1 :
吾輩は名無しである:
「亡国のイージス」と「半島を出よ」を併読して
みましたがよくわかりませんでした。
この作品をテキストにするとその差とはどのへんが
ポイントになるのでしょうか。それとも
そもそも本のチョイスが間違っていたのでしょうか。
2 :
吾輩は名無しである:2008/02/04(月) 17:34:40
選ぶ本が間違ってます
大衆小説は桐野夏生のグロテスク
純文学はクロードシモンのアカシアを図書館で借りて読みましょう
そもそも文学板で訊くのが間違ってると
たまには中間小説のことも思い出してあげてください><
5 :
吾輩は名無しである:2008/02/04(月) 23:45:29
おもしろきゃカテゴリーなんてどうでもいいんだよ。
だから福井の方に軍配。
6 :
吾輩は名無しである:2008/02/04(月) 23:48:40
ポルノ大獄ジャップ島。
卑しい倭人は傀儡に扱え!
自分だけで書く
この「だけ」のところを純粋と言って
純文学なんではないかな?
一般的とか、常識とか、習わしとかに
左右されない(ように、がんばって書いた)小説
8 :
吾輩は名無しである:2008/02/07(木) 01:22:40
じゃあキン肉マンは純文学ではないですね。
9 :
吾輩は名無しである:2008/02/07(木) 01:39:36
10 :
吾輩は名無しである:2008/02/07(木) 01:49:08
いかにも7より馬鹿ではないと自負する9は、見解すら示せず。
馬鹿と言われる奴のほーが、かっこいいよ。
11 :
吾輩は名無しである:2008/02/07(木) 02:04:49
7が言いたいことをあなたは分かりますか?
具体的な作品をあげずに、常識に左右されないなんて抽象的なこと書かれてもなぁ
そもそも常識ってなにを指してんすか?
等と思ったのですが、スレ汚しすみません
撤退します
>>7 常識の意味も知らない人が書いたんだろうな。
>>7は。
7は順当な回答のように思う。
特に「ように、がんばって書いた」のところがいいね。
14 :
吾輩は名無しである:2008/02/07(木) 04:30:20
大衆が「これは純文学」と思ったら大衆文学
小説は十九世紀以降純文学的傾向のものと大衆小説的傾向のものとに分類されることが一般的となった。
それ以前の小説は、セルバンテスやラブレーがそうであるように
芸術性と通俗性を区分することなくひとつの目標として追及することが多かったが、
小説の読者がひろがり、技法的な発達を見せるにしたがって、交通整理が行われるようになってくる。
各国の事情によって多少の差はあるが、現代文学では両者の傾向を分けて考えるのが一般的である。
日本の場合は純文学、大衆文学と呼ばれる。
日本において上記のような区分が具体的になってくるのは明治末年ごろの文壇からで、
大正期のメディアの発達によってこれが具体化・固定化し、芥川賞・直木賞の制定によって
ひとつの制度としてとらえらえるようになった。戦前から戦後のある時期までは、
純文学は芸術性を指向し、大衆文学は通俗性・娯楽性を指向するものであるという区分が明確で、
「自分のために書く小説、読者のために書く小説」といった言いかたをされることもあった。
この時期は純文学の主流は私小説、大衆文学では時代小説であり、それを書く作家が固定していたのも特徴である。
ただし当時から一人の作家について通俗的作品、芸術的作品と分類されることもあり、単純ではない。
現在では純文学、大衆文学の境界はあいまいで、
双方の作品を発表する作家、一方から他方へと移行する作家、
自作について特段の区分を求めない作家が多くなってきている。
実態としては純文学・大衆文学の区別は掲載誌によって行うことが一般的である。
文学賞では、芥川賞は純文学、直木賞は大衆文学の賞であり、受賞作家・作品をみればある程度捉えられる。
しかし、芥川賞作家が娯楽作品を執筆することもあり(たとえば奥泉光、宇能鴻一郎)、作家名で判断することはできなくなっている。
純文学作家の三島由紀夫も大衆文学を書いている。逆に大衆文学の作家が純文学的作品を書く例もある(筒井康隆など)。
また、最近では芥川賞=純文学、直木賞=大衆文学と単純に言えない例も出てきた。
第二次世界大戦後、中間小説という分類をおくこともあったが、現在ではほとんど死語であろう。
つーか「純文学」って言葉がださいんだよ。文学書けない奴の言い訳だな。
>>20 というか、純文学、大衆文学っていう枠組み自体、既に解体されてるって話だよ。
純文学、中間文学、大衆文学は既に昭和後期から解体されて、
過去の作品を説明するための単語になってきたってこと。だから、
>>1に答えるとすれば、純文学(=自分の読みたいものを書いた小説)
大衆文学(=読者の読みたがるものを書いた小説)となるわけ。
で、その枠組みが通用する時代があったということ。
ださいとかださくない、ではなく、単なる言葉の説明。
サムライとかロウニンとかトノサマみたいなもんだよ。
個人の価値観に基づいた説明を
>>1は求めてるわけでもなし。
いや、実際今も、そういうテクニカルタームとしてでなく使ってる人山ほどいるでしょ。
1が言ってるのも、そういう用語としてのの話ではないし。
>>22 まず、当然答えるべきこととして、枠組みが最も使われていた時期を言うのが、
最優先で必要でしょ、と言いたかったわけです。
>>1を見る限り、何もわかってない感じでしょ。
で、次に、その枠組みが、解体されてしまっているのなら、
今は言葉が勝手に歩いてる状態。どういう状態かというと、
専門用語として、それを使っている話者、それぞれが、
それぞれの基準で使ってしまっている状態。実は既に形骸化してるからだね。
では、どんなフレームを使っているのかと言うと、
1つには、本来の意味、純文学(=己の読みたいモノを書いた小説)、
これは対比するのが大衆文学(=皆が読みたいモノ)
2つめは、本来の意味の2つめ、作家や、掲載された雑誌によって、純文学としたもの。
この枠組みは、既に、解体されてる。でも、何となく使ってしまわれそうな形の1つ。
3つめは、本来の成り立ちや、意味を知らない人に、勝手に再定義されて使われている場合。
これは、もう、話者が、例えば「これは"純粋な"文学である!」とか、勝手に文字通りに自己で拡大解釈して使っている場合。
「"大衆的"だと思うから、これは純文学ではない!」とかね。"純粋"や"大衆的"という部分が主観なので、把握しにくい。
などが考えられるだろうね。他にもあるだろうけど。
強いて言えば、現代では、マーケティングの結果に出された様子があって、
ストーリー(話の流れ)のある文章だったら、大衆向けでいいんじゃないの?
マーケティング論が発達したことによって、大衆(という枠組みも古くさいが)の要素が、
あるいは、大多数の人間の好む、一定の形が、見いだされやすくなった時代なんじゃない?
秩序のある時代(或秩序が確立されて、その秩序が消費され終りそうな時代)だからね。
多数の人間が関われば関わるほど、大衆的な文学が発生して、
関わる人間が少なくなり、1人の作家と1人の編集者というスタイルで、
孤独の中に発生するのが純文学と思ってる人もいるのかもね。
それも純文学の要素の1つではあるだろうけど、要素はそれだけではなかったし。
大衆文学と純文学の違いを知るためには、まず枠組み(フレーム)として考えること。
そして、この言葉の発生時期を確かめて、本来の意味を知ること、
次に、発生時点の本来の枠組みが、現代で、そのまま使われているかどうか。
それから、本来の意味から外れているなら、どのような使い方がなされているのか、パターンを考える。
ってとこじゃね?長々と申し訳なかったです。
25 :
吾輩は名無しである:2008/02/11(月) 14:31:04
大衆文学 浅田次郎
純文学 村上春樹
26 :
吾輩は名無しである:2008/02/11(月) 19:25:39
ヤウス『挑発としての文学史』岩波現代文庫 に色々書いてあった覚えが。
27 :
吾輩は名無しである:2008/02/11(月) 23:24:02
大衆文学:桜庭一樹
純文学:青来有一
28 :
吾輩は名無しである:2008/02/12(火) 05:32:42
明治の文語で書けば純文学
現代の口語で書けば大衆文学。
正しい日本語で書けば純文学。
流行語でもなんでも入れて読みやすさに徹すれば大衆。
29 :
吾輩は名無しである:2008/02/12(火) 06:13:55
何ソレ?w
なるべく時代をこえて読まれたいという意味かな?
デュマは大衆文学といわれるけど、時代をこえて読まれてるよな。
「純文学」を称する作品の中に、『三銃士』より先に消えるものがどれほどあることか。
>>33 デュマの生きた時代とデュマの出版形態の成り立ちを、
詳しく知ってのセリフかどうかで、意味があるかないか、決まるんだけど。
アレクサンドル・デュマの専門書の一冊くらいは読んだんだよね?
35 :
吾輩は名無しである:2008/02/12(火) 18:33:37
まとめると。さんの自分が読みたい、大衆が読みたいは納得できます。
残念ながら著作者も出版社も本の体裁もわからない生原稿だけポイと提示されても、
つまり内容だけでは純文学か大衆文学かの判断はできないんですね。
いや、なんとなくはもちろんわかるんでしょうが、それを定義する何か…。
それがまとめると。さん言うところのストーリーのあるなし、
というところなのでしょうか。では「ストーリーがない」とはなんでしょうか。
>>35 いや、全然違う方向へ飛ばないでくれ。ストーリーのあるなしではない。
純文学か大衆文学かは、本人が書きたいように書いたか、マーケティングして多数の読者が求めてる像に近いものを呈するかだ。
ただそれだけであって、ストーリーを求める層にはストーリーを提供する。それをするかどうかをマーケティングしてるわけでな。
現代のようにマーケティング論が高度に複雑化すると、あらゆる層を対象にすることが可能になってくる。
読者を想定しないで書かれた文章が純文学と言えるだろうな。そういう書き方が現代に可能かどうか難しいが。
>>15-19 >>21>>23-24 >>36 1つには、本来の意味、純文学(=己の読みたいモノを書いた小説)、
これは対比するのが大衆文学(=皆が読みたいモノ)
2つめは、本来の意味の2つめ、作家や、掲載された雑誌によって、純文学としたもの。
この枠組みは、既に、解体されてる。でも、何となく使ってしまわれそうな形の1つ。
現代で言えば
>>36で書いたように
純文学か大衆文学かは、本人が書きたいように書いたか、
マーケティングして多数の読者が求めてる像に近いものを呈するか、だ。
ストーリーがあるなしって言い方は誤解を招いたな。
38 :
吾輩は名無しである:2008/02/13(水) 02:18:21
あげ
39 :
吾輩は名無しである:2008/02/14(木) 10:31:14
純文学=芸術、大衆小説=娯楽(エンターテインメント)でいいんじゃね?
