三島由紀夫の美文、名文、名言を引用してみよう

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541吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:39:54
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。



きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
542吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:43:34
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだから。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
543吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:11
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。



人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相当に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。夢の代りに不安がある。これはダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。
病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。しかもダイヤは決して死ぬことが
できんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。お父さんは病気を売りつけるのだ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
544吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:36
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。



どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。



トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。



私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
545吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:55
あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の顔が
街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。



お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。気がついてからのお前の暴れやう、
哀訴懇願、あの涙……お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は
美しかつたのに、生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に
負けたんぢやないわ。命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
546吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:45:30
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
547吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:47:16
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに

黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、

明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに

黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか

明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか

黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく知つてゐる。

明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。

黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に

明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。

黒蜥蜴:法律が私の恋文になり

明智:牢屋が私の贈物になる。

黒蜥蜴、明智:そして最後に勝つのはこつちさ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
548吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:47:40
明智:あんたは女賊で、僕は探偵だ。

黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに盗んでゐた。
私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつとつかまえてみれば、
冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。

明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。

黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。

明智:しかし僕も……

黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。

明智:何が……

黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
549吾輩は名無しである:2010/07/26(月) 14:05:03
>>519
それを最後に書いたんだよな
550吾輩は名無しである:2010/07/27(火) 19:38:47
最後に書いたのは「檄」と考えるべき
551吾輩は名無しである:2010/07/29(木) 12:40:58
安里は自分がいつ信仰を失つたか、思ひ出すことができない。ただ、今もありありと
思ひ出すのは、いくら祈つても分かれなかつた夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より
一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して
分かれようとしない夕焼の海に直面したときのあの不思議……。
安里は遠い稲村ヶ崎の海の一線を見る。信仰を失つた安里は、今はその海が二つに
割れることなどを信じない。しかし今も解せない神秘は、あのときの思ひも及ばぬ挫折、
たうとう分かれなかつた海の真紅の煌めきにひそんでゐる。
おそらく安里の一生にとつて、海がもし二つに分かれるならば、それはあの一瞬を措いては
なかつたのだ。さうした一瞬にあつてさへ、海が夕焼に燃えたまま黙々とひろがつてゐた
あの不思議……。

三島由紀夫「海と夕焼」より
552吾輩は名無しである:2010/07/29(木) 14:30:52
劇、劇的であるとはさ、要するに翻訳・翻案をする作業な訳よね、ひとに対して。
それが俺には、なーんか、馬鹿馬鹿しくってねえ…。
553吾輩は名無しである:2010/07/29(木) 14:33:32
その対象を欠いての演技なんて、出来ないよ。
欲求がそもそもないんだから。
554吾輩は名無しである:2010/07/29(木) 23:59:17
他者との距離、それから彼は遁れえない。距離がまづそこにある。そこから彼は始まるから。
距離とは世にも玄妙なものである。梅の香はあやない闇のなかにひろがる。薫こそは
距離なのである。しづかな昼を熟れてゆく果実は距離である。なぜなら熟れるとは距離だから。
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。まして熟し得る機能を信ずるくらい、
宇宙的な、生命の苦しみがあらうか。



一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである。これのみによつて殺人者は耐へる。
彼は未知へと飛ばぬ。彼の胸のところで、いつも何かが、その跳躍をさまたげる。
その跳躍を支へてゐる。やさしくまた無情に。恰かも花のさかりにも澄み切つた青さを
すてないあの蕚(うてな)のやうに。それは支へてゐる。花々が胡蝶のやうに飛び立たぬために。


三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より
555吾輩は名無しである:2010/08/01(日) 12:28:47
彼は青年にならうといふころ、皮肉(シニシズム)の洋服を誂えた。誰しも少年時には
自分に似合ふだらうと考へる柄の洋服である。次郎はしばらくこの新調の服を身に纏つて
得意であつた。……やがてこの服が自分に少しも似合はないことに気付いた。ある朝
街角の鏡の中で、女が新らしい皺を目の下に見出して絶望するやうに。……いや、
この比喩は妥当でない。次郎は皮肉の洋服が彼の年齢の弱味を隠すあまりに、年齢に対して
彼が負ふてゐる筈の義務をも忽(ゆるが)せにさせることを覚つたのである。



