他の大勢の少女たちのなかにあって際立って美しい容姿を持ちながら、
ロルは自慢するでもなく、かといって持て余しているふうでもない。
ロルは自分の美貌にまったく無関心な少女だったのですね。
彼女が無関心なのは自身の容貌だけでなく、感情面に関してもまったくといって
いいほど未発達でした。
タチアナはロルを「少女らしい涙を流すのを一度も見たことがない」と回想して
いますが、気丈で人前で涙を流さない少女というのとは違います。
ロルの場合、当初から感情の起伏というものを持たない。
傍目から見て、こころここにあらずという状態は少女らしい夢想に浸っている
というよりも、「私」という確固たる自意識を持たないゆえ、目の前の他人に
自分を投影しているだけにすぎなかったのではないでしょうか?
そのことに、ロル自身まったく気づかないままに。。。
アンヌにマイケルを奪われたとき、ロルは嫉妬の感情に見舞われることは
ありませんでした。彼女の望んだことはただひとつ。
「ほほ笑みながらずっとふたりを見ていること」、でした。
それが、他人には奇妙に映る不可解なロルの唯一の「幸福」なのですから。
それにしても、タチアナとジャックの密会する森のホテルの前のライ麦畑に
身を潜めて、ふたりの情事を妄想しながら悦楽の境地を体験しているロルは
何と濃厚でエロティックなことか!
自分の愛する者が自分以外の異性を愛撫している、自分は直接相手に触れる
ことはないままに至高のエロスを味わう。相手に自身を重ねることによって。
動物と人間を隔てているもの。
たとえば理性、言語、そして想像力。想像力は時には妄想と呼ばれる。
互いの肉体に触れ合うことで得られる快感は動物でも得られるでしょう。
けれども、肉体に触れないまま、妄想のみで得られる快感は、人間だけに
与えられた想像の翼のもたらすもの。
生身の肉体に触れ合うだけが恋愛の極致ではない、こうしたデュラスの恋愛観は
兄と妹の近親相姦を描いた「アガタ」をほうふつさせます。
互いの肉体に触れなくても、「想像」という翼を借りれば愉悦の境地に達せる。
デュラスは恋愛における肉体の接触無しの愉悦を、この小説で提示して
みせました。
ロルが身を潜めるライ麦畑。
ここで素朴な疑問。なぜライ麦畑なのでしょう?
もっとロマンティックに季節の花が咲き乱れる馥郁たる花園でもよかったはずなのに。
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」の青年の夢はライ麦畑で遊んでいる
子供たちが畑から落っこちないように一日中見張り番をすることだと言いました。
そう、ライ麦畑は何ものにも束縛されない≪自由≫の象徴でもあるわけですね。
ロルの妄想は≪自由≫な想像の領域であり、他人は当人の妄想までも拘束する
ことはできないのですね。
ロルの行動が狂気めいて映るのは、狂気とは世間の常識や道徳、規律から
解放された唯一の≪自由≫な領域だから……。
――それでは。
【補 足】
バタイユ、クロソウスキーの聖なるものの侵犯、冒涜には必ずといっていいほど
「第三者のまなざし」が必要不可欠でしたよね。
「歓待の掟」は妻が客人と不貞をする現場を第三者である夫が覗くことで
極上のエロスを体験しますし、バタイユの悪徳の限りをつくした性行為の
果てに訪れる法悦は、つねに第三者である神のまなざしを意識しなければ
成り立ちませんでした。
それゆえ、デュラスの恋愛観≪欲望の三段論法≫は別に倒錯でもなく、
人間とはつねに何かの行為をするとき、第三者のまなざしのなかでのみ絶頂に
達するという答えが導き出されるのではないでしょうか?
第三者とは、人であることもあれば神であることもある。
まなざし=言語であるならば、当然の結果といえましょう。
人は言語を持つゆえに、究極のエロスを体験するには肉体の接触だけでは
満足せず、言語=第三者のまなざしが不可欠なのです。
ラカンは言いました。
「人間の欲望は他者の欲望である」
ロルの欲望はアンヌの欲望であり、タチアナの欲望でもあるのです。
それゆえ、ロルは情事の当時者にならなくても、「見ているだけで幸福」
なのです。
舞踏会の夜、マイケルがアンヌにいきなりこころを奪われて一晩中踊りつづける
場面がありますが、「これはまさしく、テネシー・ワルツの歌詞そのものではないか!」
と思いましたね。
あのふたりが夜が明けるまで踊っているとき、ずっと甘くせつない「テネシー・ワルツ」
がわたしの脳裏に流れていました。
けれども、ロルのそのときの境地はこのテネシー・ワルツの詩の世界とはまるで
違っていました。。。
ロルは失恋に暮れたのではなく、「歓喜」にふるえていたとは、、、
Patti Page - Tennessee Waltz
http://www.youtube.com/watch?v=-l2jF6XePz4
452 :
吾輩は名無しである:2007/10/07(日) 23:42:08
保守
453 :
SXY:2007/10/08(月) 23:49:03
>>438 >逆説的ですが光は光だけの世界では何ら意味を持たないのではないでしょうか?
