似てないよ( ̄〜 ̄)
誰だかしらんもん=^ェ^=
ななしい
阿蘇?
922 :
吾輩は名無しである:2006/08/20(日) 01:19:10
こういう奴ってどういう親から産まれたのかねぇ。
やっぱオヤジは低学歴低収入のくせに無駄に威張って暴力振るうバカで
母親も貞操観念の無い肉便器でメスブタみたいな容姿をした醜女なんだろう。
親も、兄弟も、全員陰湿でネチネチしたサディストなんだろうな。
だからこういう生きてる価値の全く無い産業廃棄物みたいな奴が産まれてしまったんだろう。
低学歴の低脳一家が。知的障害の家系なんだろうな。
家族そろって汚ネェ顔晒して、悪臭を撒き散らしながら生きてるんだろうな。
コイツの周りはさぞかし迷惑してるだろう。
世の中のためにもさっさと一家揃って根絶やしになりゃいいのに。
まっ、どうでもいいか。俺にゃ関係ないし。
924 :
吾輩は名無しである:2006/08/20(日) 08:03:04
俺には関係ないし(笑
925 :
吾輩は名無しである:2006/08/20(日) 08:15:12
926 :
吾輩は名無しである:2006/08/20(日) 09:47:29
test
エアコン嫌いのせいで夏になるとパソコンが壊れます。
私用のパソコンがWSのため、交換部品が手に入りにくく修理も大変。
盆休みの間はインターネットを利用できなかったわけですが、
思ったよりも困らなかったです。
今のところたいして依存していないということでしょうか。
>>928 >今のところたいして依存していないということでしょうか。
そういうことをいちいち聞いてる時点で依存症。
いや、尋ねたつもりはありませんが。
テレビをあまり見なくなったので古い話題かもしれませんが、
資生堂のTSUBAKIのCMで「日本の女性は美しい」というフレーズがありますね。
あれはなかなか微妙な言い方ですね。「日本人の」と言わないあたりに
製作側の配慮というか、および腰なものが窺えて、思わず追求したくなる。
それにTSUBAKIと言われると、工業部品のTSUBAKIグループや、
そのものずばりの「唾」を連想して美容品(?)のイメージがなかったり。
それにしても椿蜜花とはいかなる品種か。この情報がない。
椿や山茶花(ツバキ科サザンカ属)は品種が多くて、実物を目の前にしても
同定は難しい。以前もてはやされた金花茶も、いまではいくつも交配種が
作られて、値段も十分の一ぐらいになって、と常に新しい品種が生まれている。
椿蜜花というのは写真は出ていますが、あれだけではね……。
香があるのはサザンカだから、実はサザンカ属なのかもしれない。
以前、白石氏がアリの穴に投稿された作品にコメントを入れたのに、
私のレスだけ無視されたな。
一生忘れられない経験です。
冗談です。
椿の花はガクの付け根からポロリと落ちる。
山茶花は花びらが一枚ずつ散ります。
ところで、時代劇で、女中が代官に手篭めにされるシーンで、
障子が閉められた後に寒椿がポロリと落ちるが、
寒椿はサザンカ属なんですね。
だからどうということもありませんけど、あれは山茶花なんです。
>>932小山内劇場様
すみませんでしたであります。
たった今お言葉お礼書いておきましたであります。
あらら、恐縮です。去年……? いつぐらいでしたっけ? すみません。
学生時代の知り合いがタイの北部で、
茶畑を経営する農村に住み込みで調査していると便りにあったのですが、
何の調査だったか。
>インターネットを利用できなかったわけですが、 思ったよりも困らなかった
あー判る判る。俺も先日、雷でモデムがやられてしばらくネットが使えなかった
んだが、その間は読書が進んで実に充実した毎日だったw だもんで、換わりの
モデムがNTT(ウチのはレンタル)から来ても、しばらく放置していた位。
うちやまくんが久しぶりにきました(^-^)
>その間は読書が進んで実に充実した毎日だったw
まったく同じですねぇ。交換用の部品が届いてからも、
修理を始めたら汗だくになりそうだなんて考えて、寝転がって読書でした。
といっても量的には三冊だけで、網野善彦と佐々木高明の本だけなんですけど。
鍵君、新潮の11月だよね。楽しみだな。いろんな意味で。
盆休みは本を読みましたか?
お盆は勉強できなかったよ(x_x)
実家だと自由になれないもん
けれど夏けっこういろいろ読んだしよんでるよ
そーせきの虞美人草よんだ
さいごまで行ったらわかった(^O^)
あべちゃんの《国粋軍団教育》論は最悪だよ!
