文学で死を超越することはできるのか

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1名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中
死は怖いです
しかし個人によって考えは違うし、年をとって考え方が変わるかもしれません

宗教では死んだらあの世へ行って幸せになるとか
輪廻転生してまた蘇るとか言われてるけど
全く根拠がないです

そこで文学で死を超越する
柔らく言うと死ぬときに安心して死ねるような
根拠となるものを作り出すことができるのか

ということを疑問に思って立てました
不確定な、ゆれる若人の気持ちをコントロールする事の出来る小説が欲しいんでしょ。
3名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/06(月) 02:34:33
いかにも厨臭くて“きんもーっ☆”なので終了。


糞スレ立てんなクズ。死にたきゃかってに死ね。
>>1
自分で一生懸命に生きない限り、自分自身の死を安心して行うことなど出来ないよ。
本をいくら読んでも、誰かに何かを言われても、あなたの死には何ら干渉しません。
自身の歩んだ生それ自体によって死を超越するしかないのです。
5名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/06(月) 02:56:42
>>2
私の書き方が幼稚なせいもあるでしょうが
そういう思春期スレの類で立てたつもりはないです
>>3
すんまそ フロはいってて急に思いつきました
>>4
それは一般論です
それすら超越する何かを文学でつくれないか
と思って立てました
63:2006/02/06(月) 03:07:06
マジレスすると、散文の覚醒作用は人を死に追いやりこそすれ、
救ってなんかくれないと思う。
逃げる方法は他にいくらもあるし、それを文学に求めるのは筋違い。
7名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/06(月) 03:20:39
>>6
マジレスありがとうございます
まず言っておきたいのですが、私は現在死に対して特別な感情は持っておりません
>1で怖いと言いましたが、一般論です
このスレの>5で言ったようにパッと思いついて立てただけです
何も求めてはいないです
文学の可能性を考えてみたいだけです
8名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/06(月) 03:23:27
あと、「覚醒」とか「救う」ってワードが出てくると
なんか怪しいスレッドになってしまいましたね^^;
そういう目的のスレッドじゃないです・・・
安心立命は、やっぱり宗教用語。
ひたすらに開き、暴いていく散文向きじゃ無いと思う。
せいぜいが一時の陶酔を与えたり、愚か者に誤解させる位でしょう。
むしろ俺が世界というものに感じる恐ろしさは、大半が文学を通して
学んできた気がするな。
10名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/06(月) 03:43:34
超越できるはずだと思ってるのが間違ってる
「ノルウェイの森」にすら達してないよ
11熱燗兵衛:2006/02/06(月) 08:38:52
羽澄不一の「詩聖ヨネ・ノグチの懊悩」を読んでみな。
12鈴木 ◆m0yPyqc5MQ :2006/02/06(月) 19:00:26
 永遠の名誉に値するような傑作を書く努力だけが、死に対する文学者の救済だと思いますよ。

それは太古の昔から無辺の未来までずーっと続いていることですが。
13遊 ◆C85sRb53T. :2006/02/07(火) 01:52:45
死を超越するというのがどういう意味だか分からない。

死というのは不可避で、個人的かつ表現不可能な体験だから、
普通、>>4のような答えかたしかできないだろう。
帰結として生きている間に死を克服するというのは、
当然だが信念ないし信仰の問題になる。
文学一般としての結論は「可能」だろうが、その道筋は人それぞれということ。
そのための文学なら世にいくらでもあるのだから、自分にあうものを探して読めばいい。
読んですぐ死を越えられるもんなんてあったら、それこそ世界中に広まってる。
三十年も考えてれば大半の奴は行き着くだろう。
現に俺はそればかり考えてまだ数年だけれど、ある程度は見えてきた。
文学(芸術)は世界の異様さ、不条理さを表すなんてよく言われるが、
そんなものは狭い、こりかたまった文学観に過ぎない。
文学の可能性は、紙に書かれた文字という枠内で可能な範囲において、それこそ無限に近いだろう。
14遊 ◆C85sRb53T. :2006/02/07(火) 02:00:54
追記。
>>4のようなと書いたが、一生懸命生きなくても克服はできる。
宗教家が分かりやすい例だが、
頑張りに関係なく自分は救済されてると信じてる奴はいるのだから。