>闇が兆して初めて光の真価が問われるのだと思います。
まさにそう思うね。言葉のシステムは、ソシュールを援用するまでもなく、
他の言葉との差異によって成り立っているわけだし、
対義語がなければ意味を持たない言葉も多いんだと思う。
というか、対立する言葉がなければ、そもそもその言葉も生まれなかっただろうし。
闇のない光、悪のない善、沈黙のない言葉、死のない生、などなど。
だから、ある種、株価操作にも似たレトリックがあるんじゃないかな。
光の価値を高めるために、闇の価値を必要以上に下落させる、みたいな。
454 :
SXY:2007/10/09(火) 00:02:48
>>441 >ドストエフスキーの作品に出てくる人物たちは、あまり中庸というものがなく
>善か悪かにくっきりと判別されています。
そうだよね。相対立する2つの力(キャラクター=思想)が、
弁証法的に止揚されたり昇華されたりすることなく拮抗しあう。
思想は極端化され強調されてキャラクターに体現されている。
作者ドストエフスキーの立ち位置はどちらかに寄ることなく、
キャラクターたちをまとめる中庸的な立場にもいない。
バフチンはそうしたドストエフスキーの作品形式に焦点をあてて、
キャラクターそれぞれが中心を持っているような構造を
ポリフォニーという概念で表現したけれども、
人がドストエフスキーを語るとき、他の作家以上に、
アリョーシャなりムイシュキン公爵なりソーニャなりといった
登場人物の名前を持ち出すのもそのためなのだろうね。
455 :
SXY:2007/10/09(火) 00:23:33
『ロル・V・シュタインの歓喜』は未読なので
これまで読んだいくつかのデュラス作品と
Cucさんの感想からの連想を交えて想像してみると、
やっぱりエロスがなきゃデュラスじゃないんだろうな、
ということと、映像的な描写が効いているんだろうな、
ということを思ったんだけれど、
『愛人』『モデラート』『破壊しに』『死の病い』とは
ちょっと違った雰囲気もあるんだろうか。
『死の病い』だとブランショのレシにも似た雰囲気があって
白いシーツを敷いたベッドに女が横たわる部屋に海の音が聞こえ、
人称と時制が奇妙で不安定なニュアンスをそのイメージに与える、
みたいな感じがあったと思うけれども。
V・シュタインというのはきっとドイツ名かな。
ロルという名前のほうはよくわからないけど。
最近忙しくてなかなか書き込めない。すまん。
「ロル・V」感想はもう少し待ってくれ。
ちょっとこっちむきの小ネタを書いて、お茶を濁す。
先日吉祥寺のサウンドカフェ[dzumi]の店主に教えてもらって
http://www.dzumi.jp/index.html ウイリアム・クラインが撮影したパリ五月革命のドキュメンタリーを見た。
http://www.tokyohipstersclub.com/dvd/index.html いくつかの路上、大学内での討論の映像に続いて、画面に「学生−作家行動委員会」の字幕が現れ、
ソルボンヌ大学の一室(?)が映し出される。画面左下に映っている女性は後ろ姿だが、特徴的な髪型と
眼鏡の形によって、マルグリット・デュラスであることが、すぐわかるだろう。
場面はすぐに会議の議長役を務めている40歳代の男性が話す姿を映し出すが、
その内容は非常に具体的な運動内容の再確認のようなもので、
ビラに載せる短い引用文に対してデュラスが「知っているわ」と応えたことしか憶えていない。
それよりも議長役の男のすぐ右隣に座る男、頭部と上半身はカメラを避けたかのようにすっぽりと
議長役の男の身体に隠れているのだが、肘をつき、しきりに組み直すその節くれ立った両手は
彼がこの場に集まっている人々のほとんどよりも年長、60代くらいであることを示している。
やがてカメラはアングルを変え、隠れていた男の深く皺の刻まれた鋭い表情、
一瞬見ただけで深い印象を残す、なにかを貫くような眼光を映す。
彼は組んでいた手をほどき、左手を頬にあてる。
私が唖然としている間に場面は変わる。
果たして私はモーリス・ブランショを見たのだろうか?
ちなみに郷原佳以氏の掲示板でも話題にのぼっていたのだが、確証は得られていない。
457 :
SXY:2007/10/12(金) 23:14:43
すごいエピソードだね。
なんて濃厚なお茶の濁し方!
458 :
SXY:2007/10/14(日) 01:10:54
>>446 >生身の肉体に触れ合うだけが恋愛の極致ではない、デュラスの恋愛観は
>兄と妹の近親相姦を描いた「アガタ」をほうふつさせます。
そうそう。『アガタ』で思い出したけれど、この作品は(おそらく、きっと)、
ムージルの『特性のない男』を下敷きにし、それに応答した作品だろうね。
本の解説にはひとことも触れられていなかったけど間違いない。
この作品では主人公ウルリッヒと妹アガーテが精神的な近親相姦関係に入り、
エロスなきエロティシズムという非常に特異な世界を築くんだけど、
デュラスは、アガタとアガーテというわかりやすい足跡を残してる。
それにしても、デュラスと夫アンテルム、ブランショ(?)の映像があるとは驚き!
>>456 (OTO)さん
>最近忙しくてなかなか書き込めない。すまん。
>「ロル・V」感想はもう少し待ってくれ。
大丈夫ですよ〜
そちらのもろもろのことが落ち着いてからでOKですので。
パリ五月革命のドキュメンタリーのリンク、ありがとうです。
デュラス、ブランショが同じショットで映っているとは!
大変貴重な映像ですね!
