1 :
吾輩は名無しである:
1910年4月15日奈良県生まれ
東京帝国大学美術科卒、文芸評論家
1981年10月4日没
2 :
吾輩は名無しである:2009/06/03(水) 20:32:23
五味康祐
日本浪漫派
おちんちん
!
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6 :
吾輩は名無しである:2009/06/03(水) 23:04:50
1910年て明治時代?
7 :
吾輩は名無しである:2009/06/03(水) 23:35:08
三島由紀夫「伊沢さんは保田與重郎さんが好きですか、嫌いですか?」
伊沢甲子麿「保田さんは私の尊敬する人物です。
…戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものがありますが、
私はそのような意見とは真向から戦っています。保田さんは立派な日本人であり文豪です。」
三島「私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。
今、伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました。」
当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。
…三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚でありながら、
いささかも驕りたかぶるところがない謙虚な人柄であった。
そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。
伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より
8 :
吾輩は名無しである:2009/06/03(水) 23:35:58
三島氏の要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。
特に歴史では明治維新の志士について。
中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。
…三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため座布団をのけて正座してしまうのだった。
…その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や
土方歳三の話も何度となく望まれて語った次第である。
特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った友人であったため、
深く敬愛の情を寄せていた様である。
伊沢甲子麿
「思い出の三島由紀夫」より
こういう明らかに凡庸な礼賛者はどうもな……
10 :
吾輩は名無しである:2009/06/03(水) 23:38:34
天賦のもの、その質量ともに、作家としてこゝ何十年来、無類の人だつた。
その才能を人工する努力と、その多彩さに於ても、想像を絶した人だつた。
しかも絢爛とした人工造形に、天恵の感情がつねに匂つてゐる、かういふ評語を、殆ど第一級点で当てることが出来るやうな文士だつた。
その上に、わが使命観を自ら律したその今生の風懐は、エヴエレスト山の頂を超えた。
それは不思議なことか、当然のことか、彼は、学ぶ以前に、知つてゐた。
わが平安盛期の文脈の情意の如きも、それを学んだと思へない先に、少年の彼は、驚くべき濃密度で知つてゐたことだつた。
彼を初めて知つたころから、東京帝国大学の学生だつた時代にかけての印象である。
私が彼を知つたのは、その中学校時代の終り方だつた。
保田輿重郎
「たゞ一人」より
11 :
吾輩は名無しである:2009/06/03(水) 23:39:19
日本の民と国との歴史の上で、天地にわたる正大なる気を考へる時、偉大なる生の本願を、文人の信実として表現した人は、
戦後世代の中で、日本の文学の歴史は、三島由紀夫たゞ一人を記録する。過渡期を超越したこの人である。
…三島氏は、日本人について、「繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐい稀な結合」と云つた。
そして「これだけ精妙繊細な文化伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ衰亡してしまふ」と云ふ。
この史観と実践倫理を、彼の一代の生き方の上に重ねた時、わが身心は、たゞおののく感じである。
保田與重郎
「たゞ一人」より
12 :
吾輩は名無しである:2009/06/04(木) 00:01:40
>>9 あなたみたいにシニカルぶつてるはうが凡庸でせう。
13 :
吾輩は名無しである:2009/06/04(木) 00:52:51
こ・・・輿重郎
身内の立場からすれば、卑怯で恥知らずで無教養な人でした。
そして文学者としても生活者としても倫理に欠けた人でした。
それは三木清や林達夫のような人と較べればすぐにわかるでしょう。