滑稽であるまいとしても詮ないことだ。彼自身の滑稽さを恕(ゆる)すところから始めねばならぬ。
われわれ自身の崇高さを育てやうがためには、滑稽さをも同時に育てなければならぬ……。

三島由紀夫「死の島」より
556吾輩は名無しである:2010/08/01(日) 12:29:24
風景もまた音楽のやうなものである。一度その中へ足を踏み入れると、それはもはや
透明で複雑な奥行を持つた一個の純粋な体験に化するのである。



『目くばせをしたぞ』と次郎は自分の舟がその間を辷りゆきつつある二つの小島を仰ぎ
見ながら呟いた。『たしかに今、この二つの島は目くばせをした。島と島とが葉ごもりの
煌めきで以て目くばせをするのを僕は今たしかに見たぞ。……それもその筈だ。彼らには
僕たち人間の目が映すもののすがたが笑止と思はれるに相違ない。彼らこそこの水上の風景が
虚偽であることを知つてゐる。島と島との離隔は仮の姿にすぎず、島といふその名詞でさへ
架空のものにすぎないことを知つてゐる。水底の確乎たる起伏だけが真実のものだといふことを
知つてゐる。僕たちの目が現象の世界をしか見ることが出来ないのを、彼らは目まぜして
嗤(わら)つてゐるのだ』

三島由紀夫「死の島」より
557吾輩は名無しである:2010/08/01(日) 12:29:48
形式とは、僕にとつては残酷さの決心だつた。しかしあの島の形式の優美なことは、
およそ僕の決心と似ても似つかない。ああ、あの島は形式の美徳で僕を負かす。あれは
僕の内部へ優雅な行幸(みゆき)のやうに入つて来る。……



『あの雨上りの街路のやうな小島は、その街路を雨後に這い出した甲虫(かぶとむし)のやうな
つややかな乗用車が連なつて疾駆することもなく、永遠に人の住まない空つぽな街の
街路であるにとどまるだらう』……次郎は遠ざかる島影を見ながら、かう心に呟いた。
『きつとさうだらう。人間の関与を拒むやうな美が、愛の解熱剤として時には必要だ』
……それは葡萄に手が届かなかつた狐の尤もらしい弁疏(べんそ)であつた。

三島由紀夫「死の島」より
558吾輩は名無しである:2010/08/06(金) 00:18:53
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。

三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より


生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつたが、これは何も
浪漫派に限らず、芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのであるから、
死に対する媚態と死から受ける甘い誘惑は、芸術および芸術家の必要悪なのかもしれないのである。

三島由紀夫「日記」より


自分を理解しない人間を寄せつけないのは、芸術家として正しい態度である。芸術家は
政治家ぢやないのだから。

三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より
559吾輩は名無しである:2010/08/06(金) 00:19:37
エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、
外に現はれて人の目にふれるときエロティックと感じる。

三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性」より


男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、
この言葉には、あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る
何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。
プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。

三島由紀夫「美しい女性はどこにいる」より
560吾輩は名無しである:2010/08/09(月) 20:22:58
>>559
下の文はおちゃめだなw
561吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 00:08:22
老師を殺さうといふ考へは全く浮ばぬではなかつたが、忽ちその無効が知れた。何故なら
よし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇の地平から
現はれて来るのがわかつてゐたからである。
おしなべて生あるものは、金閣のやうに厳密な一回性を持つてゐなかつた。人間は自然の
もろもろの属性の一部を受けもち、かけがへのきく方法でそれを伝播し、繁殖するに
すぎなかつた。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。
私はさう考へた。そのやうにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では
人間の滅びやすい姿から、却つて永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却つて
滅びの可能性が漂つてきた。人間のやうにモータルなものは根絶することができないのだ。
そして金閣のやうに不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに
気がつかぬのだらう。
三島由紀夫「金閣寺」より
562吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 12:48:26
三島由紀夫が異性愛に関して言及すると些か滑稽な色合いを帯びるナッ!



563吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 16:01:53
>>561は手の施しようがない悪文。なんだこの水増し作文はw
564吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 16:45:11
簡潔で寡黙ですらある抑制された名文だな。
理解する頭を作ってから感想は書こう。出来ない間は沈黙が正しい。
565吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 22:10:07
金閣は野糞しませんっつうことかに
566吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 00:06:00
それは確乎たる菊、一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまつてゐた。
それはこのやうに存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望に
ふさはしいものになつてゐた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、かうして
対象としての形態に身をひそめて息づいてゐることは、何といふ神秘だらう! 形態は
徐々に稀薄になり、破られさうになり、おののき顫(ふる)へてゐる。それもその筈、
菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞつて作られたものであり、その美しさ自体が、
予感に向つて花ひらいたものなのだから。今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。
形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世の
あらゆる形態の鋳型なのだ。

三島由紀夫「金閣寺」より
567吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 00:06:40
蜂の目を離れて私の目に還つたとき、これを眺めてゐる私の目が、丁度金閣の目の位置に
あるのを思つた。それはかうである。私が蜂の目であることをやめて私の目に還つたやうに、
生が私に迫つてくる刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまふ。
そのとき正に、私と生との間に金閣が現はれるのだ、と。

三島由紀夫「金閣寺」より
568吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 16:42:33
>>564
結局、自分が本文を理解していないから単純否定しかできないのでは?
あなたこそ文章全般を理解できる頭と、知ったかぶりをしない羞恥心、権威に流されない知性を備えるまで
書き込みは控えるべき。
私が読んでもその文は水増しした単語表現の羅列と言わざるを得ない。


569吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 16:48:44
金閣寺って基本的には中学生レベルのプロットだよな。
それをレトリックを重ねて文学っぽくしてるだけでww
似非インテリホイホイwwwwww
570吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 17:05:29
>>568
三島由紀夫のような文章力もない者がいくら反発しても無駄な遠吠えにしか聞こえないわ。
571吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 17:21:23
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。

三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より


文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず
作者の夢が破れたところに出発してゐる。

三島由紀夫「秋冬随筆」より


人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な
花の幻がなければならない。

三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より
572吾輩は名無しである:2010/08/15(日) 23:40:33
われらは最後の神風たらんと望んだ。神風とは誰が名付けたのか。それは人の世の仕組が
破局にをはり、望みはことごとく絶え、滅亡の兆はすでに軒の燕のやうに、わがもの顔に
人々のあひだをすりぬけて飛び交はし、頭上には、ただこの近づく滅尽争を見守るための
精麗な青空の目がひろがつてゐるとき、……突然、さうだ、考へられるかぎり非合理に、
人間の思考や精神、それら人間的なもの一切をさはやかに侮蔑して、吹き起つてくる
救済の風なのだ。わかるか。それこそは神風なのだ。


われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、
さういふことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。

三島由紀夫「英霊の声」より
573吾輩は名無しである:2010/08/15(日) 23:41:09
陛下がただ人間(ひと)と仰せ出されしとき
神のために死したる霊は名を剥脱せられ
祭らるべき社(やしろ)もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず。

三島由紀夫「英霊の声」より
574吾輩は名無しである:2010/08/15(日) 23:41:37
日本の敗れたるはよし
農地の改革せられたるはよし
社会主義的改革も行はるるがよし
わが祖国は敗れたれば
敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよし
わが国民はよく負荷に耐へ
試練をくぐりてなほ力あり。
屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間(ひと)なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人(ごいちにん)、神として御身を保たせ玉ひ、
そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、
(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
  などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫「英霊の声」より
575吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 13:29:50
私は、諸君らの熱情だけは信じる、他の物は一切信じないが・・・
この事だけは解ってほしい。

三島 VS 全学連 より
576吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 15:04:40
私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたへた。この巨大な・張り裂けるばかりになつた私の一部は、
今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤ろしく息づいてゐた。私の手はしらずしらず、誰
にも教へられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇ってくる気配が感じられた。
と思ふ間に、それはめくるめく酩酊を伴つて迸つた。
577吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 23:26:54
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。