芸術はそれ自体に価値があるけど、大衆小説は売れなければ話にならない。
>>39 その区分の方法を言ってるわけなんですよ。
アートとは何か?って本質を問う訳じゃないけど。
(問うたらエライことになる、アートってのは易々と出さないほうがいいワード。)
例えば、あしたのジョーなんかは芸術のほうに入る。
それまで似たようなものがなかったから、狙って書いたわけではないとかね。
でも、はじめの一歩は商業作品(大衆向けエンターテイメント)に入る、とかね。
スラムダンクもエンタメのように見えてアート寄り。
バスケ漫画は当らないと言われて、当初は、編集部にも止められた漫画だし。
文学、乃至、純文学とは19世紀の国民国家形成期の社会の基盤に
なった人文主義的運動抜きには語れない。
娯楽としての大衆文学であれば近松とか西鶴とか近代前から沢山ある。
コテとは話したくないんだけど、
そこまであれこれ正確に調べるのは個人各々でやればいいこと。
知識の披露は授業あるいは学会などでどうぞ。
学者か教師でないなら、お引き取りを。
>>1のニーズに合わせた会話能力をお願いします。
厨房の相手も大変だなw
オーソリチーを問題にして発言を封じ込めるより、具体的な反論が
欲しいものだね。
日本の国民作家と言えは漱石だが、結末はカフカの『城』みたいだな。
46 :
吾輩は名無しである:2008/02/14(木) 18:57:38
>>45 反論てほどでもないが、金色夜叉などはローティーンの娘どもが先を争うように読んでいた、という話を何かで読んだ。
ちなみに44も君宛ね。
そいつはひょっとして近代と浪漫チックラブの関わりを問題に
したいのかい?
コテつけてるとNGワードに放り込めるので助かります。二度と読みたくない程度の低さに驚きの白さ。
そういうことは黙ってやってくれると有り難い。
51 :
吾輩は名無しである:2008/02/14(木) 20:14:30
>>41はたった3行なのに、3つ以上の間違いが示されている希有な例だね。
大衆小説と大衆文学を混ぜて伝えるって、余計な混乱をさせたいのか、
そもそも阿呆が阿呆なりに自己流の主観理解を流布させようとしてるのか。
どちらにせよ、大衆小説の分類について話すときに近松などを出すのは愚の骨頂。
今後は無視な。まともな話を聞いても理解できないタイプの人間は、
平気な顔で、違うものと違うものを同じもののように扱うという脳を持っている。
おそらく認識と分類のための部分が未発達な脳なんだろうな。気の毒でならない。
>>50 当然、こうなるのだ、ということを、態度で示しておかないと、
駄文でスレを埋め立て始めるだろうからね。もう手遅れかもしれないが。
ウィキで「小説」の項を調べたら面白いよな。
>>51 批判内容がないよう?
そんなわけで、普通に話を再開しよう。
俺の考えでは、もともと純文学は「表現方法・表現形式を突き詰めて、文章によってを読む者の従来の世界観を覆すタイプの小説」。
エンタメ系は、もともと「安心して物語の楽しさを堪能することを前提に書かれる小説」。
ところが、最近はそれが交錯し、エンタメ系でも新本格のミステリにおける叙述トリックなどは純文学的な問題意識と通底するし。
純文学畑では作文が上手なまま作家になった女性作家などが表現の紋切型など気にせず書いていたりする。
>>1の疑問に寄り添うと、村上龍はもともと「描写の徹底」という純文学本流の方法論で評価を得た作家だけど、ある時期からエンタメ的な要素を作品に取り込んできた。
だから、自分でも描写に取り組んで書いてる人には、この2作品だと半島は一文一文にこだわりがあるように見え、イージスはその点ではスカスカしている印象がある。
一読者としては、あんまり関係なくどちらも楽しく読めばいいんじゃないか、と思うけども。
両方とも書籍板にもってけ。
>>54 お前の主観という前提で、という話だね。
お前に沿って話してやるとすれば、純文学は「今までにない表現、発想などによって新たな地平を切り開ける作品」
「後に続くジャンルが生まれてしまう作品」とでも言ってやればいいのか。アート論に近づくだけになるが。発掘に近い。
エンタメとか大衆は、純文学で新たに開かれたジャンル層や読者層が求める内容、それを再構築、再構成する。
当たった文体、過去のリバイバル文体など。文学史上で既に起こった何かを市場に合わせて、再度焼きなおす作業。
どちらが優れているとかではなくて、そういう話だね。
叙述トリックやミステリの新手法と純文学は分けて考えたほうがいい。純文学の問題定義とはベクトルが違う。
お上手な作文作家は陳腐で使い古された表現を口語体に焼きなおすだけで、あれはエンタメと変わらんとは思う。
気にせず、どちらも楽しめば良いという意見には同意。
57 :
吾輩は名無しである:2008/02/14(木) 20:57:17
>>54 純文学はセックス、エンタメはオナニーって感じってことね。
しかし、龍とイージスとはw お里が知れる
>>57 逆だな。純文学は画期的な自慰と自己愛撫のテクニック開発。
エンターテイメントは一対一ではないが、コミュニケーションを図ることが目的で、純文学が開発したテクニックを使ってセックス。
そんな感じだ。
しかし、
>>57の読解力の底の浅さw お里が知れる
純文学なんて歴史的な使命はとうの昔に終えてしまって、今じゃ
恋愛小説のことだと思われてる。
61 :
吾輩は名無しである:2008/02/15(金) 00:32:42
現代の近松の評価は知らないが、大衆文学などという概念が全く存在しなかったころに、一方で大衆文芸という概念が存在していたりする。
大衆小説については、そんな言葉がいつの間に生まれていたのか、寡聞にして知らない。
>>61 大衆小説でググれ。小説が輸入されたのはいつだと思ってるのか。
あと近松の時代は大衆の概念が今とかけ離れていて、
現代の大衆文芸と同列で語るには無理がありすぎる。
大衆って言葉は禅籍だと「お前たち」くらいの意味だっけな。
啓蒙主義の観点からするとそもそもだ、
ん?レス番トンでるな。
バカには知る必要のないこともあるがな。
スルーって一番嫌なんだろ?
まぁ、ボクのことはせいぜい無視してくれたまへよ(アッハッハ
近代は人文主義の時代でもあるから、精神的権威は主にアカデミズムに
ある。その一分野として文芸の学をブンガクと言うわけだが。
レス番飛ばしちまってすまんのぅ。
さぁ、耳のある諸君。これからが大事だ。
人文主義における科学的精神とはまず、文献学であった。自然科学が
文献学を決定的に押しのけたのは、何がキッカケだろう?
NG設定は専ブラ使えよ?
そもそも「純文学か大衆文学か」なんていう分類に意味がない。
「こいつの顔はショウユ顔かソース顔か」って語ってる様なもんだろw
設定方法なら聞いてよ?
やはり思い起こされるのは、俺的には小林秀雄と三木清の戦時中の
対談だ。小林の言うには「科学の凄いところは、本を読むことが
学問であるということを変えたところにある」そうだ。これは
もちろん、戸坂潤がこの時代に『日本イデオロギー論』で行った
歴史イデオロギーを含めたアカデミズムの文献学主義への批判が
念頭にあると見て良いだろう。
75 :
吾輩は名無しである:2008/02/24(日) 03:37:40
>>74 ふんふん。あなたが大学生なのか学者なのかリーマンなのか日雇いなのかは知らないけど、とりあえずためになりそうだから続き書いてくれませんか
僕は純文(あるいは文学。まぁなんでもいいけど高次にして唯一のそれ)の枠は時代(いでおろぎー)によって恣意的に、だと思うんですけど
2008年現在のことをアクチュアリーに教えてほしい
カラ兄から恋空までグローバルに上から下まで
居直って食いついて来たな? アメリカのネオコンの思想的な
支柱になったシュトラウスは「大衆には神話が必要だ」って主張した
らしい。確かに文献学趣味なところがあるよな。
ハスミセンセイの「物語批判」も文献学批判が根にあるんだが、
ポスモダだからニヒリズムなんだよな。意味の存在自体を否定し
たがる。
あの時代は大月隆寛くんも、そういう風な物言いに染まっていたよ。
すっかり暴力デブ太郎になってしまったが。
世間はニヒリズムを抱えながら手近な物語に飛び付くのが大好きだ。
「ニヒリズムなんだから何でも良い」というのが彼らの態度だが、
それは本来のニヒリズムとは違う。ドストエフスキーの『悪霊』の
スタブローギンはあの作品の中ではニヒリストの象徴的登場人物と
言われている。もとは同時代のトルストイの『父と子』だっけ?
ツルゲーネフだ(恥 1862年だからドストエフスキーが「地下室」を
書いた年だ。これは偶然の一致ではないことは言うまでもない、と。
81 :
吾輩は名無しである:2008/02/24(日) 05:31:10
で、小林秀雄は文献主義を批判したというわけ?
