三島由紀夫の美文、名文、名言を引用してみよう

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1吾輩は名無しである
2吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 16:54:12
若さが幸福を求めるなどといふのは衰退である。

「絹と明察」より
3吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:00:34
真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。彼はむしろ自ら客を招くべきであらう。

「招かれざる客」より
4吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:03:40
おちんちん
5吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:04:25
若さがおちんちんを求めるなどといふのは衰退である。

「おちんちんと明察」より
6吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:05:10
真の芸術家は招かれざるおちんちんの嘆きを繰り返すべきではあるまい。彼はむしろ自らおちんちんを招くべきであらう。

「招かれざるおちんちん」より
7吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:09:45
若い女といふものは誰かに見られてゐると知つてから窮屈になるのではない。
ふいに体が固くなるので、誰かに見詰められてゐることがわかるのだが。

「白鳥」より
8吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:10:37
女の部屋は一度ノックすべきである。しかし二度ノックすべきぢやない。
さうするくらゐなら、むしろノックせずに、いきなりドアをあけたはうが上策なのである。
女といふものは、いたはられるのは大好きなくせに、顔色を窺はれるのはきらふものだ。
いつでも、的確に、しかもムンズとばかりにいたはつてほしいのである。

「複雑な彼」より
9吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:14:39
日本の女が全部ぬかみそに手をつつこむことを拒否したら、日本ももうおしまひだ。

「複雑な彼」より
10吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:15:27
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。

「家庭裁判」より
11吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 17:35:52
>>4 出たなおちんちんマン
12吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 18:46:23
NHK宗教の時間での発言
http://www.youtube.com/watch?v=EwUhRRWOwjU
13吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 19:28:28
>>6
ワロタ
14吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 21:19:52
本スレでいつも貼ってるんだから本スレでやれよ
15吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 22:55:06
そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。
蜜蜂たちはそのまつ昼間のよるのなかをとんでゐた。
かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、たくさんの夜光虫のやうに。
苧菟はあるいた。彼はあるいた。
泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに足をすくはれて。……
彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。

「苧菟と瑪耶」より
16吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 23:21:34
生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。

「檄文」より
17吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 23:27:42
若いおちんちんといふものは誰かに見られてゐると知つてから窮屈になるのではない。
ふいにおちんちんが固くなるので、誰かに見詰められてゐることがわかるのだが。

「白鳥おちんちん」より
18吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 23:36:10
私は自分が生まれたときの光景を見たことがある。

「仮面の告白」より
19吾輩は名無しである:2010/02/04(木) 23:48:53
美おちんちんの定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえるおちんちんのことである。

「家庭おちんちん裁判」より
20吾輩は名無しである:2010/02/05(金) 00:15:06
「KIN KAKU SHI」
21吾輩は名無しである:2010/02/05(金) 00:59:31
金閣を焼かねばならぬ
22吾輩は名無しである:2010/02/05(金) 03:11:27
おちんちんは自分が生まれたときの光景を見たことがある。

「おちんちん仮面の告白」より
23吾輩は名無しである:2010/02/05(金) 03:14:30
おまんまん尊重のみで、おちんちんは死んでもよいのか。

「おまんちん檄文」より
24吾輩は名無しである:2010/02/05(金) 03:56:53
「仮性を告白」
25吾輩は名無しである:2010/02/05(金) 10:26:29
おちんちんを焼かねばならぬ。
26吾輩は名無しである:2010/02/05(金) 17:33:19
ある女は心で、ある女は肉体で、ある女は脂肪で夫を裏切るのである。

「反貞女大学」より
27吾輩は名無しである:2010/02/05(金) 17:34:03
愛から嫉妬が生まれるやうに、嫉妬から愛が生まれることもある。

「反貞女大学」より
28吾輩は名無しである:2010/02/06(土) 08:10:24
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、肉棒は褌の中で赫奕と勃った。
29吾輩は名無しである:2010/02/06(土) 11:12:13
純粋とは、花のやうな観念、薄荷をよく利かした含嗽薬の味のやうな観念、やさしい母の胸に
すがりつくやうな観念を、ただちに、血の観念、不正を薙ぎ倒す刀の観念、袈裟がけに
斬り下げると同時に飛び散る血しぶきの観念、あるひは切腹の観念に結びつけるものだつた。
「花と散る」といふときに、血みどろの屍体はたちまち匂ひやかな桜の花に化した。
純粋とは、正反対の観念のほしいままな転換だつた。
だから、純粋は詩なのである。

「奔馬」より
30吾輩は名無しである:2010/02/06(土) 11:14:03
壁には西洋の戦場をあらはした巨大なゴブラン織がかかつてゐた。馬上の騎士のさし出した
槍の穂が、のけぞつた徒士の胸を貫いてゐる。その胸に咲いてゐる血潮は、古びて、褪色して、
小豆いろがかつてゐる。古い風呂敷なんぞによく見る色である。
血も花も、枯れやすく変質しやすい点でよく似てゐる、と勲は思つた。
だからこそ、血と花は名誉へ転身することによつて生き延び、あらゆる名誉は金属なのである。

「奔馬」より
31吾輩は名無しである:2010/02/07(日) 10:48:59
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。
無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。
近ごろはやりの反小説も、小説の裏返しにすぎぬ。

「川端康成氏再説」より
32吾輩は名無しである:2010/02/07(日) 13:07:29
アンチ村上春樹も、徹底すれば徹底するほど、村上春樹が素晴らしいことの裏返しにすぎぬ。
33吾輩は名無しである:2010/02/07(日) 14:59:29
>>32
ちっとも裏返しの意味になってない。
34吾輩は名無しである:2010/02/07(日) 15:03:31
>>32
アンチ村上春樹も、徹底すれば徹底するほど、村上春樹信者の裏返しにすぎぬ。

ならわかるけどね
35吾輩は名無しである:2010/02/07(日) 16:32:39
>>31
やっぱ、そうか。
逆もまた真だよな。
「唯一神信仰も、徹底すれば徹底するほど、無神論の裏返しにすぎぬ」
酒池肉林を極めつくした後、ふと一人出家したお釈迦さんみたいなもんだな。
かつての日本共産党が自民党よりはるかに右へ行っちゃってたのも同じことだよな。
36吾輩は名無しである:2010/02/07(日) 16:32:56
>>34
まーわかるっちゃわかる
37吾輩は名無しである:2010/02/08(月) 19:27:05
愛するといふことにかけては、女性こそ専門家で、男性は永遠の素人である。
男は愛することにおいて、無器用で、下手で、見当外れで、無神経、蛙が陸を走るやうに無恰好である。
どうしても「愛する」コツといふものがわからないし、要するに、どうしていいかわからないのである。
先天的に「愛の劣等生」なのである。
そこへ行くと、女性は先天的に愛の天才である。
どんなに愚かな身勝手な愛し方をする女でも、そこには何か有無を言わせぬ力がある。
男の「有無を言わせぬ力」といふのは多くは暴力だが、女の場合は純粋な精神力である。
どんなに金目当ての、不純な愛し方をしてゐる女でも、愛するといふことだけに女の精神力がひらめき出る。
非常に美しい若い女が、大金持の老人の恋人になつてゐるとき、人は打算的な愛だと推測したがるが、それは
まちがつてゐる。打算をとほしてさへ、愛の専門家は愛を紡ぎ出すことができるのだ。

「愛するといふこと」より
38吾輩は名無しである:2010/02/08(月) 23:10:51
「魔群の通過」  題が良いじゃねえか
39吾輩は名無しである:2010/02/09(火) 19:23:48
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに一種の相互転換が起り、
人間は異形に化するのかもしれない。

「三熊野詣」より
40無名草子さん:2010/02/10(水) 19:30:23
おもては烈日に照らされた密林の湿った下生えが、みるみる腐葉土に変わってゆくのと同様な、
この国の隠微な人間関係に親しんで、誰よりも早く腐敗を嗅ぎつける素早さを、なりわいの
才能にした菱川は、その金蠅の逞しい羽根を、かつては支店長の皿の残肴に憩めたことがあるかもしれなかった。

「暁の寺」より
41無名草子さん:2010/02/10(水) 19:36:06
時として、広大な人間性に、法という規矩を与えることほど、人間の思いついた
最も不遜な戯れはない、と思われこともあった。

「暁の寺」より
42吾輩は名無しである:2010/02/11(木) 23:53:48
総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のやうに一つの影像は無限の奥までつづいて、
新たに会う事物にも過去に見た事物の影がはつきりと射し、かうした相似にみちびかれて
しらずしらずに廊下の奥、底知れね奥の間へ、踏み込んで行くやうな心地がしてゐた。
運命といふものに、われわれは突如としてぶつかるのではない。
のちに死刑になるべき男は、日頃ゆく道筋の電柱や踏切にも、たへず刑架の幻をゑがいて、
その幻に親しんでゐる筈だ。

「金閣寺」より
43吾輩は名無しである:2010/02/12(金) 19:55:29
今から読み直すと、三島由紀夫はつくづく田舎者でしかなかったナッ!!
44吾輩は名無しである:2010/02/12(金) 23:19:29
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。
僕らの肯定は諦観ではない。僕らの肯定には残酷さがある。
――僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当である筈だ。
なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。
一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。僕らは止められてゐる。
僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。
時空の凡ゆる制約が、僕らの目には可能性の仮装としかみえない。
僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――そこに僕らはたえず僕らを
無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。
決定されてゐるが故に僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。

「わが世代の革命」より
45吾輩は名無しである:2010/02/13(土) 02:21:53
馬鹿が教祖の駄文を写経してるスレか
滑稽だな
46吾輩は名無しである:2010/02/13(土) 19:32:25
今、四海必ずしも波穏やかならねど、
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじよう)の世をば現じ
御仁徳の下、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑怯をも愛し、
邪なる戦のみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をたつきの糧となし
偽善の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され、
若人らは咽喉元(のどもと)をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ、
快楽もその実を失ひ、信義もその力を喪ひ、
魂は悉く腐蝕せられ
年老ひたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ、真情は病み、
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し

「英霊の聲」より
47吾輩は名無しである:2010/02/13(土) 19:33:52
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
人の値打は金よりも卑しくなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰へたる美は天下を風靡し
陋劣(ろうれつ)なる真実のみ真実と呼ばれ、
車は繁殖し、愚かしき速度は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
その窓々は欲球不満の螢光燈に輝き渡り、
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り
感情は鈍磨し、鋭角は摩滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に澱み
ほとばしる清き血潮は涸れ果てぬ。
天翔けるものは翼を折られ
不朽の栄光をば白蟻どもは嘲笑(あざわら)ふ。
かかる日に などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし

「英霊の聲」より
48吾輩は名無しである:2010/02/14(日) 23:48:42
われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、さういふことだ。
人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。
しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ神であらねばならぬ。
神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて下さらなくてはならぬ。
そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、われらと歴史とをつなぐ
唯一条の糸があるからだ。

「英霊の聲」より
49吾輩は名無しである:2010/02/14(日) 23:49:52
われらには、死んですべてがわかつた。死んで今や、われらの言葉を禁める力は何一つない。
われらはすべてを言ふ資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を流したからだ。

「英霊の聲」より
50吾輩は名無しである:2010/02/15(月) 23:41:05
…遠いところで美が哭いてゐる、と透は思ふことがあつた。多分水平線の少し向こうで。
美は鶴のやうに甲高く啼く。その声が天地に谺してたちまち消える。
人間の肉体にそれが宿ることがあつても、ほんのつかのまだ。

「天人五衰」より
51吾輩は名無しである:2010/02/20(土) 11:16:51
乙女たちは、鼈甲色の蕊をさし出した、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから立ち現はれ、
手に手に百合の花束を握つてゐる。
奏楽につれて、乙女たちは四角に相対して踊りはじめたが、高く掲げた百合の花は危険に揺れはじめ、
踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらはれ、会い、又、離れて、
空をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなつて、一種の刃のやうに見えるのだつた。

「奔馬」より
52吾輩は名無しである:2010/02/20(土) 11:21:19
そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実になごやかに優雅であるのに、
あたかも手の百合だけが残酷に弄ばれてゐるやうに見えた。
……見てゐるうちに、本多は次第に酔つたやうになつた。これほど美しい神事は見たことがなかつた。
そして寝不足の頭が物事をあいまいにして、目前の百合の祭ときのふの剣道の試合とが混淆し、
竹刀が百合の花束になつたり、百合が又白刃に変つたり、ゆるやかな舞を舞ふ乙女たちの、
濃い白粉の額の上に、日ざしを受けて落ちる長い睫の影が、剣道の面金の慄へるきらめきと
一緒になつたりした。……

「奔馬」より
53吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 11:59:31
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく
今、四海必ずしも波穏やかならねど
日の本のやまとの国は
鼓腹撃壌(こふくげきじやう)の世をば現じ
御仁徳の下(もと)、平和は世にみちみち
人ら泰平のゆるき微笑みに顔見交はし
利害は錯綜し、敵味方も相結び、
外国(とつくに)の金銭は人らを走らせ
もはや戦ひを欲せざる者は卑劣をも愛し、
邪まなる戦ひのみ陰にはびこり
夫婦朋友も信ずる能(あた)はず
いつはりの人間主義をなりはひの糧となし
偽善の茶の間の団欒は世をおほひ
力は貶(へん)せられ、肉は蔑(なみ)され
若人らは咽喉元をしめつけられつつ
怠惰と麻薬と闘争に、
かつまた望みなき小志の道へ
羊のごとく歩みを揃へ
快楽もその実を失ひ
信義もその力を喪ひ、魂は悉く腐蝕せられ、

「悪臣の歌」より
54吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 12:00:14
年老いたる者は卑しき自己肯定と保全をば、
道徳の名の下に天下にひろげ
真実はおほひかくされ
道ゆく人の足は希望に躍ることかつてなく
なべてに痴呆の笑ひは浸潤し、
魂の死は行人の顔に透かし見られ、
よろこびも悲しみも須臾(しゆゆ)にして去り
清純は商(あきな)はれ、淫蕩は衰へ、
ただ金(かね)よ金よと思ひめぐらせば
金を以てはからるる人の値打も、
金よりもはるかに卑しきものとなりゆき、
世に背く者は背く者の流派に、
生(なま)かしこげの安住の宿りを営み、
世に時めく者は自己満足の
いぎたなき鼻孔をふくらませ、
ふたたび衰弱せる美学は天下を風靡し、
陋劣(ろうれつ)なる真実のみがもてはやされ、

「悪臣の歌」より
55吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 12:00:54
人ら四畳半を改造して
そのせまき心情をキッチンに磨き込み
車は繁殖し、無意味なる速力は魂を寸断し、
大ビルは建てども大義は崩壊し
窓々は欲球不満の蛍光灯にかがやき渡り、
人々レジャーへといそぎのがるれど
その生活の快楽には病菌つのり
朝な朝な昇る日はスモッグに曇り、
感情は鈍磨し、鋭角は磨滅し、
烈しきもの、雄々しき魂は地を払ふ。
血潮はことごとく汚れて平和に温存せられ
ほとばしる清き血潮はすでになし。
天翔(あまが)けるもの、不滅の大義はいづくにもなし。
不朽への日常の日々の
たえざる研磨も忘れられ、
人みな不朽を信ぜざることもぐらの如し。かかる日に、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

「悪臣の歌」より
56吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 12:01:52
かけまくもあやにかしこき
すめらみことに伏して奏(まを)さく。
かかる世に大君こそは唯御一人
人のつかさ、人の鑑(かがみ)にてましませり。
すでに敗戦の折軍将マッカーサーを、
その威丈高なる通常軍装の非礼をものともせず
訪れたまひしわが大君は、
よろづの責われにあり、われを罰せと
のたまひしなり。
この大御心(おほみこころ)、敵将を搏(う)ちその卑賤なる尊大を搏ち
洵(まこと)の高貴に触れし思ひは
さすがの傲岸をもまつろはせたり。
げに無力のきはみに於て人を高貴にて搏つ
その御けだかさはほめたたふべく、
わが大君は終始一貫、
暴力と威武とに屈したまはざりき。
和魂(にぎみたま)のきはみをおん身にそなへ
生物学の御研究にいそしまれ、
その御心は寛厚仁慈、
なべてを光被したまひしなり。

「悪臣の歌」より
57吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 12:02:17
民の前にお姿をあらはしたまふときも
いささかのつくろひなく、
いささかの覇者のいやしき装飾もなく
すべて無私淡々の御心にて
あまねく人の心に触れ、
戦ひのをはりしのちに、
にせものの平和主義者ばつこせる折も
陛下は真の人の亀鑑、
静かなる御生活を愛され、
怒りも激情にもおん身を委(ゆだ)ねず、
静穏のうちに威大にましまし
御不自由のうちに自由にましまし
世の範となりぬべき真の美しき人間を、
世の小さき凹凸に拘泥なく
終始一貫示したまひき。

「悪臣の歌」より
58吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 12:04:14
つねに陛下は自由と平和の友にましまし、
仁慈を垂れたまひ、諸人の愛敬を受けられ
もつとも下劣なる批判をも
春の雪の如くあはあはと融かしたまへり。
政治の中心ならず、経済の中心ならず、
文化の中心ならず、ただ人ごころの、
静止せる重心の如くおはし給へり。
かかる乱れし濁世(ぢよくせ)に陛下の
白菊の如き御人柄は、
まことに人間の鑑にして人間天皇の御名にそむきたまはず、
そこに真のうるはしき人間ありと感ぜらる。
されどこはすべて人の性(さが)の美なるもの、
人のきはみ、人の中の人、人の絶巓(ぜつてん)、
清き雪に包まれたる山頂なれど
なほ天には属したまはず。すべてこれ、
人の徳の最上なるものを身に具(そな)はせたまふ。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

「悪臣の歌」より
59吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 12:17:17
かへりみれば陛下はかの
人間宣言をあそばせしとき、
はじめて人とならせたまひしに非ず。
悪しき世に生(あ)れましつつ、
陛下は人としておはしませり。
陛下の御徳は終始一貫、人の徳の頂きに立たせたまひしが、
なほ人としてこの悪しき世をすぐさせ給ひ、
人の中の人として振舞ひたまへり。
陛下の善き御意志、陛下の御仁慈は、
御治世においていつも疑ふべからず。
逆臣侫臣(ねいしん)囲りにつどひ、
陛下をお退(さが)らせ申せしともいふべからず。
大事の時、大事の場合に、
人として最良の決断を下したまひ、
信義を貫ぬき、暴を憎みたまひ
世にたぐひなき明天子としてましましたり。
これなくて、何故にかの戦ひは
かくも一瞬に平静に止まりしか。
されどあへて臣は奏す。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

「悪臣の歌」より
60吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 12:17:52
陛下の大御代(おおみよ)はすでに二十年の平和、
明治以来かくも長き平和はあらず、
敗れてのちの栄えといへど、
近代日本にかほどの栄えはあらず。
されど陛下の大御代ほど
さはなる血が流されし御代もなかりしや。
その流血の記憶も癒え
民草の傷も癒えたる今、
臣今こそあへて奏すべき時と信ず。
かほどさはなる血の流されし
大御代もあらざりしと。

「悪臣の歌」より
61吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 12:18:32
そは大八洲(おほやしま)のみにあらず
北溟(ほくめい)の果て南海の果て、
流されし若者の血は海を紅(くれな)ゐに染め
山脈を染め、大河を染め、平野を染め、
水漬(みづ)く屍は海をおほひ
草生(くさむ)す屍は原をおほへり。
血ぬられし死のまぎはに御名を呼びたる者
その霊は未だあらはれず。
いまだその霊は彼方此方(かなたこなた)に
むなしく見捨てられて鬼哭(きこく)をあぐ。
神なりし御代は血潮に充ち
人とまします御代は平和に充つ。
されば人となりませしこそ善き世といへど
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

「悪臣の歌」より
62吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 22:14:43
■『金閣寺』朗読「内界の濃密な黐」
http://www.youtube.com/watch?v=DF5EmD3hXRo

どもりが最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、
彼は内界の濃密な黐から身 を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。

三島由紀夫『金閣寺』(新潮文庫、第一章P7)
63吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 23:41:22
御代は血の色と、
安き心の淡き灰色とに、
鮮やかに二段に染め分けられたり。
今にして奏す、陛下が人間(ひと)にましまし、
人間として行ひたまひし時二度ありき、
そは昭和の歴史の転回点にて、
今もとに戻すすべもなけれど、
人間としてもつとも信実、
人間としてもつとも良識、
人間としてもつとも穏健、
自由と平和と人間性に則つて行ひたまひし
陛下の二くさの御行蔵あり。
(されどこの二度とも陛下は、
民草を見捨てたまへるなり)
一度はかの二、二六事件のとき、
青年将校ども蹶起(けつき)して
重臣を衂(ちぬ)りそののちひたすらに静まりて、
御聖旨御聖断を仰ぎしとき、
陛下ははじめよりこれを叛臣とみとめ
朕の股肱(ここう)の臣を衂りし者、
朕自ら馬を進めて討たんと仰せたまひき。

「悪臣の歌」より
64吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 23:42:28
重臣は二三の者、民草は億とあり、
陛下はこの重臣らの深き忠誠と忠実を愛でたまひ
未だ顔も知らぬ若者どもの赤心のうしろに
ひろがり悩める民草のかげ、
かの暗澹たる広大な貧困と
青年士官らの愚かなる赤心を見捨て玉へり。
こは神としてのみ心ならず、
人として暴を憎みたまひしなり。
されど、陛下は賢者に囲まれ、
愚かなる者の血の叫びをききたまはず
自由と平和と人間性を重んぜられ、
その民草の血の叫びにこもる
神への呼びかけをききたまはず、
玉穂なすみづほの国の
荒れ果てし荒蕪(くわうぶ)の地より、
若き者、無名の者の肉身を貫きたりし
死の叫びをききたまはざりき。

「悪臣の歌」より
65吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 23:43:08
かのとき、正に広大な御領の全てより、
死の顔は若々しく猛々(たけだけ)しき兵士の顔にて、
たぎり、あふれ、対面しまゐらせんとはかりしなり。
直接の対面、神への直面、神の理解、神の直観を待ちてあるに、
陛下は人の世界に住みたまへり。
かのときこそ日本の歴史において、
深き魂の底より出づるもの、
冥人の内よりうかみ出で、
明るき神に直面し、神人の対話をはかりし也。
死は遍満し、欺瞞をうちやぶり、
純潔と熱血のみ、若さのみ、青春のみをとほして
陛下に対晤(たいご)せんと求めたるなり。
されど陛下は賢き老人どもに囲まれてゐたまひし。
日本の古き歴史の底より、すさのをの尊(みこと)は
理解せられず、聖域に生皮を投げ込めど、
荒魂(あらみたま)は、大地の精の血の叫びを代表せり。
このもつとも醇乎たる荒魂より
陛下が面をそむけたまひしは
祭りを怠りたまひしに非ずや。
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

「悪臣の歌」より
66吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 23:43:36
二度は特攻隊の攻撃ののち、
原爆の投下ののち終戦となり、
又も、人間宣言によりて、
陛下は赤子を見捨てたまへり。
若きいのちは人のために散らしたるに非ず。
神風(かみかぜ)とその名を誇り、
神国のため神のため死したるを、
又も顔知らぬ若きもの共を見捨てたまひ、
その若きおびただしき血潮を徒(あだ)にしたまへり。
今、陛下、人間(ひと)と仰せらるれば、
神のために死にしものの御霊(みたま)はいかに?
その霊は忽(たちま)ち名を糾明せられ、
祭らるべき社もなく
神の御名は貶(へん)せられ、
ただ人のために死せることになれり。

「悪臣の歌」より
67吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 23:44:07
人なりと仰せらるるとき、
神なりと思ひし者共の迷蒙はさむべけれど、
神と人とのダブル・イメーヂのために生き
死にたる者の魂はいかにならん。
このおびただしき霊たちのため
このさはなる若き血潮のため
陛下はいかなる強制ありとも、
人なりと仰せらるべからざりし也。
して、のち、陛下は神として
宮中賢所(かしこどころ)の奥深く、
日夜祭りにいつき、霊をいつき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りておはしませば、
いかほどか尊かりしならん、
――などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

「悪臣の歌」より
68吾輩は名無しである:2010/02/23(火) 23:46:01
陛下は帽を振りて全国を遊行しし玉ひ、
これ今日の皇室の安寧のもととなり
身に寸鉄を帯びず思想の戦ひに勝ちたまひし、
陛下の御勇気はほめたたふべけれど、
もし祭服に玉体を包み夜昼おぼろげなる
皇祖皇宗御霊の前にぬかづき、
神のために死せる者らをいつきたまへば、
何ほどか尊かりしならん。
今再軍備の声高けれど、
人の軍、人の兵(つはもの)は用ふべからず。
神の軍、神の兵士こそやがて神なるに、
――などてすめろぎは人間(ひと)となり玉ひし。

「悪臣の歌」より
69吾輩は名無しである:2010/02/24(水) 19:28:36
70吾輩は名無しである:2010/02/24(水) 22:35:53
美といふものは、こんなに美しくないものだらうか、と私は考へた。
71吾輩は名無しである:2010/02/25(木) 22:51:57
しかし日本では、神聖、美、伝統、詩、それらのものは、汚れた敬虔な手で汚されるのではなかつた。
これらを思ふ存分汚し、果ては絞め殺してしまふ人々は、全然敬虔さを欠いた、しかし石鹸でよく洗つた、
小ぎれいな手をしてゐたのである。

「天人五衰」より
72吾輩は名無しである:2010/02/27(土) 00:30:45
堤防の上の砂地には夥しい芥が海風に晒されてゐた。
コカ・コーラの欠けた空瓶、缶詰、家庭用の塗装ペイントの空缶、永遠不朽のビニール袋、
洗剤の箱、沢山の瓦、弁当の殻……
地上の生活の滓がここまで雪崩れて来て、はじめて「永遠」に直面するのだ。
今まで一度も出会はなかつた永遠、すなはち海に。
もつとも汚穢な、もつとも醜い姿でしか、ついに人が死に直面することができないやうに。

「天人五衰」より
73吾輩は名無しである:2010/02/27(土) 14:45:10
…本多はウィーンの精神分析学者の夢の本は色々読んでゐたが、自分を裏切るやうなものが実は自分の願望だ、
といふ説には、首肯しかねるものがあつた。
それより自分以外の何者かが、いつも自分を見張つてゐて、何事かを強いてゐる、と考へるはうが自然である。
目ざめてゐるときは自分の意志を保ち、否応なしに歴史の中に生きてゐる。
しかし自分の意志にかかはりなく、夢の中で自分を強いるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、
この闇の奥のどこかにゐるのだ。

「天人五衰」より
74吾輩は名無しである:2010/02/27(土) 17:09:16
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けやうのないもので
辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義。

「天人五衰」より
75吾輩は名無しである:2010/02/27(土) 17:10:55
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので
辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義。

