1 :
吾輩は名無しである:
人類が始まって以来事あるごとに対立、批判を繰り返してきたこの二者は、やはり
互いに相容れない水と油の関係であるのか?それとも概念、手法こそ異なれ極限的
には同一の英知を求める「同志」であるのか? みなさんはどう思われますか?
2 :
吾輩は名無しである:2006/08/29(火) 12:29:00
コンタクトって映画が面白いのは間違いない。
3 :
吾輩は名無しである:2006/08/29(火) 12:33:14
いま科学が果たしている役割を以前は宗教が担っていたってだけのことだよ。
また アレフの宣伝か・・・
また 原理運動の宣伝か・・・
また江原啓之の宣伝か・・・
また層化の宣伝隊か
また三輪明宏の宣伝か・・・
また 阿含宗の宣伝か・・・
また細木数子の宣伝か…
11 :
吾輩は名無しである:2006/08/29(火) 12:56:41
私は1ですが何の宣伝でも、勧誘でも、洗脳でもありません! この事について純粋な、真摯なご意見を
お訊きしたいだけです。真摯にお答えしようとして下さる方に誤解を生む様な事を書き込むのはおやめ
下さい。
また 「摂理」の宣伝か・・・
またアルカイダの宣伝か…
またサイエントロジーの宣伝か…
またパナウェーブの宣伝か…
17 :
吾輩は名無しである:2006/08/29(火) 13:16:03
14年前から、不審なことが
宗教は愚衆を導く為に簡略に経典化された思想の体系ですね。
そして思想というのは、哲学的に得られる信念であるから、つまり
宗教とは哲学が『教義』になった場合のカタチです。
教義化された哲学信仰が宗教なわけです。
で、デリダは脱構築(deconstruction)という概念であらゆる原理主義を止揚したわけです。
その意味では、知識階級にとって宗教とは過去の産物であって、
言い換えれば、特に後発国における愚衆を導く為に存在する経典群にすぎない。
科学は宗教とは別個の『実証体系』であるのは明らかですから、
それらが矛盾するのは自然です。
だから宗教原理主義者と科学者がケンカするのはバカげています。
それは力士とサッカー選手にそれぞれの分野のルールでいきなり草野球をやらせるみたいなもんですからw
ライフスタイルの多様性を寛容しなければなりません。
生半可な知識振り回して 恥かしげもなく
はや痴呆症はじまったか…
20 :
吾輩は名無しである:2006/08/29(火) 17:26:09
名無しで2ちゃん初心者に説教垂れるコテよりはマシだろ。
21 :
NN:2006/08/30(水) 02:18:57
科学の枠組みで宗教を議論することは可能であるが、
宗教の枠組みで科学を議論することは不可能である。
科学と宗教は包含関係にあるから、同じ次元で対比して議論するのは少し無理があるのではないかと。
宗教と一言で言っても色々な面があるので、話が分散しないよう、気をつけないとダメだとおもう。
サイエントロジーはどうなるんだ?
23 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 06:53:02
>>21 逆でしょう。
神を前提すれば説明できないことはないのだから。
24 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 07:48:35
カオスの発見まで、大気や荒波、野生動物の個体郡の変動、心臓や脳の振動などのなかに生じる乱れについては、手も足も出なかった。
従来の科学にとっては、自然の不規則な面、断続的で気まぐれな面はとけない謎、得体の知れない化け物でさえあったのだ。
しかもカオスは、科学の各分野の縄張りを越え、それらを否応なしに関係づけるので、それまで孤立していた各分野の専門家たちを、共通の場におくことになったのである。
25 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 08:49:16
>>23 >神を前提すれば説明できないことはないのだから。
「説明」はできるだろうけど、「証明」はできない。
そこが問題なんじゃねえ?
26 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 08:53:38
この板バカしかいねえの?
図星さされて痛いか バカw
マルチすれじゃんアホw この板バカしかいねえの?
お前を筆頭にな!ウププ
30 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 09:24:11
ヴィーゴは一般には、デカルト的な〈批判性理性〉に対して、〈共通感覚〉を説き、修辞学を復権した人として知られている。
ヴィーゴの格率は次のようなものだ。
いわく、「真なるものはつくられたものであり、つくれれたものは真なるものである(Verum=factum)」。
たとえば、諸学問のうちで、〈数学〉は人間がつくったものだから、数学上の真理には、われわれは到達することができる。
一方〈機械学mechania〉となると、これは自然の力を借りつつ半分だけ人間がつくったものだから、この領域では半分だけ真理を手にすることができる。
ところが〈自然学physica〉になると、自然は完全に神の被造物であるから、究極的には人間によってはその真理はあきらかにさるないということになる。
31 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 09:28:25
ほとんどバカだわ
32 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 09:31:26
猿が無いのか
33 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 09:32:36
写すのもできないバカが
34 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 10:11:14
この時間にハナクソほじくってワイドショー見てるバカスケがなにいっても無駄。
いいから感想文の宿題やれってw
「この時間にハナクソほじくってワイドショー見てるバカスケ」
自分のことだからよく表現できるかw
ワイドショー pupupu おまえ何処のおばさんだよぉ〜〜〜〜w
37 :
36:2006/08/30(水) 10:21:35
猿が無いのか
38 :
23:2006/08/30(水) 10:22:44
>>25 数学的プラトニズムという言葉を知らないの?
39 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 10:25:54
>>38 >数学的プラトニズムという言葉を知らないの?
オマエはイワシの頭でも拝んでろ、バカ。
はぁ〜〜〜〜〜 中沢新一の宣伝スレだったのかぁ w
41 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 10:30:46
板ちがい
42 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 10:36:39
、
43 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 10:37:51
ぐだぐだ言う前に、オウム事件の落とし前つけろよ、
コラ、中沢! と言うてみた
44 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 10:39:52
45 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 10:47:07
46 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 12:17:49
あげますか
47 :
23:2006/08/30(水) 12:22:50
>>39 じゃあユージン・ウィグナーの1960年の有名な講演も知らないの?
ウィグナーは物理学者なんだけど。
1963年の講演じゃないの?ノーベル賞受賞講演の方が有名なんだけど。
ウィグナーの翻訳あるよ
『群論と量子力学』森田夫妻訳で
50 :
23:2006/08/30(水) 12:41:38
>>48 だったかも。
ペンローズが60年って言ってた記憶があるんだけど、じゃあ記憶違いだね。
51 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 19:29:02
>>30 ちょっと面白い。
できれば「究極的に」のところを詳述してくれると嬉しいのですが。
52 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 19:38:24
物理学ほど信用できない学問はない。
まだ宗教の方がまし。
53 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 20:59:41
>>40 ホントけ?
☆ チン マチクタビレタ〜
マチクタビレタ〜
☆ チン 〃 Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヽ ___\(\・∀・) <中沢新一、再登場まだ〜?
\_/⊂ ⊂_ ) \_________
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| |
結論
これまで科学は超越論を抹殺、あるいは包摂できていないばかりか、
むしろ超越論(プラトニズム)から包含される状態にある。
一方、宗教は超越論をも包含する強力な枠組みを持つ。
よって宗教の勝ち。
55 :
吾輩は名無しである:2006/08/30(水) 23:48:11
なんかペダンチックだなぁ。
これで、お笑いと両立できる書き手がいればホンモノなんだろうが、
そんなの2ちゃんにいないか。
>>54 そーかなー。むしろ科学は結果的に宗教を補強しているよーな気がするけど
なあ。「こっからここまでは人間の領域です。説明できる領域です」っていう
のが増えれば増えるほど、カミサマの領域は減るんだけど先鋭化する
っていうかね。そういう科学に囲い込まれた領域にオウムやらその
後のしぶといスピリチュアル系の人たちってそのあたりにどんどん吸
い込まれているし。江原なんとかとか、三輪とか、ちょっと前までは
ややアングラだったのがw、ていうとか。
57 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 00:33:51
>>56 >そういう科学に囲い込まれた領域にオウムやらその
>後のしぶといスピリチュアル系の人たちって
宗教なんて結局「自分探し」でしょ?
俺みたいな<エラソーなヤツ>は新興宗教なんて
まるで興味がないね。
あー、哲学とかってあんまりわかんないんだけど、
僕は理系だが、どうも文系の人と話をしていると、
この人「自分を中心に世界が回っている」と思ってるんじゃないか?
と思うことが多いんだよね。たとえば「存在」の定義とかもね。
認識する主体が存在してこそ物質は存在するんだ! みたいな。
あなたがこの世に居なくても、いや人類がこの世に存在しなくても
地球は回るし、太陽は輝くんですけど。(それが尤もらしいという意味でね)
科学っていうのは、そういう究極の客観的視点からみた宇宙の法則を
「尤ももらしさ」という視点から議論するものであるからして、神という
概念を生み出す人間の脳そのものも、科学の対象なんですよね。ちなみに、
神という概念を生み出すのに関連した脳の部位も随分研究されています。
ある特定の部位を刺激すると実際、神秘体験が出来るし、新興宗教の教祖
にはその部位に癲癇がある確率が高いとかもわかってるしね。
神を信じるあなたの存在も、科学の研究対象です。
「真理」なんて数学の公理系以外の分野では証明しようがないんじゃない?
(僕は公理系の上に組み立てられた世界が美しくて好き。)
科学ってそういうものだと思うけど。
意味。
60 :
NN:2006/08/31(木) 00:58:24
「真理」(数学では「真の命題」)とか、「証明」とかって
科学の中でも数学の公理系内での話しであって、それ以外の科学が議論するのは
すべて「尤もらしさ」だけなんですよね。
なんか、あげ足をとられてる感じがする。。。
61 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 01:04:52
>>57 >宗教なんて結局「自分探し」でしょ?
それがそうでもないんだなー。すごく雑な括りかたをすると、大文字の
宗教、たとえばキリスト教、仏教、イスラム教では「自分探し」
なんていう項目はないんだよ。あらかじめ自分の立ち位置は用意されてるんだよ。
その立ち位置ってのは「神」なるものとの距離で決定されるんだ。
探す必要はない。だって神様はいるんだもの。神様がいるってことは、
自分がいるってことでしょ?
62 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 01:07:09
>>58 >認識する主体が存在してこそ神は存在するんだ!
我思う、ゆえに割れ目アリ みたいな?
なんか眠くなってきたぞ。
63 :
NN:2006/08/31(木) 01:08:43
30 の引用した内容は、だからサイエンスをやっている人にとっては
当たり前のことだと思う。自然界を神が創ったかどうか知らないし、
どうでも良いけど、サイエンスの勉強をすればするほど、というか、
特に脳科学を深く勉強すればするほど、「神はいない」と考えたほうが
色々な現象の説明がつく(要するに、尤もらしい)ことになるんですよね。
もちろん、証明なんて出来ないですけど。
64 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 01:09:57
割れ目って、女性のクレバスのことですか?
あと、宗教は入信するより自分で興した方が儲かるよね。
>この人「自分を中心に世界が回っている」と思ってるんじゃないか?
>と思うことが多いんだよね。
「自分探し」を解く鍵だね。
66 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 01:17:46
>我思う、ゆえに割れ目アリ みたいな?
バタイユだね、それは!
67 :
NN:2006/08/31(木) 01:19:22
新興宗教の教祖って、儲けてるし、無税だし、例にもれずハーレム作ってるしね。
68 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 01:21:57
>>63 それで自足できるならアナタにとって科学が宗教だというだけのことでしょう。
折角だからウィグナーにご登場願うと、彼は「自然に法則があるのは到底当たり前とは言えないし、
それを人間が理解できるのはなおさらだ」といってるんだけど、
こういう問題については自分のなかでどう処理しているんですか?