小林は戸坂みたいなはっきりした姿勢は見せなかったろ。
NGコテの設定はちゃんとやっとけ。
本人が売るため(という立場寄り)で書いたのが大衆小説、
そうじゃないのが純文学だろう。
だから「亡国のイージス」と「半島を出よ」が同じでも別に不思議じゃない。
戦前の神話的な国家観に距離を置いた自由主義的な知識人は、しかし
進化論を背景にした近代合理主義的な世界観をそのまま鵜呑みに
する程に浅はかでもなかった。進化論の影響は旧約聖書の創造
神話には打撃だったとしても、仏教の非神話的、哲学な世界観には
それ程の破壊的な意味はなかったせいもあるだろう。
文学論からは話が逸れたが。
>>81 親切な俺が教えてやるが、小林は戸坂に誘われて唯物論研究会にも
籍を置いてたんだとよ。NG登録してあるんだから読めないだろう
がな。
性根の腐りきった豚の集まりに俺の話を読ませるのは勿体無いと
常々思ってたからな(アッハッハ
売ると売れる
うるうるうるる
セックスだの不倫だのの小説を恥ずかしいから純文学と呼んでいるだけです
90 :
吾輩は名無しである:2008/02/24(日) 23:33:31
大衆文学が娯楽
純文学が芸術でしょ
村上龍読んでるけどさっぱりよさがわからないなぁ。やっぱり解る人にはわかるんだ?こういうの。
浅田次郎や宮部みゆきのが楽しいのに。
91 :
吾輩は名無しである:2008/02/24(日) 23:37:49
宮部・浅田よりは龍の方が面白いな
古典が純文学、現代小説は全部大衆文学 こういう分け方でもいいと思うよ
最近の国内の文壇なんてウンコみたいなもんだし
92 :
コテ文:2008/02/25(月) 00:43:02
コテコテの大衆小説を読もうと「小説宝石」3月号を買ってパラパラ。
龍造寺 信「へちま侍」っての見つけた。
これって大衆小説かよ。純文学じゃないの。俺には分からんけど。
93 :
吾輩は名無しである:2008/02/25(月) 07:58:37
こう例えて考えれば、とてもわかりやすいよ♪
ボクシングや柔道やレスリングが大衆小説(エンタメ)で、
路上の喧嘩が文学(純文学)。
94 :
吾輩は名無しである:2008/02/25(月) 14:13:53
初対面でセックスしたら純文学
>>93 最近は路上の喧嘩に女子供を引っ張り出して、掛け金を上げようって腹だw
>>93 馬鹿か。路上で喧嘩する時点で全員子供だ。
97は子供の頃路上で喧嘩したことがないに2ペソ。
98も子供の頃路上で喧嘩したことがないに3hPa
「いい大人が……」といわれる=こども。
「二人は出来ている」、この言葉使いは文学に相応しいものか、
携帯小説に相応しい野卑なものかを解説しなさい(三点)。
あ、「野卑」って言葉分からないか。
2ちゃんねるみたいな雰囲気って言っても、他に知らないんじゃ意味ないか。
104 :
吾輩は名無しである:2008/03/01(土) 11:08:37
俺としては狭義のジャンル分けにはあまり興味がないね。
モチーフが大衆的であろうと良い物は良いし、くだらないものはくだらない。
日本お得意の衒学趣味に走っているのとかは、大体くだらない。
たぶんね、そうしないと書けないんだよ。
難しいそうに見せとかないと一般の人にバレちゃうから。
SFだろうが純文だろうが携帯だろうが、大事なのは根源的な質、ただそれだけ。
それが読み物ではなく、ホントの小説。
科学的な裏打ちがあるのはもちろん前提だけど。
俺は絵を見るように読むから、ダメなのはすぐわかっちゃう。
>>94は上手いこと言ってるね。
オナニーかセックスかって感じかな。
105 :
吾輩は名無しである:2008/03/01(土) 11:14:39
スティーブン・キングの純文学作品はどれですか?
こんな場所で何か勉強した気になっても恥かくだけだ。
107 :
吾輩は名無しである:2008/03/01(土) 14:32:21
まあ俺は思ってることを書いてるだけだけど。
キングだろうと芥川だろうと良い物は読み物でなく小説と呼びたいって意味ね。
自演を自演とryryryだよ、ふくもっさん
てかほんと、ひとりで遊べよw
他人をおもちゃにするなぼけ。うんざり。
>>104 よく書けたパロディだね。こういう人いるいるw
そうかね? 俺にはうすら寒いが。
演じる人間は、俺は大嫌いだ。
名無しになんか幾ら教えてやったって都合が悪くなったら知らん顔さ。
あなた無視されてるだけですやん
おいおいマジですかみなさん。
龍でも三島でもまったく同じこと言ってるよ。
パロディに見えるのはそのせい、だって意味、内容は変わらないんだから。
しっかりとエッセイでも読んでみ。
こんなとこでマジに語ったから不信感抱くのもわかるけどさ。
モチーフは何かを言いたいために利用するものにすぎないってことだよ。
モチーフではなく、その何が言いたいかで区別されるってことね。
ではさいなら〜、がんばれよ。
>>114 言ってることは分かるよ。分かりすぎるよ。ベタすぎだよ。
それなのに、自分は凄いこと言ってると思ってる感じが、なんか許せないよ!
それを真実味なんて云ってしまうと、とたんにウソ臭くなるけどね。
俺はひとの率直さが好きなの。だからたとえ彼・彼女の言それ自体に
事実はなくとも、そこになにがしかの、その者のひととなりを感じさせる
「響き」さえあれば、それはそれを読み取る俺にとっては、真実なんだ。
欺くやつは俺は嫌い。大嫌い。
117 :
吾輩は名無しである:2008/03/01(土) 16:26:28
直木賞が大衆小説なのかというと、直木賞は直木賞で文学性が要求されるみたいだね。
けっきょく明確な境なんて無い。ある観念を描き出すことが文学なんだろうけど、最近の芥川を見るに、スカスカのハリボテを深読みして文学文学言ってるように感じた。
つうか俺、誤読をしましたw すまん。
何を、どう読んだのかは説明はしないが、誤読は誤読。
でもそれはそれとして、やっぱり俺の云うところの、真実味は低いと…、
いや、本人が真実そう考えていること自体は俺は疑わないが。
でもホント、誤読は誤読だし、この視点の演繹はどうも、趣味の悪い
ものになってしまいそうだからやめておく。ともあれすまんかった。
好き嫌いの問題を扱う娯楽、普遍的な問題を扱うのが文学かな。
「大衆」文学っていうくらいだから娯楽が普遍なんじゃないの?
普遍という言葉を何か真理の探究に置き換えれば、確かに文学なのかもしれんけど
月並みなことと普遍的なことの違いは?
122 :
吾輩は名無しである:2008/03/04(火) 22:49:48
「好き嫌いの問題」ってなによ?w 好き嫌いがどうして問題
になりえるのか? 好き嫌いは好き嫌いにしか過ぎないだろう。
文化論になるかもしれないが、それが娯楽の根拠となるなんて意味ぜんぜん
わかんねー。
ここのバカどもはおまいのファンか?処刑www
たいへんだなww
124 :
吾輩は名無しである:2008/03/05(水) 15:25:04
すべての小説は、日記が源流である
125 :
114:2008/03/06(木) 17:23:17
>>116 わかります。「響き」という言葉にとても共感しました。
またその真実味という言葉の差異がどのあたりにあるのか大変気になります。
話を戻しますと、歴史性を帯びた性質のものが文学であると思います。
江戸時代のものの多くは大衆的なモチーフですが、扱っている問題は普遍的なものなので、文学的な高さが感じられます。
126 :
吾輩は名無しである:2008/05/05(月) 17:24:50
127 :
吾輩は名無しである:2008/05/05(月) 18:03:46
俺は昔、浅田次郎の講演に行ったことがあるんだが、
そこで彼は「純文学と大衆文学なんて区切りに意味はない。上流階級気取りの人が自分が好きなのを純文学、そうでないのを大衆文学って読んで馬鹿にしてるだけのこと。」っていってた。
浅田自身が大衆文学の賞とされる直木賞を受賞した人だから、自己肯定の論だと言えなくもない。
でも俺は浅田次郎に賛同する。
浅田次郎は、苦労してるだけ良いことを言う。
ポッポで売れるまでが長かった。それまでは、辛かっただろう。
やはり成功できるように頑張るのが一番だ。
それを批判する方がおかしい。
129 :
吾輩は名無しである:2008/05/06(火) 14:19:48
一応
紋切り型を多用して多数の共感を得るのが大衆文学
紋切り型を批判して未知なものを表すのが純文学かなー
俺の中では
なので、大衆文学的な純文学、またはその逆もあるし
大衆文学の中でも質の良し悪し、純文学のなかでの質の良し悪しはある。
あくまで物語を娯楽として楽しむのが大衆小説
逆に芸術性や学術性を重んじたものが純文学
と、自分は考えている
ピカソの絵をデスクトップの壁紙にして楽しんで飾っているのは庶民の楽しみ方であって
逆に、ピカソの絵を見てどういうところが美しいのかと考え出したらそれはもう芸術ではないかね
浅田はどうやったら芸術性が出るのか
同時にどうしたら多くの人間の目に触れるのか
この二つを両立しようとして苦心しているように見える
132 :
吾輩は名無しである:2008/06/29(日) 22:49:28
純文学を書こう、と思った人間は、純と大衆の境界に敏感になるよねぇ
大衆を書こうと思う人間は、下限を何処に引くわけ?
亡国とか生首に聞いてみろとか
何がどう面白いのかさっぱり……というか欠陥だらけに読めるのだが
でもこれが大衆小説としての一流だから……
こっちのほうが間違ってるような気がしてくるんだ。
134 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/30(月) 00:34:49
現代文学での純文学と大衆文学とを区画する指標は、
言語の表象=代行機能の失調に意識が向かっているかそうではないか、
だととりあえずは言える。
136 :
吾輩は名無しである:2008/09/23(火) 13:34:13
区別する必要性がないね。
もっと世界を見てほしいもんです。
日本以外にそんな無意味な区別ありません。
知り合いの日本文学を専攻しているやつが
「ドストエフスキーが世界の純文学」だと
言っていたが、ふざけるのもいい加減にしろ、
と言った。つまり、ロシア語もできず、
ロシアに留学経験もないやつが語るな、と。
私はロシア文学を専攻し、ロシアにも
留学して現場で学んできた。彼らに日本の純文学を
話したら、「苦痛しか生まないものはうんこだ。
読者に理解できるように設定できる頭もなく、受容される
可能性がわからないんだから。でも、受容されたということは
日本人の頭のレベルが低かったということだね。運がよかったね。」
と散々にこき下ろされてしまった。
もうこんな無意味な区別はやめるべきだ。恥ずかしい・・・
自分の経験だけを物差しに語るなよ
恥ずかしい
138 :
吾輩は名無しである:2008/09/27(土) 00:25:30
夏目漱石「それから」
武者小路実篤「友情」
大岡昇平「俘虜記」
遠藤周作「沈黙」
井上ひさし「吉里吉里人」
すまんが、それぞれの判断でもって
これらを純・大衆・中間に分けてみてくれ
139 :
吾輩は名無しである:2008/09/27(土) 00:32:08
武者のこうじサネアツは、文学であり大衆小説である。
140 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/27(土) 00:45:04
>>135 馬鹿。おまえに分かりやすくいえば、とりあえず「現代」では言語レベルで云々する(できる)文学が純文学。そうじゃないのが大衆文学。
物語内容で区別は出来ない。
それと歴史的には純文学という概念は大衆文学が出てきてから顕著になったというべきでしょ。
アカデミックな文学史家の論文・著作に当たれバカ野郎。
141 :
吾輩は名無しである:2008/09/27(土) 00:55:09
>>138 エゴテロリストのひさし以外は全部純文学じゃないのか?