ブランショは自身の評論のなかでもデュラスの「死の病」を引用していますし、
デュラスの初期の作品はともかく、後期から晩年にかけての作品は名前のない
男女の登場や、誰が誰に向って話しているのかわからないせりふの主の曖昧さや、
霧のなかに包まれたような顔の無い人物たちなど、かなりブランショ色が濃厚です
よね。
デュラス特有の夏草のむせかえるような濃厚なエロスは、「愛」ではすっかり影を
潜め、ふわふわと宙を漂うだけのものに留めています。
>>455 >>457-458 SXYさん
>やっぱりエロスがなきゃデュラスじゃないんだろうな、
>ということと、映像的な描写が効いているんだろうな、
そうですね。デュラスの描くエロスは特有のものであり、いわゆるロマンス小説の
エロスの範疇には当てはまらない。
尋常ではない心理状態といいますか、ぞくっとするような危うげで妖しい関係が
描かれていますね。
>『死の病い』だとブランショのレシにも似た雰囲気があって
今回読んだ「愛」は『死の病い』にも似ていて、ブランショのレシを踏襲している
と思いました。
>V・シュタインというのはきっとドイツ名かな。
解説ではユダヤ人という設定らしいです。
(……わたし自身はあまり気にせずに読んだのですが、放浪する民、郷里を持た
ない民として、迫害される民族側の視点で読むことがひとつの鍵となるそうですが、
う〜ん、わたしは民族間の闘争をキイ・ワードとして読むよりもストレートにロルの
奇妙な恋愛観、愛情のあり方のほうに重点を置いて読むほうが面白かったなあ)
>『アガタ』で思い出したけれど、この作品は(おそらく、きっと)、
>ムージルの『特性のない男』を下敷きにし、それに応答した作品だろうね。
>本の解説にはひとことも触れられていなかったけど間違いない。
ムージルの『特性のない男』は未読なので、図書館にリクエストしました。
それと、都内の図書館の縦横検索をかけたら3つの図書館に「ガンジスの女」が
ありました!
こちらも、他館からのお取り寄せでリクエストする予定です。
462 :
SXY:2007/10/15(月) 00:20:29
『特性のない男』は長いよ〜。
プルーストの『失われた時』ほどじゃないけど。
そして、残念ながら未完の作品。
昨日図書館から借りてきましたが
本当に長い…
完読は無理そうです
とりあえず感想だけ。
「ロル・V・シュタインの歓喜」平岡篤頼訳
河出のデュラスは装丁がフェミニンすぎる。
「ラ・マン」は確かにフランス国内でさえ、ある程度下世話な評判によって
ベストセラーになったのだろう。そして異例のゴンクール賞受賞。
しかし本来マルグリット・デュラスは3Bに勝るとも劣らない硬派な作家である。
解説ではこの作品を単純に「難解」としているが、読み込めば充分理解可能な作品であり、
この作品を理解することは、静かでありながら、極限的なひとつの狂気を
理解してしまうことになるという、恐るべき作品である。
地方都市S・タラの中産階級(現代日本的には上流の部類に入るような気がするが)
の美貌の娘ロル・V・シュタイン。彼女はある夏の夜の舞踏会での婚約者の裏切りによって
狂気に陥る。こう言ってしまえば、ありふれたゴシップ、スキャンダルと言えるのかも知れない。
しかしデュラスの筆は、その微妙な狂気の襞の中へと、まるで魅惑されたかの様に踏み込んでいく
ひとりの少女を注意深く、第三者の眼を通して描写していく。
ひとつ読む上で注意すべきは冒頭の一人称「私」がデュラスでは無いという点であろう。
私はてっきりデュラスだと思いこんで読み進めてしまっていた。
学生時代からのロルの友人、タチアナ・カルルは、こう語っている。
タチアナはこの病気の起源を、もっと昔、ふたりが親しくなるよりもさらに昔にさかのぼると
考えている。それがロル・V・シュタインの内部にすでに兆していて、ただ家庭の中、ついで
学校で、ずっと彼女を取り巻いてきた大きな愛情のおかげで、発現するのが抑えられていただけ
なのだという。(中略)彼女はおかしな娘で、どうしようもなくひとを小馬鹿にしたところがあり、
とても繊細なんだけれど、彼女の一部分はいつでも相手とその瞬間からかけ離れたところにある
みたいなの。かけ離れたところって?少女らしいむそうかな?いいえ、とタチアナは答える、
そうじゃないの、まるでまだなんだかわからないもの、まさにそう、なんだかわからないものね。
しかし、ロル19歳の夏の夜、市営カジノでの舞踏会で、事件は起こる。
ロルはその時、何を見つめていたのか?
男女間に突然沸き起こる性的な欲望。ダンスという社会性の枠内で、それは永遠に遅延されていくかに
見える。果てしない期待の留保。それこそがエロティシズムであると、彼女は感じていたのだろうか?
事件後しばらく自宅に閉じこもっていた彼女は、おそるおそる外出した夜偶然出会った男性からの
プロポーズを受け、別の街で、表面的には平和過ぎるほど平和な生活を送り続け、
10年後、故郷S・タラに戻ってくる。
何か、自分にもわからないものを探し求めるかのように繰り返される毎日の散歩、
その途中で彼女は、友人タチアナの密会を目撃する。
そして、彼女の奥底で、10年間休止していた何かが、活動を再開する。
もう彼女を止めることは絶対にできないであろう。
ロル・V・シュタインは表面的な感情のうねりに翻弄される周囲の人々を静かに見つめ、
自身の奥底と結びついている一種の欲望のようなもの(?)のために、
人々を望む位置へと誘導していく。それはまるで居間の椅子の配置に完璧さを求めるような
調子とも見える。あるいは無意識の心理戦のようなものだろうか?