「天人五衰」より
76吾輩は名無しである:2010/02/28(日) 00:21:40
あの慌しい少年時代が私にはたのしいもの美しいものとして思ひ返すことができぬ。
「燦爛とここかしこ、陽の光洩れ落ちたれど」とボオドレエルは歌つてゐる。
「わが青春はおしなべて、晦闇の嵐なりけり」。少年時代の思ひ出は不思議なくらゐ悲劇化されてゐる。
なぜ成長してゆくことが、そして成長そのものの思ひ出が、悲劇でなければならないのか。
私には今もなほ、それがわからない。誰にもわかるまい。
老年の謐かな智恵が、あの秋の末によくある乾いた明るさを伴つて、我々の上に落ちかゝることがある日には、
ふとした加減で、私にもわかるやうになるかもしれない。
だがわかつても、その時には、何の意味もなくなつてゐるであらう。

「煙草」より
77吾輩は名無しである:2010/02/28(日) 13:18:35
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。
キリスト教が「精神」を発明するまで、人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。

「アポロの杯」より
78吾輩は名無しである:2010/02/28(日) 15:36:00
又、会うぜ。きっと会う。滝の下で
79吾輩は名無しである:2010/03/01(月) 00:15:45
女の肉体はいろんな点で大都会に似てゐる。
とりわけ夜の、灯火燦然とした大都会に似てゐる。
私はアメリカへ行つて羽田へ夜かへつてくるたびに、この不細工な東京といふ大都会も、
夜の天空から眺めれば、ものうげに横たはる女体に他ならないことを知つた。
体全体にきらめく汗の滴を宿した……。
目の前に横たはる麗子の姿が、私にはどうしてもそんな風に見える。
そこにはあらゆる美徳、あらゆる悪徳が蔵されてゐる。
そして一人一人の男はそれについて部分的に探りを入れることはできるだらう。
しかしつひにその全貌と、その真の秘密を知ることはできないのだ。

「音楽」より
80吾輩は名無しである:2010/03/01(月) 06:36:33
友情の芸術は浜辺を歩く老夫婦である

「愛の渇き」
81吾輩は名無しである:2010/03/01(月) 07:42:24
人々を不幸にしての幸福はないのかもしれません

「美徳のよろめき」
82吾輩は名無しである:2010/03/01(月) 10:57:15
思ふがままに感情の惑溺が許された短い薄命な時代の魁であつた清顕の一種の「英姿」は、
今ではすでに時代の隔たりによつて色褪せてゐる。その当時の真剣な情熱は、今では、
個人的な記憶の愛着を除けば、何かしら笑ふべきものになつたのである。
時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変へてゆく。何が蝕まれるのだらう。
もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおほひ、滑稽が
内側の核をなしてゐたのだらうか。
あるひは、崇高がすべてであつて、ただ外側に滑稽の塵が降り積つたにすぎぬのだろうか。

「奔馬」より
83吾輩は名無しである:2010/03/03(水) 17:09:26
生きようと私は思った。

「金閣寺」
84吾輩は名無しである:2010/03/03(水) 19:25:58
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。

「女の友情について」より
85吾輩は名無しである:2010/03/05(金) 00:12:10
私は経験上、少年期といふものがどんなものであるかを多少知つてゐる。
少年といふものは独楽なのだ。廻りだしてもなかなか重心が定まらない。傾いたままどこへころがつてゆくか
わからない。何しろ一本足で立つてゐるのだから、不安定は自分でもよく知つてゐる。
大人たちとちがふところは、とにかく廻つてゐるといふことである。廻ることによつて漸く立上れるといふことである。
廻らない独楽は死んだ独楽だ。ぶざまに寝てゐるのがいやなら、どうしても廻らなければならない。

「独楽」より
86吾輩は名無しである:2010/03/05(金) 00:12:49
しかし独楽は、巧く行けば、澄む。独楽が澄んだときほど、物事が怖ろしい正確さに達するときはない。
いづれ又惰力を失つて傾いて転んで、廻転をやめることはわかつてゐるが、澄んでゐるあひだの独楽には、
何か不気味な能力が具はつてゐる。
それはほとんど全能でありながら、自分の姿を完全に隠してしまつて見せないのである。それはもはや独楽ではなくて、
何か透明な兇器に似たものになつてゐる。しかも独楽自身はそれに気づかずに、軽やかに歌つてゐるのである。
私の少年期にも、さういふ瞬間があつたかもしれない。しかし記憶にはとどまらない。記憶にとどめてゐるのは、
それを見てしまつた大人のはうである。
自分の姿が澄んで消えてしまつたことに、そのとき独楽が気づいてゐないことも確実なら、その瞬間、何かが
自分と入れかはつたことに気がつかないのも確実である。

「独楽」より
87吾輩は名無しである:2010/03/06(土) 10:34:37
私といふ存在から吃りを差引いて、なほ私でありうるといふ発見を、鶴川のやさしさが私に教へた。
私はすつぱりと裸かにされた快さを隈なく味はつた。鶴川の長い睫にふちどられた目は、私から吃りだけを
漉し取つて、私を受け容れてゐた。それまでの私はといへば、吃りであることを無視されることは、それが
そのまま、私といふ存在を抹殺されることだ、と奇妙に信じ込んでゐたのだから。

「金閣寺」より
88吾輩は名無しである:2010/03/06(土) 10:52:44
少年のころ、一度、太陽と睨めつこをしようとしたことがある。
見るか見ぬかの一瞬のうちの変化だが、はじめそれは灼熱した赤い玉だつた。
それが渦巻きはじめた。ぴたりと静まつた。するとそれは蒼黒い、平べつたい、
冷たい鉄の円盤になつた。
彼は太陽の本質を見たと思つた。……しばらくはゐたるところに、太陽の白い残影を見た。
叢にも。木立のかげにも。目を移す青空のどの一隅にも。
それは正義だつた。眩しくてとても正視できないもの。
そして、目に一度宿つたのちは、そこかしこに見える光りの斑は、正義の残影だつた。

「剣」より
89吾輩は名無しである:2010/03/06(土) 23:35:12
「大内先生を想ふ」

ヂリヂリとベルがなつた。今度は図画の時間だ。しかし今日の大内先生のお顔が元気がなくて青い。
どうなさッたのか?とみんなは心配してゐた。おこゑも低い。僕は、変だ変だと思つてゐた。
その次の図画の時間は大内先生はお休みになつた。御病気だといふことだ。
ぼくは早くお治りになればいゝと思つた。
まつてゐた、たのしい夏休みがきた。けれどそれは之までの中で一番悲しい夏休みであつた。
七月二十六日お母さまは僕に黒わくのついたはがきを見せて下さつた。
それには大内先生のお亡くなりになつた事が書いてあつた。
むねをつかれる思ひで午後三時御焼香にいつた。さうごんな香りがする。
そして正面には大内先生のがくがあり、それに黒いリボンがかけてあつた。
あゝ大内先生はもう此の世に亡いのだ。
僕のむねをそれはそれは大きな考へることのできない大きな悲しみがついてゐるやうに思はれた。

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
90吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 07:05:10
真言は美ならず
美言は真ならず

老子
91吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 13:35:09
「私は学生帽です。」

私は平岡さんのお家の学生帽です。坊ちやんが一年生の時西郷洋服店から参りました。

私は喜ばしい事もあれば泣きたい事もあります。
いつも坊ちやんが学校へいらつしやる時に、おとなりのぐわいたうさんとが書生さんに昨日のごみを
取つてもらひます。私達はそれを毎日楽みにして居ります。
私はずい分古い帽子ですが、坊ちやんが大事にして下さるので、坊ちやんからはなれようとは思ひません。
私は何年と云ふ長い月日をかうやつて暮して来ました。
今迄の間にどんな事があつたでせう?私はそれを物語りたいのです。
(つい此間の事でした。坊ちやんがこはれた帽子を学校から持つていらつしやいました。
それは云ふ迄も無く私です。
坊ちやんは御母様に「之をぬつてね」とおつしやいました。
お母様は「ええ、え」とおつしやつて、ぬつて下さいました)
私は何と云ふ幸福な身でせう?

平岡公威(三島由紀夫)
7〜8歳の作文
92吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 13:37:40
「農園」

今週の月曜でした。
唱歌がをはつておべん当をいただかうと思つて、教室にはひつて来ました。
すると、おけうだんの上に大きなかごがあつて、その中にはたくさんそら豆がはひつてゐました。
僕はうれしくて、うれしくて、「早くくださればいいなあ」とまつてゐたら、おべんたうがすんだら、
皆のハンカチーフにたくさん入れて下さいました。
おうちへかへつて塩ゆでにしていただいたら、大変おいしうございました。
思へば、三年のニ学きでした。
おいしいみが、たくさんなるやうにとそらまめのたねを折つてまいたのでした。
果して、たねはめが出、はがでて、今ではおいしいみがたくさんなつて、僕たちがかうしていただくまでに
なつたのでした。

…又この間は五六年のうゑた、さつまいもの苗に水をかけました。
秋になつたらこのおいもも僕達の口の中へはひる事でせう。

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文から
93吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 13:39:43
「ばけつの話」

僕はばけつである。
僕は大ていの日は坊ちやんやお嬢さんがきて遊ばして呉れるが、雨の日などは大へん苦しい。
ほら、この通り、大部分ははげてゐる。
又雪の日なんかは、ずいぶん気もちがいい。
あのはふはふしたのが僕のあたまへのつかると何ともいへない。
それから僕が植木鉢のそばへおかれた時、あの時位いやな事はなかつた。
となりの植木鉢がやれお前はいやな形だの、又水をくむ外には何ににも使へないだのと云つた。
あそこをどかされた時は、ほんとにホッとした。ではわたしの話はこれでをはりにする。

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
94吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 13:40:03
「夕ぐれ」

鴉が向うの方へとんで行く。
まるで火のやうなお日様が西の方にある丸いお山の下に沈んで行く。
――夕やけ、小やけ、ああした天気になあれ――
と歌をうたひながら、子供たちがお手々をつないで家へかへる。
おとうふ屋のラッパが――ピーポー。ピーポー ――とお山中にひびきわたる。
町役場のとなりの製紙工場のえんとつからかすかに煙がでてゐる。
これからお家へかへつて皆で、たのしくゆめのお国へいつてこよう。

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
95吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 13:43:26
コピペ乙
96吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 15:19:57
天皇無謬説だが、昭和天皇のために死ぬのは御免で、男性人気歌手の
誰だかが天皇なら死ぬとか。

まぁ、パフォーマンスだからなぁ。
97吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:44:22
「我が国旗」

徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に
朱の円がゑがかれて居た。
朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。
それは鹿児島の大大名、天下に聞えた島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、
是が我が国旗、日の丸の始まりである。
模様は至極簡単であるが、非常な威厳と尊さがひらめいて居る。
之ぞ日出づる国の国旗にふさはしいではないか。
それから時代は変り、将軍は大政奉くわんして、明治の御代となつた。
明治三年、天皇は、この旗を国旗とお定めになつた。そして人々は、これを日の丸と呼んで居る。
からりと晴れた大空に、高くのぼつた太陽。それが日の丸である。

平岡公威(三島由紀夫)
11歳の作文
98吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:44:55
「分倍河原の話を聞いて」

私達は早や疲れた体を若い小笹や柔かい青艸の上にした。
視野は広く分倍河原の緑の海の様な其の向うには、うつさうとした森があつて、
遥か彼方には山脈の様なものが長々と横たはつて居た。
白く細く見えるのは鎌倉街道である。
遠く黄色い建物は明治天皇の御遺徳を偲ぶ為の記念館であると、小池中佐はお話下さつた。
腰を下して、分倍河原の合戦のお話をお聴きする。
元弘三年、此処は血の海が、清き流れ多摩川に流れ込んだのだ。
今でこそ此の分倍河原は、虫の音や水の流れに包まれてゐるが、六百年前には静寂がなくて
其の代りに陣太鼓の音や骨肉相食む戦闘が繰り返へされたのだ。
《勝つて兜の緒を締めよ》この戦ひは如実に之を教へてゐる。
見よ。六百年の歴史の流れは、遂に此の古戦場を和かな河原に変化せしめたのだ。
其の時、足下の草の中から、小さな飛蝗が飛び出し、虫の音は愈々盛になつて居たのである。
益々空は青い。

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
99吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:46:18
「支那に於ける我が軍隊」

七月八日――其の日、東京はざわめいて居た。人々は号外を手にし、そして河北盧溝橋事件を論じ合つてゐた。
昭和十二年七月七日夜、支那軍の不法射撃に端を発して、遂に、我軍は膺懲の火ぶたを切つたのである。
続いて南口鎮八達鎮の日本アルプスをしのぐ崚嶮を登つて、壮烈な山岳戦が展開せられた。
懐来より大同へと我軍はその神聖なる軍をつゞけ、遂に、懐仁迄攻め入つたのである。
我国としても出来得る限りは、事件不拡大を旨として居たのであるが、盧溝橋事件、大山事件に至るに及び、
第二の日清戦争、否!第二の世界大戦を想像させるが如き戦ひに遭遇した。
〜〜〜〜〜〜〜〜
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
100吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:46:42
「支那に於ける我が軍隊」

飲むは泥水、行くはことごとく山岳泥地、そして百二十度の炎熱酷暑、その中で我将兵は、
苦戦に苦戦を重ねて居るのである。その労苦を思ふべし、自ら我将士に脱帽したくなるではないか。
たとへ東京に百二十度の炎暑が襲はうとも、そこには清い水がある。平らかな道がある。
それが並大抵のもので無いことは良く解るのである。
併し軍は、支那のみに止らぬ。オホーツク海の彼方に、赤い鷲の眼が光つてゐる。
浦塩(ウラジホ)には、東洋への銀の翼を持つ鵬が待機してゐる。
我国は伊太利(イタリー)とも又防共協定を結んだ。
併しUNION JACK は、不可思議な態度をとつて陰険に笑つてゐる。
噫!世界は既に動揺してゐるのだ!
〜〜〜〜〜〜〜〜
支那在留の将士よ、私は郷らの健康と武運の長久を切に切に祈るものである。

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
101吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:48:50
「三笠・長門見学」

船は横須賀の波止場へ着いた。ポーッと汽笛が鳴る。
私達は桟橋を渡つた。薄曇りで、また酷い暑さの今日は、海迄だるさうだ。
併し、僕達は元気よく船から飛び出す。三笠の門の前に集合し、そして芝生の間の路に歩を運ぶ。
艦前に来て再び集まり、三笠保存会の方から、艦の歴史やエピソォドを伺つた。
お話が終ると私は始めて三笠を全望した。
見よ!此の勲高き旗艦を。そしてマストにはZ信号がかゝげられてゐる。
時に、雲間を割つて出でた素晴らしき陽は、この海の館を愈々荘厳ならしめた。
艦頭の国旗は、うすらな風にひるがへり、今にも三笠は、大波をけつて走り出さうだ。
一昔前はどんな設備で戦つてゐたのか、早く見たくなつた。
やがて案内の人にともなはれて急な階段を上り、艦上に入る。よく磨かれた大砲が海に向つて突き出てゐる。
こゝで日本の大きな威力が世界に見せられたわけだ。
伏見宮様の御負傷の御事どもをお聴きして、えりを正した。其処此処に戦士者の写真が飾られてあるのも哀れだ。
(続く)

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
102吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:49:14
「三笠・長門見学」

私達は最上の甲板に登つて東郷大将の英姿を想像してみた。
手に望遠鏡、頭上には高くZ信号。……皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ……。
とは単なる名文ではなくて、心の底から叫んだ愛国の声ではないか。
士官の室が大変立派なのにも驚いた。又会議室へ行つて此処でどんな戦略が考へられたかと思つた。
艦の全体にペンキで戦痕が記されてある。
こんなに沢山弾を受けたのに一つも艦の心臓部に命中しなかったのは畏い極み乍ら、天皇の御稜威のいたす所であらう。
艦を出て、暫時休憩し、昼食を摂る。休憩が済むと、再び海に沿うた道を歩く。
そここゝにZ信号記念品販売所等と看板があるのも横須賀らしい。さうする中に海軍工廠の門内へ入つた。
…其の内にランチへ乗る。さうして五分も経たないで長門につく。
先づ此れを望んで、さつきの三笠と較べて見ると、余りにその設備の新式なのに驚いた。
艦上には四十サンチの素晴らしい大砲がある。
…あゝ日本の精鋭長門、こんな軍艦があつてこそ、日本の海は安全なのであらう。

平岡公威(三島由紀夫)
中等科一年、12歳の作文
103吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:53:14
「朝の通学」

四谷西信濃町十六番地。
朝、おきて見ると、空は晴れて居たが、大へんさむかつた。
お祖母様がからだをこゞめて、あんかにあたつていらつしやつた。
お家を出る時、うらの小路を、外たうを着て皮手袋をはめた大学生が寒さうにポケットへ手を入れてゐた。
あめ売のおぢいさんも、ふところへ手を入れて、あたゝかい方へあたゝかい方へと歩いて行つた。
自動車屋の車庫では、子供が二人、たき火をして、手をあたゝめてゐた。
又、でんしやの中ではしやつを沢山きて洋服がふくれてゐる人や、顔や手を年がら年中まさつして居る人が大分あつた。
四ツ谷駅に下りて見るとみなポケットに手を入れてゐた。
学校へきて見ると、運動場一ぱいに霜が下りてゐた。
いつもはあんなにあつたかい御教場の中も、今日は何だか、寒くかんじた。

平岡公威(三島由紀夫)
8〜9歳の作文
104吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:53:39
「松の芽生」

これはまだ僕が大森へ泊りに行かないまへの話です。
或る日お庭へ出て箱庭をなんの気なしに見たら、小さなざつ草を見つけたので、かはいい草だと思つて、掘つて
おばあさまにお見せしたら、「あゝこれは松の芽生ですよ」とおつしやつたので、僕は拾ひ物でもしたやうに
有頂天になつて、急いで、又元のところへ植ゑました。そしてもつと有りはしないかと方々をさがしますと、
その箱庭のすみの方にと、それから小さい箱庭とにありました。それから毎日たんねんに水をやつたのです。
そのうちに僕は大森へ行つて今朝かへつて来ました。

平岡公威(三島由紀夫)
年月未詳(推定は9歳)の作文
105吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:54:06
「電信柱」

お家のお庭向きのへいの前に小さい道がある。
そしてそこに木でできた電信柱が立つてゐる。今日の噺はその電信柱の電線の噺である。
ある春の日、僕は縁側に座蒲団をしいて日向ぼつこをしてゐた。
その日は勉強もなかつたし、又遊ぶ事もなかつた。
それでなんの気もなくその電線をながめてゐた。するとそこへ、三羽の雀がさへづりながらとんできた。
三羽の雀はふとその電線の上へ停つた。そして鬼ごつこでもするやうに電線の上を飛び廻つたのだ。
その度に電線はゆらゆらとゆれた。そのとき電信柱は、
「雀さん、そんなに体の上を飛び廻つてはいたいですよ」
とでも云つたのだらう。三羽の雀は又話をしながらとんでいつた。

(続く)

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
106吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 16:54:35
「電信柱」

それから月日はたつて八月になつた。
八月といへば暑いさかりである。
僕はハンカチーフで汗をふきふきシロップを飲んでゐた。
その時、僕の頭に浮かんだのは、あの春の日のことであつた。
今度は帽子をかぶり庭にでてその電線をみてゐた。
するとそこにはいつの間に来たのか沢山の小鳥が電線の上にとまつてゐて、大きな声をはりあげて歌をうたつてゐた。
あげは蝶や黄色虫が小鳥のまはりをとんでゐる。
樅(もみ)の木や杉の木や松などが歌に合はせて踊るやうに葉をうごかしてゐた。
お向ひの物干の青竹が笑ふやうにして云つた。
「電線さんおにぎやかですね」

平岡公威(三島由紀夫)
9歳の作文
107吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 17:12:15
林房雄なんかは、うんうんって聞いてやったんだろうよ。
108吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 17:14:15
次の10レスコピペどうぞ。
109吾輩は名無しである :2010/03/07(日) 18:10:58
孤独はどんどん肥った。まるで豚のやうに。
110吾輩は名無しである:2010/03/07(日) 23:55:34
不美人のはうが美といふ観念からすれば、純粋に美しいのかもしれません。
何故つて、醜い女なら、欲望なしに見ることができますからね。

「女神」より
111吾輩は名無しである:2010/03/08(月) 08:30:59
モーホーにだって審美眼くらいはあるっつう
112吾輩は名無しである:2010/03/08(月) 10:51:52
機関車を美しいと思ふやうでは女もおしまひである。

「女神」より
113吾輩は名無しである:2010/03/08(月) 11:04:45
宝塚ファンだよね。
114吾輩は名無しである:2010/03/09(火) 22:37:50
もし永遠があるとすれば、それは今だけなのでございますわ。

「春の雪」より
115吾輩は名無しである:2010/03/10(水) 15:30:03
日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。
日本の胸には、緑色の蛇が食いついている。この呪いから逃れる道はない。
116吾輩は名無しである:2010/03/12(金) 04:23:55
>>115 なんじゃこりゃ?と思ったら
実際に話してるみたいですね。
これを米ドルって解釈してる人もいるみたいだけど…?
117吾輩は名無しである:2010/03/12(金) 22:30:17
>>116
そういう解釈がなされてますが、「グリーン・スネーク」、本当のところは何を意味してたんでしょうね。謎です。
118吾輩は名無しである:2010/03/12(金) 22:46:56
小肥りのした体格、福徳円満の相、かういふ相は人相見の確信とはちがつて、しばしば酷薄な性格の仮面になる。
独逸の或る有名な殺人犯は、また有名な慈善家と同一人であることがわかつて捕へられた。
彼はいつもにこやかな微笑で貧民たちに慕はれてゐた。
その貧民の一人を、彼はけちな報復の動機で殺してゐたのである。
彼は殺人と慈善とのこの二つの行為のあひだに、何らの因果をみとめてゐなかつた。

「手長姫」より
119吾輩は名無しである:2010/03/12(金) 22:50:01
大ていわれわれが醜いと考へるものは、われわれ自身がそれを醜いと考へたい必要から生れたものである。

「手長姫」より
120吾輩は名無しである:2010/03/13(土) 23:32:48
死といふ事実は、いつも目の前に突然あらはれた山壁のやうに、あとに残された人たちには思はれる。
その人たちの不安が、できる限り短時日に山壁の頂きを究めてしまはうとその人たちをかり立てる。
かれらは頂きへ、かれらの観念のなかの「死の山」の頂きへかけ上る。
そこで人たちは山のむかうにひろがる野の景観に心くつろぎ、あの突然目の前にそそり立つた死の影響から
のがれえたことを喜ぶのだ。しかし死はほんたうはそこからこそはじまるものだつた。
死の眺めはそこではじめて展(ひら)けて来る筈だつた。光にあふれた野の花と野生の果樹となだらかな起伏の
景観を、人々はこれこそ死の眺めとは思はず眺めてゐるのだつた。

「罪びと」より
121吾輩は名無しである:2010/03/14(日) 23:34:19
自分の美しさを知つてゐても、鏡によらずしてはそれを見ることができないといふのは宿命的なことだ。
自分が美しいといふ認識は、たえず自分から逃げてゆくあいまいな不透明な認識であつた。
結局この世では他人の美がすべてなのだ。

「女神」より
122吾輩は名無しである:2010/03/15(月) 11:27:18
モーホーにシナ作られるとつらいッス・・・
123吾輩は名無しである :2010/03/15(月) 22:33:39
「敵がいないと人間は堕落するんです。
あたしゃ何も共産党員にね、子供の頭なぐられたわけじゃない。
家に火つけられたわけでもない。
ただ敵が欲しいから、共産党を敵にすることに決めたんです。
これは私独特のものですねえ(笑)」

1969年早稲田学生との討論会
124吾輩は名無しである:2010/03/15(月) 22:56:22
共産党には「時代意識」がない。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年のノートより
125吾輩は名無しである:2010/03/15(月) 23:00:09
僕は今この時代に大見得切つて、「共産党に兜を脱がせるだけのものを持て」などゝ無理な注文は出しません。
時勢の流れの一面は明らかに彼らに利があり、彼等はそのドグマを改める由もないからです。しかし我々の任務は
共産党を「怖がらせる」に足るものを持つことです。彼等に地団太ふませ、口角泡を飛ばさせ、
「反動的だ!貴族的だ!」と怒号させ、しかもその興奮によつて彼等自らの低さを露呈させることです。
正面切つて彼等の敵たる強さと矜持を持つことです。ひるまないことです。逃げないことです。怖れないことです。
そして彼等に心底から「怖い」と思はせることです。
(中略)貴族主義といふ言葉から説明してかゝらねばなりません。
学習院の人々に貴族主義を云ふとすこぶる誤解されやすく、それはともすれば今までの学習院をそのまゝそつくり
是認する独善主義の別語とされる惧れなしとしません。

平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
126吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 00:00:54
文字によっても言説によっても、もちろん精神は表現され得る。表現され得るけれども、最終的には証明されない。

尊敬する人は三島とカント
127吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 11:51:22
>>123
2ちゃんねるには、そんな奴は幾らでもいそうだな。
128吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 12:02:39
2ちゃんねるを敵視する鳥越もどきがUP!
129吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 13:06:47
らき☆すたファンめ、来やがったな!?