142 :
吾輩は名無しである:2008/09/27(土) 01:12:16
2 :吾輩は名無しである:2006/10/09(月) 18:34:59
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|\`、: i'、 ここにティッシュ置いときますね
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144 :
吾輩は名無しである:2008/09/27(土) 11:30:50
>>136 そのロシア人の「でも」以下が気に食わんな。
めっちゃ暴論だが大正昭和の日本人の受容能力は一応称賛すべきだろ。
136の説明が悪かったのだろうという気もするけど。
高校の国語の資料集でも、要点ぽいことはかいつまんで書いてあるだろうけど
「純文学」や「大衆文学」の概念が出来てから
どんな議論があったかほんとに知りたいなら
まず菊池寛や横光利一が書いたものでも読んどいたらいいと思うよ。
145 :
弧高の鬼才:2008/09/27(土) 23:16:46
アナロジカルな観点から優劣を決めるような風潮が、文学をカテゴライズという細分化主義に貶めることになるのである。
146 :
吾輩は名無しである:2008/09/27(土) 23:22:50
村上春樹・・・・大衆文学
平野啓一郎・・・純文学
村上春樹・・・・純文学
平野啓一郎・・・・大衆文学
「決壊」読んだ今となってはね。。。
148 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/09/28(日) 01:35:59
>>145 意味が分からない。
>>143 自演なんかやってねえ。いちいちつきまとうなストーカー気持ちわりいんだよ。
気が向くままに書き込みしてるだけ。オマエみたいな無知野郎の思惑なんか知るかよ
オマエにとってはあっちゃこっちゃ書き込みする芸当がよほど珍しいなw
いっぱい子供んとき本読んでるからいくらでも書き込みなんかできるんだよ
だいたい文学板なんて気晴らしさ。寸評書くのが楽しいのさ。自演云々するのはオマエに力量がねえだけ。悔しかったら勉強しろやクズ野郎
(いろんなスレで私に向けたレスの時間帯からするとオマエ酷いヒマジンみたいだなw)
149 :
吾輩は名無しである:2008/09/28(日) 01:39:48
私小説=純文学
村上も平野も大衆小説
色川は純文学、阿佐田哲也は大衆文学 以上。おやすみ。
150 :
弧高の鬼才:2008/09/28(日) 01:56:53
純文学の純というのは純粋というよりも純正の純なんだろうね
勧善懲悪やヒロイックを排して西洋の思想や芸術を重んじるようになった明治時代
現在の文学の概念はいわば怪力神乱は無知の者が嗜む文化上卑俗なものであるという
古い教養主義乃至西洋に対するコンプレックスから顕れた因習だろう
こんな分類をやっているのは日本だけだ
純文学や大衆文学にあてはまる言葉は海外には存在しない
えー昔々に読んだものなんで記憶もあいまいなのだが、
ボールドウィンの『もう一つの国』において、たーしか。
…もしくは、『続若草物語』にもw ってあれはあれか、
風俗面が問題だったんだっけ? がいずれにせよそこには明らかに
「上下」の概念はあったと思うんだが。どちらにおいても。
ボールドウィンの場合は同性愛や反黒人差別
オルコットの場合は反奴隷制度と男女同権
宗教が幅を利かせていた当時のアメリカ社会からの風当たりが強かったわけで
日本の芸術論的な批判ではないと多分思う(自分はアメリカ文学には少し疎いので断言できない)
てけとーにパラパラとやって抜き出しただけなんで、
より適切な箇所ってのもきっとね、あるとは思うんだが。
「今夜はお祝いなの。リチャードの小説が売れたのよ」
「出来るだけ引っぱっておいたんだ」リチャードがいった「親友のヴィヴァルドがきて、
目をとおしてくれることになってるからって、そういつもいってたんだがね。ところが
やつらはいうんだな『あのヴィヴァルドですか? あれぁ詩人ですよ、ボヘミアンですよ!
探偵小説なんて読むもんですか。神様が書いたって、探偵小説なら読みませんね』それで
〜略〜「おれはあれを単なる探偵小説とは思っておらんのだ」彼はパイプを振りながら
いった「つまりだね、探偵小説という形式の枠内で、純文学的なものが書けないわけは
ないと思うんだな。そこがおれの興味の焦点なんだよ、実をいうと」
「ハイスクールでぼくに英語を教えてた時分には、探偵小説なんか高く買ってません
でしたね」ヴィヴァルドは微笑しながらそういった。(『もう一つの国』野崎孝 訳)
彼女は扇情小説を書きはじめた、そのころのような暗黒時代にあっては欠けたところの
ないアメリカでさえも、三文小説が読まれたのであった。彼女はこっそり「スリル小説」
をこしらえ上げて、大胆にも「週刊火山」の編集長、ダッシュウード氏のところへ〜略〜
ダッシュウード氏の指図に従い、ノースベリー夫人をお手本にしながら、ジョーは軽率
にも扇情小説という軟弱文学の海へ身を投じた。(『続若草物語』吉田勝江 訳)
155 :
名無し募集中。。。:2008/09/30(火) 14:35:03
純文学はかつては教養として読まれるもので主な読者はインテリ層だった。
それに対して大衆小説は大衆が読むもので、教養とは無縁なものであった。
今ではインテリ層も大衆もほとんど違いがなくなったので、そういう区別に意味はなくなった。
156 :
吾輩は名無しである:2008/09/30(火) 15:11:55
私小説とエンタメ小説のどっちが格が上とかどうでもいい。
どっちも消滅しない。
変わんないんじゃん?
昔も今も、読める人間の(人類全体における)割合自体は。
要するに、はやりで読んでいた人間が、読まなくなっただけ。
大は小を兼ねるが決して、逆はない。
純文学か…漱石が考える文学は娯楽とは明らかに違う
「僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだから。
綺麗でなくっても、痛っくても、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、
触れて居ればそれで満足するんだ。
詩的でも詩的でなくっても、そんなことは構わない。
たとい飛び立つほど痛っくても、自分で自分の身体を切ってみて、
成る程痛いなという所を書いて、
人に知らせて遣りたい。
呑気なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、
人間の本体はここにあるのを知らないのか、世の道楽者に教えて、
おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思って居なかったが、
云われてみると成る程一言もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なのだ。」
夏目漱石「野分」より
なんだか胡乱な話。
判らないのには、どうやったって伝わらないと思うが。
てかやっぱ、功名心は不可欠なんて話にも。
160 :
吾輩は名無しである:2008/10/05(日) 00:46:54
「さようならギャングたち」はどっち?
161 :
吾輩は名無しである:2008/10/06(月) 01:34:31
高橋源一郎の小説は文学ではない。
162 :
スーパーストロングキラー:2008/10/06(月) 01:37:10
本人はそのつもりだけどなw
創作より実生活のほうが「文学」してる珍奇なオッサンだ。
163 :
吾輩は名無しである:2008/10/06(月) 09:33:43
え?さようならギャングたちはド文学じゃん。
さようならギャングたちの頃は良かったんだよ。
もう引退した方がいい、このじじい。
老醜をさらすだけだから。
エロゲと文学、違いを検証
窓から見える空に、燕が舞っている。部屋が沈黙で満ちる。僕の心はシンと冷え切っていた。そういえば、いつの間にか幻聴も幻覚もすっかり収まっている。
突然僕は感動してしまった。忌まわしい僕の歪んだ思念の皮膜を剥ぎ取った、ありのままの世界は、こんなに静かで美しいものだったのか。
ため息が、胸の中にあった何か固くて苦しいものを一瞬で砕いてしまった。
いや、本来そういうものだとは想像していた。生きていることは素晴らしい、そういって涙を流す人の顔に嘘の匂いは感じない。
ただ、それは僕よりもっと立派で賢くて善良な選ばれた人間だけが味わうことを許された特権で、僕みたいなどうしようもない人間には縁がないものだと思っていた。
僕には何ひとつ純粋で美しい感情はなくて、何をみても心は泥のように無反応で、ずっと鬱屈した暗くて醜いものだけを心の中に育てて生きていくものだと思っていた。
何だか、涙がボロボロとこぼれてきた。
↑エロゲから引用。
↓文学から引用。
《十字路に行って、みんなにお辞儀をして、大地に接吻しなさい。
だってあなたは大地に対しても罪を犯したんですもの、それから世間の人々に向って大声で、<私は人殺しです!>と言いなさい》
彼はこの言葉を思い出すと、わなわなとふるえだした。
彼はこの間からずっとつづいてきた、特にこの数時間ははげしかった出口のないさびしさと不安に、すっかりうちひしがれていたので、
この新しい、そこなわれない充実した感じが出口になりそうな気がして、夢中でとびこんで行った。
それは何かの発作のように不意に彼をおそって、心の中に一つの花火がポチッと燃えたかと思うと、たちまち一面の火となって、すべてをのみつくしてしまった。
彼は内部にしこっていたものが一時に柔らいで、どっと涙があふれ出た。
結論、俺にはわからない。
166 :
吾輩は名無しである:2008/10/29(水) 01:26:10
面白い純文学って最近出てるの?
167 :
吾輩は名無しである:2008/10/29(水) 02:18:24
お前が面白いと思うような純文学は古今東西探してもないだろうぜ
169 :
吾輩は名無しである:2008/10/29(水) 16:11:54
文章の切れ端を比べても仕方ねーべ
作品を取り巻く言説空間まで含めて「文学」があるわけで
ある種の権威なしに、こうした匿名掲示板で、コレは文学コレは文学じゃない
なんて言ってみてもね
居酒屋の駄弁ですわ
エロゲなんてスレ違いなレスしてすみません。
スレ違いついでに聞きたいのですが、
僕はswan songっていう蝿の王をドストエフスキー風な文章にした様な物語が好きなのですが、
そういった感じのモノでお勧めの小説とかってありませんか?