まるで細い糸で繋がれているかのような微妙な人間関係が、ダイアローグによって
刻々とその配置を変えていく流れは、後半ロルの家で開かれる会食の後のダンスのシーンで
クライマックスを迎える。
そのシーンのラストで、タチアナ・カルルは愛人に対して見事にキレる。
─もうあなたの目を見ていられない、その汚らわしい目。
ついで言う─
─あたしたちが一緒にやっていることってそんなにたいしたことじゃないと思っているからなのね。
(中略)
─よくって、あたしにたいする態度をあんまり変えたら、もうあなたに会わないわよ。
そしてその少し後、「森のホテル」のベッドの上で、
─思い知らせてやるわ、おだやかに彼女に注意して、ええできるわよ、彼女をいじめたりなんか
しないで、あなたをそっとしておくよう言ってやるわ。狂ってるのよ、だから苦しんだりしないわ、
気違いってそうでしょ、ね?
これらすべての状況がロル・V・シュタインの狂気に「仕えている」ように見える。
必当然的な流れによって、タチアナの愛人ジャックと伴にロルは、思い出の市営カジノへと
小旅行を試みる。列車の中で、浜辺で、カジノのダンスホールで、
我々はおそらくデュラスにしか書くことのできない、男女関係の深みを
息を詰めて覗き込むことになるだろう。
ベッドで。
その後、彼女は叫ぶようにして、罵り、哀願し、もう一度抱いてほしいそっとしておいて
ほしいと同時に懇願し、追いつめられて部屋から、ベッドから逃げだそうとし、もどってきて、
巧妙に捕まえられようとし、悔恨の色のない彼女の目をのぞいて、そして彼女が自分自身を名指す
─タチアナのほうは自分の名前なんか叫ばない─ときを除いて、もはや彼女とタチアナ・カルルとの
違いがなくなっていて、彼女は自分をタチアナ・カルルとロル・V・シュタインという二つの名前で
呼ぶのだった。
ロル・V・シュタイン。これを狂気、と呼ぶべきなのだろうか?飽くまで異例なものとして。
もしそうであるのなら、狂気の存在しない世界には、物語さえ存在し得ないような気がする。
>>464-467 (OTO)さん
お忙しいなか、感想ありがとうございます。
いつもながらの緻密で論理的な展開ですね! さすがです!
>河出のデュラスは装丁がフェミニンすぎる。
確かに・・・あのライ麦畑に佇む少女の画像はちょっと買うのが恥ずかしい
ですよね。特に男性は。。。
>解説ではこの作品を単純に「難解」としているが、読み込めば充分理解可能な
>作品であり、この作品を理解することは、静かでありながら、極限的なひとつの
>狂気を理解してしまうことになるという、恐るべき作品である。
わたしもこの作品が「難解」とはさほど思いませんでしたね。
そして、ロルの「狂気」も特異なものではなく、おそらくは誰もがロルの狂気の
入り口に近いところを体験してきているはずです。
子供の頃、テレビアニメのヒーローにあこがれた男の子が自分をヒーローで
あると思い込む、女の子なら童話のなかのお姫さまを自分だと思い込む、
こうした他者を自身と自己同一化することは珍しくありません。
自己同一化することの根源にあるのは「歓喜」です。
現実にはありえない「歓喜」を味わいたくて、子供の頃からわたしたちは誰に
教えられるともなく、あこがれの他者に自身を投影してきたのではないでしょうか。
ただ、正常者が狂人と一線を画しているのは、正常者はいくらあこがれの人に
自身を重ねても、自身が他者にはなりきれないことを知っている。
他者の真似をし、他者を演じながらも、演じている自分を自覚しています。
小説や映画などに出てくる狂人たちは自分を「神」や「キリスト」、「ヒトラー」
であると完全に信じ込んでいます。
自身を他者に投影云々ではなく、彼らの意識は自身と他者の区別がまったく
つかない。分裂症、誇大妄想と呼ばれる患者はまさにこのタイプです。
彼らは自分が「神」や「キリスト」であることに歓喜します。
正常者が自身が他者になれない現実を突きつけられて悲しみに暮れるのとは
実に対照的です。
彼らは自身のつくりだした妄想の世界の住人であり、その世界にいる限り幸福
なのです。
ロルは自分がかつてマイケルに愛されたこと、夫であるジャンに愛されている
ことにまったく幸福を感じない。
ロルの幸福は、一瞬でマイケルのこころを奪ったアンヌに自身を置き換えること、
夫がいながら野性的なジャックという愛人を持っているタチアナになること。
ロルは自身が幸福の当事者であるより、幸福な他者になることを求めます。
そう、幸福な他者が身近にいることが、ロルの幸福。
ロルは他者とわが身を同一視して、他者を介してのみ歓喜に至ります。
こうした捩れた奇妙な「幸福」が、「難解」とされる原因のひとつではないでしょうか。
>男女間に突然沸き起こる性的な欲望。見える。果てしない期待の留保。
>それこそがエロティシズムであると、彼女は感じていたのだろうか?
なかなか鋭い読みですね!
確かにそのように指摘されてみると、ロルの発病はすべてエロティシズムに
起因しているといえますね。
マイケルが18歳のロルを見初めたのは、ロルの美貌、聡明さ、品の良さであり、
そこにはエロティシズムはさほど介入していないように思えますね。
ところが、マイケルはアンヌをひと目見た瞬間から彼女の醸し出すエロティシズムの
虜になってしまう。そして、ロルはそんなアンヌに激しいあこがれを抱く。
その後知り合ったジャンもロルを同情的なまなざしで見ており、プロポーズは
ロルを庇護したいという男性の保護本能によるもののほうが大きい。
タチアナは愛人のジャックに「最高の娼婦」と言わしめるほどのエロティシズムの
持ち主。またしてもロルはタチアナになりたいと願う。
ロルの女として抑圧されてきた本能、欲望は、男たちからアンヌやタチアナの
ように女そのもののエロティシズムの権化のように見つめられること。
若さも美貌も聡明さもエロティシズムの前では霞んでしまうことをロルはとうに知って
いたのでしょう。
自分よりはるかに年上であるアンヌはそのエロティシズムでマイケルのこころを一瞬
で奪ったように、ロルよりは格段と容貌の劣るタチアナはエロティシズムでジャックに
君臨しているように。
ロルの渇望しているものはエロティシズムであり、それを自分がもたないゆえに
アンヌやタチアナに激しく自己を重ねる。。。
なるほど、確かにロルはエロティシズムから遠い人間かもしれませんが、
ライ麦畑で他人の情事を覗き見するロルの身体からはエロティシズムが実に強烈に
放たれているのですよね。
その目は歓喜にあふれ、幸福の絶頂にあります。
エロティシズムとは、歓喜、幸福の絶頂であるとするならば、ロルは気が触れることに
よって初めてエロティシズムを体験したことになります。
>ロル・V・シュタインは自身の奥底と結びついている一種の欲望のようなもの(?)
