1 :
吾輩は名無しである:
夏目漱石の三四郎、それから、門に関するスレです。
建てた理由は今僕が読んでいるからです。
煽り荒らしはお呼びじゃありません、、、
NGワードは近親相姦、萌えなどです。
無名文士や美香などの往来は許可します。よろしくお願いします。
今晩は。
最近ちょうどぼくも読みましたよ。みっつ続けて。
あれを辛抱してぜんぶ通読すれば、人生観が少しでも深まること請け合いですね。
やはり夏目漱石は日本を代表する文豪でしょう。
まだ若々しい三四郎の話のそれからついに『門』までやってくると、
あたかも浮き世の人生を一度生き抜いたような感覚すらしますw
村上春樹の初期三部作みたいにセットで読むほうがいいですね。筋が通って。
4 :
吾輩は名無しである:2006/05/15(月) 23:09:32
行人 彼岸過迄 こころ も三部作って言われてるけどどっちがいいのかな?
>>3 今日、三つ全て買ってきました。で、今ちょうど三四郎を3分の2ほど読み終えたところです。
爽やかで嫌味のない文章はさすがに漱石というところだとは思います。
ただ、教養や人生観といった点で何かしら得るものがあるかといえばそれほどとは思いませんが。
まぁ小説にそういう要素を求めては居ないので、別に構いやしません。
全体的に見られる達観した感覚や、人物の造詣が愛嬌あっていいんですがね。
品がある作品だと思います。
けど夏目さんは生活というものにちょっと懐疑的なんじゃないかと思ふw
『それから』の代助には如実に出てますが、当代の高等知識人らしく、
実際の暮らしのなかでのあくせくした感覚からは非常に遠い「神経質」な面が見え隠れしますね。
あんなやつが生活の実際に生き抜けるわけあるまいw
恋愛情緒に対してもいやにネチネチしてる気分がある。
あまりに江戸っ子らしくない!
こういうのは漱石の性格なんだと思う。
決して一般性を代表するような普通さを真面目に書いてるわけじゃあない。
明治の代表的文士として語られる漱石だけれども、よく立ち入ってみると
なんだか変質的な部分もけっこう見つかるんですよ。
彼は必ずしも一般人としてではなく、個性ある士人としてこそ愛される所以にあるのだと思います。
もし、三四郎から無邪気な臆病を、代助から懐疑的高慢を、宗助から神経衰弱を取ったら
そのまま漱石が空っぽになってしまうんじゃないかとさえ思われるw
彼は豊かな個人だった。
品がある、というのは本当にその通りだと思いますよ。
夏目文学の最大の魅力はそこにあるような気がする。
今時、あんなに高級な言い回しをさらさら書ける日本的美文家はいませんw
みんな村上春樹みたいなスカスカした翻訳文体がかっちょいいと信じきってます。
しめやかな麗文は文壇sceneが嫌うんじゃないでしょうか。
それでまた極端化したおどろおどろしい平野さんみたいなのが出てきて驚かせようとするw
品というのは簡単ではないですよ。
それは文体にあらわされる生き方そのものです。
8 :
吾輩は名無しである:2006/05/16(火) 23:18:54
レスがないのでageときますね。
三四郎読み終わりましたよ。
確かに青春小説といった感覚なのですが、殊更そのシンプルな構成に何かしらの味付けが
あるわけではないですよね。柄谷行人もあとがきでそう書いていますが。
精々、冒頭において三四郎の性格を示唆するためか、やや暗示的に?とれる奇妙なやりとりが
あったくらいで、全体は非常に単純な恋愛物語と見てもいいでしょう。
けれども、キャラクターの語りが非常にいいですね。
与次郎と広田先生の喋り方が特に、気風がいいといいますかね。
キャラクターが愛嬌があるんですね。
その絡みを、丹念におし黙って、観察しているかのような作者の静かな筆致が伺えますな。
まーそんな感じです。
9 :
吾輩は名無しである:2006/05/18(木) 03:34:11
『それから』読了。
吃驚ですね。漱石作品でこれほどあからさまな悲劇が存在するというのは意外でした。
というか『三四郎』が頭にありましたからもっと穏やかな作品と推測してたんですけれどね。
三四郎と違って人間の負の面とも言うような側が出ていますけれど、最近の良く見る三文小説のような
押し付けがましさがないと思います。
ところで、このテーマは現代に通用しすぎで今読まれるべきではない文学だと感じました。
ニートの云々なんて言われたら、それこそ本意を失うように思いますし。
過剰に肉体に関する描写…匂い、心臓…が見られるほど、文体が隠喩的ですね。
なんというか、神経的?