69 :
NN:2006/08/31(木) 01:35:35
>>68 確かに、自然に法則があるのは「当たり前ではない」かもしれない。
しかし、実際に過去の数々の科学者によって「自然界の法則」と呼ばれる
ものが提案され、それを逐次的に利用することによって、飛行機は飛び、
携帯で通話が出来るのは事実。この結果から、その「法則」は「正しいと
考えて無理はない」というだけ。その法則は「真理」ではない。ニュートン
の運動方程式も、人の生活する時空間のスケールにおいて近似的に正しかった
だけ。「法則」が「真理」かどうかは決して証明は出来ないし、後で間違いと
分かることもあるけど、「尤もらしい」という観点から文明としてそれらを
利用していこうというのが科学の立場だと思う。
宗教も、なぜ人類に宗教が存在するか、その理由を「尤もらしさ」という
観点から科学で議論できると思っている。
人間という種は、能力に限界がある。あまりに複雑な現象は人間の能力の限界
を超えている。僕が「限界」と感じるのは、例えば経済や情報処理システムと
しての人の脳など。あまりに複雑すぎて、もうムリって感じ。
でも、能力内で分かる範囲で分かることは悪いことじゃないし、それはそれで楽しい。
70 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 02:13:40
>>69 いえいえ、科学の立場は理解しています。
問題は、科学の枠組みの外側に人間が踏み入れることのできない、
それでいてそれを想定しなければ科学とても足場を失う世界が存在するということなんですよ。
>>52 そういえばオウム信者も物理・化学系の人多かったね。
どこまでも帰納的な自然学に嫌気がさして、
どこまでも演繹的な宗教に惹かれたのかも知れません。
72 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 09:07:06
>>71 >どこまでも演繹的な宗教に惹かれたのかも知れません。
そうして「コスモクリーナー」が誕生したのか。
73 :
吾輩は名無しである:2006/08/31(木) 12:49:36
>>61 あなた最高だね。
と言っておきながらなんだけど、真面目に神に帰依している 人には
なにか偉大で揺るぎないものに同化したいという根源的な欲求が
あるみたいなんだよね。
これだって自分探しだよね。
宗教と科学は、同じ平面状に存在していない。
関係を語ることは可能だが、比較は不可能。
同一平面上になくても関係くらい語れるだろ
あ、すまんすまん。比較ね。
でもまあ比較だって可能だろう。
別の条件次第でな。
78 :
横槍:2006/09/02(土) 00:41:48
>>51 >>77 自分がいちから作った世界では、自分が神であり、すべてが手の内にある(数学)
神によって作られた世界を理解しようとしても、それが真である事を証明することは出来ない(自然科学)
ちょっと違うか。。。
>>51の話は中村雄二郎さんの本から勝手に引用したんだが、自分としては数学を考え出した脳自体も神の被造物なんじゃないかとか思ってしまった
80 :
吾輩は名無しである:2006/09/15(金) 16:04:05
複雑系の科学について
アナロジーの論理をどう打ち鍛えるかを含め、最初に述べた諸矛盾を複雑系の科学が順次、解決していくまでには、まだまだ時間がかかるだろう。
だが、その進展は確実に、私たちの科学観を変えていくだろう。
超越論的観念論への開眼を近代科学の宇宙観の大転回にたてえて「コペルニクス的転回」と呼んだカントに倣っていえば、二十一世紀に私たちが経験して行かなければならない科学観や世界観の転換は、「プトレマイオス的逆転回」とでも名づけ得るものになるだろう。
情報操作だけが幅を利かすバーチャリティの支配する普遍性の天界から、もう一度、地上の真のリアリティの〈世界〉へと戻って行かねばならないからだ。
その意味で、複雑系が真に問うているのは、「世界を見ることを学び直すこと」なのである。
哲学者が〈世界〉と呼んできたリアルな現実を、私たちは科学することができるのだろうか。
81 :
吾輩は名無しである:2006/09/15(金) 18:25:55
↑理系のやつらがこういうのにはまるとホンとタチ悪いな
まったく同じ批判がずっと文学研究者に向けられ続けてるんだがw
科学ってのは、企業からすればまず実際的な産業だし、学舎からすれば、
学問的ルールの上で運営されるある種のゲームなんだよ。
純粋に科学する分にはセカイについて哲学的な思考をめぐらす必要などない。
科学哲学を重要な課題と考えているのは哲学者であって科学者ではない。
まして、文学者なんてアウトオブ眼中だろ。どうでもいいもの。
>>80 「複雑系」ってなんだか知ってる? 線形代数はもちろん、非線形力学系や分岐理論
なんかもちゃんと勉強した? 「複雑系」という言葉を使っている世の中の人の9割は
その内容をちゃんと知らない気がする。間違えて理解された抽象概念と、言葉のイメージ
ばかりが先走りしてる感じ。ま、どうでもいいけど。80は理系ではないでしょう。
あと、数学は科学じゃない。科学を記述するための道具ではあるが。
公理の束を論理的に操作する純粋に知的な遊戯であって、
科学のように実験や観察で研究されるものではないから。
対象とする自然現象がない以上、科学と呼ぶべきではないだろう。
>85
その定義でいけば、一部の量子論や宇宙論は科学ではなく純粋な知的遊戯ということになるし、相対性理論も最初の時点では科学ではなかったということになる。
きっとあなたは理系の人で、宗教や哲学には興味がないのでしょう。難しいことは考えずに、大人しくご自分の信念と日常業務に自閉しているのがお互いの為だと思います。
>86
ん? 量子論も宇宙論も観測や実験で確かめられてるぞ? もちろん相対論も。
技術的に足りなくてまだ観測出来てないものと、原理的に観測の対象に
なりえない数学とは問題が別だろう。
シュレーディンガーの実験は原理的に観測不能な実験として知られていると思うが?
89 :
吾輩は名無しである:2006/09/15(金) 23:18:18
アプリオリな総合命題
確かに数学はサイエンスの中でも異色だね。非常にすっきりした、あいまいさの
入る余地の無い、公理の上に構築された完璧な世界。
なぜ我々は存在するのか?私とは何か?生と死はなぜ存在するか?愛とはなにか?
そのような疑問に答えてきたものが、宗教 → 哲学 → 科学 と変遷してきた。
哲学は宗教を包含し、科学は宗教と哲学を包含する。
俺は高校の時にドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んで、雲が晴れたような
すっきりした気分になった。非常に論理的で説得力があった。
なぜ、宗教が存在するか?という問に答えるのも(広義の)科学の役割。
91 :
吾輩は名無しである:2006/09/15(金) 23:29:51
おめーら戸田山和久『知識の哲学』産業図書でも読んだら?
92 :
吾輩は名無しである:2006/09/15(金) 23:30:07
そうかな。数学って新しい曖昧さを作り続けていく学問のような肝
するけどな。
文化人類学も忘れてはいかんな。
93 :
吾輩は名無しである:2006/09/15(金) 23:37:43
最終的に科学に取り込まれるかもしれないとしても、それも不確実な現時点では、
科学が解決する、という文は形而上学的である。
>>91 「よめ」だけでなく、できれば何故お勧めか、その推薦図書の主張を簡単に教えてください。
>>92 数学における「曖昧さ」って何? 数学における公理主義はご存知?
>>93 科学っていうのは、「そう考える方が論理的に無理がない」という客観性を特徴とする
「ものの見方」であって、絶対や真理や証明という言葉とは相性が悪い。
そもそも不確実なものなのです。
>数学における公理主義
もちろん知ってますよ。そういう「主義」があることは。
「数学にあいまいさの入る余地がない」ってのは違うんじゃねーってこと
もあるが他にもある。あとは自分で考え名。
96 :
95:2006/09/15(金) 23:53:40
ちなみに数学だけじゃなくてあらゆる学問にいえること。
基本。
うーん、非ユークリッド幾何学の入門書でもよいし、コルモゴロフの公理主義的確率論
でも良いですから、公理主義があることを知っているだけでなく、実際にその内容も
いちどフォローされたほうが…
特に、確率論に関しては、1950年代のコルモゴロフ登場以前、ラプラスなどが扱っていた時代は
まだあいまいさがあったかもしれないけど、彼が取り入れた公理主義的解釈で、やっと数学らしく
「あいまいさの入る余地の無い」世界で議論できるようになったんですよね。
僕が「あいまいさが無い」って言ってるのは、単なる数学でなくて「公理に基づく数学」ね。
98 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 00:03:12
>>93 書き方が不味かったね。現時点でそうなってないし、そうなるかも解らんものを、
変遷してきた、なんていうのはどうよって事。
『知識の哲学』は認識論の入門書だが、後半では認識論の自然化に伴う他の文理を問わない学問分野との協調を描き出した本。現状我々に使いうる学問的道具だてによる漸進的構築を説く。
99 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 00:09:48
確率なんてツールに頼ってる事自体、
俺らのものの捉え方の曖昧さをしめしてんじゃねーの?
100 :
99:2006/09/16(土) 00:13:44
と思ったら、ちゃんと97でフォローしてあるわね。
>>98 ネットでも色々書評を見ていたら面白そうなので注文しました。
「変遷してきた」っていうのは、確かに俺が勝手に思ってたことです。
脳科学関係の専門書を読んでいると、脳科学の研究者には小さい頃から宗教的疑問
を持ちつづけ、行き着く先がサイエンス的アプローチだったような人が結構多い。
専門書だが、所々に作者の脳科学をテーマにするに至ったモチベーションが語られていて
面白かったりする。
文学板でゲーデルの証明をちゃんと理解してる人は何人いるかな
103 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 00:31:03
ちょうど岩波から出てたね。ゲー出る。
科学をブッタ切ったと言われるジョン・ホーガンの本を読んでみると面白いかも(ちなみに監修は筒井康隆)
基本的にナンセンスなので、ユーモアの分からない理系(文系も)にはお勧めしない。
>88
シュレーディンガーの実験? 何を言いたいのかがわからん。
例の猫のたとえ話のことなら、死んでるかどうかは箱開けたら観測できる。
多分、もうちょっと長い話をはしょってるんだと思うが。詳細求む。
>95
もはや公理主義を取らない数学研究ってありえないだろ。
俺は情報工学のほうの人なんで、知識がそっち寄りではあるけどな。
>102
ゲーデルの不完全性定理は難しいので、同じ事を言っててもっと簡単な、
チューリングマシンの停止問題を勉強するほうが文系の人向けかもな。
>>105 ゲーデルの不完全性定理は中学生でも理解可能ですよ。
馬鹿な俺でも理解できましたし。
科学が宗教と哲学を包含するとは、随分ナイーブな科学観をお持ちですのね。
科学がいつ超越論を超越したのかお聞きしたいわ。
ちょっと、俺の数学的知識がゲーデルの不完全性定理の証明を読んだ大学教養課程あたりで止まっているので、
それ以降の公理主義ってのが全然分からないです。ので
>>105さんに俺にも分かるような解説をお願いしたい。
公理主義ってのは元々、カントールやデデキントがやった無限の概念の数学への導入、つまり集合論によって、
広大で豊かな世界、まさに数学の楽園の実現に向けて掲げた戦略のようなものであったと自分は認識しております。
その夢がゲーデルによって打ち砕かれて以降、どうなったのかを知りたいです。
完全に板違いならスルーで結構です。
公理主義がなぜ生まれたのかというと、ご存知数学の危機のためである。
ヒルベルトの掲げた公理主義は、数学の生き残りを賭けた戦略であり、
その戦略は今も形を変えて息づいている。
逆に言うなら、数学の危機はまだ続いている。
そして永遠に続くでしょう。
言い換えれば、数学は永遠に続くでしょう。
>106
うーん、ほんとだとすれば凄いが、いい加減な理解してそうだなあ。
比較すればチューリングマシンの停止問題のほうがはるかに簡単なので、
どっちかを薦めるなら俺はチューリングマシンの停止問題を薦める。
>108
現代集合論では、無限を記号として公理と論理の束の上で定義することで、
学問としての厳密化を計ったわけだよ。この時点で、有限の集合に関する
自然で直観的なイメージと集合論は切り離されている。
無限とは、自然界とはまったく無関係の、あくまで数学というゲーム上で
定義された記号に過ぎない。むしろ、数学の世界を狭く閉じられたものに
するための戦略だったと俺は考えるね。
>>107 宗教や哲学は人類が存在してはじめて存在するものだが、科学が扱う対象は
人類の存在の有無に関係なく存在する世界なんですよね。科学が扱う対象に
人類というものが入ってくると、必然的にその人類という基礎の上に存在す
る宗教や哲学も科学の対象となる。科学というのは究極的に客観的な視点と
いうのが定義ですから、宗教や哲学を生み出す人の脳も科学の対象なんです。
この時代に宗教と科学を同列に議論すること自体がナイーブなんですね。
いつも暇人が書いた下らない空想話を読んで時間をつぶしているのでしたら、
たまには自然科学系の本も読んだ方が良いですよ。
前時代的なことをおっしゃるのでびっくりしました。
>111
宗教を研究する宗教学や神学は人文科学に分類される。
自然科学・社会科学・人文科学という分類法はおさえたほうがいいかも。
>科学が扱う対象は人類の存在の有無に関係なく存在する世界なんですよね。
これは自然科学の話だね。
>宗教や哲学を生み出す人の脳も科学の対象なんです。
脳の研究で宗教や哲学を理解しようなんて、テスターやロジックアナライザで
Windowsを解析しようというのと同じくらい遠大な計画だ。原理的には可能でも、
実際的にはあと何年かかるか分かったもんじゃない。
人文科学の領域はどう少なく見積もってもあと数百年は有効なんじゃないかな。
能科学の最前線を知らない奴ほど、まやかしに誑かされて道を誤る。
いつまでも脳内チベットで瞑想妄想に耽っているような状態。
世阿弥十四世がノーベル賞を取ったって?<能科学
大脳生理学のどこを取れば宗教や哲学が説明できるか教えてもらいたいもんだ。
あんなもの、まだテスターやロジックアナライザの段階にも達してない。
CPUファンやHDDの動作音からWindowsを解析しようとしてるようなものだぞ。
116 :
111:2006/09/16(土) 15:36:56
>>112 自然科学、社会科学、人文科学の分類くらいわかっていますよ(笑)
>>科学が扱う対象は人類の存在の有無に関係なく存在する世界なんですよね。
>これは自然科学の話だね。
書き方にいいかげんな所があったが、言い直すと、科学が扱う「対象」が人類の
存在云々なのではなく、科学の「方法論」として、客観性が特徴だと言いたかった。
社会科学や人文科学でも、客観性、再現性などの科学の方法論は共通している。
僕が言いたいのは、宗教的思想・視点によって物事を解決しようという
人の行動そのものが科学の研究対象だということ。
脳の研究なんてと言うが、臨死体験や、オカルト体験、宗教的恍惚感などは
脳科学的に、どういう部位がどのように関連しているかなど、かなり明らかに