せいぜいで<近代の超克>に関する議論の資料程度の価値しか
もっていないと思います。
>>12 シニカルぶってないよ
人となりをつらつらかかれて後ろ向きの弁護するなら、
具体的に彼の著作について語ろうぜ
16 :
吾輩は名無しである:2009/06/04(木) 09:40:27
17 :
吾輩は名無しである:2009/06/04(木) 10:09:53
>>14 こんなとこで何の具体的な根拠もなく、人のことを卑怯で恥知らずで無教養と言うあなたが倫理に欠けてます。
18 :
吾輩は名無しである:2009/06/04(木) 15:42:06
三島由紀夫氏の最後の四巻本の小説は、小説の歴史あつてこの方、何人もしなかつたことを、
小説の歴史に立脚した上でなしあげようとしたのであらう。さういふ思ひが、十分に理解されるやうな大作品である。
三島氏も、人のせぬおそるべきことを考へ、ほとほとなしとげた。
そこには人間の歴史あつてこの方の小説の歴史を、大網一つにつつみ込むやうな振る舞ひが見える。
人を、心に於て、最後に解剖してゆくやうな努力は、私に怖ろしいものと思はれた。
三島氏ほどの天才が思つてゐた最後の一念は、
皮相の文学論や思想論に慢心してゐる世俗者よりも、さういふものとは無縁無垢の人に共感されるもののやうにも思はれる。
その共感を言葉でいひ、文字で書けば、うそになつて死んでしまふやうな生の感情である。
保田與重郎
「日本の文学史」より
と、いうか日本浪漫派っていうのは、日本が一等国になったという
前提に無根拠に居直った反省意識のない批評って印象しかないんだが・・・
それでもなおそれが時折問題化されるのは、当時の他と比べた時だけ
じゃないだろうか?
保田が三島を褒めるとき、なんか褒め方違うんじゃ
ない?ひいきの引き倒しだよ、と思うのはオレだけか?
戦後の日本文学は私の「日本の橋」そのもののやうに思はれた、
てな調子でさ。
20 :
吾輩は名無しである:2009/06/04(木) 22:43:44
>>19 いいんじゃないの、別にひいきでも。
何らかの感情やひいきがゼロの評価なんかないでせう。
力なく徒滅びるだけが取り柄の日本といふものが、
戦後実現しかけたといふのに、この批評家は無根拠に居直った
立場の根拠である、戦前の体制への郷愁を捨ててはいないと思はれるのは
私だけでせうか。三島への思ひいれはそれを正当化しやうとした
あさましい態度ととらへられませんでせうか?
22 :
吾輩は名無しである:2009/06/06(土) 16:36:59
>>21 別に戦前の「体制」への郷愁じゃないでしょ。
ちゃんと読んでますか?本人の著書を。
23 :
吾輩は名無しである:2009/06/06(土) 16:43:15
>>21 滅びの美を大切にする日本が、滅びることは保田輿重郎は望んでなかったから、別にあさましくもなんともないでしょう。
>>22 だから日本浪漫派の暗黙の前提は戦前の一等国認識にあると
思ってるんですよ。それも「体制」ではないのかな?
その足元を崩された戦後やせ我慢を続けたといいたいわけ。
素直に変節すればいいじゃない?世の中変わったのにさ。
25 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/06/06(土) 22:27:36
26 :
吾輩は名無しである:2009/06/06(土) 22:38:55
ロマン的アイロニーを奇特すべき。
27 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/06/06(土) 23:05:26
このスレで書き込みしている人、ロマン的アイロニーを理解してないんだろうか?
してたらとてもじゃないが、書き込みしないだろうと思う詰まらない疑問みたいなのが散見される。
マジでいいますけど、ちゃんと勉強して下さいね。これじゃレベル低すぎです。
28 :
吾輩は名無しである:2009/06/06(土) 23:47:38
そこはマジで奇特すべきだよね。
29 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 00:14:24
>>24 なんであなたは文芸や文化を政治体制の尺度でしか見れないの?共産党の方ですか?
30 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/06/07(日) 00:17:34
>>29 保田じゃなかったら
>>24の言うことが該当する連中もいるだろう。
君の共産党云々は、頭の悪いネット右翼レベルだ。
>>24に対する反駁はロマン的アイロニーに対する無知というのにつきるのに
君はそれを知らないらしいな。
勉強してよ、もっと。
31 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 00:19:32
ていうか、さっさと奇特しろよw
32 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 00:22:18
>>24 それから、世の中が変わったからって、なんで変節する必要があるの?
