☆★☆★ドストエフスキー☆★☆★Part17

このエントリーをはてなブックマークに追加
13吾輩は名無しである

訳は悪いとは思わないけど、亀山某がバフチンを理解しているかどうかはきわめて疑わしい。

初めて読む人は『カラマーゾフの兄弟5』(光文社古典新訳文庫)の解題にポリフォニー云々と書いてあるけど出鱈目なので信用しないように。
亀山は解題(p200)に自分で書いている「第一義的なポリフォニー性の意味」さえ理解していないのではないか?
(昔から文庫本の解説ほど当てにならないものはないと世間でいうのは本当のことなんですね...)

亀山が「ポリフォニー精神」とか「ポリフォニーの原理」と呼ぶのは登場人物がそれぞれの思想を持ち互いの視点を相対化してみせるというだけのこと。
そんなものなら、わざわざ「ポリフォニー精神」とか「ポリフォニーの原理」などと大げさに書く必要もない。
解題(p210p217p236p243p245p247p248)などで亀山がポリフォニー(ポリフォニック)と書いていることは単に「多様的」「多元的」「相対的」「相対化」「複数化」などの
言葉を当てはめれば事足りる。ただし、(p309)の「ポリフォニー的読み」は意味不明。(多元的くらいの意味か?)

おそらく亀山は「モノローグ的対話」をポリフォニーなのだと思い違いをしているように思われる。
そのために、「このセリフは(省略)登場人物の独立を保証すべきポリフォニーの原理にさからうセリフ、といえるかもしれない」(解題p281)などと頓珍漢なことを書いてしまう。
ここは、まさにバフチンが『ドストエフスキーの詩学』で「ポリフォニー」の際立った例として詳しく考察している場面であるにもかかわらず。
もちろん「ポリフォニー精神」とか「登場人物の独立を保証すべきポリフォニーの原理」というものは存在しない。
それは、バフチンのいう「モノローグ的世界」に過ぎない。話は全くの逆で「精神はポリフォニックである」といわなければならない。
(「ポリフォニーの原理」という言葉はバフチンも使っているが、亀山のいうのとは全く違う意味でである)
14吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:29:42
想像するに亀山はバフチンを引用しこそすれ、その実ほんの数ページを読んだことがあるだけで、まともに読んだことさえないのだろう。
バフチンをちゃんと読んでいるのなら「ミクロの対話」や「アクセントの移動」「言葉の対話的な分裂」「意識の分裂」を知らないはずはないのだから。
そして、それが「ポリフォニー」の根幹に関わる概念であることも。
おそらく亀山は様々なレベルがあるといいつつ(p200)、ポリフォニーを「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想」と単純に理解しているために間違った解釈をしてしまったのだろう。
(「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想」はポリフォニーのほんの一部にすぎない)
だから、せいぜいが「ポリフォニー精神あるいはポリフォニーの原理=複数の視点による相対化」というくらいのことしか言えない。

しかし一方で、亀山は解題(p253)で「登場人物は、真実のいくつもの層をそれぞれの役割に即して語っている。ポリフォニー性とは、真実のさまざまな層同士の対話ということになる」
という記述もしているのだが、ポリフォニーを「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想(真実)」と解釈しているために、やはり本来のポリフォニー概念を捉え損なっている。
解題(p264)の記述も惜しいがここでも的を外してしまっているように見える。
15吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:32:35
とはいっても、亀山が誤解するのも無理はない記述をバフチンが『ドストエフスキーの詩学』の初めにしていることも事実ではある。
「それぞれに独立して互いに溶け合うことのないあまたの声と意識。それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、
ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである(省略)それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま、
何らかの事件というまとまりの中におりこまれてゆくのである」(『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫p015)
亀山は、おそらくこの「互いに溶け合うことのないあまたの声と意識」「複数の対等な意識が、各自の独立性を保ったまま」という言葉に引きずられてしまい
「ポリフォニー」の意味を捉え損なったのだろう。これは「あまたの声と意識が」」ある特定の真理に「単一化=モノローグ化」されることは決してないという意味であり、
独立が保証されているのは登場人物なのではなく、あくまでも「あまたの声と意識」の方なのだ。
そしてそれは「あまたの声と意識」が他の「あまたの声と意識」と対話を始めることを何ら妨げるものではない。
16吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:33:26
ポリフォニーを大雑把に要約してみると... (オレも人に講釈を足れるほどバフチンを理解しているというわけではないが)