>のために、人々を望む位置へと誘導していく。
デュラスの筆は、わたしたちをロルの狂気、ロルのエロティシズムの世界へと
確信犯的に誘導してゆきます。
催眠術にかけられたようにわたしたちは気がつくとロルの狂気に巻き込まれている、
という次第です。その誘導過程は砂時計がゆっくりと落ちるのに似ています。
>ロル・V・シュタイン。これを狂気、と呼ぶべきなのだろうか?
>飽くまで異例なものとして。
>もしそうであるのなら、狂気の存在しない世界には、物語さえ存在し得ないような
>気がする。
狂気、妄想、これらはすべて過大な想像の産物であり、想像の行き過ぎたものである
とするならば、この世で表現されるあらゆる芸術作品はすべて「狂気」の範疇に
含まれてしまうのでしょうね。。。
すべての創作は想像力によって生み出されるものであることを鑑みれば、創作者も
またそれを鑑賞する者も「狂気」を内包していない人などひとりもいないでしょう……。
「Blue Moon」 Lyrics by Billie Holiday
Richard rodgers / lorenz hart
Blue moon,
You saw me standing alone
Without a dream in my heart
Without a love on my own.
Blue moon,
You knew just what I was there for
You heard me saying a prayer for
Somebody I realy could care for.
And then there suddenly appeared before me,
The only one my arms will ever hold
I heard somebody whisper, please adore me.
And when I looked,
The moon had turned to gold.
Blue moon,
Now Im lo longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own.
http://www.tsrocks.com/b/billie_holiday_texts/blue_moon.html
河出文庫・デュラス「愛」の感想です。
名前のない男女、生と死の交錯する場所、海、極限まで抑えられた会話、
砂と風でできた町、誰にでも身体を与える娼婦のような女。
さらに、詩的かつ簡潔な文体はまさに「死の病」の踏襲ですね。
“彼女”はロルであり、“旅人”はかつての婚約者マイケル、そして“黒髪の女”は
アンヌであることが読み進むうちに次第にわかってきます。
解説でもこうした人物設定を明らかにしていますね。
ロルの狂気はさらに進んでおり、彼女の周囲の男たちにもその狂気は伝播し、
“歩く男”と呼ばれるロルの信奉者(?)と思しき狂人の男は、タラの町に火を放つ
常習犯であり、マイケルに至っては自殺する気でおり、そのための場所を探して
いてふたたびロルに逢ってしまったがために、ますます死病に獲りつかれている
かのようです。
ロルは男たちを死や破滅に導くファム・ファタル(運命の女)として描かれます。
唯一のタラの生き残りであるアンヌはこう言い放ちます。
――彼女が行くところどこだろうと、何もかも滅茶苦茶になってしまう――(p112)
解説では、この作品そのものについてはあまり触れておらず、もっぱら当時の
デュラスの政治的な思想を中心に展開していました。
曰く、ロルはユダヤ人である。五月革命のその後の思想が「愛」に大きな
影響を残している云々。。。
けれども、わたしがこの作品で興味を持ったのは、デュラスの思想背景よりも
この題名「愛」の意味するものでした。
デュラスの「愛」のとらえかた、描き方の方により多くの関心を抱いたのです。
“旅人”=マイケルはロルをタラの町に連れ出して砂浜にそっと横たえ、眠らせます。
そして、眠りに落ちた彼女にこうささやくのです。
「愛(アムール)」と。
彼女は自分に近づく男たちを悉く破滅に導きます。
音楽家の夫は死に、マイケルは死病に獲りつかれ、“歩く男”は夜な夜な町を
放火して回っている、、、
いったいロルの何が「愛」なのか?