したくなかったんだからそれを、あんたがとやかくことないでしょう。
それも美学、日本浪漫の一つなんでしょうしね。
33 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 00:27:48
>>30 でも、戦後、保田輿重郎を軍団主義のレッテルを貼って断罪していたのは、共産党とGHQだとありましたよ。
34 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 00:33:18
すべての国民が悪魔に魂を売り、経済の高度成長と取引をしたやうに、現世相は一応思へるかもしれぬが、
国の正気の脈々としたものが、必ず潜流してゐるにちがひないと私は思ふ。
それなくしては日本はなくなり、人類も、理想も、文明も消滅するのである。
人類に意志はなくとも、生命の起源に於て、天地との約束はあつたと思ふ。これを神々といふ御名でよぶことを、私はためらはない。
保田與重郎
「たゞ一人」より
35 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 00:37:31
私が三島由紀夫氏を初めて知つたのは、彼が学習院中等部の上級生の時だつた。
…そのあと高等部の学生の頃にも、東京帝国大学の学生となつてからも、何回か訪ねてきた。
ある秋の日、南うけの畳廊下で話してゐると、彼の呼吸が目に顕つたので、不思議なことに思つた。
吐く息の見えるわけはなく、又寒さに白く氷つてゐるのでもない。
長い間不思議に思つてゐたが、やはりあの事件のあとで拙宅へきた雑誌社の人で、三島氏を知つてゐる者が、
彼は喘息だつたからではないかと云つた。
私はこの齢稚い天才児を、もつと不思議の観念で見てゐたので、この話をきいたあとも、一応そうかと思ひ、
やはり別の印象を残してゐる。
保田與重郎
「天の時雨」より
36 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 01:41:29
ボクちゃんも保田に釣られて慟哭したいな。
「保田は小林秀雄や福田恆存より、はるかに上」という意見をよく耳にする。それ
はよく分かるが、それでも戦争中の言説については、議論は残るだろう。事実、
文庫版選集に、昭和十年代なかば以降の戦争讃美の文章が収録されていないの
は、文庫の編集者がそれらの文章が、文学作品として死んでいるのを認識している
からだろう。北大の神谷忠孝が、保田や浅野晃の思想を「アジア主義」と定義づけ
ていたが、特に保田の思想を肯定している人間は、まずかつて日本がアジア諸国に
行った侵略行為や、戦後の経済復興がアジア諸国を踏み台にしてきたことについて、
見識を問われるだろうし、さらには今後の日本とアジア諸国の関係構築に、保田の
思想のどの部分が生きてくるのか、それを説明しなければならないだろうな。これ
は荒らしじゃなくて、まじめにカキコしてるのでマジレス希望します。
あれ、レスが伸びてるね・・・
>>24です。一定の反応がありうれしく
思います。皆さんのレスについて感じたことを書きますと、
まず変節しないのが保田の勝手という方、それは批評家の
態度ではない。保田が思想家だというならそれは強弁だと思います。
次にロマン的アイロニーについてですが、勿論承知して
おります。しかし戦前に用いたそれが戦後の日本において有効かどうか再考願いたい。
保田のそれよりヴァルザーのそれのほうが有効だったと思います。その差は
単純化すれば、保田からは日本固有の根拠を求めるレトリックが抜けなかったと
私は思ってますので、ロマン的アイロニーを言われる方はその点ご返答いただ
けたらと思います。
共産党、GHQについては私はわかりませんwそれは保田のみならず
当時の文学状況一般について考えるのなら興味深いとは思いますが。
39 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 11:28:59
>>38 思想家や文学者なら、なおさら政治状況の変化で自分の思想を変節する方がおかしいでしょ。
40 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 11:47:30