171 :
吾輩は名無しである:2008/11/16(日) 23:27:41
極死、七夜
↑これが厨二病エロゲ
172 :
吾輩は名無しである:2008/11/17(月) 00:34:50
私小説=純文学
らしいよ
横光利一によれば、純文学(彼の言葉では純粋小説)は話が偶然を排して必然的に展開されていくのに対して、大衆小説では読者の興味本位に偶然的要素で話を引っ張っていく…ようなことを読んだ覚えがあるな。
しかしこの見方では、表現レベルでの違いが見えて来ないが。
主人公の没落は純文学の十分条件だと思う。
175 :
名無し募集中。。。:2008/11/21(金) 18:04:47
大衆小説の元はプロレタリア小説。
元々小説を読む層は限られていたがプロレタリア小説は
労働者層も読んだ。そのことで労働者(=大衆)に小説を
読む習慣ができた。
それじゃプロレタリア文学が認知される前の
時代小説や情話小説、長編小説ブームはなんなんだ。
大衆=労働者は短絡的すぎるだろw
プロレタリア文学運動が文学の大衆化に功績があったのは確かだが、それ以前から娯楽的読み物はあったのも事実だな。
プロ芸よりも山路愛山の伝記ものの方が
よっぽど影響力があっただろう
それと、新聞連載小説とかね
そういう意味では大衆小説のパイオニアは漱石かな
文藝春秋の文學界とオール讀物を考えるとどうなるん?
通俗小説と言う言い方は死語なんじゃね?おれは通俗の方が大衆よりいいな。
しかし、よく考えれば通俗小説と言う言い方は死語ではないな。おれは否定的には捉えていない。
作家によっては気を悪くするだろうね。論文を書くとするとドストには大衆と言う言葉を使う事
はできないだろ?「通俗小説の外観を呈した(もしくは装った)最高の文学」とか何とか言いたく
なるだろ?ドストぐらいの大御所にならなければ通俗の表現への耐久性を持ちえないのかも知れ
ない。三島なら永すぎた春へのレヴューで通俗小説の外観の云々と書かれてもに充分耐えうるだ
ろう。しかし、永すぎた春を大衆小説と呼ぶのは変な気がする。
181 :
吾輩は名無しである:2009/02/21(土) 01:41:17
大衆小説は純粋に楽しみのために読むもの。
純文学は読み手が自分の権威づけのために読むもの。
182 :
吾輩は名無しである:2009/02/21(土) 01:57:06
でも大衆小説でも楽しくないのも山ほどあるよw人によるのなら純文学の楽しさだって人によるよ
183 :
由希 ◆Yuki.7nbiY :2009/02/21(土) 13:16:52
面白ければええやん
184 :
吾輩は名無しである:2009/02/21(土) 15:01:40
要するに作者がそこにいるかどうかだよな。
185 :
吾輩は名無しである:2009/02/21(土) 15:04:40
純文学:作家の経験や現実との格闘から練り上げられるもの
大衆文学:作家の妄想から生み出されるもの
ちょっとむりあるか。
186 :
吾輩は名無しである:2009/02/21(土) 15:42:56
作品から作者の顔が見えるかどうかだと思うな。
「ユリシーズ」からジョイスの顔が見えるか?
オレには見えない。見る必要もない。
それが文学だと思う。
一方「人間失格」には大宰の顔が張り付いている。
いやでも見るしかない。何故だかわかるか。
日本文学はアイドル文学なんだよ。
188 :
吾輩は名無しである:2009/02/21(土) 17:43:24
見えるよ。俺が言ってるのは作品群のことだ。
カフカの作品からはカフカの顔が見えるだろ。
って偉そうなこと書いちまった。作者萌え、ね。
だからガンダムは文学!なんて言わないけど。
189 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/02/22(日) 00:14:31
>>179 言ってることがめちゃくちゃ
漱石と同時代にはもっと「大衆文学」と呼ぶにふさわしい作家は何人もいる。
ていうか漱石は在世時はマジョリティにはマイナーだよ。
もっと勉強してくれ。
190 :
吾輩は名無しである:2009/02/22(日) 00:56:04
いや、そうとう知られてたよ。当時の朝日新聞の部数知ってるのか?
191 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/02/22(日) 01:08:17
>>190 すごいw
明治文学のアカデミックな研究者たちが驚愕する珍説だw
この話はまた後日する
関連論文を母校にいったついでにチェックして、
徹底的にオマエのこと批判して無知を笑いものする。
オマエは無根拠な自信があるみたいだが
私はもっとある。
私が関連論文の再確認チェックするまで時々蒸し返して引っ張ってくれ
そのほうが叩きがいがある
しかしバカまるだしだよな
漱石も口さがない連中からは「あんなものは通俗小説だ」などと腐されたものだが、裏を返せば、はっきり通俗と称される小説が確かにあったということだろう。
同時代で言えば、小杉天外がその代表か。
しかし少し溯れば尾崎紅葉がいて、彼は露伴と並び称される文豪だが、「金色夜叉」が女子供に絶大な人気を博していたのだから、ことはそう簡単ではない。
小杉天外も師匠は斉藤緑雨である。
ところで、「漱石は在世時はマジョリティにはマイナーだ」とのことだが、これはどう解釈すればいいのだろうか。
漱石が押しも押されぬ流行作家だったことは発行部数を時代に照してみれば疑いないが、その「大衆文学」の作家たちは漱石を遥かに凌いで売り捲っていたということだろうか。
そのあたりを明らかにしていただきたい。
193 :
吾輩は名無しである:2009/02/22(日) 12:31:36
これはチェリーパイの敗北で焼死ねぇ〜(笑) 鴎外よりは漱石は売れてたで焼死〜(笑) 小杉天外は鴎外の元へ弟子入り祈願し断られ鴎外の友人の斉藤緑雨へと逝ったと記憶して降りますけれども〜(笑)
そもそも当時明治に大衆も純文も区切り謎無かったのでは無いので消化ねぇ〜(笑) 私小説の走りが煤煙や蛍草〜(笑)因みに私小説は大正作家の久米謎が言い出しでは、と重い増すけれどもねぇ〜(笑)
チェリーパイ舞踊如きの阿呆類が学問と焼死、後年に分別分類したので笑殻ねぇ〜(笑)
専門的には分からないが、
自分の感覚では、
大衆小説→
娯楽の要素を沢山盛り込み、幅広い読者層が楽しめるもの。エンターテイメント性が高い読み物。
純文学→
様々な物語りの形を借りて、人間、人生の捉え所のない核心(美しさ、儚さ、醜悪さ、不可解さ等)を芸術的、哲学的に見つめていくもの。限りなく深く人間を探求する、思考性の強い読み物。
※一見大衆小説でも、深みのある作品はあると思うし、純文学でも娯楽性の高いものもある。はっきり区別できない場合もある。
刺すれば新聞小説は大衆ものゆえ紅葉筆頭に漱石謎は大衆作家となり増すねぇ〜(笑) ところが道草は純文と見る者もいる(笑)小説はどこからどこまでと逝った区切り謎点けられるものでも泣く、
そもそも作家本人すらどちらとも自覚の無いと逝ったところ、チェリーパイ舞踊如きの阿呆が分別分類して喜んでいる低脳の戯言なので焼死ねぇ〜(笑)
>>197 青空文庫にある直木三十五「大衆文芸作法」を読むと分かるけど、
明治の頃には、大衆小説と呼べるようなものはまだ通俗小説と言っていて、
それは主に新聞小説だったみたいだね。
「大衆」って響きがいやだな。自分を「大衆」に分類するなんてみんなもしてないだろう?
経済力は問題じゃない。矜持なんだ。庶民であっても矜持のある者は「大衆」とは言えない。
@読者に媚びない
A書きたいものを書く
B客観性がある
C説明部分が露骨でない、だけではなく、説明部分の文章が作品全体の調和を損なっていない。
D文章自体で魅せる事ができ、それを基礎に構成されているのは当然。
E決して”実験小説”の域に堕してはならない。奇を衒わない。注意を惹こうとしない。
F各エピソードは”必然の糸で”結ばれている。
@、A関する注釈だが、「書きたい」の動機の中に矜持があるはず。つまり、宇宙の摂理や法則や運命と言った
哲学的、宗教に的問題意識が「書きたい」の動機の中に存在するであろうけれど、その意識のベクトルの方向は、
外ではなく内を向いているはずなのだ。それが純文学小説。勿論、読者の理解や支持を求めるのは作家として当然だが、
それは書かれた結果=作品への支持や評価への要求であり、執筆の動機とは関係しないのだ。
文芸を初めてその手の矜持の問題にした一群は自然主義者たちでしたね。
若い娘が寝た布団の匂いを嗅いで涙した、なんて話を書いていた人たちです。
201 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/02/26(木) 23:34:52
203 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/02/26(木) 23:51:46
約束したのは、近代文学を講義することじゃなくて、
漱石の読者層についてのウンチクだろ。
でもって漱石の読者がマジョリティとは言えないことを論じるってハナシだ。
忘れちゃいないが、まあまて。
あんま待たせると忘れちゃうよ。
205 :
吾輩は名無しである:2009/02/27(金) 00:09:10
漱石が東大教授を辞めたときは物凄いニュースになったって話がよくでるけど
あれは知識人層に衝撃を与えたってことなのかね
206 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/02/27(金) 00:36:19
>>204 学問的な事柄はいつでも蒸し返せ。
私に向けて反駁したかったら相手になるさ。
ここは学問板。まったりする場所じゃないんでね。批判されてウダウダ言ってるクズはどうでもいい。
学問的にバカだったりすれば萎縮するくらいに、徹底的にお互いを批判しようぜw
うかうかすっと私も君もオマエも批判されて書き込みが全然でかなくなっちまう
こういう状態が一番ベストだなw
きゃははは
>>205 まあね。
これが意外に分かってない人が多いんだよ。
私の経験では生身でもたくさんいた。
あと大正の大衆社会化の知識大衆の増加と円本以降のマジョリティの近代文学認識の変容とかは
もう少し分かってくれよって感じ。
けっこう板のみんな無知だよね。みんなネットと文庫とそこいらの田舎図書館か新刊本屋レベルで
読書が終わってる。
しつこいが学問板なんで、お互いに学問的に正しければ批判はバンバンやるべきだ。
それで萎縮する奴、恨み節抜かす奴はただのクズなんで
学問板なんかに書き込むのはよせばいいだけのハナシだ。
207 :
吾輩は名無しである:2009/03/09(月) 22:04:58
学問として研究するに値するのが純文学
通俗小説、読み物が大衆文学かな?