なってきている。人の生死、愛、エゴなど、従来は宗教的テーマであった多くの
ものは現在、生物学的(自然科学的)に論理的、客観的に説明されている。
>脳の研究なんてと言うが、臨死体験や、オカルト体験、宗教的恍惚感などは
>脳科学的に、どういう部位がどのように関連しているかなど、かなり明らかに
>なってきている。
これは過大広告。パソコンに喩えると、ハング時にCPUが凄くうるさい、とか、
省電モードに入ってHDDがとまってる、という程度のことしか、今の大脳生理学
では分からない。対症療法としては有効だが、内部構造はぜんぜん分からん。
せいぜい、この辺はこういうことをしてるときに電流流れてるから、こういう役目
なんじゃないかなあ、と予想が出来ている程度。回路図はまるで書けてません。
精神疾患の薬物治療も、調子の悪い電化製品を叩いて直したり、パソをリセット
しているようなものだ。内部構造をわかってやってるわけではない。
俺は徹底した人間機械論者だけど、だからって現状の大脳生理学を過大評価はしない。
118 :
111:2006/09/16(土) 16:08:10
大脳生理学が万能なんて俺は一度も言っていない。ただ、脳科学が多くの可能性を秘めたフロンティアである事は確か。
まあ、人の脳はあまりに複雑すぎて、有限な人類の知力では完全な理解は不能ではないかとさえ思っているけど。
しかし、それでも分かる事を一歩一歩積み重ねていくのが科学であって、
物事が理解できないからといってそれを神に頼るのは前時代的だといいたい。
宗教的に物事を理解しようとする人の存在や、宗教が何故存在するか、宗教の意義などを
客観的に議論するのは科学(人文科学)の範疇。すなわち、宗教は科学に包含される。
>118
少なくとも、君の
>宗教や哲学を生み出す人の脳も科学の対象なんです
に対して、
大脳生理学で宗教を解き明かすにはあと少なくとも数百年はかかるだろう
と俺が返した件については合意が取れたって事でOKかな。
人文科学や社会科学は、人間をいったんブラックボックスとみた上で
その行動の法則性を探っていくものだ。ブラックボックスの中を扱う
大脳生理学と連結する日が本当に来るかどうかは予想できない。
原理的には不可能ではないと思ってるけど、とてつもなく困難だから。
それまでに人類が滅びる可能性もあるしなあ。
120 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 17:18:56
人文科学は、とりあえず付けとけって感じで科学付けただけで、
実際は全然科学じゃないよ。
なんか
>>118はナイーブな感じ。現実まだそうなっていないのに、そうなる、と言っちゃうのは信仰だよ。
まあ、それは科学の定義によるところだから。
自然科学ではぜんぜんないよな。確かに。
社会科学のほうがまだ自然科学にいくらか近い。
122 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 17:46:59
そこでカオスですよ。
経済や社会も巻き込みます。
123 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 17:49:38
従来の近代科学では地震予測すら不可能だった
いや、あのね、カオス理論は数学の一分野で、別に万能理論でも
なんでもなくてね。原理的に社会科学と自然科学の垣根をどうこう
してしまうような大それたものではないのだが。
125 :
107:2006/09/16(土) 19:41:58
>111
>科学というのは究極的に客観的視点というのが定義
残念ながら、ひどい思い違いをなさっているわ。
科学の客観性に論理的基礎を与えようという試みは
悉く失敗に終わっているの。
重要なのは、可能だろうと思われていながら、誰一人として
成し遂げられなかったことね。
結局、科学は「人間の想像の産物」の域を完全に出切っていないのが現状なのですわ。
126 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 20:26:36
ポパーは、反証主義を彼が批判性合理主義と呼んだ一つの哲学へと発展させた。
ある科学者が思いきって一つの提案をすると、他の者たちが反対の論拠もしくは経験的証拠をあげてそれを叩き落とそうとする。
ポパーは、批判と争いを、あらゆる種類の進歩に欠くことができない要素とみなした。
ちょうど、科学者たちが、ポパーが「推測と反駁」と呼んでいるものを通して真実に近づくように、生物の種は競争を通じて進化し、社会は政治的論争を通じて発展するという。
彼はかつて、「衝突のない人間社会は、仲の良い友だち社会ではなくアリの社会にすぎない」と書いた。
1945年に出版された『開かれた社会とその敵』(The Open Society and Its Enemies)の中でポパーは、政治は科学にもまして発想と批判を自由に遊ばせる必要がある、と断言した。
独断的態度は、必然的に、マルクス主義者やファシストが異口同音に主張するようなユートピアではなく、全体主義の圧政へと導くのだ、と。
127 :
111:2006/09/16(土) 21:09:21
>>125 あなたのいう「科学の客観性に論理的基礎」というのは、何か完璧なもの、絶
対的なものを想定しているように思えるのだが、科学というのは(公理主義に
基づく数学を除いて)そんな論理的基礎は必要としていないんですよね。
「客観性」「再現性」というのは科学的手法の特徴であるが、その客観性は
100%正しいなんて言ってない。再現性の検証にも間違いがある場合もある。
科学というのは、ごまんといる科学者のうちの誰かがある実験結果からその背
景にある仕組みを帰納的に推論し、その論理性、正当性、再現性をその他大勢
が客観的に検証し…、という地道な作業の連鎖で成り立っている。その推論に
は往々にして間違いもある。あくまで近似的な理論であったりもする。大勢が
認めていても後でひっくり返されることもある。科学は真理の証明なんて目指
していない(出来ない)。あくまで「客観的に尤もらしい」解釈の積み重ねを
目指している。だから、客観性、再現性に欠け、検証不可能なオカルト主義者
や宗教の教祖の弁や神を持ち出す人など、はじめから相手にしない。そういう
人間の精神構造は科学の対象となり得るが。
科学が「人間の想像の産物」であることにも異議はないよ。それはそうでしょ
う。僕は小学3年の頃に、この世はすべてヴァーチャルで自分ひとりが実験動
物として誰かに観測されていて、家族も友達も全て演技の可能性があると思っ
ていたが、今でもそれを否定するものは「尤もらしさ」でしかない。あくまで、
そう考えた方が合理的ということであって、それを判断する主体は有限の能力
しかもたない人間である以上絶対なんてことはありえない。科学も想像の産物
でしょう。
128 :
125:2006/09/16(土) 21:33:02
>127
まあ。科学とオカルトとの間に明確な境界はなくてよ。
でもおっしゃることはよくわかりました。
究極的という言葉が誤解のもとなんだわ、きっと。
129 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 21:34:15
アメリカ西海岸で、パソコンのマウスやGUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)などを開発した若者たちは、客観的なデータを駆使する科学者ではなく、ヒッピーあがりのような神秘主義者だったと言われている。
130 :
111:2006/09/16(土) 21:43:28
>>128 科学とオカルトの間に明確な境界は無いというのも半分は同意するが、
あえて言うとオカルト主義者や宗教家は断言するが、科学は解釈について断言はしない。
そう解釈する方が尤もらしい、差し支えない、合理的だ、という判断をすることが大きな違いだと思う。
情報工学の人が文学を語ると面白そうだ。
せっかくなので聞いてみるが、あたた達情報工学者が自由意思を持つ人工知能を作り上げた時、魂はどこから取り寄せて注入させるおつもりです?
魂ってなに?意識ってなに?注意ってなに?自我ってなに?死の定義ってなに?脳内にホムンクルス的な存在はあるの?五感で受けるこのヴィヴィッドな質感ってなに?
魂は全てのモノに宿る。
あんたのパソコンにも宿っている。
魂を感じなくなった時、人は本当の機械になるのだ。
134 :
128:2006/09/16(土) 22:05:40
>130
でも世の中には「科学はいずれ全ての問題に答えを出す」と
断言して憚らないれっきとした科学者もいらっしゃいますから。
135 :
吾輩は名無しである:2006/09/16(土) 22:28:30
>人工知能を作り上げた時、魂はどこから取り寄せて注入させるおつもりです?
それは人工知能が勝手にやるでしょう…。
人工知能よりも人工子宮のほうがむしろ問題。
136 :
111:2006/09/16(土) 22:44:49
>>134 まあ、それを言い出すとキリがないですね。地方の国立大学なんかに行くと年老いた変な教授いっぱいいますよ。
でも科学的手法に関する一般的なコンセンサスは上記の感じだと思う。
またそうやって話をごまかす。
もっとまじめに語ったらどうですか。
>131
魂とか言われても。まず魂の定義をしてもらわないと。
人工知能研究が努力目標としての「知能」をどう考えてきたか、
というのはチューリングテストの話を読んでもらえると分かると思う。
魂の定義と言われましても。
まず定義を定義してもらわないと。
ちなみに俺は「中国人の部屋」は全体として知能を有している、と考える派。
数学においては、チャーチのテーゼ、心脳問題については人間機械論、
そして知能の定義についてはチューリングテスト、これらの提言は、
仮説というよりはそれ以前、数学や科学が扱う問題設定に関する制限
なのだけど、俺は情報工学者として、その問題設定の外にある問題は
扱わないことに決めている。世界はそのようにあると信じている。
この俺の意識や人格や知能も例外ではない。
ま、そこまでいくと哲学なんだけどね。仕事として科学をやる上での
信じてようが信じてまいが研究の手続きとしては従うしかないので、
そんなことはどうでもいい、と考えるのが実務的な思考なんだよね。
>139
おけ。じゃあ魂の話はナシってことで。
魂の話をやりたかったのは君達だ。情報工学者はそんなものを必要としない。
魂とは生体と死体の体重差だと定義する。
他はいいが、中沢は自分の魂の始末もでけんくせして
偉ぶって喋るクセがそもそもなっとらん。何処でもごたく並べくさって
中は受け売りのスケスケの空っぽ。
空疎の極みだよね。
情報工学者さん、まずあんさんがサリーとアンのテスト受けるべきじゃないかね。
科学で解明できないことはない。
それは公理ってもんが完璧にできているからではなくて、
もともと科学の概念なんかは、あまりにも人間的に出来ていて、嘘吐きだからだ。
嘘ばっかり。真実なんかどこにもない。
どこにもないから嘘ができた。つまり嘘の中にしか真実はない。
僕がインタビューをした3人の偉大な懐疑論者のうち、最初に論壇デビューしたのはポパーであった。
彼の哲学は、アインシュタインの相対性理論のような正真正銘の科学と、マルクス主義や占星術やフロイトの心理学のような疑似科学(pseudo science)とを区別しよう、という努力から生じた。
前者のような正真正銘の科学は検証できるものだとポパーは断定した。
その世界についての予言は、経験的に真偽を確かめることができる。
論理実証主義者たちも、ちょうど同じようなことを言っていたが、ポパーは、科学者たちが帰納法もしくは度重なる経験的検証や観測によって、ある理論を“証明”することができる、とする実証主義者たちの主張を退けた。
人は、自分の観測が十分であったかどうか決して知り得ない。
次に行なう観測がそれまでの積み重ねを否定してしまうかもしれないからだ。
観測は、決してある理論を証明することはできず、単に反証(falsify)することしかできない。
ポパーは、よく、自分がこの論法で論理実証主義者の「息の根を止めた」ことを自慢していた。
147 :
吾輩は名無しである:2006/09/17(日) 02:38:05
魂って宮台が言ってるようなやつ?
宮台って誰?
149 :
吾輩は名無しである:2006/09/17(日) 04:21:06
そういえばホーガンの日本の版元がむかし「アインシュタインは
間違っていた」的な本を何冊か出していたのをご記憶かしら。
あれは悲惨だったわね。
近所の古書店でまとめて埃をかぶっていたから、買って全部読んだわ。
>144
知能の有無とは関係のないテストだな。知ったことじゃない。
>146
マルクス主義経済学や心理学が自然科学ではない、という指摘なら妥当だと思うけど、
別にそれでマルクス主義経済学や心理学の価値が減ずるわけじゃないからねえ。
マルクス主義は使い方を限定すれば今でも資本主義分析としては十分有効で思想家が
研究しているし、心理学もカウンセラーが仕事として成り立つ程度には実践的だ。
自然科学がそれらの代用としてはまだまだまるで役立たない以上、社会科学は有用。
人工知能学者が達成しなければならない差し当たっての目標は、
自己認識や時間認識などの認識全体と、創発的、自己集合的思考の
二点じゃないかしら。
だから必ずしも人間の知能をシミュレートする必要はないのだわ。
自己や自己を取り巻く環境要素の起源に思いを馳せる、コンピューターの中のプログラムコードなんてステキじゃないこと?
>152
そうだね。「中国人の部屋」も、いわばチャットに特化した知能なわけだし。
プログラムに人間の身体感覚を正確に模倣させても確かにあまり意味ないかもね。
計算中に腹が減ったとか言ってくるプログラムがあったら面白いけど。
アンドロイドはあと何年でできるか言え
単に人型の家事手伝いロボットということなら、50年掛からないだろうね。
個々の部品は既にかなりの精度で作られてる。
あとはそれを安価に組み合わせることと、需要の創出だけが課題だな。
知能を持ったアンドロイドということなら、もっと先になるだろう。
どのレベルの知能を望むのかにもよってくる。
156 :
吾輩は名無しである:2006/09/18(月) 09:56:46
物質が精神を支配するか。精神が物質を支配するか。
幸福という天秤にかけてみる。今の時代は物質科学が優先しているが、
はたして心から幸福な人間はいかほどいるのであろう。
10人に1人くらいだろうか。しかも物質科学が発展するにつれて
不幸な人間も増えていくことに今の科学一辺倒の人間は気が付かない。
もし大金持ちになって高級な物に囲まれたとしても幸福感は
それはあると思うが、空しいものの方が多いと思う。
人間の欲は底がないからだ。TVに出ているお金持ち連中も
表面的には幸福そうに見えるが、精神的におかしな人間が多い。
無い心を表面で騙しているような気がする。
社会のトップの人間も悪人が多い。とすると、物質が精神を
支配するというのは一時的で永続的ではないということになる。
このようなことを考えてみた。
一時的苦しみは永続的幸福。一時的幸福は永続的苦しみ。
若い連中が刺激のあるものを求めるのは「一時的幸福は永続的苦しみ」
の罠にはまっているように思う。
つまり精神が物質を支配するというのが永久不滅の真理である。
人間が地球の上に立っているのと同じように、
科学も真理の上に立たないと崩れるのである。
科学と宗教は必ず一致する。それは神(真理)によって。
157 :
吾輩は名無しである:2006/09/18(月) 10:05:54
↑
それは、前時代的な天動説的思考だよ。
では科学の発展してなかった昔は精神的におかしい人は少なかったのか?