>>37 侵略行為的なことは、欧米諸国もやっていたことで、そんなことは日本独自の特殊な思考でもなんでもないでしょう。
踏み台にしたとか侵略だとか、そんなことはそれぞれの国家で言い分も違ってくる相対的なもので利害関係だからね。
それと、アジア主義が悪いというなら、いまの民主党や社民党や共産党もアジア主義でしょうし、昔、戦争一番煽っていたのはサヨク新聞社の朝日新聞でしょう。
41 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 12:05:08
>>37 それから、あなたはまるで日本以外のアジア諸国が全くの弱者で踏み台にされていただけの被害者で、
全く非のない善人だらけのアジア人みたいな感じの歴史認識のようだけど、そんな薄っぺらな認識でよく政治を語れるわ。
中国や朝鮮も十分、日本に頼って利用したり、他国を踏み台に麻薬で金銭を儲けてますからね。
そういう応酬しかできないところが劣化信者だな
43 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 14:37:24
>>39さん、ご意見ありがとうございます。もう一度私がレスしたものを
読み返してください。私は保田を思想家だとは思っておりません。
彼に思想があったなどとも思っておりません。批評家としてなら辛うじて
語ることができると思っております。
45 :
吾輩は名無しである:2009/06/07(日) 22:18:55
>>44 評論家なら尚更、たかが政治状況の変化で審美眼が変わるわけないから。
変わる方がおかしいでしょうね。
>>45 たかが、とは戦前戦後の変化について正気とは思えませんね。大丈夫ですか?
ついでに評論家とか審美眼とか用語が違うと思うんですが?
47 :
吾輩は名無しである:2009/06/08(月) 13:16:21
>>46 だから、それがどうだって言うの?
そんなものが変わったからといっても、相変わらず日本語はしゃべってるし、箸使ってご飯食べてるし、
みんな正月になれば初詣したり、日本の文化や伝統は残ってるでしょ。
政治について語りたい人は違っ板に行ってください。
>>47 それが保田の言いたかったことだとでも言うのですか?
しゃらくさいですね。というより杜撰な物言いとはあなたのレスの
ようなものを言います。フォークで食事をする人も戦前からいたと
いっても貴方の論法では箸を使うのと同じ意味しか生まれませんね。
49 :
吾輩は名無しである:2009/06/08(月) 22:28:40
>>48 明治時代から洋食文化が入ってたことぐらい誰でも知ってるよ。
それでも、箸はすたれてないし、ご飯と味噌汁と焼魚をフォークとナイフで食べるバカはいないでしょ。
それから、保田輿重郎は思想家じゃないんだから、あんたがとやかく政治に絡めて批判する筋合いないでせう。
>>49 ならなぜ貴方はことさら明治以降の文物を除いて、正月の風物だの
日本語だのいうのでしょうかあなたの使った「ないでせう」自体旧かな
遣いではないのですか?変化してるでしょう。保田でもないんですから
日本の箸、日本の箸と主張するのはやめたらどうですか?
批評家が政治(直接ではなくとも)と関わらないで機能するのか
私にはギモンですが、貴方は世情の変化、もちろんそれにつれて変化する
作品および読まれる環境の変化について批評家はどのように振舞うのが
よいと思っていらしゃるのかお知らせ願いたい
51 :
吾輩は名無しである:2009/06/09(火) 11:14:02
>>50 なんで評論家が世情や政治にふりまわされて、変節したり評論眼を変えなきゃいけないの?
それじゃあ、読者に対して不誠実だし、単なる日和見評論家でせう。
それから、自説をまげない変わらない人への、変わらないこと自体に対する批判や弾圧は、それこそ民主主義や言論の自由、信仰の自由に反するものだよ。
>>51 批判を封じ込めようとすること自体、場合によっては人は弾圧という。
あなたは読者といわれるが、では読者が戦前戦後の変化で変わらなかった
か?よく考えてみてはどうか?
では百歩譲ってあなたの民主主義や信仰の自由は絶滅寸前の動物の
遺伝子を動物園で保護するようなもんだと思うんですがどうですか?