ただ日本のようなわりと無宗教的な国に育つと、
馬鹿を除き、多くの場合はある程度の時間が必要なのは間違いない。
いずれにしても死の克服というのは一瞬では意味がなく、
生きている間ずっと持続してこその物なのだから、何かしらの習慣は必要だ。
そうしたもののために、文学は多いに役立つと個人的には考えている。

携帯からなので多分に読みにくいと思うが勘弁を。
15鈴木 ◆m0yPyqc5MQ :2006/02/07(火) 09:42:31
 読書によって死を超克するという話だったんですか。
考えてもみませんでしたよ、それは。

その場合は他人の思想にある意味でおぶさるような形で、死を克服するということですよね。

 たしかに信念の話だとは思いますけどね、たとえば則天去私みたいな。
文学においていい思想家にめぐり合えればなんとかなるんじゃないですか?
16鈴木 ◆m0yPyqc5MQ :2006/02/07(火) 09:47:15
 たとえば『源氏物語』なんか魂の救済みたいな話ですけどね。
ああいう話を聞けるというのはそれこそ
たとえば死の超越なんじゃないですかね。実際数え切れない人の死を乗り継いできたお話ですし。
17遊 ◆C85sRb53T. :2006/02/07(火) 19:04:01
もし「書く」ことによる死の克服を考えるなら、
一種のカタルシスと、作業を通じての信仰〈信念)の形成・持続ということになるだろうね。
文学は自分で世界を作ることができるのだから、手段としては悪くないだろう。
個人的な問題を、作品を公開することによって他社との関係の下で照らすことができる点も大きい。ただ、それが自分にも他人にも実際の効果を及ぼすためには極度に時間と手間を要するだろうけれども。

現世的な名誉云々は関係有りうるはずがない。
繰り返しになるが絶対的に個人的な体験なわけだから。
克服の仮定でそうしたことが関わってくることは当然有るにせよ、それは一つのケース。
いずれにしても人間は自分一人で存在してるわけではないのだから、
他人の思想を借りる借りないは、方法の程度の差に過ぎず、
信じるか、信じないか、結局はこれだけ。

スピノザ神即自然やゲーデル神の存在証明みたいな例外はあるけれども、
一般的には科学や論理の万能観に浸っているうちは難しいだろうから、
文学という手段はその解放としても働きを為すのではないかな。

しかし書いてて思ったのだけれど、
これをこんな言葉だけで理解できる奴は既に理解しているわけで、
ここでこんなことを書いても単純な意味でわりと無意味だねぇ。
18名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/07(火) 20:17:41
結論:仏教に帰依するのが一番確実>死を超越
せんせい、なんでおとしよりは死をこわがっているようなそぶりをみせないんですか?
正確な言い回しは忘れたが、晩年の井上靖が年寄りの死への恐れを語っていて
とても印象的だった(でも忘れたw)
21鼎 ◆XywcDiO5sg :2006/02/07(火) 20:33:51
ハイデガーなんかはむしろ死を(超越するのではなく)直視しろと言ってますよね。
自分がいつか死ぬと覚悟することで今この一瞬のかけがえのなさを取り戻せとか、そんな感じで。
22遊 ◆C85sRb53T. :2006/02/08(水) 00:09:42
ハイデガーの凄さは色々あるんだろうが、その点は超越という点から見ると始めの一歩。
克服ってのは直視からはじまるんだ。
直視してない奴は克服もあり得ない。頽落なんて問題外。
そんなことはわざわざ難しい言葉を使わなくても、数千年の昔から言われてること。
直視するまでの道のりをハイデガーは示してるんだろうが、
それだけ示して死を克服する道を示さなかったら、不幸極まりない。

今この瞬間が大事
→大事なら永遠に続けばいいのに
→実際は続かない、世は無意味
→じゃあ生きてる意味はない
これじゃいつぞやの厭世哲学に逆戻り。

せっかくニーチェが道しるべを示したのだから、
この瞬間に死の価値転換をし、生きる意味を提示するのでなくて哲学になんの価値があろう?
時代にあわせて形や言葉は変われど、問題点や疑問の本質はいつも同じ。
答えは様々あるが、解答パターンはいつの時代も似たようなものだ。
人間が増え社会が多様化した今、表面的な問題は無数にあるにせよ、
繰り返すが主役は人間なわけで、その本質は大きくは変わらない。
「世の発達によって各人がそれを意識するハズ」が、
相変わらず大半の人々は頽落している。
そう指摘したハイデガーの功績は大だが、このスレの解答にはたどり着かない。