「精神的におかしい」が性格異常を表しているのか精神疾患を表して
いるのかはちょっとその文章では分からんが、どちらにしろ、別に
昔はいなかった、というようなものではない。
確かに複雑化する社会環境で神経症が相対的に増えたりはしてるだろうが、
それよりはるかにたくさんの身体的疾患を撲滅していることも考えるべき。
現代では精神医療もまた物質的なもの(薬物治療)に強くシフトしている。
統合失調症の心因説は否定されているんだよ。
昔からよく目にする言説だけど、言ってる本人に
意味の解っていた例がないのよ。
精神と物質が対立するってどういうことかしら?
そもそも争点が存在しないわ。
160 :
吾輩は名無しである:2006/09/18(月) 15:21:48
脳の研究で1963年にノーベル医学・生理学賞を受けたジョン・C・エックルスが、1989年に出版した著書『脳の進化』という本がある。
その本でエックルスは、脳とは別に、その外に「不滅の魂」というものがある、と書いている。
「各自の魂は神の新しい創造によるもので、受胎と生誕の間のどこかの時点で胎児に植えつけられる」ともいう。
さらにエックルスは「人間の神秘性は、精神世界の全てをニューロン活動のパタンにより究極的に説明できると唱える科学的還元主義によって信じられないほど品位を落としてしまった。この還元主義的信念は迷信の部類に入れられて然るべきである」
161 :
吾輩は名無しである:2006/09/18(月) 15:25:05
不純文學交遊録 : 情報と生命と聖性とIT文明の根底には、ユダヤ=
キリスト教の一神教的世界観があります。神が生物を創った とする
一神教的世界観が矮小化されると、生物を機械とみなし、 ...
養老孟司は、晩年 神秘思想に傾倒した脳科学者エックルスのことを
「老人ボケ」って言っていました。 ...
blogs.dion.ne.jp/fujun/archives/2900206.html - 18k - キャッシュ - 関連ページ
162 :
吾輩は名無しである:2006/09/18(月) 15:31:38
科学が発達していない昔の時代は、自然を支配するどころか
自然に支配されて生きるしかない。人間は精神的なものに価値を置かざるをえない。
今の時代でも文明の発達していない民族をTVで取材していたことがあるが、
彼らに幸せについて聞くと
「私達には幸せという言葉はない、なぜなら不幸せなどないから」と答えた。
それに対して今の日本は、貧富の差激しく、若い人間は堕落、咎め合い、
本当に幸せな人間など探さないといない。
「本当の幸せ」とは、幸福「感」という言葉にあるように、精神的幸福が根本で、
見えない部分。手を取り合って感じ合う幸福。プラス物質的幸福。
医学も身体的疾患を「撲滅」はしていない。できない。ただ一時抑えが発達しただけだ。
自分は病気になったが医学の無力を知った。むしろ医学で病気にされてしまった。
これは受け入れられないと思うが、病気のほとんどが実は医学が作っているのだ。
なぜかというと病気そのものが健康へ導くプロセス(生理作用)なのだから。
WHOは健康の定義を「霊性」という言葉を加える事に議決している。
http://www.iarp.or.jp/kenrei.htm ただこれを宗教に当てはめてほしくはない。
どうも還元主義に関する酷い謬説が払拭されていないようね。
還元主義は下部組織へとレベルを下りながら全体を説明しよう
というもので、それが物質的であるかどうかということをいちいち
顧慮するものではないのよ。
事実、極大と極小を扱う科学はわたしたちの経験世界とは著しく
かけ離れたものになっているわ。
科学が隆盛して人の精神生活が減退したという考えには何の根拠もないわ。
科学の為にモナリザが価値を減じたなんてことがあったかしら?
それに人の世の不幸は科学以前からあったものよ。
認識の問題でしょう
そうね。
物質は結局現象に統合されて、今やあるのはそれを認識したり
想像したりする人間だけってことになったんですもの。
ここ数日間2ちゃんに籠ってて色んなことを考えました。
中でもこのテーマは思いの外深く、苦しみました。
結論からいえば宗教しかないなってことでした。
精神なんて馬鹿馬鹿しい響きのする言葉に騙されて、
無自覚ゆえに無垢な自家製のものがないがしろになる時もあるものの、
うまくこれを撥除ける強い意志は、さてこれは迷路です。
現実として強い意思のあるものだけが宗教家になり、
だめな奴は科学者になったと思いました。情報工学なんかは人間の屑がやることです。
つまりは「馬鹿の考え休むに似たり」を実践しちゃった訳かw
お縋り君に意志なんてあるかいw
宗教者なんざ全ては馬鹿かキチガイ、もしくはどうしようもないエゴイスト、
屑の中の屑、人殺しの片棒担ぎ、己唯一人のこころの安寧の為
屑同士で群れ集っては殺し合う、人類存続に敵対する蛆虫に他ならない。
何悩んでるのか知らんが、所詮はお前ただひとりの問題。
馬鹿は死ねよ、迷惑だから。
敵前逃亡はこれ全て皆殺し!
170 :
吾輩は名無しである:2006/09/19(火) 03:43:45
自分で考えたこともない奴がこういうことを言うんだよな…
粘着するような下衆は嬲り殺し(笑
172 :
吾輩は名無しである:2006/09/19(火) 03:47:55
迷信に縋ってる自分を棚に上げて、いい気なもんだよ。
云いたいことがあるのならそれを言葉にしろ。
それが出来無いのなら、つまりはお前には何も無いんだよ。
粘着は結構。
屑がw
174 :
吾輩は名無しである:2006/09/19(火) 03:58:58
そうだね。俺には何もないな。お前にもないけどな。
それを粘着と云う(笑
屑。
176 :
吾輩は名無しである:2006/09/19(火) 04:03:54
170で初めて書き込んだ時に既に俺を「粘着」って呼んでたよお前は。
つまりお前の中で俺はお前のファンかストーカーって訳か?すごいなw
177 :
吾輩は名無しである:2006/09/19(火) 04:07:00
そんなにお前は人気ないと思うよ。言ってることは凡庸だしさ。
何ひとつ己の意見を述べることは無しに、ただ他人の批判しか出来無い奴を
俺はまとめて「粘着」と呼んでいる。
って、もう馬鹿構うのも飽いたわw
おやすみ、屑。
179 :
吾輩は名無しである:2006/09/19(火) 04:12:28
それ「自分の意見」なのかよw
明日は一生懸命頑張れよ。
180 :
111:2006/09/19(火) 04:53:45
>>163 >>事実、極大と極小を扱う科学はわたしたちの経験世界とは著しくかけ離れたものになっているわ。
確かにね。人間というのは自分自身の日常生活の時空間スケールとかけはなれたものは直感的に
理解できないものなんだが、その事がわかっていない人が多い気がする。
例えば僕はジャンボジェット機が飛ぶのも直感的には理解しがたいが、進化論を否定する人は、大概
生物の進化の時間スケールがイメージできていない。脳のニューロンに関しても同じで、その並列処理と
階層構造のスケールがイメージできていない。で、理解できないものはすべて神秘、オカルト、神に
頼って納得しようとする。それは思考の停止に他ならないと思う。
いや、神に頼ることにより個人の自己満足を満たし、幸福を得る目的とする人のことは否定しないけどね。
181 :
111:2006/09/19(火) 04:57:47
>>162 幸せとは、各個人の「自己満足」の世界だと思うんです。原始時代でも、自分や家族が病気に
なったりしたら不幸を感じたでしょうし、十分な衣食住を得られたら幸福を感じたでしょう。それに
どんな欲望を満たせば自己満足するかは人それぞれですよね。宗教で幸せになれる人が実際この世に
たくさん居るのも知っていますし、それを否定する気はありません。宗教の社会的存在意義はあると思います。
信仰によって安寧に幸せに暮らせるならそれはすばらしいことだと思いますよ。
ただ財産を搾取されたり信仰心を国家間、民族間の紛争なんかに利用されたりするのはどうかと思うけど。
サイエンスの世界が好きな人は、それで「人生の」幸福を目指しているのではないでしょう。
ただ単に、日常的な知的好奇心による興味、これも自己満足です。
医学に関しては、単純に考えて、いま日本をはじめとする先進国の平均寿命ってすごくない?
これには医学の発展によるものが大きい事に異議はないよね。そりゃ医学も完璧ではないから色々問題を
かかえてるけど、単純に人が死ななくなって、死や病気による不幸は科学の発展によって随分軽減された
んじゃないかな。医学は頼るものではなく、上手に利用するものだと思うよ。貧富の差というけど、
持てる者がより持つようになっただけで、いまの時代餓死するような人いないでしょう。みんな、裕福に
なって日々の糧を気にする必要がなくなったから逆に「幸せとは」とか考えるようになったんだと思うよ。
ひと昔前は哲学っぽいこと考えるのは有閑階級の特権だったんじゃないかな。
イソップ。
183 :
吾輩は名無しである:2006/09/19(火) 06:57:11
>>180 逆も有り得るんじゃないかな。
特に存在論について。
宗教や神という言葉をなくしてしまえばいいんです。
科学と宗教というより、物と心。物質と精神。
そういう風な言い方だと先入観がなくなります。
「信仰」も、「真行」(真の行い)というように。
信じると言うのは自分を偽るということなので、
そこから迷信が生じてしまいますから、言葉が悪いと思います。
自分はいろいろ宗教をやってますが、真理というのも単純なものじゃないと
いけないと思います。
ごちゃごちゃややこしいから、精神である非科学的なものを科学的に解釈したり
科学を非科学的に解釈したり。科学は科学で精神は精神。
そしてこれは2つで1つ。そうすれは衝突も起こらない。
医学は表向きに見たら発達しているように思いますが、裏はそうでもないのです。
裏というのは精神的な面で。人間は体だけではなく心もあるんですが、
医学では心の面は治してはくれません。肉体と精神は同じものなので、
いくら肉体的な寿命を延ばしても、苦痛を感じたまま、廃人のように生きていても
これは進歩とは呼びません。前に言ったように精神的な幸福感(永続)とは
かけ離れています。ですから単純に死や病気が軽減されるというのは
単純な考えで、一時的なものです。根本的に治癒して始めて安心感が生まれるんです。
私は薬で鬱病や眼病などになり薬で悪化し薬を止めたら治りました。
が、数年経った今もまだ副作用は続いています。
現代医学は根本的治癒とは程遠いですし、マイナスの部分を見ていないと思います。
手術というのは病気を治せないからやむ終えず手術するんです。
病気になったら薬というのが常識ですが、
放置して自然に任せてみるという方法もありますし、いろんな療法もあります。
もっと多角的な見方が必要だと思います。
>162
いや、天然痘とか絶滅宣言出されたのを知らないのか?
>163
極大極小の世界を扱う理論において我々の直観的な物質理解とは違う理論
(量子力学とか?)が見えてくるとしても、それは非物質的ということでは
ないだろう。物理学は、そもそも物質的な学問だと俺は思うよ。
>185
統合失調症と薬物治療について調べてみるといいと思うよ。
君が夢想してるような「物質文明の届かない人間の心の闇」などという
ロマンチックなものの領域は縮小する一方だから。
薬は効くんだよ。宗教よりもカウンセリングよりも。
そうやって人はカルト教団や、何ら科学的な裏付けの無い民間療法なんかに
ハマっていくんやねw
>信じると言うのは自分を偽るということなので、
>そこから迷信が生じてしまいますから、言葉が悪いと思います。
言葉だけ云い換えたってしょうがないでしょう、それが何であれ、犯す
ベからざる「絶対」を受け容れた時点で、その者はひとであること、ひとで
あろうとし続けることから「逃げた」んだよ、卑怯にもな。
自分の荷は自分で背負え、人間なら。
188 :
163:2006/09/19(火) 15:24:37
>186
あなたはいみじくも仰ったのだけど、思いというのは物質かしら?
素粒子は物質かしらと思うもの。
認識に先立つ科学はないということをよりご理解いただけるように
その例を出したのだわ。
>188
「思い」を実装する機構は全て物質だろう。
「文章」や「音楽」は物質じゃないけど、それを実現する機構は
全て物質であるというのと同じこと。
素粒子を物質と呼ぶべきかどうか疑問に思うのはいいと思うけど、
「クオリア」とかを求めてるタイプの哲学者に言わせれば、
それは一般には唯物論的世界観の亜種にカテゴライズされる。
自然科学は基本的に唯物論なんだよ。
あと、キモいからオカマ喋りやめてくれる?
191 :
185:2006/09/19(火) 17:01:53
186
>薬は効くんだよ。宗教よりもカウンセリングよりも。
ですから薬で死にかけたんです。体験者です。事実を否定するというのは迷信ですし
医学のやり方なんです。あと効くというのは一時的だと言うんです。
「物質文明の届かない人間の心の闇」?「物質文明が生み出した心の闇」では?
187
>科学的な裏付けの無い民間療法
科学だけが全てではないという事です。
一般論と個別例。それが科学であれ、宗教であれ。
…まーあれだ、苦しい時は2ちゃんなんかせずに、漫画でも読んで気を楽に
してるのが良いよ。もしくは軽く呑んでさっさと寝ちゃうとか。
俺はただ、あなたの宗教マンセーがウザかったんで、常日頃からの宗教に
対する嫌悪感をちょろっと(でもねーかw)書いただけ。別にあなたという人間を
苦しめたかった訳じゃない。ごめんね。
193 :
188:2006/09/19(火) 19:06:43
>189
物質というのは所詮解釈に過ぎないのね。
人の頭を出たことなど、これまで一度だってないわ。
勿論、かく言うわたしの考えも、わたしの頭をたとえ一歩でも
出たことがないのは言うまでもないことよ。
この点では科学と宗教は何ら変わるところがないとお思いにならなくて?
>190
18才の乙女に向かって失礼じゃなくて?
いいわ、もう来てあげないから!