世の中変わらない保田の言説なんぞに何の興味も持たないだろうからね。
あなたの特殊な要求が保田擁護になっているかよく考えるべきだね。
53 :
吾輩は名無しである:2009/06/09(火) 23:28:02
>>52 あんたの日本語は何を言ってるのか、さっぱり分かりませんね。
保田輿重郎の本の内容を批判することなんか、誰も止めてませんから弾圧になりませんよ。
あなたは保田輿重郎が自説を曲げなかったこと姿勢自体を許さないなら、それは言論の自由や信仰の自由の弾圧になり、あなたの支持する戦後民主主義と矛盾するでしょう。
頭大丈夫ですか?
それから、あなたは嫌いでも、上に挙げってる伊沢甲子麿とか保田輿重郎ファンは現に日本に存在してますからね。
いくら少数でも民衆ですよ。
なんで仮想敵を戦後民主主義みたいなショボいものにしかできないんだろw
それなら余裕であんたが正しくなるが、
重要なのはもっとまともな批判だろ
申しわけない
ショボいネウヨみたいなことは言うなよ
はい、反省会はそれまでww
では
>>52ですけど、まっとうなご批判をお待ちしております。
58 :
吾輩は名無しである:2009/06/10(水) 13:07:55
59 :
吾輩は名無しである:2009/06/10(水) 13:09:08
60 :
吾輩は名無しである:2009/06/10(水) 13:16:42
>>57 バカサヨクの暇つぶしは他所でやってください。
こういう馬鹿よりは橋川文三のような左翼の方が良く読みこんでるだろ
62 :
吾輩は名無しである:2009/06/10(水) 13:40:40
>>61 橋川文三が左翼?浅いね、あんたは。
あんたみたいなバカは保田輿重郎が戦前は軍国主義者に睨まれてた事実を知らないんでしょうね。
63 :
吾輩は名無しである:2009/06/10(水) 13:47:06
>>61 戦前はバカウヨ、戦後はおまえのようなバカサヨクに批判された保田輿重郎。
つまり保田批判してるのは、朝日新聞のような変節バカってことです。
64 :
吾輩は名無しである:2009/06/10(水) 13:53:48
だから輿重郎って誰だよ
>>62 「バカサヨ」という呼称を使う奴の認識に合わせたつもりですが
桶川みたいな劣化した奴が末裔ってのは残念なことだ
67 :
吾輩は名無しである:2009/06/10(水) 14:11:15
>>66 誰それ?末裔とかワケわからない関係ないことまで持ち出してあほくさ。ボケ老人ですか?
68 :
吾輩は名無しである:2009/06/10(水) 14:12:25
■開戦前の朝日新聞の一面トップ記事
「弱腰東條。勝てる戦をなぜやらぬ」
首相にして陸軍の大将が、戦争回避を目指す姿を、売国奴と罵ったのが、当時のマスコミです。
左翼朝日新聞がどれだけ戦争を煽っていたかは、
「読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事」(1994年)に出版された(朝日が抗議し著作権を理由に絶版)
その後に「朝日新聞の戦争責任―東スポもびっくり!の戦争記事を徹底検証」として復刊してます。
あー、まともな批判もできないわけね、まあバカほど人のことをバカと
言うのが世の習いというのは知っておりますともww
しかし浪漫派ってのは政治体制が安定している時期に無限の詭弁を弄して
権力を志向する癖に政治体制が変わると腰砕けもいいところ、全く力を
失ってしまうというのは本邦もご本家も共通するんだが、それはその
無限の弁証法もどき自体に問題があるのか、それともその弁証法自体が
権力を要請しないと成立しない体のものなのか?あるいはエンゲルス好き
が泣いて喜びそうな話でイヤなんですけど、たまたま本邦とご本家が
近代化が遅れていたからなのか?今ひとつわからんのですわ。
でゲルマン精神でも万世一系でもなんでもかまいませんから、頭のよろしい
方々、変節しなかった保田に則して教えてくれませんかw
まあ戦後も意地だけは張りつづけていた保田の擁護者のみなさんですから、
浪漫派が腰砕けだと死んでもお認めにはならないことは想像できますので、
ならなんで保田が一貫したふりをしていたのか、推測でもいいからお教え願えないか?