208 :
吾輩は名無しである:2009/03/09(月) 22:24:53
天才が書いた傑作が正真正銘の小説。
娯楽の中でいくらかマシなのがいわゆる大衆小説。
その他に「小説」と名のつくものはあるだろうけれども、
いちいち詮索しない。
この二つは、書き手と読み手の間のサービスの原理が全く違う。
前者は「芸術家は失い、民衆は得る」。
後者の書き手は何も失わない。その代わり金を得る。
アホの隔離スレッドとして機能してるようで何より。
210 :
弧高の鬼才:2009/03/10(火) 10:08:51
自分で自分自身を巴投げして上空に飛ばせるのが純文学
211 :
吾輩は名無しである:2009/03/10(火) 10:28:35
自分で自分自身を背負い投げして、畳に叩きつけられるのが大衆文学。
212 :
弧高の鬼才:2009/03/10(火) 10:41:51
なんでもかんでもパクって それが一目でわかるのが大衆小説
213 :
吾輩は名無しである:2009/03/10(火) 13:53:05
なんでもかんでもオリジナリティを追求しすぎて、一目でわからないのが純文小説。
214 :
吾輩は名無しである:2009/03/10(火) 15:36:44
作家の自己表現であるかどうかだな
215 :
初老性妄想全開及び合法的一夫多妻作家Gの迷走地図:2009/03/10(火) 15:45:54
掃溜めに鶴の俺が来たぞぅ、にゃろ。
「大衆小説と純文学の違いを知りたくて」
だぁ?
簡単じゃねぇか。
俺の書くのが純文学で、それ以外は爆笑エンタメだ。
216 :
初老性妄想全開及び合法的一夫多妻作家Gの迷走地図:2009/03/10(火) 15:47:26
糞太郎は自演も満足にできない、まで読んだ。
218 :
吾輩は名無しである:2009/03/10(火) 15:48:52
シャブ中ですが何か?
219 :
吾輩は名無しである:2009/03/10(火) 15:55:39
学問としての小説にはナンの興味もない。
何が面白いの?
220 :
吾輩は名無しである:2009/03/11(水) 16:04:27
学問としての小説ってなに?
具体的な作品名を挙げてくれ
221 :
吾輩は名無しである:2009/03/11(水) 17:46:26
学問としての小説とは「文学」と称呼されるすべての作品のことだ。
220は極めて観念的な「文学」を具体的に説明することができるか。
できなければ、おい、そこの高橋源一郎。アンタはどうだ?
222 :
吾輩は名無しである:2009/03/11(水) 17:53:46
ディスコミュニケーションをテーマに掲げる太郎に
「コミュニケーション不全のイタい男」的な批判は的外れ、まで読んだ。
なんだ、唯野教授みたいなのを想像した。もしくは、
そんな本があるものか寡聞にして知らないが、
「マンガで読む〜」の小説版。
さて、「具体的に」と言うが、それは外延を示せ
ということか?
だがしかし、そんなことは人間の能力を超えていよう。
従って、こう言っておく。
読解可能なすべてのテクストが文学だ。
224 :
吾輩は名無しである:2009/03/11(水) 18:26:00
>読解可能なすべてのテクストが文学だ。
その「学」にはどんな意味があるんだ?
あんたロマンチストか?
不潔だな。
まるで高橋みてぇだ。
端的に言えば、writingの意味しかない。
>>225 おまえさんは、分類には長けているかもしれないが、
文学をわかっちゃいないな
229 :
吾輩は名無しである:2009/03/30(月) 22:09:06
自分の感覚では、
学校の教科書に載るのが純文学で、載らなくても面白いのが大衆文学
純文学なんていらねーよ書いている作家がショボイんだから作品もショボくなるよ かといって太宰治みたいな生き方もイヤだけどね
純文学は料亭、大衆文学は食堂
カフカだけが純文学
筋を追うことそのものが目的の小説・・・大衆小説
筋の裏にある作者の主張や感性を見抜くことが目的の小説・・・純文学
235 :
吾輩は名無しである:2009/05/31(日) 02:57:35
そもそも大衆小説なんて文学として認めてないから、
文学かゴミかの違いがあるだけだ
傑作は文学、それ以外はゴミ
マナちゃんが好きなのが純文学、カナちゃんがすきなのが大衆小説
山田詠美
糸山明子
綿谷りさ
金原ひとみ
津村紀久子
↑
純文学(芥川賞を取った、もしくはその審査員だから)
宮部みゆき
桐野夏雄
↑
大衆文学(直木賞を取ったから)
238 :
吾輩は名無しである:2009/06/01(月) 00:34:33
うん、そのとおりだよ
宮部、桐野から筋取ったら途端に読めなくなる
筋がなくても面白いのが純文学
>>237 山田詠美は芥川賞落選後、
直木賞をとっているしわかりずらい。
日本の純文学は精進料理、大衆文学はスキヤキ。
山田詠美は挫折した漫画家なんだよな
1970年代の少女マンガの高みと比べると、笑止と言わざるを得ない。
似たパターンとして、映画に憧れて果たせなかった手合いも多い。
エロゲの話はいい線突いてると思う。
文芸内部でグルグル定義論をやっても、分類の役にしか立たない。
寝ながら読むのが大衆文学。純文学は座って読む、なぜなら読んでるうちに眠くなるから。
243 :
吾輩は名無しである:2009/10/03(土) 12:52:16
大人になれない奴が読むのが純文学
おっさんが読むのが大衆小説
245 :
吾輩は名無しである:2010/02/09(火) 18:32:53
山岡壮八の徳川家康、一巻の半分までよんだが、あまりの下らなさに
唖然。吉川英治のほうがはるかにまし。かといって、
吉川が純と言うわけではない。
山岡壮八の悪口は民主党の山岡ケンジが許しませんよ
247 :
ザ・スミス:2010/02/09(火) 18:38:42
純なのは俺。
ラノベこそ世界最高の文学
ガイジンは遅れてる
日本人はラノベを読めることを誇りに思うべきだ
素粒子<<<<<<ハルヒ である。
アホくさ。純文学なんて言葉、
元はといえば売れない作家の自慰だろうに。
こんな言葉が現代にまで残ってるのがおかしいわ。
売れないエンタメ作家はすぐ消えてね
罪と罰から筋を抜いたら成立しないと思うが、
罪と罰は通俗小説か?
カフカは売れなかったからクソ
売れた自店で価値がでた
横光利一はドストエフスキーはストーリーが面白い(=不自然)から
日本の文学者からみれば通俗小説だって言ってたな
トルストイもスタンダールもそうだと
254 :
吾輩は名無しである:2010/02/10(水) 18:57:28
山壮の徳家は一時中小企業の経営者に人気。小説よんで経営できるんなら
おら、とっくにsony,panasonic,toyota.
255 :
吾輩は名無しである:2010/02/11(木) 14:50:13
富田常雄:姿三四郎 は大衆文学では出色の出来栄え。
256 :
吾輩は名無しである:2010/02/11(木) 21:07:22
長谷川伸の荒木又衛門ええな
吉川文学にはあって、これまでの純文学に欠けているものは何なのか。挙げ
てみるとまず第一に物語性ということに違いない。純文学では物語性はどうし
ても第二義的になってしまう。初めから作家が重きを置かない。
吉川英治の物語性の背後には、日常的な、ごく普通の生活から発する好奇心
があるのではないか。日常生活を送りながら体験するさまざまなこと。どんな
ことでもいい。あの時にけんかをしたら涙がこう出たとか、いや別な女はこん
なふうに涙をためたとか、そんな日々の生活の機微に大そう惹かれる気持ちが
物語性の細部を成り立たせている。
純文学作品だったら、それは第二義的でいいと思うようなささいなことかも
しれない。でも本当は大事なことなのだと思う。
258 :
吾輩は名無しである:2010/02/15(月) 19:04:23
源氏物語は大衆文学のはしりじゃ
大衆小説っていう言い方がおっさん臭い
260 :
吾輩は名無しである:2010/02/16(火) 11:51:58
261 :
吾輩は名無しである:2010/02/16(火) 21:42:59
大衆文学の小説は誰が書いても面白いというような内容
純文学の内容を他に書かせたらそれはだたの駄文になる
262 :
吾輩は名無しである:2010/02/17(水) 11:24:40
純文学ってのは
売れない作家のコンプレックスの裏返しみたいなもんだからな
まあドストエフスキーにせよ漱石にせよ
当時の流行作家だったからこそ作品が残ってるわけなんだが…
263 :
吾輩は名無しである:2010/02/17(水) 18:59:30
大衆小説か純粋小説か、どちらが良いかは趣味の世界で論証不可能な
議論を繰り返すのが大衆的か純粋か?
264 :
吾輩は名無しである:2010/02/17(水) 19:20:30
大衆文学と純文学の違い? 簡単だ。
純文学だと言い張れば純文学となる。
わからない? じゃあこれはどうだ。
出版社に栄養費をもらってる関係者のごり押しで辛うじて売れるのが純文学で、
口コミで広がるのが大衆小説だ。
265 :
吾輩は名無しである:2010/02/17(水) 19:21:36
↑。
はっはっ。
あんた、いつも楽しいから好きだ。
そもそも文学と純文学の違いが分かりません
純文学は文学の一ジャンルってことでいいの?
文学の定義が明確に定まってないのに言葉だけ一人歩きしてしまってる感じ
268 :
吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 11:54:24
文とはロゴスだから、ミュトスがあるものは純文学じゃないと言ってるバカがいました。
269 :
吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 18:56:24
大衆文学=臭くて一過性=故に体臭文学
純文学=色褪せないまま
大衆文学なんて言葉があるのが混乱の元なのかしらん
271 :
吾輩は名無しである:2010/08/16(月) 19:03:38
椎名桜子は大衆文学ですか
272 :
吾輩は名無しである:2010/08/17(火) 00:29:25
セックスの描写が2回〜400回までだったらそれは、大衆小説だ。
それ以外なら純文学だよ。
テレビで大江が、
自分が書きたいものを書くのが純文学、読者が読みたいものを書くのが大衆小説
みたいなこと言ってた
芸術文学、一般文学ってとこかしらん
275 :
吾輩は名無しである:2010/08/17(火) 16:02:28
非モテが読むのが純文学
非モテが言っても説得力がない
もてるやつが葛西善三やハルヒ読んでても気にならないが、
非モテが読んでたらキモイだけだろ
純文学は非モテの革命概念なんだよ
もてない奴は文学もしくは文化を語りたがる
もてるやつは楽しむだけだ
よくわからない…あなたが楽しめる小説って例えば何?
だんとつで好きな作家は、シモン、デリーロ、カフカ、漱石
面白かった小説はむろんもっとある
俺が言ってるのは何が純文学で、何が大衆文学かよりも
読んでるやつがどんなやつかが重要ってこと
不細工で暗い奴ほど俺の読んでる本て凄いんだぜって言うってこと
自己紹介しなくても・・・
見えない敵と戦ってるんじゃね?
>>279 >俺が言ってるのは何が純文学で、何が大衆文学かよりも
>読んでるやつがどんなやつかが重要ってこと
>不細工で暗い奴ほど俺の読んでる本て凄いんだぜって言うってこと
それって単に頭の弱い人じゃないの?
283 :
吾輩は名無しである:2010/08/19(木) 10:59:45
そだね
俺が言いたいのも同じ事
まとめると純文学とか言うやつは頭が弱い、暗いそして不細工
俺はそんなこと言ってないんだけど…あなた本当に頭いいの?
ところで何でこの板チンシュスレがないの?
>>284 あなたの文章は短すぎて言わんとしていることがよく分かりません
もう少し長く説明してください
私の意見は、純文学、もしくは純文学という言葉を使うのはダサい
ただの権威づけに見えるからです
権威づけはダサい
そして、そういうことする奴ってそもそもがダサいし頭悪い
ってことです
いずれにせよ、あなたの意見を分かり易くおっしゃって下さい
まあ、純文学なんて言葉を使ってる人はあまりいないよね。単に文学でいいよ。大衆文学の中にも文学的な作品はあるしね。
ついでに聞くけど「文学的」って何?
あなたの書き方だと「大衆文学」には少なくて、それ以外にはそこそこあるのかな?
具体的な小説名もしくは作品名を二つ三つあげて、「文学的」とは何か教えてください
俺の趣味がバレちゃうからお断りします!
>>288 お前が一番暗くて性格悪そうなんだが・・・
2chだからね勘弁してよ
スレ違い?スマンかった
292 :
吾輩は名無しである:2010/08/20(金) 12:06:55
自分思うんすけど、人の心にしろ歴史社会にしろ、
てめえのいる世界がどうやって成り立ってんのか、
それぞれの切り口から見せて教えてくれんのが文学で、
娯楽限定なのが大衆小説なんじゃないすかね。
純文学と文学の違いはわからないですね。
293 :
吾輩は名無しである:2010/08/20(金) 13:10:45
文学を読み始めて5年目の今の俺の文学観とは
アカデミズムであれ芸術的手法であれ
物事を、ある手法・視点から捉え、価値を見出し創造すること
これが文学であると思う
294 :
吾輩は名無しである:2010/08/20(金) 13:15:18
逆にエンタメは
ただのストーリーの垂れ流し
295 :
吾輩は名無しである:2010/08/20(金) 14:15:23
>>293 いいこと言った
ただ実験小説はわからない
前衛を超えて今の文学の潮流がどこに行ってるのかもわからない
誰か教えて
具体的な作品名あげて説明しなきゃ
例えばベルンハルトの消去
これはエンタメ
松本人志の一人ごっつみたいなもんで爆笑必至
例えばロブグリエの反復
これも良くできたエンタメ
エロとロリとサスペンス、メタフィクションがいーかんじのバランス
人によってはセンズリにも使える
価値とか創造とか前衛とかよく分からない単語使っても仕方なくね
面白いかどうかがすべて
面白いかどうかってのは多分に主観に左右されるもんだし
面白いかどうか、っていう言葉は、面白くないものは存在価値がないっていう判断が隠れてる気がするZE!
298 :
吾輩は名無しである:2010/08/20(金) 18:09:25
総読者の中に作家の占める割合が高い作品が純文学。
作家の書いた物を作家が読んでそれを基にまた作家が作品を書く。共同幻想的な架空の歴史意識を持っているかいなかがポイント。そんな専門家による閉じた世界が純文学の世界。良し悪し別にして、純文学って内輪による幻想の世界だと思うな。
299 :
吾輩は名無しである:2010/08/20(金) 18:31:03
「純文学」の世界を信じる人が書いた作品が純文学かな。
皆が共有する「純文学」の世界観(作品群のシステム、端的に言うと文学史)がなくなったから混乱が起こってるんだろう。
300 :
吾輩は名無しである:2010/08/20(金) 18:37:12
歴史観ないと作品をその都度感覚的に判断する他なくなる。
印象批評が全てになってしまう。
というかそもそも誰が何のために純文学なんて言葉を使いだしたんだ?
無駄に踊らされてる気がしてきた。ふんがあ
そんな事じゃないよ。純文学ってのは文學界、群像、新潮、すばる に掲載された小説の事なんだ。
純文学って言葉は日本だけのものだよな
純文学=芥川賞、大衆文学=直木賞だったと思うけど
両者の境が曖昧になり始めたのっていつごろだ?村上春樹がデビューしたあたりか?
そこで純文学にも大衆文学にも入れなかった人は悲惨だよね田中小実昌とかさ。
そこそこ売れてたら別にいいのか。問題は売れなかった人だよなあ。
>>296 問題なのは「面白い」の質でしょ
頭空っぽな状態でも楽しめるような面白さっていうのはやっぱり低級だと思うし、そこをすっ飛ばして
「面白いかどうかが全て」っていうのは味噌も糞も一緒にしてるようにしか見えない
頭からっぽの方が夢つめ込めるけどね。
やっぱり絶望が欲しいよね文学には。
最近久々に小説を読んだら、ぜんぜん面白いと感じられない
中学で村上春樹にはまってから色々読んだけど、面白い小説なんて全然無い
「人生の意味」も「現代社会」も要らん
小難しい必要も無い
いい音楽や、麻薬のようにただ純粋に面白くて、気持ちよくなれる本が読みたい
でもそれってもはや文学じゃないのか?そんな小説存在しないのか?
スレチかもしれんが、もしそんな小説を知ってたら、俺に教えて下さい
ちなみに最近読んだ中島ら物デビュー作は割とよかった
連投すまん
キャラ萌えなラノベは正直辛いが、
滝本竜彦とか乙一とか、大槻ケンヂとか、あの辺のはこむずかしくなくていいかもね
311 :
吾輩は名無しである:2010/08/23(月) 18:50:25
>>308 「人生の意味」も「現代社会」も深く描かれない小説があったとしても
それは無意味さとかを称揚するお話になっちゃうんじゃないの?
まあ平野啓一郎の有名なのとかいいのかもw
>>310 レス、サンクス
読んでみます
やっぱりスレチすぎるので意見はもういいです
スレ汚しすいませんでした
例えば日本の音楽は、頭悪くて浅い、商業主義的なごみみたいなものばかり蔓延している
だけど文学だって、ただ難しい言葉を並べ、見せかけのようなものばかりで、ひとの魂を揺さぶるものなんてぜんぜん無いじゃないか、というようなことを考えているとだんだん鬱な気分になってくる・・・
個人的に村上春樹は特別な作家ですが、新しい才能を見つけたいと思うのです
あるいは俺が小説に多くのものを求めすぎているのかもしれないけれど・・・
ということで、あとは自分で探してみます
313 :
吾輩は名無しである:2010/08/23(月) 18:57:02
>だけど文学だって、ただ難しい言葉を並べ、見せかけのようなものばかりで、ひとの魂を揺さぶるものなんてぜんぜん無いじゃないか
もういいっていうのにあれだけど、これは君が読んだ作家の問題意識と君自身の問題意識とが
合致してないからピンと来ないだけじゃないの
中島らも(笑)
問題意識というのはよく分かりませんが・・・
俺は文章を自分に通過させるように、言葉を心の穴に投げ込むように呼んでいるだけです
自分に問題があるというなら、それはおおありだと思います
ストライクゾーン狭すぎ、みたいな
でも、要するにただ気に入るものが少ないというだけなのです
もしあなたが文学を好きで、俺がそれを馬鹿にしてるように受け取ったなら、すいません
でも、もしそうならそれは嗜好性の問題です
なんか論点がずれてて、とんちんかんなことをいってる気がします(俺が)
俺と貴方の問題意識が合致して無いからかな
現代文学自体がどん詰まりだからしょうがない
古典読んでりゃいいと思うよ
>>312 俺はドストエフスキーや遠藤周作を読んで無茶苦茶感動したけどなぁ
難しい単語なんてほとんど使われてないし、見せ掛けじゃない宗教的見地を見せてくれたよ
君が好きな村上春樹は何が言いたいのかさっぱり分からなかったから数作しか読んでないけど、自分が一体何を求めて言葉を追うのか、読みながら言葉と言葉の関連をかみ締めるように読みながら読むと一冊の本から得られる物の質がまったく変わってくると思うよ
ドストを訳書で読んでる奴が言っても説得力ないかもしれないけどね
318 :
(o`.´o):2010/08/23(月) 22:21:41
愛子さまの水泳特訓で巡視艇が出動死たという馬鹿げた日本で(笑)愚作ヘボンはイジメは善か悪かを論じ(笑)弱じゃに虐められたく鳴くば超人に鳴れといいたいので症が(笑)未央子はそれを愛子さまに痔下に逝って貰い鯛ものですねぇ〜(笑)
319 :
(o`.´o):2010/08/23(月) 22:24:31
318は誤爆の巻ということで〜(笑)
文学としての可能性を模索するのが純文学であるといえば
今の純文学のメインストリームは村上春樹な気がしてしまう\(^o^)/
阿部和重だろ!
読んだことないZE
面白い?
面白いですよ!!
ありがとう
図書館行ったら手にとってみよう
文庫でもいいから買いましょうよ。
ここんとこ買い込みすぎて数日金がない
俺なんて新刊を借金で買ったよ!
