三島由紀夫の美文、名文、名言を引用してみよう

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541吾輩は名無しである
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。



きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
542吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:43:34
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだから。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
543吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:11
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。



人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相当に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。夢の代りに不安がある。これはダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。
病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。しかもダイヤは決して死ぬことが
できんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。お父さんは病気を売りつけるのだ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
544吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:36
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。



どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。



トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。



私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
545吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:55
あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の顔が
街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。



お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。気がついてからのお前の暴れやう、
哀訴懇願、あの涙……お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は
美しかつたのに、生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に
負けたんぢやないわ。命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
546吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:45:30
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
547吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:47:16
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに

黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、

明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに

黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか

明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか

黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく知つてゐる。

明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。

黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に

明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。

黒蜥蜴:法律が私の恋文になり

明智:牢屋が私の贈物になる。

黒蜥蜴、明智:そして最後に勝つのはこつちさ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
548吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:47:40
明智:あんたは女賊で、僕は探偵だ。

黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに盗んでゐた。
私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつとつかまえてみれば、
冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。

明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。

黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。

明智:しかし僕も……

黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。

明智:何が……

黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より