70 :
吾輩は名無しである:2009/06/13(土) 01:03:56
彼がそのわかい晩年で考へた、天皇は文化だといふ系譜の発想の実体は、日本の土着生活に於いて、
生活であり、道徳であり、従つて節度とか態度、あるひは美観、文芸などの、おしなべての根拠になつてゐる。
三島氏が最後に見てゐた道は、陽明学よりはるかにゆたかな自然の道である。
武士道や陽明学にくらべ、三島氏の道は、ものに至る自然なる随神(かんながら)の道だつた。
そのことを、私はふかく察知し、粛然として断言できるのが、無上の感動である。
保田與重郎
「天の時雨」より
71 :
吾輩は名無しである:2009/06/13(土) 01:05:24
三島氏らは、ただ一死を以て事に当たらんとしたのである。
そのことの何たるかを云々することは私の畏怖して自省究明し、その時の来り悟る日を待つのみである。
私は故人に対し謙虚でありたいからである。
三島氏の文学の帰結とか、美学の終局点などといふ巷説は、まことににがにがしい。
その振る舞ひは創作の場の延長ではなく、まだわかつてゐないいのちの生まれる混沌の場の現出であつた。
国中の人心が幾日もかなしみにみだれたことはこの混沌の証である。
保田與重郎
「天の時雨」より
72 :
吾輩は名無しである:2009/06/13(土) 01:06:53
私は日本民族の永遠を信じる。
今や三島氏は、彼がこの世の業に小説をかき、武道を学び、演劇をし、楯の会の分列行進を見ていた、
数々のこの世の日々よりも、多くの国民にとつてはるかに近いところにゐる。
今日以後も無数の国民の心に生きるやうになつたのだ。
さういふ人々とは、三島由紀夫といふ高名な文学を一つも知らない人々の無数をも交えてゐる。
保田與重郎
「天の時雨」より
73 :
吾輩は名無しである:2009/06/13(土) 01:09:28
総監室前バルコニーで太刀に見入つてゐる三島氏の姿は、この国を守りつたへてきたわれらの祖先と神々の、
最もかなしい、かつ美しい姿の現にあらはれたものだつた。
しかしこの図の印象は、この世の泪といふ泪がすべてかれつくしても、なほつきぬほどのかなしさである。
豊麗多彩の作家は最後に天皇陛下万歳の声をのこして、この世の人の目から消えたのである。
日本の文学史上の大作家の現身は滅んだ。
保田與重郎
「天の時雨」より
あの市ヶ谷での事件は、政治的なニヒリズムにもとづくパフォーマンスでも、非現実的なクーデタでもない。
三島は大塩平八郎と同様に、それが必ず失敗する事は識っていただろう。
にもかかわらずそれを試みることは、自滅ではなく、そのような大義を信じるものが日本に一人はいるということを示すための言挙げであり、
その言葉が、必ず、たとえば後世に対してであっても、聞く耳を持った者に伝わるという確信の表明だ。
故にそれはニヒリズムに似ており、ニヒリズムに発しているのだが、その大いなる否定なのである。
福田和也
「保田與重郎と昭和の御代」より
わが国の民間人の歴史では、拝む神が何さまといふことよりも、拝む人の心のあり方が、世の中を決定した。
しかもそのことを本人はときあかさないのである。
さうした三島氏自身が、自分の仕事のすべてが、自身の末梢神経の働きで出来たものだといふやうな、
空虚観と、同時的に混沌の茫大な世界を眺めたやうに思はれる。
客観的に同時代の文士を懸絶してゐる彼のすぐれた文章が、彼の末端神経の所作のやうに私には思はれるのである。
保田輿重郎
「天の時雨」より
保田輿重郎が最近若い連中にとてもよく読まれるようになった。
全学連でも何でも節を枉げない奴が好きなんだ。保田は節を枉げてない。
三島由紀夫
昭和44年11月
徳大寺公英との対から