多くの登場人物たちが、それぞれの思想をもって論争するのだが、それぞれの思想は首尾一貫した「モノローグ的な声」なのではなく絶えず個人の内部で論争をしている。
思想は常に他の思想への応答としてあるからだ。また論争(他人や自分自身との)での言葉の反復は、同じ言葉のままであるにも関わらず元の話者による言葉の意味に
不可避的に別の意味を付け加えたり欠落させたりせずにはいない。同じ言葉に「新しい我々の理解、我々の評価を引き込んでしまう」(バフチン)からだ。
そして、それが自分自身による言葉の反復であってさえ。このような「アクセントの移動」は「言葉の対話的な分裂」「意味の変化=複数化」「意識の分裂」を引き起こす。
(「イデエ=思想」の「複数化=多声性化」)
そして分裂したそれぞれの断片が絡み合い遮り合い交じり合って様々なレベルを飛び超え「あべこべ」になり「ちぐはぐな組み合わせ」になり互いに「無遠慮な接触」をして
結びつき複数の重層的な対話を始める。(カーニバル化)
イデエ=思想は、それらの間を通りアクセントを変え様々に変形し意味を変える。イデエ=思想とは、そのような様々に交じり合いアクセントを変え意味を変えた断片の集まりである。
またイデエ=思想は個人の内部にあるのではないし個人を離れてイデエ=思想があるのでもない。
「複数の声と複数の意識の接点において、イデエは生まれ、生きる」「その生息圏は個人の意識ではなく、意識同士の間の対話的な交流の場なのである」(バフチン)。
しかも個人の内部においてもイデエ=思想は分裂し絶えず論争し合っていて果てることがないし、常に「新しい言葉=応答」を待っている。
絶え間なく果てしない未来に開かれた様々な対話の集合=ポリフォニー。そして我々読者もまた、ある一つのあるいは複数の声として、この対話に加わるだろう。
外と内とで論争をしつつ、さらなる「新しい言葉=応答」の到来を待ち受けながら。

こんなかんじ。
17吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:34:27
ここから『カラマーゾフの兄弟5』(p193)の階層化された図を見ると「ポリフォニー」とはこの図全体を含むものであることがわかるし、
階層を無効化するバフチンのいう「カーニバル化」という概念も、「声の自立性」という言葉の意味も亀山が理解できていないことがわかる。
階層化しているのであれば様々な声が対等ではないことになるのだから。また亀山の解釈がバフチンのいうモノローグ的な解釈だということもわかる。
そもそも問題なのは、亀山が意味もよくわからず、こんなところに「ポリフォニー」という言葉を使ってしまうことなのだ。全く意味が違うのだから。

亀山が理解していないのは「多くの声=登場人物たちのそれぞれの思想」が「単一=モノローグ的」なものなのではなくて、
またそれぞれの思想が「分裂=複数化=多声性化」して自分勝手に他の「分裂=複数化=多声性化」した思想と自立した対話を始めてしまうということなのである。
亀山が『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)の解説(p579)の最後のほんの数行でも読んでさえいたらこのような誤解はなかっただろう。
最初に、亀山は解題(p200)に自分で書いている「第一義的なポリフォニー性の意味」さえ理解していないのではないか?と書いたが、その答えはもはや明白だろう。
そして「あまたの声と意識」が他の「あまたの声と意識」と対話を始めることを何ら妨げるものではないということの意味も。

結局のところ、亀山がいうポリフォニーとはバフチンとは何の関係もないし、亀山がいうカーニバルとは単に「ドンちゃん騒ぎ」という意味でしかない。
亀山の解釈に「ポリフォニー」という概念は全くの不要だし使うべきではない。ドストエフスキーの読者にとっては百害あって一理なし。
特に今回、初めて『カラマーゾフの兄弟』を読もうと思っている中高生にとって。
18吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:37:12
蛇足だけど、ジラールの解釈も間違っていると思う。主体や心理が先行しているように読めるから。解題(p233 p314)
(この人は「欲望の模倣」の模倣の意味を、主体が「他者の欲望」を主体的に真似ようとすることだと思っているのか?)
この人は何でもかんでも、ドストエフスキーが嫌っていた「心理主義的解釈」をする人なんだなと思った。
最初に書いたけど訳は悪くないと思うし(といっても、別にどれでもいいと思うけど)、亀山や江川卓の雑学は、それはそれで面白いし参考になる
ところもあるのでポリフォニー云々なんて書かなければよかったのにと思う。もったいない。
(賛否は別にして、亀山がポリフォニー概念の最低限の理解をして、それに対して新たに自分の解釈を提供するというのなら話はわかる)

