てるより何千人もの子供たちを自分の子と思って愛情をそそぎなさい」という母の言葉を受け、結婚には至らなかった。
>ちなみにその婚約者はその後違う女性と結婚し、今は現役国会議員であると語った。
今さらながら嘘じゃねーかw
594 :
吾輩は名無しである :2014/11/29(土) 02:47:42.91
「私は芸術家志望の女性に会うと、女優か 女声歌手になるのなら格別、女に天才という ものが理論的にありえないということに、 どうして気がつかないかと首をひねらざるを えない。」 「大体私は女ぎらいというよりも、古い 頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思って いるにすぎない。 女性は劣等であり、私は馬鹿でない女 (もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに 会ったことがない。事実また私は女性を 怖れているが、男でも私がもっとも怖れる のは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど 怖いものはない。 また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、 教育を全くうけていない聡明な人も沢山 いるから、何も私は学歴を問題にしている のではない。 こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な 女性に会ったことがない不幸な男である、 という風に曲解して、私に同情を寄せてくる 女性がきっと現れる。こればかりは断言して もいい。しかしそういう女性が、つまり一般論 に対する個別的例外の幻想にいつも生きて いる女が、実は馬鹿な女の代表なのである。」
「そうそうワタシあの人に一度しかられたことあるんですよ。ワタシ、あの人のことを 『三島サンは首から下は北海の荒海の漁師だけれど、首から上は明治美人だ』 と言いました。そしたらあの人ワタシに言いましたネー。 『それはボクの顔が馬ヅラだと言ってるんでしょう(笑)明治美人というのは面長のことをいうんだから』 ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネー。 お若いといっても三島サンももうおトシです。ボデービルもいいんですけど文学に本腰を入れてほしいですネー。 そして、もっともっとよいホンをいっぱい書いてほしいですネー。あの人の持っている赤ちゃん精神。これが 多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネー。」
淀川:おいくつです? 三島:トニー・カーティス、ファーリー・グレンジャーと同い年……と言ったら、みんな笑う。一九二五年生れです。 どうして可笑しいのか……。 淀川:なんとなく可笑しい。なんとなく面白い。最近はまた大変ですね。歌舞伎の新作一本、新劇一つ、(中略) それから読売の連載……。 三島:(中略)それに明日に控えた文春の“文士劇”があるんですよ。 淀川:それは大変、何をおやりになるの。 三島:「屋上の狂人」の弟役、僕の役……十八歳なんですよ、ハハッ十八歳なんですよ! 淀川:貴方なら充分、とってもお若い……その文士劇は他にどんなのがあります。 三島:「め組の喧嘩」と「車引」……こういうのに引っ張り出されると、本当に役者が自分の舞台で観客に 印象づけようと厚かましくもなる……そんな気持ち、(中略)当人になると無理もないと、つくづく解ってくる。 淀川:「車引」の桜丸なんか演って貰いたかった! 三島:いや、僕は時平公が演りたかった! 淀川:これは、まあ派手に厚かましい!