三島由紀夫は、戦争末期の終末感と日本浪曼派系の文学趣味を背後に押し遣つて、戦後に登場したとき、
何をいちばん怖れたかといへば、日本浪曼派系の没落と入れ替わりに登場した、第一次戦後派文学と呼ばれる
転向左翼の文学者でもなければ、無頼派の文学者でもなく、戦争末期の終末感を抱いたまま生き埋めにされ、
なほ節を曲げずに「紙なければ、空にも書かん」とつぶやいてゐる保田與重郎という存在であつたらう。
桶谷秀昭
「三島由紀夫と保田與重郎」より
私は一度だけ三島由紀夫さんから葉書を頂戴したことがある。
葉書に十行足らずの簡潔な内容の便りで、私の住所がわからないため、私の著書の出版社経由で届いたのだった。
…葉書の消印は昭和三十六年五月一日。
「抒情の批判――日本的美意識の構造試論」は、当時新たに生まれたばかりだった出版社晶文社から刊行された、
私のごく早い時期の著書で、奥付によると、刊行は昭和三十六年四月二十日となっている。
つまり、三島さんはこの本が書店に並んだのとほとんど同時に、これを購入してくれていたのだった。
のみならず、三島さんは彼が発行同人(?)の一人でもあったらしい雑誌『風景』、さらに『東京新聞』書評欄でも
「抒情の批判」を激賞してくれた。それは何千部かの本がどんどん売れていくという、喜ばしい椿事を生んだ。
大岡信
「一度だけの便り」より
『風景』所収のものは三島さんの「日記」中、四月二十七日(木)付の一文である。
…もしこれらを読んだ時私が三島さんにそれに見合うだけの熱烈な礼状を書いていたとしたら、
私のその後の人生は多少とも変った流れになっていたかもしれない。
第一、本が書店に出まわるのとほぼ同時に銀座の本屋さんでこれを買い、〈匆々に帰宅してこれを読んだ〉と三島さんは書く。
そして〈本の副題の「日本的美意識の構造試論」の展開である「保田輿重郎ノート」といふ長文の評論を、
身も心も惹き込まれて読み、まだ会ったこともない大岡氏に、オマージュの葉書を書いた〉と三島さんはいう。
現在このような形で、自分より若い物書き、それも現代詩などというものを作っている人間に対して、
熱烈というしかない〈オマージュ〉を捧げてくれる文筆家などいるだろうか。
大岡信
「一度だけの便り」より
三島さんは十代のころから保田与重郎を読み、その〈謎語的文体〉に〈いつも拒絶されるやうな不快と同時に
快感を味はつた〉と書く。それは数歳年少だった私自身が感じていたものと、かなり近かった。
…三島さんが私に示された非常な好意も、戦後社会に対してどうしてもしっくりしないものを感じ続けていた精神が、
〈生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつた〉(「日記」)と、いわば晴れて堂々と
言い切る機会を得た満足感が、伴っていたのかもしれない。
残念だったことは、三島さんに直接お会いして、この時の礼を申しあげ、三島さんの戯曲についての
賞賛的感想をのべる機会を、永久に失ってしまったことである。
大岡信
「一度だけの便り」より
いつの時代でも芸術家はその時代の不安を呼吸してゐるのだ。
青春の昴揚した日の嘆きなくして、あるひはその日の没落と廃虚の発見なくしては、
青春の文学は起りやうもない。
保田輿重郎
「更級日記」より
82 :
吾輩は名無しである:2009/08/09(日) 21:44:44
日本の橋
83 :
吾輩は名無しである:2009/08/10(月) 00:26:07
コピペうぜえ
驚いたことにコピペじゃないの
一から打ってるってんだからたまげるわ
三島スレと同じ人なのかな
まったくイロニーを理解してないから、
三島も保田も完全に捉え損なっているばかりか、