デュラスは「テキストの中のテキストは旧約聖書」と自ら語っているそうですが、
ロルは確かにファム・ファタル(運命の女)ではありますが、イブのような誘惑は
しないし、デリラのように姦計をはかることはしません。
ロルは自身の意思をまったく持たない無垢で非力な女なのです。
にも拘らず、彼女は自身の放つ狂気で男たちを捕らえ破滅へと導くのです。
ロル自身についていえば、彼女は何もしていません。
ただ、彼女はそこに「在る」だけなのです。
そして、そんな彼女を作者は“旅人”の口を借りて「愛」と呼びます。。。
ふと、花村萬月氏の言葉が脳裏をよぎりました。
「神は何もしない。そこに在るだけだ。それゆえに神なのだ」
神を愛に置き換えてみればまさにロルにあてはまります。
「ロル=愛は何もしない。そこに在るだけだ。それゆえに愛なのだ」
ここで注目すべきは、デュラスは世人のいうように「愛とはつくりあげるものである」
もしくは「努力して求めるものである」、イエスのように「与えるものである」といった
考えとは対極にあるということです。
「愛」はそこに「存在している」ものである、これがデュラスの答えです。
そして、「愛」の当事者ロルは妄想の狂人であり、「我思う、ゆえに我なし」なのです。
そうです。ブランショの「トマ」と同じなのですね。
いえ、この作品ではロルの狂気はさらに深化しており「我思わない、ゆえに我なし」
といったほうが正解でしょうか。
デュラスは「愛」はそこに「在る」ものとしつつも、肝心な「愛」の具現者は「存在しない」
と指摘しているのです。
何という残酷さ、、、
一般的な定義において「愛」は善であり、何かを生み出すものであり、つくりあげる
ものであるとされます。
一方で、「愛」の持つ裏側の顔として、破壊、狂気、殺人などが挙げられます。
文学作品においては、「愛」の持つ裏側の顔がよく題材に取り上げられていますね。
そこには必ず嫉妬や懊悩、背信といった濃厚なドラマが描かれるのですが、
デュラスはそうではありません。
「愛」はただそこに「在る」だけのものとして、淡々と描かれるのです。
唯一、愛の定義にあてはまっているのが、自らの身体を男たちに提供し旧約聖書の
「生めよ、増やせよ」に従う如くロルは見境なく誰の男の子供でも生むこと。
けれども、彼女の子供を育てているタラの町は狂人に放火されているがゆえに、
結果として、ロルの子供も死んでしまっているということになります、、、
ロルは放火犯の狂人男に対してもひとことの叱責もしません。
自分の子供が焼き殺されているという事実にも拘らず。
もともとロルは自分というものが失われているのですから、当然といえば当然
なのでしょうが、デュラスの描く「愛」の残酷さにぞっとするのはわたしだけで
しょうか……?
最後に、砂と風でできたタラという地は「約束の地」ではないでしょうか。
ユダヤの民が永い放浪の果てに求めた永遠の地。
そのタラの地に、侵入者たちは西洋の白骨のような建物を次々と建てていきました。
町に火を放つ狂人男とは、すなわちユダヤの民の怒りの炎の象徴であり、
旧約で神が堕落したソドムとゴモラの町を火で滅ぼしたことを踏まえているのでは
ないでしょうか。
この作品の冒頭で、ロルは海辺に立ちじっと耳を澄ましてこう言います。
――あなたはお聞きになった、叫び声がしたのを――(p17)
――あのもの音を聞く……神の音というか? ……あのからくり?……――(p207)
このラストの「神の音」とは狂ったロル自身の叫び声。
そして、ロルの放つ叫び声は狂人たちにとってはまぎれもなく「神の声」なのです。
それゆえ、放火男は神の代理人として町に火を放ち、神の怒りの槌を振り下ろす
のです。
ところで、放火犯である“歩く男”とはいったい誰なのでしょう?
わたしはタチアナの愛人ジャックではないかと推測するのですが。。。
彼もまたマイケル同様、ロルの放つ狂気に魅せられ自らも狂人になってしまう。
かつてはタチアナとの情事をホテルの前のライ麦畑でロルに≪見られる側≫で
あったのですが、ここでは逆転して見張り番のように≪見る側≫に転倒しています。
ロルの狂気はこうして男たちを≪見る≫、≪見られる≫世界に巻き込んでいき、
ついに彼らは廃人になり、ロル=「愛」なしではいられなくなるのです。
デュラスの描く愛とは狂気の世界なのですね。
引き続きデュラス・「インディア・ソング」読了しました。
これは映画化された台本をもとに書かれたということですが、従来の小説の
形式から離れております。
ストーリーは「愛」が「ロルの後日談」とすれば、「インディア・ソング」においては
「アンヌの後日談」とでも呼ぶべきでしょうか。
インドのとある邸宅に住むアンヌは自分を慕う男たちに彼らの望むままに
身をまかせる怠惰な日々を送っています。
夫である副領事は何もいいません。ただ見ているだけです。
アンヌの信奉者には、彼女を追いかけてきたマイケル、若い大使館員がいます。
何不自由ない生活、好きなようにさせてくれる夫、若い男たちの取り巻き、
それなのにアンヌはとても「不幸」なのです。
全編をとおして脈絡もなく出てくる乞食女のほうがはるかに幸福かもしれない
と思えるほどです。
なるほどアンヌは副領事夫人としては申し分ありません。
パーティのあとに残った食べきれないごちそうは裏口から乞食に提供するし、
彼らのために毎日新鮮な水を用意してやる気配りも供えています。
お情け深い白人の有閑マダムです。
アンヌは見たところすべてにおいて退屈しているようです。
何かもかもが充足しすぎていて飽き飽きしている。
恋にさえも、飽きています。
夜毎に行われる盛大なパーティ、彼女はそこで取り巻きの男たちと踊ります。
流れている曲は「インディア・ソング」。
この作品全体に流れるおよそ生気をまったく感じさせない緩慢な気だるさは
いったいどこから来ているのでしょう?
白人社会がつくりあげた上流階級の腐敗と退廃とひとことで言うのは簡単ですが
この死んだような空気は実はインドという地がもたらしているのではないかと
思うのです。
アンヌは最後には河口で自殺します。
彼女にはもともとさほど生を求めていない節がところどころ窺えます。
他の外交官夫人たちがライ病患者から伝染することを極度に恐れているのに
アンヌは平然としています。
それはアンヌの博愛精神からくるのではなく、生に執着しないゆえなのです。
アンヌ、ロル、乞食女。
傍目に見れば、裕福な生活を送り、夫と何人かの愛人を持っているアンヌが
一番幸福に映るのでしょう。
けれども現実はそうではありませんでした。
刑務所に収容されている狂人のロルはアンヌよりはるかに幸福なのです。
ロルは毎日囚人服を着て海辺をさ迷い、神の声を聞き、そして叫ぶ。
疲れたらかなり長い時間眠ります。ロルの眠りは安息と充足に満ちていて
なんと幸福な眠りであることでしょう!