バイバイ。
>>190, 194 まあそう言わんと。ロールプレイングゲームみたいなものでおもろいやん。
>>193 うん正しいよ。自然科学はそれを承知の上で成り立ってる(はず)
ふっと目が醒めたら、今までの人生はすべて木の下での昼寝の夢だったかも知れないんだしね。
>193
キモい。本当にキモい。オカマ喋りやめろ。
馬鹿にしてるつもりかも知れんけど、単にお前がキモいだけだぞ。
まあそれはおいといて。
問題なのは解釈かどうかではなく、唯物論かどうかなんだよね。
不毛な解釈ごっこがしたいなら好きなだけやってろ。どうせ科学研究には関係ない。
いいやん。かわキモいいから
>197
ちっとも馬鹿になんかしてないけど、ちょっと救いがたいと
思い始めたわ。
事実は全く逆。
科学は唯物論なんかオミットしてもいくらでも進んでいける
解釈ごっこなのよ。
わかったらもうわたしに話しかけないで。
>199
少なくとも自然科学が唯物論をオミットするなんて出来るわけない。
実際にどうであるかではなく、自然科学研究の様式の問題なんだよ。
自然科学の方法に、唯物論はぬぐいがたく埋め込まれてる。
心身二元論的自然科学とか、唯心論的自然科学とか、ありえねーだろ。
薬は反自然物。体内に残存する。神経は働かなくなる。
風邪等の病気で排泄しようとする。また反自然物を体内に入れ固める。
氷でも固める。それを繰り返す。何千年経つ。膿の塊人間達の出来上がり。
202 :
111:2006/09/20(水) 18:44:55
>>200 いや,唯物論もあくまで、科学的方法という枠組みで検討すると
そう考えるのがもっともらしい(論理に無理がない)ということ。
唯物論は科学的思考法による現段階における結果のひとつだと思うよ。
それが真理かどうかは証明できないけど、そう考えた方が様々な観測結果を
うまく説明できるということ。
>202
うん、多分似たことを言ってると思うんだが、つまり、自然科学は
何が本質だとか何が真理だとかを語る以前に、まず閉じた系、
完成された手続き・方法としてあるわけだから、
「自然科学研究の手続きどおりに仕事をする限りにおいて、
唯物論の立場を取らざるを得ない」ということを言いたかったのだ。
無論、科学研究から離れたところで神を信じる分には勝手なわけだけど。
日本においては一般的に唯物論は現実的、科学的であると理解され、
観念論は、非現実的、オカルト的という構図で捉えられることが多い。
(Wikipedia 唯物論)
>>202 その論法でいくなら、神がいると考えたほうが合理的であった時代では、宗教が科学だったということになる。
>>203 半分同意。神がいるかどうか、現実に見えないものをあるかないかと断定すること自体がすでに非科学的。
つまり、神がいると断言するのも、いないと断言するのも、どっちも宗教の範疇。
あるない言う奴は三流の科学者か似非科学通か文学板住人ぐらいでしょう。
低レベル過ぎて笑える。
>204
それはちょっと違う。「神がいる」という根拠を示さなければならないのは、
神がいると主張している側だ。いないという根拠は出せないのだからね。
また、現在のキリスト教において、神の存在は信じるものであって、
論理的に証明すべきものではないのではないかな?
あと、自然科学において神がいないものとして扱われるのは、説明に神を
導入したら、それ以上の仕組みの解析探求が出来なくなってしまうからだ。
造物主の意思を組み入れることがあるとしたら、明らかにそうである証拠が
あった場合のみだ。いわゆるID論の誤謬はそこだ。あれは自然科学じゃない。
>205
神の存在の有無は、科学にとってはどうでもいいことだと思う。
神ってのはすべてを司る絶対的真理だから、諸現象を帰納的に解明していけば、原理的には
いつかそれにたどり着くはずであると考えるのが例えば物理学である。
そこでは、あるかないかは問題ではなく、あってもなくてもただひたすら帰納的に突き詰めて行く。
それが自然科学の神髄だと思う。どちらにしてもあるかないかは今のところ分かり得ない。
(一般に、ないことを証明する方が難しいというだけ。ある場合は結果的に見つかる。今証明する必要はどこにもない。)
また神の話になると少しややこしくなるので、このようなものを不可視的なものとして一括りにする。
そうすると自然科学は、例えば無理数や虚数など、現実には「存在しそうにない」数を使って諸現象をとらえようとしている。
このような数が現実にあるかどうかは問題としていない。そしてこの数を導入すればうまくいくと思って導入したのでもない。
その導入によってその学問そのものの世界が豊かになり、゛結果的゛に宇宙の起源のことまで、
ある程度の合理性を備えつつ説明できるようになったということ。
また自然科学には絶対的な合理性という強力な恃みを持たない。(持つと、出来ることが極端に狭くなる。)
しかし何故かかなりのことまで解明できるようになったと認識できる不思議。
カントール以前の数学者たちは軽く自然数を崇拝するプチ宗教信者だった。特にクロネッカーは過激なまでの自然数崇拝者だった。
またアインスタイン以前の自然科学ってのはニュートン力学が絶対で、これ以上の真理はなかった。
当時宗教と科学の区別が明確でなかったのも、「ある」「ない」の前提でやっていたから。
結果的に出てくるものを毛嫌いする宗教。
科学というものは最近できたものであると思う。
>206
神であるかどうかはともかくとして、生物をデザインした
自然法則を超越する存在を認めると、自然上の偶然の蓄積に
よる説明を目指す進化論が崩壊する。
物理学も、物理法則を超越する超越的存在を認めない。
あくまで自然法則による説明をするのが自然科学。
キリスト教的超越神ではなく汎神論の神なら物理学と
共存できる可能性はあるが、汎神論上の神なんて、
あってもなくても同じもので、ほとんど無神論に近い。
結局大事なのは自然法則だけだから。
>204
この板には、アインシュタインはおろかカント出現以前の世紀を未だ彷徨っている亡霊がいるようですわ。
209 :
111:2006/09/21(木) 23:42:38
>>207 科学的なものの見方からすると、
「進化論は、目指すもの」ではなく、膨大な観測結果からの論理的な結論では?
「物理学は、超越的存在を認めない」のではなく、超越的存在を議論する事自体、
科学的視点からするとナンセンスなんじゃない?わからないものはわからないとして議論しないのが科学だと思う。
科学は分かることしか言ってない。それも「観測結果から、そう考える方がもっともらしい」
としか言ってない。真理の証明なんて目指していない。
もし、神の存在を仮定した方が様々な物理現象の説明がいくなら神の存在も科学の対象となり得るかもしれないが、
現在のところ神の存在を否定するような観測結果が次々と積み上げられていく。
ていうか、これまで神の仕業と(非科学的に)ごまかされていた物理現象が、ことごとく(科学的に)神無しで説明がついてきた。
演繹すると、まあ、神は居ないと考えたほうがもっともらしいんじゃないかと。証明は出来ないけど。
>207
様々な観測結果から帰納的に法則を見出して、
方程式なり理論なりにまとめていくが自然科学。
超越的存在を認めるか認めないかは問題にしていない。
一方、認める・認めないから出発して、
演繹的に諸現象を説明するのが宗教。
観測されうる全てが観測されたわけではない。
今ある膨大な観測結果から、見出しうる法則を見出して、帰納的に、導き出しているだけ。
この段階では、神を否定することも肯定することもできない。
肯定すればある理論が崩壊するのなら、その理論は科学的にできていないということ。
肯定も否定も宗教の仕事。
>209
違う。神の意思や意図を排するのは自然科学という学問そのものの成立条件。
神のデザインを認めたときが自然科学の終わるときと言っても過言ではない。
>211
超越数を扱う数学はどうなるでしょうか。
数学はそのような数が実際に存在するかどうかは問題にしていない。
また、その数学を使って諸現象を説明している自然科学は?
超越的存在を認めるかどうかという話は一世紀近くも前に終わっている。
認める・認めないの話ではないという結論に終わった。
あなたのいう自然科学というのは昔の話、
宗教と科学が未分離のころの話。
横。
>>212 代数的無理数も超越数も、数学上では可視的である。可視的か不可視的かは、
要するにその系の中で分類可能か否かってことだと思う。数学上でさえ不可視的
な数には例えばオイラー定数がある。これがまた不可思議な数で、神を思わせる。
数学者に神秘主義的な人が多いのは、数学そのものが、今や完全に架空のものを
扱う学問であるからだ。
勿論、この神秘主義ってのは”ある感覚”のことであって
信教とはまた別のものである。そこでは、ある系において結果的に出てきたよく分
からないものも研究対象となる。またその系を作るための約束事の模索とは、この
系の世界の豊かな拡がりの可能性と、論理的厳密性との折り合いである。そうなると、
現実の政治や法律と大して変わらない。言い換えると法学も数学もパワーバランス
ゲームだということになる。
そして何よりも、分かることだけを言うのが科学だとすれば、神がいるかどうかの話こそ沈黙しなければいけない。
つまり科学では神の存在有無なんてどうでもいいということになり、否定も肯定も出来ないということになる。
>212
あんた、超越数の意味分かってるか? たとえば円周率は超越数なのだが。
単に代数方程式の解にならない数という意味であって、哲学でいうところの
神の超越性とは完全に無関係だぞ。
あと、数が存在するかどうかは問題ではないってのは、有理数でも整数でも同じだ。
数とは、サッカーで言えばハンドとかオフサイドとかと同じ、公式に決められた
一連の「ルール」であって、そもそも実在がどうとかいう対象じゃない。
知らない単語をいい加減に使うなよ、このデンパ。
>213
ちょっとそれはおかしくないかな。
原理的に有理数にも無理数にも分類不可能な数、なんてものはないでしょう。
オイラーの定数は、単に今わかってないというだけでは?
実数だし、おおよそ0.57722だというのは分かってるんだから、数直線上に
プロットも出来るし、不可視的といわれると違和感がある。
やれやれ、まさに群盲象を触るがごとき騒ぎだわ。
>>213 同意。神がいると信じるのもいないと信じるのも両方オカルト。
警戒すべき危険人物には違いないな。
>>214 煽りにもなってない。wikipedia少し読んだぐらいで調子乗って書くなドアホ。
>>216 わかんないなら黙ってろ池沼。
218 :
吾輩は名無しである:2006/09/22(金) 08:16:29
220 :
◆k2XT3HjFWw :2006/09/22(金) 08:39:44
障害を差別用語として使うなと、俺は云っている。
おかしいか?
<<220
おかしくない。お前はいい奴だと思う。
ただ、俺も池沼だ。
222 :
吾輩は名無しである:2006/09/22(金) 08:45:18
おまえがどうだろうと関係無しに、その言葉に傷つく人間がいる。
そんな言葉は使うな。
>>222 それなら馬鹿や阿呆も使うな。ブスや屑も使うな。
それらの暗喩も書くな。それらを連想する文章も書くな。
無難なことだけを書け。
>>219だが、邪魔するつもりはなかった。めんご。
しかし、無難なことだけを書け、というのは暴論だろう。
言葉は相手に真意を通じさせるための道具だから、
相手に合わせて適切な言葉を選ぶあるいは言い換えることは必要で、
それは貴君らの得意分野ではないのか。
文学板だものを
読んだ後に何も考えない、何も連想しない文章は少ないというかないと思う。
ので誰が読んでも傷つかない文章というものはない。
226 :
222:2006/09/22(金) 09:07:32
障害を蔑称として使うことに俺は嫌悪感、忌避感を持つんだ。
その辺り、確かに人によって感じ方が違うのは判るが、それにしても
件の言葉はあまりにも穢らしい。
罵るのと、差別するのはまた違うぞ。
言葉への思いは、出し手受け手ともに人によって違う。
のでどのような用途で使ったのかについては、レス全体で判別するしかない。
人は全体を知りえない。
ので判別は不可能である。
229 :
217:2006/09/22(金) 09:37:57
荒れちゃいましたね。ごめんなさい。
訂正します。
×わかんないなら黙ってろ池沼。
○わかんないなら黙ってろ屑。
230 :
217:2006/09/22(金) 10:13:12
荒らしてしまってごめんなさい。
再訂正します。
×わかんないなら黙ってろ屑。
〇わかるように説明もできない私は屑。
まあ、小学生に代数学を教えられる奴はこの世にいないと思うけど。
>217
アホか。神の超越性と超越数を絡めて語るなんてあり得ないだろ。
喉仏と日本仏教の関係について考察してるようなもんだぞ。
どこかで仕入れた単語にかこつけて字面だけで適当なこと書いてるのは212。
どう考えたって俺が正しい。いちおう理系の大学出てんだよ、俺は。
ちなみにπは代数方程式の解にはならないが、級数の収束先にはなる。
232
だから不可視的なものとして一括りにすると書いている。
πは小数点以下無限に続くのは知ってるだろ。
無限などという人間の認識範囲を軽く飛び越えた概念だ。
これを完全に捉えることは出来ないことが、事実としてあることは前に書いた。
完全に捉えることは出来ないが、ぼんやりと系の中でぼんやりと捉えることは出来る。
これは、何となく空想できて、伝説や神話の中にのみ現れる「神」とどこがどう違うのか。
無限概念を扱うこと自体が、人間の限界を超えたもの。
人間の限界を超えたものは神の領域。
神という単語を単なる宗教用語として使うな。
整数だって「不可視」じゃないか。「数」そのものは見えない。
それはサッカーの「ハンド」や「オフサイド」そのものは見えないのと同じ。
もちろん、実際にハンドの反則を犯した試合や選手は見えるのだが。
2個のりんごは見えるし2匹の羊も見えるが、「2」は見えない。
数という概念の仮構性と、無理数とか超越数とかはまるで議論に無関係だろう。
全部がそうなのかはしらんけど、今ここで論じられてる無理数超越数は、
極限記号を使えば図示できる。整数や有理数が可視的なら、極限記号を
用いたそれらの表記が可視的でないと考える理由は何だ?