どちらのファンにも嫌われる読み方だな
文学史的使命を終えた最晩年の信者なんでしょ
清らかな詩人
ルツインデの反抗と僕のなかの群衆
藝術の限界と限界の藝術
初期だけが素晴らしい
佛国寺と石窟庵
セント・ヘレナ
古代の眼
他界の観念
有羞の詩
文学の曖昧さ
今日の浪曼主義
巷説の感想
表現と表情
正岡子規について
當麻曼茶羅
更級日記
誰ヶ袖屏風
日本の橋
戴冠詩人の御一人者
大津皇子の像
白凰天平の精神
斎宮の琴の歌
明治の精神
二人の世界人
みはしのさくら
勝利の悲哀
昭和の精神
饗宴の芸術と雑遊の芸術
116 :
吾輩は名無しである:2009/09/02(水) 23:46:59
あげ
117 :
吾輩は名無しである:2009/09/03(木) 00:33:10
日本の民と国との歴史の上で、天地にわたる正大なる気を考へる時、偉大なる生の本願を、文人の信実として表現した人は、
戦後世代の中で、日本の文学の歴史は、三島由紀夫たゞ一人を記録する。過渡期を超越したこの人である。
…三島氏は、日本人について、「繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐい稀な結合」と云つた。
そして「これだけ精妙繊細な文化伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ衰亡してしまふ」と云ふ。
この史観と実践倫理を、彼の一代の生き方の上に重ねた時、わが身心は、たゞおののく感じである。
保田與重郎
「たゞ一人」より
118 :
吾輩は名無しである:2009/09/03(木) 00:45:23
三島由紀夫氏の最後の四巻本の小説は、小説の歴史あつてこの方、何人もしなかつたことを、
小説の歴史に立脚した上でなしあげようとしたのであらう。
さういふ思ひが、十分に理解されるやうな大作品である。
三島氏も、人のせぬおそるべきことを考へ、ほとほとなしとげた。
そこには人間の歴史あつてこの方の小説の歴史を、大網一つにつつみ込むやうな振る舞ひが見える。
人を、心に於て、最後に解剖してゆくやうな努力は、私に怖ろしいものと思はれた。
三島氏ほどの天才が思つてゐた最後の一念は、
皮相の文学論や思想論に慢心してゐる世俗者よりも、さういふものとは無縁無垢の人に共感されるもののやうにも思はれる。
その共感を言葉でいひ、文字で書けば、うそになつて死んでしまふやうな生の感情である。
保田與重郎
「日本の文学史」より
日本文藝の伝統を愛しむ
雲中供養佛
建部綾足
宮廷の詩心
桃山時代の詩人たち
木曾冠者
近世の唯美主義
紙無ければ、土に書かん。空にも書かん。
保田與重郎
127 :
吾輩は名無しである:2009/10/18(日) 23:24:45
いいね
国のため いのち幸くと 願ひたる
畏きひとや国の為に 死にたまひたり
わがこころ なおもすべなし をさな貌
まなかひに顕つを いかにかもせむ
夜半すぎて 雨はひさめに ふりしきり
み祖の神の すさび泣くがに
保田與重郎
昭和45年11月某日
保守
130 :
吾輩は名無しである:2010/02/01(月) 07:30:56
>>130 写真ありがとう。
保田は、前列右から2人目?
4人目が亀井、2人おいて川端、井伏。
井伏の真後ろの、眼鏡をかけた人が木山捷平?
中列右から6人目が太宰。
他に有名な人がいたら教えてください。
保守
133 :
吾輩は名無しである:2010/03/08(月) 09:45:39
金子光晴に顔似てるよね
134 :
吾輩は名無しである:2010/03/12(金) 21:02:24
4月15日は生誕100年です
135 :
吾輩は名無しである: