952 :
吾輩は名無しである:2007/06/12(火) 11:06:50
『仮面の告白』第一章の夏祭の神輿かつぎの場面なかに、
全編を貫流する悲劇論的美学、一種の存在の形而上学が予告的に圧縮されて映しだされている。
主人公は肉体をもたず、もたないがゆえに「悲劇的なもの」から拒まれているという悲哀にとらえられ、
それゆえに肉体への憧れと「悲劇的なもの」への憧れは重なっていた。
953 :
吾輩は名無しである:2007/06/12(火) 11:10:22
夏祭の場面にも象徴されているように、主人公は悲劇への参加を拒まれ、「与る者」とはなりえず、「見る者」にとどまった。
肉体の所有者となったとき、三島は「われら」への参加、「集団の悲劇」について語る。
しかし、悲劇が三島にとって新たな意味をおびてくるについては、
肉体の所有ということだけでなく、同時に「参加」という重要な体験が必要だったのである。
954 :
吾輩は名無しである:2007/06/12(火) 11:50:45
三島はボディビルによる肉体鍛錬の途上で神輿かつぎを体験することによって、「幼時からの謎を解明する機会」に恵まれた。
〈…その結果わかったことは、彼らはただ空を見ていたのだった。彼らの目には何の幻もなく、ただ初秋の絶対の青空があるばかりだった。
しかしこの空は、私が一生のうちに二度と見ることはあるまいと思われるほどの異様な青空で、
高く絞り上げられるかと思えば、深淵の姿で落ちかかり、動揺常なく、透明と狂気が一緒になったような空であった。〉
955 :
吾輩は名無しである:2007/06/12(火) 11:52:24
〈…そのとき、私は自分の詩的直感によって眺めた青空と、平凡な巷の若者の目に映った青空との、同一性を疑う余地のない地点に立っていたからである。〉
〈私の見たものは決して個人的な幻覚でなくて、或る明確な集団的視覚の一片でなければならない。〉
(「太陽と鉄」より)
956 :
吾輩は名無しである:2007/06/12(火) 12:07:06
この、神輿かつぎの集団的陶酔を内側から生きたという体験が悲劇参加の原始的体験となり、
この体験の核を中心に「二・二六事件」の悲劇が新たな意味をおびて三島の内面にふくれあがり、
せりあがってくると同時に、三島の美学は悲劇論的天皇制美学(ヤマトタケルを基にした)に傾倒していったのであろう。
957 :
吾輩は名無しである:2007/06/12(火) 12:17:11
神輿かつぎにおけるこのような集団的陶酔は、ニーチェのいう「ディオニュソス的陶酔」、
集団的忘我状態・エクスターゼ(脱自=陶酔)としてとらえられた「ディオニュソス的陶酔」と等質性をもっているのであり、
このような状態への参加が悲劇への参加であるという意味において
三島の悲劇概念はニーチェのそれとその内包を等しくするということがいえる。
958 :
吾輩は名無しである:2007/06/12(火) 19:53:56
すいません、今「花ざかりの森」を読んでいるのですが、かなり意味わからなのですが
これって三島作品のなかでも難解なほうですか?
959 :
吾輩は名無しである:2007/06/13(水) 11:05:32
かなり難解だと思います。
言葉も王朝文学風の和文脈でセンテンスも長く、次のセンテンスにうねうねと繋がってゆく文体だしね。
960 :
吾輩は名無しである:2007/06/13(水) 12:21:13
なんか、変なのが居ついちゃってるな。
961 :
吾輩は名無しである:2007/06/13(水) 12:53:57
962 :
吾輩は名無しである:2007/06/13(水) 23:08:23
>>959 そうですか
ありがとうございまし
ところで私はいままで、仮面の告、愛の渇き 金閣寺、美徳のよろをよんだのですが
仮面がむずかったのですが、金閣寺は最高に感動しました。
愛の渇きと美徳のどちらの女性もいい感じですね
963 :
吾輩は名無しである:2007/06/14(木) 05:21:24
>>961 お前か、自己満足的チラ裏文連投男は。
田舎の文学青年丸出しな奴のネタにされちゃあ、三島のみ霊も笑えまいて。
964 :
吾輩は名無しである:2007/06/14(木) 11:33:53
>>962 私も「金閣寺」は三島の作品のなかでも、深い感銘を受けた、好きな小説の一つです。
小説というより、論理的イメージの〈詩〉を感じました。
「愛の渇き」も完成度の高い長編で、やはり「仮面の告白」の神輿かつぎの場面を想起させる祭りの夜の場面が叙述されてますね。
965 :
吾輩は名無しである:2007/06/14(木) 12:24:58
「言葉によって創る者から、言葉によって創られる者へ移行すること」…
悲劇の制作でなく、悲劇への参加、
芸術家から自己芸術作品化へ、
悲劇作者から悲劇的行為者へ移行すること、
それを肉体の造形が可能にし、神輿かつぎの集団的陶酔を内側から生きるというかたちでの悲劇参加の原体験は、
三島にとって、存在論的意味をおびつつ、悲劇論的な集団に内側から目ざめさせ、
三島は集団から拒まれた者としてではなく、参加する者として集団の悲劇について語るにいたる。
〈私の幼時の直感、集団というものは肉体の原理にちがいないという直感は正しかった。〉
(「太陽と鉄」より)
966 :
吾輩は名無しである:2007/06/14(木) 12:28:45
〈集団こそは、言葉という媒体を終局的に拒否するところの、いうにいわれぬ「同苦」の概念にちがいなかった。〉
〈肉体は集団により、その同苦によって、はじめて個人によっては達しえない或る肉の高い水位に達する筈であった。
そこで神聖が垣間見られる水位にまで溢れるためには、個性の液化が必要だった。
のみならずたえず安逸と放埒と怠惰へ沈みがちな集団を引き上げて、
ますます募る同苦と、苦痛の極限の死へみちびくところの、集団の悲劇が必要だった。
集団は死へ向かって拓かれていなければならなかった。
私がここで戦士共同体を意味していることは云うまでもあるまい。〉
(「太陽と鉄」より)
967 :
吾輩は名無しである:2007/06/14(木) 15:23:45
〈私は皆とちがう〉という個性の表現としての言葉の世界を越え、
形成された肉体を媒体に、〈私は皆と同じだ〉という集団の悲劇的陶酔の世界に没入し、
そこに神聖を垣間見ようとする―
これは、ニーチェが『悲劇の誕生』のなかで「個別化の苦しみ」や「個別的存在の恐怖」について語り、
それを越えるところに「個体化の原理の破棄」としてのディオニュソス的世界をみ、
そこに個体としてではなく、「万物を生み出すその生殖の快楽と われわれが融けあってしまった一つの生き生きとした存在者として」
「根源的存在そのもの」となる幸福について語ったのと類似・等質的なものであるといえる。
968 :
吾輩は名無しである:2007/06/14(木) 15:28:21
それは近代世界の強いる「個別化」の苦悩、そこから発する生の無意味さのニヒリズムを、悲劇的世界の方向へ越えようとするものである。
三島は語った。
〈私が幸福と呼ぶところのものは、もしかしたら、人が危機と呼ぶところのものと同じ地点にあるのかもしれない。
言葉を介さずに私が融合し、そのことによって私が幸福を感じる世界とは、とりもなおさず、悲劇的な世界であったからである。〉
〈私にもっともふさわしい日常生活は日々の世界破壊であり、
私がもっとも生きにくく感じ、非日常的に感じるものこそ平和であった。〉
969 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 13:11:21
ここで、もういちど、
文学を捨てるか、現実を捨てるか、
という二者択一の〈際どい選択の保留〉においてのみ書きつづけることができる、という
「書くこと」をめぐっての三島由紀夫の基本姿勢を想起してみると、
作品制作の上では〈行為〉にしばられてくる方向を辿っていることから見れば、
文学を捨て現実を選ぶほうへ傾いていたわけで、
『暁の寺』が脱稿したときのあの〈不快〉は、
文学を捨てる現実のほうへの賭け(自衛隊の治安出勤への期待)が破れたことからきたのであろう。
970 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 13:13:02
『太陽と鉄』によれば、三島にとって「現実・肉体・行為」はシノニムだった。
これは、現実を選ぶということは行為を選ぶということと同一なわけである。
こうして一定方向へ進んできた三島は、昭和45年11月25日の日付を記して最後の一歩を踏み出し、
その日をもって文学を捨てたことを明記したのであろう。
971 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 13:17:48
三島は語った。
〈私が文学者として自殺なんか決してしない人間であることは、自ら公言してきた通りである。
私の理屈は簡単であって、文学には最終的な責任というものがないから、
文学者は自殺の真にモラーリッシュな契機を見出すことはできない。
私はモラーリッシュな自殺しかみとめない。すなわち、武士の自刃しかみとめない。〉
972 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 14:01:06
サルトルに依れば、人間が常に持っている不安は高いところに登った時に
自分が飛び降りたりしないかという不安に似ているらしい。お勧め。
973 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 17:06:43
↑オマエいい加減にしろ。
こんな誰も読まない阿呆陀羅経でスレッド埋め尽くす気か?
みんな迷惑してんだぞ。
してませんが。少なくとも973なんかよりはかなり読みごたえのあるレスです。
975 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 19:24:40
自作自演乙。
976 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 20:19:41
>>974 君以外誰も読んでない、てのは認める訳ね。
実際誰も何の反応もしてないしな。
内容に自信があるなら、ブログにでも書けや。
(誰も来ないだろうけど。)
それとも論文でも書くかい?
(学位は貰えそうもないがな。)
こんだけ言っても分からんなら、もう最後まで埋めろや。
でも次スレにはもう来ないでね。
君のアタマのいいのはよ〜く分かったから。
977 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 20:44:55
どんどん来いや
978 :
吾輩は名無しである:2007/06/15(金) 21:28:39
では御高説を賜ろうか。
さあど〜ぞ。
引用はいいね
自説ときっちり区別してくれればの話だが
三島大好きなんだけど川端も気にいれるかな?
どれから入ればいいだろう
このスレ認識者ばかりでワロタ
あらゆる情熱や純粋が、物笑いの種になるように監視されているか?
だっけ?こんな記述が天人五衰のどっかに・・・
>>980 個人的な好みもあるが「眠れる美女」あたりからだと面白く読めると思う。
表題作以外も面白いよ。
984 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 02:01:31
三島スレを巡って荒らしている粘着っていい年した赤の団塊親父っぽい
985 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 02:40:59
御高説はまだかね?
986 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 03:09:52
どうして働かないんですか?
親のすねをかじってて、情けなくならないですか?
生きている意味はないんですか?
生きている資格はあるんですか?
自殺を考えたことありますか?
987 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 04:20:40
またへんなのが涌いてたな。
988 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 04:23:37
「涌いてきた」だった。
>>986 あんた大丈夫か?
>>988 明らかに自問自答なんだからほっといてあげなよ。
990 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 05:27:36
ま、あんたがそう言うのなら。
991 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 06:16:49
新スレ立ったが、自己陶酔君たちはここだけで終わりにしてね。
また公開オナニー見せられちゃかなわん。
992 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 09:59:27
993 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 10:51:22
994 :
吾輩は名無しである:2007/06/16(土) 20:34:31
平和ボケのなか下手に歳とって、老獪さばかり際立った
都市部に住む醜悪なジジイってかんじ
三島由紀夫住人 VS 老獪じじい のスレはここですか?
埋め
998 :
吾輩は名無しである:2007/06/17(日) 00:58:11
こんなおやじにとっては三島を読む若者が煙たくって仕方ないんだろう
ていうか多分嫉妬だな
999 :
吾輩は名無しである:2007/06/17(日) 01:41:29
うほっ
1000 :
吾輩は名無しである:2007/06/17(日) 01:45:37
1000なら三島復活
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。