義務教育段階で今より軍隊式な価値観を強要したら、
必ず現場では〈国家社会主義思想の刷り込み〉があらゆる姑息な手を使って推進されるよ!
あべちゃん指導世代の子供たちは、運よく自殺しなければ
みんな一様にキチガイじみた《壤夷心》を持って、
アジアとの政治的対立をますます深める筈だよ。
あべちゃんは義務教育の現場=精神的軍隊教育の現状を知らないんだよ!
最悪だよ!!
ひっこめナチス教育論者!
元来、教育の大目的は《国家》なぞという低次元には無いよ!
それはよりよく生きる為の教養を授けるための「向上」の場なんだよ!!
あべちゃん教育は上っ面を着飾ったただのナチスだよ!
愛国教育反対!国家社会主義=ヒトラー思想の義務づけ反対!
『文化愛』の養生こそ、現代の国際的な教育次元に則した方法でなければならないよ!
それは最悪の《日本愛国教育》のような
国家=nation=単一民族主義=自民族中心主義のバカ安部routeを辿らないよ!
なぜなら、日本文化はアジアの恩恵のもとにあり、
元来日本人ですら大陸からの渡来人だからだよ!
ナチス教育論者ひっこめ!
あべちゃん、いしはら、藤原正彦ひっこめ!!
日本文学者を代表して、
教育基本法改正案における《愛国》の文面を『文化愛』へ改善することを強く要請する!
しなければ一生涯こんなナチス国家恨み怨みうらみ通してやる!!!ぺっぺっ
義務教育のリベラル化賛成!
義務教育のリベラル化賛成!
義務教育のリベラル化賛成!
あべちゃんナチス軍団教育ひっこめ!
あべちゃんナチス軍団教育ひっこめ!
あべちゃんナチス軍団教育ひっこめ!
愛国攘夷教育反対!
愛国攘夷教育反対!
愛国攘夷教育反対!
『文化愛』リベラル教育\(^O^)/万歳!
『文化愛』リベラル教育\(^O^)/万歳!
『文化愛』リベラル教育\(^O^)/万歳!
あべ、いしはら、まさひこのナチス式愛国強制教育 最悪!
思想の自由の侵害を国家公務員が堂々と行っていいのか!
あべ、いしはら、まさひこのナチス式愛国強制教育 最悪!
思想の自由の侵害を国家公務員が堂々と行っていいのか!
あべ、いしはら、まさひこのナチス式愛国強制教育 最悪!
思想の自由の侵害を国家公務員が堂々と行っていいのか!
日本のナチス化反対!日本のナチス化反対!日本のナチス化反対!
あべちゃんのナチス義務教育論反対!
アジア紛争への大衆煽動反対!
子どもの思想を愛国強制でケガすな!
子どもの未来を自民族中心主義軍団=アジアの悪者へたぶらかすな!
あべちゃんのナチス義務教育論反対!
アジア紛争への大衆煽動反対!
子どもの思想を愛国強制でケガすな!
子どもの未来を自民族中心主義軍団=アジアの悪者へたぶらかすな!
あべちゃんのナチス義務教育論反対!
アジア紛争への大衆煽動反対!
子どもの思想を愛国強制でケガすな!
子どもの未来を自民族中心主義軍団=アジアの悪者へたぶらかすな!
『文化愛』→自然な国尊心 最適!
『文化愛』→自然な国尊心 最適!
『文化愛』→自然な国尊心 最適!
《ナチス式愛国強制》最悪!
《ナチス式愛国強制》最悪!
《ナチス式愛国強制》最悪!
947 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 02:38:21
相変わらず自己憐憫の園で縮こまってるね大介君は
たのしw
948 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 06:21:25
一つの意思だよw
おはー
こわいゆめみた
こわかった
生きることの不安
むかしのかのじょにわるいことしちゃったんだ
あんどうただおをびじゅつかんでみた
おばあちゃんとおとうさんがしゃべらないの
ぼくはよのなかによけいなの
肩書きがないと、ころされちゃうの
なんだろ
もうやだかも
ぼくにこわいゆめをみさせたのは、実存の問題なのです
ぼくは子どものときから環境的に、つよい心理的な抑圧を受けていました
それは義務教育という強制された枠組みのなかで決定的になりました
ぼくの実存の問題はすべて、「家庭の外」=ゲゼルシャフト=利益社会からもたらされています
その結果、生存競争に対する過度の嫌悪と、遊戯に対する執着とが自分の性格を形づくりました
ぼくが世の中の生存競争に興味がもてないのは、義務教育によるのです
強制的生存競争
あの頃の絶望を思い出せば、ぼくはとても他人を利用して生き延びる気にはなれないのです
ぼくが学術に遊戯的に没頭する性格を形成したとすれば、そういう理由からなのです
だからぼくは生存競争の序列制のためにしつらえられた「肩書き」をしりぞけたがるのです
こわいゆめがぼくに教えてくれたのは、そういうことだとおもいます
おんなのこを目的として無条件に尊重しなければならないのです
ぼくが青春相応の心理的な費用を払ってむかしのかのじょから学んだのはそういうことだった
「他人を家族社会と等価に扱え」
それがぼくに快楽のための安易な性行為を禁忌させるような良心命令なのです
わかったわかった(o^-^o)
ぼくが童貞に価値をみいだすのは、そのような誠実さ、良心の担保なのです
世の中の生存競争主義者たちとは異なる価値観のもとに生きる者もいるのです
綿矢りさとかの、野蛮で獣じみた人びとはこのことを多分理解するべきではないでしょうか
ぼくが自ら序列制へ従わず、結果として
高等遊民の身分へ導かれるのは自然だとおもいます
かつては貧農のためにあった福祉制度ではあったが
高度成長後は国家社会主義に利用された「義務教育」制度のもたらす代償として、
国家=国民情はぼくのような自由人を、多少あれ養う必要にあるのです。
それが罪のない幼子へ、無理矢理に勉強競争を助長した、国家的な賠償責任なのです。
頭の優れた国民を持つことは即ち、単純労働力の揚棄なのだから
ぼくは自由社会からの要人なのです
福沢諭吉は『文明論の概略』の中で、
社会関係の転換が空間性(場所)と時間性(時)とに分けられると定義した上で
それぞれが次のような道筋で進展していく、と考えています。
時間=制度
野蛮→半開→文明
空間=場合
家族←交際←組織
各々に特有の「人間(じんかん)」があり、我々はそれを人生と呼ぶと云える。
もし我々の人生に目標があるとすれば、人間をより高い段階へ導く活動=進歩である、と云います。
さて、では現代は如何なる時と場合に属しているのでしょうか。
なぜならそれが分かれば、ここで言う実存が
どのように生きるべきなのかも客観的に明らかになるはずだからです。
彼は、時間は順序に従って、空間は差異によって進展すると云う。
それぞれの段階の特徴は次のように分類されます。
時間順序
野蛮=恩威 → 半開=理勇 → 文明=聖世
空間差異
家族=信義 ← 交際=規則 ← 組織=法律
これらは彼の考える歴史の筋書きであり、客観できる科学的な事実だと云える。
なぜなら我々の世界史自身がそのような舞台を披露しているからです。
福沢自身は帰納的なprocessに従って社会学説にその観察結果を抽象しようとしています。
恩威とは「御恩と奉公」による封建制人間(じんかん)を指します。
理勇とは――これが現代の人間ですが――「理性の勇気」による近代主義社会を示す。
聖世とは目的とするべき「悪の消えた聖人世界」の人間です。
[これは究極的に、カントの云う、目的の王国に等しい]
この順序を通して我々の社会空間=時代は進展すると考えられる。
逆に空間を通じて展開する人間関係とは、すなわち
生活それぞれの場面での個人対個人の関わりの別です。
[時間とは逆向きに、理想へ向かい「非体制化する」ことに注意]
信義とはもっとも原理的な家族関係に観られるような「赦しあいの関係」です。
裏切られても恨まず、報いても情けない。相互の人格同士が完全に等価に置かれた事情です。
[カントの云う自律人格同士の相互尊重の関係に同じ]
規則とは、自由と利益のまじりあう「知り合いの関係」に適切と云います。
たとえば友人や恋人、師弟がこれに当たるでしょう。
相互のすれ違いによるriskを覚悟したうえで、何らかの福利のために協同するような状態です。
法律とは、まったく縁を感じない見ず知らず他人に対するときのような「仕方ない関係」です。面倒を最小化するために証文を記し、これに基づいて相互を裁く厳格な様態です。
福沢は、『聖世の信義』を最高善たる文明の人間(じんかん)と考えます。
そこではあらゆる者が太平の幸福を味わうでしょう。
ならば、実存の生き方が文脈(context)にすべき人類構造は理解されます。
それは時代と場所とに応じて最良の啓発を果たそうとする『福利姿勢』にある。
もし文学がこの為に芸術学的・美学目的とみなされるなら、
必ずや思想の想像力的媒介という自立した命題への献身による。
高等遊民の貴族的使命がわかるはずです。
即ち、文士はことばの技(わざ)で万民へわかりやすく高等思想を伝播する役者なのです。
最大多数の最高啓蒙―――これが文芸第一の仕事です。
もし肩書きの積極的否定が文士に固有の徳として見受けられるとすれば、どうしてか。
それには思想の配分と調整に関わる理由がある。
教育には金が掛ります。
現代アメリカにおける学歴主義が所得格差を拡大する役目を果たしているのが、教育固有の限界です。
即ち、
教育とは思想の生得格差(それは多くの場合、経済力に依存するが)に応ずる配分であり、
決して社会的調整では今日ない、と云える。
既に我々は企業・政府・社会における学歴差別によって新しい「身分差別」を実行しているのです。
文学はこのような差別を覆す為の、人類にとって恐らくは唯一の方便です。
想像力はあらゆる思想を飲み込み、包括して昇華します。
言い換えれば、文学において想像力が担うのは思想の再分配による社会階層の流動化なのです。
文学は身分=社会階層 を乗り越えて人々に生き方を教え、差別へ挑戦する勇気を与えます。
従って、文士にとって肩書きは資格とはならないし、すべきでもない。
なぜならもしそうする者がいれば、
想像力は発揮される余地がなくなり=教育搾取に媚びへつらい、
現代文学の芳醇は特権化・封建退廃して文化的な死=伝統芸能へ向かうでしょうから。
私が綿矢りさあるいは平野啓一郎の「芸能的な」姿勢を批判するのはこの観点からです。
その無知たる名分趣味には階層の固定化を推進する社会悪が含まれ、
結果として文化としての文学を腐敗させる要項を孕む、と反省すべきでしょう。
真の民主文士にとり、安易な勲章の授与は恥なのです。
たとえば大江健三郎のような「特権者」が如何に曰(のたまわ)るにせよ、
文士にとっての普遍的命法は『福利姿勢』の中にこそある。
私が大江健三郎より村上春樹を高く評価する理由があるならば、
このような大衆啓発の貢献へよりよく適応して来た経過があるからです。
『よりよく読まれ続ける大衆文士は、文壇の権威に祭り上げられた者よりも偉大である』
文学における歴史淘汰は、時代を超えた人気に応じて実威を現すのです。
現代文学はまず何よりも特権化されるべきではない。
それは上記のごとき「想像力による思想調整論」からも理想し得る筈です。
現代文学は『学術的民主主義』へ向かう途上にある。
言文一致の実現ですら、このような流れのうちから自然生じたものに過ぎない。
ならば、文学が軽小短薄な「第三次産業化」するのも時代の必然、
いな理性的狡智と言われねばならない。
なぜならより広く、多くの人びとへ――究極的には文盲の者へですら――
“message”を伝える為には、口語の採用だけでなく、
芸術表現をますます『単簡』にする必要があるからです。
もし 美文・断片化・genre越境・貫入文置(hyper teyt) のような
現代文学における新傾向に正当な由縁があるとすればそのような
福利姿勢の貫徹から導き出されたものであるに異ならない。
文学における民主化は、pop literatureを推進する、と悟らねばなりません。
またこれこそ、文壇に重鎮する愚老権力には新鮮な作風が認定できない理由です。
[村上春樹『風の歌を聴け』が芥川賞審査をしていた大江健三郎によってこきおろされたように]
既に文壇の権威は歴史実的に崩壊しています。
民主制下において自然な文学特権の撤廃は、純文学の定義を『歴史的人気』に迄還元するものです。
ポップ文学が要求されるべきでしょう。
而(しこう)してそれは「市場原理への最適化」という、
従来の純文学権威主義とは別の筋道から発生する筈です。
文化的・社会的な影響力、つまり啓蒙の力を
再び文学は取り返すでしょう。
Key wordは『単簡な文体』です。
読みやすく面白いものこそ、新しい権威になる。
それが商品としてのpop文学の第一原理だからです。
真の思想的啓蒙は読者の夢中を誘う中に可能な筈です。
959 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 12:25:15
読まないよww
>>959 can'tだろwww
日本愚衆中最低民度の低脳愚猿超アワレ(o・v・o)
961 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 12:29:39
962 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 12:34:34
ばあかななりすまし
963 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 12:38:35
>>960 お前の騒音を読むことに一体何の意味があるんだよw
>>961 暗喩下手アワレ
学力は階段だよ
勉強しなければ積み上げられない『level』だもんw
天才への道
平野っていいよなぁ
966 :
吾輩は名無しである:2006/08/23(水) 19:58:52
967 :
吾輩は名無しである:2006/08/24(木) 08:09:20
968 :
吾輩は名無しである:2006/08/24(木) 21:08:35
969 :
吾輩は名無しである:
相変わらず糞豚の独演場か