ロルは眠りのなかで天地創造を夢見ています。海と陸と空とが出現する瞬間を。
彼女は口癖のように誰に言うともなくひとりごとのように言います。
「……歴史が始まるわ」と。
ロルは歴史の始まり、物語の始まりを妄想のなかで夢想するのです。
つねに歓喜の笑みをたたえながら……。
彼女はアンヌに比べたら無一物であるにも拘らず、
このロルの静謐な充足、安穏、ああ、なんてロルは幸福なのでしょう!
17歳で子供を身ごもり家から追い出された乞食女。
彼女は今まで見知らぬ男たちの子供をどれだけ孕んだのだろう。
お金欲しさに子供を売り飛ばし、今では副領事館の前で物乞いをしながら日々
どうにか生きている。。。
彼女はアンヌが恵んでくれる新鮮な水、食べ物に言い尽くせぬほどの喜びを
感じている。それだけで一日を幸福な気持ちで過ごしている。
おわかりでしょうか?
ロルと乞食女にあってアンヌにないもの、それは「歓喜」であるのです。
「歓喜」はそのまま「幸福」に結びついているといってもいいでしょう。
ロルも乞食女もアンヌに比べたらはるかに悲惨な身の上です。
けれども、ふたりは「歓喜」を知っている。
ではなぜアンヌには「歓喜」が訪れないのでしょうか?
アンヌは自分から望まなくても欲しいものは難なく手に入る人種です。
望む前に、求める前に、相手のほうでアンヌに近づいてくるのです。
つまり、アンヌは欲することがどういうことなのかわからない。
大切なものを失くしてしまったときの喪失感も知らない。
ロルの「見る」欲望、乞食女の「乞う」欲望。
人は欲望が満たされたとき初めて喜びを体験します。
アンヌは死ぬために河口に立ちますが、そのとき初めて欲望したのが死で
あったのでしょうね。
「愛」のなかでマイケルは、そんな死んだような目をしたアンヌから逃げ出し
ふたたびロルに逢ってつかの間の充足の日々を送るのです。
狂人のロルの目は虚ろではなくつねに静かな歓喜に輝いているのです。
アンヌの眠りが悲しみに包まれた痛々しいものであるのに対し、ロルの眠りの
何と平和なことか!
――彼女のガウンが見つかったのは砂浜なのです――(p221)
アンヌが入水自殺したことを仄めかす最後の一行。
それにしても、ロルも海辺をふらつくし、アンヌもガンジス川に身を投げるし、
海、川、は英語では女性の代名詞で表されるように、デュラスもふたりの
女性の最後にはやはり海と川を選んでいます。水=羊水とするならば
胎児を育むのは女性のなかにある海、原始の海であることを象徴している
かのようです。
「愛」においては風と砂と光が作品の全体をとおして流れていましたが、この作品では
空気は止まったまま流れない。
淀んだ空気と退廃的な白人文化、腐った食べ物の匂い、お香の匂い(死の匂い)が
そこかしこに充満しています。
気だるい日常を送り退屈をもてあましているアンヌの体臭そのもののようです。
この地では光はまぶしすぎて昼間はどの家でもブラインドを下ろしたまま。
時が止まったかのような世界。
人のこころにも、ものにも風が流れないと倦んでしまうのです。
事実、この地に赴任している白人たちの目は死んだ魚のような目をしているでは
ありませんか。
ライ病を恐れ、貧困を忌み嫌い、自分たちの圏内から一歩も外に出ようとはしない。
アンヌは自殺するよりもロルのように発狂したほうが幸せだったのではないかと
思うのはわたしだけでしょうか?
狂気の世界には倦怠や退屈ではなく、まぎれもない歓喜があるのですから。
487 :
◆Fafd1c3Cuc :2007/11/11(日) 20:27:24
デュラス「ガンジスの女」亀井薫訳、読了しました。
これで、このシリーズについて語るのは最後です。
ひとつの物語についてデュラスは何作もに渡って書き分けています。
「ロル・V・シュタインの歓喜」、「愛」、「インディア・ソング」、そして「ガンジスの女」。
さすがにこれだけ同じものを読んだあとは、当分もうこの手のお話はいいかなあ、
という気になりますね。
とはいえ、さすがデュラスです。
同じテーマを小説風に、詩のように、シナリオのようにといろいろと角度を変えて
書ける腕前はやはり見事というひとことに尽きるでしょう。
ところで、素朴な疑問が。
なぜデュラスは同じテーマを執拗といえるくらい、何回も書くのでしょう?
「欲望の三角関係」、「愛の不可能性」を突き止めたい、などが挙げられる
のでしょうが、わたしはもっと単純に考えてみました。
デュラスは自身が錯乱していた時期があり、奇跡的にあちらの住人の世界から
こちらに戻って来れたとありますが、彼女は狂気の世界こそが最終的には人を
惹きつけて離さない強大なちからがあると提言したかったのではないでしょうか?
「ガンジスの女」においては、狂人の女はロル・V・シュタインであり、旅人は
かつての婚約者マイケル、自殺した副領事夫人はアンヌであると明示されています。
「愛」においては、女、旅人、副領事夫人としか記されていませんでした。
まあ、だいたい読者はおそらくこの三者はこの固有名詞にあてはまるのだろうと
想定はしていましたが、、、
わたしが勘違いしていた人物がひとり。
今回、旅人ことマイケルを追って赤い服の女性が登場しますが、この女性は「愛」に
おいても登場していましたが、わたしはてっきり副領事夫人アンヌだと思っていま
した。……アンヌはインドで入水自殺していたのですね。そして、その後マイケルは
別の女性と結婚しふたりの子供を儲けていたのですね。。。
今回登場する赤い服の女性とはアンヌのあとに知り合った女性。
けれども、マイケルは家を出て死ぬためにS・タラの町に辿り着き、そこで再び
ロルに出逢います。完全な狂人になったロルに……。
かつて捨てた女、ロル。
当時、年上のアンヌのエロスに一瞬で身もこころも奪われた若いマイケル。
彼女の死後別の女と結婚するも、結局平穏な日々に満足できずに家を飛び出し
死出の旅に出て、狂人となったロルに再会し、今度はロルの放つ狂気にがんじ
がらめになり、彼女に強烈に惹かれます。
かつてのアンヌのエロスとは比較にならないほどロルの放つ妖しい狂気は
ここに至って初めて彼を虜にするのです。
ロル自身は己の放つ狂気のちからにまったく無意識であり、無頓着です。
かつて自分を捨てた男が、今では自分の虜になりロルなしでは生きていかれない
ほどに廃人と化している。。。
ここにおいて、デュラスは男女の愛は初めは動物の本能からくるエロスが勝利する
けれども、最終的にはエロスを上回る狂気には太刀打ちできない、と暗示している
節が窺えます。
「聖なるものとは交感です」とバタイユの黒い天使・ロールは言いました。
究極のエロスを追及し、あれほど博識なバタイユですら、辿り着けなかった
結論にロールはなぜ辿り着けたのでしょうか?
ロールは狂気の世界の人であったからではないでしょうか?
聖なるもの=交感=エロスの交歓、聖なるもの、無垢なるものとは実は
狂気の世界にしか存在しえないのではないでしょうか?
(イエスは生まれた村の住人たちに「あなたは狂っている」と罵られました。
「白痴」のムイシュキン公爵はまさに典型そのもの、、、)
アンヌの放つ動物的なエロスは磁力のように男たちを惹きつけはしても、魂を
抜くほどのものではないし、人生の軌道を狂わせることはあっても男たちを廃人に
はしません。
何よりも哀しいのは、アンヌも男も誰ひとりとしてこころから「幸福」を感じていない
こと。では、ロルの狂気はどうでしょう?
ロルはいつも歌を歌い、海を砂浜を見てしあわせにほほ笑むのです。
狂人の男が彼女の見張り番をしており、この男もロルなしではいられない一人。
そしてこの男はロルを「見ているだけ」でやはり幸福なのです。
ロルの放つ狂気に自身も廃人と化した旅人のマイケル。
けれどもおそらくマイケルは今が生涯のうちで最も幸福なのではないでしょうか?
すべてを投げ打って追いかけたアンヌとの日々、彼女のアンニュイさは周囲の
誰も彼もを不幸にし、その後の別な女性との平凡な結婚生活も文字通り
ありきたりで満足感は得られなかったでしょう。
完全な狂人となったロルに再会して彼はようやく静かな歓喜を手に入れるのです。
ロルは自分に近づくものを狂気の世界の住人にします。
それもほとんど無意識のうちに。。。
おそらくマイケルはロルと同じ狂気の世界に住むことをよし、としたのでしょうね。
ロルは神と話します。
毎朝、ロルの目は海をとらえ、光をとらえ、海や光を越えてあらゆるものをとらえます。
そして叫ぶ。
言葉にならない言葉で。人には理解不能な言葉で。
神との対話は言葉以前のものでなされ、祈りとは言葉にならない言葉たち。
ロルは白い服と真昼の光と白日の狂気を纏い、今日も神と対話するのです。
かつての旧約の預言者の如く……。
それゆえ、男たちはロルを崇め傅(かしず)かずにはいられないのです。
なぜなら、ロルはもはや神と同化したのですから。。。
ロルの言葉は神の言葉そのものなのですから。。。
ロルのシリーズを読んで、高村光太郎の「智恵子抄」の詩のいくつかが
脳裏をよぎりました。
奇しくもロルも智恵子も狂人の両者がさ迷うのは海辺なのです。。。
「風にのる智恵子」
狂つた智恵子は口をきかない
ただ尾長や千鳥と相図する
防風林の丘つづき
いちめんの松の花粉は黄いろく流れ
五月晴の風に九十九里の浜はけむる
智恵子の浴衣が松にかくれ又あらはれ
白い砂には松露がある
わたしは松露をひろひながら
ゆつくり智恵子のあとをおふ
尾長や千鳥が智恵子の友だち
尾長や千鳥が智恵子の友だち
もう人間であることをやめた智恵子に
恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場
智恵子飛ぶ
「千鳥と遊ぶ智恵子」
人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の
砂にすわつて智恵子は遊ぶ
無数の友だちが智恵子の名をよぶ
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
砂に小さな足あとをつけて
千鳥が智恵子に寄つて来る
口の中でいつでも何か言つてる智恵子が
両手をあげてよびかへす。
ちい、ちい、ちい――
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをぱらぱら投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。
「値ひがたき智恵子」
智恵子は見えないものを見、
聞えないものを聞く。
智恵子は行けないところへ行き、
出来ないことをする。
智恵子は現身のわたしを見ず、
わたしのうしろのわたしに焦がれる。
智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。
わたしをよぶ声をしきりにきくが、
智恵子はもう人間界の切符を持たない。