敵がいないと堕落するのは、自立心に欠けるんでないの?
130吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 14:41:24
女が髭を持つてゐないやうに、彼は年齢を持つてゐなかつた。

「禁色」より
131吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 16:04:34
老いを恐れてハラキリか?
132吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 17:29:42
老い=死 を怖れない人間はいません。
133吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 18:02:43
フォッフォッフォ・・・
134吾輩は名無しである:2010/03/16(火) 22:40:12
『あのとき俺は、論理を喪くしたぷよぷよした世界に我慢ならなかつたんだ。あの豚の臓腑のやうな世界に、
どうでも俺は論理を与へる必要があつたんだ。鉄の黒い硬い冷たい論理を。……つまりスパナの論理を』
又、
『あの日の夕方、優子が酒場でかう言つたつけ。《そんなときにあの人の平然とした顔を見たら、もうおしまひだ》つて。
あのスパナの一撃のおかげで、俺はわざわざ、彼らを《おしまひ》にすることから救つたんだ。……』

「獣の戯れ」より
135吾輩は名無しである:2010/03/17(水) 00:37:08
今時なら性同一性障害で通るかも知らん。
136吾輩は名無しである:2010/03/17(水) 10:38:50
男性の性同一性障害は、己れの男性を拒否することだから、全然違うでしょ。
137吾輩は名無しである:2010/03/17(水) 15:21:28
□□□評論家・三島由紀夫■■■
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/books/1268296560/
138吾輩は名無しである:2010/03/17(水) 15:54:32
鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終わってしまったあとなのである。

「金閣寺」より
139吾輩は名無しである:2010/03/17(水) 16:43:28
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、
肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。
精神の羞恥心が肉を身にまとはせる。それこそ完全な美しい芸術の定義である。
羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。

「ボディ・ビル哲学」より
140吾輩は名無しである:2010/03/17(水) 17:40:24
126は「若きサムライのために」より
141吾輩は名無しである:2010/03/18(木) 15:34:06
小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。

三島由紀夫
昭和45年11月、ドナルド・キーンへの最後の書簡より
142吾輩は名無しである:2010/03/18(木) 23:24:52
初恋に勝つて人生に失敗するのはよくある例で、初恋は破れる方がいいといふ説もある。

「冷血熱血」より
143吾輩は名無しである:2010/03/18(木) 23:25:25
愛は絶望からしか生まれない。精神対自然、かういふ了解不可能なものへの精神の運動が愛なのだ。

「禁色」より
144吾輩は名無しである:2010/03/19(金) 10:36:59
まことに人生はままならないもので、生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。

「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より
145吾輩は名無しである:2010/03/19(金) 10:37:47
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。

「班女について」より
146吾輩は名無しである:2010/03/20(土) 00:21:12
私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。
私は自分の顔を、世界から拒まれた顔だと思つてゐる。しかるに有為子の顔は世界を拒んでゐた。
月の光りはその額や目や鼻筋や頬の上を容赦なく流れてゐたが、不動の顔はただその光りに洗はれてゐた。
一寸目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒もうとしてゐる世界は、それを合図に、そこから雪崩れ込んで来るだらう。
私は息を詰めてそれに見入つた。歴史はそこで中断され、未来へ向つても過去へ向つても、何一つ語りかけない顔。
さういふふしぎな顔を、われわれは、今伐り倒されたばかりの切株の上に見ることがある。
新鮮で、みづみづしい色を帯びてゐても、成長はそこで途絶へ、浴びるべき筈のなかつた風と日光を浴び、
本来自分のものではない世界に突如として曝されたその断面に、美しい木目が描いたふしぎな顔。
ただ拒むために、こちらの世界へさし出されてゐる顔。……

「金閣寺」より
147吾輩は名無しである:2010/03/20(土) 00:24:10
なぜ露出した腸が凄惨なのだらう。
何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆つたりしなければならないのであらう。
何故血の流出が、人に衝撃を与へるのだらう。何故人間の内臓が醜いのだらう。
……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。
……私が自分の醜さを無に化するやうなかういふ考へ方を、鶴川から教はつたと云つたら、彼はどんな顔をするだらうか?
内側と外側、たとへば人間を薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、この考へがどうして
非人間的に見えてくるのであらうか?
もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のやうに、しなやかに飜へし、捲き返して、日光や
五月の微風にさらすことができたとしたら……

「金閣寺」より
148吾輩は名無しである:2010/03/20(土) 00:25:34
鞘を払つて、小刀の刃を舐めてみる。
刃はたちまち曇り、舌には明確な冷たさの果てに、遠い甘味が感じられた。
甘みはこの薄い鋼の奥から、到達できない鋼の実質から、かすかに照り映えてくるやうに舌に伝はつた。
こんな明確な形、こんなに深い海の藍に似た鉄の光沢、……それが唾液と共にいつまでも舌先にまつわる
清冽な甘みを持つてゐる。
やがてその甘みも遠ざかる。私の肉が、いつかこの甘みの迸りに酔ふ日のことを、私は愉しく考へた。
死の空は明るくて、生の空と同じやうに思はれた。そして私は暗い考へを忘れた。
この世には苦痛は存在しないのだ。

「金閣寺」より
149吾輩は名無しである:2010/03/20(土) 00:29:50
柏木の言つたことはおそらく本当だ。世界を変へるのは行為ではなくて認識だと彼は言つた。
そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識もこの種のものだつた。
そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、ひとえに、
行為をしなくてもよいといふ最後の認識のためではなかつたか。
見るがいい、今や行為は私にとつては一種の剰余物にすぎぬ。
それは人生からはみ出し、私の意志からはみ出し、別の冷たい機械のやうに、私の前に在つて始動を待つてゐる。
その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないやうだ。ここまでが私であつて、それから先は私ではないのだ。
……何故私は敢て私でなくなろうとするのか。

「金閣寺」より
150吾輩は名無しである:2010/03/20(土) 11:15:28
私は鏡の中に住んでゐる人種だ。諸君の右は私の左だ。私は無益で精巧な一個の逆説だ。

「『仮面の告白』ノート」より
151吾輩は名無しである:2010/03/20(土) 11:22:56
私は自伝の方法として、遠近法の逆を使ふ。諸君はこの絵へ前から入つてゆくことはできない。
奥から出てくることを強ひられる。
遠景は無限に精密に、近景は無限に粗雑にゑがかれる。
絵の無限の奥から前方へ向つて歩んで来て下さい。

「『仮面の告白』ノート」より
152吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 11:11:06
詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。
詩人的な生き方とは、短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。
(中略)
小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。

「佐藤春夫氏についてのメモ」より
153吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 12:58:50
右翼しか読まないのが残念・・・。
154吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 13:59:02
斯様にも、自身で逐一言葉にしてんのになw

がそうであっても、判らない人間には判らない。そんなもんだ。
155吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 16:49:15
小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、
練習は必ず毎日やらなければならぬといふことである。

「ボクシング・ベビー」より
156吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 16:53:05
>>153
右翼しか読まないってことないよ。
拒絶して読まないサヨクが一部にいるだけで。
157吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 17:09:35
>>141
夜露死苦! みたいだな・・・。
158吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 17:57:53
礫川全次とかの左翼も三島と穢れという観点から読み込んでるようだ。
159吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 18:42:20
>>152
三島はランボーよりはヴェルレーヌだろ。
老いを恐れて人生は語れない罠
160吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 19:15:44
70年代に我慢が出来なくて逃げ出したって風かな。
161吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 19:29:52
>>159
その死から、老いを怖れた、とか短絡して言ってるのは本当に三島を読んでない人。
162159-160:2010/03/22(月) 19:34:18
スマン、食わず嫌い。

ノーベル文学賞も逃したら、ハラキリ・ショーでもしないと
ガイジン受けはしないとは思うけど。狙い通りだったし。
163吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 19:56:45
> 老いを恐れて人生は語れない罠

凡人が吐く言葉だな
164吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 20:09:11
>>162
ノーベル賞候補のずっと前から、三島は外国人受けしてるし、映画憂国も成功して名声を得てるから、
何も死んで、受けたかどうかも認識もできないことに全力傾けるわけないから。あんたみたいなバカじゃあるまいし。
165吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 21:27:27
エエ格好しいとか言いませんよ?
166吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 22:22:01
自分の発する言葉の価値に疑問を抱くようになったんだと思う
言葉の裏打ちを見つける事が出来なかった、あるいはその途上でたおれたという印象を受ける
167吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 22:57:14
>>166
サヨクマスコミ、あるいはアメリカマスコミどっぷりの当時の世間に対して、
言葉だけじゃ批判に限界があるから、行動に出たってことだよ。
168吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 23:03:40
>>162
ここは引用専用スレ。アンチの文句は他所でやれ。邪魔するなら、また本スレに戻って引用するよ。
169吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 23:04:18
ああ、70年くれに三島事件あって、72年に川端が自裁か。
マスでもかくより他にない時代になったからね。
170吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 23:07:22
川端康成はごく日本的な作家だと思はれてゐる。しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない
ことは、本当の意味で西洋的な作家が日本にゐないと同様である。どんなに日本的に見える作家も、明治以来の
西欧思潮の大洗礼から、完全に免れて得てゐないので、ただそのあらはれが、日本的に見えるか見えないか
といふ色合の差にすぎない。(中略)
作家の芸術的潔癖が、直ちに文明批評につながることは、現代日本の作家の宿命でさへあるやうに思ふはれ、
荷風はもつとも忠実にこれを実行した人である。なぜなら芸術家肌の作家ほど、作品世界の調和と統一に
敏感であり、又これを裏目から支える風土の問題に敏感である。(中略)
悲しいことに、われわれは、西欧を批評するといふその批評の道具をさへ、西欧から教はつたのである。西洋
イコール批評と云つても差支へない。(中略)
川端氏は俊敏な批評家であつて、一見知的大問題を扱つた横光氏よりも、批評家として上であつた。氏の最も
西欧的な、批評的な作品は「禽獣」であつて、これは横光氏の「機械」と同じ位置をもつといふのが私の意見である。

「川端康成の東洋と西洋」
171吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 23:17:24
ようするに日本主義なわけだ。

>しかし本当の意味で日本的な作家などが現在ゐるわけではない

となると、「真に日本的なるもの」とは何ぞということになる。
172吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 23:21:12
>>171
気になるなら、ご自分で三島の論を全部読んでください。
173吾輩は名無しである:2010/03/22(月) 23:59:44
俺は国際的豆腐屋主義だから間に合ってるからw

本当の意味で日本に固有のものはガイジンにも
理解されないとしたら?
174吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 00:19:03
>>173
理解されなくてもいいんじゃないの別に。

国際的にみたら、あなたの、その「ガイジンに理解されなきゃいけない」と思ってる性根が良くも悪くも日本の貧民じみた乞食根性にみえますが。
175吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 00:28:10
>>173
それと、ここは引用専用スレなんで、文句は他所でやってください。
176吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 00:28:51
ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。
自分がはたして誠実であるかどうかについてもたえず疑つてをります。

「青春の倦怠」より
177吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 00:36:35
>>174
日本人以外に押しつけるなと。

>>175
著作権の許可は取ってるんだろうな。街宣車みたいなスレ立てやがって。
178吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 00:49:36
>>177
やっぱりバカアンチ反日活動家か。
日本にいろいろと押しつけてるのは外国の方でしょう。その法律を振りかざすバカみたいなところとかね。
179吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 00:53:06
スマン、右翼が苦手なのだ・・・。
180吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 01:04:59
偶然といふ言葉は、人間が自分の無知を湖塗しようとして、尤もらしく見せかけるために作つた言葉だよ。
偶然とは、人間どもの理解をこえた高い必然が、ふだんは厚いマントに身を隠してゐるのに、ちらとその素肌の
一部をのぞかせてしまつた現象なのだ。
人智が探り得た最高の必然性は、多分天体の運行だろうが、それよりさらに高度の、さらに精巧な必然は、
まだ人間の目には隠されてをり、わずかに迂遠な宗教的方法でそれを揣摩してゐるにすぎないのだ。

「美しい星」より
181吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 01:11:32
宗教家が神秘と呼び、科学者が偶然と呼ぶもの、そこにこそ真の必然が隠されてゐるのだが、天はこれを
人間どもに、いかにも取るに足らぬもののように見せかけるために、悪戯つぽい、不まじめな方法で
ちらつかせるにすぎない。
人間どもはまことに単純で浅見だから、まじめな哲学や緊急な現実問題やまともらしく見える現象には、
持ち前の虚栄心から喜んで飛びつくが、一見ばかばかしい事柄やノンセンスには、それ相応の軽い顧慮を
払ふにすぎない。かうした人間はいつも天の必然にだまし討ちにされる運命にあるのだ。
なぜなら天の必然の白い美しい素足の跡は、一見ばからしい偶然事のはうに、あらはに印されてゐるのだから。

「美しい星」より
182吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 01:11:46
外国がやってるんだから、とか聞きたくねえな。
悪いことばかり真似する奴らの言い分だ。
183吾輩は名無しである:2010/03/23(火) 17:49:28
人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を押し込むところを見たが、
玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、
この規模を大きくしたやうなものである。ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。
その自然の肉に、コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。

「『沈める滝』について」より
184吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 00:21:59
美しい! ああ、美しい!

とやれば美しい文章になるというもんでもない。
185吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 03:24:01
乳房とは肉のメランコリーである。
186吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 10:07:05
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。
体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。

「文学とスポーツ」より
187吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 10:07:35
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。
温和な、やさしい、典雅な美しさに満足してゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足して
ゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつてゐるといつていい。

「美しきもの」より
188吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 10:50:11
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしか
できないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。

「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者への手紙」より
189吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 11:23:12
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も
負はずに社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、
子供も読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を
置くのも困る。みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。

「ありのままの報道を――私の新聞評」より
190吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 11:35:17
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。
わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。

「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
191吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 11:35:42
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と切り離せぬ関係を
持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもないニヒリストであつた。
日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。

「新ファッシズム論」より
192吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 11:42:50
眉毛が太すぎますよ?
193吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 23:45:19
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に媚びることである。
他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。「御人柄」などと云つて
世間が喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。

三島由紀夫「小説家の休暇」より
194吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 23:49:22
いやいや、単なるメタ性のアピールっしょ(笑
いかなる意味でも、俺はおまいらよりも優秀なのだとのw
195吾輩は名無しである:2010/03/24(水) 23:58:15
…てゆうか、以下のを集めてのオヤブン気取りとの対比で弥増す太宰の光輝。ほんっに。
196吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 00:09:07
都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。

「小説家の休暇」より
197吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 00:35:59
ニーチェの虫にかぶれると、大抵、怪我するもんだ。
198吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 00:44:44
兄なんかしりません
199吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 11:15:53
「葉隠」の恋愛は忍恋(しのぶこひ)の一語に尽き、打ちあけた恋はすでに恋のたけが低く、もしほんたうの
恋であるならば、一生打ちあけない恋が、もつともたけの高い恋であると断言してゐる。
アメリカふうな恋愛技術では、恋は打ちあけ、要求し、獲得するものである。
恋愛のエネルギーはけつして内にたわめられることがなく、外へ外へと向かつて発散する。
しかし、恋愛のボルテージは、発散したとたんに滅殺されるといふ逆説的な構造をもつてゐる。
現代の若い人たちは、恋愛の機会も、性愛の機会も、かつての時代とは比べものにならぬほど豊富に恵まれてゐる。
しかし、同時に現代の若い人たちの心の中にひそむのは恋愛といふものの死である。
もし、心の中に生まれた恋愛が一直線に進み、獲得され、その瞬間に死ぬといふ経過を何度もくり返してゐると、
現代独特の恋愛不感症と情熱の死が起こることは目にみえてゐる。
若い人たちがいちばん恋愛の問題について矛盾に苦しんでゐるのは、この点であるといつていい。

三島由紀夫
「葉隠入門」より
200吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 11:16:18
かつて、戦前の青年たちは器用に恋愛と肉欲を分けて暮らしてゐた。大学にはいると先輩が女郎屋へ連れて行つて
肉欲の満足を教へ、一方では自分の愛する女性には、手さえふれることをはばかつた。
そのやうな形で近代日本の恋愛は、一方では売淫行為の犠牲のうえに成り立ちながら、一方では古い
ピューリタニカルな恋愛伝統を保持してゐたのである。
しかし、いつたん恋愛の見地に立つと、男性にとつては別の場所に肉欲の満足の犠牲の対象がなければならない。
それなしには真の恋愛はつくり出せないといふのが、男の悲劇的な生理構造である。
「葉隠」が考へてゐる恋愛は、そのやうななかば近代化された、使ひ分けのきく、要領のいい、融通のきく
恋愛の保全策ではなかつた。そこにはいつも死が裏づけとなつてゐた。
恋のためには死ななければならず、死が恋の緊張と純粋度を高めるといふ考へが「葉隠」の説いてゐる理想的な恋愛である。

三島由紀夫
「葉隠入門」より
201吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 11:19:37
「俺の文章を翻訳してくれ〜!!!」っていう、
分かりやすい文体。
202吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 20:31:36
神のことを、人間は好んで真理だとか、正義だとか呼びたがる。
しかし神は真理自体でもなく、正義自体でもなく、神自体ですらないのです。
それは管理人にすぎず、人知と虚無との継ぎ目のあいまいさを故ら維持し、ありもしないものと所与の存在との
境目をぼかすことに従事します。
何故なら人間は存在と非在との裂け目に耐へないからであるし、一度人間が『絶対』の想念を心にうかべた上は、
世界のすべてのものの相対性とその『絶対』との間の距離に耐へないからです。
遠いところに駐屯する辺境守備兵は、相対性の世界をぼんやりと絶対へとつなげてくれるやうに思はれるのです。
そして彼らの武器と兜も、みんな人間が稼いで、人間が貢いでやつたものばかりです。

三島由紀夫「美しい星」より
203吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 20:34:23
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は〈本心からではない〉ことをバタイユは冷酷に指摘する。
その〈本心〉こそ、バタイユの〈エロティシズム〉の核心であり、ウィーンの俗悪な
精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。

三島由紀夫「小説とは何か」より
204吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 20:54:07
バタイユは鈎十字が嫌い。
205吾輩は名無しである:2010/03/25(木) 22:15:48
三島氏の不屈の名作をご教授下さいませ。
206吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 01:55:51
不屈か不朽かは置いておくとして
やはり金閣寺は読むべきだろうと思う
207吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 10:09:11
恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。さてどつちが早く汚れるでせう。

「綾の鼓」より
208吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 10:09:41
今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。

「綾の鼓」より
209吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 11:31:39
三島夫人平岡瑤子は95年、死去ね。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200803/12/36/e0061036_15211139.jpg
210吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 21:30:51
夫のホモ癖に悩まされてたらしいです・・・。
211吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 21:53:20
らしい(笑)
212吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 22:01:06
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。
それは三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する
異民族」といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。
第一の問題は、沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の
平和憲法と世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。
そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに変容させられる日本民族の相反するイメージ――
外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふイメージと、異民族の歴史の罪障感によつて
権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら典型的に表現されたのである。
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
213吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 22:01:33
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。
これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、明らかに政治的意図があつて、先進工業国における
革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
…手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。
被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、民族主義を領略しようと企てるであらう。
しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、
保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
214吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 22:30:20
結婚し妻を抱いても、三島の乙女心は満たされない。
三島の内なる少女は男の逞しい腕に恋い焦がれる・・・。
215吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 22:53:33
今から29年前、
1970年、昭和45年11月25日、東京市ヶ谷、陸上自衛隊東部方面総監室。
46歳の中年男が25歳の学生を道連れに心中した。
「どうしてひとりで死ななかったのか。」
心中した中年男の「かっての恋人」だった初老の男が、
いま70歳を目前にして呟く。

「・・・・私の方から三島さんの体を強く抱きしめ、その首筋に、激しいキスを
しゃぶりつくようにしたのだった。三島さんは、身悶えし、小さな声で、わたしの
耳元にささやいた。
「ぼく、、、幸せ、、」
歓びに濡れそぼった、甘え切った優しい声だった。・・・」

去年1998年3月、日本文学界を衝撃に包み、総ての「三島論」を木っ端微塵に
吹き飛ばしたと言われる、福島次郎の『三島由紀夫、剣と寒紅』80頁の記述である。
「、、私は、頭に灰かぐらをかぶったまま、キスを続けた。私の体よりもずっと小さく細い、
三島さんの体は腰が抜けそうに、私の両腕の中で、柔らかくぐにゃぐにゃになっていた。、」
216吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 22:59:08
三島由紀夫が武道に走った重要な契機は「右翼に対する深刻な恐怖であったことは
間違いない。」と三島の実弟・千之氏は言う。(『三島由紀夫の生涯』安藤武著)

1960年深沢七郎の名作『風流夢譚』を三島由紀夫は熱狂的に支持して中央公論に
推薦した。
その画期的な文学作品に右翼は例によって謂れなき脅迫を繰り返した。
テロが吹き荒れる。
日本の言論は今と同じように右翼暴力団の前に完全に無力であった。
そして遂に、
中央公論社長宅の何の関係も無いお手伝いの婦人が
日本愛国党員に数カ所をめった刺しにされ無残に殺害された。
「嶋中事件」と呼ばれる恐怖の右翼テロ事件である。。
三島と家族は連日右翼の脅迫を受け続け、警察は24時間警護を付ける。
三島への脅迫は安藤武『三島由紀夫、日録』未知谷社刊、に詳細されている。
三島の家族が言った言葉が前掲の安藤氏の本の中に記されている。
「三島は怯えて、震え上がっていました。」
中央公論に掲載された深沢七郎『風流夢譚』は今の日本では読むことが出来ない。
ノーベル賞作家大江健三郎の『政治青年死す』など幾つかの文学作品も
現在の日本で読むことは出来ない。

三島と福島次郎の最初の出会いから15年後、幾多の紆余曲折を経て
ふたりは奔馬の国でまみえる。
三島事件のおよそ4年前1966年、昭和41年8月27日、熊本、「ホテル・キャッスル」。

私が抱きついてゆくと三島さんは急に体の向きを変えて抱き返してきて
小さな声でささやいた。
「しばらくぶりだったね、会いたかったよ。」
、、、、懸命に三島さんの首から、胸、腹に、強いキスを浴びせかけていった。
、、、三島さんはこちらが驚くほどの、甘えた子供のような声をほとばしらせた。
『三島由紀夫、剣と寒紅』
217吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 22:59:24
朝鮮共産党反日工作員のアンチ活動はホモネタしかないの?
218吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:05:49
>>216
三島の弟は、その発言を否定してますけど。言った覚えはないとね。

安藤武の本は、自分で取材してなくて、他人の本を真偽も確かめもしないで寄せ集めただけだからね。間違えてる情報やあやふやなものも沢山あるよ。
219吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:10:42
福島次郎に至っては、ただの創作だからね。三島のストーカーだった人で、三島の弟子でもなんでもないし。
220吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:14:17
>>217
三島の作家としての本質に関わるだろ。単に政治の議論したいなら、
まぁ違った話になるかも知らないが。

 それともう一つ、三島由紀夫のからみがある。この小説が出た時、三島は推薦した。元々、
深沢を高く買っていたし、文壇に登場させたのは三島だ。「風流夢譚」を読んで、面白いと思っ
たのだ。純粋にブラックユーモアだと思い、〈文学〉だと思った。だから、推薦した。「何なら俺の
『憂国』も一緒に載せたらパランスがとれていいだろう」とも言った。
 右翼は「不敬だ!」と騒いだ。しかし三島は、「不敬」とは思わなかった。あるいは「たとえ不敬
でも文学として優れている」と思ったのかもしれない。ともかく、推薦した。ところが三島の「見込
み」は外れた。たとえ三島の『憂国』を同じ号に載せたとしても何ら「防禦壁」にはならなかったろ
う。むしろ、三島共々やられただろう。
 だって、嶋中社長宅が攻撃され、その後、右翼が三島の家に抗議に行ったのだ。三島が深沢
作品を推薦した、という話が流れたからだ。その為、地元の警察官が数人、三島宅に常駐した。
かなり長い間、警察官は三島宅をガードし、三島が外出する時もガードした。
 「憂国」の小説や映画だって、たとえ一緒に載っても「防禦壁」にならなかった、と言った。その
直後、「憂国」は別の雑誌に発表されたが、作品としても右翼の不評を買った。「こんなのはただ
のエロであり、グロテスクなだけだ!」と批判された。又、「英霊の声」が出た時は、「何が英霊だ!
こんなのは怨霊の声だ!」と右翼は攻撃した。
221吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:17:07
>>216
深沢七郎の本も三島は全く支持してないから。よくそんなデタラメ書けるもんだわ。
222吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:20:12
>>220
だから、それは全くのガセネタ作り話。
223吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:21:38
とかく人は自分たちに都合の良い話を信じたがるさ。
224吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:25:41
>>220
作家としての本質って何?三島に同性愛傾向があることなんかみんな知ってますけど。自らそれをモチーフにしてるからね。
それと、福島のガセ本は別だから。
225吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:25:40
226吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:29:56
>>224
それは他界した三島と福島次郎しか分からん話でしょ。

確かに三島は独りで自決はしなかったな。
227吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:31:28
ガセネタ寄せ集めた誰かのブログを鵜呑みにしてコピペしてるバカサヨアンチ
228吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:33:12
何を、甘い呻きをあげて身をくねらせるキュートな三島って、
ファン増えるだろう?
229吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:35:58
>>226
だから死人に口無しってことでしょ、結局は。
客観的な事実関係もデタラメ書いてるからね。
230吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:41:18
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。
それは三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する
異民族」といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。
第一の問題は、沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の
平和憲法と世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。
そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに変容させられる日本民族の相反するイメージ――
外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふイメージと、異民族の歴史の罪障感によつて
権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら典型的に表現されたのである。
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
231吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:41:35
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。
これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、明らかに政治的意図があつて、先進工業国における
革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
…手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。
被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、民族主義を領略しようと企てるであらう。
しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、
保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
232吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:43:04
>>229
細部だけをあげつらって心証だけで判断しちゃいかん。
三島はウケ(ホモ用語)だろう?
233吾輩は名無しである:2010/03/26(金) 23:48:27
>>232
あんたが読んでもないのに、そのブログの一部で判断してるだけでしょう。
ガセ本でウケは福島ですよ。
234吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:01:32
三島は「コイツいつかは書きそうだな」と思ってたのかな
235吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:03:26
>>234
何、ごまかしてんの?読んでもないで言ってたのがバレて。
236吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:04:16
>>233
何を、ウケをバカにするのか???
237吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:06:08
>>236
別に。
238吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:07:45
それからここは引用スレだから、アンチスレ立ててやって。
239吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:10:34
いや、しかし三島文学における少女的本質を
我々は見落とすべきではないだろう。
240吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:15:36
>>239
だからアンチスレ2つも残ってるから、そっちでやってよ。
241吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:37:05
左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の
変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも
歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな
北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。そして
彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。

三島由紀夫
「反革命宣言」より
242吾輩は名無しである:2010/03/27(土) 00:39:58
243吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 10:16:59
刹那刹那の海の色の、あれほどまでに多様な移りゆき。
雲の変化。そして船の出現。……そのたびに一体何が起るのだらう。
生起とは何だらう。
刹那刹那、そこで起つてゐることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、人は気づかぬだけだ。
存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎてゐる。
世界が存在してゐるなどといふことは、まじめにとるにも及ばぬことだ。

三島由紀夫
「天人五衰」より
244吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 10:17:43
生起とは、とめどない再構成、再組織の合図なのだ。遠くから波及する一つの鐘の合図。
船があらはれることは、その存在の鐘を打ち鳴らすことだ。
たちまち鐘の音はひびきわたり、すべてを領する。海の上には、生起の絶え間がない。
存在の鐘がいつもいつも鳴りひびいてゐる。一つの存在。

三島由紀夫
「天人五衰」より
245吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 10:18:26
海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので
辛ふじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義。

三島由紀夫
「天人五衰」より
246吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 10:20:54
「洋食の作法は下らないことのやうだが」と本多は教へながら言つた。
「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。
一寸ばかり育ちがいいといふ印象を与へるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で『育ちがいい』といふことは、
つまり西洋風な生活を体で知つてゐるといふことだけのことなんだからね。
純然たる日本人といふのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。
これからの日本では、そのどちらも少なくなるだらう。
日本といふ純粋な毒は薄まつて、世界中のどこの国の人の口にも合ふ嗜好品になつたのだ」

三島由紀夫
「天人五衰」より
247吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 10:32:53
僕は君のやうな美しい人のために殺されるなら、ちつとも後悔しないよ。
この世の中には、どこかにすごい金持の醜い強力な存在がゐて、純粋な美しいものを滅ぼさうと、虎視眈々と
狙つてゐるんだ。たうとう僕らが奴らの目にとまつた、といふわけなんだらう。
さういふ奴相手に闘ふには、並大抵な覚悟ではできない。奴らは世界中に網を張つてゐるからだ。
はじめは奴らに無抵抗に服従するふりをして、何でも言いなりになつてやるんだ。さうしてゆつくり時間を
かけて、奴らの弱点を探るんだ。ここぞと思つたところで反撃に出るためには、こちらも十分力を蓄へ、
敵の弱点もすつかり握つた上でなくてはだめなんだよ。

三島由紀夫
「天人五衰」より
248吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 10:35:11
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。
奴らの戦ひが有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れてゐるからだ。
奴らは僕らが本当に膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手をゆるめないだらう。
だから僕らは、いざとなつたら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければならない。むやみに突張つて、踏絵を
踏まなければ、殺されてしまふんだからね。
さうして一旦踏絵を踏んでやれば、奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。
でもそれまでは、自分の心の中に、よほど強い自尊心をしつかり保つてゆかなければね」

三島由紀夫
「天人五衰」より
249吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 11:09:36
「ファシスト作家、三島由紀夫」。いいじゃん、別に。
普通の人はまたいで通るけど。
250吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 13:15:58
>>249
普通の人はそんな先入観なしに読んでますけど。あんたみたいな昔のロシア共産主義者じみた変人以外は。
251吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 13:33:49
珍獣マニア乙
252吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 13:44:03
>>251
マニアでもないのに、スレ巡りしてまでアンチするキチガイトリバレ乙
253吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 14:04:15
クィア・パラダイス乙
254吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 14:45:56
本読むの好きだし一生懸命読んでるけど三島さんの文学は難解すぎて
理解できない・・・もちろんみなさんは三島が何言ってるのか理解して
論議してるんですよね・・・?
255吾輩は名無しである:2010/03/28(日) 14:58:59
>>1
協力してやるぞ。

ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と切り離せぬ関係を
持つてゐる。そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもないニヒリストであつた。
日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど程遠いものはない。

「新ファッシズム論」より
256吾輩は名無しである:2010/03/29(月) 06:38:32
>>254
具体的に、何を読んで理解できなかったの?
257吾輩は名無しである:2010/03/29(月) 19:36:34
「武」とは花と散ることであり、「文」とは不朽の花を育てることだ。

「太陽と鉄」より
258吾輩は名無しである:2010/03/31(水) 09:35:29
引用するだけじゃなく、ちょっとはお前らの凡庸なおつむでコメント位しろよ。
教祖に向かうのにとても恥ずかしくてできないか?
そういう自身への素直さがないところが2ちゃんねらーやネットヘビーユーザーの
特徴だね。
259吾輩は名無しである:2010/03/31(水) 10:32:59
>>258
美文、名文にコメントやバカな解釈なんか無用。

そんなことも判らないお前が本も読まないネットサーフィンバカだってこと気づけ。
260吾輩は名無しである:2010/03/31(水) 10:35:57
拒みながら彼の腕のなかで目を閉じる聡子の美しさは喩へん方なかつた。
(中略)
清顕は髪に半ば隠れてゐる聡子の耳を見た。
耳朶にはほのかな紅があつたが、耳は実に精緻な形をしてゐて、一つの夢のなかの、
ごく小さな仏像を奥に納めた小さな珊瑚の龕のやうだつた。
すでに夕闇が深く領してゐるその耳の奥底には、何か神秘なものがあつた。
その奥にあるのは聡子の心だらうか?心はそれとも、彼女のうすくあいた唇の、
潤んできらめく歯の奥にあるのだらうか?