あ、訂正、極限記号と級数記号にしといてください。
234
2本のタバコは見えるが、2は見えない。
しかし「2本のタバコ」と「2」は一対一写像の関係にある。
2と言えば2個のリンゴや2匹の羊といった、現実にあるものに置き換えられる。
自然数と同様に有理数の場合も以下同群。
整数もどうにか出来るとして、では複素数は?
俺には2i個のタバコは見えない。どのような方法でも見えない。
つまり、整数など、それ自体は存在しないが自然界のものに置き換えられるものと、
複素数のように見えるはずがないものが数学には存在する。
すなわち数学の系の中にも、数えることの本質とはかけ離れた不可視的数があるということ。
でも俺はただの中学生なんで、深いことは分かりません。のでそこんとこ踏み込んだ解説お願い。
>236
言葉尻の話だが、一対一写像ってのは、全単射のことか?
2個のりんごや2冊の本と2の間にも同じ関係が成り立つので全単射ではない。
複素数は複素平面に図示されるぞ。あんたの言い方だと可視的だ。
三角関数との関係式であるオイラーの公式が発見されたからねえ。
あと、複素数の物理量もあるぞ。電磁気学で言うところの「インピーダンス」だ。
ちゃんと機器で測れるよ。2メートルや2キログラムと同程度には目に見える。
「数えること」、集合の基数の話でいうなら、自然数とそれ以外という区分になるだろうな。
それだと、負数や分数でさえ不可視的といわなきゃいけなくなる。
237
自然数以外が不可視かどうかはさておき、そのことを巡って論争はあったろうが、可視不可視を問題にしなくなってから根本的に変わってきた。これが公理主義では?その本質をとらえていればリンゴでもペンでもいい。ビールジョッキの思想。
話それて、自然数とタバコの本数は全単射。
(自然数と自然界にある各々の集合の個数は一対一とは違う。これは当然。)
「2」を「2個のリンゴ」や「2本のタバコ」に置き換えられるというのは、ビールジョッキの思想のこと。つまり公理主義。
あってもなくても、飽くまで数学の系の中で解決させようということ。
そして、ルールの中のことは、現実の反則プレーに対応している。
虚数については、図示できるなどという話ではない。
量子力学のことは知らないが
今見えるなら、結果的見えたという話。
見える前から虚数は数学の中に存在していた。
つまり可視か不可視かは問題ではなかった。現実の現象と対応しなくてもいいってことだ。
>238
>「2」を「2個のリンゴ」や「2本のタバコ」に置き換えられるというのは、ビールジョッキの思想のこと。つまり公理主義。
そういう意味でいいのなら、虚数単位「i」を「2個のリンゴ」や「2本のタバコ」に置き換えられるなあ。それが公理主義。
236で個数になる数(自然数)と複素数を分けた意味がなくなる。全く別の話になったうえに、理解が後退してるぞ。
数学の基礎付けとして集合の基数に着目したところは筋が良かったのに……。
やっぱ意味分からず適当に喋ってるな? 全単射の理解において破綻してるか公理主義の理解において破綻してるかの二択状態。
あと、量子力学と電磁気学の違いくらい文系でもわかって欲しいところだが。
インピーダンスってのは、中学で習う「電気抵抗」を、交流に関する表記で便利なように拡張したものだ。
>見える前から虚数は数学の中に存在していた。
>つまり可視か不可視かは問題ではなかった。現実の現象と対応しなくてもいいってことだ。
じゃあ誰かが思いつく前から四元数や八元数は存在していたってのか?
ゲーデル数もゲーデルが定義する前から存在していたのか?
誰かが思いついた記号ゲームの体系が、現実の何かの計算をするのに便利だっただけで、
何か隠されて実在していたものを見つけ出したわけではない。
そもそも数学的素朴実在論の主張だとしても基礎固めがなってないしなあ。
混乱してるのはお前も同じ。
>240
具体的にどこがだよwとうとう負け惜しみモードに入ったか?
239
数を数えることの本質は、自然数と一対一に対応させること(全単射)。
まあ、よく分からないことを喋っているのは確かです。
しかし、上のほうでもっと分からない神の存在有無が語られていたので、
中学生の私の理解度でも数学を語っていいかなって思ったのです。
仰せのとおり、電磁気学も量子力学も全然分からん。
のでそのことについては何も書いてない。
えっと、全単射のことについてですが、俺の理解に何か問題でもあるんですかね。
俺はしっかり理解してるつもりです。俺の文章力に問題があるのかな。
しかし公理主義ってのはまだ俺には明快に語れないので、よかったら説明してください。
>誰かが思いついた記号ゲームの体系が、現実の何かの計算をするのに便利だっただけで、
>何か隠されて実在していたものを見つけ出したわけではない。
だから俺はそれと同じことをずっと言ってきてるだけですが?
なんつーか、良いように言えば、あなたはずる賢い。
三流の科学者なんでしょうね。
>242
いや、神の存在証明だとか、神の超越性の議論ってのは、俺が考えた
ものではなくて、神学や哲学において十分に歴史がある分野だからね?
汎神論と自然科学の勃興についても然り。「もっと分からない」のは、
単に君が西洋哲学をまったく知らないからじゃないかな。
全単射は一対一対応のこと。紛らわしいので数学では全単射という語を
使う人が増えているようだ。「2本のタバコ」と「2」の間に成り立つ
関係が、「2本のリンゴ」と「2」の間にも成り立ってしまうので、
「2本のタバコ」と「2」の関係は全単射ではない。
公理主義におけるビールジョッキ思想とは、公理とは論理式に過ぎず、
記号の内実や実在性が問題なのではない。論理式として同じならそれは
同じなのだ、というもの。だから「直線」や「点」や「面」を
「ビールジョッキ」「椅子」「机」に変えても構わないことになる。
自然数と複素数の間に実在や可視性における本質的な差を見出そうと
している君の論の、補強どころか真反対の内容を主張している。
>だから俺はそれと同じことをずっと言ってきてるだけですが?
言ってねえよ。自分の主張の意味すら理解できてないのか?
>見える前から虚数は数学の中に存在していた。
これは間違いなの。誰かが作ったから虚数という概念と、
その操作のルールが生まれたの。数学の中にあらかじめ
「存在」しているものなどない。
243
いや、自然科学の出した結果によって、神学や哲学の分野で神を語るのは全然構わない。
俺が言っているのは、神がいないということが科学の定説になっているような言い草は
科学的ではないってこと。つまり科学の立場からは神を否定することも肯定することもできない。
写像f:A→Bが一対一対応になっているかどうかだよね?集合Aはこの場合自然数。集合Bはタバコの集合。全単射。
写像f':A→B。この場合はBをリンゴの集合とする。するとこれも全単射。fとf’は当然別の写像。
差を見出そうとしているんじゃなくて、かつては自然数だけが自然界に存在すると考えられていたという話。
俺は公理主義を、直線や円といったものが自然界にあるないに係わらず、数学は数学でやっていけるってこと。
独立しているということ。架空の世界。
どのレスを俺が書いてきたか一々挙げていかないと分からない?
>これは間違いなの。誰かが作ったから虚数という概念と、
>その操作のルールが生まれたの。数学の中にあらかじめ
>「存在」しているものなどない。
そんなことは分かってる。あらかじめじゃなくて、虚数が自然界で「発見」される前にすでに数学上で発見されてたってこと。
ちょっと、揚げ足取りばっかりで全然本質論になってない。
長文なのでレスを二つに割る。まずは宗教と科学について。
自然科学と神学はもはや別の学問だ。キリスト教の神を語るのには
自然科学は役に立たないよ。科学の行き着くところはせいぜい汎神論だ。
ある種の仏教とは融合できるかもしれないが、仏教の教えに反する
自然科学上の事実が出たときに困るから、やめといたほうがいい。
理性と信仰は別だし、事実と当為も別だよ。
(この二つは出所は別だが、宗教と自然科学の違いを説明する。)
>神がいないということが科学の定説になっているような言い草は
>科学的ではないってこと。
違う。それじゃおまいさんはID論者の同類だ。
説明に超越的存在を持ち出さないことこそが科学の成立条件なんだよ。
自然超越的な神を導入せざるを得なくなった時点で自然科学としては
破綻するんだからさ。自然内在的な神なら可能性はあるが、少なくとも、
キリスト教やイスラム教やユダヤ教の神はそうではないし、仏教的な
汎神論の可能性があるとしても、その方向に進めすぎると、そもそも
神仏の存在意義自体が疑われてくる。ただ自然法則を保証するだけの
存在なのであれば、神などいらない。自然法則だけをあがめれば
いいのだからね。汎神論者は無神論者と同一視され攻撃されたのだよ。
次に、数学について。
>かつては自然数だけが自然界に存在すると考えられていたという話。
そしてそれは間違いだったという話。自然数もまた自然界に存在しない。
その点で複素数と何も変わらない。
>独立しているということ。架空の世界。
の割には言ってることが数学的対象の実在の主張くさいのだが。
>虚数が自然界で「発見」される前にすでに数学上で発見されてたってこと。
数学上で定義されたときに、既にそれは「見えている」。
それ以上の「自然界における数の発見」などありえない、と俺は言ってるの。
数学は自然界における裏打ちなどなんら必要としない、純粋に記号上での
ゲームなのだから。それが「公理主義」の意味だ。
自然界のなんらかの現象に適用して便利に使えるというのは、ただ応用の
話に過ぎず、数学の内部的正しさとは無関係だ。
君の言う「可視的」「不可視的」は、具体的にどう定義されどういう意味があるの?
俺は、まず厳密な定義が出来てないと思うし、出来たとして無意味だと思うけど。
>ちょっと、揚げ足取りばっかりで全然本質論になってない。
とんでもない。この辺が基礎で本質だよ。こういうのをちゃんと固めずに
神を科学するとか言い出すからデンパになっちゃうの。
245
>自然超越的な神を導入せざるを得なくなった時点で自然科学としては破綻するんだからさ。
なぜ破綻するのかという説明が不十分。
ID論ってのは神を肯定する立場だよね?俺は肯定も否定もしてないわけだが。
246
>そしてそれは間違いだったという話。自然数もまた自然界に存在しない。
それは全然違う。間違いではなく、そう考えたほうが数学の世界が豊かになったというだけ。
数学の系自体は、どのようなものであってもいい。
俺はデンパではない。勝手なこというな。
>247
自然科学は、自然現象を自然に内在する法則によって説明・記述する学問だから。
自然に内在しない超越的要因を導入した時点でそれは自然科学ではなくなる。
ID論は直接的には神を肯定はしてなかったはずだが。
(生物進化に自然法則を超越した知的デザインが関与していることは主張している)。
肯定も否定もしていない、ではダメ。自然科学をやる上では否定しなきゃダメなの。
自然科学の外で信仰を持つ分には勝手だし、多くの西洋の科学者はそうしているが。
>それは全然違う。間違いではなく、そう考えたほうが数学の世界が豊かになったというだけ。
>数学の系自体は、どのようなものであってもいい
君は混乱してるようだな。数学の公理系がどのようなものでもいいというためには、
数学の公理系が自然界の事物によって裏打ちされているという考えを捨てなければ
ならない。たとえば、ZFCの立場を取るのは選択の問題であって、なんらかの
自然界の対応事物によってその正しさが決まるものではない。
248
だから、俺がいつ自然界の現象に裏打ちされなければ数学は成り立たないと言った?
納得できるところはあるが、部分的にやばいぞ。お前こそデンパじゃねえの?
>249
>2と言えば2個のリンゴや2匹の羊といった、現実にあるものに置き換えられる。
>自然数と同様に有理数の場合も以下同群。
>整数もどうにか出来るとして、では複素数は?
現実(自然)にあるものとの対応関係で数学を考えているだろ。これは。
ああ、あとこれな。
>虚数が自然界で「発見」される前にすでに数学上で発見されてたってこと。
虚数を自然界で発見できると考えること自体が間違いなの。
自然界のどこを探したって虚数なんかないし、整数も自然数もない。
「数学は自然科学ではない」。これはだいぶ前から俺が指摘していた点だが。
240
その前のレスであんたが変なたとえをするからだ。
変なたとえには変なたとえでレスしたまで。
また根本的な話だから、内容が深くなるという期待もあった。
しかしあんたは自然科学には詳しいみたいだが数学があんまり分かってないようだ。
>252
どこが変なのかまったく指摘できていないのだが?
訂正240→250
数について可視だの不可視だのを主張するのがそもそも変なのだ。
君の変なたとえにつきあって、じゃあ可視ってどういうことだよと
たずねているだけ。数学的対象は感覚的に捉えられるものでは
ないのだから、可視と不可視を切り分ける主張がそもそもおかしい。
253
どこが変なのかはまだ俺にも分からん。
しかし俺はその時あんた自身がどこか変だと分かってて書いてると思った。
のでたとえを借用して議論の進展を待った。
結果はあんたの巧みな誤魔化しでうやむやになった。
まあ自然科学については勉強になったことが多いが。
あんたは数学があまり分かってないと思う。
恐らく使う側だから、道具そのものを深く考えることはないんだろう。
数学においては、チャーチのテーゼというものが広く知られている。
中学生向けに細かい説明を省くと、要するにコンピュータ的な記号処理、
論理操作を人間の計算能力と同一視するものだ。
コンピュータは「2」を自然界のタバコやリンゴと対応させたりしない。
ただ記号として処理するだけだ。それが数学なんだよ。
257
そういう数学になったのはつい最近。ここ一世紀間の話。
それまで数学とはどういうものだったかはネットなり数学史の本なりで勉強して。
>256
俺は俺の書いてることを微塵も変だとは思っていないが。
普通に数学の既知の議論を参照してるだけで、特にオリジナルな
理論展開はしてないしね。
どこが変なのか分からんのなら、変なところなどないんじゃないか?w
具体的にどこにごまかしがあるって? 数学の何が分かってないって?
数学的に分かる必要のあることは分かって論じてるはずだが。
数学は閉じた系だ。数学外の事物との対応関係で「分かる」ことなどない。
>258
それまでの数学にとどまってたらコンピュータも使えないぞw
そんな数学はとっくに乗り越えられ破棄されたんだよ。
19世紀人の認識で話されても困るんだが。
つか記号論理学の走り、ブール代数の発明者ブールは19世紀人だけど。
ペアノの公理を発表したペアノも19世紀人だし。
ヒルベルト・プログラムがギリギリで20世紀にかぶってるな。
260
数学の歴史は捉えておいた方がいい。
数学って学問は系そのものを作る学問でもある。
のでその作り手である数学者の直観がどうしても働く。
大体ヒルベルトの公理主義もヒルベルトの直観に基づく思想の上に立っている。
また全く新しい系を作成することも出来る、やっていいこと。
数学はこういうものだと決め付ける先入観は自然科学者か三流の数学者などだ。
>261
数学史だって君よか知ってるとは思うがなあ。
>その作り手である数学者の直観がどうしても働く。
しかし数学の論文は直観では書かれない。あくまで形式的、記号的な
処理の羅列によってしか数学的真理は示されない。
人間がコンピュータと違う処理をしているのは当然。
あるいは「直観」の領域もあるのかもしれん。俺は信じてないが。
しかしどちらにしても、数学として仕立てるには決まった形式の
記号操作に落とすしかない。数学自体は形式主義で内部に閉じてる。
>また全く新しい系を作成することも出来る、やっていいこと。
実際にやって、何か成果をあげてから言えよ。
今更数学や論理学の形式化の流れを逆行させるなんて不可能だろうがな。
>数学はこういうものだと決め付ける先入観は自然科学者か三流の数学者などだ。
既存の成果・達成度を無視するのは、三流どころかトンデモの発想だ。
あと、自然科学者っつーか、電気や物理の工学者には数学的素朴実在論な
発想をする人も多いぜ。あの人たちは実際に動かすものを通じて数学を
応用的に使うことが主な仕事だからな。形式的な数学理論の整備には
あまり興味がない人が多い。工学者は数論をあまり学ばない。
俺が数学や論理の形式性にうるさいのは、情報工学や言語処理をやってるから。
思考をコンピュータプログラムという記号の形式的操作に落とす仕事だからだよ。
補足。俺は人間機械論者でもあるので、人間の思考過程において、
スピリチュアルな要素(霊感のような)を仮定しない。
数学も含め、人間の知性はあくまで機械的動作から生まれるものだ。
「直観」は、まだ仕組みの分かっていない機械的記号操作に過ぎない。
仕組みが分かればチューリングマシンでも(コンピュータでも)再現できる。
263
機械論者は何でロボットのように冷たいんですか?
別に機械論じゃだから冷たいわけじゃなく、単に俺がバカに冷たいだけ。
まず存在論から始めませんこと?
一つ喩え話をしてみましょうか。
あなたがもし機械論者なら、この自然界をそっくりそのままチューリングマシンの中に再現するのは原理的には可能である、と考えるんじゃないかしら? だってこの世界は人間の認知から何から何まで数学によって記述されているんですもの。
だから当然そこには、わたしたちが普段見慣れた世界に囲まれて暮らすように暮らす人々がいるはずだわ。そして彼らは、わたしたちが知っているものと全く同様の量子論や相対論を持っているはずだわ。
でも、そうすると今度はわたしたちの側に、物質的実在とは何か、あるいは存在とは何かという大変な問題が生じてくるんじゃないかしら。
こんな具合に存在とは一筋縄ではいかないものなのよ。
そこで数え上げの問題なのだけど、これこそ存在論的コミットメントの最たるものなのだわ。確かに自然数は公理によって規定できるものだけど、それを人間が理解できるという事実は全く別の問題だし、けっして当たり前のことではないのよ。
どうして人間は数がかぞえられるのかということをよく考えてみて。そしてもう少し池沼にも理解できる話をしてくださいませ。
>266
またオカマが来たか。ソフィーの世界ごっこか?
物理シミュレータのことなら、「原理的には」まあ可能だろうな。
>だってこの世界は人間の認知から何から何まで数学によって記述されているんですもの。
だから、数学は自然科学じゃないと言ってるだろうが。話聞けや。
数学は自然の中のものは何一つ表現などしていないんだよ。
>でも、そうすると今度はわたしたちの側に、物質的実在とは何か、あるいは存在とは何かという大変な問題が生じてくるんじゃないかしら。
何が問題なんだ? 具体的に書いてみな。
>こんな具合に存在とは一筋縄ではいかないものなのよ。
どこが一筋縄でいってないんだ? 単に、シミュレータ内の彼らが量子論や相対論を持ってるだけ。
>確かに自然数は公理によって規定できるものだけど、それを人間が理解できるという事実は全く別の問題だし、
公理による規定を学ぶことこそが数学を理解するということだ。
それ以外の直観的な理解は、少なくとも数学的ではない。
感じるな。考えるんだ。それが数学だ。自然数も例外ではない。
>どうして人間は数がかぞえられるのかということをよく考えてみて。
それは医学や生物学の問題だな。数学の問題ではない。
>そしてもう少し池沼にも理解できる話をしてくださいませ。
自分が池沼だという理解はしてるようだな。悪いが、これ以上簡潔な説明は無理。
人間、無知で浅はかだと、ここまで尊大になれるものなのね。
おつむが未だ二十一世紀を迎えていないおじさん達のために
せっかくレベル下げて書いてあげてるのに。
そんな本読んでないで、せめてラッセル、ホワイトヘッドくらい読みなさい、おじさん。
公理主義が打ち出されて以降、数学は「完全に」自然科学ではなくなり、純粋の記号ゲームとなった。
ということは、現実に見える見えないの問題ではなくなったということ。
数学上の直線なんてものはどこにもない架空のものだし、宇宙の起源を説明する記述に虚数が出て来るのも、
現実に虚数があるからではなく、また虚数と宇宙の起源の間に関連があるからでもない。
ということは、自然科学は、自然現象を数学を用いて解明しているのではなく、自然現象を数学という架空の世界に引き込んでいるだけだということになる。
しかも、その架空の閉じた系は原理的には結局どのようなものにも作れる。機械的に作られていくのは定理である。
公理は直観に基づくもの。直観が解明されるとすれば、何によって解明されるかと言うと結局は数学ということになる。
その既存の数学は直観に基づいている…と無限に続くので解明出来ない。
(数学がどのように作られてもいいということは、神がいてもいいということ。数学は神を否定も肯定もしていない。
大元である数学に還元する自然科学がなぜ否定するのか言え。)
270 :
吾輩は名無しである:2006/09/24(日) 05:48:15
269は、262と263へのレス。
>268
で、ラッセルとホワイトヘッドの具体的にどのような考えが俺の矛盾を
指摘してるって?オカマくさい言葉で何かを演出したところで、
お前は論理的に無内容なことしか言ってない。お前がやってることは
哲学の真反対だよ。まあごまかしという意味でレトリカルだし、
レトリカルという意味で文学かもしれんがなw
具体的に内容のあることを書け。
>269
数学自体はただのパズルゲームだ。公理は「直観」以外の何に
基づいてもいい。あてずっぽうでいいんだよ。
思いついた体系が数学者たちに使われるかどうかは、
数学の外の価値判断だ。数学の中と外を分けて思考しようよ。
虚数をインチキだと考えていた人たちもいたし、四元数八元数なんて
遊びじゃないかと思ってた人もいたはずだが、どちらも、工学的に有効な
応用があるので今では誰もその意義を疑わない。知ってなくちゃダメ。
公理主義もコンピュータも無かった時代に計算可能性理論を提唱したら、
多分、そんなものは意味が無く、自然界の何者ともつながらないから、
数学ではない、と切り捨てられただろう。数学を自然科学に縛り付けている。
これは数学の外の価値観の話だが、公理主義は、今目先の自然科学に
おける応用があるかないかという束縛から数学の可能性を解放する
ものでもあったのではないか?
自然科学は自然をモデルという架空の世界に引き込むだけのものだ。
これは数学を使おうが使うまいがそうだ。というより、あらゆる理論は、
何かをモデルという架空の世界に引き込むだけのものだ。
モデルを使わずに現実世界を全て現しきることに成功したものなど、
科学の内にも外にもいないよ。
何度も云わせんなボケw
正直俺にはさっぱりワカランし、いずれにせよ対象がなんであれ
神学論争の類いには何の興味も無いが、俺は
>>220で、
>障害を差別用語として使うなと、俺は云っている。
>おかしいか?
と問うた筈だが。
で、お前達の答えを聞こうか
>>266-267 もしくは死ねや。
現に相手を死ねとか罵倒してる奴に差別用語の是非を問われてもなあ。
真面目な話、良い歳をして平気で差別用語を使うような人間は皆
死ねばいいのにと本気で思っているから。
件の言葉で暗示されている人達がお前達に、もしくは人間存在という
ものに対して何かをしたか?
ひるがえって、お前達がやったのは冒涜だ、人というものに対しての。
そんな屑共は死ねばいい。
>274
特定の人々を全員死ねばいいのにと思ってるような奴に、
障害者差別発言の否を説かれてもなあ。
とりあえず罵倒発言と侮辱発言をやめてからやらないと、
君の見解にはなんの説得力もないぞ。
あと、その言い方で言うなら、俺がお前に何かしたか?
障害者に、とか障害者が、とかじゃない。
「俺が」「お前に」何かしたか?
何もしてないだろ。じゃあなんの権利で「死ねばいいのに」「屑」なんだ?
お前の理論をお前自身が裏切ってるよな。だから説得力がない。
俺は、嫌いな奴を罵倒するのに理由なんかいらないし、差別用語自体は
別に自由に使えばいいと思ってる(実際に権利侵害があるならダメだが)
ので、何も矛盾がないわけだが、お前の発言とお前の思想は矛盾だらけ。
277 :
◆k2XT3HjFWw :2006/09/24(日) 19:33:45
>>276 俺は人の尊厳というものへの侵害は即、俺の尊厳の侵害だと感じる。
何故なら俺は人間だから。
そして俺が考えるところの人間、人から、人として遇されるに値する
存在とは、むやみに人の尊厳を踏みにじったり、差別したりはしない者。
その意味において、お前達は俺にとっては既に人では無い。
だから死ねと。
278 :
吾輩は名無しである:2006/09/24(日) 19:36:59
いつの間にか科学や宗教とかけ離れててワロスw
>271
あなたの考える公理主義の成立過程は広く一般に同意されて
いるものとかなり趣を異にしているわ。
今ある数学とその公理は、あなたの言うような素朴進化論の
ダーウィン的勝者などではないのよ。
そのことは、例えばペアノ公理がどのような要請の下に生まれ
受容されて行ったかを見ただけでわかるし、同時に、数学の
内外というアイデアには全く意味がないこともわかるわ。
だからせめて一度くらいは原論以降の数学史を概観してみては?
というのよ。
>274
わたしは池沼が差別用語だなんてちっとも思わないけど?
それより、「いい歳をした」こそ年齢差別じゃなくて?
280 :
◆k2XT3HjFWw :2006/09/24(日) 19:53:10
俺を直接人間ではないと宣言し死を要求するのは俺への尊厳への
侵害ではなくて、漠然と君以外の人への差別発言は君の尊厳への
侵害になるのか。なんというか、おもしろいな君はw
>279
だから具体的にどこが違うのか言えよ。
どのような要請があったかは数学の外の話だろ。
実際にペアノの公理がどうであったのかだけが数学だよ。
どうして数学の内外というアイデアに意味がないのか言えよ。
何の数学史の事実が俺の数学理解の誤謬を指摘してるのか具体的に言えよ。
そうでなきゃ、お前のはただのレトリック。文学板にはふさわしいが無内容。
あと、そのいかにも90分でよめる哲学本とかで出てきそうな翻訳オカマ口調は、
何を演出してるんだ。むかつく。
あれ、なぜか落ちちゃったけど281の冒頭三行は>277ね。
>人への差別発言
自覚あるんなら止めておけ。
何故その言葉で故無くして傷付けられる者達の存在をイメージ出来無い?
話にならない。
そんな粗雑な想像力と感受性しか持ち合わせていない様な奴には、
もとより文学なんぞ判るものかw
それなら、相手を人間扱いせずに死ね呼ばわりするのも
やめといたほうがよくないかw
お前は傷つく俺の存在をイメージできないのかw
話にならないw
そんな粗雑な(ryな奴には、数学や科学どころか、文学さえも
分かるまいw
俺は鏡。
俺の姿が見えてる奴は知ってるだろうが、俺は相手によって見せる顔が
全く違う。全てはその時の相手次第。
んで、その俺のその場その場での言動が気に食わないってんなら、
(ある程度はw)付き合うさ、だから今も、滅多には使わないトリップ
つけて書き込んでる。
とにかくあれだ、俺にクソ呼ばわりされたくなきゃ、クソい真似をするな。
ただそれだけの話。
そうか。鏡を相手にレスしても仕方がないな。
しかし、匿名掲示板で、
>俺の姿が見えてる奴は知ってるだろうが
とか
>俺は相手によって見せる顔が全く違う
とか書き込んじゃう自意識過剰ぶりはなおしたほうがいいぞ、坊や。
>俺にクソ呼ばわりされたくなきゃ
ザコに何言われようが知るかよ。何様のつもりだ。
287 :
◆k2XT3HjFWw :2006/09/24(日) 21:36:03
云ってろ。
馬鹿には見えないものってのは世の中、幾らでもあるんだよw
とまれもう飽いた。いいから死ね。
>287
おつかれ。もう来るなよ馬鹿。
どうせ鈴木くんでしょ?