ハイデガー自身の著作は読んでないから根本的に間違ってたらスマソ。
23名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/12(日) 02:39:12
つまり、仏陀>>>>>>>>ハイデガー>>>>>>>>>>>>井上靖 ってことか。
24名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/12(日) 02:47:07
永遠に残る文学作品を書いたら永遠の命が手に入るのね
シェークスピアとか凄いよなあ
25名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/12(日) 13:04:58
え、シェークスピア死んでるし
26名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/12(日) 13:16:07
シェークスピアは生の秘密を解いてる。
精神の死と闘いつづけることが真の生だとしたら、
その生は永遠に、読者の中に伝えられていく。
彼が書きながら感じた興奮、喜悦、至福(生そのもの)は
永遠に伝わっていく。
 そういうことだろうか。
やあ、そんな毎日「死」がどうのうとか悩んでられるのは
暇なニートか、もしくは延々と燻ってる院生くらいでしょ
「死なんて死んでみなきゃ分からん」ってことを
あっけらかんと肯定できるから小説は面白いんだと思うが
28名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/12(日) 13:46:47
不毛な話題です
芹沢光冶良は?
30名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/12(日) 19:52:53
>27
  生物の唯一たしかな結末は死だ。
 古来から人間には二つの態度があった。
 死を直視し、それに対峙して生きようとする態度と、
 死を見ないかのように、忘れたかのように生きようとする態度だ。
 文学のいわゆる名作系はおおむね前者に属するだろう。
  
31名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/12(日) 20:03:19
文学で死を超越するなんて馬鹿なことを考えるね。

死を超越できたらもう文学の存在の意味はなくなるよ。
生と死、死と生、この表裏一体なる事実を考え抜き表現する事が文学
じゃないのか。
32名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/13(月) 00:03:29
バカが。糞スレ立てるんじゃねえぞ。終了
33吾輩は名無しである:2006/02/13(月) 03:00:56
>>30
そんなんいつまでも有り難がってるから
誰も文学なんざ読まなくなるんだろーが
34吾輩は名無しである:2006/02/13(月) 03:46:42
悔しがるなよw
35吾輩は名無しである:2006/02/13(月) 05:53:48
克服不可能だと思います。しかし、その克服不可能な営みに文学の本質があるのではないかとも考えます。
36吾輩は名無しである:2006/02/13(月) 06:22:48
どれだけ死を重くするか。これが文学。
37吾輩は名無しである:2006/02/13(月) 06:40:31
克服不可能な営みってなあに?
38吾輩は名無しである:2006/02/13(月) 13:53:36
「シジフォスの神話」・永劫回帰・輪廻転生
39名無しさん@自治スレッドでローカルルール議論中:2006/02/13(月) 22:34:59
どうして死と文学を語ること自体に苛立つ人がいるのだろう。
人間の唯一絶対の結末である死をどう受けとめて生きるか、
それが古来から文学の根源のテーマでありつづけてきたのだが。
もちろん今も。
 エンターテインメントやさまざまな暇つぶし系の文学も嫌いではない。
だが、やはりときどき本気で読みたくなるのは前者だな。
40鼎 ◆XywcDiO5sg :2006/02/15(水) 19:21:01
>>403 「トルネード変換」、笑ってしまいました。大事なところで誤変換に見舞われているのが余計に可笑しいです。
ところで、あなたの文章を読んでクンデラを思い出しました。
記憶はあやふやですが、彼は自身の著作のどこかでこんなこと言ってます。
「人生って、台本もなく、リハーサルも一回もしないまま
始まった演劇のようなもんだよ。そこで自分は大事な
役回りをしなきゃいけないのに、それがどんな役回り
なのかわからない。だからこの世の至る所で喜劇が起こる。
でも人生ってそんなもんだよ。舞台の上で傍観者になるのも
つまんないだろ?だってその劇は一回きりなんだから!
恐れず行けよ、行けばわかるさ、行くぞー!1、2、3、ダー!」

