人生の敗者が王者になれるのが文学でR

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1吾輩は名無しである
そう思うよな(笑)
2吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 16:18:22
jhytdrt
3吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 16:29:51
人生の敗者だろうが勝ち組だろうが
文学者になるのは、ほんの一握り。

うめいてるだけで文学が書けるなら、世話ねーつうの(失笑)
4吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 16:31:23
>人生の敗者が王者になれるのが文学でR

ちーがうもん ばーか>>1
「R」なんてきどっても にあわないもん ばーか>>1
5吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 16:44:13
ブサイク童貞+低学歴(4浪専門生)+キチガイ
の三重苦鈴木には

文学的才能のカケラもみられないね。

>1のいうことはおかしい
6吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 16:49:43
鈴木には才能がないから無理だけど
誰しもが無理ってわけじゃないけど
可能性はものすごく低いな
7吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 19:23:31
他人に同意を求めている時点で>>1には無理
8吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 21:17:30
書いた小説が100万部売れようが、芥川賞を受賞しようが、それは
たいした「王者」ではないと思うぞ。
そもそも小説を書けるというだけで、「敗者」ですらない。
9吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 21:19:07
だから、>>1の価値観はそんなもんなんだよ。
10マジレス:2006/02/25(土) 21:30:01
俺、文学は大好きだよ。だけど俺には全然才能無くって、
それに、文学全般ってみんなに夢を与える物じゃないかな?俺はそう思う。
俺は今、多分ていうか絶対敗者です。文才も無く、仕事も無く、女や金も無い。
でも、もし文学を学べば、きっと勝者になれるのなら、教えてください。
長文ですいませんでした。
11吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 21:37:06
日本一になったところで、きっとなれない。
そういう野望があるなら別の道を探しなよ。
マジレス
12吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 22:13:27
>文学全般ってみんなに夢を与える物じゃないかな?

甘いな。
たしかにそういう作品もある。
しかし、読んだ人間にイヤーな気分をさせたり、絶望感を味あわせたり
するのも「文学」だ。
13吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 22:59:14
話かわるんだけど・・【琴音】の『愛をめぐる奇妙な告白〜』って読んだ人いる?
ブログもあるんだけどゼンゼン更新されてないし、携帯のサイトも登録してみたけど送られてきたのは『エロ』だったし・・・どうなってるのかな・・・
そもそも琴音ってほんとにいるのかな?
14吾輩は名無しである:2006/02/25(土) 23:33:14
??
話変わりすぎじゃない?
15吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 00:24:09
夢を与えるのが文学っていうのは違うと思う。
文学は夢から覚ますもんだと思うよ本質的には。
そんな作家は出なくなってしまったけれども。
16吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 00:24:58
つべry
17吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 00:46:58
つべ義春
18吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 00:47:55
つべりあ超特急
19吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 00:56:37
つべこべ言うと、下痢グソをひっかけるぞ!
20吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 03:39:10
つベケット
21吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 08:33:30
敗者でも勝者になれる。それは文学だということは事実だ。文章力があれば。
22吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 08:35:02
ちがう。歯医者が王貞治になれるのが文学でR
23吾輩は名無しである:2006/02/26(日) 08:48:04
22の方がおもろい
24吾輩は名無しである:2006/03/04(土) 22:45:30
人生の敗者が、、、って、こんな考えはもう古いよ。
そんな、一昔前の「太宰治」みたいな文学は、
もう役目は終わってるよ。

すばらしいものは誰が書こうがすばらしい。
つまらないものは誰が書こうがつまらない。

「敗者が王者に」なんて、逃げ道を設定してどうすんだ。
一発逆転願望がミエミエだぞ
25吾輩は名無しである:2006/03/04(土) 22:47:32
ageてまで言うことかよw
26吾輩は名無しである:2006/03/05(日) 10:51:43
>>1
中原昌也???
27吾輩は名無しである:2006/03/05(日) 15:49:19
でR
28吾輩は名無しである
>翌日、原一男さんのところへ相談に行った。すこしまえに大学は卒業していた。
>大隈講堂のまえで人目もはばからず泣きながら母のことを話した。

うそをつくのはおやめなさい。
あなたは大学受験に失敗して引きこもりを続けているだけでしょう。
医者に診てもらいなさい。あなたは病気です。

700 :美香 ◆FE5qBZxQnw :04/04/13 08:42
「踏み越えるキャメラ」(原一男/フィルムアート社)*再読
→原一男は「ゆきゆきて、神軍」「全身小説家」などで知られている映画監督。
副題に「わが方法、アクションドキュメンタリー」とある。原一男はいう。
表現をするとは何か。私たちが生きている日常。この日常というのは監獄のようなもので、
常に私たちを縛りつける、不自由にする。表現とはそこから解放されたい、
自由になりたいという欲望に他ならない。だからキャメラをもったと原一男はいう。
キャメラをまわす。すると日常が変質する。ひとはキャメラのまえで演技をするからである。
かっこよく見られたいという思いはもちろん。お墓のまえでは泣き、不正には怒る。
ふだんはなあなあで済ませていたものに真っ向から向き合うことをキャメラから求められる。
だれにだって「かくありたい」という自分がある。キャメラがその欲望を刺激するわけである。
したがってかれはキャメラがなかったらできないようなことまでやってしまう。
すると劇的なシーンが生まれる、それを原一男は撮りたいのである。
過激なものを、劇的なものを、なまの人間の葛藤を原一男は撮りたいのである。
表現は社会に向ける刃(やいば)と考えればこそである。
そのときキャメラは武器となる――。

この本を読んだのは何回目だろう。赤線や書き込みがたくさんある。

>表現におけるわたしのお師匠さん(というのか?)は原一男さんかもしれない。
>といってもむかし数日間の映画セミナーのようなものに参加しただけなんだけれども。