ネタにしても、もう少し煮詰めてから来るべきだったわね。
話を戻すが、多分数学史と数学の峻別が出来てない人が多いんじゃないか?
科学史と科学の峻別も出来てないだろうな。
関わった人間がどのような思惑で動いていたのかは、数学史や科学史の話題だ。
実際に出来上がった体系がどうであるかだけが科学であり数学なんだよ。
関わった人物の個性や思惑、その時代の風潮は科学理論・数学理論とは
切り離して考えるべきだろ。
>俺の姿が見えている奴はしっているだろうが
知ってるよ。2ちゃんによくいるなりきり厨。
板間違えてるぞ池将。
271
ということは、少なくとも現段階で人間が分かり得る領域とは、既存の仮想世界に破綻を来さない現実の現象のみということになる。
つまり仮想世界が第一にあり、それに合わせて現実の現象を選びとっていくのが科学または人間の出来ること。
そしてその公理主義的世界観が今の主流である。(俺はそれを疑問視しているのではない。疑問視するどころか)それは結局のところ、科学でも哲学でも宗教でも、いかなる分野でも神を否定も肯定も出来ないということだろ。
290
今どうあるべきかは、過去どうあったかと深く関わって来る。
公理を含めた数学の深い理解は勿論、数学の定理を導いて行く作業や、それらの応用面にも、深く関わる問題だ。
神の存在云々の話になればなおさらのこと。
293 :
◆k2XT3HjFWw :2006/09/25(月) 01:46:14
>>291 あのなあw、ここは文学板。
文章には意図せずとも、書き手の人間性その他が如実に顕れるもんなんだよ。
これはなにも俺に限ったことでは無くて、それなりの読解力がある人間なら、
こんな住人の少ない板、かなりのところまで書き手を特定(当然ながら、どこの
誰かまでは判らない、書き手自身がなんらかのかたちでそれを書き込まない限りは、
まあ通常はw)した上で読み書きしている。
もっともそもそもがはっきりと文章から読み取れる程の個性が無い者、および
意図的に自分のパーソナリティを隠している者に関しては別だが、俺の場合は
全くそういったものを隠しもしなければ、文体や表記上の特徴も自覚した上で
概ね統一している。俺に云わせりゃ、俺が見えない程度の読解力しか無い者は
もとよりこの板向きじゃ無いんですけどw
それはこっちもそうだけれど、日頃から深く関わっている相手なら、それこそ
場合によってはコピペひとつからでも互いの精神状態を読んだり、読まれたり
ってのが日常茶飯事なのがこの文学板。まあ口で幾ら云っても、判らない奴
には一生かけても理解出来無いだろうがね、その能力や、適性を欠いた者には。
ナマイキなこと云うなってw、オマエには何ひとつ見えちゃいないんだから。
つーか、いいから死んどけw、屑。
294 :
◆k2XT3HjFWw :2006/09/25(月) 02:06:55
俺が自分を「鏡」だなんてすかしたwこと云ってんのも、
格別俺が、文章から読み取ったものに対して単純wwな反応を
返す人間だってだけの話。なにせ俺、人間素直だからさーwww
とまれあれだ、ここで利いた風ぬかしたいんだったら、
もうちっとはテメエの読解力を磨き上げてから来るんだな。
馬鹿とガキと屑はイラネ。
だってそんなのと話してても俺、つまんないから。
なるほどなるほど。
じゃあ板違いじゃなくてスレ違いだな。
違うスレ行けって池沼
>292
なんで通じないかなあ。自然を超越する存在(神とか)をモデルに
持ち込んではいけない、というのは自然科学の側のルールなの。
別に神を取り入れたければやればいいが、「それは自然科学とは呼ばれない」
「それでは宗教だ」と俺は言ってるんだよ。自然科学の範囲内では神を
持ち出すのはダメ、と言ってるのだ。
自然科学で神の存在を証明するのも否定するのもルール違反。
自然科学は自然を超越した存在を、そもそも扱わないの。
あと、「数学はどうあるべきか」は数学の扱う範囲ではない。
数学史とか、(そんな語は多分ないが)数学論とか数学者論とかになるだろう。
数学とはあくまで、公理やら定理やら記号・式の羅列なんだから。
>ナマイキなこと云うなってw、オマエには何ひとつ見えちゃいないんだから。
お前なんて何一つ見えなくてもいいんですが。どっかいけ、ガキ。
298 :
吾輩は名無しである:2006/09/25(月) 02:52:28
とても科学と宗教を論じる人たちの会話とは思えないww
あれ、傷付いた?w
でも事実は事実。
能力や適性を欠いた者にはどう足掻いたって見えない世界があるんだよ。
文学の「ぶ」の字も無きゃ、揃いも揃ってその手のセンスを欠いた者ばかり
(あー、勿論俺以外は)が書き込んでるこんなスレ自体が板違いだろうがボケw
いいから死んどけ。
>>299に異論があるのなら、もうちっとはここ向きの話をして見せろや、
オマエ等に出来るのならな、能無し共がw
あら、公理主義について熱弁しながら
数学基礎論も知らなかったのね。
あわれ。
>301
どの辺からそんな結論が?
つーか、数学を、数学者達の思想闘争の場だと思ってる奴がいないか?
数学者は数学のありようについて一定の思想は持っていただろうが、
その思想自体を議論によって優劣つけるのではなく、あくまで数学の
内的な完成度で勝負が決まるわけなのだが。
その辺は文系学問とは根本的に違うんだが。
俺は文学板住人ではないが、
科学と宗教の違いや成り立ち、関係性を語るのは文学の問題じゃないか?
296
とりあえずこのことについては根本的な解釈の違いだろうし、分かることは大体分かったし休日も終わり
しばらく2ちゃんには来れないので俺は一旦降りる。
>305
文学よりは科学哲学だと思うけど。
そして、科学の内部的にはそんなものしったこっちゃないわけだけど。
そう、神がいるかどうかなど知ったこっちゃない。
いると信じるのも、いないと信じるのも、宗教。
ただ、科学研究をするときにはいないということにしないとまずいけどな。
科学者にキリスト教徒は多くいるが、科学理論に神を持ち込む奴はトンデモだ。
309 :
吾輩は名無しである:2006/09/25(月) 04:31:30
スレタイからして科学の内部の話なんかしてないやん
スレタイにスレの発言全てを代表させるのはいかがなものか。
311 :
吾輩は名無しである:2006/09/25(月) 04:42:31
荒れなければ良いんだけどね
久々に見たら酷いことになってるし
荒れようが荒れまいがどうでもいい。
目に止まった番号にレスするだけ。
あとは無視。
ツッコミどころはいろいろあるのだけど、一つだけ言うわ。
内的完成度って誰が判断するの?
>313
少なくとも、文学者や科学哲学者でないことは確かだ。
おまえら公理集合論をそもそも読んだことがあるか?
院レベルでなくていい。大学レベルの数論の教科書読んでみ?
あれのどこに数学者の思想が表現されている?
あくまで、数学理論としての整備が数学基礎論の目的。
南京大虐殺が捏造って
おまえアホちゃう?
教科書ちゃんと嫁よ
なんの話か
ただの寓話だろ
南京大虐殺ネタは難しいからなあ。本気のバカもいるから。
320 :
吾輩は名無しである:2006/09/26(火) 05:35:50
321 :
吾輩は名無しである:2006/09/26(火) 10:36:20
コルモゴロフ
数学の「直観主義」って、なんで直観主義というのだか分からんのだがな。
語感とはむしろ逆で、「排中率は使うな」とか主張してるわけだから。
構成的な証明を求めるという意味ではむしろ形式主義よかよっぽど厳しい。
(一般語で言う意味での)直観的に正しそうなものでも、構成的でなければ
認めないってことだからね。
直感主義の直感はカント判断力批判のタームですわ。
324 :
323:2006/09/26(火) 22:50:17
あちゃあ、誤変換があるのに全然見てなかったわ。
ごめんなさい、訂正します。
普段オカマ言葉で気取ってると、こういうとき損だよなw
まあよくある誤字だからあんまりつっこまんけど。
それはよく言われる話なんだが、どの程度数学論文上での根拠があるの?
<カント哲学の「直観」に由来する
カント哲学の直観への信頼に比べて、数学の「直観」はあまりにも懐疑的に
思えるなあ。まあ、相対性理論以降の空間時間概念を経て、カント哲学の
「直観の形式」「実在論と観念論の統合」は疑われざるを得なくなった
(少なくともそのアプリオリズム的側面は疑われざるを得まい)わけだが。
数学において実際的に重要なのは、直観がどういうものであるかという
考察ではなく、単に数学上の構成主義的側面だけなんじゃないかなあ。
平たくまとめると「排中律はダメ」とかルール制限の話にしかならんのだし。
326 :
吾輩は名無しである:2006/09/30(土) 06:34:18
構成主義の意味がほんとに解っているのかどうか疑問ね。
これが解らないと、なぜ直観主義者が自然数と加算無限に
拘るのか理解できないの。
わたしの知る限り、この件について最初に問題提起したのは
ゼノンなのだけど、興味のない人にはどうでもいい話だわ。
>327
現代数学においては、無限の濃度もまた天下りの「記号」でしょ。
「連続体仮説」のような証明も反証も出来ない仮説を仮説のままに
考察することを普通に許しているわけだから。
少なくとも、「構成的」ということをカントの言う意味での「直観」と
結びつけるのはちょっと無理があるように俺には思えるね。
まして、数学の実在性の主張に繋げるのは無理すぎる。
カント哲学にアインシュタインらによってもたらされた破綻を無視している。
色が自然界に存在しないのと同じように自然数は自然界に存在しない――自然数は構成的である、というのがカントの議論なのよ。
最早、これ以上話を続ける意義を見いだせないわ。
自然界には存在しないけど、直観はそれを捉え得る
(空間や時間の形式と同様に)というのがカントの議論だよな。
それは確かに直観主義と言えるだろう。君の言う意味での。
でも、それはアインシュタインの相対性理論で崩壊したんだよね。
カントはデカルト的な空間概念に依っていた。しかしそれは、
普遍でも真理でもなく、人間サイズで成り立つ単純化、近似、
単なるモデルに過ぎないことが明らかになった。
もちろん、人間というハードウェアに焼きこまれている幾何学概念
(たとえば「角度」)などは存在する。サルの大脳に角度を感知する
領域があるという研究結果もある。ただそれは、カントが言うような
普遍でも真理でもアプリオリなものでもなく、単に人間という機械の
スペックに過ぎない。それは誤っているし拡張も可能だ、ということだ。
哲学史をその時代の技術的限界と合わせて思考する癖をつけないと、
単語レベルでの理解にとどまってしまうんじゃないか?
直観主義は、その正しさを保障する土台であるところの直観への信頼を
失って、いわばはしごを外された形で、ただの構成主義になってしまった。
たんなる構成主義なら、形式主義の中へ取り込むことが出来るんだよ。それが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E8%AB%96 >現在では、数学基礎論は本来の意味していた数学の基礎付けの活動から離れ、
>数理論理学、モデル理論、集合論等の数学の総称に変化している。
ということの意味だと思われるのだが?
いいえ、直観主義も構成主義もアプリオリな生得観念も
依然として現代性を持ち続けているわ。
死んだのは形式主義の方なのよ。
あなたこそ認識が古いんじゃなくて?
>331
勝手な結論だけ言いっぱなしじゃなくて根拠をあげろよ。
333 :
吾輩は名無しである:2006/12/06(水) 12:43:44
宗教の意義は信じることそのものにあるじゃないかって思う。
人間は昔から飢餓、病気、天災などの自然現象に悩まされてきた。
今でこそ予測や予防、改善の手段が見つかっているけど、
当時の人間にとってはどうしようもない、それこそ神の悪戯だった。
例えば天候の問題。雨が降って欲しいのに降ってくれない。
いつ降るかわからない。どうやったら降るかもわからない。
不安で不安で堪らない状況だよ。死活問題だ。
そんな中で精神を安定させられるはずがない。
では、どうするか?
334 :
吾輩は名無しである:2006/12/06(水) 12:44:35
人は理屈を作った。すなわち心の拠り所を創造した。
雨が降るまで手をこまねいて待っているのは苦痛だ。
ならば、自分たちで具体的なルールを定めてしまえばいい。
儀式を行って生贄を捧げれば雨が降る。そう関連づけてしまえばいい。
そのルールに実質的なメリットがあるかどうかは問題じゃない。
一番の目的は安心できること、不安を取り除くことにある。
先が見えないから不安なのであって、
手段と結論が繋がっていればそこには何の恐怖もない。
根本的な解決にはならないだろう。が、束の間の安らぎだけは得られる。
宗教の原点であり本質は、こういった部分にある。
神に祈ること。仏壇を拝むこと。これらに物質的な意味はない。
けれど、信じるものさえあれば人は幸せになれる。
理屈が通ってなくても非科学的でもいい。
何か一つ、無条件に信じられるものがあれば人は生きていける。
要するに、信じられるならそれは宗教でなくてもOKってことですね。
例えばそれがお金だったり、あるいは科学だったりしても。
335 :
吾輩は名無しである:2006/12/06(水) 13:18:05
神はいないとは言えないということだな
336 :
吾輩は名無しである:2006/12/06(水) 13:50:33
神はいるとも言えないということだな
>>334 古人はそれを一行で言ってる「鰯の頭も信心から」
337 :
吾輩は名無しである:
宗教といっても、一概にひとまとめには括れんからな。
かりに教義がおなじだとしても、
勃興時のラディカルな状態と、時を経て形骸化した状態とでは、
社会的役割とかが偉く異なる。
資本主義なんてのはプロテスタンティズムの帰結だしね、
簡単に理のみで計りしれるもんじゃない。