僕自身も君と似ているところがあるからクンデラの
この言葉(最後はちょっと猪木入りましたが)は来ましたね。
人生楽しむためには、ときに馬鹿になることも必要か
と思う今日この頃。(いつも馬鹿だったらちょっとアレですが)
長文でごめんなさい。
41鼎 ◆XywcDiO5sg :2006/02/15(水) 19:23:43
やっちまったよ。長文誤爆。ごめんなさい。
42吾輩は名無しである:2006/02/15(水) 23:23:48
結論:「無理」
43吾輩は名無しである:2006/02/15(水) 23:47:42
トルストイの人生論は?
44吾輩は名無しである:2006/02/16(木) 13:43:45
勝手に読め w
45吾輩は名無しである:2006/05/24(水) 05:26:31
「w」って何ですか?
日本語お勉強するのじゃないですか?
46吾輩は名無しである:2006/06/06(火) 03:33:25
そんなん無理に決まってるだろ馬鹿、
ああ死にたい。
47吾輩は名無しである:2006/07/01(土) 22:46:42
できない
48吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 17:14:50
とりあえず、死を超越できた文学者は今のところ一人も居ないよな。
どんな文豪も皆、最後は死んでる。
49吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 17:40:32
死ぬことと、死を超越すること、は次元がちがう。

生きている内に死を超越する、というのは、
「自分が必ず死ぬ、絶対に死ぬ」という事実と対峙して
その恐怖をまざまざと体感した上で、
それを乗り超える術or道を探し求め、ついに自分自身で発見すること。

「自分の死」も「自分の死の超越」も
すべては自分の内側で終始する。だからこそ釈迦は説く、修行せよ
50吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 21:51:03
仏典読め般若心経読め
51吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 22:12:55
根拠自体には根拠がない。
神の存在は、科学では肯定も否定もできそうにない。
と言うよりは、そんな問いは科学的じゃない。
一般に否定の方が証明は難しい。
52吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 22:30:37
>>49
要するに死の超越=「気のせい」か。
53吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 22:31:23
無神論者には自分を神だと思い込んでるただの勘違いが多い。
54吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 22:39:31
死の超越のためには、絶対的に信じられる何かが不可欠。
それがたまたま神であれば救いは宗教という事になりある人はそれを蔑む。
55吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 22:46:17
死を乗り越えられるものは何か。無いような気がする。
仕方が無いので笑ってしまう。それぐらいしか思いつかないなあ。
56吾輩は名無しである:2006/07/02(日) 22:54:54
勘違いした馬鹿の中にはたまに笑えるのがいる。
そういうのが同じような馬鹿を救ったりする。
笑えなくなったらお終いだけど。
57吾輩は名無しである:2006/07/03(月) 00:18:50
>>55
文学も芸術も哲学も科学も宗教も、たった一つその為の足掻きだよ。<自分の死を乗り超える

仕方がなくはない…というのが人間の「知」
直覚でもある。だから、「道」が求められ、
先行した先達たちによって指し示される。人間が人間である限り続く
58吾輩は名無しである:2006/07/04(火) 01:13:21
単なる娯楽に何を期待できるというの?馬鹿じゃない?

第一、文学をどうするの?読むの?書くの?研究するの?
それの何と、死はかかわると思っているの?

超越って?死の恐怖からの逃避?

ノータリンのタワゴトだね(笑


59吾輩は名無しである:2006/07/06(木) 03:51:14
>>53無神論者だが己を神と思ったことなんかないよw
だがマジそう思える椰子は幸せな希ガス…
60吾輩は名無しである:2006/07/06(木) 08:15:05
宗教ってのは個体の死を意味付けるものでしょ。(柄谷の受け売りだけど)

多くの人が信じる神を信じて生きれば、死んだ後も魂は誰かの中で生き続ける。
いつかは死ぬのに生きているという矛盾もなんとなく説明がつく。

人間はそういう意味の宗教なしには生きていけないと思う。

日本人の場合は神=世間でしょう。中庸思想って言うんですか?
欧米人は神に許しを乞うけど、日本人は世間様に許しを乞う。
何か知らんけど会見で頭下げる。欧米人から見ると理解し難いらしい。
61吾輩は名無しである:2006/07/06(木) 08:29:23
今まで守られ続けてきて、これからも守られ続けていく価値って何だろうね。
もしそんなもんがあるならそのために生きたいって思うけど。
でもそういうこと考えすぎると政治活動にハマったりするのかな。

文学の中に「永遠」はあるのかな?なんか文章が電波になってきたからやめますわ。
62吾輩は名無しである:2006/07/06(木) 09:53:25
>>60
前4行はなんとかなるけど、それ以降は×。
まだ受け売りだけにしといたがよさそう。
63吾輩は名無しである:2006/07/06(木) 20:01:16
どうせケチつけるなら具体的に論破してくれよヽ(`Д´)ノ
64吾輩は名無しである:2006/07/07(金) 02:00:50
>>63
世間=神、だと世間は万能?不死?救世主?⇒どれでもない。
信仰を持っていないがゆえの、適当なこじつけ。
中庸思想=(世間=神)?世間の考え方が「無難とかかたよっていない」?
世間とは、いいかげんな、むしろすべてに対して素人の集団だろう。
欧米人を基準に自国の文化の一つ(頭を下げること)が「何か知らん」というお前は
異邦人か?異文化からみて簡単に理解できない(それも疑問だ)のがどうだというのだ?
許しを乞う?キリスト教の根本は神との「契約」
などなど。上っ面のもんきり文字連糸。文学なんぞはやめてしまえ。
ってところでどうだろう(笑
65吾輩は名無しである:2006/07/07(金) 12:53:29
>>64
万能・不死・救世主ってのが「神」の条件だとは知らなかったw
俺がそういうレベルで考えてないことは読めばわかると思うんだけどな…
文学なんてやめてしまえとは言わないけど(笑)俺は文学なんてやってないよ。
あんな割に合わないことを高いレベルで継続している人達は尊敬するが。

ちなみに「世間は永遠だ」というのが信じられていたのはそう昔の話でない。
戦後知識人が否定したので今では曖昧になってしまったが、漠然と残っている。
少なくともマスコミ含めて大衆レベルでは残っている。もちろん俺は信じてないが、
未だに世間が「神」の如く畏れられている例として「謝罪」の話を出したまで。

神との契約とは神という「他者」を外部に置いて思考するという契約だろう?
それは神という存在に己の存在を超えた価値を認めるという点が重要なわけで、
べつに「万能」だの「救世主」ってのはその理由づけであって瑣末な事項に過ぎない。
上っ面でものごとを捉えているのは君と僕のどちらなのだろうか。
ってところでどうかな?(笑)
66吾輩は名無しである:2006/07/07(金) 15:54:31
>>65
おまえさんが信仰を持っていないのはわかるな。
信仰を持つと、仏教であれキリスト教であれ、世間は神ではありえないから。
殉教というのを知っている?これは世間が神ではないことを明示するもの。
レトリックの作文は別にかまわないけれど、間違っているし(分かる?
まあ、文学板で文学はやってない、と公言する人だからしょうがないか。
もんきりばっかりだし。

万能とか救世主ってのは、非常に大切な神仏の属性だよ、信仰者からみればね。
信仰も持たない人間とじゃ、深みのない話しかできないから、このへんで同意(笑
67ピッコロ大魔王:2006/08/06(日) 17:45:32
ハッハハハハハ!!私の名はピッコロ大魔王!
この世界の人間を皆殺しにして、死の世界に変えてやる…!
68吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:50:34
はい
69吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:51:10
なんだって?
70吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:51:43
季節虫
71吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:53:23
厨房でそ?
72吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:54:04
夏厨
73吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:54:43
哲学板から?
74吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:55:20
湧いてでる
75吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:56:11
>73
厨房板かヒッキー板から来たかも
76吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:57:55
はぁ〜
77吾輩は名無しである:2006/08/06(日) 17:59:42
氏ね
78吾輩は名無しである:2006/11/18(土) 20:44:21
不毛な話題です
79吾輩は名無しである:2006/11/19(日) 12:26:49
>>1
そういうのは病気なんだから医者に行って適切な治療を受けてください。
貴方の調子の悪い精神をどこまで掘り下げても、宗教的哲学的文学的真理なんて見えてきません。

どんなに深刻に哲学思想をこねくって観念遊びをしたところで、
それだけでは「嘔吐」のようにはおかしくならない。

あれは嘘なんです。

サルトルはメスカリンでトリップ体験をしたときに「自明性の喪失」を味わい、
それを何か哲学的な真理に通じるものだと勘違いしちゃったんでしょう。

宗教的神秘体験と似たようなもんですな。

砂漠で遭難して半死半生意識朦朧になって悪魔や天使と問答しちゃったイエスや、
合法ドラッグで宇宙の真理を悟っちゃった「NHKにようこそ」と同じようなもんです。

人は哲学や思想では狂わない。
一方でちょっと薬物を入れれば割と簡単に調子悪くなるもんです。
麻薬である必要さえない。
俺なんかカフェイン錠剤飲みすぎて一時的な不安神経症っぽくなったことあるよ。
いや、その時は確かにすごい怖かったんだけどね。

貴方の心の中、貴方の実存のあり方に、世界の秘密なんて隠れてません。
それは全部貴方サイズの出来事、貴方の都合に収まる小さなこと、世界の広さを前にすれば、
吹けば飛ぶような砂粒に過ぎません。
80吾輩は名無しである:2006/11/19(日) 12:31:58
人間皆死ぬのだよ。
81吾輩は名無しである:2006/12/05(火) 03:28:38
だから超越する必要なんてないわけ

===終了===
82吾輩は名無しである:2007/01/18(木) 02:43:06
文学茶釜
83セチガライ ◆SPj8OryZTM :2007/01/18(木) 18:14:05
アホスレ認定印 byセ チガライ
84吾輩は名無しである:2007/03/08(木) 09:58:45
欝病は創造活動に向かないのでは。
むしろ分裂病の方が関係がある気がする。
カフカとか。
85吾輩は名無しである:2007/03/08(木) 17:02:50
死の超越無理と見た   文学はもう二次使用しかなされんね
綿矢戦略狙うべし
まあ僕は美形じゃないけど
86吾輩は名無しである:2007/03/08(木) 19:50:56
>>1
は? 文学は表現芸術。超越できないからじたばたじたばた表現しようと苦闘するのじゃわ。

>>49
然り。
死の超越のためには修行しか道は無い。
修行の具体的方法は仏陀が詳述してくれている。
まずは世間から離れて独居し、先人が記した数多の哲学書宗教書&経典を読み
彼らの足跡と智慧を学べ。
簡素で清新な起居の内に
心身を調整し、しかる後に坐禅(=瞑想、静座、祈り)せよ。


87吾輩は名無しである:2007/03/27(火) 12:17:43
>>86
 先ず、修業に専念できる環境を整えるにも先立つ物が要る。
衣食総てを断てば、修業以前に即身仏だが
88吾輩は名無しである:2007/03/27(火) 17:43:58
>>87
愚かものめ
永平寺逝って修行僧になれ! とは言わんから

まずは居住区近くの禅寺を探し、一般人向け坐禅会があるかどうか訊け。
そして「暁天坐禅会」「週末坐禅会」等へ参加せよ。
少なくとも1〜3年は、黙って通い続けよ。
日常の起居一切が行禅となるその日まで、怠るな。


89吾輩は名無しである:2007/04/01(日) 07:59:42
>>88
そうすれば2ch狂いの愚衆も少しはましになれますか?
90吾輩は名無しである:2007/04/01(日) 08:58:27
>>1
できない。
91吾輩は名無しである:2007/04/01(日) 09:45:12
>>88
言うだけなら誰でもできる。
92はるか高み:2007/04/01(日) 14:55:23
文学で死は超越できるよ。
三島由紀夫スレも覗いてごらんよ。
そればかりか、はるか高みが誰も知らない様々なことを公表しているよ。
93はるか高み:2007/04/01(日) 15:13:37
私に着いてくれば死など簡単に超越できる。
94吾輩は名無しである:2007/04/01(日) 20:09:29
>>1 青臭い思春期の病気ってやつだな。
文学とは関係ない。
でも、よく分かるよ。
95吾輩は名無しである:2007/06/28(木) 15:02:24
三島由紀夫は超越した
96吾輩は名無しである:2007/06/28(木) 22:14:32
三島由紀夫は葉隠を文学の中に入れていた。(日本文学小史)
97吾輩は名無しである:2007/06/30(土) 11:43:24
どんな文豪も皆、最後は死んでるところをみると、
やはり文学で死を超越することは出来ないようだ。
98吾輩は名無しである:2007/07/01(日) 04:07:35
出来ない。文学であろうとなんであろうと死は超越出来ない。
99吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 22:32:18
アートとは、それ自体が目的、それ自体が価値でありうるような、
他のナニモノに奉仕するためのものでもない、人類が何千年もの間
積み上げてきた偉大な「遊び」の体系です。

文学が現実に対して何か社会学や政治学や科学や医学や
ジャーナリズムや哲学に出来ないような、深い洞察や
思索をするのに向いているとは思えません。

文学は芸術の、つまり「遊び」の一形式であり、そういうものとして
技術的に探求すればよいだけで、それ以上の何かを期待するのは間違いです。
100吾輩は名無しである:2007/09/10(月) 22:41:42
できるわきゃねーが
時間の無駄
文学の敗北
101吾輩は名無しである
本当に明日死ぬと思ったら、そんなことは考えない。