>>3 青木の念頭に、藤野左絵のことなど、まったくなかった。左絵が京都にいるとは知らなかったし、まして、
学会の場所で逢おうとは夢想だに出来ないことだった。しかし、どんな場合でも、青木の潜在意識の底にこびりついて
いたのは左絵である。青木は、今日も、彼女からもらった黄色い手織りのネクタイをしめていた。そして、
左絵の顔をみとめたとき、鬱積していた左絵への感情が一挙に沸騰した。
左絵の方は、青木に逢いたい一心で、もう、燃えきっていたので、自分が判断できなかった。同時に
ヘキレキのように、
(高江さんは、まだ逢っていなかった。あたしの方が先だった)
そのよろこびがひらめくと暴風のような勝利感におしまくられて、青木の方へ突進して行った。やはり、
同じ思いで走りよって来た青木と、シッカリ抱きあうと、瞬時に、二人の唇は合っていた。火花のような、
熱しきった情熱の自然のほとばしりだった。天も、地も、命も、この一瞬に燃え儘きてしまうような、
忘我の長い接吻がつづいた。二人とも、眼を閉じていて恍惚の中に、溶け合っていた。
(中略)
しかし、二人には何の声も音も聞こえなかった。満目衆視の中であることもわからなかった。この一瞬に凝結し、
昇華した激情の一致と陶酔とが、ただ、二人だけの世界を作り出していた。(もう、どうにもなれ)
ハッキリと、そう意識したわけではなかったが、二人とも、この結合点を出発点として、過去の一切や、さまざまの
煩わしい身辺の雑事を捨て去りたいと願っていた。これまでのあらゆることが、ここへ到達されるための準備で
あったと同時にこの崇厳な火花のほとばしりによって、あらゆることが焼き儘くされ、消滅させられる。
そして、あるものは、ここからの二人の出発と、二人の新生活だけだ。その希求と感動とは、共通している
ようだった。そして、かたく抱擁したまま、二人は、いつか、はげしく嗚咽していた。二人の涙は、別々の
頬の断崖をすべり落ちて来て、密着した唇のところで合流し、二つの唇を同時にぬらした。
その塩からさは、さらに、二人を興奮に狩り立てた。