共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質は
ちがはないといふ仮定が、あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の
相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、さらに辛辣なイロニイが
ゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ
無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふ
イロニイが。


日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は
弓のやうに日本人たちをたえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。

三島由紀夫「林房雄論」より
578吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 23:28:12
白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは
作家の苦悩だけだと思ひ込んでゐはしないだらうか。

三島由紀夫「解説(日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花)」より


よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。

三島由紀夫「解説(日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁)」より


「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」
「絎台」「針坊主」「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ
引き入れられる。生活の細目のあらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に
比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、雑多な諸現象に統一的な美意識に
基づく「名」を与へることなのだ。

三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より
579吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 23:29:14
もし天才といふ言葉を、芸術的完成のみを基準にして定義するなら、「決して自己の資質を
見誤らず、それを信じつづけることのできる人」と定義できるであらうが、実は、この定義には
循環論法が含まれてゐる。といふのはそれは、「天才とは自ら天才なりと信じ得る人である」
といふのと同じことになつてしまふからである。コクトオが面白いことを言つてゐる。
「ヴィクトル・ユーゴオは、自分をヴィクトル・ユーゴオと信じた狂人だつた。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より


天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の
諸特質や、その後発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。

三島由紀夫「解説(新潮日本文学6 谷崎潤一郎集)」より


天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。

三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より
580吾輩は名無しである:2010/08/21(土) 00:38:14
男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、
色情はつねに部分にかかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも
「全体」を表現してゐるものは、色情を浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に
近づけるのである。


動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な
環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば
強ひられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、
彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。

三島由紀夫「篠山紀信論」より
581吾輩は名無しである:2010/08/21(土) 00:45:09
文学には最終的な責任といふものがないから、文学者は自殺の真のモラーリッシュな
契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなはち、
武士の自刃しかみとめない。

三島由紀夫「日沼氏と死」より


コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。
踏台を蹴飛ばせば万事をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやれば
おしまひだ。……作家が書きつづけるのは、生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に
足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を生かしてゐるのだが、
これはもともと自殺用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで
彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。
踏台が果してゐるのはいかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさない
といふことは、半ばは彼の自由意志にかかはることであるが、自殺の目的に照らせば、
明らかに彼の意志に反したことである。

三島由紀夫「武田泰淳氏――僧侶であること」より
582吾輩は名無しである:2010/08/22(日) 23:29:37
夢想は私の飛翔を、一度だつて妨げはしなかつた。



夢想への耽溺から夢想への勇気へ私は出た。……とまれ耽溺といふ過程を経なければ
獲得できない或る種の勇気があるものである。



最早私には動かすことのできない不思議な満足があつた。水泳は覚えずにかへつて来て
しまつたものの、人間が容易に人に伝へ得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めて
さすらひ、おそらくそれとひきかへでなら、命さへ惜しまぬであらう一つの真実を、
私は覚えて来たからである。

三島由紀夫「岬にての物語」より
583吾輩は名無しである:2010/08/22(日) 23:30:49
王子をゆりうごかした愛は、合(みあは)しせんと念(おも)ふ愛であつた。鹿が狩手の矢も
おそれずに牝鹿が姿をかくした谷間へと荊棘(いばら)をふみしだいて馳せ下りる愛であり、
つがひの鳩を死ぬまで森の小暗い塒(ねぐら)にむすびつける愛であつた。その愛の前に
死のおそれはなく、その愛の叶はぬときは手も下さずに死ぬことができた。王子もまた、
死が驟雨のやうにふりそそいでくるのを待つばかりである。どのみち徒らにわたしは死ぬ、
と王子は考へた。死をおそれぬものが何故罪をおそれるのか?



この世で愛を知りそめるとは、人の心の不幸を知りそめることでございませうか。
わが身の幸もわが身の不幸も忘れるほどに。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
584吾輩は名無しである:2010/08/22(日) 23:31:11
たとひ人の申しますやうに恋がうつろひやすいものでありませうとも、大和の群山(むらやま)に
のこる雪が、夏冬をたえずうつりかはりながら、仰ぐ人にはいつもかはらぬ雪とみえますやうに、
うつろひやすいものはうつろひやすいものへとうけつがれてゆくでございませう。



恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。



はげしい歓びに身も心も酔ふてをります時ほど、もし二人のうちの一人が死にその歓びが
空しくなつたらと思ふ怖れが高まりました。二人の恋の久遠を希ふ時ほど、地の底で
みひらかれる暗いあやしい眼を二人ながら見ました。あなたさまはわたくし共が愛を
信じないとてお誡(いまし)め遊ばしませうが、時にはわれから愛を信じまいと
力(つと)めたことさへございました。せい一杯信じまいと力めましても、やはり恋は
わたくし共の目の前に立つてをりました。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
585吾輩は名無しである:2010/08/22(日) 23:31:32
わたくし共の間にはいつも二人の仲人、恋と別れとが据つてをります。それは一人の仲人の
二つの顔かとも存ぜられます。別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに
耐へてゆけますのも恋ゆゑでございますから。



自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。



女性は悲しみを内に貯へ、時を得てはそれを悉く喜びの黄金や真珠に変へてしまふことも
できるといふ。しかし男子の悲しみはいつまで置いても悲しみである。



凡ては前に戻る。消え去つたと思はれるものも元在つた処へ還つて来る。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
586吾輩は名無しである:2010/08/29(日) 23:58:19
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。

三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より


理想主義者はきまつてはにかみやだ。

三島由紀夫「武田泰淳の近作」より


小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。

三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より


これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。

三島由紀夫「作家の日記」より


私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。

三島由紀夫「伏字」より


小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、
それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。

三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より
587吾輩は名無しである:2010/08/29(日) 23:58:35
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに
忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。

三島由紀夫「『元帥』について」より


伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、
もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。

三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より


物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと
確実な生の原型になるのである。

三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より


趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。
私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。

三島由紀夫「趣味的の酒」より


衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。

三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より
588吾輩は名無しである:2010/08/29(日) 23:58:53
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも
一人だといふ前提は、宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。
ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提をもたないのである。誕生と死の間に
はさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。

三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より


君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは
野合といふものである。われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて
似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。
われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。

三島由紀夫「新古典派」より
589吾輩は名無しである:2010/09/01(水) 01:05:18
パリ人はもともと、外国人をみんな田舎者だと思ふ中華思想をもつてゐる。


パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて
興ざめのする人種は、小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは
丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。
パリはつまり、芸術の台所なのである。おもては観光客目あてに美々しく装うてゐるが、
これほど台所的都会はないことに気づくだらう。パリのみみつちさは崇高な芸術の生れる
温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。


芸術とは何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに床の間のうしろに
便所があるやうな、さういふ構造を宿命的に持つてゐる。

三島由紀夫「パリにほれず」より
590吾輩は名無しである
詩とは何か? それはむつかしい問題ですが、最も純粋であつてもつとも受動的なもの、
思考と行為との窮極の堺、むしろ行為に近いもの、と云つてよい。


言葉といふものはふしぎなもので、言葉は能動的であり、濫用されればされるほど、
行為から遠ざかる、といふ矛盾した作用をもつてゐる。


詩は言葉をもつとも行為に近づけたものである。従つて、言葉の表現機能としては極度に
受動的にならざるをえない。かういふ詩の演劇的表出は、行為を極度に受動的に表現する
ことによつて、逆に言葉による詩の表現に近づけることができる。簡単に言つてしまへば、
詩は対話では表現できぬ。詩は孤独な行為によつてしか表現できぬ。しかも、その行為は、
詩における言葉と同様に、極度に節約されたものでなければならぬ。言葉が純粋行為に
近づくに従つていや増す受動性を、最高度に帯びてゐなければならぬ。お能の動きは、
見事にこの要請に叶つてをります。

三島由紀夫「『班女』拝見」より