>>317 レス有難う
俺も数年前にドストエフスキーとかカフカとか色々読んだけど、いまでは余り興味が持てないんだ
頭が悪くなったのかもね(何しろ中島らもが好きなわけで…)
村上春樹の偉大な点は、読みやすいところだと思う
名の知れた作家はそれぞれの文体を持ってるけど、その中でも入り込みやすい文だと思う
まあそれも好き嫌いというか、合う合わないの問題かもしれないけど・・・
俺の理想としては、音楽的な文章、みたいな・・・
バンドの、たくさんの楽器のアンサンブルが、ハーモニーを作り出し、聴いた人が気持ちよくなれるような・・・
深い意味が無くてもいいし、文学的じゃなくてもいい(今のところ)
そういう意味で、ある一つの完成形として村上春樹の文章(文体)がすきなんだと思う
だから俺は内容より文体重視なのかな
歴史に残る文豪もいいけど、できたら現代に生きる日本人が、自然な日本語で書いた文章がいい
(馬鹿な俺にはバッハやベートーベンは分からんのです。ロックやポップがすきなのです)
「言葉と言葉の関連をかみ締めるように読む」って、なんかいいね
長々と意味不明なことを書き連ねてすまん(スルーしていいです)
329 :
吾輩は名無しである:2010/08/26(木) 10:42:19
クラシック音楽はBGMとして垂れ流すのではなく
鑑賞するという姿勢をもって聞かないと面白さが分からない
330 :
吾輩は名無しである:2010/08/26(木) 10:50:18
アカデミズムであれ芸術的手法であれ
物事を、ある手法・視点から捉え、価値を見出し創造すること
という本質は前衛芸術でも変わらない
ただ捉える対象が変わってきているだけなんだ
芸術にはピカソ前、ピカソ後とあって
ピカソの芸術は、その素晴らしさ故に有機物の芸術に絶望をもたらした
331 :
吾輩は名無しである:2010/08/26(木) 10:54:39
現代を捉えるに適しているであろう、
思想的に考え、近代に正統であると思われる文体を発明したから
いつかお披露目できたらと思っている
332 :
真間一(ままはじめ):2010/08/26(木) 21:22:29
>>330-331 お前文才ないよ、と云う感覚がのっぴきならず伝わってくるよー。
文体だけなら偉大なる貴方の「いつか」は現代に通じるにしても、
永遠にさえなるだろうから、一筆したためてみたら……。あはは!
333 :
吾輩は名無しである:2010/08/27(金) 11:24:22
文才のあるなしの評価は難しいと谷崎のような名人でさえ言ってたがなあ
>>332さんが谷崎を超える文豪なら話を聞いてやってもいいかな
ラノベで純文学のように、新しい試みに挑戦してる、と思える
作品に出会ったことあります?
335 :
吾輩は名無しである:2010/08/27(金) 18:58:11
大衆小説とは、人々にアピールする力のある作家が書いた物で、
純文学とは、それができない馬鹿が、実力の無さを誤魔化して書いた物。
大衆小説が売れるのは、当然の結果である。
「純文学」として小説が紹介されていたら、読みたくなくなる
つまらなそうだから
「大衆文学」はまだ好感が持てるが、自分がもし小説を出して、そう小説を紹介されたら腹が立つ
深みが無い、というような意味を感じるから
大体、純文学の対義語って大衆文学なのか?
商業性と芸術性は両立した小説は何文学なんだ
>>332みたいな意見はよく分からん
糞だらけの音楽ランキングを肯定してるのと同じ意味なら、おまえが馬鹿だ
大衆小説なら分かるが、大衆文学って何だ
338 :
吾輩は名無しである:2010/08/27(金) 21:43:08
大衆小説とは、普通の人々の普通の感覚に訴えることを狙って書かれた物で、
純文学とは、それからはずれる、普通とは違う、ある新たな発見を伴う内容を書いた物。
だから大衆小説が一般的に売れるのは当然のである。
希少価値として長く残るのは純文学だが、それもまた当然。
要するに、普通のものが好きか、変なものが好きか、によって好みが分かれる。
現在生きてる作家の小説で
100年後にも読まれてる作品って何だろうなぁ
>>338 村上春樹は何故売れたんですか?
wikiだと純文学に分類されてますが
〉普通のものが好きか、変なものが好きか、によって好みが分かれる
さすがにそれはまずいでしょう
俺が思うに、純文学はともかく大衆小説って死語なんじゃないか?
大昔の、貴族向けと庶民向けみたいな分類のあったころならともかく
現在は多種多様なものがあって、ジャンルもかなり細分化されてるし、余りに大雑把なくくりだよね
「ポピュラー音楽」みたいな
俺の勝手な言葉のイメージかもしれないけど、「純文学」「大衆小説」のくくりだと、かなり重なった部分が有るような感がある
「純文学」とその他っていうイメージにはならないんだよね
かなり個人的な意見だけど・・・
341 :
吾輩は名無しである:2010/09/04(土) 06:49:01
純文学とは明治以降の純日本産の概念で
成り立ちについてはよくわからない
しかしいつのまにかそれで食う一定数の人間が生まれてしまったので
ハウスメーカーが社員食わせるためにマンションなり建て売り住宅なりを
作り続けなければならないように
日々そのよくわからぬ概念を更新しながらある傾向を持った人間によって生産され続けているものです。
近松も一九もカラマーゾフの兄弟も純文学ではありません
342 :
吾輩は名無しである:2010/09/04(土) 08:02:30
マンションなんて日本語も歯が浮くような用語だな。
実際は、ただの箱型重層な複数住宅、つまりは形を変えた長屋じゃあないかい。
ごたいそうなカタカナの名でっちあげ、実態は何も変わらないのに、さも「上級なもの」に見せかける。
この国特有の(いや、どこの国でもそうかも知れないが)、商売人の似非用語だよ。
「純文学」も然り。「純文学」が実態として存在するならば、「不純文学」も存在するはず。
そうならば、「不純文学」が即ち「大衆文学ということかい!!
これはバカバカしくて話にもならんよ。
昔、山本周五郎が、純文学小説と大衆小説の相違について訊かれたとき、
彼はこう答えたそうだ。「小説には面白い小説と、面白くない小説のニ種類しかありません」と。
そのとおりさ。「純文学」!!! こんなに空疎な用語も、めったに、あるまい。
長い
344 :
吾輩は名無しである:2010/09/04(土) 18:12:31
でも、面白さにも面白さの種類というものがある。
345 :
吾輩は名無しである:2010/09/04(土) 18:51:30
違いはあるにしても、中間的なものもあって連続的な場合、
違いそのものがない、と言い立てる方が、論陣としては優位に立つことになる。
これは哲学で「ソリテス・パラドックス」といわれるものの一種だ。
しかし、あらゆる場合にそうだが、クリアな区別がないにもかかわらず、典型例による区別は残り続ける。
例えば、現代でいえば古井由吉の作品などが「純文学」の典型だろう。
もし読ませたら、かなり多くの人が、全く面白くないし、意味も分からん、と言うだろう。
大衆小説の典型は、現代のものはあまり読んでいないので知らないが、
読んだことがある古いものでは、菊池寛の小説。
少なくとも当時の非常に多くの人(つまり大衆)が面白いと思って読んだと思う。
結局、そんなに意味の無いくくりなんじゃないか?
書店の本棚に「純文学」コーナーだの「大衆小説」コーナーだのがあるわけじゃないよね。(あるのかな?)
まあ「面白くない小説」コーナーを作るわけにも行かないし・・・。
山本周五郎(正直読んだ事無い)を読んで死ぬほどつまらんてやつもいれば、売れない小説よんで絶頂に達するやつもいるだろうし。
でもまあ、便宜的なくくりとして全く無意味ではないと思う。
たとえば俺は今年の芥川賞の作品を立ち読みして、「純文学だなあ」と思った。
347 :
吾輩は名無しである:2010/09/04(土) 20:45:00
「ソリテス・パラドックス」って何ですか?
348 :
吾輩は名無しである:2010/09/04(土) 21:49:12
漫画で言うと
水木しげるは純文学
手塚治虫は大衆文学
今日の日中にじぶん、ベランダで甲羅干ししながら読んでたんだが
『日本婦道記』を、――んで、思った、「ああ、悩むことはないな」って。
知性のかがやきを欠いたものは、間違っても「今の」じぶんであれば、と。
そりゃまあ、そのうちの幾つかには、なかされたけんどもね。でもそれはそれ。
カタルシスなんてしょせんはスイッチなんだから。
うん。やっぱり、人間だろうと。全方位的な強度がそこでは求められる。
ふつー、には無理だよやっぱ。そういうもんだ。
351 :
吾輩は名無しである:2010/09/05(日) 09:09:53
>>347 髪の毛が一本ずつ無くなっていくとする。
どの一本が無くなったとき禿げ頭になるか?
みたいなやつだろ。
ふさふさと禿げの区別はもちろん「はっきり」あるけど、
境界線は「どこにも」ない。
352 :
吾輩は名無しである:2010/09/06(月) 08:18:12
>>344 少なくともオレには無いな。面白かったか、クソ面白くもなく途中で放り投げたか。
その、どちらかさ。単純明快よ。ただ、読むときの気分とか歳とかで、「面白さ」が変わってくるとは言えるわな。
まぁ、なにかと差をつけたがる「批評家」という寄生虫どもには、「差」は、飯の種だから生活上必要なんだろう。
353 :
吾輩は名無しである:2010/09/06(月) 09:54:02
>>349 なに言ってるのかぜんぜん判らない。
甲羅があるくらいだからこいつ人間じゃないんだろうけど。
カッパ語だったりしてw
>>352 こいつも。無いと言ったりあると言ったり。
まあ、こいつは妖怪じゃなく単に頭が悪いだけみたいだがな。
354 :
吾輩は名無しである:2010/09/07(火) 00:35:37
素直に自分が面白いと感じるのを読めばよくね?
純文学は既存の価値観を揺るがし云々とか言ってるやつは具体的な作品名上げて説明してくれ
自分の中で何を高級と判断するかが、一人一人違うだけ=好みの問題
って分かるだろうから
355 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2010/09/07(火) 02:14:56
>>354 自分がおもしろいと思う本は所詮その人レベルの本だよ。
君がよっぽど素晴らしい人間なら別だけど。
幼児におもしろい本選ばせているのと変わらない。
どうせ読みやすいものを無意識かつ意識的に選択しているんだろう。
私は読みたくない本を読んでたけどね(今はちがう)。
前近代の日本の知識人はおおむねそんな感じの読書をしている。
おまえのキモイ自分語りになんか誰も興味ねーんだよ。バーカ。
レスの無駄遣いになるだろうが。迷惑考えろよ。ド低脳が。
357 :
吾輩は名無しである:2010/09/07(火) 07:35:36
幼児どものお喋りばかり・・・
昔、テレビ→一億総白痴化と言われたが、今やネット→総幼稚化!!
純文学と大衆小説の相違? いまどき、ひま人の寝言だわな。
358 :
吾輩は名無しである:2010/09/07(火) 09:16:09
>>353 352 だが、おまえ、よく読めよ。
「無い」と言ったのは、「面白さの種類は無い」と意味さ。これでも分からんか?
(まだ分からんだと!! じゃあ、おまえ、中学校の数学の復習をしろ?)
357の言うとおりだ。バカバカしい、もう止めた。
359 :
吾輩は名無しである:
>「面白さ」が変わってくるとは言えるわな。
種類がないとするとどう変わるんだかw
で、中学の数学を復習するとこの魔術の解法が体得できるとおっしゃる。
この人も妖怪変化の仲間かもな〜