三島由紀夫「春の雪」より
261吾輩は名無しである:2010/03/31(水) 10:38:48
清顕はどうやつて聡子の内部へ到達できるかと思ひ悩んだ。
聡子はそれ以上自分の顔が見られることを避けるやうに、顔を自分のほうから
急激に寄せてきて接吻した。
清顕は片手をまわしてゐる彼女の腰のあたりの、温かさを指尖に感じ、あたかも
花々が腐つてゐる室のやうなその温かさの中に、鼻を埋めてその匂ひをかぎ、
窒息してしまつたらどんなによからうと想像した。
聡子は一語も発しなかつたが、清顕は自分の幻が、もう一寸のところで、完全な
美の均整へ達しやうとしてゐるのをつぶさに見てゐた。

三島由紀夫「春の雪」より
262吾輩は名無しである:2010/03/31(水) 10:40:52
唇を離した聡子の大きな髪が、じつと清顕の制服の胸に埋められたので、彼はその
髪油の香りの立ち迷うなかに、幕の彼方にみへる遠い桜が、銀を帯びてゐるのを眺め、
憂はしい髪油の匂ひと夕桜の匂ひとを同じもののやうに感じた。
夕あかりの前に、こまかく重なり、けば立つた羊毛のやうに密集してゐる遠い桜は、
その銀灰色にちかい粉つぽい白の下に、底深くほのかな不吉な紅、あたかも
死化粧のやうな紅を蔵していた。

三島由紀夫「春の雪」より
263吾輩は名無しである:2010/03/31(水) 12:31:54
私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、
人間も物質も、醜いものも美しいものも、
おしなべて同一の条件下におしつぶしてしまう
巨大な天の圧搾機のようなものを夢みていた。
ともすると早春の空のただならぬ煌きは、地上をおおうほど巨きな斧の、
すずしい刃の光のようにも思われた。
私はただその落下を待った。考える暇も与えないほど速やかな落下を。


三島が、隕石衝突による自然のカタストロフィー理論が発表される前に
このような想像をしていたことは、その感性の鋭さをものがったっているように思う。

264吾輩は名無しである:2010/03/31(水) 12:32:36
あ、
「金閣寺」ね。
スマソ。
265吾輩は名無しである:2010/04/01(木) 22:39:47
天地神命に誓って知りませんでした

266吾輩は名無しである:2010/04/02(金) 00:33:45
気まぐれこそ人間が天から得た美質で、時折人間が演じる気まぐれには、たしかに天の最も甘美なものの
片鱗がうかがはれる。それは整然たる宇宙法則が時折洩らす吐息のやうなもの、許容された詩のやうなもので、
それが遠い宇宙から人間に投影されたのだ。
人間どもの宗教の用語を借りれば、人間の中の唯一つの天使的特質といへるだらう。
人間が人間を殺さうとして、まさに発射しようとするときに、彼の心に生れ、その腕を突然ほかの方向へ
外らしてしまふふしぎな気まぐれ。
…さういふ美しい気まぐれの多くは、人間自体にはどうしても解けない謎で、おそらく沢山の薔薇の前へ来た
蜜蜂だけが知つてゐる謎なのだ。
何故なら、こんな気まぐれこそ、薔薇はみな同じ薔薇であり、目前の薔薇のほかにも又薔薇があり、世界は
薔薇に充ちてゐるといふ認識だけが、解き明かすことのできる謎だからだ。
私が希望を捨てないといふのは、人間の理性を信頼するからではない。人間のかういふ美しい気まぐれに、
信頼を寄せてゐるからだ。

三島由紀夫「美しい星」より
267吾輩は名無しである:2010/04/02(金) 00:34:29
…もし人類が滅んだら、私は少なくとも、その五つの美点をうまく纏めて、一つの墓碑銘を書かずには
ゐられないだらう。…
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきつぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾つた。
彼らはよく小鳥を飼つた。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑つた。
 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』

三島由紀夫「美しい星」より
268吾輩は名無しである:2010/04/02(金) 00:35:07
これをあなた方の言葉に翻訳すればかうなるのだ。
『地球なる一惑星に住める 人間なる一種族ここに眠る。
彼らはなかなか芸術家であつた。
彼らは喜悦と悲嘆に同じ象徴を用ひた。
彼らは他の自由を剥奪して、それによつて辛うじて自分の自由を相対的に確認した。
彼らは時間を征服しえず、その代りにせめて時間に不忠実であらうとした。
そして時には、彼らは虚無をしばらく自分の息で吹き飛ばす術を知つてゐた。
 ねがはくはとこしへなる眠りの安らかならんことを』

三島由紀夫「美しい星」より
269吾輩は名無しである:2010/04/04(日) 11:03:17
文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず作者の夢が破れたところに出発してゐる。

三島由紀夫「秋冬随筆」より
270吾輩は名無しである:2010/04/04(日) 23:05:19
蘭陵王は必ずしも自分の優にやさしい顔立ちを恥じてはゐなかつたにちがいない。むしろ自らひそかにそれを
矜つてゐたかもしれない。しかし戦ひが、是非なく獰猛な仮面を着けることを強ひたのである。
しかし又、蘭陵王はそれを少しも悲しまなかつたかもしれない。或ひは心ひそかに喜びとしてゐたかもしれない。
なぜなら敵の畏怖は、仮面と武勇にかかはり、それだけ彼のやさしい美しい顔は、傷一つ負はずに永遠に
護られることになつたからである。

三島由紀夫「蘭陵王」より
271吾輩は名無しである:2010/04/06(火) 12:08:21
わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。
川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。
きのふ川であつたものはけふ川ではない。だが川は永遠にある。
ひとはそれを指呼することができる。それについて語ることはできない。
わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ。

三島由紀夫
「花ざかりの森」より
272吾輩は名無しである:2010/04/06(火) 12:09:07
追憶は「現在」のもつとも清純な証なのだ。
愛だとかそれから献身だとか、そんな現実におくためにはあまりに清純すぎるやうな感情は、
追憶なしにはそれを占つたり、それに正しい意味を索めたりすることはできはしないのだ。
それは落葉をかきわけてさがした泉が、はじめて青空をうつすやうなものである。
泉のうえにおちちらばつてゐたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。

三島由紀夫
「花ざかりの森」より
273吾輩は名無しである:2010/04/06(火) 12:09:39
ああ、あの川。わたしにはそれが解る。
祖先たちからわたしにつづいたこのひとつの黙契。
その憧れはあるところでひそみ或るところで隠れてゐる。
だが、死んでゐるのではない。古い籬の薔薇が、けふ尚生きてゐるやうに。
祖母と母において、川は地下をながれた。父において、それはせせらぎになつた。
わたしにおいて、――ああそれが滔々とした大川にならないでなににならう、
綾織るもののやうに、神の祝唄のやうに。

三島由紀夫
「花ざかりの森」より
274吾輩は名無しである:2010/04/06(火) 14:13:14
美文、名文、名言、の定義をしてみろよ

コピペ厨の自己滿と思われたくないんならな
275吾輩は名無しである:2010/04/06(火) 23:23:29
氏はうるさいことが大きらひで、青くさい田舎者の理論家などは寄せつけなかつた。自分を理解しない人間を
寄せつけないのは、芸術家として正しい態度である。芸術家は政治家ぢやないのだから。
私はさういふ生活のモラルを氏から教へられた感じがした。それなら氏が人当りのわるい傲岸な人かといふと、
内心は王者をも挫(ひし)ぐ気位を持つてゐたらうが、終生、下町風の腰の低さを持つてゐた人であつた。
初対面の人には、ずつと後輩でも、自分のはうから進み出て、「谷崎でございます」と深く頭を下げ、又、
自分中心のテレビ番組に人に出てもらふときには、相手がいかに後輩でも、自分から直接電話をかけて丁重に
たのんだ。秘書に電話をかけさせて出演を依頼するやうな失礼な真似は決してしなかつた。

三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より
276吾輩は名無しである:2010/04/09(金) 10:31:48
乙女たちは、鼈甲色の蕊をさし出した、直立し、ひらけ、はじける百合の花々のかげから立ち現はれ、
手に手に百合の花束を握つてゐる。
奏楽につれて、乙女たちは四角に相対して踊りはじめたが、高く掲げた百合の花は危険に揺れはじめ、
踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらはれ、会い、又、離れて、
空をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなつて、一種の刃のやうに見えるのだつた。

三島由紀夫「奔馬」より
277吾輩は名無しである:2010/04/09(金) 10:34:02
そして鋭く風を切るうちに百合は徐々にしなだれて、楽も舞も実になごやかに優雅であるのに、
あたかも手の百合だけが残酷に弄ばれてゐるやうに見えた。
……見てゐるうちに、本多は次第に酔つたやうになつた。これほど美しい神事は見たことがなかつた。
そして寝不足の頭が物事をあいまいにして、目前の百合の祭ときのふの剣道の試合とが混淆し、竹刀が
百合の花束になつたり、百合が又白刃に変つたり、ゆるやかな舞を舞ふ乙女たちの、濃い白粉の額の上に、
日ざしを受けて落ちる長い睫の影が、剣道の面金の慄へるきらめきと一緒になつたりした。……

三島由紀夫「奔馬」より
278吾輩は名無しである:2010/04/09(金) 10:41:20
灯火に引き出された百合の一輪は、すでに百合の木乃伊(ミイラ)になつてゐる。
そつと指を触れなければ、茶褐色になつた花弁はたちまち粉になつて、まだほのかに
青みを残してゐる茎を離れるにちがいない。
それはもはや百合とは云へず、百合の残した記憶、百合の影、不朽のつややかな百合が
そこから巣立つて行つたあとの百合の繭のやうなものになつてゐる。しかし依然として、
そこには、百合がこの世で百合であつたことの意味が馥郁と匂つてゐる。かつてここに
注いでゐた夏の光りの余燼をまつはらせてゐる。
勲はそつとその花弁に唇を触れた。もし触れたことがはつきり唇に感じられたら、
そのときは遅い。百合は崩れ去るだらう。
唇と百合とが、まるで黎明と屋根とが触れるやうに触れ合はねばならない。

三島由紀夫「奔馬」より
279吾輩は名無しである:2010/04/09(金) 10:43:21
勲の若い、まだ誰の唇にもかつて触れたことのない唇は、唇のもつもつとも微妙な感覚の
すべてを行使して、枯れた笹百合の花びらにほのかに触れた。そして彼は思った。
『俺の純粋の根拠、純粋の保証はここにある。まぎれもなくここにある。
俺が自刃するときには、昇る朝日のなかに、朝霧から身を起して百合が花をひらき、
俺の血の匂ひを百合の薫で浄めてくれるにちがひない。
それでいいんだ。何を思ひ煩らうことがあらうか』

三島由紀夫「奔馬」より
280吾輩は名無しである:2010/04/10(土) 18:55:33
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだといふことを忘れてはいけない。
奴らの戦ひが有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れてゐるからだ。
奴らは僕らが本当に膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手をゆるめないだらう。
だから僕らは、いざとなつたら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければならない。むやみに突張つて、踏絵を
踏まなければ、殺されてしまふんだからね。
さうして一旦踏絵を踏んでやれば、奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。
でもそれまでは、自分の心の中に、よほど強い自尊心をしつかり保つてゆかなければね」

文章評価

評価項目 評価とコメント
1 文章の読みやすさ B 読みやすい
2 文章の硬さ E 文章が柔かい
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281吾輩は名無しである:2010/04/12(月) 00:02:43
私はそもそも天に属するのか?
さうでなければ何故天は
かくも絶えざる青の注視を私へ投げ
私をいざなひ心もそらに
もつと高くもつと高く
人間的なものよりもはるか高みへ
たえず私をおびき寄せる?
均衡は厳密に考究され
飛翔は合理的に計算され
何一つ狂ほしいものはない筈なのに
何故かくも昇天の欲望は
それ自体が狂気に似てゐるのか?
私を満ち足らはせるものは何一つなく
地上のいかなる新も忽ち倦(あ)かれ
より高くより高くより不安定に
より太陽の光輝に近くおびき寄せられ
何故その理性の光源は私を灼き
何故その理性の光源は私を滅ぼす?

三島由紀夫「イカロス」より
282吾輩は名無しである:2010/04/12(月) 00:03:13
眼下はるか村落や川の迂回は
近くにあるよりもずつと耐へやすく
かくも遠くからならば
人間的なものを愛することもできようと
何故それは弁疏(べんそ)し是認し誘惑したのか?
その愛が目的であつた筈もないのに?
もしさうならば私が
そもそも天に属する筈もない道理なのに?
鳥の自由はかつてねがはず
自然の安逸はかつて思はず
ただ上昇と接近への
不可解な胸苦しさにのみ駆られて来て
空の青のなかに身をひたすのが
有機的な喜びにかくも反し
優越のたのしみからもかくも遠いのに
もつと高くもつと高く
翼の蝋の眩暈と灼熱におもねつたのか?

三島由紀夫「イカロス」より
283吾輩は名無しである:2010/04/12(月) 00:03:51
されば そもそも私は地に属するのか?
さうでなければ何故地は
かくも急速に私の下降を促し
思考も感情もその暇を与へられず
何故かくもあの柔らかなものうい地は
鉄板の一打で私に応へたのか?
私の柔らかさを思ひ知らせるためにのみ
柔らかな大地は鉄と化したのか?
堕落は飛翔よりもはるかに自然で
あの不可解な情熱よりもはるかに自然だと
自然が私に思ひ知らせるために?
空の青は一つの仮想であり
すべてははじめから翼の蝋の
つかのまの灼熱の陶酔のために
私の属する地が仕組み
かつは天がひそかにその企図を助け
私に懲罰を下したのか?
私が私といふものを信ぜず
あるひは私が私といふものを信じすぎ
自分が何に属するかを性急に知りたがり
あるひはすべてを知つたと傲(おご)り
未知へ
あるひは既知へ
いづれも一点の青い表象へ
私が飛び翔たうとした罪の懲罰に?

三島由紀夫「イカロス」より
284吾輩は名無しである:2010/04/14(水) 23:44:59
新治が女をたくさん知つてゐる若者だつたら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、
焚火の炎のむかうに立つてゐる初江の裸が、まぎれもない処女の体だといふことを見抜いたであらう。
決して色白とはいへない肌は、潮にたえず洗はれて滑らかに引締り、
お互ひにはにかんでゐるかのやうに心もち顔を背け合つた一双の固い小さな乳房は、
永い潜水にも耐へる広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾をもちあげてゐた。

三島由紀夫「潮騒」より
285吾輩は名無しである:2010/04/14(水) 23:45:30
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはゐるが、清らかな弾んだ声で言つた。
裸の若者は躊躇しなかつた。
爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、火のなかへまつしぐらに飛び込んだ。
次の刹那にその体は少女のすぐ前にあつた。彼の胸は乳房に軽く触れた。
「この弾力だ。前に赤いセエタアの下に俺が想像したのはこの弾力だ」と若者は感動して思つた。
二人は抱き合つた。少女が先に柔らかく倒れた。
「松葉が痛うて」と少女が言つた。

三島由紀夫「潮騒」より
286吾輩は名無しである:2010/04/14(水) 23:46:35
この乳房を見た女はもう疑ふことができない。
それは決して男を知つた乳房ではなく、まだやつと綻びかけたばかりで、
それが一たん花ひらいたらどんなに美しからうと思はれる胸なのである。
薔薇いろの蕾をもちあげてゐる小高い一双の丘のあひだには、よく日に灼けた、しかも
肌の繊細さと滑らかさと一脈の冷たさを失はない、早春の気を漂はせた谷間があつた。
四肢のととのつた発育と歩を合はせて、乳房の育ちも決して遅れをとつてはゐなかつた。
が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎはの眠りにゐて、
ほんの羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましさうに見えるのである。

三島由紀夫「潮騒」より
287吾輩は名無しである:2010/04/15(木) 02:50:03
著作権の侵害は棚に上げて、
三島に自分を重ね合わせて自己陶酔してる変なおじさんがいるスレはここですか?
288吾輩は名無しである:2010/04/15(木) 23:41:15
中尉の目の見るとおりを、唇が忠実になぞつて行つた。
その高々と息づく乳房は、山桜の花の蕾のやうな乳首を持ち、中尉の唇に含まれて固くなつた。
胸の両脇からなだらかに流れ落ちる腕の美しさ、それが帯びてゐる丸みがそのままに
手首のはうへ細まつてゆく巧緻なすがた、そしてその先には、かつて結婚式の日に扇を
握つてゐた繊細な指があつた。
指の一本一本は中尉の唇の前で、羞らふやうにそれぞれの指のかげに隠れた。

三島由紀夫「憂国」より
289吾輩は名無しである:2010/04/15(木) 23:42:55
……胸から腹へと辿る天性の自然な括れは、柔らかなままに弾んだ力をたわめてゐて、
そこから腰へひろがる豊かな曲線の予兆をなしながら、それなりに些かもだらしなさのない
肉体の正しい規律のやうなものを示してゐた。
光りから遠く隔たつたその腹と腰の白さと豊かさは、大きな鉢に満々と湛へられた乳のやうで、
ひときは清らかな凹んだ臍は、そこに今し一粒の雨粒が強く穿つた新鮮な跡のやうであつた。
影の次第に濃く集まる部分に、毛はやさしく敏感に叢れ立ち、香りの高い花の焦げるやうな匂ひは、
今は静まつてはゐない体のとめどもない揺動と共に、そのあたりに少しづつ高くなつた。

三島由紀夫「憂国」より
290吾輩は名無しである:2010/04/15(木) 23:44:12
かうした経緯を経て二人がどれほどの至上の歓びを味はつたかは言ふまでもあるまい。
中尉は雄々しく身を起し、悲しみと涙にぐつたりしてした妻の体を、力強い腕に抱きしめた。
二人は左右の頬を互ひちがひに狂ほしく触れ合はせた。麗子の体は慄へてゐた。
汗に濡れた胸と胸とはしつかりと貼り合はされ、二度と離れることは不可能に思はれるほど、
若い美しい肉体の隅々までが一つになつた。
麗子は叫んだ。高みから奈落へ落ち、奈落から翼を得て、又目くるめく高みへまで天翔つた。
中尉は長駆する聯隊旗手のやうに喘いだ。……そして、一トめぐりがをはると又たちまち
情意に溢れて、二人はふたたび相携へて、疲れるけしきもなく、一息に頂きへ登つて行つた。

三島由紀夫「憂国」より
291吾輩は名無しである:2010/04/16(金) 19:04:26
スレチかも知れませんが、質問です
三島作品のフレーズで「何かを賭けねば見えないものがある…」みたいなのを読んだ記憶があるのですが、探しても見つかりません
ご存知の方あれば正確な引用と出典をご教示下さい
292吾輩は名無しである:2010/04/17(土) 13:10:13
>>291
それは小説?それともエッセイ、評論ですか?
293吾輩は名無しである:2010/04/17(土) 14:53:29
>>292
見たのが大分前で、色々と読んでた時期なので定かではありませんが、小説だったと思います
294吾輩は名無しである:2010/04/17(土) 18:41:11
今日はまさに春の雪であった

椿事の序曲
295吾輩は名無しである:2010/04/19(月) 00:28:51
芸術家の値打の分れ目は、死んだあとに書かれる追悼文の面白さで決ると言つてよい

三島由紀夫「芸術断想 猿翁のことども」より
296吾輩は名無しである:2010/04/19(月) 00:29:32
「希望は過去にしかない」といふ悲観哲学は、伝統芸能の場合、一種特別な意味合ひを帯び、
「昔はよかつた」といふ言葉にたえず刺戟されないかぎり、芸術的完成はありえない

三島由紀夫「芸術断想 期待と失望」より
297吾輩は名無しである:2010/04/19(月) 00:31:04
遠い花火があのやうに美しいのは、遅く来る音の前に、あざやかに無言の光りの幻が
空中に花咲き、音の来るときはもう終つてゐるからではないだらうか。
光りは言葉であり、音は音楽である。光りを花火と見るときに、音は不要なのだが、
あとからゆるゆると来る音は、もはや花火ではない、花火の追憶といふ別の現実性のイメーヂを
われわれの心に定着しつつ、別の独立な使命を帯びて、われわれの耳に届くのである。

三島由紀夫「芸術断想 詩情を感じた『蜜の味』」より
298吾輩は名無しである:2010/04/20(火) 11:35:21
なぜなら、すべて神聖なものは夢や思ひ出と同じ要素から成立ち、時間や空間によつて
われわれと隔てられてゐるものが、現前してゐることの奇蹟だからです。しかしそれら三つは、
いづれも手で触れることのできない点で共通してゐます。手で触れることのできたものから、
一歩遠ざかると、もうそれは神聖なものになり、奇蹟になり、ありえないやうな美しいものになる。
事物にはすべて神聖さが具はつてゐるのに、われわれの指が触れるから、それは汚濁になつてしまふ。
われわれ人間はふしぎな存在ですね。指で触れるかぎりのものを涜(けが)し、しかも
自分のなかには、神聖なものになりうる素質を持つてゐるんですから。

三島由紀夫「春の雪」より
299吾輩は名無しである:2010/04/20(火) 23:28:18
われわれは恋しい人を目の前にしてさへ、その姿形と心とをばらばらに考へるほど
愚かなのだから、今僕は彼女の実在と離れてゐても、逢つてゐるときよりも却つて
一つの結晶を成した月光姫を見てゐるのかもしれないのだ。
別れてゐることが苦痛なら、逢つてゐることも苦痛でありうるし、逢つてゐることが
歓びならば、別れてゐることも歓びであつてならぬといふ道理はない。

三島由紀夫「春の雪」より
300吾輩は名無しである:2010/04/21(水) 12:16:53
……海はすぐその目の前で終る。
波の果てを見てゐれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであへなく
終つたかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きはまる企図が徒労に終るのだ。

三島由紀夫「春の雪」より
301吾輩は名無しである:2010/04/21(水) 12:17:21
どんな夢にもをはりがあり、永遠なものは何もないのに、それを自分の権利と思ふのは
愚かではございませんか。
私はあの『新しき女』などとはちがひます。……でも、もし永遠があるとすれば、
それは今だけなのでございますわ。

三島由紀夫「春の雪」より
302吾輩は名無しである:2010/04/21(水) 23:41:52
『ああ……「僕の年」が過ぎてゆく! 過ぎてゆく! 一つの雲のうつろひと共に』

三島由紀夫「春の雪」より
303吾輩は名無しである:2010/04/24(土) 12:12:43
極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として
身を全うすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、
現代の綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。

三島由紀夫「盗賊」より
304吾輩は名無しである:2010/04/24(土) 12:15:43
たとひ自殺の決心がどのやうな強固なものであらうと、人は生前に、一刹那でも死者の眼で
この地上を見ることはできぬ筈だつた。どんなに厳密に死のためにのみ計画された行為であつても、
それは生の範疇をのがれることができぬ筈だつた。してみれば、自殺とは錬金術のやうに、
生といふ鉛から死といふ黄金を作り出さうとねがふ徒(あだ)なのぞみであらうか。
かつて世界に、本当の意味での自殺に成功した人間があるだらうか。われわれの科学は
まだ生命をつくりだすことができない。従つてまた死をつくりだすこともできないわけだ。
生ばかりを材料にして死を造らうとは、麻布や穀物やチーズをまぜて三週間醗酵させれば
鼠が出来ると考へた中世の学者にも、をさをさ劣らぬ頭のよさだ。

三島由紀夫「盗賊」より
305吾輩は名無しである:2010/04/24(土) 12:42:47
自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を
自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは
紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。
――生きてゆかうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加へたものとして死を了解する。
このαは単なる安全弁にすぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思つてゐる。
むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。

三島由紀夫「盗賊」より
306吾輩は名無しである:2010/04/26(月) 00:12:32
人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙のどこかにすでに完成されてゐるもの――
すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎない

平岡公威(三島由紀夫)19歳
「廃墟の朝」より
307吾輩は名無しである:2010/04/26(月) 01:39:58
>>306
発見というのは自然科学に限られるものではないだろ
308吾輩は名無しである:2010/04/26(月) 10:19:44
>>307
変な既成概念で解釈して限定してるのはあんた自身でしょう。
あらゆる、って字が読めないバカですか?
309吾輩は名無しである:2010/04/26(月) 10:38:00

日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して
意識することなく神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところに
はげしく煌めいてゐること、さうして真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、
かういふことだけを述べておけばよい。

平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より
310吾輩は名無しである:2010/04/26(月) 10:42:53
>>308
意味不明&支離滅裂&答になってない
自然科学以外の分野における発見も宇宙のどこかで既出なのか?
そんなわけないだろ?
インフルエンザが流行した時の人間の行動パターンに見出された新たな発見とかどうなんだよ
三島とか読んでるからバカになるんだぞ
311吾輩は名無しである:2010/04/26(月) 10:50:33
>>310
人間の行動パターンこそ、新たなものなんかない既出だよ。バカはお前だ。
312吾輩は名無しである:2010/04/26(月) 10:53:55
>>310
第一そんなもの発見じゃないしね。
313吾輩は名無しである:2010/04/27(火) 09:07:50
小説家ごときオッチョコチョイが、どうして知識人たりうるか
考えただけでもわかりましょう。

「不道徳教育口座」
314吾輩は名無しである:2010/04/27(火) 10:24:48
>>313
出典名がでたらめ。よって却下
315吾輩は名無しである:2010/04/27(火) 15:47:28
>>312
心理学とか精神分析における発見を無視するような輩が書いた小説なんて
読 む 気 に な ら ん
316吾輩は名無しである:2010/04/27(火) 16:19:46
>>315
勝手にあんたが誤読して、
無視してると、あんた一人が思い込んでるだけでしょ。
317吾輩は名無しである:2010/04/27(火) 19:08:26
↑こういうバカにだけ支持される三島(笑)
318吾輩は名無しである:2010/04/27(火) 22:11:47
三島の「音楽」謎は当時と死ては非情に心理学では無いで消火ねぇ〜(笑)
319吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 17:20:39
忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で
握り飯を作つて、御前に捧げることだと思ひます。その結果、もし陛下が御空腹でなく、
すげなくお返しになつたり、あるひは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、
こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま
退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。
又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、
ありがたく腹を切らねばなりません。
何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。
では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。
飯はやがて腐るに決まつてゐます。
これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。
勇気ある忠義とは、死をかへりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。

三島由紀夫「奔馬」より
320吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 17:21:34
聖明が蔽はれてゐるこのやうな世に生きてゐながら、何もせずに生き永らえてゐることが
まづ第一の罪です。その大罪を祓ふには、涜神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を
拵えて献上して、自らの忠心を行為にあらはして、即刻腹を切ることです。
死ねばすべては清められますが、生きてゐるかぎり、右すれば罪、左すれば罪、
どのみち罪を犯してゐることに変りはありません。

三島由紀夫「奔馬」より
321吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 17:23:05
あいつらの脂肪に富んだ現実性は増してゐた。その悪の臭ひもいよいよ募つてゐた。
こちらはいよいよ不安で不確定な世界へ投げ込まれ、あたかも夜の水月(くらげ)のやうになつた。
それこそ奴らの罪過だつた、こちらの世界をこんなにあいまいなほとんど信じがたいものに
してしまつたのは。この世の不信の根は、みんな向ふ側のグロテスクな現実性に源してゐた。
奴らの高血圧と皮下脂肪へ清らかな刃がしつかりと刺るとき、そのときはじめて
世界の修理固成が可能になるだらう。

三島由紀夫「奔馬」より
322吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 17:24:16
人間主義の滓が、川上の工場から排泄される鉱毒のやうに流れてやまぬ暗い小川を。
ああ、川上には昼夜兼行で動いてゐる西欧精神の工場の灯が燦然としてゐる。
あの工場の廃液が、崇高な殺意をおとしめ、榊葉の緑を枯らしたのである。

三島由紀夫「奔馬」より
323吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 17:26:12
勲たちの、熱血によつてしかと結ばれ、その熱血の迸りによつて天へ還らうとする太陽の結社は、
もともと禁じられてゐた。しかし私腹を肥やすための政治結社や、利のためにする営利法人なら、
いくら作つてもよいのだつた。権力はどんな腐敗よりも純粋を怖れる性質があつた。
野蛮人が病気よりも医薬を怖れるやうに。

三島由紀夫「奔馬」より
324吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 17:27:45
法律とは、人生を一瞬の詩に変へてしまはうとする欲求を、不断に妨げてゐる何ものかの集積だ。
血しぶきを以て描く一行の詩と、人生とを引き換へにすることを、万人にゆるすのはたしかに
穏当ではない。しかし内に雄心を持たぬ大多数の人は、そんな欲求を少しも知らないで
人生を送るのだ。だとすれば、法律とは、本来ごく少数者のためのものなのだ。
ごく少数の異常な純粋、この世の規矩を外れた熱誠、……それを泥棒や痴情の犯罪と
全く同じ同等の《悪》へおとしめようとする機構なのだ。

三島由紀夫「奔馬」より
325吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 17:29:06
天と地は、ただ座視してゐては、決して結ばれることがない。天と地を結ぶには、
何か決然たる純粋の行為が要るのです。その果断な行為のためには、一身の利害を超え、
身命を賭(と)さなくてはなりません。身を竜と化して、竜巻を呼ばなければなりません。
それによつて低迷する暗雲をつんざき、瑠璃色にかがやく天空へ昇らなければなりません。

三島由紀夫「奔馬」より
326吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 23:23:21
ずつと南だ。ずつと暑い。……南の国の薔薇の光りの中で。……

三島由紀夫「奔馬」より
327吾輩は名無しである:2010/04/30(金) 23:28:19
正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇つた。

三島由紀夫「奔馬」より

Ranaway Hoses-HONBA-Mishima
http://www.youtube.com/watch?v=ja&v=RIacGGqvVKQ
328吾輩は名無しである:2010/05/01(土) 11:14:36
芸術といふのは巨大な夕焼です。一時代のすべての佳いものの燔祭(はんさい)です。
さしも永いあひだつづいた白昼の理性も、夕焼のあの無意味な色彩の濫費によつて台無しにされ、
永久につづくと思はれた歴史も、突然自分の終末に気づかせられる。美がみんなの目の前に
立ちふさがつて、あらゆる人間的営為を徒爾(あだごと)にしてしまふのです。
あの夕焼の花やかさ、夕焼雲のきちがひじみた奔逸を見ては、『よりよい未来』などといふ
たはごとも忽ち色褪せてしまひます。

三島由紀夫「暁の寺」より
329吾輩は名無しである:2010/05/01(土) 11:20:14
現在の一刹那だけが実有であり、一刹那の実有を保証する最終の根拠が阿頼耶識であるならば、
同時に、世界の一切を顕現させてゐる阿頼耶識は、時間の軸と空間の軸の交はる一点に
存在するのである。

三島由紀夫「暁の寺」より
330吾輩は名無しである:2010/05/01(土) 11:20:38
唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに
現はれてゐる、といふことに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、
又新たな世界が立ち現はれる。現在ここに現はれた世界が、次の瞬間には変化しつつ、
そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであつた。……

三島由紀夫「暁の寺」より
331吾輩は名無しである:2010/05/01(土) 11:22:28
自分の人生は暗黒だつた、と宣言することは、人生に対する何か痛切な友情のやうにすら思はれる。
お前との交遊には、何一つ実りはなく、何一つ歓喜はなかつた。お前は俺がたのみもしないのに、
その執拗な交友を押しつけて来て、生きるといふことの途方もない綱渡りを強ひたのだ。
陶酔を節約させ、所有を過剰にし、正義を紙屑に変へ、理智を家財道具に換価させ、
美を世にも恥かしい様相に押しこめてしまつた。人生は正統性を流刑に処し、異端を
病院へ入れ、人間性を愚昧に陥れるために大いに働らいた。
それは、膿盆の上の、血や膿のついた汚れた繃帯の堆積だつた。すなはち、不治の病人の、
そのたびごとに、老ひも若きも同じ苦痛の叫びをあげさせる、日々の心の繃帯交換。
彼はこの山地の空のかがやく青さのどこかに、かうして日々の空しい治癒のための、
荒つぽい義務にたづさはる、白い壮麗な看護婦の巨大なしなやかな手が隠れてゐるのを感じた。
その手は彼にやさしく触れて、又しても彼に、生きることを促すのであつた。

三島由紀夫「暁の寺」より
332吾輩は名無しである:2010/05/03(月) 11:43:43
吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、
彼は内界の濃密な黐から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。

三島由紀夫「金閣寺」より
333吾輩は名無しである:2010/05/04(火) 11:31:14
老婦人は毅然としてゐた。白髪がこころもちたゆたうてゐる。おだやかな銀いろの縁をかがつて。
じつとだまつてたつたまま、……ああ涙ぐんでゐるのか。祈つてゐるのか。それすらわからない。……
まらうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーつと退いてゆく際に、
眩ゆくのぞかれるまつ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまつて。
「死」にとなりあはせのやうにまらうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきはまつて
独楽(こま)の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……

三島由紀夫「花ざかりの森」より
334吾輩は名無しである:2010/05/05(水) 11:04:45
Might it not be that through the innermost recesses of love
there courses an unattainable longing in which both
the man and the woman desire to become the exact image of the other?

Yukio Mishima “Confessions of a Mask”
335吾輩は名無しである:2010/05/05(水) 11:06:58
There is a kind of immodesty that becomes only a virgin,
differing from the immodesty of a mature woman, and
intoxicates the beholder, like a gentle wind.

Yukio Mishima “Confessions of a Mask”
336吾輩は名無しである:2010/05/05(水) 11:07:59
A person who has been seriously wounded does not demand
that the emergency bandages that save his life be clean.

Yukio Mishima “Confessions of a Mask”
337吾輩は名無しである :2010/05/06(木) 01:40:16
クビ切り落としてクソ流し込むぞ!
338吾輩は名無しである :2010/05/06(木) 01:43:52
「こんばんわ、富永一郎です」
339吾輩は名無しである :2010/05/06(木) 01:46:59
Mama & Papa were Laing in bed
Mama rolled over and this is what's she said
Oh, Give me some Oh, Give me some
P.T.! P.T.!
Good for you
Good for me
Mmm good
340吾輩は名無しである:2010/05/07(金) 10:22:21
一分一分、一秒一秒、二度とかへらぬ時を、人々は何といふ稀薄な生の意識ですりぬけるのだらう。
老いてはじめてその一滴々々には濃度があり、酩酊さへ具はつてゐることを学ぶのだ。
稀覯の葡萄酒の濃密な一滴々々のやうな、美しい時の滴たり。……さうして血が失はれるやうに
時が失はれてゆく。

三島由紀夫「天人五衰」より
341吾輩は名無しである:2010/05/07(金) 10:22:43
この世には実に千差万別な卑俗があつた。
気品の高い卑俗、白象の卑俗、崇高な卑俗、鶴の卑俗、知識にあふれた卑俗、学者犬の卑俗、
媚びに充ちた卑俗、ペルシア猫の卑俗、帝王の卑俗、乞食の卑俗、狂人の卑俗、蝶の卑俗、
斑猫の卑俗……、おそらく輪廻とは卑俗の劫罰だつた。
そして卑俗の最大唯一の原因は、生きたいといふ欲望だつたのである。

三島由紀夫「天人五衰」より
342吾輩は名無しである:2010/05/07(金) 10:23:41
この世には幸福の特権がないやうに、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もゐません。
あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。
もしこの世に生れつき別格で、特別に美しかつたり、特別に悪(わる)だつたり、
さういふことがあれば、自然が見のがしにしておきません。そんな存在は根絶やしにして、
人間にとつての手きびしい教訓にし、誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生れて
来はしない、といふことを人間の頭に叩き込んでくれる筈ですわ。

三島由紀夫「天人五衰」より
343吾輩は名無しである:2010/05/07(金) 10:25:49
精神的屈辱と摂護腺肥大との間に何のちがひがあらう。
或る鋭い悲しみと肺炎の胸痛との間に何のちがひがあらう。
老いは正(まさ)しく精神と肉体の双方の病気だつたが、老い自体が不治の病だといふことは、
人間存在自体が不治の病だといふに等しく、しかもそれは何ら存在論的な病ではなくて、
われわれの肉体そのものが病であり、潜在的な死なのであつた。
衰へることが病であれば、衰へることの根本原因である肉体こそ病だつた。
肉体の本質は滅びに在り、肉体が時間の中に置かれてゐることは、衰亡の証明、
滅びの証明に使はれてゐるこに他ならなかつた。

三島由紀夫「天人五衰」より
344吾輩は名無しである:2010/05/07(金) 10:27:31
われわれは何ものかの腹を肥やすための餌であつた。…そして神にとつても、運命にとつても、
人間の営為のうちでこの二つを模した唯一のものである歴史にとつても、人間が本当に
老いるまで、このことに気づかせずにおくのは、賢明なやり方だつた。

三島由紀夫「天人五衰」より
345吾輩は名無しである:2010/05/07(金) 10:34:39
もし本多の中の一個の元素が、宇宙の果ての一個の元素と等質のものであつたとしたら、
一旦個性を失つたのちは、わざわざ空間と時間をくぐつて交換の手続を踏むにも及ばない。
それはここにあるのと、かしこにあるのと、全く同じことを意味するからである。
来世の本多は、宇宙の別の極にある本多であつても、何ら妨げがない。
糸を切つて一旦卓上に散らばつた夥しい多彩なビーズを、又別の順序で糸につなぐときに、
もし卓の下へ落ちたビーズがない限り、卓上のビーズの数は不変であり、それこそは
不変の唯一の定義だつた。
我が在ると思ふから不滅が生じない、といふ仏教の論理は、数学的に正確だと本多には
今や思はれた。
我とは、そもそも自分で決めた、従つて何ら根拠のない、この南京玉(ビーズ)の
糸つなぎの配列の順序だつたのである。

三島由紀夫「天人五衰」より
346吾輩は名無しである:2010/05/07(金) 10:36:29
自分はすでに罠に落ちた。人間に生れてきたといふことの罠に一旦落ちながら、
ゆくてにそれ以上の罠が待ち設けてよい筈はない。すべて愚かしく受け容れようと
本多は思ひ返した。希望を抱くふりをして。
印度の犠牲の仔山羊でさへ、首を落されたあとも、あのやうに永いことあがいたのだ。

三島由紀夫「天人五衰」より
347吾輩は名無しである:2010/05/09(日) 10:37:33
敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。
今も私の前には、八月十五日の焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと
人は言ふが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。
金閣がそこに未来永劫存在するといふことを語つてゐる永遠。

三島由紀夫「金閣寺」より
348吾輩は名無しである:2010/05/09(日) 10:42:04
死刑の公開が行はれなくなつたのは、人心を殺伐ならしめると考へられたからださうだ。
ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けてゐた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしてゐた。
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、
和やかにするんだのに。俺たちが突如として残虐になるのは、たとへばこんなうららかな春の午後、
よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れてゐるのをぼんやり眺めてゐるときのやうな、
さういふ瞬間だと思はないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はさういふ風にして生れたんだ。

三島由紀夫「金閣寺」より
349吾輩は名無しである:2010/05/09(日) 10:45:04
禅は無相を体とするといはれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなはち
見性だといはれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の
魅力に対して極度に鋭敏でなければならない筈だ。
形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、どうして無形や無相をそれほど
ありありと見、ありありと知ることができやう。

三島由紀夫「金閣寺」より
350吾輩は名無しである:2010/05/10(月) 10:36:09
認識にとつて美は決して慰藉(いしや)ではない。女であり、妻でもあるだらうが、
慰藉ではない。しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは
何ものかが生れる。はかない、あぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。
世間で芸術と呼んでゐるのはそれさ。

三島由紀夫「金閣寺」より
351吾輩は名無しである:2010/05/10(月) 23:49:00
恋愛といふやつは、単に熱なんです。脈搏なんです。情熱なんていふ誰も見たことのない
好加減な熱ぢやない、ちやんと体温計にあらはれる熱なんです。

三島由紀夫「夜の向日葵」より
352吾輩は名無しである:2010/05/10(月) 23:49:24
恋愛といふのは、数なんです。それも函数(かんすう)なんです。
五なら五、六なら六だけ生へ近づく、それと同時に、おなじ数だけ死へ近づくといふ、
函数なんです。

三島由紀夫「夜の向日葵」より
353吾輩は名無しである:2010/05/10(月) 23:49:54
「許しませんよ」ああ、それこそ貴婦人の言葉だ。生れながらのけだかい白い肌の
言はせる言葉だ。

三島由紀夫「朝の躑躅」より
354吾輩は名無しである :2010/05/11(火) 00:17:13
しかし、どれもこれも三島のせりふは、大げさだな
深刻とか、生真面目とかじゃなくて、いわゆる、大げさなんだ
それだけでとさえ言っていいほどに、救い難い弱点だわこりゃ
言葉の選び、観点、価値観、方法とか、作品全てに至るまでね
何だ、この事々しい構えは、大げさ野郎め
と、笑いたくなる
このスレ読んでそう思わんか?
並べ立てるほどにますます顕わになり、ウンザリ来ないか?
理解して感心しながらもだな、まあ
陳腐と紙一重なことに気づいたほうがいい

355吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 00:37:51
>>354
そんな間抜けな感想しか抱けない人は、そもそも戯曲や文学を楽しむ資格がないから、いちいち覗かなくていいよ。
356吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 00:45:20
息子が大きくなれば全学連にならぬかとおそれをののき、娘が大きくなれば悪い虫が
つきはせぬかとひやひやする、親の心配苦労をよそに、息子ども娘ども、
「お前の高校は処女が一割だつていふぜ」
「アラ、わりかしいい線行つてるわね」
などとほざき、オートバイのマフラーをはづして、市民の眠りをおどろかし、雨の日には転倒して
頭の鉢を割り、あわてた親が四輪車を買つてやれば、たちまち岸壁から海へどんぶり。
山へ出かけては凍え死に、スキーへ出かけては足を折る。身体髪膚、父母からもらつたものは
一つもないかの如くである。

三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より
357吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 00:45:39
蔭では親のことを「あいつ」と呼び、働きのない親は出てゆけがしに扱はれ、働きのある親とは
金だけのつながり。いつも親に土産を買つてかへる今どきめづらしい孝行者と思へば、
万引きの常習犯で、親が警察へ呼び出されて、はじめてそれと知つてびつくり。
これなどは罪の軽い方で、いつ息子に殺されるかと、枕を高くして寝られない親もあり、
こどもの持つてゐる凶器は、鉛筆削りのナイフといへども、こつそり刃引きをして
おいたはうが無難である。

三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より
358吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 00:46:07
日曜日も本に読みふける子は、あつといふ間にノイローゼになり、本を読まぬ子はテレビめくら。
親父の代には不良は不良でも、硬派の不良となると世間も認めたが、今は硬軟とりまぜの時代で、
親の目には一向見当もつかず、軟派とおもへばデモ隊で声を嗄らし、硬派とおもへば
いつのまにやらプレイボーイとかになり下がり、娘が「オレ」と言ひ、息子は
「あのう……ぼく」と言ふ世の中。

三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より
359吾輩は名無しである :2010/05/11(火) 01:11:18
>>355
これって俺の感想じゃないんだよ
或る誰でも知っている作家のなんだ(爆
360吾輩は名無しである :2010/05/11(火) 01:23:01
>>355
あ、あと三島本人も薄っすら同意してます。
361吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 01:43:21
>>360
そんなパクリ擬きの幼稚になったあんたの感想なんかに同意するわけないから。
362吾輩は名無しである :2010/05/11(火) 01:44:50
「豊饒の海」天人五衰の最後の文章
まさに美文中の美文
中身の抜けた(笑)
これは文壇の常識とされています
まあ無理もないんだが・・・
363吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 01:51:19
>>362
文壇の常識ってなんだよ。そんな実体のないものを権威にしなきゃ、批評できないバカなんだ。レベル低いね、あんた。
364吾輩は名無しである :2010/05/11(火) 01:51:45
>>361
よく読めや
そして考えろな

三島が剣道で上段構え取ってる時
「まるで俺の人生・・・」
くらい頭をよぎってるんだよ

そういう仄めかしは幾つもあるしね
事実だからしゃあないじゃん
365吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 01:56:09
>>359
その作家の批評を一字一句正確に引用してみな。あんたの言い回しと合ってるか検証するからさ。
366吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 01:58:33
私は自らそれと知らずに、(こんな大袈裟な言い方は私の持ち前だから
お許しねがうが)、愛の教義のコペルニクスであろうと企てたのである。
「仮面の告白」

自分の文章の大仰さを確かに自ら認めてはいる(これ以外にもある)。
しかし、それを「救い難い弱点」だと考えているはずがない。
「或る誰でも知っている作家」が誰なのか、はっきり書いてほしいな。
後出しで自分の考えじゃないなんて言い出すところから推量するに、
相当改竄してるだろ。きちんと引用元を明記しないと著作権侵害になるぞ。
改竄していたら、明記すると更に問題になるし、さてどうするかなw
367吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 02:00:29
>>364
意味不明。あんたの恣意の空想なんかどうでもいいから。
368吾輩は名無しである :2010/05/11(火) 02:01:03
>>363
高井有一氏からむかし直接聞きました
だからしゃあないじゃん

>>365
阿川弘之だけどもっと辛辣だったぞ
自分で探せ
一字一句、検証…(プッ
369吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 02:06:57
>>368
高井有一って誰?そいつや阿川弘之の批評が、即、文壇の権威なの?バカ丸出し(笑)
370吾輩は名無しである:2010/05/11(火) 02:18:38
阿川弘之か。ま、三島嫌いの急先鋒らしいから、それくらい平気で言っても
不思議はないな。阿川は全く読んだことないからよくわからんが。
あ、三島嫌いだから読まないのではないよ。同じ三島嫌いでも、大江は好きで、
殆どの作品を読んでいる。阿川はそれほど有り難がられる作家かしらん?
高井有一を文壇代表とみなすのには、折れるほど首を捻りたくなるなw
371吾輩は名無しである :2010/05/11(火) 23:39:18
高井氏の小説の一般的評価はさておき
人格者で、文壇の良心とも呼ばれてる人だ
しかし文壇を客観的に、外側から眺めてものを言う人であった
そして「文壇では云々・・・」と話す中でそれを言ったのさ
文壇は符丁、文学を職業としている仲間内という意味でわかりやすく述べたんだ
大江君みたいな芸術家に比べたら私は俗人だから・・・
とも仰ってたがな
大人(たいじん)の風格が濃く、恐い方だ
ところで三島の悪口なら阿川より大江の方が強烈だね
「次は大江君・・・」とかいわれたらしいが
ノーベル賞もらう前に
三島氏はノーベル賞を逸した代償に別のセンセーショナリズムへ走った
と発言したのには参ったねえ
372吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 00:02:12
>>371
大江自身が人生においてノーベル賞を重大視してる権威主義者だからそう思うんだよ。
三島由紀夫はノーベル賞候補のずっと前から自衛隊活動やってるから、そんなもんと関係ないし。

それから、ここは引用スレだから、煽り釣りはアンチスレでやってください。
373吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 00:08:54
一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気が
あたしにはするの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を
止めてゐてごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。

三島由紀夫「夜の向日葵」より
374吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 00:09:14
愛するといふことは、息を止めることぢやなくて、息をしてゐるのとおんなじことよ。

三島由紀夫「夜の向日葵」より
375吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 00:14:06
悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて?
幸福な人には景色なんか要らないんです。

三島由紀夫「鹿鳴館」より
376吾輩は名無しである :2010/05/12(水) 01:29:15
>>366
>>372
これは煽り釣りじゃなくてね
実際のところ「救い難い弱点」と言えなくないんだよ
俺は今年四十になった
二十代前半にあれほど感心した三島の文章に
今はついていけない
それは三十代から兆していた
あの明晰な三島が、それに気付かないわけがないんだ
結局は、青年の文学、ということを、三島自身、見限っていた筈だ
だからこのスレの羅列は
なんいてうか、痛ましく、やるせないんだ
俺にとって三島は、T・マンとジュネのパロディの位置にしかない
まあそれはそれとして
片っぱしから、というのを控えてくれ
おっさんの眼にも「なるほどな」と映る章句はあったはずなんだ
これは、スレ全部に目を通した感想だ
377吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 02:40:37
>>376
救い難い弱点だの、青年の文学(にすぎない)だの、誰某のパロディーだの、
それはみんなあんたの考え・感想なんだろ。そして、それはもう、絶対的真理
であるというのを前提にするものだから、上から目線で、
「あの明晰な三島が、それに気付かないわけがないんだ」なんぞと宣う。
要するに、三島も明晰だったが、俺様の頭脳はもっと明晰だと言っているわけで、
ひどく傲慢というか、それを通り越して滑稽な姿に映るw

>「なるほどな」と映る章句はあったはずなんだ
こう書くということは、そういうのをコピペしてくれと言いたいわけだな。
しかし、「ついていけな」くなったあんたの望みを叶えるようなコピペをお目にかけようと
すれば、「片っぱしから」にするしかないだろうよ。それでも滅多に当たりは引けないだろうが。
実際、「スレ全部に目を通し」ても望みは叶わなかったみたいだしなw
378377:2010/05/12(水) 02:42:53
これだけでは、「ここは引用スレです!」と叱られそうなので、俺も1つ引用を。
というのは、多分本スレだったと思うが、「獣の戯れ」で幸二がスパナを見つける
場面のコピペがあって、大事な箇所が抜けているのではと、やや不満があったから。

その意志は平坦な日常の秩序をくつがへしながら、もつと強力で、統一的で、ひしめく
必然に充ちた「彼ら」の秩序へ、瞬時にしてわれわれを組み入れようと狙つてをり、
ふだんは見えない姿で注視してゐながら、もつとも大切な瞬間に、突然、物象の姿で
顕現するのだ。かういふ物質はどこから来るのだらう。多分それは星から来るのだらう、
と獄中の幸二はしばしば考へた。
「獣の戯れ」

この、特に、「星から来る」という所。「美しい星」は「獣の戯れ」のすぐ後に書かれた
ことに是非注目願いたい。
379吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 10:04:08
>>376
自分自身ですでに三島作品を読んでいたならば、そんなにスレのコピペに一喜一憂して、
わざわざ読んで回って、それだけに反応するわけないでしょ。
引用部分だけで読んだ気になって、的外れなこと言っても、あんたが何一つ自分自身で読んでないのが露呈してるだけだよ。
380吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 10:35:48
>>378
三島作品は海以外にも空とか星への傾倒があるね。
三島はUFOを目撃してたようです。
381吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 10:37:48
スパナはただそこに落ちてゐたのではなく、この世界への突然の物象の顕現だつた。
打ち見たところ、伸びた芝生とコンクリートの自動車路との丁度堺のあたりに、半ば
芝草に埋もれて横たはつてゐたスパナは、いかにも自然な、そこにあるべきやうな姿をしてゐた。
だがこれは見事な欺瞞で、何か云いやうのない物質が仮りにスパナに化けてゐたのにちがいない。
本来決してここにあるべきではなかつた物質、この世の秩序の外にあつて時折を根底から
くつがへすために突然顕現する物質、純粋なうちにも純粋な物質、……さういふものがきつと
スパナに化けてゐたのだ。

三島由紀夫「獣の戯れ」より
382吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 10:43:26
われわれはふだん意志とは無形のものだと考へてゐる。軒先をかすめる燕、かがやく雲の奇異な形、
屋根の或る鋭い稜線、口紅、落ちたボタン、手袋の片つぽ、鉛筆、しなやかなカーテンの
いかつい吊手、……それらをふつうわれわれは意志とは呼ばない。しかしわれわれの
意志ではなくて、「何か」の意志と呼ぶべきものがあるとすれば、それが物象として
現はれてもふしぎはないのだ。その意志は平坦な日常の秩序をくつがへしながら、
もつと強力で、統一的で、ひしめく必然に充ちた「彼ら」の秩序へ、瞬時にしてわれわれを
組み入れようと狙つてをり、ふだんは見えない姿で注視してゐながら、もつとも大切な瞬時に、
突然、物象の姿で顕現するのだ。かういふ物質はどこから来るのだらう。多分それは
星から来るのだらう、と獄中の幸二はしばしば考へた。……

三島由紀夫「獣の戯れ」より
383吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 10:54:33
かうして優子が現はれた瞬間に、逸平は何ら激しい歓喜の表情、いやそれに似たものを
さへ示さなかつた。
幸二は思つた。僕が本当に見たかつたのはその歓喜ではなかつたか?それなしに、
どうしてこんな半歳にわたる自己放棄と屈辱のかずかずがありえたか?
幸二が正に見たかつたのは、人間のひねくれた真実が輝やきだす瞬間、贋物の宝石が
本物の光りを放つ瞬間、その歓喜、その不合理な夢の現実化、莫迦々々しさがそのまま
荘厳なものに移り変る変貌の瞬間だつた。
さういふものの期待において優子を愛し、優子の守つてゐた世界の現実を打ち壊さうと
願つたのだから、それが結果として逸平の幸福になつても構はない筈だつた。少なくとも
幸二は何ものかのために奉仕したのだ。

三島由紀夫「獣の戯れ」より
384吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 10:55:52
しかし実際に幸二が見たのは、人間の凡庸な照れかくしと御体裁の皮肉と、今までさんざん
見飽きたものにすぎなかつた。彼は計らずも自分が信じてゐた劇のぶざまな崩壊に立ち会つた。
『そんなら仕方がない。誰も変へることができないなら、僕がこの手で……』
支柱を失つた感情で、幸二はさう思つた。何をどう変へるとも知れなかつた。しかし
着実に自分が冷静を失つてゆくのを彼は感じた。

三島由紀夫「獣の戯れ」より
385吾輩は名無しである:2010/05/12(水) 15:58:48
飲尿スレってくだらねーな
こんな短文読むよか作品そのものを読んだ方が早いじゃねーか
作品の真価も分かるし、作者の三島もその方が喜ぶだろ
386吾輩は名無しである :2010/05/12(水) 23:45:44
(金閣寺発表のとき)
小林秀雄「君は自分の才能以外、何も要らないんだろ」
三島「ええ。何にも」
小林「よく、あの人は才能だけだ、といった言い方がある。それが君のように過剰だと・・・
自分の才能をとても愛してるんじゃないかな」


・・・これじゃ長く持たないよ
387吾輩は名無しである :2010/05/12(水) 23:54:35
むかし国文学者にアンケートとったら三島の資質は
@批評家
A劇作家
B小説家
の順番だったな
3番てのひどくね?

たしかに評論だけは引用に値するかもな
388吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 00:10:25
>>386
引用するときは正確にしてくれるかな。会話の流れを無視した編集や省略してニュアンスを変えて捏造しないでくださいよ。
389吾輩は名無しである :2010/05/13(木) 00:19:12
そんな義理もクソもねえw
390吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 00:20:40
>>387
そんなアンケートいつどこでやったの?参加した国文学者たちって誰と誰だよ。

それは、開高健との話のなかで三島本人が自己評価したものだと思うけどね。

ありもしないアンケートでっち上げてバカ丸出し。
391吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 00:23:28
>>389
小林が、「君の才能は魔的だ」と言ってたとこを何で省いてんだよ。
392吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 00:29:24
>>387
三島の小説は一流、戯曲、評論は超一流、ってフランス文学の評論家の人が、どっかで書いてたよ。
393(o^v^o)鈴木雄介 ◆m0yPyqc5MQ :2010/05/13(木) 07:01:28
秀雄は俺大好きだよ。秀雄のいう事は多かれ少なかれみんな正しいんだと思う。
394吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 14:32:39
悪は時として、静かな植物的な姿をしてゐるものだ。結晶した悪は、白い錠剤のやうに美しい。

三島由紀夫「天人五衰」より


人間の美しさ、肉体的にも精神的にも、およそ美に属するものは、無知と迷蒙からしか
生れないね。知つてゐてなほ美しいなどといふことは許されない。

三島由紀夫「天人五衰」より
395吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 14:33:23
意志とは、宿命の残り滓ではないだらうか。自由意志と決定論のあひだには、印度の
カーストのやうな、生れついた貴賤の別があるのではないだらうか。
もちろん賤しいのは意志のはうだ。

三島由紀夫「天人五衰」より


……詩もなく、至福もなしに!これがもつとも大切だ。
生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知つてゐる。

三島由紀夫「天人五衰」より
396吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 14:36:40
何かを拒絶することは又、その拒絶のはうへ向つて自分がいくらか譲歩することでもある。
譲歩が自尊心にほんのりとした淋しさを齎(もた)らすのは当然だらう。

三島由紀夫「天人五衰」より


この世に一つ幸福があれば必ずそれに対応する不幸が一つある筈だ

三島由紀夫「天人五衰」より
397吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 14:40:16
偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦、独白に他ならぬ。

三島由紀夫「招かれざる客」より


いかに孤独が深くとも、表現の力は自分の作品ひいては自分の存在が何ものかに叶つてゐると
信ずることから生れて来る。自由そのものの使命感である。
では僕の使命は何か。僕を強ひて死にまで引摺つてゆくものがそれだとしか僕には言へない。
そのものに対して僕がつねに無力でありただそれを待つことが出来るだけだとすれば、
その待つこと、その心設(こころまう)け自体が僕の使命だと言ふ外はあるまい。
僕の使命は用意することである。

三島由紀夫「招かれざる客」より
398吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:05:25
世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。

三島由紀夫「鏡子の家」より


狂人がある程度自分を狂人だと知つてゐるやうに、嫌はれるタイプの男は、ある程度、
自分が嫌はれることを知つてゐるのだが、狂人がさういふ自己認識にすこしも煩はされないやうに、
嫌はれてゐるといふ認識にすこしも煩はされないことが、嫌はれ型の真価の特質なのである。

三島由紀夫「鏡子の家」より
399吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:06:42
真に抒情的なものは、詩人の面立(おもだち)と闘牛師の肉体との、稀な結合からだけしか
生れないだらう。

三島由紀夫「鏡子の家」より


芸術的才能といふものの裡にひそむ一種の抜きがたい暗さを嗅ぎ当てる点では、
世俗的な人たちの鼻もなかなか莫迦にしたものではない。
才能とは宿命の一種であり、宿命といふものは多かれ少なかれ、市民生活の敵なのである。

三島由紀夫「鏡子の家」より
400吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:11:32
女の裸体は猥褻なだけさ。美しいのは男の肉体に決まつてゐるさ。

三島由紀夫「鏡子の家」より


神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のはうがずつと猥褻だ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
401吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:12:04
人は信じた思想のとほりの顔になる。

三島由紀夫「鏡子の家」より


どこの社会にも、誰が見ても不適任者と思はれる人が、そのくせ恰(あた)かも運命的に
そこに据つてゐるのを見るものだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
402吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:15:06
権力や金に倦き果てた老人のたしなむ芸術には、あらゆる玄人の芸術にとつて必須な、
あの世界に対する権力意志が忌避されてゐる。

三島由紀夫「鏡子の家」より


芸術作品とは、目に見える美とはちがつて、目に見える美をおもてに示しながら、
実はそれ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。
作品の本質とは、超時間性に他ならないのだ。

三島由紀夫「鏡子の家」より
403吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:16:11
ひどい暮しをしながら、生きてゐるだけでも仕合せだと思ふなんて、奴隷の考へね。
一方では、人並な安楽な暮しをして、生きてゐるのが仕合せだと思つてゐるのは、動物の感じ方ね。

三島由紀夫「鏡子の家」より


美にとつては、世界喪失は苦悩ではなくて生誕の讃歌のやうなものなのだ。
そこでは美がやさしい手で規定の存在を押しのけて、その空席に腰を下ろすことに、
何のためらひもありはしないのだ。
いいかへれば天才の感受性とは、人目にいかほど感じ易くみえやうと、決して
悲劇に到達しない特質を荷つてゐるのである。

三島由紀夫「鏡子の家」より
404吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:19:26
他人の情念にしろ、希望にしろ、他人にあんまり興味を持ちすぎることは危険です。
それはこちらが考へもせず、想像もしないところへまで引きづつてゆき、つひには
『他人の希望』の代りに、『他人の運命』を背負ひ込む羽目になります。

三島由紀夫「鏡子の家」より


美しい者にならうといふ男の意志は、同じことをねがふ女の意志とはちがつて、
必ず『死の意志』なのだ。
これはいかにも青年にふさはしいことだが、ふだんは青年自身が恥ぢてゐてその秘密を明さない。

三島由紀夫「鏡子の家」より
405吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:20:16
健康な青年にとつて、おそらく一等緊急な必要は『死』の思想だ。

三島由紀夫「鏡子の家」より


人生といふ邪教、それは飛切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。
生きようとしないで生きること、現在といふ首なしの馬にまたがつて走ること

三島由紀夫「鏡子の家」より
406吾輩は名無しである:2010/05/13(木) 23:23:55
もし魂といふものがあるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深く
ひそむものではなくて、人間の外部へ延ばした触手の先端、人間の一等外側の
縁(へり)でなければならない。
その輪郭、その外縁をはみ出したら、もはや人間ではなくなるやうな、ぎりぎりの
縁でなければならない。

三島由紀夫「鏡子の家」より
407吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 11:28:58
日本人本来の精神構造の中においては、エロース(愛)とアガペー(神の愛)は
一直線につながつてゐる。もし女あるひは若衆に対する愛が、純一無垢なものになるときは、
それは主君に対する忠と何ら変はりない。

三島由紀夫「葉隠入門」より
408吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 11:29:18
男の世界は思ひやりの世界である。男の社会的な能力とは思ひやりの能力である。
武士道の世界は、一見荒々しい世界のやうに見えながら、現代よりももつと緻密な
人間同士の思ひやりのうへに、精密に運営されてゐた。

三島由紀夫「葉隠入門」より
409吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 11:29:38
忠告は無料である。われわれは人に百円の金を貸すのも惜しむかはりに、無料の忠告なら
湯水のごとくそそいで惜しまない。しかも忠告が社会生活の潤滑油となることはめつたになく、
人の面目をつぶし、人の気力を阻喪させ、恨みをかふことに終はるのが十中八、九である。

三島由紀夫「葉隠入門」より
410吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 11:29:55
思想は覚悟である。覚悟は長年にわたつて日々確かめられなければならない。

三島由紀夫「葉隠入門」より


長い準備があればこそ決断は早い。そして決断の行為そのものは自分で選べるが、時期は
かならずしも選ぶことができない。それは向かうからふりかかり、おそつてくるのである。
そして生きるといふことは向かうから、あるひは運命から、自分が選ばれてある瞬間のために
準備することではあるまいか。

三島由紀夫「葉隠入門」より
411吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 11:30:19
「強み」とは何か。知恵に流されぬことである。分別に溺れないことである。

三島由紀夫「葉隠入門」より


エゴティズムはエゴイズムとは違ふ。自尊の心が内にあつて、もしみづから持すること高ければ、
人の言行などはもはや問題ではない。人の悪口をいふにも及ばず、またとりたてて
人をほめて歩くこともない。
そんな始末におへぬ人間の姿は、同時に「葉隠」の理想とする姿であつた。

三島由紀夫「葉隠入門」より
412吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 11:31:58
もし、われわれが生の尊厳をそれほど重んじるならば、どうして死の尊厳をも重んじない
わけにいくだらうか。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである。

三島由紀夫「葉隠入門」より
413吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 23:30:44
妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。
時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくものであるのに、夢はひとつの習慣になつて、
今日まで規則正しくつづいてゐる。

三島由紀夫「朝顔」より
414吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 23:52:39
われらの死後も朝な朝な東方から日が昇つて、われらの知悉してゐる世界を照らすといふ確信は、
幸福な確信である。しかしそれを確実だと信じる理由がわれわれにあるのか?

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より


認識の中にぬくぬくと坐つてゐる人たちは、いつも認識によつて世界を所有し、世界を
確信してゐる。しかし芸術家は見なければならぬ。認識する代りに、ただ、見なければならぬ。
一度見てしまつたが最後、存在の不確かさは彼を囲繞(いによう)するのだ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
415吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 23:53:32
僕は生れてからただの一度も退屈したことがないんだ。それだけが僕の猛烈な幸運なんだ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より


自分の名前は他人の所有物だ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
416吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 23:54:17
言葉によつて表現されたものは、もうすでに、厳密には僕のものぢやない。
僕はその瞬間に、他人とその思想を共有してゐるんだからね。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より


個性といふものは決して存在しないんだ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
417吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 23:56:37
肉体には類型があるだけだ。神はそれだけ肉体を大事にして、与へるべき自由を節約したんだ。
自由といふやつは精神にくれてやつた。こいつが精神の愛用する手ごろの玩具さ。
……肉体は一定の位置をいつも占めてゐる。世界の旅でいつも僕を愕(おどろ)かせたのは、
肉体が占めることを忘れないこの位置のふしぎさだつた。たとへば僕は夢にまで見た
希臘(ギリシャ)の廃墟に立つてゐた。そのとき僕の肉体が占めてゐたほどの確乎たる
僕の空間を僕の精神はかつて占めたことがなかつたんだ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
418吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 23:57:43
生命は指で触れるもんぢやない。生命は生命で触れるものだ。
丁度物質と物質が触れ合ふやうにね。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より


旅の思ひ出といふものは、情交の思ひ出とよく似てゐる。
事前の欲望を辿ることはもうできない代りに、その欲望は微妙に変質してまた目前にあるので、
思ひ出の行為があたかも遡りうるやうな錯覚を与へる。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
419吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 23:58:42
どうしても理解できないといふことが人間同士をつなぐ唯一の橋だ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より


本当の若者といふものは、かれら自身こそ春なのだから、季節の春なぞには目もくれないで
ゐるべきなのだ。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
420吾輩は名無しである:2010/05/17(月) 23:59:20
戦争時代の思ひ出つて全く妙だね。他人が一人もいなかつた。
他人らしい清潔な表情をしてゐるのは、路傍にころがつた焼死死体だけだつた。

三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
421吾輩は名無しである:2010/05/21(金) 23:57:24
女が生活に介入してくることによつて、人は煩瑣(はんさ)を愛するやうになる。
男女関係は或る意味では極めて事務的なたのしみだ。

三島由紀夫「慈善」より


男を事務的な目附で眺めることができるのは既婚の女の特権である。
公私混同には持つてこいの特権だ。

三島由紀夫「慈善」より
422吾輩は名無しである:2010/05/21(金) 23:58:45
幸福の話題は罪のやうに人を疲らせる。

三島由紀夫「慈善」より


悪徳の虚栄心が悪徳そのものの邪魔立てをする。
「魂の純潔」なるものを保たせようとするならば、少くとも青年には、美徳の虚栄心よりも
悪徳の虚栄心の方が有効なのである。

三島由紀夫「慈善」より
423吾輩は名無しである:2010/05/21(金) 23:59:30
曇つた空を見てゐると、人間の習慣とか因襲とか規則とかいふものはあそこから落ちて
来たのではないかと思はれるのである。曇つた日は曇つた他の日と寸分ちがはない。
何が似てゐると云つて、人間の世界にはこれほど似てゐるものはない。
人はこんな残酷な相似に耐へられたものではない。

三島由紀夫「慈善」より
424吾輩は名無しである:2010/05/22(土) 00:00:40
戦争が道徳を失はせたといふのは嘘だ。道徳はいつどこにでもころがつてゐる。
しかし運動をするものに運動神経が必要とされるやうに、道徳的な神経がなくては
道徳はつかまらない。戦争が失はせたのは道徳的神経だ。この神経なしには人は道徳的な
行為をすることができぬ。従つてまた真の意味の不徳に到達することもできぬ筈だつた。

三島由紀夫「慈善」より
425吾輩は名無しである:2010/05/22(土) 00:02:02
無秩序もまた、その人を魅する力において一個の法則である。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より


本当に男を尊敬できるのは、劣等感を持つた女だけだ。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
426吾輩は名無しである:2010/05/22(土) 00:02:57
女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。
それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より


この世には無害な道楽なんて存在しないと考えたはうが賢明だ。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
427吾輩は名無しである:2010/05/22(土) 00:04:18
地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。
いつもでは困るが、一寸した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より


歌うたひにはみんな白痴的な素質がある。
歌をうたふといふことは、何か内面的なものの凝固を妨げるのだらう。或る流露感だけに
涵(ひた)つて生きる。そんなら何も人間の形をしてゐる必要はないのだ。

三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
428吾輩は名無しである:2010/05/22(土) 00:05:35
小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似てゐる。
感染しないやうに、ピンセットで扱はねばならぬ。言葉といふピンセットで。……しかし
本当に細菌の秘密を知るには、いつかそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。
そして私は感染を、つまり幸福になることを、怖れた。

三島由紀夫「施餓鬼舟」より


青年の文学的な思ひ込みなどは下らんものだ。

三島由紀夫「施餓鬼舟」より
429吾輩は名無しである:2010/05/22(土) 00:07:27
悲しみといふものを喜劇によそほはうとするのは人間の特権だ。

三島由紀夫「彩絵硝子」より
430吾輩は名無しである:2010/05/22(土) 11:35:50
蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも
なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば
あけられた時の方がありのままの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき
迸しるだらう。

三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
431吾輩は名無しである:2010/05/22(土) 11:37:10
星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。
しづかに森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がただよひだすだらう。そのとき星ははじめて、
すべてのものへ露のやうにしとどに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた
絵図のあひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。
星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく
やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。

三島由紀夫「苧菟と瑪耶」より
432吾輩は名無しである:2010/05/26(水) 23:53:48
一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な……。要するに、一寸ばかり、といふことは
何てけがらはしいんだ。

三島由紀夫「急停車」より


体力の旺盛な青年は、戦争の中に自殺の機会を見出だし、知的な虚弱な青年は、抵抗し、
生き延びたいと感じた。まことに自然である。
平和な時代であつても、スポーツは青春の過剰なエネルギーの自殺の演技であるし、
知的な目ざめは、つかのまの解放へ急がうとする自分の若い肉体に対する抵抗なのだ。
それぞれの資質に応じ、抵抗が勝つか、自殺が勝つかである。

三島由紀夫「急停車」より
433吾輩は名無しである:2010/05/26(水) 23:54:22
人間の歴史は、青春の過剰なエネルギーの徹底的なあますところのない活用の方途としては、
まだ戦争以外のものを発明してはいない。

三島由紀夫「急停車」より


一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きてゐる。かう感じることの、
目くるめくやうな感じは、何て甘かつたらう!あれはまるで阿片だ。悪習だ。
一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐へがたくなつてしまふんだ。

三島由紀夫「急停車」より
434吾輩は名無しである:2010/05/27(木) 00:01:03
人生経験は多くの場合恋愛に一定の理論を与へるが、人は自分の立てた理論を他人に
強ひこそすれ、自分は又してもその理論に背いて躓(つまづ)くのを承知で行動する。

三島由紀夫「牝犬」より


生活とは凡庸な発見である。いつもすでに誰かが先にしてしまつた発見である。

三島由紀夫「牝犬」より
435吾輩は名無しである:2010/05/27(木) 00:01:28
理想的な「他人」はこの世にはないのだ。滑稽なことだが、屍体にならなければ、
人は「親密な他人」になれない。

三島由紀夫「牝犬」より


吝嗇といふものは一種の見張りであり、陰謀であり、結社であり、油断のならない正義の
熱情である。

三島由紀夫「牝犬」より


浪費癖にくらべると、吝嗇は実に無我で謙遜である。

三島由紀夫「牝犬」より
436吾輩は名無しである:2010/05/27(木) 00:01:58
愛とは目的をもたない神秘的な洞察力がわれわれを居たたまれなくさせる感情のやうにも思はれ、
一個の想像力のやうにも思はれ、本質的に一つの「解釈」にすぎないやうにも思はれる。

三島由紀夫「椅子」より
437吾輩は名無しである:2010/05/27(木) 00:03:09
罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を
人は恕さない。

三島由紀夫「果実」より
438吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:39:51
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の
思索を離れて行動の世界に入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼む
ミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは人間性の自然である。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
439吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:40:10
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩(平八郎)は太虚といふものこそ
万物創造の源であり、また善と悪とを良知によつて弁別し得る最後のものであり、
ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると主張した。
彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚は
そのまま太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、
壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、
その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に偏在する太虚に帰することが
できるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば
能動的ニヒリズムの根元と考へてよいだらう。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
440吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:40:28
仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の創造の
母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達して
また現世へ戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へには
この仏教の空観と陽明学の太虚をつなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。
ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、また陽明学的な行動とも
いふことができるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
441吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:41:02
陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。
ラショナリズムに立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
442吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:41:22
われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、
太虚の一つである。この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも
口や耳を通じてひそんでゐる。
われわれが持つてゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。
もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に帰すれば、天がすでにその心に
宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
443吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:44:00
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていく
ほかはない。形のあるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつて
ゆすぶられる。何故なら形があるからである。しかし、地震は太虚を動かすことはできない。
これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を語ることができるのである。
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる
行動も善悪を超脱して真の良知に達し、天の正義と一致するのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
444吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:44:18
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。
また、心の外にある虚は、すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。
この説は世界の実在はすなはちわれであるといふ点で、ウパニシャッドのアートマンと
はなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」
といふことをつねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと
思はれるのである。心がすでに太虚に帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。
だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。心が本当に死なないことを
知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
445吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:44:37
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、
ともすると日本には、平八郎とは反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」
といふ人が無数にふえていくことが想像される。肉体の延命は精神の延命と同一に
論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重のヒューマニズムは、
ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、
肉体の死ぬことばかり恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり
平和である。しかし、そこに肉体の生死をものともせず、ただ心の死んでいくことを
恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が底流することになるのである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
446吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:45:10
死を恐れるのは生まれてからのちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの
心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の性質であつて、肉体を離れるとき初めて
この死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ気持のうちに
死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に
帰ることである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
447吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:46:33
ひたすら聖人に及ばざることのみを考へてゐるところからは、決して行動のエネルギーは
湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と同一視することであり、
自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より


何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを
経過した行動ならば、その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。
陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、これから先も、西欧人にはまつたく
うかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは予言してもよい。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
448吾輩は名無しである:2010/06/01(火) 11:46:52
日本が貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの
一環に属することによつて西欧化に対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による
抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を
革正することによつてしか、最終的に成就されない道である。そのとき革新思想が
どのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその政治的有効性の方向に
引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれは
この陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の
対立状況における精神の闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。

三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
449吾輩は名無しである:2010/06/02(水) 10:08:36
悪意は善意ほど遠路を行くことはできない

三島由紀夫「潮騒」より


男は気力や。気力があればええのや。

三島由紀夫「潮騒」より
450吾輩は名無しである:2010/06/03(木) 00:34:44
正義を行へ、弱きを護れ。

三島由紀夫「につぽん製」より


自分が若いころ闊歩できなかつた街は、何だか一生よそよそしいものである。

三島由紀夫「につぽん製」より


とにかく人生は柔道のやうには行かないものである。
人生といふやつは、まるで人絹の柔道着を着てゐるやうで、ツルツルすべつて、
なかなか業(わざ)がきかないのであつた。

三島由紀夫「につぽん製」より
451吾輩は名無しである:2010/06/03(木) 00:35:09
期待してゐる人間の表情といふものは美しいものだ。そのとき人間はいちばん正直な表情を
してゐる。自分のすべてを未来に委ね、白紙に還つてゐる表情である。

三島由紀夫「恋の都」より


羞恥がなくて、汚濁もない少女の顔ほど、少年を戸惑はせるものはない。

三島由紀夫「恋の都」より


自分の尊敬する人の話をすることは、いはば初心(うぶ)なフランスの少年が女の子の前で
ナポレオンの話をするのと同様に、持つて廻つた敬虔な愛の告白でもあるのだ。

三島由紀夫「恋の都」より
452吾輩は名無しである:2010/06/03(木) 00:35:30
本当のヤクザといふものは、チンピラとちがつて、チャチな凄味を利かせたりしないものである。
映画に出てくる親分は大抵、へんな髭を生やして、妙に鋭い目つきをして、キザな仕立の
背広を着て、ニヤけたバカ丁寧な物の言ひ方をして、それでヤクザをカモフラージュした
つもりでゐるが、本当のヤクザのカモフラージュはもつとずつと巧い。
旧左翼の人に、却つて、如才のない人が多いのと同じことである。

三島由紀夫「恋の都」より


自分の最初の判断、最初のねがひごと、そいつがいちばん正しいつてね。
なまじ大人になつていろいろひねくりまはして考へると、却つて判断をあやまるもんだ。
婿えらびをする能力といふものは、もしかしたら、三十五歳の女より、十六歳の少女のはうが、
ずつと豊富にもつてゐるのかもしれないんだぜ。

三島由紀夫「恋の都」より


後悔ほどやりきれないものはこの世の中にないだらう。

三島由紀夫「恋の都」より
453吾輩は名無しである:2010/06/03(木) 00:38:43
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。
ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから正義なのである。

三島由紀夫「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より
454吾輩は名無しである:2010/06/04(金) 23:54:49
この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐつてゐる。かつて無数の若者の流した血が
海の潮の核心をなしてゐる。それを見たことがあるか。月夜の海上に、われらはありありと見る。
徒に流された血がそのとき黒潮を血の色に変へ、赤い潮は唸り、喚(おら)び、
猛き獣のごとくこの小さい島国のまはりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。

三島由紀夫「英霊の声」より


われらには、死んですべてがわかつた。死んで今や、われらの言葉を禁(とど)める力は
何一つない。
われらはすべてを言ふ資格がある。何故ならわれらは、まごころの血を流したからだ。

三島由紀夫「英霊の声」より
455吾輩は名無しである:2010/06/04(金) 23:55:20
われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、
さういふことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。
しかしわれら自身が神秘であり、われら自身が生ける神であるならば、陛下こそ
神であらねばならぬ。神の階梯のいと高いところに、神としての陛下が輝いてゐて
下さらなくてはならぬ。そこにわれらの不滅の根源があり、われらの死の栄光の根源があり、
われらと歴史とをつなぐ唯一条の糸があるからだ。

三島由紀夫「英霊の声」より
456吾輩は名無しである:2010/06/04(金) 23:55:54
そして陛下は決して、人の情と涙によつて、われらの死を救はうとなさつたり、
われらの死を妨げようとなさつてはならぬ。神のみが、このやうな非合理な死、青春の
このやうな壮麗な屠殺によつて、われらの生粋の悲劇を成就させてくれるであらうからだ。
さうでなければ、われらの死は、愚かな犠牲にすぎなくなるだらう。われらは戦士ではなく、
闘技場の剣士に成り下るだらう。神の死ではなくて、奴隷の死を死ぬだらう。……

三島由紀夫「英霊の声」より
457吾輩は名無しである:2010/06/04(金) 23:56:27
陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、
そのお言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと
人間であらせられた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、
たつたお孤(ひと)りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。
清らかに、小さく光る人間であらせられた。
それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。
だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。
何と云はうか、人間としての義務において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、
陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。
それを二度とも陛下は逸したまふた。もつとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。

三島由紀夫「英霊の声」より
458吾輩は名無しである:2010/06/04(金) 23:56:54
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。
歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、
あのやうな虚しい悲劇は防がれ、このやうな虚しい幸福は防がれたであらう。
この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の
魂を失はせ玉ひ、二度目は国の魂を失はせ玉ふた。

三島由紀夫「英霊の声」より


もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ
陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか。

三島由紀夫「英霊の声」より
459吾輩は名無しである:2010/06/06(日) 22:51:54
一度は兄神たちの蹶起の時、一度はわれらの死のあと、国の敗れたあとの時である。
歴史に『もし』は愚かしい。しかし、もしこの二度のときに、陛下が決然と神にましましたら、
あのやうな虚しい悲劇は防がれ、このやうな虚しい幸福は防がれたであらう。
この二度のとき、この二度のとき、陛下は人間であらせられることにより、一度は軍の
魂を失はせ玉ひ、二度目は国の魂を失はせ玉ふた。

三島由紀夫「英霊の声」より


もしすぎし世が架空であり、今の世が現実であるならば、死したる者のため、何ゆゑ
陛下ただ御一人は、辛く苦しき架空を護らせ玉はざりしか。

三島由紀夫「英霊の声」より
460吾輩は名無しである:2010/06/11(金) 13:56:57

三島由紀夫なんざ所詮、野暮ったい田舎者でしか無いぞ



461吾輩は名無しである:2010/06/12(土) 00:16:23
天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。

三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より


人間のあらゆるいやらしさと崇高さとがちっとも矛盾しないのが人間だと思うんです。

三島由紀夫
河上徹太郎との対談「創作批評」より
462吾輩は名無しである:2010/06/12(土) 00:16:42
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと
別れるときの、あの辛さ、ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。
御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、
御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より


市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものは
それをどうしてもやらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
463吾輩は名無しである:2010/06/12(土) 00:17:00
色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思います。あまりあり過ぎると、
女蕩(たら)しになる。生活者になってしまうと思う。
生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気のあり方、
そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より


美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
464吾輩は名無しである:2010/06/12(土) 00:17:20
幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より


大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。
そのためには一億くらいの条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションに
ならないんだ。これはある意味で幸福だな。第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。

三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
465吾輩は名無しである:2010/06/12(土) 00:18:32
芸術家というものは、かなり追いつめられて来てから、始めて自分の「場」を発見するんだね。
そして芸術家の価値というものは成功したとか成功しないとかいう問題でなく、
自分の宿命を見究めたかどうかにあるんだと思うな。

三島由紀夫
戸板康二との「歌右衛門の美しさ」より
466吾輩は名無しである:2010/06/12(土) 01:25:30
林房雄こそが三島を甘やかした張本人だろう。
467吾輩は名無しである:2010/06/12(土) 21:39:46
豊饒の海のどれかの、
知らないということにエロティシズムの一端が〜
〜すなわち死にこそ。

が具体的に思い出せない。
誰かお願いします。
468吾輩は名無しである:2010/06/13(日) 00:23:32
>>467

知らないといふことが、そもそもエロティシズムの第一条件であるならば、
エロティシズムの極致は、永遠の不可知にしかない筈だ。すなはち「死」に。

三島由紀夫「暁の寺」より
469吾輩は名無しである:2010/06/13(日) 07:21:09
>>468
これだありがとう
470吾輩は名無しである:2010/06/13(日) 14:37:13
僕は「仮面の告白」以来、小説というのはやっぱり人生を解決する、あるいは人生を
料理するものだという考えが抜けないね。どんなに唯美的に見えても、その小説が何か
作家の行動であって、一種の世界解釈だという考えは抜けないね。
ほんとうに生きるということと同じなんだから、それは唯美的に見える作家のほうが
かえって強く持っている考えであるかもしれない。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より
471吾輩は名無しである:2010/06/13(日) 14:37:31
日本人というのは方法論がないかわりに、無意識の形式意欲がある。無意識の形式意欲に
対する日本人独特の感覚的な厳しい意欲がある。そしてある新しいものが入ってくると、
日本人は無意識にそれを形式的にキャッチしようと思う。

三島由紀夫
石原慎太郎との対談「七年目の対話」より
472吾輩は名無しである:2010/06/13(日) 14:37:51
ベケットでね、「ゴドーを待ちながら」ね、僕はゴドーが来ないというのはけしからんと思う。
それは二十世紀文学の悪い一面だよ。ゴドーが来ない。これはいやしくも芝居でゴドーが
来ないというのはなにごとだと、僕は怒るのだ。

三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より
473吾輩は名無しである:2010/06/13(日) 14:38:11
僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。
どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。
無意識に、しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかをつかむ。
そうして僕は死んじゃう。次にあらわれてくるやつは、まだなんにもわからないわけだ。
それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、
お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで模索して、
最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、
結晶体の上の一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。

三島由紀夫
安部公房との対談「二十世紀の文学」より
474吾輩は名無しである:2010/06/13(日) 14:40:33
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を
仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、
汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、
相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。なぜ日本刀だけで、
負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだった
からだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり計算して、
こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの
考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。
生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵で
みるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの
思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるかという分かれ目に
ぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。

三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
475吾輩は名無しである:2010/06/13(日) 14:40:58
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。
腕力があり、剣があって、初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、
ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に立たないと思う。やっぱりそのときには剣が
ものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、言葉で考えてる
人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。

三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
476吾輩は名無しである:2010/06/19(土) 00:27:35
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。
共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの
昔から、殺されたのは一人で、六十万人が一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。
これは虐殺であります。(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配が
なかったら、いくらでも嘘がつける。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より


大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、
相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。
それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。
しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に
堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
477吾輩は名無しである:2010/06/19(土) 00:28:02
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が
入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が
一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、
大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、
たちまち殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが
言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、
そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
478吾輩は名無しである:2010/06/19(土) 00:28:24
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より


私は、暗殺者が必ずあとですぐに自殺するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の
道だと思っている。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
479吾輩は名無しである:2010/06/19(土) 00:29:12
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理が
あるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を
許すか、許さないか、ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは
不幸なことではあるけれども、その政治原理の中にそういうものが自ずから含まれている。
もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の意味がありますか。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より


民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、
いつまでたっても無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものを
やろうというのが民主主義なんだ。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
480吾輩は名無しである:2010/06/19(土) 01:24:27
なんかさあ〜(失笑
図書館で読める文言ばっか、つまんね
481吾輩は名無しである:2010/06/19(土) 11:01:00
どんな政治体制でも歴史的な基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では
日本の天皇制もまったく同じだと思います。ですから民主主義が悪いとか、天皇制が
いいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に立った政治体制が
できていくということは当然だと思います。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
482吾輩は名無しである:2010/06/19(土) 11:01:26
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。
…資本主義国家も国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の
国家の時代という点では、国家の管理機能はむしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。
これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、そんなことは先のことである。
我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんというように
私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、
それに対する防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
483吾輩は名無しである:2010/06/24(木) 11:57:54
未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、連綿たる
過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、
その一番ラストに自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は
日本というものの一番の精髄をになってここにいま立って、そこで自分は終るのだ。
そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な誇りは
持てないと思います。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
484吾輩は名無しである:2010/06/24(木) 11:58:19
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より


言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。
…もし美しき社会主義を夢見れば醜き社会主義にやられてしまうんだ。

三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
485吾輩は名無しである:2010/06/24(木) 12:03:03
僕は、単細胞のせいかもしれないけれど、革命というものはイデオロギーの問題でも
なんでもない、ただ爆弾持って駈け出すことだと思っているんです。維新というのも、
ただ日本刀持って駈け出すことだと思っている。駈けるのには、百メートルを十六秒以下で
なければ駈けるとは言えない。そのためには、ふとっていちゃ絶対だめですよ。
アメリカとベトコンの戦争は、やせたやつがふとったやつを悩ませたというだけの話ですよ。
ベトコンはやせているから駈けられる。アメリカ人はあの体していちゃ崖やなんか駈け昇れない。
どうして日本のインテリというのは、ふとるようになっちゃったんでしょう。これは僕は
重大問題だと思っているんですよ。つまり肉体と精神との関係において。

三島由紀夫
石川淳との対談「破裂のために集中する」より
486吾輩は名無しである:2010/06/24(木) 12:18:11
若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸ふ息は、
自然をつくりなす目にみえぬものの一部が、若者の体の深みにまで滲み入るやうに思はれ、
彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮(うしほ)の流れが、彼の体内の若々しい血潮の流れと
調べを合はせてゐるやうに思はれた。

三島由紀夫「潮騒」より
487吾輩は名無しである:2010/06/24(木) 23:49:41
赤ん坊の顔は無個性だけれど、もし赤ん坊の顔のままを大人まで持ちつづけたら、
すばらしい個性になるだらう。しかし誰もそんなことはできず、大人は大人なりに、
又々十把一からげの顔になることかくの如し。

三島由紀夫「赤ちゃん時代――私のアルバム」より
488吾輩は名無しである:2010/06/24(木) 23:53:19
不安こそ、われわれが若さからぬすみうるこよない宝だ。

三島由紀夫「暁の寺」より
489吾輩は名無しである:2010/06/27(日) 11:53:26
私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、
生活のモラルではサムラヒである。

三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より


何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。

三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より
490吾輩は名無しである:2010/06/27(日) 11:53:49
孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。
われわれは水晶の数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。
しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には中庸などといふものはありえない。
バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。

三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より
491吾輩は名無しである:2010/06/27(日) 18:36:17
しかし、「文壇の若大将」なんて誰が名付けたんだろうねw
加山雄三の全盛期だったにしても、もうちょっと言い様が
なかったもんかねw
492吾輩は名無しである:2010/06/27(日) 21:16:55
三島は何かを勘違いしていた。そのなんだったのか正確なことは
解らない。きっと時代がそうさせたのだ。
493吾輩は名無しである:2010/07/06(火) 12:13:44
小説家における文体とは、世界解釈の意志であり、鍵なのである。


強大な知力は世界を再構成するが、感受性は強大になればなるほど、世界の混沌を
自分の裡に受容しなければならなくなる。



戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。
「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の
笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた。

三島由紀夫「永遠の旅人――川端康成氏の人と作品」より
494吾輩は名無しである:2010/07/06(火) 12:17:45
三島は川端の足元にも及ばない。
495吾輩は名無しである:2010/07/06(火) 12:18:10
知的なものと感性的なもの、ニイチェの言つてゐるアポロン的なものとディオニソス的なものの
どちらを欠いても理想的な芸術ではない。

三島由紀夫「わが魅せられたるもの」より


金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。
私たちは原稿の代償として金を受取るとき、いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく
感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく撫でられた狂犬のやうにして。

三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
496吾輩は名無しである:2010/07/06(火) 12:18:58
政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これを
カムフラージュするために、道徳的偽装がとられ、あはせてエロティシズムや風俗一般に
対する規制が行はれるのが通例である。



エレキは有害で、青少年に対して危険であり、ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか
人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を受けた考へであつて、
ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、
現代の政府の文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、
ほとんど理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。
してみると日本には、真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府も
そんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。

三島由紀夫「危険な芸術家」より
497吾輩は名無しである:2010/07/06(火) 12:19:53
現代はいかなる時代かといふのに、優雅は影も形もない。それから、血みどろな人間の
実相は、時たま起る酸鼻な事件を除いては、一般の目から隠されてゐる。病気や死は、
病院や葬儀屋の手で、手際よく片附けられる。宗教にいたつては、息もたえだえである。
……芸術のドラマは、三者の完全な欠如によつて、煙のやうに消えてしまふ。
…現代の問題は、芸術の成立の困難にはなくて、そのふしぎな容易さにあることは、
周知のとほりである。それは軽つぽい抒情やエロティシズムが優雅にとつて代はり、
人間の死と腐敗の実相は、赤い血のりをふんだんに使つたインチキの残酷さでごまかされ、
さらに宗教の代りに似非論理の未来信仰があり、といふ具合に、三者の代理の贋物が、
対立し激突するどころか、仲好く手をつなぐにいたる状況である。そこでは、この贋物の
三者のうち、少くとも二者の野合によつて、いとも容易に、表現らしきもの、芸術らしきもの、
文学らしきものが生み出される。かくてわれわれは、かくも多くのまがひものの氾濫に、
悩まされることになつたのである。

三島由紀夫「変質した優雅」より
498吾輩は名無しである:2010/07/06(火) 12:21:12
能は、いつも劇の終つたところからはじまる。

三島由紀夫「変質した優雅」より


性と解放と牢獄との三つのパラドックスを総合するには芸術しかない。

三島由紀夫「恐ろしいほど明晰な伝記――澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』」より
499吾輩は名無しである:2010/07/06(火) 12:22:03
青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。

三島由紀夫「堀江青年について」より


すべてのスポーツには、少量のアルコールのやうに、少量のセンチメンタリズムが含まれてゐる。

三島由紀夫「『別れもたのし』の祭典――閉会式」より
500吾輩は名無しである:2010/07/08(木) 14:41:39
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。



逆説はその場のがれこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を
追ひつめ、どどのつまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。
逆説家がしばしばいちばん誠実な人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に
触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、逆説とは、もしかすると
神への捷径(しようけい)だ。

*「捷径」の意味…近道

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
501吾輩は名無しである:2010/07/08(木) 14:41:58
天才(ジエニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができやう。



才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、
われわれはワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。



ワイルドの哄笑は、言葉の本来の意味での悪魔的な笑ひである。悪魔の発明は神の衛生学だ。
ワイルドの悪魔主義は衛生的なものだ。この笑ひは衛生的なものだ。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
502吾輩は名無しである:2010/07/08(木) 14:42:21
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が
歯医者へゆく御褒美に菓子をせびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。



社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに
飽き、つひには恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。
彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、
おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、醜聞といふ「死」の
一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。


三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
503吾輩は名無しである:2010/07/08(木) 14:42:40
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、
しかし運命のみが独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、
磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を
与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。



虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。
ワイルドの虚栄心は、受難劇の民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の
虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それがその男にとつての、ももかく
最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の小説に
選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
504吾輩は名無しである:2010/07/08(木) 14:42:59
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。
それは人間の言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。



ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家は
バネをもつてゐる人形のやうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。
彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に世を去つた。彼は今も異邦人だ。
だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の生まじめは、
もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。

三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
505吾輩は名無しである:2010/07/09(金) 00:48:20
天才
506吾輩は名無しである:2010/07/10(土) 00:17:49
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、
おもふに恋愛と不良化の二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への
恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などがはひる。また、不良化とは、
稚心を去る暴力手段である。



神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は
拒否せぬ存在である。神は否定せぬ。

三島由紀夫「檀一雄『花筐』――覚書」より


無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。

三島由紀夫「恋する男」より
507名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 11:19:39
>>291
賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つてゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、
賭けの真価はあらはれない。

三島由紀夫「行動学入門」より


でしょうか?
508名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 20:34:23
「彼、ちっともいい男なんかじゃないじゃない!」
509吾輩は名無しである:2010/07/15(木) 17:39:22
われわれのひそかな願望は、叶へられると却つて裏切られたやうに感じる傾きがある。



少女の驕慢な心は、概ね不測の脆さと隣り合はせに住んでをり、むしろ脆さの鎧である。

三島由紀夫「遠乗会」より
510吾輩は名無しである:2010/07/15(木) 23:12:12
日本は無くなり、ただ無機質で空っぽな国だけが残る。
511吾輩は名無しである:2010/07/15(木) 23:55:38
嘘である! 嘘である! 嘘である!
512吾輩は名無しである:2010/07/16(金) 18:19:37
>>510
三島由紀夫 VS 竹中平蔵

恐らく、勝者は歴史が決めるであろう。少なくとも、私は三島を応援する・・・。
513吾輩は名無しである:2010/07/16(金) 18:46:54
正直、日本なんかどうでもいい。俺と俺の子孫が残ってれば。
514吾輩は名無しである:2010/07/16(金) 19:50:58
なるほど、なるほど

侍 VS ハゲタカ
日本の古き良き審美的な伝統を受け継いだ保守 VS 新自由主義

のような構図ですね。。。
515吾輩は名無しである:2010/07/16(金) 20:26:23
日本人は国にこだわりすぎ。要は独り立ちできないんだな。
516吾輩は名無しである:2010/07/16(金) 20:46:33
>>514
もう少し解りやすくいうと

武士(良識) VS アメリカに日本の魂を売り渡した男(虚像)
517吾輩は名無しである:2010/07/16(金) 20:51:28
>>514

もう少し解りやすくいうと、

武士(良識) VS アメリカに日本の魂を売り渡した男(虚像)
518吾輩は名無しである:2010/07/17(土) 18:02:46
歌島は人口千四百、周囲一里にみたない小島である。

三島由紀夫「潮騒」より
519吾輩は名無しである:2010/07/17(土) 18:15:51
この庭には何もない。記憶もなければ何もない。
庭は夏の日ざかりを浴びてしんとしている。

三島由紀夫「豊饒の海」より
520吾輩は名無しである:2010/07/17(土) 19:58:32
現代人というものは、もう、ドラマチックな死を出来なくなってしまった。
ただ、人間が自分の為だけに生きるというのは、卑しいものを感じるのは
当然だと思うのであります。
それで、人間の生命というのは不思議な物で、自分のためだけに生きて自
分のためにだけに死ぬというほど人間は強くないんです・・・。

三島由紀夫「演説」より
521吾輩は名無しである:2010/07/18(日) 19:54:35
「僕は乞食じゃありません」
と叫ぶこともできたろう。

三島由紀夫「天人五哀」より
522吾輩は名無しである:2010/07/19(月) 00:13:37
若さは礼儀正しく、しかも兇暴に撃ちかかつて来て、老年はこちらにゐて、微笑しながら、
じつと自信を以て身を衛る。青年の、暴力を伴はない礼儀正しさはいやらしい。それは
礼儀を伴はない暴力よりももつと悪い。



相手の完璧さは完璧さの仮装であり、完璧さに化けてゐるのだ。
この世に完璧なものなんぞあらう筈はない。


廉恥の心は持ちつづけてゐるべきだが、うじうじした羞恥心などはみな捨てる。
「……したい」などといふ心はみな捨てる。その代りに、「……すべきだ」といふことを
自分の基本原理にする。さうだ、本当にさうすべきだ。

三島由紀夫「剣」より
523吾輩は名無しである:2010/07/19(月) 00:14:54
剣は結局、手の内にはじまつて手の内に終るな。



人間が本当に学んで会得することといふのは、一生にたつた一つ、どんな小さいことでもいい。
たつた一つあればいいんだ。



幸福なんて男の持つべき考へぢやない。

三島由紀夫「剣」より
524この名無しがすごい!:2010/07/19(月) 01:11:24
三島氏ってどうしてあんなにも素敵で奥行きがあってしかしくどく思えない、文章を描くのだろう。そう彼は書くぢゃあない。本という被写体に描いている描写している印象だ。。
525この名無しがすごい!:2010/07/19(月) 01:48:17
三島氏が考える天皇像とわれわれが思ふ国家そのような観点からいっていけば少し何か言うんじゃあないでしょうか
526吾輩は名無しである:2010/07/19(月) 06:51:28
役者をして、見得を切ることを「許す」のは、けれども。
――そーれをだから、考えちゃうとなあ(苦笑 馬鹿馬鹿しくなる。
使うなと。この俺を。――うん、だから嫌いだっつってんの。
演技者志向の強い書き手たち。ひとに判ることなんて何もないのに。
もっと、精緻にと。馴れ合いによる自己満足なんぞより。いやらしいよ。
527吾輩は名無しである:2010/07/19(月) 07:11:41
…うん、やっぱりね、「その程度」でしかありえないんですよ。演技者。
救われたがり。いつだって結局は、「彼ら」の目に映る、自身のことをしか
見てはいない。
即したものとは違うのだから。全ては、所詮は、如何に装うかでしか。

ひとなる強度に支えられてはいない知性なぞ、――「その」刃を、本当には
己に向けては振るえぬ者の。こわくない。怯えてやる、理由がないな。
楽しんだり、憐れんだりはしてやれても。そんなもんだ。
528吾輩は名無しである:2010/07/19(月) 07:13:40
ひとに判ることなんてないのは、だって、これはもう仕方のないことであって。
むなしいだけ。
529吾輩は名無しである:2010/07/19(月) 10:21:24
そして男であるとは、不断に男であることの確証を要求されることであり、
今日はきのうよりもより男らしく、明日は今日よりもさらに男らしくなることであった。

男であるとは、不断に男の絶顛へ向かって攀じ登ることであり、
その頂には白雪のような死があった。

三島由紀夫「奔馬」より
530吾輩は名無しである:2010/07/19(月) 12:47:05
まかりまちがへばいつでも被告になりうる人間、それこそは唯一種類の現実性のある人間だつた。

三島由紀夫「奔馬」より


存在よりもさきに精髄が、現実よりもさきに夢幻が、現前よりもさきに予兆が、はつきりと、
より強い本質を匂はせて、漂つてゐるやうな状態、それこそは女だつた。

三島由紀夫「奔馬」より


同志は、言葉によつてではなく、深く、ひそやかに、目を見交はすことによつて得られるのに
ちがひない。

三島由紀夫「奔馬」より
531吾輩は名無しである:2010/07/22(木) 13:47:00
ふつうは下品だと思われている流し目が、彼女の場合はかすかに遅くて、
言葉の端が微笑へ流れ、微笑の端が流し目へ移るという風に、表情全体
の優雅な流動の裡に包まれているので、見ている人に喜びを与えた。

三島由紀夫「春の雪」より
532吾輩は名無しである:2010/07/22(木) 16:27:38
三島の文章って言葉におぼれてしまっているよね。
それが彼の文学なんだろうけど。
533吾輩は名無しである:2010/07/23(金) 00:09:42
人間の情熱は、一旦その法則に従つて動きだしたら、誰もそれを止めることはできない。

三島由紀夫「春の雪」より


夢とちがつて、現実は何といふ可塑性を欠いた素材であらう。

三島由紀夫「春の雪」より
534吾輩は名無しである:2010/07/23(金) 01:01:58
533は三島が朝、目覚めて自分のマラを目にして思ったことだな。
535吾輩は名無しである:2010/07/23(金) 01:12:03
俺が一番すきなのは、転任午睡の

「僕はいじわるなんじゃない。他人の自己満足を許しておかないのが僕の優しさなのだ」
536吾輩は名無しである:2010/07/23(金) 01:35:07
三島の良いのは衝動性。
537吾輩は名無しである:2010/07/23(金) 12:22:26
高位の貴婦人であらうと、女である以上、愛されるといふことを抜きにしたいかなる権力も徒である。



女には、世を捨てると云つたところで、自分のもつてゐるものを捨てることなど出来はしない。
男だけが、自分の現にもつてゐるものを捨てることができるのである。

三島由紀夫「志賀寺上人の恋」より


健康で油ぎつた皮膚の人間には、みんな蠅のやうなところがある。蠅は腐敗を好むほど健康なのだ。

三島由紀夫「水音」より
538吾輩は名無しである:2010/07/23(金) 12:24:51
常套句を口にする男は馬鹿に見えるだけだが、女の場合、それは年齢よりももつと美を損なふのだ。



われわれ男性は、男のピアニストがどんなに偉くなり、男の政治家がどんなに成功しやうと
放置つておくが、ただ同性だからといふ理由で、女の社会的進出をむやみと擁護したり
尻押ししたりする婦人たちがゐる。フランスの或る女流作家が、現代社会では、男性が、
男及び人間といふ二つの領域に采配をふるつてゐるのに、女性は、女といふ領域だけしか、
自分のものにしてゐないと云つてゐるのは正しい。



惚れない限り女には謎はないので、作為的な謎を使つて惚れさせようといふつもりなら、
原因と結果を取違へたものと言はなくてはならない。



外国にゐて日本人の男女が演ずる熱情には、何か郷愁とはちがつた場ちがひな、
いたましいものがある。

三島由紀夫「不満な女たち」より
539吾輩は名無しである:2010/07/23(金) 12:26:02
青年の苦悩は、隠されるときもつとも美しい。



精神的な崇高と、蛮勇を含んだ壮烈さといふこの二種のものの結合は、前者に傾けば
若々しさを失ひ、後者に傾けば気品を失ふむつかしい画材であり、現実の青年は、
目にもとまらぬ一瞬の行動のうちに、その理想的な結合を成就することがある。

三島由紀夫「青年像」より
540吾輩は名無しである:2010/07/23(金) 12:36:15
孤独が今日の青年の置かれた状況であつて、青年の役割はそこにしかない。それに誠実に
直面して、そこから何ものかを掘り出して来ること以外にはない。

三島由紀夫「空白の役割」より



人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は
選択後の問題にすぎません。

三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より


決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。

三島由紀夫「友情と考証」より
541吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:39:54
私は物と物とがすなほにキスするやうな世界に生きてゐたいの。お金が人と人、物と物、
あなたと私を分け隔ててゐる。退屈な世界だわ。



きれいな顔と体の人を見るたびに、私、急に淋しくなるの。十年たつたら、二十年たつたら、
この人はどうなるだらうつて。さういふ人たちを美しいままで置きたいと心(しん)から思ふの。
年をとらせるのは肉体じやなくつて、もしかしたら心かもしれないの。心のわづらひと
衰へが、内側から体に反映して、みにくい皺やしみを作つてゆくのかもしれないの。
だから心だけをそつくり抜き取つてしまへるものなら……。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
542吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:43:34
若くてきれいな人たちは、黙つてゐるはうが私は好き。どうせ口を出る言葉は平凡で、
折角の若さも美しさも台なしにするやうな言葉に決つてゐるから。あなたたちは着物を
着てゐるのだつて余計なの。着物は醜くなつた体を人目に隠すためのものだから。
恋のためにひらいた唇と同じほど、恋のためにひらいた一つ一つの毛穴と、ほのかな産毛は
美しい筈。さうぢやなくて? 恥かしさに紅く染つた顔が美しいなら、嬉しい恥かしさで
真赤になつた体のはうがもつときれいな筈。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
543吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:11
宝石には不安がつきものだ。不安が宝石を美しくする。



人間は眠る。宝石は眠らない。町がみんな寝静まつたあとでも、信託銀行の金庫の中で、
錠の下りた宝石箱の中で、宝石たちはぱつちりと目をひらいてをる。宝石は絶対に夢を
見ないのだ。ダイヤモンドのシンジケートが、値打ちをちやんと保証してくれてゐるから、
没落することもない。正確に自分の値打ち相当に生きてる者が、どうして夢なんか見る
必要があるだらう。夢の代りに不安がある。これはダイヤモンドの持つてる優雅な病気だ。
病気が重いほど値が上る。値が上るほど病気も重る。しかもダイヤは決して死ぬことが
できんのだ。……あーあ。宝石はみんな病気だ。お父さんは病気を売りつけるのだ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
544吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:36
危機といふものは退屈の中にしかありません。退屈の白い紙の中から、突然焙り出しの
文字が浮び上る。



どんな卑俗な犯罪にも、一種の夢想がつきまとつてゐる。



トリックはなるたけ大胆で子供らしくて莫迦げてゐたはうがいいんだわ。大人の小股を
すくふには子供の知恵が必要なんだ。犯罪の天才は、子供の天真爛漫なところをわがものに
してゐなくちやいけない。



私は子供の知恵と子供の残酷さで、どんな大人の裏をかくこともできるのよ。犯罪といふのは
すてきな玩具箱だわ。その中では自動車が逆様になり、人形たちが屍体のやうに目を閉じ、
積木の家はばらばらになり、獣物たちはひつそりと折を窺つてゐる。世間の秩序で
考へようとする人は、決して私の心に立入ることはできないの。……でも、……でも、
あの明智小五郎だけは……

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
545吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:44:55
あのときのお前は美しかつたよ。おそらくお前の人生のあとにもさきにも、お前が
あんなに美しく見える瞬間はないだらう。真白なスウェータアを着て、あふむき加減の顔が
街灯の光りを受けて、あたりには青葉の香りがむせるやう、お前は絵に描いたやうな
「悩める若者」だつた。つややかな髪も、澄んだまなざしも、内側からの死の影のおかげで、
水彩画みたいなはかなさを持つてゐた。その瞬間、私はこの青年を自分の人形にしようと
思つたんだわ。



お前は私の人形になる筈だつた。……でも、どうでせう。気がついてからのお前の暴れやう、
哀訴懇願、あの涙……お前の美しさは粉みぢんに崩れてしまつた。死ぬつもりでゐたお前は
美しかつたのに、生きたい一心のお前は醜くかつた。……お前の命を助けたのは情に
負けたんぢやないわ。命を助けてくれれば一生奴隷になると言つたお前の誓ひに呆れたからだわ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
546吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:45:30
今の時代はどんな大事件でも、われわれの隣りの部屋で起るやうな具合に起る。どんな
惨鼻な事件にしろ、一般に犯罪の背丈が低くなつたことはたしかだからね。犯罪の着てゐる
着物がわれわれの着物の寸法と同じになつた。黒蜥蜴にはこれが我慢ならないんだ。
女でさへブルー・ジーンズを穿く世の中に、彼女は犯罪だけはきらびやかな裳裾を
五米(メートル)も引きずつてゐるべきだと信じてゐる。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
547吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:47:16
明智:この部屋にひろがる黒い闇のやうに

黒蜥蜴:あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば、

明智:あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾灯のやうに

黒蜥蜴:あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか

明智:追つてゐるつもりで追はれてゐるのか

黒蜥蜴:そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣たちは、人間の匂ひをよく知つてゐる。

明智:人間たちも獣の匂ひを知つてゐる。

黒蜥蜴:人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火のあと、あの靴の足跡が私の中に

明智:いつまでも残るのはふしぎなことだ。

黒蜥蜴:法律が私の恋文になり

明智:牢屋が私の贈物になる。

黒蜥蜴、明智:そして最後に勝つのはこつちさ。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
548吾輩は名無しである:2010/07/24(土) 17:47:40
明智:あんたは女賊で、僕は探偵だ。

黒蜥蜴:でも心の世界では、あなたが泥棒で、私が探偵だつたわ。あなたはとつくに盗んでゐた。
私はあなたの心を探したわ。探して探して探しぬいたわ。でも今やつとつかまえてみれば、
冷たい石ころのやうなものだとわかつたの。

明智:僕にはわかつたよ。君の心は本物の宝石、本物のダイヤだ、と。

黒蜥蜴:あなたのずるい盗み聴きで、それがわかつたのね。でもそれを知られたら、
私はおしまひだわ。

明智:しかし僕も……

黒蜥蜴:言はないで。あなたの本物の心を見ないで死にたいから。……でもうれしいわ。

明智:何が……

黒蜥蜴:うれしいわ。あなたが生きてゐて。

三島由紀夫「黒蜥蜴」より
549吾輩は名無しである:2010/07/26(月) 14:05:03
>>519
それを最後に書いたんだよな
550吾輩は名無しである:2010/07/27(火) 19:38:47
最後に書いたのは「檄」と考えるべき
551吾輩は名無しである:2010/07/29(木) 12:40:58
安里は自分がいつ信仰を失つたか、思ひ出すことができない。ただ、今もありありと
思ひ出すのは、いくら祈つても分かれなかつた夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より
一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して
分かれようとしない夕焼の海に直面したときのあの不思議……。
安里は遠い稲村ヶ崎の海の一線を見る。信仰を失つた安里は、今はその海が二つに
割れることなどを信じない。しかし今も解せない神秘は、あのときの思ひも及ばぬ挫折、
たうとう分かれなかつた海の真紅の煌めきにひそんでゐる。
おそらく安里の一生にとつて、海がもし二つに分かれるならば、それはあの一瞬を措いては
なかつたのだ。さうした一瞬にあつてさへ、海が夕焼に燃えたまま黙々とひろがつてゐた
あの不思議……。

三島由紀夫「海と夕焼」より
552吾輩は名無しである:2010/07/29(木) 14:30:52
劇、劇的であるとはさ、要するに翻訳・翻案をする作業な訳よね、ひとに対して。
それが俺には、なーんか、馬鹿馬鹿しくってねえ…。
553吾輩は名無しである:2010/07/29(木) 14:33:32
その対象を欠いての演技なんて、出来ないよ。
欲求がそもそもないんだから。
554吾輩は名無しである:2010/07/29(木) 23:59:17
他者との距離、それから彼は遁れえない。距離がまづそこにある。そこから彼は始まるから。
距離とは世にも玄妙なものである。梅の香はあやない闇のなかにひろがる。薫こそは
距離なのである。しづかな昼を熟れてゆく果実は距離である。なぜなら熟れるとは距離だから。
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。まして熟し得る機能を信ずるくらい、
宇宙的な、生命の苦しみがあらうか。



一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである。これのみによつて殺人者は耐へる。
彼は未知へと飛ばぬ。彼の胸のところで、いつも何かが、その跳躍をさまたげる。
その跳躍を支へてゐる。やさしくまた無情に。恰かも花のさかりにも澄み切つた青さを
すてないあの蕚(うてな)のやうに。それは支へてゐる。花々が胡蝶のやうに飛び立たぬために。


三島由紀夫「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より
555吾輩は名無しである:2010/08/01(日) 12:28:47
彼は青年にならうといふころ、皮肉(シニシズム)の洋服を誂えた。誰しも少年時には
自分に似合ふだらうと考へる柄の洋服である。次郎はしばらくこの新調の服を身に纏つて
得意であつた。……やがてこの服が自分に少しも似合はないことに気付いた。ある朝
街角の鏡の中で、女が新らしい皺を目の下に見出して絶望するやうに。……いや、
この比喩は妥当でない。次郎は皮肉の洋服が彼の年齢の弱味を隠すあまりに、年齢に対して
彼が負ふてゐる筈の義務をも忽(ゆるが)せにさせることを覚つたのである。



滑稽であるまいとしても詮ないことだ。彼自身の滑稽さを恕(ゆる)すところから始めねばならぬ。
われわれ自身の崇高さを育てやうがためには、滑稽さをも同時に育てなければならぬ……。

三島由紀夫「死の島」より
556吾輩は名無しである:2010/08/01(日) 12:29:24
風景もまた音楽のやうなものである。一度その中へ足を踏み入れると、それはもはや
透明で複雑な奥行を持つた一個の純粋な体験に化するのである。



『目くばせをしたぞ』と次郎は自分の舟がその間を辷りゆきつつある二つの小島を仰ぎ
見ながら呟いた。『たしかに今、この二つの島は目くばせをした。島と島とが葉ごもりの
煌めきで以て目くばせをするのを僕は今たしかに見たぞ。……それもその筈だ。彼らには
僕たち人間の目が映すもののすがたが笑止と思はれるに相違ない。彼らこそこの水上の風景が
虚偽であることを知つてゐる。島と島との離隔は仮の姿にすぎず、島といふその名詞でさへ
架空のものにすぎないことを知つてゐる。水底の確乎たる起伏だけが真実のものだといふことを
知つてゐる。僕たちの目が現象の世界をしか見ることが出来ないのを、彼らは目まぜして
嗤(わら)つてゐるのだ』

三島由紀夫「死の島」より
557吾輩は名無しである:2010/08/01(日) 12:29:48
形式とは、僕にとつては残酷さの決心だつた。しかしあの島の形式の優美なことは、
およそ僕の決心と似ても似つかない。ああ、あの島は形式の美徳で僕を負かす。あれは
僕の内部へ優雅な行幸(みゆき)のやうに入つて来る。……



『あの雨上りの街路のやうな小島は、その街路を雨後に這い出した甲虫(かぶとむし)のやうな
つややかな乗用車が連なつて疾駆することもなく、永遠に人の住まない空つぽな街の
街路であるにとどまるだらう』……次郎は遠ざかる島影を見ながら、かう心に呟いた。
『きつとさうだらう。人間の関与を拒むやうな美が、愛の解熱剤として時には必要だ』
……それは葡萄に手が届かなかつた狐の尤もらしい弁疏(べんそ)であつた。

三島由紀夫「死の島」より
558吾輩は名無しである:2010/08/06(金) 00:18:53
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。

三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より


生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつたが、これは何も
浪漫派に限らず、芸術作品の形成がそもそも死と闘ひ死に抵抗する営為なのであるから、
死に対する媚態と死から受ける甘い誘惑は、芸術および芸術家の必要悪なのかもしれないのである。

三島由紀夫「日記」より


自分を理解しない人間を寄せつけないのは、芸術家として正しい態度である。芸術家は
政治家ぢやないのだから。

三島由紀夫「谷崎朝時代の終焉」より
559吾輩は名無しである:2010/08/06(金) 00:19:37
エロティックといふのは、ふつうの人間が日常のなかでは自然と思つてゐる行為が、
外に現はれて人の目にふれるときエロティックと感じる。

三島由紀夫「古典芸能の方法による政治状況と性」より


男子高校生は「娘」といふ言葉をきき、その字を見るだけで、胸に甘い疼きを感じる筈だが、
この言葉には、あるあたたかさと匂ひと、親しみやすさと、MUSUMEといふ音から来る
何ともいへない閉鎖的なエロティシズムと、むつちりした感じと、その他もろもろのものがある。
プチブル的臭気のまじつた「お嬢さん」などといふ言葉の比ではない。

三島由紀夫「美しい女性はどこにいる」より
560吾輩は名無しである:2010/08/09(月) 20:22:58
>>559
下の文はおちゃめだなw
561吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 00:08:22
老師を殺さうといふ考へは全く浮ばぬではなかつたが、忽ちその無効が知れた。何故なら
よし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、闇の地平から
現はれて来るのがわかつてゐたからである。
おしなべて生あるものは、金閣のやうに厳密な一回性を持つてゐなかつた。人間は自然の
もろもろの属性の一部を受けもち、かけがへのきく方法でそれを伝播し、繁殖するに
すぎなかつた。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の誤算である。
私はさう考へた。そのやうにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、一方では
人間の滅びやすい姿から、却つて永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、却つて
滅びの可能性が漂つてきた。人間のやうにモータルなものは根絶することができないのだ。
そして金閣のやうに不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人はそこに
気がつかぬのだらう。
三島由紀夫「金閣寺」より
562吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 12:48:26
三島由紀夫が異性愛に関して言及すると些か滑稽な色合いを帯びるナッ!



563吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 16:01:53
>>561は手の施しようがない悪文。なんだこの水増し作文はw
564吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 16:45:11
簡潔で寡黙ですらある抑制された名文だな。
理解する頭を作ってから感想は書こう。出来ない間は沈黙が正しい。
565吾輩は名無しである:2010/08/12(木) 22:10:07
金閣は野糞しませんっつうことかに
566吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 00:06:00
それは確乎たる菊、一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまつてゐた。
それはこのやうに存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望に
ふさはしいものになつてゐた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、かうして
対象としての形態に身をひそめて息づいてゐることは、何といふ神秘だらう! 形態は
徐々に稀薄になり、破られさうになり、おののき顫(ふる)へてゐる。それもその筈、
菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞつて作られたものであり、その美しさ自体が、
予感に向つて花ひらいたものなのだから。今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。
形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世の
あらゆる形態の鋳型なのだ。

三島由紀夫「金閣寺」より
567吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 00:06:40
蜂の目を離れて私の目に還つたとき、これを眺めてゐる私の目が、丁度金閣の目の位置に
あるのを思つた。それはかうである。私が蜂の目であることをやめて私の目に還つたやうに、
生が私に迫つてくる刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまふ。
そのとき正に、私と生との間に金閣が現はれるのだ、と。

三島由紀夫「金閣寺」より
568吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 16:42:33
>>564
結局、自分が本文を理解していないから単純否定しかできないのでは?
あなたこそ文章全般を理解できる頭と、知ったかぶりをしない羞恥心、権威に流されない知性を備えるまで
書き込みは控えるべき。
私が読んでもその文は水増しした単語表現の羅列と言わざるを得ない。


569吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 16:48:44
金閣寺って基本的には中学生レベルのプロットだよな。
それをレトリックを重ねて文学っぽくしてるだけでww
似非インテリホイホイwwwwww
570吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 17:05:29
>>568
三島由紀夫のような文章力もない者がいくら反発しても無駄な遠吠えにしか聞こえないわ。
571吾輩は名無しである:2010/08/13(金) 17:21:23
ひとたび叛心を抱いた者の胸を吹き抜ける風のものさびしさは、千三百年後の今日の
われわれの胸にも直ちに通ふのだ。この凄涼たる風がひとたび胸中に起つた以上、
人は最終的実行を以てしか、つひにこれを癒やす術を知らぬ。

三島由紀夫「日本文学小史 第四章 懐風藻」より


文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず
作者の夢が破れたところに出発してゐる。

三島由紀夫「秋冬随筆」より


人間がこんなに永い間花なしに耐へてゆけるには、その心の中に、よほど巨大な荘厳な
花の幻がなければならない。

三島由紀夫「服部智恵子バレエリサイタルに寄せて」より
572吾輩は名無しである:2010/08/15(日) 23:40:33
われらは最後の神風たらんと望んだ。神風とは誰が名付けたのか。それは人の世の仕組が
破局にをはり、望みはことごとく絶え、滅亡の兆はすでに軒の燕のやうに、わがもの顔に
人々のあひだをすりぬけて飛び交はし、頭上には、ただこの近づく滅尽争を見守るための
精麗な青空の目がひろがつてゐるとき、……突然、さうだ、考へられるかぎり非合理に、
人間の思考や精神、それら人間的なもの一切をさはやかに侮蔑して、吹き起つてくる
救済の風なのだ。わかるか。それこそは神風なのだ。


われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、
さういふことだ。人をしてわれらの中に、何ものかを祈念させ、何ものかを信じさせることだ。
その具現がわれらの死なのだ。

三島由紀夫「英霊の声」より
573吾輩は名無しである:2010/08/15(日) 23:41:09
陛下がただ人間(ひと)と仰せ出されしとき
神のために死したる霊は名を剥脱せられ
祭らるべき社(やしろ)もなく
今もなほうつろなる胸より血潮を流し
神界にありながら安らひはあらず。

三島由紀夫「英霊の声」より
574吾輩は名無しである:2010/08/15(日) 23:41:37
日本の敗れたるはよし
農地の改革せられたるはよし
社会主義的改革も行はるるがよし
わが祖国は敗れたれば
敗れたる負目を悉く肩に荷ふはよし
わが国民はよく負荷に耐へ
試練をくぐりてなほ力あり。
屈辱を嘗めしはよし、
抗すべからざる要求を潔く受け容れしはよし、
されど、ただ一つ、ただ一つ、
いかなる強制、いかなる弾圧、
いかなる死の脅迫ありとても、
陛下は人間(ひと)なりと仰せらるべからざりし。
世のそしり、人の侮りを受けつつ、
ただ陛下御一人(ごいちにん)、神として御身を保たせ玉ひ、
そを架空、そをいつはりとはゆめ宣はず、
(たとひみ心の裡深く、さなりと思すとも)
祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに
宮中賢所のなほ奥深く
皇祖皇宗のおんみたまの前にぬかづき、
神のおんために死したる者らの霊を祭りて
ただ斎き、ただ祈りてましまさば、
何ほどか尊かりしならん。
などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
 などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。
  などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし。

三島由紀夫「英霊の声」より
575吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 13:29:50
私は、諸君らの熱情だけは信じる、他の物は一切信じないが・・・
この事だけは解ってほしい。

三島 VS 全学連 より
576吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 15:04:40
私の血液は奔騰し、私の器官は憤怒の色をたたへた。この巨大な・張り裂けるばかりになつた私の一部は、
今までになく激しく私の行使を待って、私の無知をなじり、憤ろしく息づいてゐた。私の手はしらずしらず、誰
にも教へられぬ動きをはじめた。私の内部から暗い輝かしいものの足早に攻め昇ってくる気配が感じられた。
と思ふ間に、それはめくるめく酩酊を伴つて迸つた。
577吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 23:26:54
右翼とは、思想ではなくて、純粋に心情の問題である。


共産主義と攘夷論とは、あたかも両極端である。しかし見かけがちがふほど本質は
ちがはないといふ仮定が、あらゆる思想に対してゆるされるときに、もはや人は思想の
相対性の世界に住んでゐるのである。そのとき林氏には、さらに辛辣なイロニイが
ゆるされる。すなはち、氏のかつてのマルクス主義への熱情、その志、その「大義」への
挺身こそ、もともと、「青年」のなかの攘夷論と同じ、もつとも古くもつとも暗く、かつ
無意識的に革新的であるところの、本質的原初的な「日本人のこころ」であつたといふ
イロニイが。


日本の作家は、生れてから死ぬまで、何千回日本へ帰つたらよいのであらうか。日本列島は
弓のやうに日本人たちをたえずはじき飛ばし、鳥もちのやうにたえず引きつける。

三島由紀夫「林房雄論」より
578吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 23:28:12
白日夢が現実よりも永く生きのこるとはどういふことなのか。人は、時代を超えるのは
作家の苦悩だけだと思ひ込んでゐはしないだらうか。

三島由紀夫「解説(日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花)」より


よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。

三島由紀夫「解説(日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁)」より


「浅草花川戸」「鉄仙の蔓花」「連子窓」「花畳紙」「ボンボン」「継羅宇」「銀杏返し」
「絎台」「針坊主」「浜縮緬」などの伝統的な語彙の駆使によつて、われわれは一つの世界へ
引き入れられる。生活の細目のあらゆる事物に日本風の「名」がついてゐたこのやうな時代に
比べると、現代は完全に文化を失つた。文化とは、雑多な諸現象に統一的な美意識に
基づく「名」を与へることなのだ。

三島由紀夫「解説(現代の文学20 円地文子集)」より
579吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 23:29:14
もし天才といふ言葉を、芸術的完成のみを基準にして定義するなら、「決して自己の資質を
見誤らず、それを信じつづけることのできる人」と定義できるであらうが、実は、この定義には
循環論法が含まれてゐる。といふのはそれは、「天才とは自ら天才なりと信じ得る人である」
といふのと同じことになつてしまふからである。コクトオが面白いことを言つてゐる。
「ヴィクトル・ユーゴオは、自分をヴィクトル・ユーゴオと信じた狂人だつた。

三島由紀夫「谷崎潤一郎について」より


天才の奇蹟は、失敗作にもまぎれもない天才の刻印が押され、むしろそのはうに作家の
諸特質や、その後発展させられずに終つた重要な主題が発見されることが多いのである。

三島由紀夫「解説(新潮日本文学6 谷崎潤一郎集)」より


天才というものは源泉の感情だ。そこまで堀り当てた人が天才だ。

三島由紀夫「舟橋聖一との対話」より
580吾輩は名無しである:2010/08/21(土) 00:38:14
男性の色情が、いつも何らかの節片淫乱症(フェティシズム)にとらはれてゐるとすれば、
色情はつねに部分にかかはり、女体の「全体」の美を逸する。つまり、いかなる意味でも
「全体」を表現してゐるものは、色情を浄化して、その所有慾を放棄させ、公共的な美に
近づけるのである。


動物的であるとはまじめであることだ。笑ひを知らないことだ。一つのきはめて人工的な
環境に置かれて、女たちははじめて、自分たちの肉体が、ある不動のポーズを強ひられれば
強ひられるほど、生まじめな動物の美を開顕することを知らされる。それから突然、
彼女たちの肉体に、ある優雅が備はりはじめる。

三島由紀夫「篠山紀信論」より
581吾輩は名無しである:2010/08/21(土) 00:45:09
文学には最終的な責任といふものがないから、文学者は自殺の真のモラーリッシュな
契機を見出すことはできない。私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなはち、
武士の自刃しかみとめない。

三島由紀夫「日沼氏と死」より


コンプレックスとは、作家が首吊りに使ふ踏台なのである。もう首は縄に通してある。
踏台を蹴飛ばせば万事をはりだ。あるひは親切な人がそばにゐて、踏台を引張つてやれば
おしまひだ。……作家が書きつづけるのは、生きつづけるのは、曲りなりにもこの踏台に
足が乗つかつてゐるからである。その点で、踏台が正しく彼を生かしてゐるのだが、
これはもともと自殺用の補助道具であつて、何ら生産的道具ではなく、踏台があるおかげで
彼が生きてゐるといふことは、その用途から言つて、踏台の逆説的使用に他ならない。
踏台が果してゐるのはいかにも矛盾した役割であつて、彼が踏台をまだ蹴飛ばさない
といふことは、半ばは彼の自由意志にかかはることであるが、自殺の目的に照らせば、
明らかに彼の意志に反したことである。

三島由紀夫「武田泰淳氏――僧侶であること」より
582吾輩は名無しである:2010/08/22(日) 23:29:37
夢想は私の飛翔を、一度だつて妨げはしなかつた。



夢想への耽溺から夢想への勇気へ私は出た。……とまれ耽溺といふ過程を経なければ
獲得できない或る種の勇気があるものである。



最早私には動かすことのできない不思議な満足があつた。水泳は覚えずにかへつて来て
しまつたものの、人間が容易に人に伝へ得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めて
さすらひ、おそらくそれとひきかへでなら、命さへ惜しまぬであらう一つの真実を、
私は覚えて来たからである。

三島由紀夫「岬にての物語」より
583吾輩は名無しである:2010/08/22(日) 23:30:49
王子をゆりうごかした愛は、合(みあは)しせんと念(おも)ふ愛であつた。鹿が狩手の矢も
おそれずに牝鹿が姿をかくした谷間へと荊棘(いばら)をふみしだいて馳せ下りる愛であり、
つがひの鳩を死ぬまで森の小暗い塒(ねぐら)にむすびつける愛であつた。その愛の前に
死のおそれはなく、その愛の叶はぬときは手も下さずに死ぬことができた。王子もまた、
死が驟雨のやうにふりそそいでくるのを待つばかりである。どのみち徒らにわたしは死ぬ、
と王子は考へた。死をおそれぬものが何故罪をおそれるのか?



この世で愛を知りそめるとは、人の心の不幸を知りそめることでございませうか。
わが身の幸もわが身の不幸も忘れるほどに。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
584吾輩は名無しである:2010/08/22(日) 23:31:11
たとひ人の申しますやうに恋がうつろひやすいものでありませうとも、大和の群山(むらやま)に
のこる雪が、夏冬をたえずうつりかはりながら、仰ぐ人にはいつもかはらぬ雪とみえますやうに、
うつろひやすいものはうつろひやすいものへとうけつがれてゆくでございませう。



恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。



はげしい歓びに身も心も酔ふてをります時ほど、もし二人のうちの一人が死にその歓びが
空しくなつたらと思ふ怖れが高まりました。二人の恋の久遠を希ふ時ほど、地の底で
みひらかれる暗いあやしい眼を二人ながら見ました。あなたさまはわたくし共が愛を
信じないとてお誡(いまし)め遊ばしませうが、時にはわれから愛を信じまいと
力(つと)めたことさへございました。せい一杯信じまいと力めましても、やはり恋は
わたくし共の目の前に立つてをりました。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
585吾輩は名無しである:2010/08/22(日) 23:31:32
わたくし共の間にはいつも二人の仲人、恋と別れとが据つてをります。それは一人の仲人の
二つの顔かとも存ぜられます。別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに
耐へてゆけますのも恋ゆゑでございますから。



自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。



女性は悲しみを内に貯へ、時を得てはそれを悉く喜びの黄金や真珠に変へてしまふことも
できるといふ。しかし男子の悲しみはいつまで置いても悲しみである。



凡ては前に戻る。消え去つたと思はれるものも元在つた処へ還つて来る。

三島由紀夫「軽王子と衣通姫」より
586吾輩は名無しである:2010/08/29(日) 23:58:19
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。

三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より


理想主義者はきまつてはにかみやだ。

三島由紀夫「武田泰淳の近作」より


小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。

三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より


これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。

三島由紀夫「作家の日記」より


私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。

三島由紀夫「伏字」より


小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、
それは悪でも背徳でもなく、何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。

三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より
587吾輩は名無しである:2010/08/29(日) 23:58:35
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに
忘れない平静な日常が、散文の簡潔さであらう。

三島由紀夫「『元帥』について」より


伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、
もともとその個人は説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。

三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より


物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと
確実な生の原型になるのである。

三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より


趣味はある場合は必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。
私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。

三島由紀夫「趣味的の酒」より


衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。

三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より
588吾輩は名無しである:2010/08/29(日) 23:58:53
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも
一人だといふ前提は、宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。
ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提をもたないのである。誕生と死の間に
はさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。

三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より


君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは
野合といふものである。われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて
似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の類似性によつて似るのではない。
われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義及至は理想でもない。

三島由紀夫「新古典派」より
589吾輩は名無しである:2010/09/01(水) 01:05:18
パリ人はもともと、外国人をみんな田舎者だと思ふ中華思想をもつてゐる。


パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて
興ざめのする人種は、小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは
丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。
パリはつまり、芸術の台所なのである。おもては観光客目あてに美々しく装うてゐるが、
これほど台所的都会はないことに気づくだらう。パリのみみつちさは崇高な芸術の生れる
温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。


芸術とは何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに床の間のうしろに
便所があるやうな、さういふ構造を宿命的に持つてゐる。

三島由紀夫「パリにほれず」より
590吾輩は名無しである
詩とは何か? それはむつかしい問題ですが、最も純粋であつてもつとも受動的なもの、
思考と行為との窮極の堺、むしろ行為に近いもの、と云つてよい。


言葉といふものはふしぎなもので、言葉は能動的であり、濫用されればされるほど、
行為から遠ざかる、といふ矛盾した作用をもつてゐる。


詩は言葉をもつとも行為に近づけたものである。従つて、言葉の表現機能としては極度に
受動的にならざるをえない。かういふ詩の演劇的表出は、行為を極度に受動的に表現する
ことによつて、逆に言葉による詩の表現に近づけることができる。簡単に言つてしまへば、
詩は対話では表現できぬ。詩は孤独な行為によつてしか表現できぬ。しかも、その行為は、
詩における言葉と同様に、極度に節約されたものでなければならぬ。言葉が純粋行為に
近づくに従つていや増す受動性を、最高度に帯びてゐなければならぬ。お能の動きは、
見事にこの要請に叶つてをります。

三島由紀夫「『班女』拝見」より