興味のある人は『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)の(p534 L1-p539 L1)(p542 L9-p546 L11)と
『カラマーゾフの兄弟5』(光文社古典新訳文庫)p278からの亀山の解題を読み比べてみてほしい。
(誤解のないように言っておくが、バフチンの解釈がすべてだといっているのではないし、くどいようだが、ポリフォニーの解説をちゃんとするか、
全く言及せずに自分の解釈だけを書くというのなら別に文句をつけるつもりはない。また解釈の是非をいっているのでもない)

ついでだから書くと、初めて『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)を読もうと思ってる人にはp527の「ドストエフスキーの対話」から読み始
めることを勧める。その方がわかりやすいと思うので。

そして、「バフチンバフチンって、うるせぇーよ!」と思った、そこのあなた!バフチンバフチンって、亀山某が書いてるもんだからつい...
でも読まず嫌いは感心しない。読んで損はないと思うので、読まず嫌いの人は意地を張らないで読んだ方がいいと思うよ。
それから嫌いになっても遅くはないでしょう?21世紀になった今でもやはり「卓越したドストエフスキー論」だと思うから。
というか、日本に紹介されてから40年近く経っているんだから、もはや必読の基本文献の一冊だというのは常識だというのは、わざわざ書くまでもないことか... 
19吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:50:33

『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)から少し引用してみる。(下手な講釈を読むよりずっといいと思うので)


「ポリフォニーの本質は、まさに個々の声が自立したものとしてあり、しかもそれらが組み合わされることによってホモフォニー(単声楽)よりも高度な統一性を実現することにある。
個人の意志に関して言えば、まさにポリフォニーにおいてこそいくつかの個人の意志の結合が生じ、単一の意志の枠が本質的に乗り越えられるという現象が起こるのである」(p045)

「ドストエフスキーの主人公たち(省略)のそれぞれの思想は、そもそもの初めから自らをある未完の対話における応答の言葉だと意識している思想である。
(省略)それは他者の思想、他者の意識との間の境界線上に、緊張した生を生きている思想である。それはきわめて事件に満ちた、人間と切り離しがたい思想である」(p065)

「実際ドストエフスキーの本質的な対話性は、けっして彼の主人公たちの外面的な、構成的に表現された対話に尽きるものではない。
ポリフォニー小説は全体がまるごと対話的なのである。小説を構成するすべての要素の間に対話的関係が存在する」(p082)

「ドストエフスキーは(省略)人間の内部にあってけっして完結しない何ものかを示そうとした」(p121)
「生きている限り、人間はいまだ完結しないもの、いまだ最後の言葉を言い終わっていないものとして生きているのである」(p122)

「作者の意識が他者の意識(つまり主人公たちの意識)を客体と化してしまうこともなく、また彼ら抜きで彼らに総括的な定義を下すこともない。
作者の意識は、自分と同列に、すぐ目の前に、自分と対等の権利を持った、そして自分と同じく無限で完結することのない他者の意識を感じているのである。
作者の意識は客体たちの世界をではなく、それぞれの世界を持った他者の意識を反映し、再現する。しかもその本来の完結不能性(そこにこそ他者の意識の本質があるのだ)
の相において再現するのである。(省略)可能なのはただそれと対話的につきあうことだけである。他者の意識について考えるとは、すなわちそれらと語り合うことである」(p140)
20吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:53:51
『ドストエフスキーの詩学』つづき2

「イデエの生きる場所は人間の孤立した個人的意識の中ではない。孤立した意識の中にのみ取り残されると、イデエは退化し、死んでしまう。
イデエが生活し始める、つまりそれがある形をとり、発展し、自らの言語表現を見出し、それを更新し、さらに新たなるイデエを生み出すという
活動を開始するのは、それが別の、他者のイデエたちとの間で本物の対話的関係に入ったときしかない。人間の思想が本当の思想つまり
イエデとなるための条件は、それが他者の声に具現化された他者の思想、つまり言葉に表された他者の意識と、生き生きとした接触をすること
である。この複数の声と複数の意識の接点において、イデエは生まれ、生きるのである」(p179-180)

「イデエとは間個人的、間主観的なものであり、その生息圏は個人の意識ではなく、意識同士の間の対話的な交流の場なのである。
イデエとは二つもしくはいくつかの意識が対話的に出会う一点で展開される、生々しい出来事である」(p180)

「常軌の逸脱こそカーニバル的世界感覚に特有なカテゴリーであり、それは無遠慮な接触というカテゴリーと有機的に結びついている。(省略)
同じく無遠慮な接触と結びついているのが(省略)カーニバルにおけるちぐはぐな組み合わせである。自由で無遠慮な関係は価値、思想、
現象、事物のすべてに及ぶ。カーニバル外のヒエラルヒー的世界観の中で閉ざされ、孤立し、引き離されていたもののすべてが、カーニバル的接触や結合に突入する」(p249-250)