最後の辺りは破綻しかかるギリギリの所まで文章が隠喩だらけになっているくらい。
何なんでしょう?漱石が何処まで狙っているのか、ちょっと推し量りかねた印象です。
やや大げさに過ぎる嫌いもあるし、誠吾の最後の恫喝などは素直に巧いとも思う。
冒頭に肉体の血潮を喚起して、最後に炎のような消滅を意味する感覚の赤を想起してるのも狙いすぎの
様な気もしないでもないのです。
面白かったけれども、力みも感じました。まぁ「漱石だから」という点でその力みも許される範囲とは思えますが。
10 :
吾輩は名無しである:2006/05/18(木) 06:24:19
僕は「それから」以降の漱石作品がスキです。
「門」は最後の数行を書くために書いたと思えてなりません。
村上春樹の文体はスカスカしてるとは思いませんが。
漱石の文体も西洋的って言われてるんですよ。
漱石文体が西洋的?
そうかなあー
彼がいぎりす文学から得たのはstory tellingの方法論なのであって、
日本独特の言葉使いや文化ではない、とぼくは思いますけどねえ。
つまり、
お話の仕方では「近代化した」日本文学のその後の模範となったとともに
漱石文体は極めて日本的な情緒を追い続けた美学者という点で、
決して明治の西洋化という枠では囲いきれない存在でないでしょうか。
村上春樹は最初の作品をまずAmerican Englishで書き出したらしいし、
あの無味乾燥な英訳しやすくて仕方ない文章といい、
ぜんぜん湿っぽくないお話の内容といいw
おもいっきり西海岸風R.E.M.被れの50代後半のまらそんじじいにしかおもわれませんがっ
[目をひん向きながら息を荒げてむきになって
そもそも春樹さんは『門』や『草枕』みたいな日本の情緒に満ち満ちた話は書かないじゃないですか。
書けないんだと思うけどw
あめりかカブレのせいで
訂正
あめりかカブレのせいで→あめりかカブレラのせいで
全部変態ストーカー四浪童貞 鈴木雄介の 自演レスかよ。
分かり安すぎwww
14 :
吾輩は名無しである:2006/05/20(土) 00:02:58
門読了あげ
『門』は傑作ですよ。
こんなに精神的な作品は読んだことがない。
16 :
吾輩は名無しである:2006/05/20(土) 00:13:40
時間的な部分で実験性が多い作品だなと思いました>門
最後の数行は、悲劇ともとれるし、希望とも取れる。
宗助にとっては春が来ていないに気を塞ぎこんでいるような気もする。
あらゆることが未解決のまま投げ出されて、それでも事は順風のように見える。
どうなんでしょうね。
精神的というか、型のない小説だと思いましたけれど。
奥さんが子供を生めなくて泣いたりする所がいいな
時間ねえ
ぼくは手法よりも内容がすごいと思ったのですが。
何しろ基本として淡々たる夫婦生活を書いただけなのに、
これだけの人間の内奥にまで踏み入れていける、ということが驚きでしたね。
時間は所々、たしかに錯綜してるかもしれませんね。
ぼくは『スプートニクの恋人』とか読み込んで慣れちゃってるからあんまり、奇抜に感じなかったけど。
19 :
吾輩は名無しである:2006/05/20(土) 00:57:56
人間の内奥ですか。
確かに小説として決まりきったあり方をほとんど弄しない内容なので、作品中の人々が
純粋に描かれているというのはそうだと思います。
参考に、どういう点がお好きでした?
こういうふうに夫婦の有り難さが体感できる真面目で高尚な小説は知りませんでした。
三文dramaふうの不倫モノとか、世界の中心で恋愛に焦がれる戯作とかはよく聞くけど
『門』みたいに一夫一妻の内容をきちんと書いた作品は少なくともぼくはあまり知らないし、
世間にもなかなか見当たらない。
これはできれば将来、ぜひ高等教育での文学研究の教科書採択にして欲しい作品ですね。
露骨な性表現もないから、きっと教材に向きますよ。
>>19 ぼくは特に、夫婦の何気ない会話ですね。
冒頭と末尾にあるような、季節のうつろいを感じながらの縁側での普通のやりとりに
非常に深い日本的なあわれを感じますね。
ここには男女の愛情の、最良のかたちのひとつがあるのです。
あなたはどこでしょうね。
この夫婦には子どもがいません。
本文中にあるように
夫婦は、外に伸びる力を失った代わりに内に向かって深まった。
それがそのまま「愛情の深化」に繋がったというわけです。
だからある面からおもえば、特殊な人たちとも言える。
だがあらゆる一夫一妻制のもとでは多かれ少なかれ、このような深化が行われるはずです。
門は、それを明らさまにした点で、非常に今日的、前衛的
また文明的な作品でもあると思います。
人間の男女というものは相手の魂の底まで覗き込むようになって始めて、
そこに『愛情』の真純なるかたちをつくりはじめる。
軽薄な性に流された人々には一生、この至福は体感できないでしょう。
23 :
吾輩は名無しである:2006/05/20(土) 01:35:38
漱石は二つの油が一つになって抱きあい、分かれられなくなったと比喩していましたね。
三四郎、それから、門と時を進めるに従って、段々と愛に関する描写は熱が篭ってきたような気がします。
三四郎は恋に破れても平常でしょうが。
『三四郎』冒頭の女と寝るエピソード。
それと轢死のエピソード。
同じ女だったりして。
25 :
吾輩は名無しである:2006/05/20(土) 02:02:15
>>24 そうだと決められる材料ってなんかあったかな?
漱石がそこまで示唆的なことをするとは思えないけれど。
26 :
吾輩は名無しである:2006/06/08(木) 23:36:43
村上春樹は、それから、が苦手だと断言しておる!!!
27 :
吾輩は名無しである:2006/06/09(金) 01:42:22
それからね。
あれはまるっきり大衆小説という感じがする。
門と比べるとかなり対立的。
三四郎は普通の古典って感じだな。
28 :
吾輩は名無しである:2006/06/09(金) 01:53:34
門はもろに「純文学」って感じ。
門は心に並ぶ初期の日本近代小説の金字塔でしょう。
心ほど暗い影を落としていない分、門にはより普通性があると思います。
世界に対して堂々たる作品ですよ。
僕は『門』において初めて、日本の近代小説の摂取は完成したんだと思います。
心底から「日本的な小説」は文学史上、門から始まっていると思います。
それは心に達してひとつの頂点を迎え、以後は広く一般化された。
現代小説の類は門と心とをその基礎たる模範にすべきだと思います。
温故知新──先哲の創った轍を踏み外したからといって誰にも得はないのですから。
これは主旨にとって脇道ですが
『猫』には小説のpalodyという側面があります。
猫には小説に対する「物語」の復活があると思います。
つまり文学的realityの問い直しがある。今日でも猫が清新なのはその前衛性の為です。
僕は門──心──猫という三点を結ぶtriangleにひとつの文学制作観上の典型を診ます。
建立──深化──批判
捕手
32 :
吾輩は名無しである:2006/08/02(水) 03:41:02
文学知らない馬鹿が削除依頼出してるよ
35 :
吾輩は名無しである:2006/08/02(水) 10:02:09
何故削除依頼されねばあかんのでしょうか…
36 :
吾輩は名無しである:2006/08/26(土) 08:04:22
三四郎だけ読んでない
奇怪だな。俺もだ
38 :
吾輩は名無しである:2006/09/08(金) 22:56:30
「それから」を読んで人間回復した俺って異常かな。
前読んでから半年以上たつので人間切れてきた。
再読中です。
「それから」は
ニートの文学と
いっていい。