「世界ではまだ何一つ最終的なことは起こっておらず、世界の、あるいは世界についての最終的な言葉はいまだ語られておらず、
世界は開かれていて自由であり、いっさいは未来に控えており、かつまた永遠に未来に控え続けるだろう」(p333)

「ドストエフスキーの長編ではすべてが、いまだ語られざる、あらかじめ決定されることのない《新しい言葉》を目指すとともに、すべてが固唾を
飲んでその言葉の到来を待ち受けて」いる。(p334)
21吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:56:00
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)からの引用3

「自分自身とのみ取り残された人間は、自らの精神生活のもっとも深奥の内面的な領域においてさえ、ものごとに決着をつけるということが
できず、他人の意識なしにはにっちもさっちもいかないのだ。人間は自分自身の内側だけでは、けっして完全な充足を見出すことができない
のである。」(p356)」

「我々が自分の対話者の言表のほんの一部でも自分の発話によって再現しようとすると、話す主体が交替したというだけで、もはや不可避的に語調は変化してしまわざるを得ない。
つまり、「相手」の言葉が我々の口にのぼると、自分とは無縁な言葉として響き、非常にしばしば嘲笑、誇張、愚弄のイントネーションを伴ってしまうのである」
(p392 ただし、これはレオ・シュッピッツアー『イタリアの話し言葉』からの引用)

「我々の発話の中に導入された他者の言葉は、否応なくその体内に新しい我々の理解、我々の評価を引き込んでしまう。つまり、複声的な言葉になってしまうのである」(p393)

「いくつかの言葉が何度も反復されるのは、話し相手の予想される反応を計算に入れながら、それらの言葉のアクセントを強調しようとするか、
それらの言葉に新しいニュアンスをつけ加えようとするからである」(p417-418 『貧しき人々』のデーヴシキンの言葉の分析)
22吾輩は名無しである:2007/07/20(金) 23:59:08
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)からの引用4

「このように言葉を、内容的にはまったくもとのまま、ただその調子と最終的な意味合いを変えて、一方の口から他方の口へと移動させるというのは、
ドストエフスキーの基本的な方法の一つである」(p442)

「イワンの言葉と悪魔の応答とを差異づけているのは、内容ではなく、ただその調子、ただそのアクセントだけである。しかしそうしたアクセントの移行は、
イワンの言葉と悪魔の応答の最終的な意味の全体を変化させているのである」(p454)

「他者の声によってアクセントを変えられた主人公自身の言葉が彼の耳にささやかれ、その結果一つの言葉、一つの発話の中で様々な方向性を
持った言葉と声がきわめて独特な形で絡み合い、一つの意識の中で二つの意識が切り結ぶという現象は、その形式、程度、イデオロギー傾向の差はあれ、
ドストエフスキーの作品すべてに固有の現象である」(p456)

「ドストエフスキーの長編の地平で展開されるのは(省略)闘争する声たち、内部で分裂した声たちのポリフォニーなのである」(p522)
23吾輩は名無しである:2007/07/21(土) 00:03:28
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)からの引用5

「ドストエフスキーの対話において衝突し、論争しているのは、二つの首尾一貫したモノローグ的な声ではなく、二つの分裂した声(少なくとも一つの声は分裂している)なのだ。
一方の声の開かれた応答が、他方の声の隠された応答に答えているのである。
一人の主人公に対して、それぞれがその第一の主人公の内的対話の正反対の応答に結びついているような二人の主人公を対置させること。
これがドストエフスキーにとってもっとも典型的な組み合わせなのである」(p538)

例:イワンの同じ言葉を、スメルジャコフは父の殺害依頼という真理とイワンのアリバイ作りの言葉として解釈し、アリョーシャはイワンの隠された願望(父の死)を知りつつ、
  イワンの「いつだって親父を守ってやる」という言葉の方を真理だと解釈する。
  「神がないならすべてが許される」という(自分の理性に対して誠実であろうとするが故の)イワンの半信半疑の言葉(イワンとゾシマの対話参照)を
  スメルジャコフはイワンの自信満々のこの世の真理として受け取る。(p538のバフチン考察参照)

  補足説明:現代に置き換えると、死ねば多額の遺産や保険金が入ってくるという理由から自分の父の死を内心では願っているという人間は現実にも大勢いるだろうが、
  だからといって実際に殺したり殺害を依頼する人間はずっと少ないだろうし、この二つは同じではない。
  イワンの場合も同様で、イワンは父の死を願ってはいるが(自分が関わる)殺人を願っているわけではない。
  バフチンの言い方だと「イワンは自分の意志に反して父の殺人が起こるのを願っている」。何ら自分の良心を責めずにすむから。(p543のバフチンの考察参照)
  (偉そうに書いているけどオレはバフチンが本で書いてることを書いてるだけ)
24吾輩は名無しである:2007/07/21(土) 00:06:24
『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫)からの引用6

「いずれの対話にも、公然とした対話の応答と主人公たちの内的対話の応答との交錯、共鳴、あるいは遮り合いがあり、いずれの対話においても、
一定のまとまったイデエ、思想、言葉の総体が、いくつかの融合することのない声たちを介して、それぞれに異なった響きの中に実現されているのである(省略)
作者が目指しているのは、テーマを多くの多種多様な声を介して実現させること、つまりテーマの原理的な、いわば取り消し無効の多声性、声の多様性ということに他ならない。
ドストエフスキーにとって重要なのは、声たちの配置法そのもの、声たちの相互作用そのものなのである」(p558-559)

「構成的に表現された表面的な対話は、内的対話、すなわちミクロの対話と不可分に結びついているだけではなく、ある程度はそれに依存してもいる。
そしてこれら二つの対話はまた、それらを包含する長編全体の大きな対話と不可分に結びついている。ドストエフスキーの長編は、どれもみな例外なく対話的なのである」(p559)


筑摩書房さん、ごめんなさい。 m(_ _)m
25吾輩は名無しである:2007/07/23(月) 02:00:07
訂正:

バフチンを引用しこそすれ→バフチンに言及しこそすれ

まともに読んだことさえないのだろう。→ろくに読んだこともないのだろう。


訂正と追加:

全く意味が違うのだから。 →全く意味が違うのだから。登場人物の多様性をいいたいのなら、ここは「多様性」とでもしておけばいいだけ。
亀山の解釈は古典的解釈に作者の心理(お遊び)をプラスした古典的解釈の一ヴァリエーションだということがわかる。

「これらの研究者たちは、ドストエフスキーが開示した複数の意識の世界を、単一の世界観のモノローグ的体系の枠に押し込めようとして
あるいは二律背反原理に、あるいは弁証法に依拠せざるを得なかったのだ。主人公たちの(そして作者自身の)具体的で全一的な意識の中から、
いくつかの哲学的なテーゼが切り取られ、それらがあるいはダイナミックな弁証法のスタイルに配列され、あるいはまったく解消不能な二律背反として
相互に対置されてきた。互いに溶け合うことのないいくつかの意識の相互作用としてあるものが、単一の意識を充足させるべき複数のイデエ、
思考、仮説同士の相関関係に置き換えられてきたのである」 『ドストエフスキー詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫 p020)
26吾輩は名無しである:2007/07/23(月) 02:01:10
追加:

『カラマーゾフの兄弟3』(光文社古典新訳文庫)の読書ガイド(p539)で亀山は『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫 p249)の
「カーニバル」について触れた部分を引用して次のように書いている。(『ドストエフスキーの詩学』からの引用部分は省略)

「雑多な出自の人間が集合し、どんちゃん騒ぎを繰り広げる。そこには、少し難しくいえば、ありとあらゆる「平準化」のモメントが見出され、
主客の転倒が、自由で無遠慮な人間の出会いが生まれる」 『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫 読者ガイドp538-539)
「世界をつねに流動的なものとして見つめ、人間の意義をどこまでも解放していこうとする精神、そこにドストエフスキー文学の、もっとも大きな力が
あると考えてよいのではないか」」(同 p539-540)

亀山は、ここまで書いていながら、やはりポリフォニーを「登場人物の多様性による相対化」と「作者の謙虚さ」という意味でしか理解していないため、
引用している部分の意味を十分理解しているとは言い難い。亀山には、ポリフォニーの「対話性」の概念が全く抜け落ちてしまっている。
また、「ドストエフスキーの詩学」「ドストエフスキーの創作の方法」の意味が理解できていない。(小説の内容に還元してしまっている)


さすがに面倒くさくなってきたので、興味のある人は、どちらの言い分が当たっているか、それともどちらも外れなのか、
『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)を読んで自分で判断してほしい〜の!

(何度もいうようだが『カラマーゾフの兄弟』(光文社古典新訳文庫)の亀山の解釈の是非をいっているのではなく、
 『ドストエフスキーの詩学』ミハイル・バフチン(ちくま学芸文庫)の「ポリフォニー」の概念の使用の当否について書いている)